極道恋事情
◆41
そうして初めての八ッ橋の味を堪能した冰は、お茶が済むとそのまま周の部屋に寄るようにと言われた。彼の私室はダイニングとは扉一枚で繋がっている隣だし、これまでにもチラりと覗き見ることはあったのだが、こうしてじっくりと訪れるのは初めてだった。
「うわ……何、この部屋……。すげえ……!」
あまりの驚きに、冰はポカンと口を開けたまましばし唖然とさせられてしまったほどだ。というのも、周の部屋は洋室である冰の部屋やダイニングとは違って、中華風に造られていたからだった。装飾もまさに極細、まるで今にもいにしえの皇帝が現れるのではないかと思えるような雰囲気なのだ。
「もしかしてお前がこっちに来るのは初めてだったか?」
「……そう……だけど。だっていつもダイニングで会えてたし……」
それに、周の私室だ。いかによくしてもらっているとはいえ、勝手に出入りするなど到底できるものではないと思っていたからだ。
だが周は、さも当然といったようにこう付け加えた。
「こっちの装飾が気に入ったんなら、いつでも好きに使って構わねえぞ」
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめながら平然と言う。
「あ、ありがと……。でも俺の部屋の……洋室の方もめちゃくちゃ気に入ってるから大丈夫……」
「そう遠慮することはねえ。俺はいつでも大歓迎だ」
「あ、うん……。じゃあ、たまに……来させてもらおうかな」
モジモジとしながらうつむき加減で頬を染めた冰を横目に、周は脱いだ上着の胸ポケットにしまってあった物を取り出すと、それを冰の掌に乗せるように差し出した。
「ほら。もうひとつ土産だ」
それは小さな和紙の包みだった。手漉きのようで、雅やかな和の模様が施されている。
「お土産って、俺に?」
「ああ。開けてみろ」
「うん」
中身は何なのだろう――周が和菓子の他にわざわざ買って来てくれたらしいその包みを、冰はドキドキとしながら開いたのだった。
「――あ……!」
それは絹紐で出来たストラップのようなものだった。十センチほどの紐の先端には宝石だろうか、キラキラと光る小さな石が括り付けられてある。しかもそれは二本あって、デザインは同じで色違いのものだった。
「これ、もしかして宝石? 紐も、こんなの見たことない。すげえきれい……」
冰が珍しそうに眺めている側で、周が言った。
「組紐というやつだ。京都の馴染みの店でな、前々から依頼してあったんだが、ちょうど出来上がったと連絡をもらっていたんで受け取ってきた」
よくよく見ると、ひとつは真っ白な中にところどころチラホラと淡い灰色が混じっているように組んである。その白をベースにした紐の先には小指の爪ほどの大きさの透明な石がコロンと取り付けられている。カッティングのせいか、光に当てるとキラキラと輝いて、素人目にも宝石だと分かるような代物だった。
もうひとつは、形は白い紐と同じだが、色は赤を基調としていて、先端には深い紅色をした透明度のある石が取り付けられてあった。
◆42
「これって……宝石だよね。水晶かなにか……?」
小指の爪ほどもある大きさだ。仮にもダイヤだとは思えないが、輝きは半端ではない。冰はおそるおそる周を見上げながら訊いた。
「白い方のはダイヤモンドだな」
「……ええッ!?」
宝石などに疎い男の冰でも、それがどれほど高価なのだろうと想像するのもおそろしいくらいだ。だが、周は平然としたように先を続けた。
「ストラップってのは普段使いするもんだろうが。すぐに割れちまったんじゃ意味がねえ。その点、ダイヤは硬度があるからな」
だから普段使いにはもってこいだというわけなのか――一般庶民として育った冰からすれば、驚く以前に発想からして異次元だ。
「赤いのは――まあ、ダイヤほど硬度はねえだろうが、ガーネットという宝石だ」
「ガーネット?」
冰にはあまり耳慣れない名前だった。赤い宝石といえば、すぐに思い浮かぶのはルビーくらいである。
「今回は硬度よりも色味で選んだからな。パイロープガーネットという種類のやつらしい」
「パイロープガーネット……」
二つの組紐を見つめながら、冰はハッと何かに思い当たったようにして瞳を見開いた。
「これ、もしかして……俺と白龍の……」
そう、名前にちなんだものではないかと思ったのだ。
以前、ケーキを選んだ際に周が言っていた言葉を思い出す。
『俺らの名前にピッタリだな』
あの時、冰はホワイトチョコレートでできた真っ白なケーキを、周は紅いベリーのムースケーキを頼んでいた。その時は偶然だったのだが、雪吹冰という”白”をイメージさせる名前と、周焔の”赤”をイメージさせる色のケーキを選んだことで、周が自分たちの名前のようだと言ったのだ。それを覚えていて、わざわざこうして揃いのストラップを作ってくれたというわけか。
冰はあまりの感激に、思わず胸が締めつけられたように苦しくなり、今にも涙が滲み出してしまいそうだった。
「白龍……あの、これ……」
「ああ。俺とお前と揃いで使おうと思ってな」
「お揃い……って、ホントに俺がもらっても……いいの?」
「ああ。その為に作ったんだ。スマートフォンのカバーに付けるのにちょうどいいだろうが」
周はそう言って、自分用の赤い方の組紐を冰の掌から取ろうと指を伸ばした。白い方には純白の中に降りしきる”雪吹”をイメージして薄灰色の糸を交ぜて組み込んでもらったのも、名前にちなんでと思ってのことだ。
だが冰は、伸ばされた指を咄嗟に掴むと、周にとってはひどく驚くようなことを口にした。
「待って白龍! あの、あの……さ。俺がこっちを貰ってい……?」
冰が取り上げたのは赤いストラップの方だった。
「我が侭言ってごめん。でも俺――こっちがいい……んだ。だって、だってさ……。これ持ってたら、いっつも白龍と一緒って思えるし」
うつむき、小さな声で頬を朱に染めながら弱々と呟いた冰を見つめながら、周は驚きに一瞬硬直させられてしまったほどだった。
◆43
「冰――お前……」
「ごめん……我が侭言って。でも……もしよかったら俺……」
”焔”を意味する赤いストラップを持っていたいんだ――
「冰――あまり可愛いことを言ってくれるな……」
「白……龍……?」
「俺だって男だ――。理性にも限界ってモンがあるぜ?」
「理性……って」
「……ッ、まあいい。お前がいいなら赤いのはお前が使えばいい。俺はこっち――”雪吹冰”の白は俺のもんだな」
周はそう言って微笑むと、ヒョイと白い紐を取り上げて、早速自分のスマートフォンへと括り付けてしまった。
「ほら、お前も付けとけ。外すなよ――?」
ニッといつもの不敵な笑みを見せると、周は風呂に入ってくると言って、サッサとバスルームへと向かってしまった。
「あの……ッ、白龍!」
「すぐに出る。出たら一緒に一杯やるぞ! 揃いのストラップ記念だ」
「あ、うん!」
「テレビでも観て待っとけ」
ガラガラとバスルームのガラス扉を閉めながら言う。その声は笑みを帯びていて楽しそうだった。
磨りガラスに彫り込んだ模様が施されている造りの扉からは、周が着衣を脱いでいる様子がぼんやりと透けて見える。それをぼうっと眺めながら、冰はだんだん頬が真っ赤に染まっていくのを自覚して、邪な想像を振り払うかのようにブンブンと首を振るのだった。
