極道恋事情
◆1
ゆく春を惜しむような大きな朧月が東の空に顔を出した夕暮れ間近、鐘崎と紫月は久しぶりの休日をゆっくりと堪能すべく水入らずで散歩に出ていた。
ふと通り掛かった近所の公園の生垣に珍しい色合いをした椿の花を見つけて、紫月がハタと歩をとめた。
「な、遼! 見て見て! ほら、これ」
大きな瞳を更に大きく見開いて逸った声を上げる。うれしさであふれているといった表情の彼が指差したものを目にした瞬間に、鐘崎もまた幸せそうに瞳を細めてしまった。それは紅と白が混じった花びらを持つ椿の花だったからだ。
「すっげえ……うちにあるンは紅椿と白椿だけど、これは一つの花に紅白の色が混ざってるべ!」
紅椿白椿といえば二人にとっては特別な花だ。互いの肩に背負った刺青の図柄でもあるからだ。
「ほええ……すげえのなぁ。椿って赤と白と桃だけだと思ってたけど」
紫月はしきじきとその花を眺めている。
「絞り椿――というそうだな」
「へ……?」
「そういうふうに紅白の色が混じって咲く椿のことだそうだ」
「そうなん? 遼、詳しいのな!」
「椿については彫り物をいれる時に少し調べたからな」
「そうなんだ。つかさ、これだと遼と俺が混ざってるみてえで何かいい感じな!」
ふと口走った何気ないひと言が、鐘崎の気持ちを瞬時に熱くした。
「――混じり合いてえか?」
「ほえ――?」
「紅椿と白椿、つまり――俺とお前だ」
スッと男らしい親指が唇をなぞる。
互いの距離が近くなったことで鐘崎がいつも付けている仄かな香りが彼の体温と絡んで匂い立つ。
色香を讃えた視線がとろけるように細められては、今にも口付けられそうに額と額がコツリと重なり合った。
「遼……もしかしてだけど……猛獣モード?」
途端にドキドキと高鳴り出した心拍数に気付かれまいと少々おどけてそう尋ねれば、
「そうだな。――嫌か?」
低く男らしい声が耳元を撫でては、ゾクリと背筋に欲情が走った。と同時に色白の頬がカッと朱に染まる――。
「ヤ……なわけねえけど……。ここ、外だし」
幸い周囲に人影は見当たらないが、住宅街の路地だ。いつ誰に出くわすか分からない。
「こ、ここでチュウはな、さすがにやべえべ……」
「ああ……」
じゃあそろそろ帰ろうか――その言葉に代えてあたたかく大きな手が白魚のような手を握り込んだ。
「手、繋いで帰んの?」
「誰も見てない」
「そうだけど……」
誰か近所の人にでも見られたら――。
「見られたっていい」
相変わらずに色香ダダ漏れのローボイスが、少したりとも待てないと云っているようで再び頬が染まる。
「や、あの……そりゃ俺たちはフーフだし? 見られて困るこたぁねっけどさ」
「だろ?」
半歩先を歩きながら振り返る笑顔が雄々しさを想像させて、ますます染まる頬の朱を隠さんと歩を早めた。
鐘崎を追い抜き、今度は自分が彼の手を引く形で路地を急ぐ。その指に光る細い白金の指輪が互いの掌の温度を受けて熱を持つ。
家に帰れば今宵はどんなふうに愛されるのだろう。それを想像する紫月の頬が、若い紅椿の花びらの如く初々しい色に染まる。そんな春の宵だった。
紅椿白椿、散りゆく時も咲いたままの花びらが散り散りに舞うことのない花。たとえばそれが花吹雪となるような突風に見舞われようと、花の形は失われることがないように、互いの魂もまた、決して離れることはない。
確固たる愛で結ばれた、そんな二人に狂った春の嵐が花びらを散らすべく吹き荒ばんとしていた。
◆2
汐留、アイス・カンパニー社長室――。
「これは――! 何とまた珍しい事案ですね」
午後のティータイムを前に側近の李が目を丸くしながら周の元へとやって来た。
「どうした。何かあったのか?」
周に訊かれて手にしていた資料の束を差し出す。劉と冰も興味を引かれたのか、首を傾げながらその紙を覗き込みに周のデスクへと集まって来た。
「――ふむ、こいつぁ……李が驚くのも無理はねえ。ビルの爆破解体とあるが、この近所で行われるってか?」
さすがの周も目を見張って驚き顔だ。李の持って来たそれには近々この近辺で古いビルの解体が行われるという知らせが記されていたからだ。しかも通常の解体ではなく爆破で一気に建物を突き崩す発破解体だというから驚くのも無理はない。海外では割とよく事例も聞くが、この日本に於いてはここ一世紀の間爆破による解体は行われていないはずだからだ。しかも高層ビル群が密集するこの東京でとなれば、いろいろと難しいのではと思われる。
