官能モデル

8 お前だけのモデル



 ゲイアダルト誌のトップモデルだった一之宮紫月の引退特集の撮影日当日――、都内のレンタルスタジオでは朝から賑わいをみせていた。
 紫月の所属事務所社長は、これまでの紫月の功績への恩返しと称して、設備の整ったスタジオを用意していた。撮影場所は勿論のこと、家具などの調度品の収拾もぬかりはなく、メイクルームにシャワー室まで完備された最新のスタジオだ。
 先日の打ち合わせ通り、モデルはメインの紫月と、脇を固める麗と遼二。そして撮影は氷川と中津川の他に、氷川の事務所からも照明や雑用係としてもう二人ほどが参加していた。モデルたちのヘアメイクを担当するのは麗の息子である倫周だ。広々としたメイクルーム付きの控え室は朝から忙しなく、活気に満ちあふれていた。
 麗が飛び入り参加した打ち合わせの後、段取りを詰める中で、結局は麗と遼二は顔出しをしない方向で参加ということに決まっていった。それが紫月のたっての希望だったからだ。
 如何に麗と遼二の二人がモデルとしての出演を快諾したといっても、紫月にとってそれは悩み所であった。ファッション誌のモデルとしてアジア一の男前と言われた麗、そして幼少時にモデル体験があったというものの、現在はカメラマンを目指して修行中の遼二。二人がどう言おうが、紫月にはゲイアダルト界という特殊な環境下での撮影に彼らを付き合わせるのは、正直なところ気が進まなかった。だが、彼らの厚意を無碍にするのも、それはそれで申し訳ないとも思う。そんな紫月の意を汲んで、麗と遼二には人物を特定できない”身体だけ”の参加ということで落しどころと相成ったのだった。要は直には顔を出さずに、身体のみの絡みと、どうしても必要な箇所は紫月以外はシルエットだけで顔はぼかすという形で撮影することにしたわけだ。それならば麗と遼二の名前は表に出さずに済むし、彼らの厚意も無駄にせずに済む。そんな紫月の配慮を麗も遼二も有り難く受け入れたわけだった。

 メイクルームでは、倫周が紫月のヘアメイクの最中だった。間仕切りの外からは氷川らがキビキビとセッティングをする様子が伝わってくる。
「ヘアスタイルはこんな感じでどうかな? 紫月君の役柄は裏組織を裏切った幹部って聞いてるからね。前回撮った写真集の撮影分も見せてもらったけど、今回は髪全体をゆるいオールバックふうに流して、マトリの彼を救いに行くっていう男気みたいなものを出したくてさ。前回よりはワイルドな雰囲気を目指してみたんだけど、どう?」
 倫周がヘアを弄りながらにこやかに言う。
「はい、ありがとうございます。とてもいいです」
 紫月も真摯に会釈で返した。
「でもホント、紫月君は綺麗だなぁ。それもただ美人っていうだけじゃなくて、男らしさも充分あるし、色香はもう最高だし! 雑誌でも人気ナンバーワンだったっていう理由が分かるね」
「いえ……そんな、恐縮です」
 倫周に対する態度の面でも紫月はあくまで丁寧だ。麗の息子だと聞いているせいもあってか、幾分緊張しているような様子でもある。そんな彼の気持ちを解すかのように、倫周の方はフレンドリーな感覚で明るく話し掛けていた。
「ちょっと若い頃の麗ちゃんに似てるかな。顔立ちもだけど、髪質なんかもさ」
 ヘアワックスで髪を掻き上げながら、そう言って鏡越しに微笑んだ倫周に、紫月は視線を合わせた。
「あの……倫周さんはレイ・ヒイラギさんの息子さん……なんですよね?」
「ん? うん、ああ、そうだよ」
 少々不思議そうに首を傾げながら訊く紫月の様子に、
「もしかして麗ちゃんっていう呼び方が珍しいと思った?」
 倫周はクスッと微笑みながら聞き返した。
「ええ、まあ……。仲がよろしいんだなって」
「まあね。麗ちゃんは見ての通りいつまでも若々しい気分でいる人だからさ。僕なんか物心ついた頃から麗ちゃんって呼んでるんだよ。っていうか、呼ばされてるって言った方が正しいかな。パパなんて呼んだ記憶がないくらいだもの」
「そうなんですか」
 倫周のユーモアを交えた親しげな話し方が紫月の緊張を解したのか、思わずつられるように笑みが漏れ出す。だが、同時に何か言いたげ――というよりは”訊きたげ”な感じでじっと見つめられて、倫周は鏡の中の紫月の様子に首を傾げた。
「あの……」
「ん? なぁに?」
 何でも遠慮せずに訊いて――といったようにやわらかに微笑む。すると、紫月は言いづらそうにしながらもポツリポツリと話し出した。
「レイ・ヒイラギさんと遼二……いえ、鐘崎君とは昔からのお知り合いなんですか?」
 どうにも言いにくそうに訊く。倫周は内心『ああ、そういうことか』と納得してしまった。
 麗も倫周も遼二と紫月が恋人として互いを想い合っていることは承知である。だが、紫月にしてみれば遼二との仲を知られているとは思っていないのだろう。彼が『遼二』と言い掛けて、すぐに『鐘崎君』と言い直したことからもその様子が窺える。倫周はにこやかに答えた。
「うん、そう。僕が赤ん坊の頃からの付き合いってことになるのかな」
「……そんなに前から……。っていうことは、倫周さんも遼……鐘崎君とは……」
「幼馴染みってことになるのかな」
「……! そうなんですか……」
 紫月はほとほとビックリしたようだった。
「っていうより……紫月君は遼二君から麗ちゃんや僕との関係を聞いてないの?」
「ええ、まあ……。知り合いだとは聞いてますけど、詳しいことは何も。ただ、この撮影が済んだら話したいことがあるって言われてるので、今は……俺からあれこれ訊かない方がいいのかなと」
「そうだったんだ。なら……遼二君にも何か考えがあるのかも知れないね。僕は幼馴染みといっても、そうそうちょくちょく会ってたわけじゃないし、特に大人になってからは麗ちゃんの仕事にずっと付いて回ってるから、遼二君ともだいぶご無沙汰しちゃってるんだけどね。でも彼は不誠実な人じゃないからさ。信じて待ってあげてね」
 倫周は穏やかに微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
 紫月にも自然な笑みが浮かぶ。話している内に倫周の人となりが何となく掴めてきたのだろう、それは親近感のある笑顔だった。
「倫周さん、話しやすくて……。俺、どっちかっていったら人見知りなんで……その、助かります」
 少し照れ臭そうに紫月は笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえて僕も嬉しいよ。何てったって紫月君は遼二君の――」
 大切な人だもん! そう言い掛けて、倫周はその言葉を笑顔にかえた。今はまだ、彼らが想い合っていることを知らないことにしておいた方がいいのだろうと思ったからだ。
「さあ、できた! 撮影、僕も楽しみに拝見させてもらうよ! がんばって!」
「はい――。俺の最後の仕事になりますんで精一杯やります。見ててください」
「うん! 応援してるから!」
 今から始まる撮影は、紫月にとっても未知の領域となるだろう。現実に想いを寄せ合う遼二と演技として初の絡み、そして麗という謎めいた人物との共演もしかりだ。まるで新人の時のような胸の高鳴りを感じながらセットへと向かう。そんな中で、倫周のような心根のやさしい人物と穏やかな会話ができたことは、紫月にとって心落ち着けるひと時となったのだった。

 撮影セットの中では麗が既に支度を終えて、今回の為に特別に設られた大きなソファにどかりと腰を下ろしていた。その脇にはヘアメイクを済ませた遼二が佇んでいる。
 麗は裏組織のボスという役どころだけあってか、ダークでいながら一目で仕立ての良さそうだと分かるスーツを着込んでいた。なんと、これは撮影用に用意された衣装ではなく、彼の私物ということだ。そんなことからも彼がどれだけこの撮影に意欲を見せてくれているかが窺い知れるようだった。古き佳き銀幕スターさながらのシルクハットも実によく似合っている。先日、打ち合わせに乱入してきた時に見た彼よりも、凄みのある男臭い感じに仕上がっていた。
 そして、遼二もまた普段見る彼とは別人のように大人っぽい雰囲気だ。麗のそれよりは地味目なものの、濃灰色のスレンダーなスーツが長身の彼に似合っていて、ルーズに後れ毛が垂れ下がるソフトリーゼントのヘアスタイルも艶めかしい。ストーリーのシチュエーションを意識してか、わざとネクタイを外された開け気味の胸元からは、男の色香が匂い立つようだ。恋人という欲目を抜きにしても、実に格好良いと思えるような出で立ちだった。
 倫周という青年のヘアメイクの技術の高さを感じさせる。紫月はそんな周囲の気持ちを無駄にしないように、最後の撮影を精一杯演じようと、改めて心に刻んだのだった。

