club-xuanwu extra
高瀬芳則による拉致事件から丸二日が過ぎた頃――心身共に休養を得た冰は、氷川に連れられて鎌倉にある彼の別荘を訪れていた。
都心のビル群と違って、閑静な山道を少し入ったところにある一軒家である。周囲は竹林に囲まれていて、おいそれとは人目にもつかないプライベートな空間に建てられた、まさに別荘というにふさわしいような邸だった。
冰らが到着してしばらくの後、遼二と紫月もやって来た。事件に巻き込んでしまったことへの詫びも兼ねて、氷川が招待したのだ。
「紫月、遼二、この度は本当に申し訳なかった。俺のせいでキミらを巻き込んじまった。勘弁して欲しい、この通りだ」
冰は深々と頭を下げて詫び、氷川も同じく二人揃って謝罪をする。遼二と紫月は大慌てで冰らの傍へと駆け寄った。
「オーナー、代表、そんな……とんでもないです!」
「どうか頭を上げてください!」
特に紫月の方は、高瀬にいいように言いくるめられ、連れ去られてしまった自分に非があると思っているようで、恐縮しきりであった。
「俺がもっと注意していればこんなことにはならなかったんです。何も疑わずに高瀬って人にホイホイ付いて行っちまって……。本当にすいませんでした」
紫月の話では、店先でいきなり声を掛けられて、『自分は以前この店に通っていた客だが、雪吹代表のことについて内密の話がある』と意味深なことを言われて誘われたとのことだった。酷く神妙な様子だったので、特に警戒せずに誘いに乗ってしまったのだという。
まあ、ホストになって間もない紫月では経験も浅いことだし、致し方ないことかも知れない。紫月自身もいい勉強になったようで、反省しきりだった。だが、それ以上に事を重く感じていたのは冰も同じだった。
帝斗から代表の座を受け継ぐ際にも、恋人の氷川からはホストの仕事を辞めて彼の傍にだけいて欲しいと言われたのに、どうしても続けたいと言い張ったのは他でもない、自分自身だったからだ。
今回のことで、代表として店を仕切るということは、ただ単にお客に気を配り店を切り盛りしていくだけでは足りないのだということを痛切に思い知らされた。自分の与り知らぬところでスタッフである紫月をさらわれ、彼には酷く嫌な思いをさせてしまった。それもこれも自分の甘さが引き起こしたことなのだ。
幸い、大事には至らなかったものの、冰は代表としての自身の過信を深く反省すると共に、少なからずの不安を感じていたのは確かだった。
やはり自分にはあの店を背負って立つ資格はないのだろうか、そんなふうに思ってもいた。氷川の言うとおり、彼の傍でのみ生きていくことが一番いいのではなかろうか。無論、彼に囲われるような形で養われて過ごすのは、男としては面目のないことである。だが、”仕事”という形ではなくとも、自分にできることが何かあるかも知れない。例えば氷川の為に彼の身の回りの世話をするでもよし、精神的な癒しになるもよし、それはまるで世間で言うところの”嫁”のような立場になるのかも知れないが、それもまたひとつの幸せの形なのかも知れない。
両親の元で暮らすことを許されなかった自分を引き取って育ててくれた香港の黄氏が亡くなった時に、住み慣れた地を離れ、単身でこの日本にやって来た。一目でいいから会いたいと願った父に会うことは叶わず、腹違いの兄である菊造から金を無心され、途方に暮れるようにして入ったホスト業界だ。頼るところのなかった自分をあたたかく受け入れてくれたxuanwuという店が、冰にとっては家のようであり、そこで一緒に働く仲間たちは家族さながらだった。
そんな店を離れるのは、やはり寂しい。できることならずっとここで働いていたい。そんな葛藤の中、冰は代表を辞する考えを、今日この場で氷川に告げる心づもりでいたのだった。
別荘のテラスで少し遅めの昼食を囲む。
竹林に囲まれた萌ゆる緑を縫って、初夏の日射しがキラキラと輝きを見せている。
和やかな会食が済み、食後の珈琲が運ばれてきた時、冰は思い切って話を切り出そうとした――その時だった。
「冰、それに遼二と紫月も聞いてくれ。お前らに大事な話がある」
先に切り出したのは氷川の方だった。
「今回のことは全て俺の甘さが引き起こしたことだ。お前らには本当にすまないことをした」
「龍……そんな……」
冰は無論のこと、遼二と紫月も驚き顔で氷川を見つめた。
「大阪への出張で一晩家を空けるってのに、東京の冰の元に護衛の一人も残さず――、しかも遼二までもを連れて行ったことで隙を作っちまったんだ。完全に俺の手落ちだ」
「……そんな! お前は悪くない……! 元はといえば俺の過去のことで……こうなったわけだし……」
冰はとんでもないといったふうに、氷川の責任を否定した。
「いや――お前のせいじゃねえ。というより、誰が悪いとか悪くないというわけじゃない。とにかく大事に至らなくて良かったが、もしも偶然帝斗が店を訪れてくれていなかったとしたらと思うと、後悔どころではすまされない。そこで、今後の体勢を見直したいと思っている」
氷川はそう前置きをしてから、少々驚くような内容の提案をした。
「先ずは紫月――お前にはホストの職を辞してもらい、この冰の秘書として勤めてもらいたい」
「……! 俺が……代表の秘書を……?」
「そうだ。ホストと違って、店の仕入れや顧客の管理といった事務作業が主になるが、引き受けてもらえるだろうか」
突然の氷川の提案であったが、紫月はほぼ即答といった調子で頷いた。