「それにしても、白龍が言ってた理性って……どういう意味なんだろ……?」
香港にいた頃にはディーラーをやっていたという割に、糸通しなどの細かい作業に関してあまり手先が器用とはいえない冰は、カバーの穴の中にストラップを通すのに四苦八苦気味だ。――と、その時だった。
中華風の卓上に置かれていた周のスマートフォンが着信を告げる。聞き慣れたメロディーにビクりとそちらに目をやった冰は、思わず画面に表示された文字が視界を過ぎってしまい、いみじくも釘付けにさせられてしまったのだった。
覗き見るつもりではなかったものの、すぐそこに堂々と放置されていたそれが目に入ってしまったのだから不可抗力といえる。
そこに映し出されていたのは漢字の二文字――。
”紫月”と表示されながら光っている。
紫月。名前だろうか――。そこに名字らしきはない。
男性とも女性ともつかぬその名前に、ビクリとさせられる。
もしかしたら周の恋人かも知れないと冰は思った。
周はまだ磨りガラスの向こうで脱衣中だ。
気が付いた時には、彼のスマートフォンを握り締めて、磨りガラスの所まで駆け寄っていた。
「白龍! 白龍ってば! 電話……! 電話が鳴ってるよ」
扉の前で大声でそう叫ぶ。別段、今すぐに取らなくてもよかったのだろうが、冰にそんなことを気付ける余裕はなかった。
「白龍! スマートフォンが鳴ってる! なあ、白龍ってば!」
焦った様子が気に掛かったわけか、周は磨りガラスを開けて中からニュっと顔を出すと、怪訝そうにしながら言った。
「電話だと? 誰からだ」
「……っとね、シヅキさん……って読むのかな。紫の月って出てる」
それを聞くと周は「ああ」と笑って、
「お前、出とけ。風呂上がったらかけ直すと伝えといてくれ」
至極当然のようにそれだけ言って扉を閉めてしまった。
◆44
「や、ちょ……っ、待っ……!」
残された冰は慌てふためく――などというどころではない。
「おいー、どーすんだよー……代わりに出とけってったって……そんな」
相手が周の恋人だったらと思うと、息が止まりそうだった。だがしかし、そんなことを言っている場合でもない。コールは鳴り続けている。緊急かも知れない。
冰は自分にそう言い聞かせると、覚悟を決めたように画面の応答をスワイプしたのだった。
「はい……もしもし」
きっと相手も驚くことだろう。
いったいどんな声の女性なのだろう。
それ以前に彼女にはこの状況を何と説明すべきか。自己紹介はどうすべきかなどと、次から次へと浮かんできて頭の中は軽いパニック状態だ。緊張も緊張、ド緊張といった冰の耳元に聞こえてきたのは――
『よう! 遅くに悪ィな』
なんと男の声だった。
思わず拍子抜けさせられてしまう。すぐには返答の言葉さえ出てこないほどだった。
『もしもーし! 氷川ー? まさかもう寝てたってかー?』
画面の向こうでは男の声が暢気そうに話し掛けてくる。
「あの……氷川は今、風呂に入ってまして! 出たらかけ直すとのことです!」
直立不動の人形のごとくそう言った冰に、相手の男は一瞬言葉をとめたようだが、すぐにワクワクとした声音を返してきた。
『――もしかして冰君か?』
「え……!?」
『冰君だろ? 氷川ンところの! いやぁ、やっと会えたじゃん! つか、会えたとは言わねっか。俺、一之宮紫月! 氷川のダチだ』
「……ダチ……さんですか?」
香港育ちの冰には聞き慣れない言葉だったのだろう。電話の向こうからは楽しそうな笑い声がこう返してきた。
『ああ、そっか。キミ、香港から来たんだったな。ダチってのは友達って意味な。氷川からキミの話はよく聞いてるもんで、初めての気がしねえなぁ』
紫月という男はフレンドリーな調子で続けた。
『そういえばさ、この前はありがとな! 俺ンとこにケーキ届けてくれようとしてたんだってな! 俺、あそこのラウンジの、大好物でさ』
「ケーキ……」
冰は思わず「あ……!」と、声を上げてしまった。
周があの日に買っていたケーキはこの男の為だったのか。しかも、そのケーキを自分が届けると言ったことまで知っているということは――周が彼にそう伝えたというわけだろうか。
『わざわざ俺ン為にケーキを届けてくれるって、冰君の方から言い出してくれたんだってな? 氷川が――どうだ、イイヤツだろう――ってめちゃくちゃ自慢するもんでさぁ』
「自慢……ですか?」
『そう! 最近は会えばキミの話ばっかりだぜ。すげえ可愛い性質なんだとか、今日はどこで何食ったとかさ。もうノロけられちまって、こちとらたいへんよ!』
「はぁ……」
『――のワリには、なかなか会わせてくれようとしねえしさ。あんま独占欲の強え男は嫌われるぜって言ってやってんだけどな。だから今日は電話ででもキミと話せてすっげラッキーだったぜー』
紫月という男はいかにも楽しげに言いながら笑った。
◆45
『な、まだ話してて平気?』
「え、はい! 俺は全然……」
『だったら、ちょい待ってて!』
紫月は言うと、電話の向こうで『おーい』と、誰かを呼んだようだった。『お前も来いよ! 電話、冰君が出てる。そう、氷川ンとこの!』しばしザワザワとした雰囲気がやむと、スマートフォンからはまた別の男の声が聞こえてきた。今度は今の紫月と違って、もっと落ち着いた雰囲気の男の声だ。
『鐘崎だ。氷川とは懇意にさせてもらってる』
「あ、はい! こちらこそお世話になってます! 雪吹冰です!」
冰は慌ててそう返した。鐘崎と名乗った男の声の調子がひどく落ち着き払っていて、顔は見えないながらも思わず背筋をピーンと伸ばしてしまうような雰囲気にさせられてしまったからだ。どことなく周に近い雰囲気も感じられる。
冰が緊張していると、すぐに代わったのか、また紫月という男が電話口で笑った。
『ごめんなー、冰君。こいつって口数少ねえからさぁ』
ケラケラと楽しそうに言う。それからしばらく紫月という男の独断場のような話が続き、冰は緊張しながらも一生懸命に相槌を返し続けたのだった。
『今度、遊びに来いよなー。つか、俺らがそっちに行ってもいいけどさ! 近い内にぜってえ会おうぜ!』
「あ、はい! よろしくお願いします!」
スマートフォンを握り締めながら、冰は一人ガバッと頭を下げてそう返事をした。ちょうどその時だった。
「なんだ、まだ電話切ってねえのか」
ハッとして振り返ると、そこには腰にバスタオルを巻いただけの姿で、髪も濡れたままの周が立っていた。たった今、風呂から上がってきたのだろう。冰にはいったい何分くらい話していたのか既に分からないほど緊張状態だったが、かなりの長電話だったといえるのだろう。周は若干眉根を寄せていて、口もヘの字に結んだ感じの、何とも言い様のない表情をしている。
と、突如冰の手からスマートフォンを取り上げると、通話の相手に向かってひと言――、
「おい、一之宮。ウチの冰にちょっかいかけてんじゃねえ」
いかにも横柄な調子でそう言い放った。
冰は自分が長電話をしていたことで周の機嫌を損ねたのかとハラハラしていたが、理由はそこではなかったようだ。電話の向こうから漏れ聞こえる声が冷やかすようにこう言った。
『おいおい、早速独り占めかよ。てめ、風呂はもう済んだのか? あんまし嫉妬深い男は嫌われっぞー!』
言葉は辛辣だが、声は楽しそうだ。
「うるせー。こいつは俺ンだ。手を出すなよ」