「よう! 来たな。お前さんもなかなかにカッコいいじゃねえか」
 紫月に気付いた麗がニヤッと笑いながらそう声を掛ける。側に立つ遼二は、視線が合うと僅かにその頬を朱に染めたのに気が付いて、紫月もまた同じように頬を紅潮させた。
「今日はありがとうございます。皆さんのご厚意に応えられるように俺も精一杯やります。よろしくお願いします」
 今一度真摯に頭を下げる。麗はそんな紫月を前にして、満足そうにうなずくのだった。



◇    ◇    ◇



 そしていよいよ撮影が始まった。
 最初は組織のボス・麗が麻薬取締捜査官の遼二を罠に嵌めて、自身のアジトで拘束しているという場面からだった。打ち合わせ通り、二人の顔は出さずにシルエットだけでの撮影が進んでいく。
「気分はどうだ? そろそろ素直に俺と愛を交わす気になってきたか?」
 余裕の笑みと共に麗が問う。遼二は後ろ手に縛られた状態で椅子に座らせられていた。
「ふざけたことを抜かすな……! 仮にも俺はマトリだぞ……! この拘束から解放されたらすぐにお前らをふん縛ってやるから覚悟しろ……」
「ふふ――。威勢のいいのは結構だが、この状況でどう吠えようが無駄ってもんだ。それに――お前さんはもう”マトリ”じゃねえ」
「……ッ!? はぁ!? 何言ってやがる……」
「教えてやる。お前さんの元いたマトリ連中の間では、既に警察組織を裏切って俺らの仲間っていう認識になっているはずだ」
「……!? どういうことだ……ッ! いったい何をしやがった……!?」
「俺がお前を気に入ったからな。ちょっと裏の手を使ってお前さんの帰る場所を失くしてやっただけだ。まあ案ずるな。お前さんに不自由はさせねえよ。これからは俺の元で贅沢三昧させてやるぜ」
「ふざけたことを……ッ!」
「俺は本気さ。お前さん、なかなかにイイ男だからな。容姿は勿論のこと、その真っ直ぐで一生懸命な性質も気に入った。お前なら他人を裏切るなんてこともなさそうだしな。一生俺の側で望むがままの生活を約束するぜ?」
「……俺はそんなことを望んでなどいない! あんたの側で……なんて、悪い冗談にもほどがある」
「ふん、可愛げのねえヤツだな。だが、俺はすべてが極上だぜ? 一生掛かったって使い切れねえくらいの金、贅沢な生活、他人からの敬服の視線、有り余るほどの自由な時間、普通の人間なら喉から手が出るほど欲しがるもんが思いのままだ」
「――ンなもの、あんたの思い上がりだ。誰も彼もが金と贅沢に釣られると思ってる時点で大きな勘違いってもんだろうが……!」
 遼二は真っ向から抗議を続けたが、麗は聞く耳を持たないようだ。
「それだけじゃない――俺はこっちも極上だぜ? 一度味わったらお前さんも虜になって俺から離れられなくなるくらいに――な?」
 麗は遼二の膝の上へと跨がると、妖しげな笑みを浮かべながら両の掌で真正面から彼の頬をすくい上げるように包み込んだ。
「……ッ!? 何……しやがる!」
 麗は遼二を挑発するようにその目の前で自らのシャツのボタンを一つ二つと外してみせた。そして、身体の中央――自らの雄を遼二のそれへと擦り付けんばかりに淫らに腰を揺すり始める――。
「……何してんだ、あんた! ふざけてんじゃ……ねえよッ……!」
「俺は至って真面目さ。ふざけてなんぞいねえな」
「……クソッ……いいからそこを退け! 退かねえか!」
「今から俺の極上の味を教えてやろうってんだからな。有り難く思えよ?」
「はぁッ!? ワケの分かんねえことを……」
「それに――! そろそろお前さんも我慢ができなくなってくる頃合いだと思うがな」
 不敵な笑みでそう言われた瞬間に、遼二はゾワリと背筋を這い上がる自らの変調に気が付いて蒼白となった。
「てめぇ……何しやがった……ッ」
 麗が腰を揺する毎にゾワゾワとした感覚が身体中を苛んでいく。欲情の感覚に他ならなかった。
「……ッそ……! 何を盛りやがった」
「安心しろ。俺を抱くのはお前だ」
「あ……はぁ!?」
「物分かりの悪いヤツだな。俺に突っ込ませてやるって言ってんだ」
「……ッ!?」
「俺は極上だ。たっぷりいい思いさせてやれるぜ?」
 冗談じゃない!
 そう思えども、身体は既に遼二の意思とは裏腹に、目の前の淫らな獲物を欲するようにみるみると自身を裏切っていった。

