月妖伝

5 残月



 紫燕がいた街よりは幾分小規模なものの、割合賑やかな隣り街でとりあえずの宿を見つけたのは、夜半もとうに過ぎた頃だった。
 天心に昇った月が早い雲間から神々しく見え隠れしている、そんな夜だ。
 遼玄らは一先ず、賭場を荒らした理由を紫燕らしき男に説明すると、乱闘騒ぎを起こしてしまったことに対して詫びの言葉を口にした。昼間に偶然、飯屋で居合わせた連中がよからぬ談義をかもしていたのが気になって賭場へと足を運んでみたのだと、分かりやすく真摯な態度で説明するのは帝雀の役どころだ。それらを割合落ち着いた様子で受け止める賽振りの男はやはり紫燕なのだろうか、見れば見るほどそっくりな顔立ちに、思わず『お前、紫燕だろ』などと問いただしたくなる。
 だがそんなことを言ったところで彼には一切の記憶がないのは知れていることなのだから、どうにもやるせなかった。しかも夜半をすっかり過ぎているこの時分だ。そろそろ休むべきが賢明だろう。
 気をきかせた帝雀が二部屋を取ったので、とにかくは二手に分かれて休むことにした。後はお前が判断しろというようにして帝雀らが隣りの部屋へと引っ込んだ様子に、遼玄はくしゃりと瞳を細めた。



◇    ◇    ◇



 紫燕らしき男と二人っきりになった部屋で、遼玄は言葉を探していた。
 何を話したらいいのだろう――あんなに追い求めたはずの男が目の前にいるというのに、何故だろう、気のきいた台詞のひとつも浮かんでこない。それは男の方も同じようで、二人はしばし距離を取ったまま互いの様子を窺っていた。
 遼玄は部屋の隅に置かれた茶卓の脇に腰掛けて行燈の仄暗い灯りに視線をやっているだけだ。対する男の方は窓枠に軽くもたれながら、障子越しに外を垣間見るような素振りを続けていた。
「なあ、あんたさ……喧嘩強えんだな」
 最初に口を開いたのは男の方だった。遼玄は驚いたように瞳を見開くと、窓枠に寄り掛かる彼の方を見つめた。
「けど……どうしてくれんのー? 俺、仕事失くして食いっぱぐれちまうじゃねーのよ」
 あんたのせいだぜ、というようにジットリとした流し目でこちらを見やり、そうされてしどろもどろになっている様子に可笑しそうに口元をほころばせる。
「嘘だよ、冗談。ま、もうあの賭場でサイコロ振るのは無理だろうけどさ、あんたらが来なくても遅かれ早かれこうなってた……」
 窓から差し込む月の灯りを見上げながらそう言った。その声音が何となく諦めの感をたっぷり含んだ憂いのように感じられて、遼玄はふいと首を傾げてみせた。そんな様子を他所に、男はまだ格子の外を見上げながら、まるで独り言のようにツラツラと身の上話のようなことを口にし始めた。
「あんたらが言ってた『俺によからぬことを企んでる奴ら』っていうの? そいつらはあの賭場の元締めの子分共でね。ちょっと前から入り浸っちゃちょっかい出してきやがってよ、正直なとこ迷惑してたんだ。何でも俺のことを元締めが気に入ったからとか何とか抜かしやがって、賽振りやめてそいつの色者にならねえかってさ。呆れた話だろ? ま、そんなのは今に始まったこっちゃねえんだが……師匠が生きてる頃はまだよかったんだけどね……。ああ、俺ね。ガキん頃に親亡くしててさ、浮浪児みてえだったのをサイコロ振りの師匠に拾ってもらったんだよ」
