月妖伝

10 乾坤



 この世に許されない想いというものがあるとするのなら、それはどういうものを指すのだろう。
 例えば身分が開き過ぎているからそぐわないだとか、
 男同士だから背徳だとか、
 それとも神同士だから決して契りを交わしてはいけないだとか、
 いったい誰がそんなことを決めたのだろう。
 唯一人の愛する相手と想い合うことすら許されない、そんな世界ならいっそのこと壊れてしまえばいいと思う。
 そう、平穏だったこの世界に四凶の獣がもたらしたあの災いの時に、すべてが壊れてしまえばよかったのだと、そんなふうに思うのは身勝手なことなのだろう。重々承知していても、今はただ歯がゆいだけだ。
 行き場を失くしたこの想いを抱えたまま、どうやって生きろというのだろう。何度生まれ変わっても消えることのない唯ひとつの想いをどうやって諦めろというのだ。

――なあ帝雀、お前らと共に笑って過ごせればこんなに楽しいことはない。

――なあ剛准、時には喧嘩もして、拗ねてみたいと、そう思う。

――なあ白啓、うれしい時には喜び合い、哀しい時にはただただ傍にいるだけでいい。

――そして紫燕、唯一人の愛するお前とずっとずっと共にいられるのならこれ以上の至福はない。

 そんなことを望む俺は我がままなのだろうか。
 それは決して叶うことのない身勝手な願いなのだろうか。
 時々分からなくなるんだ。
 俺はいったい何を間違ったのだろうと――
 神界で戦い、そして罪を犯し追放された。気の遠くなるような永い月日の中でずっと考えていたこと。俺はいったい何をしたというのだろう。
 ただ愛する人を抱きしめただけ、それがそんなに悪いことだったのか。
 神界に召喚されて、神としての立場を得、永遠の命を与えられて、何不自由なく過ごせるその境遇を、本当はもっと重く真摯に受け止めるべきだったのだろうか。けれども俺には、神としての立場などよりもっと大切なものがあったんだ。
 こんなことを思う時点で、既に俺はすべてに於いて失格なのだと痛感する。
 『愛する人や大切な仲間と共に過ごしたいだけ』という俺の望みは贅沢なのかと、決して許されることのない背徳の希望なのかと、そんなふうに誰かを責めんばかりの苛立ちを抱え、焦れる思いを持て余す。まったくもってバカな野郎だと、頭では理解できても気持ちがついていってはくれない。俺は本当は間違ってなどいないと、都合のよい自問自答を繰り返す。

 地上界に追放されて幾年月が経っただろうか、その間に自らの幸福を投げ打ってまで俺と共に過ごしてくれたお前らには、どんな言葉や行いを持ってしても返せる恩ではないのだと、心からそう思っている。例えばこの先、もしもお前らと俺の立場が入れ替わることがあったとして、同じ年月をお前らの為に捧げたとしても、決して足りるものではないだろう。
 どんなに感謝しても、し尽くせない程にお前らの友情は厚くてあたたかかった。
 だから俺は忘れない。
 お前たちが俺に与えてくれた大いなる気持ちのひとつひとつを絶対に忘れない。例え本当にこの世界が滅びてしまったとしても、深く深くこの胸に刻んで忘れないと誓おう。そしてもう、俺の為に自らを犠牲にしないで欲しいということも、共に願いたいんだ。
 俺はきっとこの後、またどこかの時代のどこかの世へと転生するだろう。けれどもう、俺を追って地上界に降りて来てくれずともいいのだと、心からそう伝えたい。
 お前らには神界で、神としての立場があるのだから、もう俺のことは気にかけてくれずとも大丈夫だ。
 そしていつの日か、この罰を終えて再び巡り会えることがあったならば、その時こそ大声でこの気持ちのすべてを伝えたい。
 心からのありがとうを精一杯伝えたい。
 そんなことしかできない俺を許して欲しい。罪を犯し、神界を追放されてお前らまで巻き込んで、どうしようもないこんな俺にできることなど微塵もないのだろうけれど。
 ありがとうと、
 愛していると、
 例え届くことが叶わずとも、この声をふりしぼって命の限りに伝えるから――