 そんな二人の周囲では氷川と中津川が余すところなく画面に収めている。掛け合いは見事という他なく、その場の誰もが視線を釘付けにされてしまうほどだった。もはやこれが演技だということすら脳裏から飛んでしまうくらいに臨場感が半端ない。撮影を見ているスタッフの誰もがこの先の展開を固唾を呑んで待ち受けるといった顔つきでいた。――と、ちょうどその時だった。
 麗の組織の部下たち数人に引き摺られるようにして紫月が姿を現した。いよいよここから三人での絡みへと突入だ。
「……紫月……!」
 それに気付いた遼二が彼の名を呼ぶと同時に、ボスの麗がニヤッと笑った。
「これで役者が揃ったな。紫月、お前さんにもいいもんを見せてやろうと思ってな」
 ボスの部下たちに拘束されながら、紫月は目の前の状況に瞳を見開いた。そこには後ろ手に縛られた遼二が半裸さながらの麗に跨られて、欲情と戦っているといった驚愕の光景が広がっていたのだ。
「この男にはとびきりの秘薬を盛ってやった。こいつの意思がどうあろうが逆らうことなんざ到底できねえってくらいの強烈なヤツだ」
「何だって……!?」
「今はまだ強情張ってやがるようだが、それもいつまで持つか見ものだなぁ。こいつが俺に溺れていくさまを――てめえはそこで何もできねえまんま、存分に見届けるこったな」
 それが組織を裏切った制裁だとでも言わんばかりに麗は高笑いをし、薬に翻弄される遼二のボトムのジッパーをこれみよがしの音と共にずり下ろしてみせた。
「ボス……あんた、なんてことを……! あんたが恨んでんのは俺だろ! そいつは関係ねえだろが!」
「確かになぁ。俺を出し抜いてマトリなんていう――俺らにとっちゃ最も危ねえ野郎に寝返ったのはお前だがな。しかも――だ。お前はこいつに惚れちまったっていうじゃねえか。愛だの恋だの、生っちょろいことに現を抜かしやがって、この俺を裏切りやがった! 幹部にまで引き上げてやった恩を仇で返されるとは思ってもみなかったがな」
「……ッ、何……を」
「俺がお前を直接仕置きしてやるのもオツだと思ったが、実際はそんなんじゃ腹の虫が治まらねえ。お前にとっちゃ、こっちの方がよっぽど堪えるだろうよ?」
「……やめろッ! やめねえか!」
「くく……どうとでもわめくがいいぜ。てめえの惚れた男が俺を欲するザマを指咥えて見るがいい!」
 麗は嘲笑いながらそう言って、遼二のシャツをビッと引きちぎった。
 遼二の目は虚ろだ。シャツを裂かれ、ジッパーを下ろされても既に抵抗するという気力もないようである。それどころか、抗えない欲情の波に全身を支配されてか、ひどく苦しそうだった。
「どこまでも強情なヤツだな。だが、もういい加減限界だろうが? 何もかも忘れて、目の前の欲しいもんだけを貪ってみろ!」
 麗は遼二の髪を掴み上げると、もう片方の手で彼の雄を握り締めた。
「……ッ、ああ……ッ」
 そのまま容赦なく怒張した熱を揉みしだく。
「ほら、紫月! よく見ろよ。こんなにガチガチにおっ勃てて、気の毒ったらねえだろ? こいつだって男だ。欲の前じゃ強情や理性なんぞかけらもなく吹っ飛んじまうだろうぜ?」
「……は……あッ、……よ……せ……ッ!」
「よしていいのか? もっと擦ってくれ――の間違いじゃねえか?」
 麗は底意地の悪く笑いながら、再び遼二の膝の上へと跨がった。そしてまたぞろ自らの雄で彼の怒張を刺激するようにグリグリと擦り合わせる。そうする度に遼二からは押し殺したような苦痛の嬌声があふれ出た。
「ボス……! やめろ! 俺が代わりになる! どんな仕打ちも受ける! だからそいつを貶めるのはやめてくれ……!」
 堪らずに紫月がそう叫んだ。一瞬で声が嗄れてしまうほどの絶叫でそう叫んだ。
「そいつからマトリの職も奪って……この上、尊厳を踏みにじることだけはしたくない……! あんただって一大組織の頭を張ってる男だ。それくらい分かってくれるだろッ!? 頼むからこれ以上そいつを苦しめないでくれ……! その代わり、俺はどうなってもいい! この通りだ……!」
 必死に頭を下げる紫月に、麗は険しく眉根を寄せて視線をくれた。
「そんなにこの男が大事か? てめえの命に代えても守りてえってか?」
「ああ……。俺の命で許されるなら気の済むようにしてくれ……。だからそいつだけは……」
「ほぅ?」
 麗にも少しは紫月の覚悟が伝わったのだろう、跨っていた遼二の膝から降りると、苦々しく口元をひん曲げてみせた。
「そうか。だったら望み通り趣向を変えてやろうじゃねえか」
 麗は言うと、今度は足早に紫月の側へと歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「そこまで言うならこの男のことは諦めてやる。その代わり、お前がこの男の相手をしてやるんだな」
「――!?」
 あっさりと引き下がった麗に、紫月はもとより周りの部下たちも訝しげに眉根を寄せる。
「ボス、よろしいんですか?」
 部下の一人が小声でそう訊き、チラリと目配せする。
「なに、ちょっと趣旨替えをするだけだ。このマトリは既に理性を失った獣も同然だ。その獣の餌食に紫月をくれてやろうと思ってな」
 強烈な薬に支配された男にとって、あるのは目の前の獲物を貪る欲だけだ。愛情や思いやりなど欠片も残ってはいないだろう。
「望み通り野獣と化したこの男に存分に痛ぶられるといい。愛も恋も、好きも嫌いもねえ。ただめちゃくちゃに犯し犯されて二人で地獄に堕ちるなら本望だろうよ」
 そうして一時の欲情を解放したものの、時間が経ってみれば、遼二の中にはひどい後悔が残るだろう。少なからず想いを寄せる紫月に対して、如何に薬に惑わされたとはいえ無体な犯し方をした事実は、後々になっても深い自責の念となって彼を苦しめるに違いない。逆に紫月にとっては愛情のかけらもない犯され方をしたことで、遼二に対する想いが恐怖や疑念となって気持ちが離れていくかも知れない。
 どちらにせよ、二人が互いを傷つけ合うのは目に見えている。麗はそう踏んだようだった。
「おい、マトリの縄を解いてやれ」
 部下たちにそう命じると、麗はドカリとソファへ腰を下ろした。
「見せてもらうぜ。たっぷりとな」

 お前ら二人が壊れていく様をな――

 そして自由を取り戻した遼二の身体を紫月に向かって放り投げた。
「遼二……! 遼、すまねえ……。俺のせいで……」
 紫月は苦しげな彼を抱き起こしながら謝罪の言葉を口にしたが、今の遼二にはそれが聞こえているのかも定かでないほどに錯乱状態の様子だった。突き上げる欲情に支配され、その視線は闇色に揺れていて、まさに獲物を欲してやまない獣のようだ。彼の黒曜石のような瞳の中にはギラギラと燃えさかる焔が今にも爆発しそうな勢いだった。
「遼二……辛えか……? 待ってろ、すぐに楽にしてやる……!」
 紫月が薬物に侵された彼の雄を口淫で解放せんと、そこに顔を埋めた時だった。
「ダ……メだ……紫月……ッ、俺から離れろ!」
「遼二……?」
「離れてくれ! じゃねえと、俺は何するか分からねえ……! お前を……」

 そう、めちゃくちゃに貪って傷つけてしまうだろう――!

「……ンなこと……は、したくねえ。頼むから今すぐ俺を置いて……お前はここから逃げろ」
 床に這いずり、身体を丸めてもがきながらも片方の手で紫月を押しのけるように突き飛ばした。
「行け……! 早く……」

 さもないと本当にこのままお前を犯しかねない――!

 苦しげに吐息を乱しながら欲情の波と戦う。そんな彼に紫月はブンブンと首を横に振った。その双眸からは無意識にあふれ出た涙が頬をぐっしょりと濡らしていた。
「俺は……構わねえ……あんたが楽になれるんなら全然構わねえ……! 何されたっていい! あんたになら……」

 どんな扱いを受けようが、例え愛情のかけらもなく貪られようが本望だ!

 紫月は再び彼を抱き起すと、震える手でその頬を撫で、自ら唇を重ね合わせた。
 その口付けを合図のようにして遼二の背筋にドクドクとした欲情が電流のように突き抜ける。逆らえないまま、本能のままに、気付けば紫月は遼二に押し倒されていた。
 噛み付くようなキス、欲するままにシャツを引きちぎり首筋から鎖骨、胸飾り、そのまま腹までをも舐め回す。ボトムに手を掛け、荒々しくそれを引きずり下ろせば、ピッタリと紫月の華奢な肌を覆うボクサータイプの下着が視界をよぎって、むしゃぶりつくようにそこへと顔を埋めた。
 もはや遼二には目の前の獲物を食らい尽くすことしか見えてはいない。誰もがそう思って成り行きに固唾を呑む。麗は想像通りの展開に下卑た笑みを浮かべて嬉しそうだ。麗の部下たちも黙って遠巻きに二人が傷つけ合う様を眺めているだけだった。
――と、その時だ。
 遼二は突如として再び紫月を突き放すと、震える身体を引きずりながら部屋の調度品の上に置かれていた一つの花瓶に手を掛けて、それを床へと落として叩き割った。
「遼二……!?」
 紫月はもとより、これには麗も部下たちも訝しげに眉根を寄せる。
「おい、マトリ! 貴様、どういうつもりだ……!」
 麗が険しく言い放つ。
 すると、もっと驚いたことに、なんと遼二はその割れた花瓶の切先を自らの腕に突き刺したのだ。

「何……ッ!?」

「遼二ーーー!」

 麗と紫月が同時に叫んだ傍から、血飛沫が飛び散り、次第に血溜まりとなって床を紅に染め上げていった。
「遼二……! あんた、何を……ッ」
 紫月が駆け寄ると、血に染まった腕を見つめながら遼二は言った。
「……これで……少しは正気を保って……いられるだろう……」
 震える口元に薄い笑みを浮かべる。
「お前を傷付けるくれえなら……この方がよっぽどマシだ……」
 痛みによって理性を失わずに済むという意味なのだろう。
「欲だけで……お前を犯したり……したくねえ。お前だけは……傷付けたくねえ……絶対に……。俺は……何があってもお前さんだけは……」
 血濡れた掌を伸ばして、紫月の頬を撫でながら微笑んだ。顔面を蒼白にしながらも、全身を苦痛に苛まれながらも幸せそうに微笑んだ。
「遼……遼二……!」
 紫月は無意識の内に、突き動かされるように自らのシャツを脱ぐと、涙に掠れる瞳を擦りながら嗚咽と共に彼の傷口を固く縛り上げた。そのまま彼を腕の中へと抱き締めると、誰に憚ることなく大粒の涙を流したのだった。
「――ったく! 見せ付けやがる……。こっちは思いっきり興醒めだ」
 麗は苦々しく言い放つと、腰掛けていたソファから立ち上がって二人の元へと歩を進めた。
 床にうずくまりながら抱き合う様を見下ろし、小さな溜め息を漏らす――。
「――二度と俺の前にツラを見せるな。それでお前らへの制裁とする」
 感情のない声で言い置いて、部下たちを伴いその場を後にしていった。