周はそれだけ告げるとサッサと通話を切ってしまった。
「あ……切っちゃった」
「なんだ、代わりたかったのか?」
じろっと視線を送ってくる周の口元は”への字”のままだ。ちょっとスネたような仏頂面が普段の彼とは別人のようでもある。
冰は今まで見たこともない少年のような一面に、唖然とさせられてしまった。
◆46
「あの、白龍……?」
「――何だ」
「えっと、その……そんなカッコじゃ風邪引くよ? 髪も濡れたままだし」
「ん? ああ」
周は未だ仏頂面ながらも、存外素直にワシワシとタオルで髪を吹き上げると、バスルームへと戻るべく踵を返した。その後ろ姿を目にした冰は、驚きに硬直させられてしまった。
「あ……ッ!」
周の大きな背中には見事なほどの彫り物が施されていたからだ。いわゆる刺青というそれだ。
右の脇腹から左肩にかけて、白い龍がうねるように舞っている。まるで天高く昇るかのように勇ましいその龍は、大きな双眸を見開き、カッとこちらを見据えている。険しくも厳しい視線に睨まれてしまうようで、冰は驚きに絶句させられてしまった。
周はマフィア頭領のファミリーだ。刺青があったとて取り立てて驚くことではないのかも知れないが、直に目の当たりにすれば、やはり平常心ではいられない。
彼と暮らすようになってからは秘書として様々な仕事先に同行したものの、一企業の社長としての顔しか見てこなかった為、本来のマフィアという素性からはすっかりかけ離れたような認識でいたのだ。
彼の裸身を目にするのも初めてだったわけだから知らなかったのも当然といえばそうだが、忘れかけていた彼の本質を垣間見てしまったようで、ドキドキと自らの心臓音がうるさいくらいに脈打ち出すのを抑えることができなかった。
見てしまったことをおいそれとは口に出して言うこともままならない。周も特には気にする様子もなく、むろんのこと隠す素振りもなく、ごくごく当たり前のように背中を向けながらバスルームへと向かってしまった。
「はぁ……びっくりした」
冰は若干腰が抜けたようにして大きなソファへとへたり込んでしまった。
磨りガラスの扉の向こう側では周がドライヤーで髪を乾かしている音が聞こえてくる。それを聞くともなしに聞き流しながら、冰は四肢から力が抜けてしまったように呆然としてしまっていた。
周がバスタオルを腰に巻いただけの半裸状態で風呂から出てきたことにもドキリとさせられたが、先程は一之宮紫月との通話の方に一生懸命だったので気が散漫だったのだ。その直後に広く大きな背中に龍の彫り物を見つけてしまい、何とも形容し難い気持ちが全身を包み込む。
湯上がりの素肌を惜しげもなくさらす様は色香にあふれ、直視できない奇妙な感情を揺り起こす。一般人とは明らかに一線を画する刺青も、冰の目にはひどく粋で格好良く映ってしまったのだった。
◆47
普段はスーツに隠れていて分からなかったが、逞しい筋肉が張っている男らしい腕。腹は硬い腹筋で覆われていて、美しく割れたシックスバックスは見事という他ない。
無意識に視線が追ってしまったのは彼の身体の中心だ。バスタオルが巻かれた腰に近付くにつれて、次第に濃くなる体毛が下へと向かって生えている。思わず邪な想像をしてしまいそうだ。
あの逞しい素肌に抱き締められたらどんな気分になるのだろう。彫り物の龍が今にも踊り出しそうな背中に腕を回して、色香にあふれる彼が欲情をほとばしらせる瞬間を想像してしまう。
戯れや気まぐれで構わない。それこそ気の迷いによる事故でも構わない。もしも彼が自分の前で欲情をあらわにした獣になってくれたらどんなにいいだろう――そんな想像に駆られながら、冰は真っ赤に紅潮した頬の熱に気付いて、慌てて両手で押さえたのだった。
冰がそんな妄想に翻弄されているとは露知らずか、周は少しするとローブを羽織って戻ってきた。髪は乾いていたが、整髪料などで整えていないのでラフに垂れた前髪も色香を放っていて、冰には目の毒といえるほどに男前に映る。
「で? えれえ長話をしてたようだが」
彼の意識は冰の妄想とはまるで正反対か、先程の通話のことを訊かれて、即座に現実へと引き戻された。
「あ、うん。えっと……さっきの人たち、白龍の友達って言ってたけど……お、面白い人だね。すごく親しく話し掛けてくれてさ」
『さっきの人たち』という複数形が気になったのか、周はやや怪訝そうにまたしても片眉を上げてみせた。
「”たち”ってのは何だ。一之宮の他にも誰かと話したのか?」
「あ、うん、そう。鐘崎さんって言ってた。すごい貫禄ありそうな感じの人だった。挨拶だけしてすぐに代わっちゃったけど」
「カネまで出てきやがったのか」
「カネって呼んでるんだ? 白龍とは……日本で知り合ったの?」
「ああ。あいつらは俺がこっちに留学してた高校時代に同じクラスだったんだ。まあ、カネの方は香港のファミリーとも家族ぐるみの付き合いだったんだが」
「え、そうなんだ? ってことは、あの人たちもマフィアなの?」
率直過ぎる質問だったが、周は若干苦笑させられながらも、やれやれといった調子で答えた。
「マフィアってよりは極道ってのが近いかもな」
「……それってヤクザってこと?」
冰は邦画のイメージが浮かんだのか、大きな瞳をクリクリとさせながら素直な感想を口にする。
「あ! や、それともお坊さんの方の意味?」
一生懸命に想像を膨らませているといった感じで忙しく首を傾げている。そんな様子に思わず和まされてしまうわけか、周はまたもや苦笑させられてしまうのだった。
◆48
「そんなことよりお前は何がいい」
リビングボードの隣には冷蔵庫だろうか、ペットボトルや酒類のような瓶が並んでいる家具調のボックスがある。冷蔵庫といっても一般的なそれとは違い、こちらも部屋の内装にぴったりな感じの中華風の洒落たデザインの代物だ。周は扉の中から氷を取り出すと、ショットグラスのようなものに入れて、その上から酒を注いだ。
「白龍の……それはお酒?」
「ああ、紹興酒だ。冷えたソフトドリンクもあるぞ」
「あ、うん。同じのでいいよ」
先程一杯やろうと言っていたのを思い出して、冰も手伝うべく周のいるカウンターへと向かう。おそろくは部屋で軽く喉を潤すだけの為にわざわざ真田ら家令を呼び付ける手間を省くためなのか、周のリビングにはそうした設備も整っているようだ。冰の部屋にもドリンク類が揃えられている冷蔵庫があるが、この部屋のはもっと本格的なバーカウンターのような造りになっていた。
そうして注いだ酒を手にリビングの中央にある大きなソファへと戻り、二人はローボードを挟んだ対面へとそれぞれ腰掛けた。
周はグビりと一口を飲み込むと、長く形のいい指でグラスを卓上へと置いた。心なしか口数も減っている彼を見つめながら、冰はおずおずとその様子を窺っていた。
「ね、白龍……もしかしてちょっと怒ってる?」
先程、電話を取り上げたと思ったら、ろくに会話もないままでサッサと切ってしまったことが気になっているのだ。
「――別に怒っちゃいねえ」
「そう? だったらいいんだけど……。白龍にかかってきた電話なのに、俺ってば随分長話しちゃったから……さ」
周の友達に対して少し出しゃばってしまったかと思い、不安だったのだ。
「お前のことを責めてなんぞいねえよ。だがまあ、ちょっといけすかねえ気分ではあるがな」
やはりか!