 それから男は自分が育った境遇を、やはりツラツラと独り言のようにして話してよこした。格子に頭をもたげながら時折はちらりと視線をこちらにやって、だがすぐまた窓の外を見やるといった仕草を繰り返しつつ、独白のような台詞を続ける。遼玄は内心、胸を逸らせながらも黙ってその話に耳を傾けていた。
 こいつは本当に紫燕なのだろうか――
 言葉じり、声音、仕草のひとつひとつに神経を研ぎ澄まし思案する。そして瓜二つな横顔をじっと見つめては半信半疑の思いに胸を高鳴らせる。それはともかくとして彼が紫燕であるにせよ、全くの別人にせよ、出会ったばかりの自分を相手にどうして身の上などを話して聞かせるのだろうということの方が気にかかった。複雑な思いを胸に、それでも彼の話の中から『紫燕であるということを匂わせる何か』を感じ取ろうと、神経を尖らせながら聞いていた。
 だが彼の歩んできた道のりは、聞けば聞くほど遼玄にとっては辛辣な感情を突き付けてくるようなものだった。
 親を亡くしてからは飢えをしのぐ為にそれこそ苦労の連続だったのは明らからしい。盗みに失敗してはとっ捕まって酷い目に遭うこと茶飯事、十五歳を過ぎたあたりからは男色嗜好の大人を相手に、身売りに近いようなことをしながらその日その日をかいくぐったという。
 遼玄にとっては実に耳の痛い話に他ならず、だがもっと辛いことには、それを話す彼の様がまるで無表情で他人事を語るようでもあって、それは嫌な記憶を封じ込めてしまいたいが故の裏返しなのではないかと思えるのが気の毒でならなかった。
 それ以前に沸々と湧き上がる嫉妬の感情に胸が焼け焦げるようで、どうしょうもない激情に駆られた。どこの誰とも知らない奴が紫燕かも知れないこの男にいかがわしいことをしたのだろうと想像するだけで、身体中の血が逆流しそうだ。
 何だかもうこの男が紫燕であろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいような気にさえさせられる。今、目の前にいるこの彼に二度と辛い思いはさせたくない。胸の奥が熱くなり、涙がにじみ出すような激情が身体中を引っ掻き回しては苛むようだ。眉間のしわを強くしながら押し黙ったままの遼玄を振り返ると、紫燕らしきその男は言った。
「だからさ、ホントのとこ言うとね……今夜あんたらが暴れてくれたお陰であいつらから逃げられたのは、俺にとっては有難かったわけ。ま、けど……そンかわり明日の保障は無えってとこだけどー」
 今晩がしのげればそれでいい、今が平穏ならそれが淡くも幸せなのだと、彼の少し翳った笑顔がそう語っているようで、遼玄はますます胸の詰まる思いに居たたまれずに、思わずその名を叫んでしまった。