◇    ◇    ◇



 玄武神、遼玄が地上界に追放されて幾度目の転生を終えた時だろう、頃は浪漫薫る、処は和の国、『遼二』という名で生まれ、遊郭の庭師をしていた情の厚い男に拾われて育てられた。成長し、遊郭の店子であった『紫月』と巡り逢い、いつしか愛し合うようになった。そして許されない想いは引き裂かれ、享年十八歳の短い終生を経て――
 これが最期の瞬間に彼が言い残した言葉だった。



◇    ◇    ◇



 遼玄が地上界にて一時代の生涯を終えた直後、彼の友人である帝雀、剛准、白啓の三人の神々は、神界を治める頂点である【五龍】の下へと赴いていた。
 理由はただひとつ、各々に与えられた『神』としての称号と立場から退きたい意を伝える為だった。
 自分たちの神という立場を放棄する代わりに、地上界にて罰を受けている遼玄と紫燕に赦しを与えて欲しい。そしてできるならば彼らと共に、ただ一度の生涯を全うさせてもらえるならば何より至極だと、三人は口を揃えてそう懇願したのである。
 天上界でも地上界でも、例え地底界でも、はたまたこの世で最も最悪とされる魔界ででも構わない。ただ一度だけ、大切な仲間と共に悔いのない生涯を添い遂げたいのだと、そう言うのだ。
 身勝手この上ないことだとは重々承知している。だがその上で敢えて希望することなのだと、深々と頭を下げながらそう言ったのである。
 これにはさすがの五龍も驚きを隠さなかった。
 しばしの間、沈黙が辺りを包み、だが少しして、帝雀の長である【赤龍】がようやくと口を開いた。
「そなたらの気持ちは分からないでもない。互いを思う友情と愛情も理解できないではない。だがしかし、遼玄と紫燕の戒めとて、あともう少し耐えれば解けるであろう? それが何故待てぬのだ」
 今頃になって何を言い出すのだと首を傾げる。確かに彼らが千年の輪廻転生という罰を受けてから、既にその半分以上が過ぎていた。ここまできて、その”あと僅か”がどうして待てないのだと問う。五龍の内で唯一女性である赤龍らしい問い掛けであった。
「そなたらが神界を抜け出し、地上界の遼玄のもとへと足を運んでいたのを知らぬわけがあるまい。我々は敢えて黙認していたのだぞ? それを今になってあと数百年が耐えられないと申すのか!? どうなのだ帝雀!」
 自らの愛弟子ともいえる帝雀に向かって、少々声を荒げてそう問いただす。本来、どの神々よりも穏やかであるはずの彼女が、まさに苛立ちを隠せないというのも重々伝わってきていた。
 帝雀は心底申し訳ないという思いを体現すべく、頭を地べたに擦り付けるようにしながら丁寧に一礼をすると、だがしっかりと己の師を見上げながら言った。
「赤龍様のおっしゃることは重々承知でございます。確かにあと数百年を耐えれば遼玄らの戒めは解けて、再びこの神界へと戻ってくることが赦されましょう。ですが私たちはその期間が待てないのではございません」
「では何が不満なのだ? 神の立場を捨て、例え魔界に堕ちてまでそなたらが共に過ごしたいという理由は何だというのだ?」
 それ如何によっては容赦しないとばかりの勢いで赤龍は言い放った。

 その理由はただひとつ――

「理由は、遼玄と紫燕の気持ちを大事にしてやりたいからです。彼らは一応神という立場でありながら、しかも同性同士で愛し合っています。幾度もの転生を経て尚、巡り逢う度にそれは変わらず、互いを求め合ってきました。想いが報われることは決してなかったけれど、それでも彼らは出会う度に互いを想い合った。それを間近で見ていて思ったのです。例えこの先、戒めが解けて神界に戻れたとしても、彼らの想いが変わることはないのだろうと……。神々の間で契りが禁じられている以上、彼らの想いが報われることも決してない……」
「だから……!? だからそなたらが神の立場を捨ててでも、その想いを叶えてやろうというのか? 奴らの為に……自らの幸福を犠牲にしてでもそうしたいというのかっ……!?」
 たまらずにそう叫んだ赤龍の声が神界にこだました。
「――仰せの通りでございます。僕らは互いのことを我がことのように大切に思ってやまないのです。赤龍様には心から感謝の気持ちが絶えません。ですが……ッ、どうか勝手な僕らを御許しください……。お気持ちを裏切り、ご期待に添えないこんな僕らをどうか――!」

