番格恋事情
次の日、陽が高くなる頃に遅めのブランチで顔を合わせた一同は、夏休みの旅行がてらということで香港の街を観光して歩くことになった。
鐘崎と紫月、氷川に冰、それに綾乃木に帝斗の六人は、氷川の父親が経営しているという貿易会社の香港支社を訪ね、その後は観光地巡りをして過ごすことにする。現地の案内役として、僚一が車の用意から途中のティータイムや食事の場所なども手配し、飛燕は無論のこと、源次郎らも同行して回った。
「バリやセイシェルもいいが、香港観光もオツだわな」
「そうだね。どうせ皆で旅行するつもりだったものね」
氷川も帝斗も楽しげで、
「俺は白夜のご両親にもお会いできたのがすごく嬉しかったよ」
冰も大層喜んで、皆は充実したバカンス気分を味わったのだった。
范美友が父親と共に謝罪にやってきたのは、その次の日のことだった。
「鐘崎様、この度は娘がとんだご無礼を致しまして……誠に申し訳ございません」
父親が平身低頭で謝り、美友も続いて頭を下げた。
「紫月、遼二、そして氷川――、本当にごめんなさい」
言葉数は少ないが、美友はその場で膝をついて目一杯頭を下げながら謝罪した。その姿に、紫月が慌てて彼女の側へと駆け寄った。
「美友……よせって! 傷が開いちまう!」
紫月には、彼女が土下座までして謝る姿に驚いたというのもあったが、それ以前に膝を折ったその体勢を見て慌てて駆け寄ったのだ。彼女は先日転んだ際に膝に怪我を負っている。それが何より気になったわけだ。
「あんたの気持ちは分かった! もうほんとに分かったから、頭を上げてくれ!」
ハラハラと怪我の様子を心底気に掛ける。彼女の腕を取って立たせようとする紫月に、僚一を始め、源次郎、そして氷川ら周囲の者たちは、感動の眼差しでその様子を見守っていた。
だが、いつまでたっても立ち上がろうとしない美友に、紫月は困ったようにして鐘崎に助け船を求めた。
「な、遼――」
(お前からも言ってやってくれ。もう怒ってねえって。頼むよ、遼――!)
そんな紫月の気持ちが伝わったのか、鐘崎はゆっくりと美友の前に歩み出ると、そっと手を差し伸べた。
「遼二……」
美友は驚いたようにして瞳を見開き、ようやくと顔を上げた。その頬には大粒の涙の雫がボロリと零れ――。
「ごめんなさい……! 本当に……とんでもないことしてしまって……反省してるわ。本当にごめんなさい」
紫月はそんな彼女の肩に手を回して抱き起こし、鐘崎も美友の手を取って、二人で彼女を立ち上がらせた。その様子を見ていた彼女の父親が、
「鐘崎様、一之宮様、氷川様、皆様――本当に申し訳ございません。皆様のご厚情には何と申し上げても足りません。本当に……感謝致します」
深々と頭を下げながら、今一度、心からの謝罪を述べたのだった。
その後、范家のたっての希望で、皆に迷惑を掛けたお詫びにと、彼らの経営する高級ホテルで数日を過ごすこととなった。美友の父親である范氏からその意を聞かされた時はどうしたものかと迷ったのだが、彼らの気持ちも汲んで、結局厚意を受け入れることにしたのだ。
鐘崎と紫月は勿論のこと、氷川らや僚一に飛燕、そして源次郎ら側近の者たちまでが招かれて、ホテル最上階のワンフロアを貸し切りで接待を受けた。各部屋はすべて最上級のロイヤルスイートタイプで、ペントハウス専用のプールもあり、一同は思い掛けず水入らずの一時を満喫したのだった。
また、その間、僚一は息子の鐘崎遼二と共に永い間世話になった香港マフィアの頭領である煌氏の元を訪れ、裏稼業を離れて日本へ帰ることを告げた。
煌氏はいたく残念がったが、いずれ二人が故郷である日本に戻ることを予測していたようで、快く送り出してくれたのだった。
◇ ◇ ◇
そうして紫月らが香港を発つ日、美友が空港まで見送りにやって来た。
「美友! 来てくれたのか!」
その姿を見つけた紫月が喜んで彼女に駆け寄る。鐘崎と氷川はちょうど搭乗手続きの最中だったのでその場にいなかったが、冰や帝斗、綾乃木らは一緒だ。美友は今一度、皆に向かって深々と頭を下げた。
「な、美友――ちょうど良かった。今度あんたに会えたらさ、言おうと思ってたことがあって……」
紫月が少々照れつつも、頭を掻きながら言う。
「アタシに?」
「ああ、うん……。上手く言えっか分かんねえけど……」
紫月は思い切ったように深呼吸をすると、美友に向かってこう言った。
[俺と……友達になってくれないか?]