「紫燕――っ!」

――――え?

「あ、いや……済まねえ……」

 驚いたような表情で互いを見合い、しばし沈黙が二人を押し包んだ。
 そして今度は遼玄の方が彼に代って思いのたけを話し出した。
「その……余計なことかも知れねえが……何で俺にそんなことを話す――?」
「……え?」
「俺ら、会ったばかりじゃねえか……。それ以前に……っ! 見ず知らずの俺たちについて来て、しかも宿を共にするなんてよ。もしも俺らがさっき言ってた『元締め』とかいう連中の回し者だったらどうすんだ? そうでなくても……もっと悪巧みしてるアブねえ輩かも知れねえのによ、あんた、ノコノコついて来ちまって……もっと自分の身を案じたらどうだよ!」
 咄嗟に怒鳴り上げ、だがすぐにハッとしたように言葉を詰まらせると、
「悪い……無理矢理引っ張って来たのは俺たちだったな」
 そう言って瞳を翳らせた。そんな様子に間髪入れずといった感じで、
「違うだろ? あんたらを引き連れて走ったのは俺の方――だろ? 実際、逃げる気ンなりゃ、あの騒ぎに乗じてとっくにそうしてたさ」
 フイと笑いながら彼も一緒に瞳を翳らせた。


 雲が早い――


「なあ、あんたさ。惚れたオンナとか……いる?」
 格子の外を眺めながらボソリとそんなことを言う男の様子に、ハッとしたように遼玄は彼を見やった。
 蒼い闇の中に浮かぶ彼の頬を真っ白い月光の灯りが照らし出し、また翳る。空を見ずともそこに雲の流れを感じた。
 そして彼が続けたひと言に、時が止まるほどの衝撃を受けさせられた。
「俺、二十二(歳)にもなるのによ、オンナを知らねえの」

「――!?」

「なんつーか、おっさん連中に色者扱いされてきたからさ……そっちの方ばっか経験する内にオンナとできなくなっちまったってーか……自分が汚く思えてよ、好きでもねえ野郎にいかがわしいことされたり……なんかもう嫌ンなっちまうのな。さっきの話の元締めってヤツだってそーゆー目的で俺を欲しがってたわけだし。今日あたり強行で連れてかれんだろうなって踏んでたから、覚悟はできてたんだけど」

 だからさ――

「どーせならあんたみてえなイイ男についてった方がいいって……例えばあんたらがロクなこと企んでない悪いヤツだったとしても、それならそれでいいかなって思ったのよ。どーせロクなことになんねーなら、あんたらに騙される方がいい。っていうか……正直なとこ言っちまうとさ、一度くらいは……あんたみてえなのと……」

 いや、何でもない――

 まるで自嘲するようにクッと笑うと、男はそこで言葉をとめた。
 月光を背にこちらを向いた男の顔は、仄暗い逆光で表情は窺えなかった。だが、酷く切なそうにその瞳が震えているように感じられて、気づけば遼玄は堪らずにガタリと卓上を揺らして片膝を立てていた。
 彼のもとへ駆け寄ろうとでもいうのか、瞬時にちゅうちょする気持ちと逸る気持ちが交叉する。
 ドクドクと体内を巡る血の流れが速くなるのを感じる。


――なあ、どうして賭場を荒らしてまで俺を連れ出したりしたんだ?
 元締めの手下から逃がしてやろうって、それだけの理由であんな無茶をやらかしたのか?
 あんたの本心はなんだ? 単に親切心なのか、それとも――


 こちらを見つめる男の瞳がそう言っているように感じられて、遼玄は言葉を詰まらせた。

 違うんだ。俺は本当はお前を……お前が紫燕であるかを知りたくて……!

 そう言いたいのに言葉が乾いて肝心の台詞が出てこない。
 静寂とは裏腹の熱い空気が互いの間に伝い広がるのをはっきりと感じていた。
 そして、月光をさえぎる雲の厚みがひと時の闇となって二人を包む。

「なあ、あんた……オトコは抱ける――?」
「……ッ!?」
「気色悪ィなら無理強いはしねえが……俺、一度くらいはてめえでいいなと思ったヤツと一緒に眠ってみてえ……あんたみてえなイイ男とさ……」

 そう、今までの望まない誰かに穢されるんじゃなく、自分で望んだ唯一人とひと時の夢が見られたらいい。
 たった少しの時でいいから、
 淡い幻想で構わないから、
 そうしたら、汚れた俺の今までのすべてを洗い流せそうな気がするんだ。

 吐息とも声ともつかない儚い言葉が風に消える。
 堪らずに、彼の傍へと駆け寄り、その腕を引き寄せた。

「紫燕――ッ!」

「――?」

「そんなこと言うと……本気にするぞ」

「ああ……もちろん。あんたが嫌じゃなけりゃ……」

 引き寄せた腕を自らの腰元に導きながら背中ごと抱き締めた。
 フワッと頬をくすぐるやわらかな髪の匂いに胸の中が掻き回されるような懐かしさがこみ上げた。ドクドクと流れる血脈は熱くて、瞬時に汗ばむくらいに火照り高鳴る。これが夏の夜特有の湿度のせいなのか、あるいは自らの想いの熱さのせいなのか、そんなどうでもいいようなことが脳裏を巡る。
 見つめ合い、探るように唇を奪えば、まるでこれまでの閉ざされた永遠が一気に解き放たれるかのように激情があふれ出した。
 腕を、
 背中を、
 髪を、
 頬を、
 触れ合うごとに、その触れた箇所から金色の光が立ち上っては二人を包み、それはまるで黄金の龍の化身のようでもあって、遼玄はあまりの驚きに我が目を疑った。
 これは黄龍の化身――?
 やはりお前は紫燕なのか……?
 遥か昔に共にあった記憶が次々と浮かんでは鮮明に蘇る。