 麗の登場シーンが済むと、その後ろ姿を見送りながら遼二はホッと小さく溜め息を落とした。ひとまずの山場を越えられたことへの安堵の溜め息だ。
 モデル出演の参加が決まって以来、この撮影に入るまでの間、それほど時間が有り余っていたわけではなかった。限られた時間の中での慣れないモデル体験だ。当初は紫月の引退特集に少しでも役に立てるならばと、ほぼ勢いだけで出演を承諾したものの、やはりいい加減な作品にするわけにはいかない。打ち合わせ段階では、麗が『絡みシーンが不安だというなら、俺が懇切丁寧な実技指導をしてやるぜ』などと言い、その挑発に乗せられた紫月も遼二の出演を承諾するハメとなったのは記憶に新しいところだ。紫月としては濡れ場に関しては遼二と二人で作り上げる意向でいたものの、麗と遼二が演るボスとマトリのシーンも多かった為、今日の本番までの間に三人で集まり、各々ストーリーへの解釈から間合いの取り方など、かなり本格的に稽古を突き詰めてきたのだった。
 そんな中、特に麗の指導は厳しいものだった。彼は若い頃からファッションモデルとして第一線で活躍してきた、いわばプロである。ストーリーを一枚の画面に切り取った時に、どうすれば目を引く印象的なショットに持っていけるのか、身のこなし方などを至極詳しく、それこそ懇切丁寧に叩き込んでよこしたわけだ。
 当然、稽古を始めた頃はダメ出しの連続だった。紫月の演技に関しては特に意見もないようだったが、素人同然の遼二に対しては普段とは別人のように厳しかった。
 台本通りにとりあえず立ち位置について演技を始めるものの、
『ダメだ、ダメ! まったくなっちゃいねえ! 論外だ、やり直し!』
 その連続だった。
『先ずは何を置いても羞恥心を捨ててかかれ! 無難な演技をしようと思うな。難なくこなそうとか、恥ずかしいと思う気持ちがある内はダメだ!』
 時には動きがなっていないと言ってピシャリと腕や腰などを叩かれもするし、表情の付け方に納得がいかなければ、顎先を掴まれて指が食い込むほどに揺さぶられもした。
『俺を知り合いだの昔からの馴染みだと思うな! 俺は今、お前がマトリとしてとっ捕まえようとしている裏組織のボスだぞ!? その俺に嵌められて、逆にとっ捕まって拘束されてる! この状況でてめえは何を考える!? 悔しいと思う気持ちか? それともてめえのふがいなさを情けなく思うか? 真剣に考えろ! その上で俺にお前の感じたままの感情をぶつけてこい!』
 麗のあまりの真剣さに、時には身震いのする思いだった。
 普段は高飛車でチャランポランな俺様のように見える男だった。気まぐれで、思うようにならなければすぐにプッと頬を膨らませて拗ねる、気位の高いシャム猫の如く性質だ。そんな彼を幼い頃からずっと見てきた遼二には、『いつまでも子供のようなところのある、よく言えば自分に素直な可愛い人だ』といった印象が強かった。御しにくいようでいて実は御しやすい、愛嬌のある男だと思ってきたのだ。
 だが、今の麗は全く違う。演技に対して真剣そのもので、例え顔も名前も出さないゲイアダルト誌の脇役という立場であっても、一切の妥協を許さず全力で取り組む姿勢でいる。遼二はそんな麗に指導を受けながら、自らの師匠である氷川のことを思い出していた。
 新進気鋭の人気写真家ともてはやされた氷川が、何故ゲイアダルト誌の撮影などという少々特殊な仕事を請け負っているのか、当初は不思議に思ったことがあった。だが、現場での氷川の取り組み方や撮った作品集を見る内に、そんなことを思った自分が恥ずかしいと思うようになっていったのだ。
 氷川はいつでも真剣で、それが華やかなファッションショーの撮影であろうが、雑誌の片隅に載るようなごくごく小さい扱いの風景写真や雑貨小物の撮影であろうが、向き合う姿勢は変わらなかった。写真を撮るということに対しての根底の思いがしっかりと地についていて揺るがないのだ。
 麗もまた同じだった。モデルとして、自分が中央に立ち、スポットライトを浴びる大きなステージだろうが、脇役として顔さえ出さない今回の出演でも、ひとつの作品や仕事に対して向き合う姿勢は変わらない。まさにプロなのだ。遼二はそんな麗や氷川の側に居られる自分が心底幸せだと思えたのだった。
 それからは遼二の中で意識も日に日に変わっていった。マトリという役の男について考える日々が続いた。今の自分はカメラマンのアシスタントではなく、麻薬取締捜査官だ。そして、本来は相容れない間柄にある裏組織で幹部を張っている紫月という男を愛してしまうという苦悩を抱えている。そんなマトリとして、愛するただ一人の男をどう守るのか、一個人の力などでは到底抗い切れない巨大な裏組織によって嵌められ、仕事も地位も剥奪され、騙されて拘束される状況下でどう身の振りを考えたらいいのかなどを真剣に思い描いた。
 ”演技”というフィルターを通せば、上手く演りたいとか人前で演じることに対する恥ずかしさだとかが拭いきれないのであれば、自分自身が本物のマトリになるしかない――遼二は自身の中のマトリという一人の男と向かい合うことに決めたのだった。

 そんな思いで挑んだ麗との絡みの場面が撮りを終えた今――、ここからは公私共に愛する紫月との濡れ場シーンに突入だ。とはいえ、今はやはり自分は”マトリの男”なのだから、その目線で紫月に対する想いをぶつけよう、遼二は今一度そう心に誓った。
 思えば、初めて氷川に連れられてゲイアダルトの撮影現場に来た日のことが遠い昔のようだ。そこで出会った紫月の妖艶な演技に衝撃を受け、それが残像となって来る日も来る日も逃れられない欲情に翻弄されたことが鮮明に脳裏へと蘇る。
 初めて出会ったあの日、目の前で男たちに陵辱されて悶える紫月は、今日の今この瞬間まで自身の心を鷲掴みにしてやまずにいる。彼に焦がれ、時には心中穏やかでいられないほどに欲し、憧れ、そして欲情させられた。彼が他のモデルと絡み合う写真集を見れば、嫉妬にかられて狂おしい想いに心乱された。
 そんな紫月と愛を紡ぎ合う濡れ場のシーンが今まさに幕を上げようとしている。
 あの頃、写真集の中で彼を腕に抱くモデルの男に取って代わりたいと何度願ったことだろう。今、その相手は自分なのだということが夢幻のように思えている。
 遼二は渦巻く様々な思いを噛み締めながら、大きく深呼吸を入れると、次の瞬間にはマトリの男の顔に戻っていった。

 セットとして用意された血痕が、床の上でゆっくりと流れながら形を変えていく。血だまりの上に照明のスポットが当てられる。
 ボスの麗たちが立ち去った後、残された二人は静寂の中で互いの温もりを確かめ合うようにどちらからともなく指と指とを絡ませて、ホッと小さな溜め息を落とす。
「すまねえ、遼二……。俺のせいであんた、職まで失っちまった……」
「いや、いい――。そ……んなことより……」
 遼二はガッと紫月の肩に手を掛けると、そのまま背中ごと引き寄せて、自らの腕の中へと抱き締めた。
「紫月――もし俺が無体なことをしようとしたら……構わずに俺を殴れ……」
「……! 遼……」
「――ッ、すまねえが限界だ。抱くぞ……!」
 言うや否や、床へと紫月を押し倒した。
 先程脱がし掛けた下着に手を掛け、ずりおろし、遼二は自らの猛った雄を紫月の同じものへと擦り付ける。両の手でガッシリと色白の尻を掴み上げ、腰を浮かせて両脚を押し広げて覆い被さった。

 そう――そうだ、まさにこういったシーンだった。
 かつて夢中でめくった写真集の中で、男に乱され淫らに堕ちていく紫月のショットにどれほど興奮させられたことだろう。
 幾度自慰を繰り返し、解放しても解放しても止め処なく昇りくる欲情に翻弄されたあの頃の自分が重なる。
 そんな想いを胸に抱きながら、遼二は目の前の紫月を貪る演技に没頭していった。

 薬に翻弄された遼二の雄からは既に先走りの蜜があふれ出ていて、彼の下着はしとど濡れていた。前戯の余裕など当にない。いきなり押し挿れると同時にキュッと眉をしかめた。
「……ッああ……くっ……」
 ”演技”という上に於いて、実際には催淫剤を盛られているわけではない。だが、遼二にとって紫月に出会った頃のことを思い返せば、それこそが強烈な媚薬のように自身を欲情させる。漏れ出す嬌声も、もはや演技と現実が交叉する狭間だ。それは紛れもない事実だった。
「辛……えか? けど、我慢して……くれ……!」

(こんな時に邪なことを考えてちゃいけねえと分かっていながら……堪らなく気持ちがいい――。このまま本当に……挿れちまいてえくらい……なんだ――!)