少々調子に乗り過ぎたかと思い、冰が『ごめん』と謝った時だった。
「お前が謝る必要はねえ。俺が狭量なだけだ。どうせ一之宮が一方的に喋くってたんだろうが、あの野郎ったら鬼の居ぬ間にとでも思ったんだろう。調子こきやがって」
「え……っと、あの……」
鬼の居ぬ間に――とは周自身のことを指しているのだろうが、彼が風呂に入っている間に彼の友人を独り占めしてしまったと思った冰は、何だか居たたまれない気持ちになってしまったのだ。
これまで冰が想像していたようにケーキ好きの人物――つまり紫月だが――彼は女性ではなかったし、恋人でもないのかも知れない。それでも周にとってはかけがえのない大事な友人に違いないのだろう。わずかひと月そこらを共に暮らしただけの自分が馴れ馴れしく割り込んでいい相手ではなかったのかも知れないと思ってしまったのだ。
「あの……白龍、俺――」
「単に俺の焼きもちだ。気にするな」
そうは言っても気にせずにはいられない。冰には彼の言うところの”焼きもち”というのが通話の相手――一之宮紫月に重きを置いた感情なのだろうと思い、シュンとした面持ちでもう一度謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、白龍……。勝手に長話しちゃって……。俺、白龍とあの人の邪魔をするつもりなんて全然なくてさ……! だから、その……」
周はふうと小さな溜め息をくれると、
「――冰、ここへ来て座れ」
自らの膝をポンポンと叩いて、その上に腰掛けろという仕草をしてみせた。
◆49
ほら、早くしろ――と言うように視線で手招く。冰はまたもや早くなりそうな心拍数を抑えながらも、言われた通りに対面の周へと向かってソファを立ち上がった。
促されるまま周のすぐ側まで来たものの、膝の上に腰掛けろと言われてもさすがに躊躇してしまう。だが周はグイと冰の腰に腕を回して抱き寄せると、自らの太腿の上に抱え上げるようにして座らせてしまった。
「あの……っ、白龍……? その、重くない?」
「軽い。お前、もう少したくさん食え」
「た、食べてるよ……! ここのご飯、すげえ美味しいし……」
いったいどういう意味で周が膝を貸すようなマネをするのか、まるで分からずに心拍数だけがバクバクと加速する。
「さっきも言ったが――俺にも理性の限界はある。意味は――分かるか?」
そう言って見上げてきた周の表情は普段と何ら変わらないように見えるが、ほんのわずか切なさを含んでもいるように感じられて、冰は戸惑ってしまう。どう考えたとしても消極的な方向とは無縁の言葉だと思えてしまうからだった。
「白龍……あの……」
「初めは――確かに肉親的な感情だった。境遇の似ているお前を放っておけない、ただそれだけだったと思う。だが、お前の方から訪ねてくれて――お前の性質に触れる度にそれとは違った感情に気付くようになった。十二年を経て再会したお前は、あの小さかったガキの頃と変わらねえまっすぐな目で俺を見た。可愛い、不憫だ、守ってやりてえ――そんな感情よりも、もっと強え想いが自分の中にあることに気付いたんだ」
周は冰の腰元に腕を回して抱きながら、じっと真っ直ぐに視線を合わせたままで続けた。
「一之宮やカネは俺のダチだ。親友といえるだろう。そんな奴らに対してさえ嫉妬しちまうくらい、俺はお前に対して自我を持つようになってる。誰よりもお前に頼られていたい。お前は俺の側に居て、俺だけを見ていればいいんだと――そんな身勝手なことまで考えてる。こうして側に居ても、もっともっとその先を望みたくて仕方なくなってる。お前のすべてを俺のものにしちまいてえと――そんなことを望んでる自分が怖えくらいだ」
それはまぎれもない愛の告白だった。如何な冰にもそれが分からないほど子供ではない。
冰は驚きよりも高揚の方が勝ったかのように、みるみると色白の頬を朱に染め上げた。
「白龍……俺……俺……」
「このひと月の間、そんな気持ちは俺だけの身勝手なモンだと思ってきたが――さっきの土産の組紐、赤い方のを選んだお前を見てたら……さすがに理性の箍が外れちまいそうだ。冰、俺はお前に惚れてる――」
お前も俺を好いてくれている。これが勘違いというなら正直に云え――まるでそう言いたげに見つめてくる深い漆黒の瞳に吸い込まれそうだ。
その想いに応えるように熟れるほど頬を染めた冰の頭ごと引き寄せて、周はそっと唇と唇を合わせた。ほんの軽い、触れるだけの小さなキスだ。
「白……龍……」
「今なら――まだ引き返せる。俺はお前の望まねえことはしたくねえし、お前を怖がらせるつもりもねえ」
だがもし――お前も同じ気持ちでいてくれるなら――
「お前の全部が欲しい。身も心も――全部だ」
低く色香がだだ漏れるような声音が耳元で囁いたと同時に、冰はその首筋に腕を回して抱き付いた。
◆50
「白龍……! 白龍、あの、俺……俺さ……」
周はしがみ付いてくる冰の頭ごと抱き締め返しながら、その言葉に耳を傾けた。
「ん――? なんだ? 何でも言え。お前の思うままを何でも聞かせろ」
「ケーキ……」
「――? ケーキがどうした」
「ケーキが好きになったって言ったろ? 甘いお菓子が好きな人の影響だって……初めてあのホテルのラウンジでケーキを食べた時。俺、白龍がケーキ好きになったのは……恋人の影響なのかって思ってたんだ」
「恋人? 誰の?」
「白龍のだよ……!」
「――何でケーキから恋人なんていう発想が出てくるんだ」
「だって甘いものが好きっていえば、普通女の人だって思うじゃないか。それに白龍、めちゃめちゃカッコいいし、恋人がいない方が不自然だって思って。でもそう考えたら……なんかすごく苦しくなった。もしも白龍に恋人がいたらって思ったら……すごく苦しくて……俺」
「もしかして――お前の様子がおかしかったのはそのせいか?」
周は珍しくも驚かされてしまっていた。
「そ……んなに……おかしかった?」
「ああ。元気がねえし、口数も少ねえ。てっきり香港が懐かしくなったホームシックかと思っていたが――」
「……ん、ホームシックとかじゃなかった……」
「お前も俺に惚れてる。そうだな?」
「惚……ッ、うん……うん、俺」
まさか白龍がそんなふうに想ってくれてるなんて、これっぽっちも思わなくて――その言葉は言わせてもらえなかった。むんずと髪ごと掴まれ、引き寄せられた冰の唇は、周によって塞がれてしまったからだ。
冰にとっては初めてともいえる激しいほどの口付けは、長く熱く貪る如く濃厚なものだった。
「……白……龍」
真っ赤に染まった頬の熱を隠すように、冰は逞しい肩にしがみついたままで視線を泳がせる。
「――俺の”惚れてる”ってのはこういう意味だぞ?」
すべてを奪われても怖くねえのか――? というように、真っ直ぐな視線が射るようだ。黒曜石の瞳の中には雄の欲情がゆらゆらと赤い炎のように揺れている。まさに焔の如くだった。
「ん……うん……白龍、俺……好き……大好き!」
今の気持ちをどう伝えていいか、戸惑うように恥ずかしげにうつむきながらも懸命にそれだけを口にする。まだ若く、経験の少ない純朴な冰にはそれが精一杯なのだろう。周にはそんな仕草のすべてが愛しくて堪らなかった。
周はそのままグイと冰を姫抱きすると、中華風の装飾が美しいベッドまで連れて行って、ふわりとそこへ座らせた。
ゆっくりと押し倒し、スレンダーな身体ごと包み込むように覆い被さる。おそらくは男性同士でこういった行為が初めてなのだろう彼を怖がらせないように、周は愛おしむ気持ちのままに横たわる彼の髪をゆるりと指に絡めては撫で上げた。
◆51
「――怖えか?」
そっと耳元で訊くと、冰はブンブンと一生懸命に首を横に振っては、熱のこもった大きな瞳を恥ずかしそうに細めながら見上げてくる。
そんな彼の白い指先を掴んで自らの指を絡ませると、先刻よりもゆっくりと穏やかな仕草で唇を重ね合わせ、幾度も幾度も触れては離し、触れては離しといったように口付けた。
冰にとってはそんなゆるやかでやさしい扱いが、かえって焦らされているようで、もどかしいのだろう。次第にゾワゾワとした欲情を煽られ、いつもとは違う感じたこともないような自我が引き出されるようだった。
もっと激しく、有無を言わさずというくらい乱暴に貪って欲しい。獣のように襲い掛かってめちゃくちゃにして欲しい。
自分の中にこんな激しくも淫らな感情があったのかというくらい、冰の身体は指一本爪の先まで、髪の一本に至るまで目の前の周を求めてやまなかった。
「白龍……白龍……。俺、怖くなんか……ない。全然ないから……ッ、白龍になら……何されても嬉し……」
だからお願い――。優しくするより、気遣ってくれるより、もっと。そうもっと――!
「……願い……、めちゃくちゃに……して」
普段ならば絶対に口にしない言葉だろうが、それがすんなりと出るほどに乱されたくて堪らなくなっている。全身が欲情そのものと思えるくらいだ。
「……ッカやろ……なんてこと言う……。お前、俺を獣にしてえのか?」
「……ん、うん、そう……」
そうなってくれたらどんなに嬉しいか……!
「好き……白龍……ッ、大好き……だから! どんなふうにでも……されたい……俺」
「――ったく! どうなっても知らねえぜ」
「……ん、それが……いいん……だ」
艶めいて掠れたその声を合図というように、今までのゆるやかだった愛撫が次第に激しさを増していく――。
「白龍……そう、もっと……」
激しく求めて!
この世がひっくり返るくらいめちゃめちゃにされたいんだ――!
