番格恋事情 番外編
「なぁ、白夜さぁ――」
「あ?」
怒濤の香港滞在から帰国して数日後――氷川白夜は風呂上がりの冷たい麦茶を片手に、自室のソファで寛いでいた。隣には最愛の恋人、雪吹冰が座っている。
夏真っ盛りの夕べ、エアコンの効いた快適な空間で、まったりとした睦まじいひと時も悪くはないなどと心地好い気分に浸っていたのだが――それも束の間、次の瞬間の恋人のひと言で急転直下と相成った。
「あのさ……訊いてい?」
「ん? 何だよ、改まって」
「――こないだ香港に行った時、美友さんって女性の胸を……触った……っていうか、揉んだとかって聞いたけど……それってホントなのか?」
冰の問い掛けに、氷川は飲みかけた麦茶を噴きそうになった。
「……ッ、ぶはっ……」
焦って咳き込み、咄嗟には返答も儘ならない。そんな氷川を横目に、冰は溜め息まじりの冷笑と共に肩を竦めてみせた。
「やっぱホントなんだ」
「や……違ッ! ……て、違わねえけど……ホントっつか、ンなことしてねっつか……!」
「――ンだよ。どっちなんだよ。したの? してねえの?」
「や、えっと……してねえ……ことはねえけど――つか、おま……何で……ンなこと知って……」
ガラにもなく氷川はしどろもどろにさせられてしまった。
香港でチンピラたちから逃げ出す際、確かに美友という女の胸を揉んだことは認めざるを得ない事実だ。だが、それはあくまでもあの窮地を脱する為の作戦であって、決して邪な下心などがあったわけじゃない。それより何より、その事実を知っているのはあの場にいた自分自身と一之宮紫月だけだし、他には誰も知らないはずだ。まさか紫月が冰にわざわざチクるわけもなかろうと、氷川は困惑していた。
(まさかな――一之宮の野郎がバラしたとか? いや、有り得ねえだろ)
紫月は冰と仲も良く、彼の父親が開いている道場に通うようになってから、殊更に親交を深めつつあるのは確かだ。その上、紫月にも同性の恋人である鐘崎遼二がいるわけで、何かと話も合うし、一緒に居て心地がいいのだろう。しかも紫月も冰も”抱かれる側の立場”というのもあり、妙に気が合っているらしい。近頃では二人でコソコソと内緒話のようなことをしながらキャッキャと茶をしたりと、まるで女子会のような二人の様子を目にすることも少なくはない。
かくいう氷川も、紫月の恋人である鐘崎と共に、”抱く側”同士として男の友情を深めつつある。近頃では四人でいるのが楽しくて、ダブルデートのような状況を心地好く思っているのも確かだった。
それにしても紫月が冰にわざわざそんなことを教えるだろうか。彼だってあの時の状況はよくよく把握しているだろうし、興味本位で女の胸を揉んだわけじゃないということくらい承知だろう。紫月の性格からしても、冰にいちいち暴露するなど、そんな意地の悪いようなことをするとも思えない。だが、ではどこでそんなことを聞き付けてきたというのだろう――氷川は弁明も言い訳もできないままで、唖然としたように目の前の恋人を見つめながら硬直してしまった。
「その様子じゃ、やっぱホントに揉んだんだな、美友さんの胸……」
「や……その、まあ……揉んだには違い……ねえけど……な?」
氷川はタジタジとしながら上目遣いで冰を見上げた。
「つかよ……お前、どこで……ンなこと聞いてきたわけ?」
「ん、道場で」
「……! てことは、やっぱ一之宮がお前にチクったってわけか!?」
「違うよ」
「違うって……。んじゃ、誰から聞いたんだよ」
「師匠がさ、話してんのが聞こえちゃって……」
「師匠だ!?」
師匠というのは一之宮道場の師範である、いわば紫月の父親だ。氷川も冰も道場に通うようになってからそう呼んでいるのだ。
「昨日、稽古の後でシャワー室から出てきたらさ。師匠が電話で話してんのが聞こえたんだ。多分、相手は鐘崎君のお父さんだと思う。日本に帰って来る日程がどうとかって話してたから」
紫月の父親と鐘崎の父親は相思相愛の恋人同士だ。知り合ったのはかれこれ十数年前だが、仕事や育児の関係で二人は香港と日本の地で離れて暮らすことを選んだということだった。その鐘崎の父親が永き準備を経て、紫月の父親の待つ日本へと帰ってくる決意を固めたというのだ。
彼らの関係を知った時は酷く驚いたものだが、氷川にとっても冰にとっても、今や鐘崎と紫月、そして二人の父親たちとも親交が深まりつつあり、近しく大切に思える間柄に違いはない。同性同士で愛し合っているという点からしても、大先輩といえる父親たちの恋愛を応援したいと、素直にそう思っているのだ。
それはいいとして、なぜそこから”美友の胸を揉んだの何だの”という話向きになるわけだろう。経緯がさっぱり掴めずに、氷川はますます困惑させられてしまった。
「何かさ、鐘崎君のお父さんが白夜のことをすごく褒めてたらしくてさ」
「はぁ? 俺を……? 何でまた――」
「鐘崎君のお父さんって、白夜たちが例の取引現場に連れて行かれた時には、もう既にあの倉庫に潜んでいたっていうじゃない? それで、しばらくはすぐに助けないで、紫月君と白夜がどう行動するかを見守ってたようなんだけど――」
