番格恋事情 番外編
一之宮飛燕が夕飯の買い物を済ませて帰宅した時だった。道場の門前で恋人の鐘崎僚一が誰かと話し込んでいるのに気が付いて、不思議顔で首を傾げた。見れば、相手はお隣に住む神山という老人のようである。
「僚一とカンさん……?」
しかも、やけに親しげだ。
僚一とは十数年の遠距離恋愛を経て、つい先日、晴れて一緒に暮らせることになったばかりである。香港での生活が長かった僚一がご近所さんと立ち話など、何だかひどく不思議な光景に思えて、声を掛けるのを忘れてしまったくらいだった。
「おや、ご師範。今、お帰りかね?」
老人の方が先にこちらに気付いたようで、にこやかにそう言った。
「飛燕、ご苦労だったな」
すぐに僚一も買い物袋を持ってくれようと、手を差し出しながら出迎える。
「じゃあカンさん、またな」
「ああ、僚さん、それにご師範も――おやすみなさい」
手を振りながら自宅へと入って行くカンさんを見送る。まるで古くからの知り合いのように言葉を交わす彼らを見つめながら、飛燕はほとほと感心したように目を丸くしてしまったのだった。
◇ ◇ ◇
「今日の晩飯は何だ?」
キッチンのテーブルで袋の中身を物色しながら僚一が呑気な声を出す。
「あ、ああ……今夜はハンバーグにしようと思うんだが……」
「そりゃ、いいわ。ボウズ共の好物だしな。俺も支度を手伝うぜ!」
軽快な調子でウィンクまで飛ばす僚一を、ポカンと口を開けたまま見つめてしまった。しばしそのまま、ボケーッと突っ立っていたというわけか、僚一が不思議そうにしながら顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「え……!? あ、ああ……いや、何でもねえ。ただ、お前がお隣さんと話し込んでるなんてよ、ちょっと驚きだったっつーか……。まだ日本に来て数日なのに、随分とまた親しくなったもんだなって感心しちまって」
素直に打ち明けると、僚一は「ああ、そんなことか」と言って朗らかに笑ってみせた。
「実はな、カンさんとは前々からの知り合いなんだよ」
「――! そうなのか?」
だが、いったいどういう繋がりがあったというのだろう。カンさんこと神山老人は、十数年前に隣に引っ越して来た男やもめだ。人の好い物静かな性質だが、昔懐かしいと言っては、たまに飛燕の開いている道場を見学に訪れたりしてくれている付き合いだ。カンさん自身も若かりし頃は武術を嗜んでいたらしい。
「確か――お前と初めて会った頃……っていうか、お前の怪我が完治して香港に帰ったすぐ後だったかな、カンさんが引っ越して来られたのは――」
そうなのだ。僚一と飛燕が出会ったのは、僚一の怪我がきっかけだったわけだが、治癒するまでの約三ヶ月をこの道場で一緒に暮らした。その間に運命的な恋に落ち、人生を共にしたいとまで思ったのだが、それぞれの事情で断念せざるを得なかった。香港に帰ってしまう僚一を見送った日の別れ難い苦しい想いは、今でもはっきりと飛燕の脳裏に焼き付いていたから、当時のことはよくよく覚えているのだった。カンさんが空き家だった隣の家に引っ越して来たのは、まさにその直後のことだった。少なからず傷心の思いでいた飛燕にとって、穏やかな隣人との触れ合いがどれほど癒しになったことだろう。そういった意味でもカンさんの存在はとても大きかったのだ。
「けど――どんな知り合いだったんだ?」
あれから十数年、カンさんからは僚一と知り合いだというような話を聞いたこともないし、もはや不思議を通り越して謎なくらいだ。そんな思いが表情に出ていたというのだろうか、僚一が可笑しそうにクスッと笑いながら言った。
「実はな、飛燕――。カンさんはお前の護衛がてら、俺が頼んでこの家の隣に越して来てもらった御仁なんだ」
飛燕はめっぽう驚かされてしまった。
「カンさんだけじゃねんだぜ? カンさんとは反対方向の二軒隣――」