望むだけで伝わったかのように繋がれた指には力がこもり、やさしく撫でられていた髪ごとむんずと掴まれるように荒々しさを増していく。唇全体を吸い込まれるように貪られ、歯列を割って舌先が口中を掻き回す。
ふと重なり合った身体の中心――周の厚みのあるバスローブ越しであってもはっきりと伝わるくらいに硬く怒張した雄の感覚が腹を撫でたのに、冰は全身を電流で貫かれたかのような心持ちになった。
「白龍……ッ、好き……大……好……!」
もっと気の利いた台詞で今の高揚した気持ちを伝えようと思えども、冰にはありきたりの言葉しか思い付かない。ただ欲しくて仕方ないといった思いのままに、無我夢中で目の前の広い胸にしがみつくのが精一杯だった。
胸元のボタンを器用に弾かれ、腰から背中を撫でるようにシャツの裾から両手を入れられて捲し上げられる。
風呂上がりでラフな普段着だった冰のボトムにはベルトもしていなかった為に簡単にジッパーを下ろされてしまう。周の温かくて大きな掌が、ボトムの中のボクサーブリーフの中に突っ込まれて、尻をわし掴みながら撫で回す。
思わず腰が浮いてしまい、一等敏感な身体の中心が周の眼前に突き出されるような格好に持っていかれてしまう――。
前はかろうじてずり下ろされていなかったブリーフの上から既に硬く立ち上がった雄を甘噛みされて、冰は堪らずに嬌声を漏らした。
「……ッあ……、や……っ白龍……!」
先走りの液が下着に染みて、濡れた跡が欲情の度合いをはっきりと示している。周は焦らすようにわざと下着越しに幾度もそこを甘噛みした。
「や……ぁあ……ッ、願い……白龍……!」
布一枚がもどかしくて仕方ないのだろう。冰は腰を突き出しながらも、自ら下着を取らんと無意識に手を伸ばした。直にどうにかして欲しくて堪らないのだ。
周はすべて分かっていながら伸ばされた冰の手を取り上げると、自らの口で下着を摘まんでずり下ろし、あらわになった熱を口中に含んで舐め上げた。
「……はッ……ぁ……っ、や……ぁあ……!」
舌先を尖らせて鈴口をつつき、すっぽりと咥え込んで根元から先端までの竿を一気に吸い上げる。ほんの数回それを繰り返しただけで、冰は両脚を痙攣の如くバタつかせて、今にも絶頂に達してしまいたいといわんばかりに自ら腰を揺らした。
◆52
「白龍……ッ、白龍……ああ……ッ」
周のような大人の男にかかっては、経験の乏しい冰にはやることなすことすべてが快楽の波となって呑み込まれてしまいそうになるのだろう。もう自らがどんな嬌声を上げ、どのくらいの痴態を晒しているのかも分からないほどに、乱されまくっていった。
長く形のいい指が蕾を押し広げて侵入するのも分からないくらい昇天寸前にまで高められ、そのせいでか痛みどころか、普通ならば違和感を感じる蕾の中を掻き回されても快楽しか覚えないくらいに蕩けさせられていく。そうする内に一番いい箇所を周の指先に捉えられて、冰は思わずビクりと背筋を仰け反らせた。
「あぁ……あ……ッ、そこ……あ……白……ッ」
それは初めての後孔での感覚だった。巧みな周の愛撫の前ではひとたまりもないくらい、気持ち良くて頭も身体もおかしくなりそうだ。
快楽の波に呑み込まれそうな様子を窺いながら、周は自らもまた先走りでヌラヌラと光る雄を冰のそこへと押し当てた。
「……ッ、あ……ッ、は……! ひッああ……っ」
さすがに普通ではない衝撃を覚えたのだろう、冰はカッと瞳を見開きながら叫ばんほどの嬌声を上げたが、それとは裏腹に下肢は待ちわびたように周を呑み込んでいった。愛する男と繋がったことを本能で悟ったのだろう。
「掴まってろ――!」
「ん……うんっ、白龍……白龍ー……好き……大好き」
周は冰の両腕を自らの背中に回させると、ゆっくりと律動を始めた。如何な大人の周といえど、限界はあるのだ。
おそらくは初めて知る経験ながらも一生懸命に付いてこようとする冰の仕草のひとつひとつが愛しくて可愛くて、なるべくならば痛く苦しい思いはさせずに愛してやりたいと思えども、あまりの可愛さに理性がきかない。
雄の本能を剥き出しにしてもすべてを征服したい、手に入れて放したくはない、自分の中にだけ閉じ込めておきたい、そんな欲望が全身を這いずりうねるようだ。
周は渦巻く想いのままに愛しい者の中へと自らの証を放ったのだった。
◇ ◇ ◇
熱く激しい交わりで互いの想いをほとばしらせた後、二人は乱れたシーツの海の中、肌を寄せて温もりを確かめ合っていた。周は利き腕で冰の頭を抱きながら、余韻のままにその額に口付ける。冰もまた、未だ夢幻の中にいるようにうっとりと瞳を蕩けさせたまま、愛しい男の腕に身を任せていた。
「辛くねえか?」
「ん、ダイジョブ……。俺、すげえ幸せ……夢みたい」
思ったまま、感じたままを口にする冰はまだ夢心地なのだろう。ぽうっとしたように天井を見つめながらも安心したように全身を預けて微笑んでいる。頬もうっすらと上気させたまま、その笑顔は朝露に濡れて光る薔薇の如く美しく輝いていた。
◆53
「そうだ……! そういえばさ……白龍」
「――どうした」
「あの……あのさ。俺、さっき見ちゃって……。偶然なんだけど」
「見たって――何をだ」
「んと、その……白龍の背中の」
冰がわずか遠慮がちに告げると、周は『ああ――』とすぐに瞳をゆるめてみせた。
「彫り物のことか?」
「うん、そう……」
「驚いたのか?」
髪を撫でながら穏やかに問う。
「ん、まあ。驚いたっていうのもあるけど、白龍の背中にあると……すごく似合っててカッコいいって思えちゃってさ。ドキドキしちゃったんだ」
モジモジとしながら可愛いことを言われて、周は腕の中の髪ごと引き寄せた。
「――ったく、お前ってやつはどんだけ俺を喜ばせれば気が済むんだ」
周は愛しい想いのままにまたひとたび冰の額へと口付けると、
「この彫り物はな、親父が与えてくれたものなんだ」
穏やかな表情で話して聞かせた。
「兄貴の背中には俺のとは向きを反転させた龍が掘ってある。色は黒だ」
「黒い龍……」
「ああ。俺とは左右対称の形になってる。親父は背中のど真ん中に黄色い龍が入ってる。三つの龍を合わせたとしたら、尾が腰の位置で絡まるような図柄になっててな。色もそれぞれの字に合わせてある」
そう言われて、冰は『あ――!』というように瞳を見開いた。
「そういえば白い龍といえば白龍の字だよね。お兄さんは確か――」
「黒龍だから黒い龍だ。親父の字は黄龍だ」
「そうなんだ……! 字に合せてあるなんてすごいね」
「これは親父の愛情なんだ。妾腹の俺に本物のファミリーの一員の証として贈ってくれたものでな。親父には元々背中の真ん中に黄龍が掘ってあったんだが――三つの龍が合わさるようにと図案を考えてくれたのは継母なんだ」
「――! そう……なんだ」
「本来だったら一番疎ましかろう俺を実の子のように分け隔てなく接してくれて――それどころか俺の実母とも親友のように親しくしてくれている。器がでけえなんていう言葉じゃ表しきれない大きな人だ。継母がそうしてくれることで周囲も俺たち母子を軽んじることはなかった。むろん兄貴も同じだ。俺の実母を姉と慕い、俺を実の弟として慈しんでくれたんだ」
その深い厚情に心底恩を感じているのだと周は言った。
「そっか……。そうだったんだ」
冰は聞きながら、その瞳には自然と滲み出た涙が今にも零れそうになっていた。
「どうした。泣くヤツがあるか」
「ん、だって俺、嬉しいんだ。白龍がお父さんやお母さん、お兄さんに愛されてて――幸せなんだって思ったらすごく嬉しくて」
周の幸せがそのまま自分の幸せであると感じているのだろう。ボロリと頬を伝った涙は温かく、それは周にとってもかけがえのないくらい愛しいものであった。
◆54
周は色白の頬に伝う涙を指で拭ってやりながら言った。
「冰、一度二人で香港に行ってくるか。黄のじいさんの墓参りもしてえし、お前を俺の家族に紹介したい」
周の問い掛けに驚いたようにして冰は彼の胸に埋めていた顔を上げた。
「――いいの?」