「正直、有り難いです……。俺、ホストはやっぱりたいへんなことも多くて……。あ、仕事の内容が辛いとかじゃないんですが……やっぱり……心のどっかで遼に申し訳ねえなって思うこともあって……。いくらお客さんでも女の子とイチャイチャしてるのを見て、遼が少なからずいい気持ちじゃないんじゃないかって思ってたんです」
それというのも、紫月自身、お客がたまに氷川に連れられて店へとやってくる遼二のことを、カッコイイだの素敵だのと話題にしているだけでも胸が痛む――そんな思いで見ていたからだと付け加えた。
「ほんとはホストやって、短期でバリバリ稼いで金貯めたかったですけど……その為に遼との間に溝を作っちまうんじゃ元も子もないですし。俺、地道に働きながら遼と一緒に歩く道を見失わないでいきたいっていうか……」
僅かに頬を染めながら、紫月は照れ臭そうにして遼二を見やった。
そうである。元々、遼二と紫月の二人がホスト業界に入ったきっかけは、金を貯めたいからであった。
男同士、しかも幼馴染みという間柄にありながら、将来を共にしたいと思う程の自分たちの仲を、双方の両親に認めてもらいたい。その為の条件が、二人で二千万円を貯めることができたら――というものだった。
そうして一日も早くその金額をクリアしたいが為にホストという職業を選んだものの、実際に就いてみれば想像していたほど容易いものではない。女性客を相手にするというのは当然のこと、酒の量にしても、客の扱いにしても、傍で思うよりも重労働である。
正直なところ、仕事が終われば爆睡の毎日で、たまの休日でも満足にデートをすることさえままならない。加えて嫉妬も皆無とはいえず、不安も募るばかりである。体力的にも精神的にも余裕がなくなってきているのは本当のところだったのだ。
遼二は格別には言葉に出して何を言うでもなかったが、その表情には安堵の色が窺える。氷川の提案と紫月の気持ちを聞いて、内心は嬉しいのだろうことが窺えた。
そんな遼二には、氷川からまた別の提案が持ち出された。
「遼二、お前にも同じく提案だが――今後は俺の側付きではなく、冰と紫月専用のボディガードを任せたいと思うんだが――どうだ?」
遼二は驚いた。
「俺……が、雪吹代表と紫月のボディガード……」
「ああ。お前が冰の傍に居てくれれば、俺は安心して自分の仕事に専念できる。どうだ、頼めないか?」
「承知しました。精一杯勤めさせていただきます」
遼二も即答で了承し、氷川も嬉しそうであった。
「よし! それじゃ決まりだな。これからもよろしく頼む」
そう言った氷川の傍らで、僅か浮かない表情の冰が遠慮がちに口を開いた。
「龍……本当にいいのか? その、俺――本当は今日お前に……」
「代表を降りる――なんてのは許さねえぞ?」
冰の語尾を取り上げるように、氷川はそう言った。口元にはニヒルな笑みが携えられている。当の冰は、何故分かったんだといったように、滅法驚き顔だ。
「xuanwuはお前にとって家も同然だろう? そしてスタッフたちは家族だ。皆だってお前のことをそう思ってる。そんな家を出て行くなんて許されねえだろうが」
氷川には分かっていたのだ。冰にとってあの店がどれ程大事なものかということ――、それと共に、責任感の強い彼が、今回のことを気に病んで代表を退かんとしていることもお見通しだったわけだ。
「……龍」
冰もそんな氷川の思いやりを充分理解できているから、思わずこぼれ落ちる涙を抑えることができなかった。
「龍……ありがとう……。本当に……」
涙声でうつむいた冰の肩を抱き寄せながら、氷川は微笑った。その笑顔はあたたかく、心底大事な者に向けられた、愛しさのあふれるものだった。
「ところで遼二に紫月――、お前たちにもうひとつ頼みがある」
氷川は側近の李を呼び寄せると、彼から革製の薄い箱を受け取り、それを遼二と紫月の前へと差し出してみせた。
「これを受け取って欲しい」
「――はい、あの……これは……」
一体何だろうかといった表情で、二人共不思議そうに首を傾げている。
「開けてみろ」
氷川に促されて箱を開いた二人の瞳が、驚きに見開かれた。そこには何かの鍵らしきものが挟まれていたからである。
「あの、これ……?」
「お前たちがこれから住む部屋の鍵だ。場所は俺と冰が住んでいる同じフロアの隣の部屋だ」
「ええっ……!?」
二人は同時に素っ頓狂な大声を上げた。
現在、氷川と冰が暮らしているのは、氷川が都内のベイフロントに所有する高層ビルの最上階だ。広大なフロアには、個別に住める部屋が二世帯分あって、その一戸に氷川らが暮らしているのだ。もう一戸の空いている部屋は、本来側近の李の為にと氷川が用意したのだが、彼は恐縮して、一階下のフロアに住んでいるのだった。
つまりは、どうせ空き家である。
「お前らに住んでもらえたら利便性もいいと思うんだがな」
氷川はまるで平然とした調子でそう言うが、若い二人にとってはあまりにも恐縮というものだ。特に遼二の方は氷川の側付きとして自宅にも行ったことがあったので、その豪華さはよくよく承知しているから尚更であった。
まあ、それ以前に、そこに二人で住むとなれば同棲ということになる。遼二も紫月も、両親との約束である二千万円すら貯まっていない内から同棲というのも気が引けるわけだろう。二人は何ともいえない複雑な表情で互いを見つめ合っていた。
「何だ、例の二千万の約束を気にしているのか? だったら心配ない。お前らの口座に一千万ずつ振り込んでおいた。二人合わせて二千万円はクリアだ。それに――お前らの両親には既に了解を得てある」
「ええッ――!?」
またしても若い二人は素っ頓狂な大声を上げてしまった。