 赦してください――

 魂の叫びのような懇願と、そして魂の限りを尽くした謝罪だった。

「――相解った。そなたらの望み、聞き届けようぞ」
 そう言ったのは五龍の長である【黄龍】であった。
 紫燕の師でもあり、五龍の中でも最も権限を持つとされる、まさにこの世の頂点である黄龍が、しわがれた声でそう言った。
 低く、そして重みを伴った威厳のある声音だった。



◇    ◇    ◇



 ほどなくして、黄龍の慈悲によって神界を去ることを承諾された帝雀らは、地上界に於いて、人間として一度きりの生涯を、仲間と共にすることを許された。
 魔界でも構わないからと言った彼らにとっては、この上ない恩赦に満ちた沙汰でもあったが、ただひとつ黄龍が付け加えたのは、これまでの一切の記憶を消し去ってしまうということだった。
 五人をそれぞれ同じ時代の同じ場所へと転生させる代わりに、仲間であったという記憶は残らない。つまりは転生したものの、そこで互いを見つけられなければそれまでだということだ。
 例え運よく出会えたにせよ、新しい世界での絆を一から作り上げていくも、単なる薄い縁で終わらせるも彼ら次第ということになる。短い生涯の中でそれができるのならばやってみるがいいという、それが黄龍が彼らに与えた最後のペナルティ、罰であった。
 帝雀らはその沙汰に深く感謝の意を告げると、必ずや互いを見つけ、悔いのない生涯を添い遂げてみせますと誓って、神界を後にしたのだった。
 そして各々の子弟が去って行った後の神界では、赤龍ら四人の神々が、信じ難い沙汰を下した黄龍を取り巻いては、重い溜息を漏らしていた。
「何故あのようなお赦しを下されたのですか? もともと身勝手極まりない彼らの申し出に耳を傾けてやるだけでも慈悲だというのに、それを受け入れ、ましてや地上界に転生させるなど……とても理解できません」
 赤龍が恨み口調でそんな愚痴を吐く。他の三人の神々――蒼龍、白龍、黒龍もほぼ同意見だといわんばかりに溜息は絶えなかった。
「まあそう言うな。とどのつまり、彼らは所詮人の子――というところなのだろうな」
 神界から地上界を見下ろす天の鏡面に杖を立て、下界の様子を四人の神々に見せながら黄龍はそう言った。
「そなたらも存じておろうが、彼らの親は天上人でありながら地上人と恋に落ちた罪人だった。それ故、彼らの中には地上人の血が半分流れておるのだ」
「それは……確かに存じておりますが」
「その血が呼ぶのだろうな。意識せずとも地上が懐かしくて仕方ないのかも知れぬ」
 そうだった。今をさかのぼること数百年、それはまだ帝雀ら五人がこの世に生を受けていなかった時代のこと。
 かつて地上世界が戦乱で荒れ果て、手のつけようのない地獄と化していたのは、もう遥か昔のことだ。その動乱を鎮めんと、天上界から選りすぐった鎮圧組織を派遣したのも、ちょうどその当時のことだった。
 もともと、神々の間で契りが禁じられているように、その頃の異空間に於いては、親しい交友さえも許されてはいなかった。ましてや男女という異性間の交わりなどは忌み嫌われ、災いを呼ぶ元凶と言われた程である。
 異空間とはつまり、【天上界】と【地上界】などといった異世界間のことを指す。
 姿かたちは同じ人間であっても、【天上人】と【地上人】では、その生涯の長さからしても全くの別物とされていた為、体力知力感情などのあらゆる面において、多々異なる別の生き物と定義付けられてもいた。それ故、異種の間柄で夫婦となり、ましてや子孫を残すことなどは以ての外、とされていたのである。
 だが、鎮圧組織に選ばれた天上人が地上に赴いた際に、それらの掟を破って異空間で愛し合う者たちが出てきてしまうという事態に陥った。
 姿かたちはさして違わない人間同士では、それも致し方なかったのだろうが、とにかくその事態に気付いた天上界では、一時天地を引っくり返したような大問題となったのである。
 これ以上の事の進行を重く見た天上人たちは、急ぎ鎮圧組織の撤収を試みたものの、時はとうに遅かった。既に幾人かが契りを交わしてしまった後で、しかもあろうことか子孫の存在までが確認されるという非常事態に、あわや惨事の大騒動だ。生まれてしまった子供を抹殺するわけにもいかずに人々は困り果てた。
 議論に議論を重ね、結局は地上人の女性が産んだ子供をすべて天上界へと引き取って、完全な監視下に置くことで事態の収拾を図ることと相成った。その時の子供たちというのが、まさに帝雀ら五人だったというわけだ。
 彼らは天上人の父を持ち、地上人の母から生まれた、いわば望まれない子供として珍視された。だがその一方で、かつての例が無いこの事態に、ある観点では非常に興味深いものの対象でもあったことは否めない事実で、故に研究者や学者の下で厳しい管理を強いられて育てられたというわけだった。
 当然の如く、父親は異種の女性と契りを交わし子孫まで残した大罪人として処刑を余儀なくされ、母の顔など知らぬまま、幼い彼らにとって頼るものは互いを思い合う絆だけだったというのは、うなづけない話ではない。
 奇妙で過酷な環境下において、誰よりも強く、誰よりもたおやかで、そして誰よりも情に厚く思いやりを持ち、また誰よりも深い悲しみや苦しみを知って育った。寂しさも、仲間の温もりの大切さも、幼い頃から身を持って体得してきたのだ。
「そんな彼らだからこそ、四凶討伐を好機に召喚を決めたのだ。神としての称号も、不老不死の永遠も、何もかも、彼らが望んだことじゃない。すべて我々が強制的に与えたことだったろう?」
 黄龍はそう言うと、そんな彼らが初めて望んだ”ただ一度の生涯”を、どうして取り上げることなどできようと、そう付け加えた。しわがれた声で、見事な程の白髪の眉に隠された瞳を、切なげに細めながらそう言った。
 その言葉に、もう他の神々たちも異論を口にすることのなく、誰もが自らの弟子を思いながら感慨深げに下界を見下ろしていた。中でも赤龍の美しい瞳からこぼれ落ちた涙が一筋頬を伝う様子は、他の神々の心をより一層切なくさせるようでもあって、しばしは誰もが下界を見下ろす天の鏡面から離れようとはしなかった。