「ああ、もちろんだ。お前が本当のホームシックになる前に――な?」
周はそう言って指先で冰の鼻の頭をくすぐるように撫でる。ここ最近、様子が少しおかしかった原因がホームシックではなく、実は俺に想いを寄せていたからなんだよな――とばかりの、何とも得意げな表情が憎らしい。意気消沈して元気をなくすほど想われていたことを嬉しがっているのだろうが、冰にしてみれば恥ずかしいばかりだ。
「もう、意地悪なんだからさ! けど、いいの……? 俺、その……男だしさ」
周の連れ合いには当然女性を望んでいるだろう家族の心情を思えば、自分などが彼の側に居ていいものかと不安に思う気持ちも本当のところなのだ。
そんな冰の心中を察したのか、周は『そんなことを気にする必要はねえ』と言って笑った。
「香港の親父も継母も、もちろん兄貴もだが、そんなことをどうこう言うような狭量じゃねえさ。それに――さっき電話でお前が話してた相手、カネと一之宮だが――奴らも男同士でいい仲なんだぜ?」
冰は驚いた。
「そ、そうなの!?」
「カネの親父は俺の親父――というかファミリーとは公私共に親しい間柄なんだが、そういった関係であの二人も俺の家族とは何度も会ってる顔見知りだ。二人が付き合っていることは親父たちも知ってるし、継母なんかは奴らが来ると喜んでな。二人の仲がずっと上手くいけばいいと応援してるぐれえだぜ?」
「……へえ……そうなんだ」
理解が深いというか、マフィアの頭領ともなるといろいろな意味でグローバルだなぁなどと暢気なことを考えてしまう冰だったが、自分たちのことも大きな心で見てもらえるのならば有り難い限りだというのは確かだし、安堵もするのだった。
「年が明けたら――そうだな、春節の頃に一度帰るか」
額と額とをコツリと合せながら言う周に、冰も嬉しそうにうなずいた。
「うん! 楽しみ……! 本当に俺――」
こんなに幸せでいいんだろうか――
「でも……じいちゃんに報告したい。分不相応だって墓の中から出てきて怒られそうなくらい幸せで……怖いくらいだけど。でも俺、白龍の側でできることは一生懸命やるし、白龍に見捨てられないよう見守っててって、お願いしたい……」
「そうだな。お前がずっと俺を好いて側に居てくれるよう、俺も黄のじいさんに頼むとしよう」
「白龍ったら……さ」
モジモジと頬を朱に染め上げながら恥ずかしそうに見上げてくる冰を今一度強く抱き締める周だった。
◆55
「さて――それじゃ、もう一度ゆっくり湯にでも浸かるか。そうしたらお前の部屋のベッドへ移動して一緒に寝るぞ!」
「え? 移動するの?」
「だってお前、ここじゃ寝づれえだろ? まあ、お前の香りに抱かれて眠るってのも悪くはねえが――」
周が指さしたシーツに欲情の跡を見つけて、冰は瞬時に茹で蛸状態というくらい赤面させられてしまった。
「……いッ、いいよ、そんなこと……い、言わないで……! お、俺のベッドで……寝ればいいんだからッ」
ワタワタとしながら恥ずかしがる様子を見つめながら、周はとびきり楽しげに笑うのだった。
その後、共に入ったバスルームでは、情事の後始末をしてやるという名目で、冰にとっては更に恥ずかしい思いをさせられたのはご愛敬といったところだろう。かくして周と冰の二人は、十二年の時を経て訪れた幸せを存分に確かめ合ったのだった。
◇ ◇ ◇
その少し前のこと――。
時はさかのぼって、周こと氷川白夜に突然通話を切られた一之宮紫月は、ポカンと口を開けたまま手の中のスマートフォンを眺めていた。
「……切っちまいやがった」
その様子をすぐ隣で寝転びながら見ていた鐘崎が尋ねる。
「氷川のヤツか?」
「ん、冰君からいきなり代わったと思ったら即行ブチっと……」
ワケが分からずといった調子で眉根を寄せる紫月を横目にしながら、鐘崎は微苦笑してみせた。
「おおかた、ヤキモチってところだろ」
「はぁ!? ヤキモチって、まさか俺と冰君がしゃべってたのを妬いたってか?」
「そんなところだろう。何せ、ヤツはまだ冰って子に気持ちを打ち明けてもいねえらしいからな」
「マジかよ……? あの野郎にしちゃ随分と悠長にしてやがるじゃねえの」
ほとほと呆れたように紫月が肩をすくめてみせる。
「あいつったら最近は会えば冰君の話ばっかりだし。鼻の下、目一杯長くしちまってよ。あの俺様野郎のことだから、てっきりもうモノにしちまったもんとばかり思ってたけどな。随分とまた気長にやってるもんだ」
呆れる紫月の傍らで、鐘崎はまたも苦笑してみせた。
「それだけ真剣だってことなんだろうさ」
「そりゃまあそうなんだろうけどよー。だったら尚更早いとこ手に入れちまいてえって思うのが普通じゃねえ?」
「本気の相手には慎重になるし臆病にもなる。男ってのはそういうもんだ」
「はぁ、そんなもんかねぇ」
「現に俺だってお前を手に入れるまでには随分と長い時間を費やしたもんだ。想いが強えほど失った時のことを考えたらおいそれとは簡単に告げられねえ。氷川のヤツもきっとそんなところなんだろうよ」
至極真面目な視線に見つめられて、紫月は瞬時に染まった頬の熱をごまかすように、アタフタとしながらそっぽを向いてみせた。
◆56
「……ったく、いつものことだけどよ……そーゆーの反則じゃね?」
ボソリと呟き、唇を尖らせる。反抗的な仕草とは裏腹に、頬の朱をみるみると濃くしていく横顔をみやりながら鐘崎はフッと口角を上げた。
「何だ、惚れ直したか?」
「は……!? ンなこと言って……ねっての!」
「言わずとも顔にそう書いてある」
鐘崎は紫月の手を取ると、グイとそのまま腕を引っ張って、自らの胸の中へと抱え込んだ。
「来い、紫月。抱いてやる」
利き手で頭を抱え込み、前触れなしに深い口付けで唇を奪う。シャツも毟り取る勢いで、あっという間に剥いてしまった。これではまるで強姦さながらだ。
「……ッ、ンだよ急に……! 相っ変わらず獰猛なんだから……よ!」
憎まれ口を叩くも、それは染まった頬の熱を悟られたくないが為の照れ隠しに過ぎない。そんな紫月の性質をよくよく知り尽くしている鐘崎は、どう言われようが余裕綽々なのだ。
「獰猛とはご挨拶だな? だが身体は正直だ」
自らは床に寝転がり、紫月を腹の上に乗せて抱き締めてくる体勢がこれまた憎らしい。薄く笑う口元もしかりだ。こんな体勢に持ち込まれれば、否が応でも触れ合う身体の中心は、既に硬く怒張の兆しを見せていて、確かに獰猛といえる。紫月はそれこそ憎まれ口をぶつけるくらいしかできずに、鐘崎のペースに嵌められていってしまう。いつものことだ。
「……ったく! この極道――!」
言ったと同時に今度はクルリと体勢をひっくり返されて組み敷かれる。
「極道相手に”極道”とは芸がねえぞ」
鐘崎は不敵に笑う。いつだってこうなのだ。ひと言ひと言は短く、声音は低い。だが中てられそうな色気を含んでいるのも紫月にとっては堪らなく憎らしい代物だ。
夜はいつも浴衣姿でいる鐘崎の襟元からは、見事な紅椿の彫り物が入った筋肉質の肩先が覗いている。元々ルーズに着崩していた着物の袷が、たった今の絡み合いで更に開けて逞しい胸板を惜しげもなく晒す。堂々たるそんな仕草からは、雄の色香が匂い立つようなのだ。
観念したように、紫月は目の前の男の唇に自らの唇を重ねるのだった。
「……ふん、仕方ねえから……抱かれてやるよ」
「それでいい。素直になった褒美だ、念入りに愛してやるさ――」
「……ッあ……、ク……ッ」
冰が周の腕の中で至福の吐息を漏らしていた同じ頃、一之宮紫月もまた愛する男の強い腕の中で恍惚に溺れたのだった。
◇ ◇ ◇
◆57
その翌朝のこと――。
冰はカーテンの隙間から差し込む眩しいほどの日射しを感じて、ウトウトと目を覚ました。場所はいつもの自分のベッドだが、隣には周が眠っている。それを目にするなり、昨夜のことを思い出してポッと頬を赤らめた。
だがそれもほんの一瞬のことだった。次の瞬間にはハッと何かを思い出したようにして、冰はガバッと布団から半身を起こした。
(そうだ、あれを片付けなきゃ……!)