「何でも最新技術によって周辺の建物への影響を最小限に抑えることのできる実験を兼ねての解体とありますね……。解体されるビルは海沿いで近年大々的な建て替えが予定されているという古い倉庫街のようですが」
つまり、いずれすべてが撤去される予定の区画内にある古ビルを実験的に使うということらしい。
「影響が無いと謳ってはいますが、一応近隣地域に無断で行うわけにもいかずの告知といったところでしょうか……」
「ふむ、まあそこのところは調査に調査を重ねてのことなんだろうからな。万一にもここいら一帯でわずかでも影響が出るようなことがあれば、解体業者の方でも保障だ何だと責任の追求が来るのは承知のことだろう」
重々考慮の上での決行なのだろうから、心配しても始まらないだろうと周は小さな溜め息をもらした。
「ビルの解体かぁ。ここからも見える位置なのかな」
冰も半ば心配そうな顔つきながら、何も影響が無ければいいけれどと言っている。
「――で、その解体されるビルってのは爆破でやらなきゃならんほどに巨大だってのか?」
周が案内の資料をめくりながら眉根を寄せる。
「いえ、それがどうもそうではないらしく――。建物自体はさほど大きくないようですが、目的は最新技術の試行にあるようですね」
「つまりは何だ。試しに吹っ飛ばしてみようってわけか」
「まあ、早い話がそのようです。説明によると爆破もタイマーを使用した遠隔操作だとかで、行われるのは深夜のようですね。海沿いですから音はそれほどでもないのかと……」
住所を見れば確かに同じ区内ではあるが、すぐ目の前という位置でもない。それに、小さなビルというなら心配するほどでもないだろうか。
「とにかく決まっちまったもんはどうこう言ったところで始まらんか」
様子を見るしかなかろうと周はまたひとたび小さな溜め息と共にどっぷりと椅子の背に身体を預けた。
まさかこの爆破解体に絡んで予想もしなかった焦燥に見舞われることになろうとは、この時の周も、そして李や冰ら誰にとっても思いもよらぬことであった。
◆3
川崎、鐘崎組――。
「そんじゃちょっくら行って来るわ! 帰りは夕方になるけど留守番頼むなぁ」
紫月が側付きの春日野を連れて笑顔を見せる。源次郎は玄関先まで見送りに出て手を振っていた。
「ご苦労様です。お気をつけて。春日野君、姐さんを頼んだよ」
「はい! お任せください」
今日は駅前の商店街で藤祭りと称したイベントの飾り付けがあり、自治会をあげて手伝いに行くことになっているのだ。各町内から屋台なども出る為、丸一日かけてテントを組み上げたりと大忙しなのだ。紫月もまた、お馴染みの川久保老人ら自治会のメンバーたちと共に手伝いに向かうというわけだった。
鐘崎はそれより十分程前に幹部の清水と共に依頼の仕事に出て行ったので、亭主を送り出すと同時に紫月もまた現場へと向かったのだった。
駅前に着くとちょうど川久保老人らもやって来たところだった。
「紫月ちゃん、おはよう! 朝早くからすまんねー」
「おはよ、じいちゃん! じいちゃんたちこそ駆り出しちまって悪ィな!」
本来は自分たち若者が先頭だってやらなければならないのにと、紫月は老人たちを労う。
「いやいや、これも健康の為さね!」
川久保老人らにしてみれば、紫月のそういった心遣いの方が身に染みるといった調子で、元気の源になっているそうだ。
和気藹々、他の町内会の役員たちも続々と集まって来て、皆張り切って祭りの準備に精を出し合っていった。
昼食は商店街の老舗店から弁当が配られて、楽しい会話と共に皆で平らげた。そろそろ作業の続きに掛かろうかと立ち上がった時だった。
「あの……! 一之宮さんじゃないですか? 一之宮……紫月さんですよね?」
男に声を掛けられて振り返ると、そこには懐かしい顔の青年が逸ったように頬を紅潮させながらこちらへと近付いて来るのが分かった。
「……? あれぇ? お前さん確か……剣道部の」
「はい! 三春谷です!」