そうなのだ。鐘崎の父親は、窮地に陥った子供たちが自らの手でどこまで対応できるかを見定める為に、敢えて手出ししないで静観していたというのだ。無論、本当に危なくなったらすぐにも助け船を出すつもりでいたらしいのだが、それも彼なりの親心といったところだったようだ。
「それでさ、あの時の白夜の行動が的確で大したもんだって思ったらしくてさ。知恵と行動力が素晴らしいっていうような話をしてたようなんだよね」
そんな会話の中で氷川が美友の胸を揉んだ話も出てきたのだろう。それを偶然にも冰が聞いてしまったということらしい。
まあ、不可抗力とはいえ、氷川はガックリと肩を落として落胆させられてしまった。
「……ったく、師匠もいらぬことを言ってくれたもんだよなぁ……」
ついつい愚痴もこぼれる。
あまりにも落ち込んだ様子の氷川が可笑しく思えたのか、あるいは気の毒に思えたわけか――冰はクスッと笑うと、悪戯そうに隣の氷川の顔を覗き込んだ。
「ンな、落ち込むなって! 俺、怒ってるとか、そういうわけじゃ全然ねえし」
朗らかに言う冰を、氷川は上目遣いでチラリと見やった。
「――マジ?」
「ああ、マジ! 美友さんの胸を揉んだってのは作戦だったわけだし、やっぱ白夜って頼りがいあるってか、すげえなって素直に思っただけだし!」
「マジかよ……」
「ん! たださ……」
「ただ――何……?」
「んー……別に比べても仕方ねえことだってのは分かってっけど……。ちょっと心配つか、ホントに……俺でいいのかって思っただけ」
氷川は冰と付き合う前はそれなりに女性とも関係があったわけだし、特にはゲイというわけでもなかった。冰が特別なのであって、男性にしか興味がないというわけではないのだ。
冰にしてみればそのあたりが気になるところなのだろう。もしも氷川がやっぱり女性の方がいいと言い出したらどうしようなどという思いがチラりと脳裏を過ぎったようだった。
冰の何ともいえない複雑な表情からそんな思いを見て取った氷川は、あまりの可愛らしい一面に、フッと笑みがこぼれるのをとめられなかった。
「もしかして――妬いたってか?」
今度は氷川が少々悪戯そうに口角を上げて冰を覗き込む。
「はぁ!? 誰が……! 妬いて……なんか……ねえって……」
瞬時に頬を真っ赤にしながらも、語尾に行くほど弱々しい口調になる冰を、氷川はむんずと抱き締めた。
「たまんね! 可愛すぎ! お前」
「ちょ……っ、白夜……!」
「いんだよ。お前にゃ、でけえ乳よかもっと萌える乳首があるしさ」
「はぁ……!? ち、ち……ちく……」
恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言う氷川に、冰は口をパクパクさせながら茹で蛸状態だ。
「――な、吸ってい?」
「えッ!?」
「お前のカワイイ乳首――」
言うや否や、スッとシャツを捲し上げ、親指の腹で突起を弄られて、冰は「ひッ……!」と、声にならない叫び声を上げてしまった。
「ちょ……ッ、白……! 白夜……!」
「ん――? もうそんなかよ?」
「あ……! ちょ……ッ、待っ……ヤ……っ」
「ちょっと触っただけで、もうこんなプックリ」
氷川はまたも恥ずかしい台詞をわざと吐きながら、慌てふためく冰を一瞬でソファへと組み敷いてしまった。そして捲し上げたシャツの中へと頭ごと突っ込んで、今度は指に替えて舌先で突起を絡め取る。
「……ッ! ……は! 白……ッ」
「ん――、マジ可愛い乳首だぜ! 感度は抜群! そんでもって、めちゃくちゃやーらしいチ・ク・ビ! な、冰たん?」
「……なっ……! ンだよ、それ……! 冰たんとか……そんな呼び方、恥ずかしいからよしてくれって……あッ……!」
「んー、よさねえ。妙にお前に合ってて可愛らしいから気に入った、この呼び方!」
クスクスと人の悪い笑みを浮かべながら、氷川は楽しげだ。
「……ッあー……、もう……! よせって……のに……!」
快楽と羞恥と、両方の波に押し流されそうになりながら頬を染める恋人を組み敷きながら、氷川は笑った。
「んじゃ、よしてやってもいいぜ? そん代わり――ベッド行くか!」
そんな台詞と同時に下肢に特有の硬い感覚を押し付けられて、冰の真っ赤な頬はますます熟れて落ちそうだ。
そのまま、氷川の逞しい腕に姫抱きされてベッドへと連れ込まれた冰は、一晩中といっていいくらいの長い時間をかけて、野生の獣のような恋人に昇天寸前まで愛されまくったのだった。
その翌日のこと――一之宮家の道場で稽古を終えた氷川は、縁側に腰を下ろしながらポツリと呟いた。
「んー、可愛いと思うんだけどな、冰たん――ってよ」
だが、冰は本気で嫌がっているようである。今まで通り呼び捨てでいいと、あの後も散々に念押しされたのだ。氷川にしてみれば、そんな冰の困った顔を見るのもある意味オツだと思うわけだが、あまりからかい過ぎても気の毒かも知れない。
可愛らしいあだ名呼びは諦めるとして、氷川にとっては収穫がなかったわけじゃない。思い掛けず恋人の嫉妬心を垣間見ることができて、しかもそれをきっかけに熱く濃厚で大満足の一夜を過ごすことができたわけだ。
「冰たんはダメでも、瓢箪から駒――なーんつってな」
自分でも上手いことを言ったと思うわけか、上機嫌でしばらくニヤケ顔がとまらない氷川であった。
- FIN -