「紫燕っ……ああ、紫燕ッ……! 好きだ……お前が……お前だけが……」



 俺のすべてだ――



 汗ばんだ袷に指先を引っ掛けて押し広げれば、白肌に浮かぶ胸の突起にクラリと視界が歪んだ。
 どうしょうもない程の淫らな欲情が何百年の永遠を突き破って身体中を這いずり回る。そこを吸い取るように唇を近付け、待ち切れずに舌先で舐め回せば、色香にあふれた喘ぎが月光の中に立ち上った。
 彼を布団へと押し倒し、乱暴に求めれば、肌蹴た着物の中では既に蜜液が自らの雄をとっぷりと濡らしているのを感じて、より激しくその肌を貪った。
 解けかかった角帯を剥いで、着物を破るような勢いでむしり取る――
 組み敷いた男のソレからも透明な蜜があふれ出しているのが分かって、堪らずにそれを口で咥え込んだ。
「……っ、ああっ……は……ぁっ!」
 淫らによじられる腰元の動く度に独特の雄の匂いが鼻をくすぐり、それと同時に激しく乱れていく寝具のしわにも抑え切れない欲情がドクドクとあふれ出し――


 夢見ていた
 この時をずっとずっと夢見ていた


 熱情のままに、痛い程に腫れあがった硬い雄を彼の秘部へとねじ込んだ。
 そう、このまま――
 ずっとこのまま、お前が誰であろうと構わない。
 紫燕にそっくりなお前が、
 黄金の龍の化身をまとったお前が、
 ヤツの生まれ変わりであろうとなかろうと、そんなことはもうどうでもいい。
 放しはしない。
 もう二度と大事なお前を放さない。
 二度と――



「紫燕ッ……! ……っい……してる……! 愛してる紫燕っ……!」



 激しい挿し抜きを繰り返しながら、遼玄は永き想いのすべてを掠れる声に託して叫び続けた。
 何度も何度も、同じ叫びを繰り返した。
 まるで嗚咽とも呪文ともつかないようなその叫びと共に、頬を伝うあたたかい雫がボロボロとこぼれて落ちる。
 自分を抱き締めながら涙をこぼすこの男を見つめながら、『紫燕』もまた、頭の奥の方から誰かに呼ばれるような不思議な感覚にとらわれていた。
 小さな光が脳裏の隅から手招くように浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。その先に何かとてつもなく大事なことが待っているような、あるいは大切な何かにつながっているような気がして胸が熱くなる。


 何時だったか、俺はこの匂いを知ってる――
 この男の嗚咽を、
 この男の涙のあたたかさを、
 どこでだったか感じたことがあると思うのは錯覚か?

 あの光の向こうから俺を呼ぶのは、ひどく大事な何か――
 忘れるはずのない誰か――
 あれは誰だ?
 あの光は、
 何なのだろう?


 頭の片隅にチラつく微かな光が格子を照らす月の光と相まった瞬間に、身体中が掬われそうなほどの到達感が背筋を這い上がり、弾けた白濁が二人の腹の間でねっとりと熱く絡んで濡れた。
 熱い吐息にとろけた視線、じんわりと額を覆う汗に濡羽色の黒髪が乱れ重なる。
 激しく乱暴な求め方とは真逆の哀しく切ない嗚咽、魂を揺さぶられるようなこの男の抱擁をやはりどこかで知っている。
 脳裏を巡る小さな光の向こうに大事な何かを封じ込めているような気がしてならない。いてもたってもいられないような思いに、男は自らを『紫燕』と呼び続ける彼の背にギュッとしがみついた。



Guys 9love

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