「何ーー、その方が便利だし、何より安心だろ? 引き受けてもらえないか?」
氷川にしてみれば、今回大事に至らずに冰を救出できたのは、この遼二と紫月の助力の賜物と心から恩義に感じていた。
的確な情報収集と判断で、迅速に行動してくれた遼二。そして紫月に至っては冰を呼び出す為の道具として使われた上に、とんでもなく嫌な思いをさせてしまった。にも係わらず、紫月は現場の状況を伝えようと、身体の不調をおして尽力してくれた。
そんな二人に対する詫びと恩を、どうにかして形にしたい、そう思ったのだ。それに、この若い二人は自分たちと同じように同性同士で愛し合っている。様々な苦難を懸命に乗り越えようと努力している。そんな姿が愛しくも思えて、氷川は彼らを家族のように思っていたのだった。
未だ驚きが先立って硬直状態の二人を前に、今ひとたび打診の言葉を口にする。
「俺はお前たちが他人には思えなくてな。お前らと側に住みたい、いつでも一緒に居てえって思ってるんだ。これは俺と冰の我が侭でもあるが――聞き入れてはもらえねえか?」
真摯に言う氷川に、若い二人は恐縮しながらもおずおずと頷いた。
「分かりました。それでは……お言葉に甘えさせていただきます」
遼二がそう言うと同時に、紫月も一緒になってペコリと頭を下げた。
と、そこへ側近の李に案内されて、帝斗がやって来た。
「やあ、皆お揃いだね。どうやら例の話も上手くまとまったみたいだね?」
帝斗は氷川が遼二らに投げ掛けた提案を、既に知っていたようだ。にこやかに微笑みながら、良かった良かったといった調子で頷いている。
「帝斗、早かったな。来るのは夕方になると聞いていたが――」
氷川が椅子を勧めながらそう言えば、
「だってお前さん方が皆で楽しくやっていると思ったらさ、どうにも気が逸ってしまって仕方なかったのさ。とっとと仕事を片付けて飛んで来たというわけ!」
悪戯そうな笑みを携えながら、ウィンクまで繰り出すおまけ付きだ。帝斗というのは本当にこうした仕草が嫌味なく、よくよく似合う男でもある。
「やっぱりミカドさんには適わないっす! 自分も初心に返ってまだまだ勉強しなきゃならないことだらけです」
冰がそう言えば、氷川も楽しそうに口角を上げて微笑んだ。
その後は、皆で中庭にある温水プールとジャグシーを楽しみ、和気藹々と過ごした。
氷川と冰、遼二と紫月といった二組の熱愛カップルを前に、帝斗は『僕もそろそろ恋人が欲しいなぁ』などと言っては盛り上がったのだった。
ディナーは皆で中華料理を堪能したら、今夜は別荘に泊りだ。各自、それぞれの部屋へと戻っていった。
バルコニーの扉を開ければ、中庭が望める。手入れの行き届いた芝の絨毯に月明かりが差し込んでいる。周囲には木々が涼風を受けて、葉音が心地好かった。
隣の部屋には遼二と紫月、そのまたひとつ隣に帝斗が泊っている。遼二らもバルコニーの扉を開けているのか、時折楽しげな笑い声が聞こえてきていた。二人でじゃれ合ってでもいるのだろうか、普段はあまりはしゃいでいるところなどは見たことがない紫月の朗らかな笑い声に、冰はホッと胸を撫で下ろす心持ちでいた。
結果的には未遂だったとはいえ、高瀬に拉致され、服を破かれ拘束されたりと、紫月には本当に気の毒な思いをさせてしまった。皆の前では平静を装ってはいても、本当は傷付いていたりしやしないか、気持ちの奥底ではトラウマになったりしていないかと気になっていたのだ。
紫月には勿論のこと、遼二にもどれ程心配を掛けただろう。彼らの気持ちを想像すると、申し訳なさが募ると共に、これからは二度とこんなことが起こらないように細心の注意を払っていかなければと、気持ちの引き締まる思いだった。
そんな彼らも転居の提案を快く受け入れてくれた。冰は今回の恩をしっかりと胸に刻むと共に、これから始まる新しい生活が彼らにとって幸多いものとなるよう、自分にできることを精一杯やっていこうと心に誓うのだった。そして、静かに扉を閉めると、ひとつだけ気に掛かっていたことを氷川へと投げ掛けた。
「な、龍――あのさ」
「ん?」
「遼二と紫月のことなんだけど……。その、これから彼らと隣同士で暮らすに当たって……話しておいた方がいいのかなとも思うんだけど……どうだろうか」
少々遠慮がちの冰の問い掛けに、氷川は一瞬不思議そうに彼を見やった。――が、すぐにその言わんとしていることが分かったのか、クスッと軽快な笑みを浮かべてみせた。
ショットグラスに注がれたバーボンのロックを一口含みながら、言う。
「俺の家のことか?」
「あ、うん。別に言わなくていいことなのかも知れないけど……今までは他の皆と同じように、ただスタッフとして勤めてくれていたわけだからいいとして……。これからはもっと近しい関係になるわけだろう? だから、ちょっとそんなふうに思ったんだ」
冰の言いたいことはよく分かった。氷川の家はマフィアである。自分たちにとっては特別なことではなくても、世間一般的に考えれば、マフィアと聞けば驚くと思うわけだろう。同じフロアの隣の部屋で、ほぼ一緒に住むような感覚になるわけだから、最初に話しておいた方がよくはないか――氷川にはそんな冰の気持ちが手に取るようだった。
バーボンを卓上へと置くと、窓辺に立つ冰の隣へと歩を進める。氷川はそっと彼の肩に腕を回し、抱き寄せながら言った。
「そのことなら心配はいらねえ。あの二人は既に知っている」
「え……!? もしかしてお前が打ち明けたのか?」
氷川はこのひと月の間、ずっと遼二を側付きとしていたわけだから、彼と過ごす時間も多かったわけである。その間にそういった話が出て、打ち明けたのかと思ったのだ。