その言葉に美友は酷く驚いたようにして瞳を見開いた。内容は勿論のこと、紫月が広東語でそう言ったからだ。
「紫月……あなた……」
「あー、えっと……ちゃんと通じた? やっぱ、すげえ難しいな」
「ううん、とても上手よ。ちゃんと通じたわ」
「マジ!?」
「ええ。とっても嬉しいわ。アタシなんかでよければ……是非」
美友も感激の面持ちで頬を染める。
「そっか! 良かった! あ、それからもうひとつ!」
「もうひとつ?」
不思議顔で首を傾げた美友の前で姿勢を正すと、紫月はまたもや広東語で言った。
[キミの幸せを願ってる]
ひと言目よりもたどたどしい広東語だが、一生懸命にそう言った紫月に、美友は思わず瞳を細めた。
「紫月――ありがとう。ありがとう、本当に――」
「ん――。なんか下手くそでゴメン。これでも結構練習したんだけど……。けど、どうしてもあんたの国の言葉で伝えたくてさ。遼に教えてもらったんだ」
「遼二に?」
「ん――。けど、やっぱすげえ難しいや。こんだけ覚えるのがやっとだった」
恥ずかしそうに苦笑する紫月に、美友は感激の面持ちで微笑み返した。
「ね、紫月。じゃあ、アタシからもあなたに特別な言葉をひとつ教えるわ」
「特別な?」
「ええ。その代わり、この言葉は遼二以外に言ってはダメよ?」
「遼にだけ……?」
「そうよ。いい?」
「ん、分かった。遼にだけ言えばいんだな?」
一体どんな言葉なのだろう。期待と不思議が入り混じったような表情で首を傾げる紫月の様子が可笑しかったのか、彼女は少し悪戯そうに笑うと、意味ありげに耳元に唇を寄せながら言った。
「ウォーアイニー」
いきなり抱き付くようにしながらそう囁いた彼女に、紫月はポカンと不思議顔だ。
「ウォー……アイニー……? それってどういう意味なんだ?」
「ふふ。それは遼二に言えば分かるわ。きっとすごく喜ぶはずよ」
クスクスと美友は笑う。その笑顔は朗らかで、最初に会った時とは全く印象が違うくらい穏やかでやさしい表情だった。
きっと、美友も紫月に会い、彼の性質に触れたことで、踏ん切りが付いたのだろう。それと共に、遼二への想いもまた――少しずつだが形を変えるきっかけになり得たのかも知れない。
今の彼女には、焦れや嫉妬といった負の感情よりも、あたたかい友情の気持ちの方が勝るようになったのだろう。二人の様子を側で見ていた帝斗らにもそんなふうに思えたのだった。
「紫月、アタシも遼二とあなたの幸せを願ってるわ」
「美友――」
「だからちゃんと言うのよ? アタシが教えた言葉」
きっと遼二も同じ言葉を返してくれるはずだから――!