「ああ、立原さんのことか?」
「そう、その立原君」
彼は独身で、年齢は飛燕たちより少し下といったところだろうか。確か、在宅で個人事業を立ち上げているとかいう男性だ。朝のゴミ出しや回覧板等、町内会の付き合いで顔見知り程度だが、会えば穏やかな笑顔を見せてくれる感じのいい好青年である。
「それに斜向かいの老夫婦――」
「斜向かい……っていうと、高杉さんか?」
「そうだ。立原君も高杉夫妻もカンさん同様、俺の知り合い――」
「はぁッ!? それって……いったい……」
もはや頭がこんがらがりそうだ。大きな瞳を更に大きく見開いたまま唖然とする飛燕を横目に、僚一は若干バツの悪そうに苦笑いをしてみせた。
「黙っていて悪かったが――お前を一人残して香港に帰らなきゃならねえのがどうしても心配でな。彼らは皆、俺の同業者なんだ」
「同業者って……」
つまりは裏社会に身を置く面々だったということか。
「カンさんと――それに高杉のじいさんとばあさんは、あの頃ちょうど現役を引退したばかりでな。俺が事情を話したら、ここに住むことを快く引き受けてくれたんだ。立原も――何処に住んでも仕事に支障はねえってんで、好意に甘えることにした。彼は若いし、腕も達つ。万が一、何かあった時には頼りになると思ってな」
つまり、僚一は十数年前に飛燕と離れて香港に帰った後、自らに代わって飛燕と幼子の紫月、そしてこの道場を密かに見守る為に彼らを近所に住まわせたということらしい。
飛燕は心底驚いた。
「本当なら俺がお前の側に居たかったが、あの時はそれが叶わなかった。だが、俺を助けて怪我の手当てをしてくれたお前を、当時の敵対組織が突き止めないとも限らない。お前に何かあっても、すぐには駆け付けてやれない。だから彼らに代わりを頼んだんだ。俺に代わってお前と紫月を見守って欲しいと。ずっと黙っていてすまなかったが――」
苦肉の策ではあるが、今更ながらに離れて暮らさざるを得なかったことを悔いるように頭を下げた僚一に、飛燕は思わず涙腺が緩んでしまうのを抑えられなかった。無意識の内にポロポロと止めどなく涙がこぼれ落ちる。
「……っと、すまねえ。何つーか、感動しちまって……っつーか……。お前がそんなにまで……俺らのこと」
衣服の袖でワシャっと涙を拭いながら、泣いてしまったことが恥ずかしいのか照れ臭そうにする飛燕を見つめ、僚一は大きな掌でその髪をやさしく撫でた。
「バッカ、泣くやつがあるか」
「ん、すまねえ……」
こんなにも深い心で、ずっと僚一は自分たちのことを気に掛けていてくれたのだ。もはや嬉しいなどという言葉では言い表せない程に、飛燕は感動に打ち震えてやまなかった。
「……ッ……のさ、好きだぜ、僚一……お前ンこと……俺、すげえ……好……ッ」
「ああ、俺もだ。もう二度とお前を放しゃしねえよ……!」
「――ん、ん! 俺、本当に……この世の誰よりも幸せ者だ……!」
あふれる愛しさのままにヒシと寄り添う二人を、秋のやわらかなつるべ落としの陽が包み込んでいた。
◇ ◇ ◇
その後、二人で作ったハンバーグの夕食を帰宅した息子たちと共に味わった。家族四人で囲む食卓はワイのワイのと賑やかで、幸せに満ち満ちている。十数年の月日、こんなひと時をどれほど夢に描いたことだろうか。僚一も飛燕も、そして無論のこと息子である遼二と紫月も同様であろう、幸せに流れるこの時間を大切に感じていたのだった。
「お! 誰か来た?」
玄関の呼び鈴の音に、紫月が身軽に席を立って出迎える。
「こんばんはー。お邪魔致します」
食事が終わる頃合いを見計らったようにして、源次郎が訪ねて来た。食後のデザートにと、秋の新物である栗を使ったケーキを焼いてきてくれたというのだ。甘い物に目がない紫月は両手放しで喜び、源次郎を含めて五人賑やかにティータイムと相成ったのだった。