「あー、そうそう! 三春谷か! 久しぶりだなぁ! 卒業以来だべ?」
「お、覚えていてくださって……うれしいっス!」
三春谷と名乗った男は言葉通り本当にうれしさあふれんばかりといった顔つきで、瞳を輝かせながら声を弾ませた。
この三春谷というのは高校時代紫月の一学年下の後輩だった男だ。剣道部に所属していて、副主将を務めていたこともあり、何かにつけて道場の息子である紫月のクラスへと顔を出しては、交流のあった仲だった。
「いや、マジ懐かしいなぁ。何年ぶりだべ?」
「紫月さんたちが卒業して以来ですから……十……えっと三年? いや、十四年かな?」
「おー、もうそんなんなるか! 元気そうで何より!」
「紫月さんこそ……。その、変わってないっスね。特にその――何々だべっていう話し方! それ聞いた途端に高校時代に戻っちゃった気がしましたよ!」
三春谷はうれしそうに頭を掻きながら頬を染めた。
◆4
紫月は「あははは」と豪快に笑いながらも懐かしそうに笑顔を見せていた。
「おめえン方は立派になっちまってー!」
着慣れたふうのスーツ姿でいる後輩を見てそう讃える。
「今はどうしてんの? そういや同じ市内に住んでんのに顔合わせることねえもんなぁ」
「ええ、自分は……卒業してから家を出ちまったもんで。職場、都内なんス。通えなくもないんスけど」
「あー、じゃ今は一人暮らし? 東京住んでんだ?」
「ええ。建設関係の会社でして。結構残業も多くてですね」
だから少しでも会社の近くにと思って都内暮らしを決めたそうだ。
「そっかぁ、頑張ってんだなぁ」
「紫月さんは? 今でも道場手伝ってるんスか? 親父さんお元気っスか?」
「ああ、うん! お陰様でなぁ。親父、未だ現役バリバリで教えてるわ」
「そうっスか。っていうか今日は?」
作業着姿の紫月の出立ちを見て不思議に思ったのだろう、そんなふうに訊いてきた。
「今日はな、藤祭りの準備でさ。自治会のおっちゃんたちとな」
「藤祭りっスか。そういえば俺らが高坊の頃からありましたね」
「つか、お前さんの方は? 今日は実家帰って来たんか?」
「ええ……まあ。帰って来んの、正月以来で」
「そっか。んじゃ、ご家族も首長くして待ってるべ! 早く帰ってやんな!」
それじゃあなと言って作業に戻ろうとすると、
「あ! 紫月さん! その……今度……」
三春谷が何かを言い掛けたが、それと同時に川久保老人らからちょっと手伝ってくれと声が掛かった。
「ああ、三春谷。悪ィ! そんじゃなぁ!」
「あ、はい……。引き止めちまってすいません。……失礼します」
「おう! おめえも気をつけて帰れなぁ」
笑顔で手を振りながら走って行く後ろ姿を、三春谷が残念そうな顔つきで見送っていたことに紫月はまったく気付かなかったようだ。
その日、鐘崎が帰宅するのは比較的早めだった。紫月も祭りの飾り付けに日没までかかったので、組に帰ったのはほぼ同時くらいだった。鐘崎の気遣いは相変わらずで、今日は丸一日自治会で奮闘してきただろう紫月の為に好物のケーキを買って来てくれた。
「うわ! さんきゅー! おめえだって依頼で出てたってのにいつも悪ィな」
「いや、お前も朝から力仕事だったろうからな。心ばかりだ」
「さっすが遼! 俺、愛されてんなぁ」
食べる前から頬っぺたが落ちそうな笑顔で紫月は感激の面持ちを見せてくれる。鐘崎にとってはその笑顔こそが何よりの癒しであり、仕事の疲れなど一瞬で吹っ飛ぶというものなのだ。
「ありがとな、遼! 遠慮なくご馳走になるわ」
「ああ」
返事は短く一見ぶっきらぼうにも思えるが、喜んでもらえて何よりだと顔に書いてある。そんな思いを体現するように、鐘崎は愛しい嫁を腕の中へと抱き包んではスリスリ、満足そうに頬擦りをしてよこした。
「ありゃ? もうほら、これ」
朝方剃った髭が既に少し伸びて頬を撫でる感覚に、紫月は瞳を丸める。
「ん? ジョリジョリするか?」
「ん! この独特の感覚が気持ちいーけどな!」
それにしても相変わらず髭が伸びるのが早いなぁと笑う。
「まあな、毛が伸びるのが早い男は愛情が濃いというだろう?」
鐘崎は鐘崎で自慢げにそんなことを言う。その少し不敵な笑顔が何とも男前に思えて、頬が染まりそうだ。
「へへ! 愛情濃い旦那を持って幸せなぁ、俺!」