「……ああッ……はっ……クッ……」
 自らの雄を紫月に擦り付ける度に怒張が大きさを増す。腰を揺らす度に堪えきれない先走りが下着を濡らしていく。周囲にスタッフがいようが、師匠の氷川や中津川がどう思おうが、いっそ本当に下着を脱いで直に擦り合わせたくなるくらいに遼二は欲情にまみれていった。
「遼……ッ……りょ……!」
 グリグリと押し付けられるそれは無体といえなくもない。だが、役中の紫月にとってはそんな逸った抱かれ方さえ愛しいと思えるものだった。無論、紫月にとってもまた、今この瞬間は演技と現実を越えた甘く狂おしい陶酔の世界へと導かれるものだったのかも知れない。

「よし! いいぞ! 二人とも、ここからは表情にスポットを当てて重点的に撮るぞ! 特に紫月、最愛の男に抱かれてイく瞬間の表情を頼む!」
 緊張感もマックスの現場にカメラマン氷川の声が響き渡る。無論のこと、これらはすべてストーリーの脚本に従った演技であるわけだから、遼二も紫月も実際に性を交えているわけではない。だが、二人の迫真ともいえる絡みは見事で、周囲のスタッフたちにはまるで映画さながらと思えるほどだった。氷川もまた、そんな二人を最高のショットで切り取らんと、いつにも増して真剣な眼差しでシャッターを切っていく。その反対側では中津川が別角度からの連写で二人の演技を画面へと収めていった。
 そしてまた、一足先に出番を終えた麗もこのクライマックスの瞬間を見守っていた。その脇にはヘアメイクの倫周も胸前で両手を組んだまま、演技の行方に興奮状態でいる。
「すごいよ、すごい……! とても演技とは思えない! 紫月君は勿論だけど、遼二君も本当の男優さんみたい!」
 小声で独り言のように言い、感動の眼差しを見張る倫周に、
「ったりめえだろ? 遼二のヤツにはこの俺様がここしばらく寝ずの勢いで演技指導してやったんだ。あれくらいできて当然だ」
 半ば憎まれ口ながらも、満足そうに瞳を細めている。
「つーかよ、その前に俺の演技への感想はねえのかー?」
 麗はプッと頬を膨らませながら、呆れたように口を尖らせた。
「え? ああ、勿論! 麗ちゃんのボス役もサマになってたよー! まさに意地悪感モロ出しで、ふてぶてしくて良かった」
「はぁ!? ふてぶてしいって……お前、相変わらずだな、言い方!」
「ええー? 僕は素直に褒めたつもりなんだけどなぁ」
 麗と倫周が呑気な言い合いをする中、遼二と紫月の撮影も無事にクランクアップとなったのだった。



◇    ◇    ◇



 その日の夜、紫月は遼二のアパートメントのベッド上で、その逞しい腕に抱き包まれていた。
 撮影終了後の二人は、演技中での絡みシーンも引き金となってか、互いを欲する熱に侵されていた。共演者やスタッフらとの挨拶も早々に引き上げたいくらいに、胸中は逸っていた。とにかく早く二人きりになりたくてウズウズしていたのだ。
 そんな思いのままに遼二の部屋へと舞い戻った二人は、無我夢中で互いを貪り合ったのである。帰宅後、玄関の扉を締めると同時に靴も脱がないままで唇を奪い合った。
 晩熟だ何だと言われてきた遼二だが、紫月の引退撮影が済んだこともあってか、これまで彼に対してあったクライアントを立てるという遠慮の壁が払拭されたように、恋する男の熱情部分が強く顔を出す。何のしがらみもない中で、一人の男として紫月に向き合うことができた瞬間だったのだろう。
 紫月もまた同様で、高飛車に取り繕ってきた気負いがなくなってみれば、存外素直に愛する男の胸へと飛び込むことができたようだった。
 そうして数時間もの間、夢中で互いを求め合った二人は、既に深夜のベッド上で夢うつつにまどろんでいた。
 遼二が利き腕の中に紫月の頭を抱き寄せ、もう片方の手でユルユルと絹糸のような髪を掻き上げる。時折、額にチュッと軽くキスを落とし、腕の中の愛しい相手を見つめる瞳は、そこはかとなくやさしい笑みであふれていた。
「けど今日の撮影、お前ほんとにすごかったよな。俺も今までそれなりにプロ意識を持ってやってきたつもりだったけど、完全に食われちまいそうになったっていうかさ。お前もだけど、レイ・ヒイラギさんの演技もすご過ぎて……俺、まだまだだったんだなって実感したっつーか……さ」
 紫月が照れ臭そうに苦笑する。
 遼二の方は思いもかけず褒められたことで急に出会った頃の互いの立場を思い出したわけか、我に返ったようにして頬を朱に染めた。
「……んなことありませんよ……! 俺はもう……すげえ必死でしたし、最後の紫月さんとの絡みなんか……みっともねえこと暴露するようですけど、本気でヤバい気持ちになっちまって。我に返ってからは……足引っ張ってねえだろうかって、自己嫌悪でグルグルしてました。もう頭に血が上っちまったようにワケ分からず状態でしたよ」
「はは、マジ? そうは見えなかったけど」
 紫月はクスクスと笑った。その笑みは穏やかで、安堵の中にも幸せだという気持ちが滲み出ているようだった。
「俺さ、ゲイモは金の為に始めたことで――心底望んで入った世界じゃなかったけどよ……。でも、最後の仕事をお前やレイ・ヒイラギさんっていうすげえ人たちと共演することができて良かったと思ってる」
「紫月さん――」
「幸せな幕引きだったって。それに――この世界に入ってなきゃ、お前とも出会えなかったわけだし……さ?」
 紫月は甘えるように遼二の胸の中へと顔を埋めた。
「な、遼二――俺さ」
「――? はい」
「ゲイモで稼いだ貯金が少しあるし、しばらくは生活に困るってわけじゃねえけど――。ちょっと休んでリフレッシュしたら次の仕事探そうと思ってる。つっても、まだどんな職種とか具体的なことは丸っきしだけども。これからゆっくり考えようかなって」
 紫月は遼二を見上げながら続けた。
「だからさ……お前さえ良かったら……その、これからも……」

 お前の傍にいていいか――?