だが、実際は違った。
「俺は言ってねえがな。でも奴らは知っている。俺の親父が香港マフィアの頭領の周隼だということも――。それを証拠に、ヤツはお前を救い出す際に俺を引き留めた」
「引き留めた……?」
「――俺が拳銃を使わんとしていることを見抜いていたんだろう」
「……拳銃って……龍、まさか……」
「事務所のドアをぶち破って踏み込んだ直後、高瀬が起爆スイッチを押す前に仕留めるつもりでいた。無論、スイッチをヤツの手から取り上げられればいい。多少の怪我を負わせたとて仕方ねえ――くらいのつもりだったがな。遼二は俺がヤツを殺っちまうかも知れねえと危惧したのかもな」
「……そんな……!」
だとすれば、遼二は本当に氷川の素性を知っているのかも知れないと思えた。
「……じゃあ……遼二らに教えたのは、もしかしてミカドさんか?」
氷川自身が言っていないのなら、事情を知っているのは元オーナーの帝斗だけだ。無論、冰も打ち明けてはいないし、他には思い当たらない。
不思議そうに首を傾げる冰の横で、氷川はまたも面白そうな笑みを浮かべてみせた。
「お前は覚えてねえか? あの二人が初めて店に面接に来た時のことだ。俺があいつらに向かってトランプのカードを投げ付けたことがあったろう?」
「あ、ああ……! 勿論覚えてるよ。あの時はビックリしたぜ。いきなりあんなことするんだから……どうしちまったのかと思って……」
そう――、氷川は遼二らが面接に来た際に、突如彼らに向かって卓上にあったトランプのカードを投げ付けるという暴挙に出たのだ。
ちょうどその面接の直前まで、店のホストたちが客受けするテクニックの練習だと言ってトランプを使っていたので、机の上にはカードが散らばっていた。これ好都合と、その中の一枚を取り上げて、氷川は彼らに向かって勢いよくそれを飛ばしてみせたのだった。
突然の奇行に、冰は何をいきなり乱暴な――という顔をして驚いたのだが、もっと驚かされたことには、遼二がそのカードを真剣白刃取りのようにして二本の指でキャッチしたということの方だった。
「あいつらを一目見て思ったんだ。特に遼二の方だ。ヤツは俺の知り合いによくよく似た顔立ちをしていた。その直後にあいつが”鐘崎遼二”と名乗ったんで、もしかしてと思ったんだ」
「知り合い? ……って、どんな?」
「仕事上の知り合いだ。俺の親父――つまりはファミリーとも繋がりのある人物だ」
ということは裏社会と関係があるということになる。遼二がその知り合いに似ているとは、一体どういったことだろうか。冰はしばし首を傾げさせられてしまった。
そんな様子に苦笑気味ながら氷川は続けた。
「その人物の名は鐘崎僚一といってな。この日本で――いや、アジア圏でと言った方がいいか――俺たち同業者の中では彼の名を知らない者はいないというくらいのキレ者だ」
「鐘崎……!? 同業者って……! じゃあ、遼二は……その鐘崎僚一っていう人の……」
「倅だ。まさかうちの店に転がり込んでくるなんて思いもしなかったが、遼二があまりにも僚一にそっくりなんで、俺はヤツにカマを掛けてみようと思ってな」
それで例のトランプを投げ付けるという奇行に出たわけか――。
「案の定、ヤツはいとも簡単に反応してトランプを掴み取った。その直後に俺がヤツに何か体術を心得ているだろうと訊いた時の反応もな。ヤツは謙遜して空手と拳法を少しだけかじっているなんて抜かしやがったが、あの時のヤツの目を見て確信したんだ。あれは裏の社会で育った人間の目だった」
「……そんな! じゃ、じゃあ紫月もそのことを……勿論知っているわけ……だよな?」
「ああ。紫月は遼二の父親――鐘崎僚一の相棒として活動を共にしている一之宮飛燕という男の倅だ」
「相棒って……それじゃ、遼二と紫月の親御さんは……揃って裏社会の人だってことなのか?」
「そういうことになるな。まあ、彼らはアウトサイダーだが」
「ア……ウトサイダー?」
「組織や団体に所属しているといったふうではねえってことだ」
「え……、じゃあ、組長……とかじゃないってこと?」
日本で裏社会といえば、組とか会とかいった方向に思考がいくのだろう。冰のキョトンとしながら首を傾げる様子が何とも言えずに可愛らしく思えたわけか、氷川はふいと瞳を細めてしまった。
「例えば面子なんぞの関係で表向きは手が出せねえような案件を、依頼者に代わって遂行するような仕事をしてる。俺たちファミリーのような組織と組むこともあれば、政府や要人なぞ、依頼者は多岐に渡る。僚一は、その右に出る者はいねえってくらいの情報網を持っていてな。体術にもズバ抜けているし、主には実行部隊だが、紫月の父親の飛燕の方はコンピューター関連のプロだ。僚飛のコンビといったら俺たちの業界じゃ神格的ってもんだ」
まあ、氷川は彼らが鐘崎、一之宮と名乗った時点でほぼ確信を得ていたようだが、そうであるならば尚更試してみたいと遊び心が疼いてしまったようだ。
それにしても、これはとんでもない驚きである。今の今まで、冰はそんなことを想像すらしたことがなかったので、しばしは言葉にならないほどであった。と同時に、何故そんな大事なことを黙っていたのかと、氷川に対しても少々恨み言を言いたいくらいだった。
「ちょ……ちょっと待ってくれ……。頭がこんがらがってきたぜ……! 一体、誰と誰がこのことを知ってて、誰と誰が知らなかったわけだよ? もしか、何も知らねえでノホホンとしてたのは……俺だけだってこと?」
眉間に皺を寄せながら、冰は軽いパニック状態だ。