「見せてもらうぞ、帝雀よ。そなたらの生きざまを――! どのように巡り会い、どのように慈しみ合い、どのように傷つけ合い、そしてどのように愛し合うのかを。すべてこの神界から見ていてやろう。私はいつでもそなたらを案じてやまない。だから存分に、思うがままに生き抜くがいい」
 一心に弟子を思う赤龍のそんな思いが通じたのだろうか、下界では桜花舞い散る春の暖かい日差しが、そこに生きとし生けるすべての者に、同じように降り注いでやまなかった。



◇    ◇    ◇



 頃は陽春、処は和の国、平成の時代――

 工業地帯が立ち並ぶ港に面した下町の、春うららかな河川敷。賑やかしい笑い声と共に遊歩道を歩くのは、墨色の学生服をまとった高校生の一団だ。その中でもひと際楽しげに、薄桃色の花吹雪の中をじゃれ合いながら駆け抜ける二人の学生の笑顔があった。
 少し先を行く一人が、後方を歩く友人らしき男に大声で何かを叫んでいる。
「おい紫月! 急がねえと遅刻だぜ!」
 どうやら今日が新学期の始業式らしい。こんな日くらいは遅刻はナシだぜ、とでも言うように、先を歩く男が少々焦りながらしきりに手招きをしている。
「ああ、分かってるって――」
 分かってるけど、こんなにも見事な花吹雪なんだ。ちょっとは楽しみながら歩いたってバチは当たらないだろうぜ?
 そんな表情で、前を行く友を追い掛けた。
「待てよ剛! せっかくだから……」
「は――? せっかくだから何?」
「もうちょい……」