美友の朗らかな笑みに午後の日射しが差し込み、より一層美しく、やさしく輝いていた。
そこへ搭乗手続きを終えた鐘崎と氷川が戻って来た。
「よう! 待たせたな。ああ、お前も来てくれたのか」
美友に気付いた鐘崎は、彼女にも見送りを労うひと言を掛けると、
「さぁ、そろそろ時間だ。行くか」
紫月を伴って搭乗口へと向かった。紫月は後ろ髪を引かれるように振り返ると、
「美友、日本に来る時は連絡くれよな! 俺んちの道場を案内するからさ!」
そう言って、手を振った。
「ありがとう! 必ず連絡するわ。あなたたちも元気で……! 気を付けて帰ってね」
千切れんばかりに手を振り返しながら、とびきりの笑顔でそう叫ぶ彼女の頬に、幸せの涙の雫が一筋こぼれて伝った。そんな彼女の隣には、やさしげな表情で佇む鐘崎の父親である僚一の姿があった。僚一は皆と一緒に搭乗はせず、帰国の為の残務整理の為、一人香港に残ったのだ。
「よし、それじゃ帰ろうか。送っていくぞ」
「ええ。おじさま、ありがとう」
僚一を見上げた美友は、少しの寂しさと切なさを振り切るように晴れやかに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
機内では鐘崎と紫月が水入らずで手を繋ぎ合っていた。
氷川と冰は粟津家のプライベートジェットで帝斗らと共に帰ったので、今は二人きりだ。無論、源次郎ら側近の者たちは一緒ながらも、広い機内での居室は別々である。
「とんだ怒涛の日々だったが、これでひと段落だな。帰ったらしばらく二人でゆっくり過ごそう」
そう言って微笑んだ鐘崎に、紫月は先程美友から教わったばかりの言葉を思い出していた。
「な、……遼」
「ん? 何だ?」
「あのさ……」
半信半疑で深呼吸をし、思い切って投げ掛けてみる。
「ウォー……アイニー」
それを聞いた鐘崎が、驚いたようにして瞳を見開いた。
「紫月……お前……」
その反応に紫月はますます半信半疑で眉根を寄せる。やはり美友にちゃんとその言葉の意味を教わってから言うべきだったか。戸惑ったのも束の間、突如ガバッと抱き締められて、紫月は面食いそうになった。
「お前……ンなこと、言ってくれて……こんなトコで俺を発情させる気か?」
ギュウギュウと苦しいくらいの抱擁に、紫月は慌てた。
「えっと……遼……それってどういう……」
言葉の意味を訊く間もなく、鐘崎から口付けと共に発せられた言葉――。
「ああ、ああ……俺もだ。ウォーアイニー! もう一生離さねえから覚悟しろよ!」
「えっ……? ……って、遼……!」
「この機内にはちゃんとベッドルームもあるんだ。ンなこと聞いちまったら、帰るまで待てねえな」
そう言って笑った鐘崎に手を取られ、引き摺られるようにしてベッドへと連れ込まれた。
「な、遼……! ウォーアイニーっていったい……」
どういう意味なんだ?
だが、その答えを紫月が知るのは、川崎の自宅に着いてからになる。
機内で散々に鐘崎の抱擁を受けた紫月は、言葉の意味を考える余力もないくらいに愛されまくったのだった。
◇ ◇ ◇
「ウォーアイニーだ? ああ、そりゃ愛してるって意味だ。英語でいうところの”アイラブユー”ってな」
「えー、紫月ってば意味知らないで鐘崎君にそれ言ったのかよ?」
帰国後に氷川と冰からそう聞かされて、これまた散々に冷やかされた紫月だった。
「つーかさ、冰は知ってたのかよ?」
「ま、まあな。そのくらいは……」
「マジかよ……。なんか俺一人がパーみてえじゃん……。ああー、畜生! 俺も本格的に広東語習ってやる!」
焦れる紫月に、
「おー! そんじゃ、俺が手取り足取りティーチャーしてやっか?」
「え!? マジかよ! そんなら俺にも教えてくれよ!」
氷川と冰がじゃれながら笑い合う。
夏真っ盛り――、一之宮道場の縁側は今日も明るい笑い声に満ちあふれていた。
そして晩夏を告げる虫たちの声が賑やかになり始めた頃、香港での種々の手配を終えた鐘崎の父親・僚一が飛燕のもとへと帰国して来たのだった。
「さて、これからは家族四人水入らずで過ごせるぞ!」
意気揚々と言う僚一に、
「水入らずはいいけどよ……四人って……いったいどっちに住む気なんだよ」
鐘崎が呆れたように瞳を丸くする。
「どっちだっていいわな。ここもあっちも両方俺らの家だ」
「いや……どうせなら別っこに暮らさねえ? 親父たちはこっち。俺らはあっちで……いや、その逆でもいいけどよ」
カップル同士で暮らしたいふうな鐘崎に、紫月は全く反対のことを言ってのけた。