 小声で、僅かに頬を染めながらそう呟いた。
「紫月――!」
 遼二は堪らないといったように、言葉に代えて腕の中の身体を抱き締めた。もう今までのように『さん』付けさえも飛んでしまうくらいに感激した気持ちのままに、強く強く抱き締めた。
「勿論です……! 俺の方こそ……その、そんなふうに言っていただけて……」
「……いいのか? こんな俺で……」
 モゾモゾと腕の中で頬を染める。その頬の熱が脈打つ遼二の心臓音の上にぴったりと重なる。
「言ったでしょう、ずっと一緒に居たいって。俺は――もうあなたを放しません――!」
「遼二……」
「大好き……です! 紫月さん」
「ん、さんきゅ。俺も……おんなし」
「ね、紫月さん」
「ん……?」
「その――これからの仕事のことなんですが……」
「ん? 仕事って、俺の? それともお前の?」
「紫月さんのです。今日の撮影が済んだら言おうと思っていました。紫月さん、モデルになりませんか?」
 その言葉に、紫月はハタと瞳を見開いた。
「モデ……ル?」
 まさか、辞めたばかりのゲイモデルに復帰しろという意味なのだろうか――紫月はわずか戸惑ったように遼二を見上げた。
「実は――麗さんからも紫月さんに打診してくれないかと言われているんですが。あの人、自分の後を継いでくれる若手のモデルを探しているんです」
「後を継ぐって……レイ・ヒイラギさんはモデルを引退しちまう……とか?」
「いえ、そういうわけではないんですが。麗さんて若く見えますが実際は結構いい歳なんです。勿論今後も壮年としてのモデルは続けていくようですが、もっと若年層のモデルを必要としてまして」
「……若年層が必要って、レイ・ヒイラギさんの所属事務所が……ってことか?」
「ええ、まあ。実は……俺の親父、モデル事務所を経営しているんです。レイ・ヒイラギをモデルとして育てたのも父です」
「ふぅん、そうなんだ。――ッ!? ……って、ええっ!?」
「今まで黙っていてすみません。もちろん、紫月さんがよければ……なんですが、ファッションモデルとして父の事務所に所属していただけたらと――」
「お……れが? ファッションモデル……」
「紫月さんならすげえモデルになれると思います! 返事は――今すぐでなくて構いません。もし、お嫌でなければ考えていただけませんか?」
 あまりの驚きに、紫月はしばしポカンと口を開けたまま、唖然としたように遼二を見つめてしまった。
「モデル事務所って……お前の親父さんが……?」
「ええ――。ただ規模はものすごく小さいです。肝心のモデルも麗さんたった一人ですし、世間一般的にイメージされるような大きな事務所では全然ないんですが……」
 紫月を腕枕の中に抱きながら、遼二は麗と父親が出会ったきっかけから今日までのことをザッと話して聞かせた。
「俺の親父は鐘崎僚一といって、元々は美容師だったんです。かれこれ四半世紀近く前の話です。当時、親父は、とあるヘアメイクのコンテストに出場する為にカットモデルを探していたんだそうです」
 まだ若手の域だった遼二の父親には、コンテストの舞台上で髪を切らしてくれるようなモデルの知り合いもおらず、出場自体を諦めなければならないかと迷っていた時期だったそうだ。私生活の上では、結婚もしていてちょうど遼二が生まれたばかりの頃だったらしい。
 僚一の妻というのは服飾デザイナーを目指している女性だった。とあるファッション誌の企画がきっかけで二人は知り合い、惹かれ合い結婚した。出産後も彼女はデザイナーになるという夢に向かって共働きの生活を送っていたのだが、ある時、彼女にイタリア行きの話が持ち上がった。ファッションの本場で本格的に夢を追い掛けてみたいという彼女の強い思いを受けて、二人は離婚を決意した。互いのことが嫌いになって別れるわけではなかったが、単身でイタリアに向かう彼女の将来を思って、息子の遼二は僚一が引き取って育てることにしたという。
 生活は決して楽ではなかった。男手ひとつで赤子の遼二を育てながらの日々だ。職場と保育園を行き来する日常の中、コンテストへの出場などやはり望むべきではない夢か――そう思い、諦め掛けてもいた――僚一が麗と出会ったのはちょうどそんな時だったそうだ。
 ある日の閉店間際、他の予約客は全て終了していたその日。店には後片付けの為に僚一が一人で残っていた時だ。ふらりと立ち寄った新規の客が麗だった。
 彼の髪は伸びきっていて、肩につくほどの長さだった。就職の面接の為に小綺麗にしたいので、形など何でもいいから短く切ってくれとそんなリクエストをしてよこした麗に、僚一は一目でインスピレーションを感じたという。
 麗は格好こそ野暮ったくて、身なりにはまるで無頓着といふうだったが、至近距離でよくよく見れば群を抜く見目の良い顔立ちをしていた。気が付いた時には、その場で麗にカットモデルになって欲しいと願い出ていたのだそうだ。
 その頃の麗はまだ大学生だったが、付き合っていた彼女との間に子供ができたことを機に大学を辞める決心をし、職探しに奔走していたらしい。とりあえずはアルバイトで食いつなぎ、入籍も済ませたのだが、出産を終えるとすぐに彼女は他所に男を作ってしまった。入籍後わずか半年足らずで離婚に追い込まれた麗は、生まれたばかりの赤子を引き取り育てることになったというのだ。職に就く為に伸ばしっ放しだった髪を切ろうと、半ば行きずりで入ったのが僚一の勤めていた店だった。
 カットモデルになって欲しいという僚一の申し出に、麗は無料で切ってもらえるならと快くそれを引き受けた。互いに妻と離縁したばかりの上、同い年くらいの赤子もいるということで、それ以来二人は急速に親しくなっていったらしい。
 初めて出場したコンテストでは上位入賞することができ、麗の方も無事に就職が決まったものの、互いに赤子を育てながらの生活は想像以上に過酷なものだ。そんな中で僚一と麗は共に生活をするようになっていったということだった。

 遼二からおおよその話を聞き終えたところで、紫月は驚きつつも納得させられるものがあったようだ。
「そっか……。それであの人、レイ・ヒイラギさんがお前のこと、家族みたいなもんだって言ってたってわけか」
 遼二の父親と麗がそんな昔から共同生活を送ってきたのなら、そういう見解も当然といえる。
「そういえば……思い出した。確かあの時も……レイさんって人、そんなこと言ってたっけ」
 紫月はふと思い付いたように瞳を見開いた。
「――あの時って何です?」
「ん、ああ……。今だから暴露しちまうけど……実は俺、以前にお前とあのレイ・ヒイラギさんが二人でいるのを見掛けたことがあってさ」
「え!? そうだったんですか?」
「ちょうど俺の三冊目の写真集の撮影の打ち合わせでヒカちゃんたちとメシ食った帰りだった。ホテルの地下駐車場でお前らが一緒にいるのを見たんだ」
 その時に麗が言っていた言葉を思い出す。