満面の笑みで抱擁に応え、早速にケーキを頬張った紫月であった。
◆5
「そういやさ、今日懐かしいヤツに会ったわ。高校ン時の一コ下の野郎でさ、三春谷ってヤツ!」
お前も覚えがないか? と訊く。
「三春谷? ああ、あの剣道部だったヤツか?」
高坊の時はよくうちのクラスに顔を出していたなと言う。鐘崎はほとんどしゃべった覚えもなかったのだが、紫月のところにしょっちゅう来ていたので記憶していたのだ。
「今は就職して都内に住んでるらしくてさ。実家帰って来んのも久々だとかって言ってた。ちょうど祭りの屋台組んでる時に会ってな。卒業以来だから、会うのは十三、四年ぶりだって」
「ほう? じゃあ懐かしかっただろう」
「まあね。すっかりいい社会人って感じだったわ。何でも建築関係の会社に勤めてるとか」
鐘崎にとっては特に興味を覚える相手でもないが、元気にやっているなら良かったなと言って、三春谷についてはそれきり話題に上がらないまま夕膳を囲んだ。
その彼と再び顔を合わせることになったのは、次の週末のことだった。たまたま用事があって紫月が実家の道場へ顔を出していた時だ。三春谷が突然訪ねて来て驚かされることとなったのだ。
「おう! 三春谷じゃねえのー」
応対に出た綾乃木に呼ばれて紫月が顔を出すと、三春谷は緊張気味の固い表情でおずおずと頭を下げてよこした。
「すみません、突然押し掛けて……」
「いや、構わねえよ。どした? 今日も実家帰って来たんか?」
「ええ……。実は俺、この秋に結婚することが決まりまして」
それでここ最近は割と頻繁に帰って来ているそうだ。
「結婚かぁ! そいつはおめでとう!」
紫月は心からの笑顔で嬉しそうに祝福の言葉を口にした。
ご両親もお慶びだろう! とか、嫁さんは地元の人? とか、満面の笑みと共にいろいろと話し掛ける。三春谷にしてみれば、何のアポイントも無しに押し掛けたにしては嫌な顔ひとつせずに歓迎してくれることには有り難く思えども、実のところ今ひとつ喜びきれない心の内が重くもあった。その理由は、今目の前にいる紫月の存在そのものだった。
三春谷は高校時代からこの紫月に憧れていた。道場育ちであり、武道の腕前は大尊敬に値するひとつ学年が上の誇れる先輩――。だが、その性質は誰に対してもフレンドリーでとっつき易く、話していると気持ちが和む。他の上級生とは違って、先輩だからと威張りもしない。学年が下の自分が彼ら上級生のクラスを訪ねて行った際にも、まるで仲の良い弟か友人のように迎えてくれた。
その性質の良さもさることながら、特筆すべきは完璧なまでの容姿だ。顔立ちは同じ男から見ても羨ましいほどに整った、超がつくほどの美形。少し茶色掛かった天然癖毛の柔らかな髪、くっきりとした二重の大きな目は笑顔によく似合う。陶器のような滑らかな肌質は至近距離で見たならば生きた人間のものとは思えないほどだ。
そんな美麗な容姿を裏切るように武術の腕は最高峰。なのに性質は極めて気さくだ。彼に憧れていた下級生は三春谷だけではなかっただろう。
◆6
正直なところ、当時は憧れだけだった。少しでも彼と近付きになりたくて、武道繋がりを理由にしょっちゅう彼のクラスを訪ねていたのも事実だ。卒業してしまう時は寂しく思ったが、それも時の流れと共に薄れていった。
だが先週、偶然にも駅前で再会した。その時から三春谷自身説明のつかない焦燥感とでも言おうか、奇妙な感情が沸々とし出したことに戸惑いを隠せずにいたのだ。
もう一度会ってゆっくり話がしたい。綺麗な顔を惜しげもなくクシャクシャにして笑う、その笑顔に触れていたい。
そんな思いを抑え切れずに、気付けばこうして彼の家にまで足が向いてしまったのだ。
自身がこの秋に結婚を予定しているのは本当だった。相手の女性は職場で出会って心動かされた年下の可愛い彼女だ。紫月に邂逅した先週までは普通に幸せだと思っていた。正直なところ、何が何でもこの女性と生涯を共にしたいというよりは、人生なんてまあこんなものかなと思って満足していた。取り立てて心躍るわけでもないが、かといって不満もない。結婚して子が出来て、その子の運動会で父兄競技なんかに参加したりしたら楽しそうだな――漠然とそんなふうに思ってもいた。