だが、少し落ち着いて考えてみれば、思い当たらない節もない――とも思えてくるのだった。
普段はあまり何かに対して格別な関心を寄せることも少ない氷川が、あの遼二に対してだけは違った。初対面でいきなり自分の側付きとして勤めないかと誘い、以来、何処へ行くにも連れて歩いている。彼と一緒にいる時の氷川が何ともいえず楽しげにしているので、よほど彼とは馬が合うのか、或いは人として何らかの魅力を感じているのだろうかと、少々不思議に思っていたのは事実である。
それを肯定するように口元にニヒルな笑みを浮かべながら氷川は言った。
「遼二の親父は俺がまだ小せえガキの頃からうちに来ていてな。よく遊んでもらったもんだ」
「そうだったのか……」
「人懐こくて、優しくてな。周囲の誰もが俺たちファミリーには気を遣い、丁寧すぎる扱いをする中で、僚一だけは違ったんだ。会えば必ず『元気にしてるか、ボウズ』って言いながら、俺の頭をでけえ掌でグシャグシャと撫でてくれた。その笑顔が何ともいえずに好きでな。子供心にカッコイイおっさんだと思った。俺もいつか――大人になったら、あんな男になりてえと憧れた」
そう言った氷川の視線が酷くやさしげに細められていた。
まさかこの氷川からそんなことを聞くだなんて思っていなかった。隙のなく、愛想も少なく、初対面の人間などはその存在感だけで威圧されてしまうような雰囲気をまとったこの氷川にも――そんな少年時代があったのだ。
ふと、その頃の彼を想像したと同時に、何だか頬が染まる思いがして、冰は胸の奥底に甘い痛みが走るようだった。
「龍の子供の頃か――。見てみたかったな、その頃のお前……」
そういえば今の今まで氷川の少年時代など想像したこともなかったことに気付く。
どんな子供だったのだろう――。今はこんなにも男の魅力にあふれた彼も、小さな頃は可愛らしかったのだろうか。或いは子供の頃からやっぱり少しふてぶてしい一面を持ち合わせていたりして、大人びた子供だったのだろうか。
冰は、自身の知らない彼の一面を脳裏に描くだけで、何とも言いようのない愛しさがあふれ出すようだった。そんな気持ちのままに彼の胸元へと頬を預けた。
「そっか……、そうだったんだな。だからお前、遼二を……」
そうだ。氷川が遼二といる時のあの少しワクワクとした感じ、悪戯そうに笑う顔、どうにも楽しそうな様子を思い浮かべれば、何となく少年時代の彼のイメージがダブって見えるような気がしていた。瞳を輝かせながら僚一の背を追い掛ける幼き彼の姿が目に浮かぶようだった。
「すまなかったな、冰――。僚一の倅とこんな縁があったことが嬉しくて、俺は自分勝手だった。お前の元に遼二を置いて行けばお前を危険な目に遭わせることもなかったってのに……そんな大事なことにも気が回らなかった」
「……そんなこと」
「香港の兄貴にも叱責を食らったが……」
「兄上に話したのか?」
「ああ――全部じゃねえけどな。お前をさらわれて、でも無事に取り戻したってことだけな。一応、こっちで起こったことは報告せにゃならんし」
氷川が身を置いているのはそういった世界である。香港と日本、距離はあれど、些細なことでも大きな火種になりかねない。氷川は現在、この日本でファミリーの資金作りを兼ねた企業経営を任されている身だから、危ないことは少ないといえど、日々あったことの報告は欠かさずしているのだ。
「てめえの恋人をとんでもねえ目に遭わせるなんざ失格だって、きついひと言を食らったぜ」
とはいえ、兄は単に氷川の非を責めたわけではない。そこに深い愛情があるからこその叱責だということを、氷川は重々承知していた。
「確かに少し気が緩んでいたな。お前と想いを通じ合うことが叶って、一緒にも暮らせて――その上、遼二と紫月との縁もあって、俺は浮かれていた。これからは気を引き締めなきゃならねえって、改めて思い知ったよ」
「……そんな……! それを言うなら俺も同じだ。いつもお前に守られて……甘やかされて、俺も気が緩んでた。今回のことはいい教訓として、今後に生かしていけるようがんばるよ」
「――冰、お前ってヤツは……」
氷川はクッと眉をひそめると、堪らないといったふうに真正面から冰を抱き締めた。強く強く腕の中へと抱き包み、あふれる愛しさのままに頬摺りを繰り返す。
「甘やかされてんのは俺の方だ――」
額に唇を押し当てながらこぼれたその声が、甘苦しげに震えていた。
「羽田に着くまでの飛行機の中で――自分を失くしちまうんじゃねえかってくらいに時間が長かった……。今すぐお前の元に行ってやりたくても叶わねえ。その間、お前に何かあったらと嫌な想像ばかりが浮かんでは否定して――気が違いそうだったぜ……」
言うか言い終わらぬ内に、唇が重ね合わされ、まるで獣のように激しい口付けの嵐――
「龍……りゅ……っ、ん……っ……」
唇、頬、歯列――激しく顔を交互させながら、しっとりと厚みのある唇が、どこかしこと奪うように貪ってゆく。吸い尽くし、ともすれば食わん勢いで奪われて、冰は今にも溺れそうなくらいに浅く短い呼吸で空気を求める。それ程に激しい口付けだった。
「……うっ……りゅ……ッ、龍……! はッ……あぅ……!」
吐息も嬌声も取り上げられながら、腹を撫でるのは硬く熱く、今にもはち切れんばかりに逸った愛しい男の雄の感触だ。押し付け、撫で付けることで、更に燃え滾るごとく熱を増す。今、この手の中にある現実を確かめたいといわんばかりに強く大きく攻めたてる――