『ガキの頃はいつもお前から抱き付いてきて、すげえ可愛かったのによ――』

 遼二の父親と麗が家族も同然に暮らしていたのならうなずける話だ。――が、それと共に麗は遼二にしがみつきながら、こうも言っていた。
 『抱いてくれよ』と――。
 ここしばらく遼二と想いを打ち明け合ってから甘い雰囲気に浸っていてすっかり忘れていたが、あの時、確かに麗がそう迫っていたことを思い出した。
 紫月はわずか遠慮がちながらも、チラリと上目遣いにそのことを打ち明けた。
「あの……さ。そん時、あの人……お前にかなり衝撃的なことも言ってたんだよ……」
「――? 衝撃的なこと――ですか?」
 遼二は覚えていないのだろうか、不思議そうに首を傾げている。
「お前に抱き付きながら、抱いてくれとか……」
「え――!?」
「あん時は……お前ともまだそんな親しくしゃべったこともなかったし、正直すげえ驚いたっつか、焦ったっつか……さ」
 それを聞いて遼二もようやく思い出したのだろう、『ああ――!』と言って、すぐに苦笑した。
「あれは……冗談です。あの人、子供みてえなところがあるんで、たまにああやってダダこねたりするんです。いつものことなんですよ」
「そうなのか?」
「あの時はちょうど親父が――」
 そう言い掛けて、遼二は一瞬ためらうように言葉をとめた。
「いずれ分かることですし、紫月さんには話しておきます。実は俺の親父と麗さんは――」
「――?」
「その、何て言うか……いい仲なんです」
「え……ッ!?」
「互いに男やもめだったし、一緒に暮らす内に自然とそうなったんだと思います。俺が物心ついた頃にはもうすっかり恋仲だったと思います」
「……ッ!?」
「紫月さんが俺らを見掛けた時は――多分、ちょうど親父が次のファッション・ショーに麗さんを出す打ち合わせで海外に出掛けていた時だったんですよ。その前もしばらく忙しくて、親父は家にもろくに戻ってなかったんだと思います。俺、顔立ちとか背格好がめちゃくちゃ親父と似てるんです。だから麗さんは親父に当てつけたかったっていうか、ああいうふうに言えば、俺から親父に伝わるとでも思ってたんでしょう。あの人、ホント子供みてえなとこあるんで……」
 紫月はめっぽう驚かされてしまった。だが、言われてみれば納得できるような気もする。麗が先日氷川の事務所に顔を出した際に、必要以上に突っ掛かるような視線を送ってきたように思えていたが、気のせいではなかったということだ。
「なあ、レイさんは俺とお前のこと……知ってるのか?」
「さあ、どうでしょう。俺からは特に言ってませんけど、もしかしたら親父から聞いてるかも知れません」
「お……やじさんには言ったのか……!?」
「ええ、言いましたよ。好きな人ができたって……。その人のこと、真剣に考えてるって」
 はにかんだようにして遼二は笑った。
「そ……そうなんだ」
「あ――! けど、麗さんにも言ったかも……? 相手が紫月さんだってことまでは言ってませんけど、好きな子でもできたのかって訊かれたことがあって、その時に……”いる”って答えました。そういえば思い出しました」
 それは多分、あの地下駐車場でのことだろう。紫月自身もはっきりとその場面を目にしていたので知っていたのだ。もしかしたら、麗はその後で遼二が誰と付き合っているのかということを知ったのかも知れない。
 麗にとって遼二は家族――もしくは我が子も同然であり、恋人と瓜二つというくらい似ているとなれば、多少なりとも焦れる気持ちや嫉妬心もあったのだろうか。だから氷川の事務所で会った際に、妙に突っ掛かるような態度だったのだ。
「そっか……。それでか」
 紫月は何だか一気に脱力したような、あるいはホッとしたような、言い様のない心持ちにさせられてしまった。
「きっとレイ・ヒイラギさんはお前のことが心配だったんだな。お前がどんなヤツと付き合ってるのかーってさ」
 それを確かめる為に氷川の事務所にまで様子見に来たというところか。そこで紫月の引退特集のタチ役モデルの都合がつかないと知り、自ら申し出てくれるという流れになったわけだろう。紫月にしてみれば麗に値踏みされたようで苦笑せざるを得ないところはあるものの、結果的には大団円ともいえるのだろう。何だかんだと言いつつも、彼の後継モデルとして推してくれたというのだから、自分は麗のお眼鏡にかなったということだろう――紫月は心底安堵したように、『はあー』と大きな溜め息をつきながら遼二の胸板へと寄り掛かってしまった。
「けどさ、ホントにいいのか……? 俺、ゲイモやってたわけだし、ファッションモデルになるっていっても……お前の親父さんやレイ・ヒイラギさんの迷惑になっちまうんじゃねえかって……」
 アダルト誌のモデルだったという過去が少なからず妨げになることもあるかも知れない。紫月はそれを気に掛けているようだった。だが、遼二はすぐに取るに足らないことだと言って一笑した。
「そんなこと全く気にしなくていいです。紫月さんがこれまでされてきた仕事は素晴らしかったんです。写真集ひとつとっても本当に綺麗で、まさにプロでした。隠したり恥じることなんて微塵もありません!」
「……お前にそう言ってもらえるンは……うん、確かに嬉しいけどよ」
「気にされるなら親父と麗さんにも訊いてみてください。俺と同じことを言うはずです」
「ん、さんきゅ……」
「紫月さん、よろしければ一度親父に会ってくださいませんか? モデルになるかならないかは、それからゆっくり考えていただければいいです」
 真剣な眼差しで言ってくれる遼二のことが、紫月には何より嬉しかった。
「ん、うん――。遼二、その……さんきゅな。俺、何つったらいいか……上手く言えねえけど」
「いえ。俺の方こそ、強引にいろいろ押し付けちまってるようで……その、失礼があったら申し訳ないと――」
「ンな……失礼なんかあるわけねって! マジで俺、こんな棚ボタな話はねえっていうか、俺なんかにそこまで言ってもらえて……信じらんねえくらいなのに」
「棚ボタなんて言えるほどのことじゃないス! ホントに小さい事務所ですし、紫月さんならもっと大きな所で脚光浴びられると思うんですけど……。ただ、俺が――」
「……ん?」
「俺が――一緒に居たいってだけの我が侭なんです。紫月さんが親父の事務所に来てくれたら……その、安心ですし……。って、こんなこと言ったら束縛モードに入ってるみてえで情けねえんですが」
 語尾にいくに従って弱々しい声音になっていく遼二を、紫月はポカンと見つめてしまった。要は父親と麗の元に置いておくなら安心できるということなのだろう。思いも掛けない遼二の嫉妬心や束縛心に触れて、紫月はそこはかとなく心温まる気持ちにさせられてしまった。
「遼二……」
「すいません……。なるべく、その……縛ったり妬いたりとかしないように心掛けますんで」
 頭を掻きながらも照れ臭そうに苦笑する遼二の胸に飛び込んだ。
「いいよ……。お前になら縛られてやるさ。お前になら何されたって、俺……」
「紫月さん――好きです……!」
「ああ。俺も――」

 大好きだ――――!

 とうに深夜を通り越し、カーテンの隙間からはかすかな蒼色が垣間見える。もうあと一時間もしない内にやわらかな秋の日が昇るだろう。
 静寂の中で二人、ひしと抱き合い互いの温もりに包まれながら、幸せで心地好い眠りへと落ちていったのだった。



◇    ◇    ◇



 数日後――

 紫月は遼二に連れられて、彼の父親が経営しているというモデル事務所にやって来ていた。
 出迎えてくれたのは麗である。彼の息子の倫周も一緒だった。
「よう、二人共来たか! こないだは世話になったな」
「こんにちはー!」
 麗は相変わらず高飛車ともいえる堂々ぶりで、軽く片手を上げながらニッと口角を上げる。倫周もまた、人の好さ丸出しといった調子でにこやかに挨拶をしてよこした。
「こちらこそ皆さんには本当にお世話になりまして、ありがとうございました」
 遼二に軽く肩を抱かれながら、紫月もまた丁寧に頭を下げた。
「例の件、承諾してくれたんだってな?」
 今日は先日のボス役の時とは打って変わって、純白のシフォンのブラウスに白いテーパードパンツという妖精さながらの服を身に纏った麗がニヤッとしながら紫月に目配せをした。
「はい――。あの、とても有り難いお話をいただいて……。俺に務まるのか不安もあるんですが……皆さんの足を引っ張らないように精一杯やらせていただく所存です」
「ふ――、その点は心配するな。この俺がそれこそ手取り足取りで”実技交えて”教えてやるさ」
「あ……りがとうございます。よろしくお願いします!」
 緊張しているのか、深々と頭を垂れながら固めの表情でいる紫月に近寄ると、麗はポンポンとその肩を撫でた。
 こうして二人並ぶと、麗と紫月は実によく似ている。背格好もさることながら、美形の上に色香が垣間見える顔立ちといい、ふわふわとやわらかい天然癖毛ふうのミディアムショートといい、後ろ姿だけ見ればどちらがどちらか分からないほどだ。まあ、紫月の側にはまるで騎士のようにして遼二がぴったりと寄り添っているので、すぐに彼の方が紫月だと分かるくらいに印象が似ていた。
――すると、後方から突然声が掛かった。麗とも倫周とも違う、低めのバリトン――声だけで色気を感じさせられてしまうような男らしい美声だ。その主を目にするなり、紫月は『あ――ッ!』と小さな声を漏らしてしまった。
 そこには遼二を少し渋くしたような、彼とよく似た顔立ちの長身の男が深く静かな眼差しを讃えて佇んでいた。何の説明を受けずとも、きっと彼が遼二の父親なのだとすぐに分かってしまうくらいよく似ているのだ。
「よく来てくれた。先日はうちの麗が世話を掛けたな」
 にこやかに、そして穏やかに発せられる声はまさに余裕を感じさせる大人の男といった感じである。紫月は、しばしポカンとしながら遼二の父親と遼二本人とを交互に見やってしまった。
「一之宮紫月君だな。初めまして、遼二の父親の鐘崎僚一だ」
「あ……はいッ、初めまして! 一之宮紫月です!」
 ガバッと半身を折るほどに深々と頭を下げた紫月を見て、麗がクスクスと頼もしげに笑ってみせた。
「な、言ったろ? なかなかの男前だろうが」
 麗は絹糸のようなやわらかな髪を僚一の肩へともたれ掛けながら得意げだ。
「ああ、お前さんと遼二の見る目は確かというわけだな」
 僚一も嬉しそうにうなずいた。
「あの……! この度はたいへん有り難いお話をいただいて……その……」
 紫月がそう言って頭を下げると、遼二の父親は穏やかに微笑った。
「モデルの件、引き受けてくれるそうだな。うちは見ての通りの零細だが、仕事はクオリティのあるものを吟味しているつもりだ。小さなことでもじっくり話し合って、いい作品に出演してもらえるようにするんでよろしく頼むよ」
「あ……はい! ありがとうございます。ですが……その、本当に俺なんかでよろしいんでしょうか? 俺は今までゲイアダルトの仕事をしてきたもので……」
「ああ、聞いているよ。キミの作品も見せてもらった。とても素晴らしい感性をお持ちだと思う」
「あ……りがとうございます」
「遼二からも聞いているだろうが、キミがこれまでの仕事のことについて気に病む必要は全くないから安心して欲しい。それと、今後キミや麗の撮影をしてもらう写真家だが、顔馴染みの方がやり易かろうと思って氷川氏に依頼することにしたぜ」
 僚一がそう説明したちょうどその時だった。
「失礼します」
 現れたのは今まさに話に出たばかりの氷川だった。側には中津川も一緒だ。
「ヒカちゃん! 中津川さんも!」
 驚く紫月の横で、麗がニッと口角を上げながら頼もしげに笑ってみせた。
「俺もさぁ、この前氷川氏に撮ってもらって、彼の腕に惚れちまってな。どうせならこれからの仕事を彼らと組んでやっていけたらって思ったんだよ」
「麗が是非にと言うんで氷川さんにご無理を申し上げたというわけだが、有り難いことにご快諾いただけた」
 僚一も嬉しそうにうなずけば、
「こちらこそ光栄なお話をいただいて――恐縮です」
 氷川もそう言って頭を下げる。
「しかし驚きました。遼二の親父さんがまさかこのような事務所を開いていらしたとは」
「だよな。遼二ったら今日までこのかた、そんなこと一言も言わねえんですから」
 氷川も中津川もほとほと驚き顔だ。
「紫月とは馴染みですし、レイ・ヒイラギさんとも先日の撮影で素晴らしい演技に触れさせていただきました。私共もより一層いいモンが撮れるようにがんばりますんで、どうぞよろしくお願い致します」
 氷川は僚一と麗に向かって今一度丁寧に頭を下げると、そのまま遼二と紫月の二人に向き直ってから付け加えた。
「紫月も今までとは毛色の違う仕事だろうが、お前さんならすぐにも慣れるだろうからな。今まで以上によろしく頼むぜ!」
「ええ。俺もヒカちゃんたちに撮ってもらえるなんて、すげえ心強いっす!」
「ん――。それから遼二もな。これからはアシスタントとしては勿論だが――いずれはお前がメインで撮影できるようにがんばってもらわねえと!」
「はい! いい師匠と先輩の下で俺は本当に幸せモンです! これからも精一杯精進する所存ですんで、どうぞよろしくご指導ください!」
「おう、了解だぜ! 俺の方こそ末永くよろしくな!」
 氷川と遼二、紫月が気合いを見せる傍らで、僚一に麗、倫周、そして中津川もうれしそうに微笑んだ。そんな一同を秋のやわらかな日射しがやさしく包み込んだのだった。