 そう、もう少しこの桜花を楽しんでいこうぜ――

「は、そんなことしてっとセンコーにドやされっぞ! 新学期早々何やってんだってなー」
 眉間にしわを寄せてボヤきながらも、剛と呼ばれた男はクスッと笑って、相棒の肩に腕を回した。
「そういや知ってっか? 今学期から俺らのクラスに転入生が来るんだってよ? 確か明日とか言ってたな……」
「――マジ?」
「ああ、何でも海外から引っ越してくるみてえだぜ? センコー達が大騒ぎしてたもん。ひょっとして外人か、ハーフとかだったりして? だったらお前以上のイケメンかもな~? そしたら入学以来守り続けてきた『ここいら界隈で抱かれたい男ナンバーワン』っていうお前の座も明け渡す日が来たりして!」
 まるでからかうようにそんなことを言ってよこす友に、紫月と呼ばれた方の男は、チィと軽く舌打ちをしてみせた。
「ンなの、どーだっていーよ。興味無えし! そんなことより始業式が終わったら【桃稜】との番格勝負とやらが待ってんだ。俺りゃー、そっちの方で頭いっぱいなの、今日は!」
「ああ、そうだったな?」
 桃稜というのは、どうやら彼らの通う高校の隣接校のようだ。立地が近いせいもあってか、昔から犬猿の仲なのは既に伝統のようなものらしく、未だに顔を合わせば睨み合いの絶えない始末だ。
「まあ、頭(アタマ)張っちまった以上、仕方ねえだろ? なんせお前は今年のトップ、ちっとレトロな言い方をすりゃ『番長』ってことだもんな~?」
「は――そんなん勝手にてめえらが押し付けてきただけじゃん」
「仕方ねっだろ? 喧嘩やらせりゃ、お前が一番強えんだから。それより桃稜の方は今年の番格って誰よ? やっぱ氷川って奴か?」
「十中八九間違い無えだろ? 氷川白夜――あいつで決まりだろ?」
「そういや、仲裁役を務めるとかっていってた白帝学園の代表も来んのかな?」
「来るだろ? 白帝の頭(アタマ)は……今年は確か、粟津帝斗とかいう財閥のお坊ちゃんだ」
「あー、知ってる! 粟津財閥っつったら、ここらじゃ有名だもんな! ところでその勝負って何時から?」
「んー、多分午後の三時かそこら」
 頭上の桜を見上げながら、そんな会話が延々と続く。

 かつて、自らがこの世を治める神々の下で【四神】と呼ばれていたことなど、今の彼らは微塵も知らない。
 黄龍の慈悲によって帝雀らが地上界に転生してから、十数年が経とうとしていた。



◇    ◇    ◇



「地上ではもうあれから十八年も経つのか。早いものだな? 今や彼らもハイテク時代に生きる高校生か。相変わらずやんちゃ坊主なことで……今日もこれから喧嘩だなどと騒いでおるわ」
 下界を見下ろす天の鏡面を囲みながら、神界を治める神々の一人である赤龍が、感慨深げにそんなことをつぶやいた。
 かつての愛弟子だった帝雀らが此処を去ってからというもの、ずっとその動向を気に掛けてきたのだ。
 神界とは時間の長さも異なる地上界にて、これまでの記憶を一切サラに戻された彼らが、どのようにして出会い、どのような生き様を連ねるのか、ずっとずっと気に掛けていた。
 下界の桜花に通ずるような、物憂げな溜息をついてみせる赤龍を目の前に、季節の茶をすすりながらその話相手を努めていた蒼龍と白龍が、こそっと彼女に耳打ちをした。
「そういえば魔界の方でも、このところ少し不穏な動きがあってな」
 蒼龍らの言葉に、赤龍は怪訝そうに眉をしかめて見せた。
「不穏な動きと申すと?」
「どうやら以前に魔界に封印したはずの【駿鬼】が、何やらよからぬ動きをみせているようなのだ」
「駿鬼――というと例の青年か? あの……四凶獣に魂を売り渡して世界を破滅しようとした……」
「そうだ。その彼を討伐しようとして帝雀や遼玄、紫燕らあの五人が奮闘してくれたのだからな」
 それは年月にして、もう遥か八百年もの昔のことだ。如何に時間の流れを忘れてしまいそうな神界であろうとも、確かに遠い昔と思える出来事だった。
 そう、もともとはその駿鬼がこの世の災いとされる四凶獣に魂を売り渡し、この世界を潰すべく神界に挑んできたのがすべての始まりだった。
 その際に身を賭して戦ったことで、紫燕が意識不明の重体となり、それがきっかけで遼玄があのような罪を犯す引き金となってしまったのだから。
 その時、魔界に封印したはずの駿鬼が、今更何を企んでいるというのだ。赤龍は焦燥感をあらわにしながら、仲間の話に聞き入っていた。
 詳細はこうだ。
 帝雀らが四神の立場を捨てて、自ら下界へ下った経緯を耳伝いに聞いた駿鬼は、驚愕の思いに打ち震えた。
 彼にしてみればそれも当然であろう。かつて、自らがあれ程望んでやまなかった神の立場を、あっさりと手中にし、そしてあっさりと放棄するなど信じ難いを通り越して、到底理解できない行動に他ならない。
 だが、何よりも駿鬼を苛立たせたのは、彼らが仲間の幸せを願うが為に己のすべてを犠牲にできる間柄だということの方であった。
 駿鬼には帝雀らのこの行為が、酷い偽善に思えて仕方なかったのである。だが今もなお、四凶獣の体内に封印されたままの身である自分には、何一つできることなど無いことも分かっていた。この封印が解けるまでにはあと二百年程も残っているのだ。それは、かつての遼玄に下された戒めの期間とほぼ同期でもあった。
 千年間の封印が解け、再び神界に挑むその日だけを支えに耐え忍んできた彼にとっては、まさにこの後の身の振りようを揺るがす程の衝撃に違いはなかった。
 四凶の体内に封印されるという屈辱を耐えても手に入れたかったのは、より強大な力のみだ。遼玄と紫燕らによって打ち砕かれた己の望みを手に入れ、あの時の雪辱を晴らし、そしてこの世界に君臨する。それだけを生き甲斐にしてこれまできたというのに。
 そんな駿鬼にとってみれば、まるで肩すかしをくらったようでもあり、あるいは帝雀らの清らかに見える行動が、自らをより一層汚いものに例えてしまうようにも思えて、苛立ちはとめどなかった。