飛燕と紫月の自宅であるこの道場と、転入後に遼二が住んでいた例の立体映像が映し出される地下室があるマンション――どちらに住まおうかと家族間で談義した結果、結局は皆で一緒に道場に住むこととなった。まあ、僚一は既に一生涯の生活に困らないだけの蓄えがあるし、仕事らしきも当面はない。だが、飛燕は道場を畳むわけにはいかないし、それなら皆で飛燕を手伝いながら道場で暮らすのが良かろうということになったわけだ。
そんな経緯だったが、僚一と遼二が道場で暮らすようになってからも、源次郎らは変わらずに例の地下室がある僚一所有のマンションに住んでいた。無論、これまで遼二のドデカい中華弁当を作ってくれていた料理人をはじめとする家令たちも一緒である。そちらの住まいには、遼二と紫月がたまに泊まりに行ったりもしたいらしいし、何より学園へ持って行く弁当も変わらずに料理人が作ってくれている。ただ、今までのように付きっきりで遼二の世話を焼くという必要がなくなってしまったのも事実で、源次郎らにしてみれば仕事もせずに報酬だけを受けるのは居たたまれない感があるのだろう。だから何かにつけて、様々こうして気に掛けてくれるわけなのだ。
まあ、僚一にしてみれば、源次郎や家令の皆は既に家族のような感覚でいるし、彼らがそれでいいというのならこの地で共に生きていきたいという思いがある。家令たちの方も、誰一人ここを辞めて出て行きたいなどと言い出す者もいなかった。
「すまないな、源さん。いろいろ気を遣わせちまって」
僚一が労えば、源次郎はとんでもないといったように首を振っては頭を下げた。
「私共の方こそ、変わらずにお邸でお世話になってしまって恐縮な限りです。……差し出がましいかとも思うのですが、料理人たちも皆様に少しでも喜んでいただければと常々申しているんですよ」
確かにこれまで腕に撚りをかけていた御三どんすらなくなってしまったわけだから、彼らにとっては手持ち無沙汰という思いもあるのだろう。少しでも役に立ちたいという彼らなりの心遣いなのだ。
そんな思いを汲んでか、僚一が、とある提案を口にした。
「そうだ。じゃあ、週末に飯会でもするか! 白夜と冰や、それに奴らのところの執事の真田さんだったか? 彼らにも声を掛けて、うちの自慢の中華料理を振る舞うってのはどうだ?」
「親父にしちゃ気の利いた提案じゃねえか。それじゃ、粟津たちも呼ぼうか。なぁ、紫月?」
「お! いいね! つか、またあの旨え中華料理を食えると思うと超嬉しいんですけど――!」
遼二も乗り気で、紫月も『バンザーイ!』と両手を上げて喜ぶ。すると、続いて飛燕がこう付け加えた。
「それじゃ、ご近所のカンさんや立原君、高杉さんご夫妻にも来ていただければ嬉しいな」
その言葉に息を呑んだのは僚一である。驚きつつも、思わず瞳を細めてしまった程だった。飛燕のこうした細やかであたたかい気配りが、心から嬉しく思えたからだ。しかもそれが作り物ではなく、当たり前のように出る自然さが堪らなく愛しいのだ。
先の香港で紫月が范美友に見せたやさしい気遣いにも感心したものだが、彼のそういった性質は、やはりこの飛燕のものを受け継いだのだろうと思えて、胸に熱いものがこみ上げる。そんな気持ちのままに、僚一は元気な声で言った。
「そうだな、カンさんたちも喜んでくれるだろう。じゃ、今週末は皆んなで宴会だ! 源さん、メニューは任せたぜ!」
「かしこまりました! 料理人たちも大喜びで張り切りますですよ!」
「そうと決まれば、早速氷川たちに電話すっか! な、遼……、剛と京も呼んでい?」
「勿論だぜ! よし、それじゃ俺は粟津に架けるとするか」
紫月と遼二がスマートフォンを片手に、仲睦まじく顔を付き合わせている。
源次郎のはつらつとした笑顔、息子たちの手放しで浮かれる仕草、そして片や頼り甲斐があり、片や穏やかで心根のあたたかい恋人のやさしい微笑み――。
愛しい者たちに囲まれながら、僚一と飛燕は今この時の幸せな現実を噛み締め合う、そんな秋の晩だった。
- FIN -