口付けをやめないままで、まるで踊るように弧を描きながらベッドまでの距離をもつれ合いながら移動する。背中から抱き包み、スラックスの中からシャツを引き摺り出し、捲し上げ、ガッシリとした大きな掌が冰の素肌を撫でていく。ジッパーを下ろすのさえもどかしげで、ともすればすべてを引き裂いて今すぐ丸裸に剥いてしまいたい――そんな氷川の激しい情欲に、冰の方はそれだけで昇天してしまいそうな表情で、既に視点さえ定まっていない。愛しい男にされるがままだった。
ようやくとベッドへ辿り着くと、氷川は自らの服を脱ぐ余裕さえないといった調子で、冰の上へと覆い被さった。
すっぽりと腕の中へと拘束し、先程からの口付けは未だ止まぬまま、荒く興奮した息遣いだけが真っ白なシーツの海の中で弾けて揺れる。
「……ッ……冰……、冰……すまねえ……お前に痛え思いはさせたくねえが……」
悪いが全く余裕がねえんだ――
氷川の表情がそんな心の言葉を体現している。自ら指先を舐めて唾液を絡め濡らすと、逸ったように冰の後孔へと突っ込んだ。
一本、二本、三本と――立て続けに押し入れて内部を掻き回す。冰が感じる一番いい箇所を探り当て、これでもかというくらいにしつこくしつこく弄り倒す――
「……ッあ! ……りゅ……うぅ……ッ!」
「我慢してくれ……! 俺に掴まってろ」
冰の手を取り上げ、自らの背中へと導きながら氷川は荒い吐息交じりで続ける。
「そうだ、しっかり……俺を掴んで……ぜってえ放すな、冰ッ……!」
「ん……っ、んぁ……ああッ……りゅ……!」
氷川は冰のボトムを下着ごと摺り下ろすと、それを床へと放り、下肢だけを全裸に剥いた。自身のも前だけを開けて、腰を使いゆるりと弧を描くように動きながら、雄を擦り付ける。たったそれだけで、ゾクゾクと背筋が打ち震えるようだった。
指を引き抜くと同時に、熱で滾ったそれを愛しい者の中へと呑み込ませてゆく。ゆっくり、じっくり、一瞬一瞬を味わうように呑み込ませてゆく――
その独特の感覚に、堪らない身震いを覚えながら一気に彼を貫いた。
「やッ……っう……龍……ッッ……!」
「冰……ッ、く……はッ……お前は俺ンだ――! 他の誰にもやらねえッ……俺だけのもんだ……ッ!」
「ああ……ッ、りゅ……うぅッ……龍……ッ」
そうして自らを愛しい者の中へと収め、繋がったという事実を確かめると、氷川はようやくと安堵したかのように冰を抱き締めた。両の腕でガッシリと、しっかりと強く強く抱き締めた。
「すまねえ、冰――痛え……か?」
今の今までの狂った野獣のような荒々しさが、氷川の気持ちの全てなのだろう――言葉に出さずとも冰にはそれが充分過ぎるほどに分かっていた。
おいそれとは手の届かない、側に行きたくても叶わない――高瀬に拘束されたあの夜、羽田へ向かう機内で氷川がどんな気持ちだったのかが手に取るようだった。きっと酷い焦燥感に身を裂かれる思いでいたのだろうことも重々理解できた。
つい今しがたも、俺を掴んで放すなと叫んだこの氷川の心中が痛い程伝わってきて、冰はあふれ出る涙を愛しい男の頬に擦り付けながらしがみついた。
「龍……龍……、俺さ……高瀬に、あの男に爆弾で吹っ飛ばされちまうんじゃねえかって思ったらさ……ンなのぜってー嫌だって思って……。今は……例えあいつに踏みにじられてもいい、もう一度お前に会うまでは……どんな手を使ってでも生き延びてやるって……」
「……冰……」
「けど……けどさ、俺の魂は――! 心だけはお前のもんだって……! この世の誰のでもねえ! お前だけのもんだって……何度も……何度もそう誓って……お前だったら分かってくれるって……お前に会うまではぜってえ諦めねえって……何度も俺……」
「――ッ! 冰……っ!」
涙まじりで吐き出される言葉のすべてを抱き締め、握り潰してしまわん勢いで氷川は冰を抱き締めた。
たった独り、誰の助けも望めない諦めと恐怖のどん底の中――冰がどのように自分を励まし、闘っていたのかが目に浮かぶようだった。
例え穢されたとて、必ず生きてこの手の中へ戻る――だから信じて待っていて欲しい、闘い抜いた俺を拒まないで欲しい、そんな思いだったのだろうか。最悪の状況下にあっても自分を失わず、必死に切り抜けようとした冰の気持ちが伝わってくる。そして、彼にそんな勇気を与えたのは、魂と魂とが繋がっていると固く信じてやまなかった愛の力なのだということも、痛い程伝わってきた。
「冰……ッ! 冰……」
氷川は何も言葉にできぬまま――必死で冰を抱き締めた。涙にくぐもる嗚咽を抑えることもできないままで、持てる気持ちの全てを注ぐようにただただ抱き締めた。
「約束する、冰――もう二度と、二度とお前にそんな思いはさせやしねえ……! 生涯――命を掛けてお前を守り抜く――ッ!」
愛している――
「お前だけだ……この世にお前以上に大切なもんなんてねえ……!」
どんな言葉を何度言おうと、伝えきることができない。あの夜、絶体絶命の中で冰が自分に掛けてくれた想いは――一生涯掛けても返せるものではないだろう。氷川は全身が打ち震えるのをとめられなかった。
強くならねばと思っていた。
愛しむ想いや腕力だけでなく、愛する者を、大切なものを守り抜く為に――もっともっと、精進しなければならないと痛切に感じていた。
愛とは何と果てしなく遠いものだろうか。
と同時に、何と尊く大きいものなのだろうか。
お前を生涯愛し抜くと誓う。
お前を生涯守り抜くと誓う。
「冰……、お前は俺の……命だ……」
あふれる涙をそのままに今ひとたび口付けながら、氷川は魂の叫びのようなそのひと言を冰の唇へと落としたのだった。
◇ ◇ ◇
それから程なくして、遼二と紫月の新居への引っ越しの日がやってきた。