 信じ難い屈辱、
 理解し得ない絆、
 偽善を装ったお前たちに、本物の醜さを見せてやろうではないか――
 人など、誰しも同じだ。
 誰しも愚かで醜い心を持て余した生き物に過ぎないのだ。
 友情やら愛情やら、そんな絵空事のようなことを並べ連ねて善人面をまとったお前たちに本来の姿を見せつけてやる。
 この世に尊い友情などあるものか――
 この世に汚れ無き愛情など存在しないのだということを刻みつけてやりたい――
 地上界でお前らが夢見るものすべてを壊してやる。
 せいぜい互いに傷つけ合って、互いの大事なものを踏みにじり合うがいい――!

 痛恨に満ちた駿鬼の激情が、四凶の魂を食い破り、魔界を揺るがす波動となって、地上界を目指していた。

 もしもお前の信じていた友が、お前の一等大事な相手を穢したとしたら、それでもお前は平気な顔をしていられるか?
 それでも仲間を信じ、仲間に感謝するなどと悠長なことをほざいてはいられないだろう。
 それが人間なのだ。それが本来の姿なのだ。
 どんなに友情を繕おうと、そんなものは目の前の些細な憎しみ如何によって、いくらでも醜いものへと変貌をとげる。
 だからせいぜい憎しみ合うがいい。そして醜い争いを繰り返し、偽善で覆い尽くした仮面を剥がし合い、ののしり合うといい。
 不老不死の立場を捨てて、かくも短い一度の生涯を選んだ偽善者共に、この上ない後悔と苦渋を与えてやろう――



◇    ◇    ◇



 駿鬼のねじれた恨みがどす黒い怨念となって、もうすぐ彼らを呑みこむだろう。
悪戯な運命に惑わされて尚、互いを信じ、互いを許し、そして互いの絆を深め合っていけるだろうか。


 帝雀、剛准、白啓、遼玄、紫燕、強くやさしくたくましい我が弟子たちよ――
 例えばお前たちの身の上にどんなに酷な運命が降りかかってきたにせよ、それが自らの選んだ道である以上、最期の瞬間まで抗うことを諦めるな。そしてただただ己を信じ、互いを信じて突き進むがいい。
 我らはいつでもお前たちを見守っている。
 お前たちの行く末を、片時も忘れずに見守っていてやるから。
 その命の尽きる、最期のその時に、これが自分たちの生き様なのだというものを堂々と我らに示せるよう、胸を張って生き抜くがいい――



 鏡面の中で揺れ始めたそれぞれの行く末を案じながら、赤龍ら神界五大神は、皆一様の思いで花吹雪の舞う下界に思いを馳せた。

- 結 -



Guys 9love

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