慌てて飛び起きると、とりあえずローブだけを羽織って、向かった先は周の私室だった。昨夜、周に抱かれたままにしてきてしまった情事の跡を思い出したのだ。時計を見ればまだ朝の九時過ぎであったが、万が一にも真田やメイドたちにあのぐちゃぐちゃになったシーツの様子が見つかったりしたらと思うと、気が気でなかった。
ベッドリネンなどの交換は真田らの仕事とはいえ、情事の後始末などさせてはさすがに申し訳ない。それ以前に、そんなことが知れたら恥ずかしくてまともに顔を合せられなくなってしまう。冰は大慌てでバタバタとダイニングを横切った。
幸い、休日の食事は昼前くらいにブランチで取るのが通常なので、まだ誰もおらず、用意もされていない。ホッと胸を撫で下ろしながら中華風の装飾が美しいドアを開いた。真田らが来る前にそっとシーツを片付けてしまおうと思ったわけだ。
ところが――である。何と周の寝室はすっかりとメイキングが済んだ後のようで、綺麗に整えられていることを目の当たりにして蒼白となった。
(うそ……! まさか見つかっちゃったんじゃ……)
次第に心拍数が速くなる。オロオロしていると、周が寝ぼけ眼を擦りながらやって来た。
「おい、何事だ――」
冰がバタバタとベッドを抜け出していったことで目を覚ましてしまったのだろう。彼は昨日はとんぼ返りで関西へ行って来たこともあってか、熟睡していたようだ。
「あ、白龍! ごめん、起こしちゃって。あの、それが……さ」
冰がベッドと周を交互に見やりながら心許ない顔付きでいると、主人たちが起きたことを悟ったのだろう、相変わらずにビシッと黒のスーツで決めた真田が背後から顔を出した。
「うわ……っ!」
冰は気付くなり、慌てるまま大声を上げてしまった。
「何だ。どうかしたのか?」
周がポリポリと尻の辺りを掻きながら首を傾げている。起き抜けのまま追い掛けて来たのだろう、一応ローブは羽織っていたものの、下着を穿いてくるまで気が回らなかったらしい。彼が肌を掻く度に、チラチラとローブの隙間から見てはいけないモノがのぞいている。正直なところ朝から拝むには目の毒といえる。しかも真田がいる前だしで、冰はますます慌ててしまった。
◆58
「……ッ、白龍! あの、えっと……服……! 服くらい着なきゃ……」
「ああ? お前だってローブだろうが」
周には何をこうまで慌てているのか、まるで分からないようである。
「あの……! あのさ、俺、こっちのベッドの片付けをしなきゃと思ってたんだけど……もうすっかり綺麗にしてもらっちゃってるんだよー」
冰は周の開けたローブの前を隠すように向かい合って立つと、クッと背伸びをしながら小声でその耳元に打ち明けた。
頼むから状況を察してくれよー! と、祈るように訴えかけるも、周にはまったく伝わっていないようだ。それどころか、まるでトンチンカンな返事をくれながら、慌てる素振りも皆無である。
「片付けなんぞ真田がするだろ?」
さも当然といったように、未だ眠そうにあくびまでするおまけ付きだ。
寝起きで髪はボサボサと乱れ気味だし、ローブさえ適当に羽織っただけの――ある意味だらしない格好といえるのだが、朝陽の中で惜しげなく堂々と素肌を晒しながら眠たげにしている様子でさえ、何とも言い様のない色気が感じられてしまうのは困りものだ。作っていない”素”の男の色香が滲み出ているようで、ますますもって目の毒なのだ。しかも、そんな格好で冰のベッドから抜け出してきただろうことを目にすれば、言わずとも状況が分かろうというものだ。
「んもぉー! 白龍ってばさ!」
周のような男に羞恥心など期待しているわけではないが、冰にとっては一大事なのである。いまいち会話が噛み合わないでいるそんな二人を前に、真田からはもっと赤面させられてしまうような台詞が飛び出した。
「坊ちゃま、雪吹様、お早うございますな。昨夜はお幸せなことがお有りのご様子、もう少し遅くまでおやすみかと存じておりましたが」
ニコニコと細めた瞳に弧を描きながら、嬉しそうに告げてくる。
「さ……真田さん……!」
冰は口をパクパクとさせながらも、頬は真っ赤にしたり、はたまた真っ青にしたりと忙しい。リネンを取り替えた真田にはすっかりすべてがバレてしまったのだと思うと、恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいの心持ちにさせられてしまったのだ。
ショックで足元をフラフラさせながらも、周の背に隠れるようにしながらローブの端を引っ張ってはブツブツと呟く。
「真田さんにバレちゃうかもと思って、シーツだけでも片付けようと思ってたんだよー。それなのに俺ってば、すっかり寝過ごしちゃって……。俺が来た時にはもう掃除も終わっちゃっててさ……。どうしよう……こんなの恥ずかしすぎるって」
相変わらずに小声で訴えれば、周はようやくと目が冴えてきたわけか、『そんなことか』と言って、呆れたように一笑してよこした。
◆59
「別にバレたところで気にすることなんざねえさ。なあ?」
わざわざ真田本人に訊いてくれるなと思うようなことを悪気もなく口にする。冰はいよいよ居たたまれなくなって、目眩がしそうだった。
「坊ちゃまのおっしゃる通りでございますよ。雪吹様がお気に病まれることはございません。何せこの真田、坊ちゃまのおシメを変えてお育てしてきたのですから、今更どんなお姿を拝見したとて驚きは致しません。ですから雪吹様もご心配やご遠慮をなさらずに、どのようなことでもこの真田を頼っていただけるのが一番の喜びでございますよ」
「おいおい、おシメの話までさかのぼらんでもいいと思うが――」
「これは失礼――。ですが、この真田には坊ちゃまが雪吹様に寄せられるお気持ちがとうに分かっておりました故。お二人のお心が通われたことは本当に嬉しいことと喜んでおるのでございます」
だから何事も気に病まずにドーンとお任せくださいと言いたいのだろう。大袈裟なくらいに背筋を伸ばして、胸に手を当てたその格好からは真田のユーモアが感じられる。彼からすればまだまだ年若い二人の門出を祝うような気持ちでいるのだろう。わざとユーモラスにそんな仕草を交えながら言ってくれるひと言は本当に温かく、冰はアタフタとしながらも恥ずかしそうにうつむいたのだった。
その後、ブランチには珍しく和食が出されて驚いたのだが、メニューの中に赤飯が添えられて出てきたのには、さすがの周もやれやれと苦笑させられるハメとなった。これも真田の気遣いなのだが、こうもあからさまに祝われると冰などはそれこそ穴に埋もれたいような心持ちになってくる。
「ま、真田は俺が産まれる時にも分娩室の前まで来てかじり付いてたってくらいだからな」
「……そうなんだ。じゃあ、真田さんはもう三十年以上前から白龍の家の執事さんだったの?」
「元々は実母の家の執事だったんだ。初出産と聞いて、わざわざ香港まで飛んできたらしいぜ?」
「うわぁ、すごいね。真田さん、その頃から家族のような方だったんだね」
「そうだな。俺は真田に育てられたようなもんだからな。大袈裟なところもあるが、勘弁してやってくれ」
周が赤飯をかき込みながらそう言って笑った。
きっと真田本人は喜ぶ気持ちのままにハツラツとしながらこの膳を用意してくれたのだろう。冰の脳裏には誇らしげに胸を張りながら支度を整える彼の姿が目に浮かぶようだった。
もしも黄老人が生きていたら、きっと真田と同じように喜んでくれただろうかと思うと、涙が滲みそうになる。温かい人々に見守られる幸せを心底噛み締めながら、自らもまた有り難く赤飯を口に運んだ冰であった。
◇ ◇ ◇
◆60
鐘崎遼二と一之宮紫月が揃って氷川白夜こと周焔を訪ねたのは、次の日の夕刻のことだった。