「や、一緒の方が便利じゃね? んだって、メシの支度とか面倒じゃん。四人でやった方が当番が少なくて済むし」
「紫月、お前なぁ……それじゃ、いろいろ不便だろうが。特に夜とか……」
思ったままがつい口に出てしまった鐘崎に、父親の僚一がすかさず頭を小突いた。
「くぉっら! ガキのくせにマセたこと抜かしてんじゃねえ」
「はぁ!? 俺は親父たちのことを思ってだな……」
普段はクールな印象の強い鐘崎のやんちゃぶりにドッと笑いが湧き起こり――
そんな一同の頭上にはやわらかな初秋の陽射しが降り注いでいた。
◇ ◇ ◇
そして高校最後の夏休みも明けた九月初旬――
四天学園の鐘崎と紫月ら、桃陵学園の氷川、白帝学園の帝斗らがそれぞれの級友や後輩たちを伴って埠頭の倉庫街に顔を揃えた。紫月らの一学年下である徳永や、氷川の後継といわれる春日野らの姿もある。また、部外者ではあるが、隣の市の楼蘭学園からは冰も顔を見せていた。
「よく集まってくれた。今日ここで皆に伝えたいことがある」
一同を代表して氷川の掛け声が響き渡る。それを受けて、今度は紫月が、
「永きに渡った桃陵と四天の因縁関係は、今日この場限りをもって終焉とする。これからは互いを尊重しつつ、手を取り合って有意義な学園生活を満喫する――ってことでどうだ?」
氷川からバトンタッチするようにそう言うと、倉庫内に割れんばかりの歓声が響き渡った。
「マジ!? そんじゃ、これからは四天の奴らと街で鉢合わせても気張らなくていいってことだな?」
「うっひゃー! これで肩の荷が下りるぜ!」
桃陵の連中がそう言えば、
「ああ、俺らも同じ! これからはビクビクしねえで街歩ける! ……ってかー?」
四天の学生らもおおらかに伸びをしながらそう言っては、豪快に笑い合った。
「頭同士が和解してくれるってのは有り難えなぁ!」
「けどまあ……永え伝統がなくなっちまうってのは、ちっと寂しい気もすんな」
「ま、いいじゃねえの! 俺ら、今日から仲間だな?」
四天も桃陵も入り混じって肩を抱き合う。
かつて、クラスメートが拉致された際に、たった一人ですぐさま助けに向かった紫月。
同じように、カツアゲや使いっ走りにされて困っていた級友の為に身を投げ出して敵対グループを阻止した氷川。
そんな彼らだからこそ、”頭”として崇められてきたのだろう。その頭同士が手を取り合っていこうと宣言したのだ。誰しもが快くそれを受け入れ、新しい仲間が増えることに心躍る気持ちで、その表情は皆晴れやかだった。
無論、両校の後輩である春日野や徳永も違わずで――。
「俺らの代になっても、この新しい伝統を守っていこうな」
「ああ――そうだな」
そっと肩を寄せ合った二人を鐘崎、紫月、そして氷川と冰の先輩カップルたちが微笑ましそうに見守っていた。
「はぁん? あの二人、やっぱり思った通りだったな」
春日野らを見つめながら、氷川がニヤッと口角を上げて意味ありげに言うと、
「思った通りって……?」
冰が不思議そうに首を傾げる。
「前に俺が怪我した時、春日野ン家の医院で世話になったろ? そん時にちょうどあの徳永って奴に鉢合わせてな。奴ら、家が隣同士で幼馴染みだとかって言ってたんだが、えらく心配そうに春日野のことを気に掛けてたんだ。俺と一緒に諍いに巻き込まれたと思ったらしくてよ」
その時の徳永の様子が、単に幼馴染みを気に掛けただけではなく、もっと特別な感情があるのではないかと感じたのだと氷川は言った。すると、その横から鐘崎も似たようなことを口にした。
「そういやあの徳永って下級生、前に紫月のところに来てたな。ヤツの想い人ってのはやっぱり男だったってわけか」
そういえばそんなことがあったっけ。鐘崎と紫月の関係に、しつこいくらい興味を示して食って掛かってきたのを覚えている。
「ああ、そうだった! 野郎同士で付き合うことがどうだとか、俺にも自重しろとかって、えれえ慎重になってたっけな」
紫月も思い出したとばかりにパチンと指を鳴らして頷いた。
「……っつーことはさ、徳永の好きな相手って……桃陵の春日野って奴だったってわけか!」
「多分な」
鐘崎が微笑ましげに瞳を細める。
「へぇ、そうなんだ。なら、あの二人も上手くいくといいな」
冰もまるで我がことのようにして彼らの幸せを願うのだった。
番格たちの伝統は形を変え、時代を超えて絆を深め合い、そしてまた新たな世代へと引き継がれていく。まさに新時代の幕開けであった。
◇ ◇ ◇