ホストとしての紫月の引退イベントの日も決まり、新たな門出に向けて着々と準備が進められていく。引っ越し当日は朝から晴天で、氷川と冰は勿論のこと、側近の李らも手伝って賑わいを見せていた。まあ、家具などは全て備え付けなわけだから、荷物自体はそう多くはないものの、やはりこうした門出に携わりたい気持ちは皆一様といったところなのだ。
一通り私物の運び入れも済んだ頃にちょうど正午を迎え、皆でランチを囲み、和気藹々と過ごした。と、そこへ長身の二人の男が肩を並べてやって来た。遼二と紫月の父親たちである。
「焔、ウチの坊主共が世話になるな」
氷川の姿を見るなり、そう声を掛けたのは遼二の父親である鐘崎僚一だった。彼からすれば、氷川は香港の周ファミリーの倅というイメージが強いのだろう。日本名の氷川白夜ではなく、ファミリーネームである『周焔』の方で呼ぶのが自然のようだ。
「僚一! 来てくれたのか!」氷川は嬉しそうに瞳を輝かせながら、食後のティータイム中だったテーブルから立ち上がった。
「今、昼飯を摂っていたところなんだ。遼二と紫月はちょうど化粧室に立ったところだ」
「なんだ、そうなのか」
「すぐに戻って来るさ。それより、軽食だが一緒にどうだ?」
すぐさま椅子を勧め、給仕に言ってとりあえずは茶を運ばせる。
「いや――、何も手伝わねえでメシだけ相伴に与るんじゃ申し訳ねえ。それに、俺たちはこれから香港なんだ。夕方の飛行機で発つから、そうのんびりもしてられなくて悪いんだが、一目お前さんの顔を見てから行こうと思ってな」
遼二の父親は、有り難く出された茶に口を付けながらそう言って笑った。
「香港? ――ってことは、また親父か兄貴が何か煩わせるってわけか?」
「いや――、今回は仕事絡みじゃなくてな。たまにはゆっくり休暇でもどうだって、お前さんのお父上からお誘いを受けたってわけだ」
「親父が――?」
氷川は珍しげに瞳を見開きながらも、だがあの父親のことだ。どうせ”休暇だけ”ではないのだろうと想像を膨らませながら、微苦笑してしまった。
そこへ化粧室に行っていた遼二と紫月が揃って戻って来た。
「親父――!」
「どうしたんだ? 来るなんて聞いてなかったのに。つか、もう荷物運び終わっちゃったぜ……」
二人揃って驚き顔だ。特に紫月の方は、手伝いにやって来たにしては遅過ぎだと少々スネたように口を尖らせてみせる。そんな様子に氷川が楽しげな笑い声を上げた。
「なあ、僚一、飛燕――。遼二も紫月もめちゃくちゃいいヤツで、俺は本当に幸せ者だぜ。まさかこんな縁があるとは思ってもみなかったから、未だに信じられないくらいだ」
氷川がそう言えば、遼二と紫月の父親たちも嬉しそうに頷いた。
「こうしていると、周大人と出会った頃のことを思い出す。あの頃、俺たちはまだ駆け出しの若造だったが、大人はそんな俺たちを温かく迎えてくれたもんだ。焔もまだこーんな小さなガキだった」
僚一が身振り手振りで幼少の頃の氷川を懐かしめば、
「あれからもう三十年も経つのか。本当に――早いもんだな」
紫月の父親である飛燕もそう言って、二人揃って感慨深げに瞳を細めてみせるのだった。
「しかし――うちのボウズらがアルバイトの為に駆け込んだのが、焔の店だったって聞いた時には驚かされたぜ」
「そうだな。何せ全くの偶然だったってんだから、尚更だ」
父親たちが言うように、遼二と紫月が氷川の店で働くことにしたのは、xuanwuが氷川の息の掛かった店だからということを知っていたわけではなく、本当に偶然だったようだ。まさに奇跡ともいえる縁である。
面接に行った段階で氷川の持つ雰囲気に思うところがあった遼二が、帰ってから独自に調べた結果、彼が香港マフィアの周隼の次男坊だということをつきとめたというのだ。
遼二の行動力にも感心させられるところだが、まだ若い彼が、たった一人で氷川の正体に辿り着けたということが、これまたさすがと言わざるを得ない。やはり彼はその世界で右に出る者はないと言われる鐘崎僚一の血を引いているというわけだ。氷川にとっては、そんなところも心躍る気持ちにさせられる一因だった。
と、そこへ通話中で席を外していた冰が戻って来た。
「おお、冰。ちょうど良かった」
氷川はすぐさま彼を遼二らの父親たちに紹介した。
「これは雪吹冰、俺の大事なヤツです」
自らにとって大切な相手だということを堂々と告げる。まあ、彼らの息子である遼二と紫月も同性同士で愛し合っている仲なわけだから、そう紹介したとて今更驚かれることでもなかろうが、微塵も憚らずの堂々ぶりが実に氷川らしいところである。
「冰、こちらは鐘崎僚一氏と一之宮飛燕氏、遼二と紫月の親父さん方だ」
話には聞いていたものの、冰にとっては初対面である。
二人共に長身の男前という印象に驚かされたものの、どちらがどちらの父親なのかは一目見てすぐに分かる程だった。
先日、氷川が言っていた通り、鐘崎僚一の方は本当に遼二によく似ていた。
父親というからには年齢もそれ相応なのだろうが、見るからに若々しくて、何より滅法男前だ。体型も引き締まっているし、独身でも通りそうなくらいで、確かに格好いい。顔付きも遼二を渋くした感じで、聞かずとも親子だと分かるようだった。
紫月の父親の方も一見モデルのような美男だが、こちらは言われなければすぐには親子と結びつかない印象だ。ということは、紫月は母親似なのだろうと思えた。
「はじめまして! 雪吹冰です。ご子息様方にはたいへんお世話になっております。また、先日はとんだご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ございませんでした。彼らのご助力で、私どもはどれ程救われたか知れません」