◇    ◇    ◇



 それから数日後、紫月の事務所入りとモデル登録も無事に済んだ頃――。遼二の住まうアパートメントでは部屋の改装作業で朝早くから賑わいをみせていた。集まったメンバーは遼二に紫月、僚一に麗、それに倫周も一緒だ。
 遼二の部屋のすぐ下の二階部分は、これまで物置として放置状態だったわけだが、そこをリノベーションし、紫月用の社員寮にすることになったのだ。それもこれも息子の遼二と紫月の仲を知った僚一からの大いなる愛情のこもった計らいだった。
「部屋の造りは上の階の遼二の所と同様でいいだろう。新たにユニットバスと洗面所にトイレ、それに簡易キッチンもな。壁紙も貼り替えた方がいいな。電気の配線なんかは紫月の使いやすいよう位置の希望があったら遠慮なく言ってくれ」
 僚一の指示でリフォーム業者との打ち合わせが詰められていく。
「へえ、いいなぁ。まさに新婚生活じゃねえか。俺もちょくちょく泊りに来させてもらおっかなぁ」
 麗が羨ましそうにそんなことを口にする。
「何言ってんの、麗ちゃん! お邪魔虫は無粋ってもんだろー?」
 倫周がケラケラと笑いながら釘を刺せば、
「お邪魔虫ってなぁ、言い方!」
「はいはい、分かってますって!」
 相変わらずにくだらなくも信頼感あふれる親子の言い合いが朗らかだ。遼二も紫月もそんな二人を横目に、クスッと目配せをしながら微笑み合うのだった。
「紫月さん、家具は午後からでも一緒に見に行きましょう。冷蔵庫とダイニングテーブルに椅子なんかは新調しましょう。電子レンジとかも必要だな」
「ん、さんきゅな。俺ン部屋から持って来られるもんもあるし、足りないのは追々買い足せばいいしさ」
「そうですね。あー、そうだ。ベッドは――必要ないッスよね? 俺の部屋の、十分デカいですし」
 少々照れ臭そうに遼二が頬を染める脇から、麗がニュッと二人の間に割って入った。
「マセたこと抜かしてんじゃねえ。なあ、おい紫月! 一応ベッドは買い揃えてもらった方がいいぞ。何なら就職祝いってことで俺が買ってやるわ。痴話喧嘩した時に寝るトコがないんじゃ困るだろ?」
 麗はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべてそう提言する。
「失礼だな、麗さん! 俺らは痴話喧嘩なんかしませんよ!」
 ふてくされる遼二の様子がまるで子供のようで、紫月はプッと噴き出しそうになってしまった。
「あー、でも……そうッスね。俺、今までは床に布団の直敷きだったし、一応ベッドは買おうかな」
「ええ!? 紫月さんまでそんな……!」
「いいじゃん。親父さんやレイさん、倫周さんが泊りに来てくれる時とかさ、必要だろ?」
 そう言った紫月に、麗は上機嫌で彼の首筋に腕を回して抱き付いた。
「さすが紫月、俺の後継者だけあってよく分かってるじゃねえか! 遼二もなぁ、ちったー紫月を見習えよー?」
「はぁ!? 何言ってんスか、あんたは!」
 今度は麗と遼二の間で”くだらない”戯れが始まっている。
「それよりさ、引っ越しの日には氷川さんや中津川さんもお手伝いに来てくれるそうだよ。もちろん僕らも!」
 倫周がそうまとめたところで、業者との打ち合わせを終えた僚一が皆のところへ戻って来た。
「お! そろそろいい時間だな。これから皆で昼飯に出掛けるとするか」
「いいねー! 俺さぁ、今日はイタリアンな気分かなぁ」
「麗ちゃんは相変わらずパスタ党だよねー」
「お洒落な俺様にぴったしだろうが?」
「ふふ、お洒落とか自分で言っちゃうところが――ね?」
「おいこら、倫周! 言い方!」
「はいはーい!」
 たわいもない明るい笑い声に包まれる中、遼二と紫月はこの穏やかで温かい輪の中で共に居られる幸せを噛み締めていた。

「な、遼二――」
「はい?」
「ありがとな。俺、まさかこんな日が来るとは思ってもみなかった……」
「紫月さん――」
「じいちゃん亡くして独りになって、その日その日に流されるように……特に目標も夢もねえままやってきたけど……。お前に出会えて、親父さんやレイさん、倫周さんのようなあったけえ人たちにも出会えて……マジ幸せ。ホントに俺……」

 まるで新しい家族ができたみたいだ――!

「俺も――です。紫月さんを好きになって、でも到底手の届かねえ高嶺の花だって諦めてて……。まさかこんな日が来るなんて夢のようです」
「――ん、俺も」
「俺、これから写真の方も一生懸命やります。今まで以上に努力して、いつか紫月さんを撮らせてもらえるように――氷川さんや中津川さんに負けないようないい写真が撮れるようにがんばるつもりです」
「ん、俺もいいモデルになれるようがんばるよ。お前に撮ってもらうにふさわしい――いいモデルになれるように」
「はい――。はい! 俺も紫月さんに置いてかれねえようにがんばります」
 そう、互いに夢に向かって切磋琢磨し、努力を惜しまず精進し、いつでも横を見ればそこに互いがいる幸せを噛み締める。
「遼二――」
「はい」
「俺はずっと――この先ずっと……」

 お前だけのモデルだから!

 その言葉に代えてとびきりの笑顔ではにかんだ紫月の手を取り、遼二はやさしく、そして力強く握り締めたのだった。

- FIN -

次オマケ小話、「氷川と中津川の昼飯トーク」です。



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