本当は午後のティータイムに間に合うようにと、例のホテルのラウンジでケーキを買って手土産にするつもりが、昨晩のことが祟って起きられなかったのである。結局、朝方近くまで鐘崎に貪られた紫月は、陽が傾き出した頃になってようやくと床から起き上がることができたのだった。
「ったくよー、ちっとは加減しろっての! お陰でこんな時間まで爆睡しちまったじゃねえかー」
紫月がブツクサと文句を垂れるのを横目にしながらも、鐘崎は薄く口角を上げるだけで、まるで堪える様子もない。
「いいじゃねえか。どうせ週末なんだ。たまには寝だめもいいもんだ」
「そういう問題じゃねって!」
反省の様子もまったくないが、それでも買ったケーキや他の荷物は進んで持ってくれているあたりは彼のさりげないやさしさといえる。紫月はやれやれと苦笑させられつつも、毎度のことながら彼の色香に抗えない自分も認めざるを得なくて、結局丸め込まれてしまうわけだった。
「よう! 昨夜は悪かったな」
そんな二人が訪ねて行くと、氷川こと周はたいそう上機嫌な様子で出迎えてよこした。昨夜の無愛想さとは別人のようで、さっさと電話を切ってしまったことを素直に謝り、これまでは散々渋っていた冰の紹介も自らしてよこすくらいなのだ。
そんな様子に、鐘崎は微苦笑で隣の紫月へと耳打ちする。
「あの様子じゃ氷川の方もよろしくやったってところだろう」
「え!? ってことは、ついに冰君と……ってことか?」
「おそらくな。お前の電話が引き金になったんだろうが、ようやくと冰に告る決心がついたってところだろう」
「ほーお? そんでヤツはああも上機嫌ってわけか」
「いわばお前が縁結びをしてやったってことだ。いいことをしたな」
鐘崎はクスッと笑いながら紫月の細い腰を抱き寄せた。
「ほら、土産だ。紫月から冰に――とな」
手にしていたケーキの箱を冰へと手渡す。
「あ……りがとうございます!」
冰は箱を受け取りながら、もらってもいいの? といった表情で周を見上げる。
「じゃあ真田に言って茶を淹れてもらうか」
周に言われて、冰は早速受け取ったケーキを真田の元へ届けに向かった。実のところ、こうして何かする用事があることが冰にとっては有り難いのだ。
昨夜の長電話のお陰で一之宮紫月の方とはある程度親近感を持つことができたものの、彼と連れ立っている鐘崎の方の雰囲気には緊張せざるを得ないといったところだったからだ。
初対面なのに、のっけからの呼び捨てといい、仕草も物言いも一見偉そうながら心がこもっているようで、冰はこの鐘崎に対して周とよく似ているという印象を持ったようだった。
それにしても紫月は話しやすく柔和な雰囲気ながら、顔立ちは美しいといった形容しか思い浮かばないほどの超美形だ。周のように大人の男の色気とはまた別のものだが、黙っていれば近寄りがたいほどの綺麗な顔立ちには思わず見とれてしまう。
鐘崎の方もそれに似合う男前で、硬派な雰囲気はある種の圧を感じさせるが、デキる男というのだろうか。彼もまた裏社会に生きる人物だと聞いていたこともあって、気軽に会釈を交わせるようなタイプでは決してない。
そんな鐘崎だが、伴っている紫月に対しては人前でも堂々と抱き寄せたりしていて、彼を見つめる時の視線だけは別人のようにやさしげだ。二人はいい仲だと聞いていたが、確かによくよく似合いのカップルだと思う冰だった。
◆61
ダイニングの方では周と鐘崎がすっかりリラックスした様子で話し込んでいた。
「それよりお前、ここしばらく香港の親父さんの所へは帰ってねえんだろ?」
鐘崎が問う。昨夜、紫月が電話をしたのは、実はそれについての話題だったのだ。
「俺の方は仕事方々向こうに行く用事ができたんでな。もしよかったら一緒にどうかと思ったんだが――」
周にしても昨夜冰と約束もしたことだし、近々帰省しようと思っていたのでちょうどいいタイミングではある。
「俺の方も冰の顔見せがてら、一度帰ろうと思ってたところだ。年内はこっちでの仕事が重なってるが、年明けにでもと思ってる」
周が言うと、
「なら、春節の頃にどうだ」
鐘崎もまさにベストという提案を返す。
「いいな。お前は一之宮も連れてくんだろ?」
「ああ、もちろんだ」
「だったらウチのプライベートジェットで一緒に行けばいい」
「ああ、それじゃ世話になるか」
男同士の話は早々に決まったようだ。
そこへお茶の用意をした真田がワゴンを引いてやって来た。彼の背に隠れるようにして冰もおずおずと付いてくる。周の友人たちと共に居るのが何となく気恥ずかしいのか、はたまた遠慮があるのか、緊張気味で笑顔も固くなっている。そんな様子に、周は自らの隣に座るように呼び寄せると、まるで二人の友に見せ付けるようにして彼を抱き寄せた。
「そんなに畏まることはねえ。こいつらとは昔からの腐れ縁だ。遠慮はいらねえさ」
周の言葉に同調するように、鐘崎も微笑しながらうなずいた。むろんのこと紫月もしかりで、早速フレンドリーに話し掛けてくる。
「そうそ! 氷川の鎖国解禁で冰君ともやっとここうして会わせてもらえたことだし! これからもちょくちょく遊んでくれよなぁ!」
「おい、一之宮――。鎖国とはまたえれえ言い草じゃねえか」
「だってそうだろー? 今までは懐に抱え込んじまって、冰君を見せようともしなかったんだぜ、こいつ。それが急にすんなり紹介してくれるってことは……どういう心境の変化なのかねぇ? よっぽどめでたいことがあったとか? なぁ、氷川君?」
ニヤニヤと冷やかすように紫月が突っ込めば、周には珍しくもタジタジとしながら、苦虫を噛み潰したような表情で言い訳もままならない。してやったりと紫月はしたり顔だ。
◆62
一方の冰は、黙ったまま皆の話をキョロキョロと視線で追いながらも、昨夜周と結ばれたことを話題にされているのだと知り、気恥ずかしそうに頬を染めている。
「一之宮様のおっしゃる通りでございます。お陰様で我が家の坊ちゃまにも春が訪れたのでございますよ」
お茶を出し終えた真田までもがそんなふうに言うものだから、周にとってはますますもって窮地到来、なんともバツが悪い。ドッと笑いが起こり、ダイニングには朗らかな笑顔の花が咲いたのだった。
「皆様、お時間もちょうど良うございますし――お茶がお済みになったら、そろそろお夕食をご用意させていただきましょう」
その日の周家の夕卓は、真田が用意していた大きなもみの木にデコレートされたクリスマスツリーの登場で始まった。そろそろこのダイニングにも季節の模様替えと称して家令の者たちが飾り付けていたのがちょうど出来上がったらしい。主人の友人たちも来ていることだしと、少し早いが食卓の方もクリスマスのメニューが並ぶこととなった。
フレンチをベースにしたフルコースの他に、グリルされたチキンはシェフがその場で取り分けてくれるという贅沢なもてなしだ。食事を終えてデザートが出される頃には、見事なほどの銀の燭台に幾本ものキャンドルが点されて、部屋の灯りが落とされる。
窓の外には大都会の街並みが、まるで宝石のようにキラキラと煌めいていた。そのすべてが見事に調和していて、まさに絶景である。親しい者同士の楽しい会話に笑い声、真田らの隅々まで行き届いた温かい気遣い、そして愛する周の隣に居られるこの幸せが冰にとっては怖いくらいだった。
「まさに祝い膳といったところか」
あまり多くをしゃべらない鐘崎が遠慮のない感想を述べると、またしても卓は賑やかな笑いに包まれる。
「今日は散々ご馳走になっちまったからな。お前らにも春が訪れたというし、俺らも何か祝いをせにゃならんな。香港では存分にもてなしをさせてもらおう」
好きな料理や行きたいレストラン、欲しい物があれば考えておけと言う鐘崎に、周は隣の席で大人しく座っている冰を抱き寄せると、
「――だそうだ。冰、お前さんの食いたいものでも行きたい所でも遠慮なく言いつけていいぞ?」
ニヤリと不敵に口角を上げて笑うのだった。
周焔編(氷川編)- FIN -