氷川とは違って物腰もやわらかく、真摯な様子がこれまた実に冰らしい。丁寧に頭を下げた冰に、僚一も飛燕も好印象を抱いたようであった。
「つい先日、焔がうちを訪ねてくれた際に話には聞いていたが――噂以上の男前だな。本当にいい男だ。綺麗なだけじゃなく、人柄の良さが伝わってくるぜ」
遠慮なしのストレートな物言いだが、裏を返せば、二人にとってそれ程に冰が魅力的に映ったということだろう。
「似合いのカップルだな。羨ましい限りだ」
これでは氷川が夢中になるのも納得だといった調子で飛燕が言えば、僚一もニヒルに口角を上げて、悪戯そうに微笑んだ。
「ダブルブリザードか――。こいつぁ、焔にとっちゃよくよく最高の相手じゃねえか。名前からして溶かし甲斐がありそうだ」
その言葉に、ふと、まだ氷川と親密な関係になる前のことが思い出されて、冰は瞳を細めた。
”雪吹”という名字に”冰”という名――凍るような印象のそれを知った氷川から、同じことを言われたことがあるからだ。
――雪吹冰、ダブルブリザードか。すげえ冷てえ名前だな。きっと溶かすのに苦労する。
冰にとって、まだ自身の抱える苦渋の思いを誰にも打ち明けられずに、孤独の渦中でもがいていた時だ。氷川に対しても素直になれずにいたその頃が、遠い昔のことのようにも思えて、懐かしささえ感じられる。裏を返せば、それ程に今が幸せなのだということをしみじみと実感させられる。冰は思わず目頭が熱くなるのを抑えるかのように、とびきり朗らかに微笑んだのだった。
「さて――と、それじゃそろそろ出掛けるとするか」
「焔、親父さんたちに伝言があれば伝えるが」
僚一と飛燕がそう言いながら席を立つ。
「そうだな、俺も近い内に冰と――それに遼二と紫月を連れて一度親父のところへ顔を出そうと思ってる。よろしく言ってくれ」
氷川は冰の肩を抱き寄せながら言った。
「おお、伝えておくぜ。焔、冰――うちのボウズ共をよろしく頼むな」
僚一はヒラヒラと手を振りながらも、「そうだ」と言って、今一度氷川らを振り返った。
「焔、あまりボウズ共を甘やかしてくれるなよ?」
ニヤッと悪戯そうに微笑む様子が本当に様になっている。ここへの引っ越しといい、先日二人の口座に高額の報酬を振り込んだことといい、いろいろと世話を掛けてすまないという気持ちに代えての言葉なのだろう。
氷川はそんなところが僚一らしいと、改めて嬉しそうに笑うのだった。
「じゃあな、遼二に紫月。焔と冰を見習って、お前らも精進するんだぞ」
「よく勉強させてもらえ」
口々にそう言い残して香港へと発つ彼らを皆で見送った。
ふと、窓の外に目をやれば、午後の日射しがキラキラと都会の空を黄金色に染め始めている。
「さあ、それじゃもうひと頑張りして片付けを済ませたら、夕飯は皆で豪勢に行くとするか!」
「おいおい、もう夕飯の算段かよ……。相変わらず気が早いんだからな、龍は!」
氷川と冰が睦み合いながら楽しげに笑い合う。
「でしたら、今日は俺らに奢らせてください!」
「そうッスね! 李さんや皆さんにも引っ越しを手伝っていただいちゃって、ご足労お掛けしちまったことですし、精のつくもんでも食いに行きましょう!」
遼二と紫月も大乗り気だ。
氷川と冰は勿論のこと、食事に誘ってもらった側近の李たちも嬉しそうであった。
一方、階下へと降りるエレベーターの中では、僚一と飛燕が頼もしげに瞳を細め合っていた。
「焔のボウズも立派になりやがって」
「ああ。本当にな――」
「まさか遼二と紫月坊が焔たちと縁を持てるだなんぞ、思ってもみなかったがな――」
「同感だ。奴らを見ていると、昔を思い出す。若いってのはいいもんだな。焔に冰、それに遼二坊とうちの紫月が揃って、まさに”ファミリー”の誕生というところかな」
「ああ、”焔ファミリー”だな。立派な息子に育ちやがった。ヤツの親父――香港の隼もさぞ鼻が高いことだろう」
「俺たちもまだまだ負けちゃいられねえな?」
二人は同時に微笑み合うと、互いに肩を突き合いながら高楼を後にしたのだった。
まさか遼二と紫月の父親たちがそんな会話で盛り上がっているなどとは知らない氷川らは、笑顔に満ちて引っ越し作業の続きに精を出す。
誰の頭上にも幸せの陽光が燦々と降り注いでいるかのようだった。
今ここに、それぞれにとって大切な相手と信頼できる仲間たちが集えていることの幸せを実感する。
氷川は冰の肩を抱き寄せながら満足そうに微笑み、そして遼二と紫月は窓辺に駆けてゆき、彼らの両親の姿が見える見えないと言っては、楽しそうにはしゃいでいる。それらを見守る側近の李たちの視線も朗らかな幸せに満ちている。
かつて、それぞれの親たちがそうであったように、時を越えて絆が受け継がれてゆくかのようだった。これから先、それぞれを待ち受ける未来には、順風満帆なことばかりではないかも知れない。先日の拉致事件のように、予期せぬ苦難が待ち受けていることもあるだろう。だが、運命によって結び付けられた絆は、より強固なものとなって互いを奮い立たせるに違いない。
病めるときも健やかなるときも――その誓いの如く、どんな時にも互いを愛しみ、助け合い、そうしてより一層絆を深め合っていくことができるだろう。
愛情と友情と、仲間への信頼と――。恋人も、上司も部下も、主も側近も、互いを慈しみ、共に過ごせることの幸せを噛み締める。ここにまたひとつ、新たな家族の絆が生まれようとしていた。
- FIN -