ところが先週、駅前で偶然に再会したこの紫月を目にした途端、そういった平穏な幸せの感情を遥かに裏切るような強い衝動に駆られてしまったのだ。
ドキドキと心拍数が上がり、何が何でも手に入れたい、側で見つめていたい、声を聞いていたい、一挙手一投足を肌で感じていたい――そんな強い欲望が身体中を駆け巡り、じっとしていられないほどにソワソワとし、自分が今何をしているのか分からないくらいに心は高揚してとまらなかった。意思や思考以前に身体が勝手に動いてしまい、気付いた時には道場を訪ねていた――と、まあそんなわけだ。
紫月は訪問を喜んでくれているし、師範である父親や、一番最初に玄関で迎えてくれた綾乃木という男も交えて皆で茶をしようとまで言ってくれている。気さくな性質は相変わらずで、自ら茶を淹れてくれて、縁側に座れよと勧めてくれる。
その声を聞くともなしに聞き流しながら、三春谷の胸中は高鳴る高揚と少しの戸惑い、後ろめたさ、それら様々な感情でぐちゃぐちゃに揺れていて、視線は挙動不審というくらいに定まってはくれなかった。
そんな三春谷が我に返ったのは、茶を差し出す白魚のような手にキラリと光る細い指輪を見つけた時だった。左手薬指にはめられた銀色のそれは明らかに結婚指輪だろう。聞かずとも分かる。それを目にした瞬間に、これまでの高揚や動揺が一気に引いていくのを感じていた。
「あの……紫月さん、それ……! もしかして紫月さんも結婚された……スか?」
じっと薬指から視線を外せないまま、震える声を抑えるようにそう訊いた。
◆7
「ん? ああ、これ? そうそ! お陰様でなぁ」
紫月は照れたようにその薬指で頭を掻きながらも薄っすらと頬を染めてはにかんでいる。三春谷にとってはそんな反応も意外であった。はにかむ笑顔と染まった頬の朱が、その胸中を物語っているからだ。きっと彼はその結婚相手を大切に想っているのだろうことが窺えるからだった。
「……あの、じゃあ奥さんは?」
もしかしたら今もこの邸内にいるのかも知れない、そう思って視線を部屋の奥へと泳がせる。
「ああ、いや……。あいつは今、仕事で出ててさ」
「……お仕事ですか。奥さん働いていらっしゃるんスか?」
「ま、まあな!」
えへへと照れた頬は先程よりも濃い朱色に染まっている。
「結婚……されたばかりなんスか?」
あまりにも初々しい様子にそう思っただけだった。
「いや、もう四、五年になっかなぁ」
「……そんなに前に? じゃあお子さんも……」
「あー、ううん。ガキはいねえけどさ」
「そうですか……」
「ま、ま、俺ンことよかおめえの祝いだべ! 結婚式、秋なら今いろいろ忙しいんじゃね?」
そう振られて紫月の結婚相手についての話題を逃してしまったのが残念でならなかった。
「そうだ、紫月さん。良かったら……メシ――つか、飲みに行きませんか? 結婚祝い……させてください」
咄嗟にそんなセリフが口をついて出ていた。
「結婚祝いってー。俺ン方はもう何年も前だしさ。それ言うなら俺が祝ってやる側だべ?」
「そうですよね。じゃあ祝ってくださいよー!」
この際、理由などどうでもいい。一緒に飲みに行けるということこそが重要なのだ。三春谷はわざと明るいノリを装いながら、是非とも飲みに行きましょうと誘うことに必死だった。
結婚祝いを理由にすれば嫌とは言いずらいだろう。とにかくは機会を作ることが何より先決だ。
そんな三春谷に押されるようにして、紫月もまた『そうだな』と言って笑った。
「そんじゃまたお前さんが実家帰って来た時にでも――」
「約束っスよ?」
三春谷にとって次に会う口実にありつけただけで大満足だった。
夜、鐘崎にそのことを報告。当然か、鐘崎は大推奨という顔はしなかった。紫月もまた、亭主のその反応は予想できていた。
変な話だが、例え男友達といえど二人きりで飲みに行くという自体が喜ばしい話ではないからだ。それは焼きもちやら、そういった些細な機会が浮気に発展する可能性云々の間違いを危惧するという以前の問題で、極道である自分たちがさほど親しい間柄でもない堅気の友人などと必要以上に懇意にすることの方に注意を払わなければならないからだ。
今のご時世、どこで誰の目が光っているか知れない時代だ。自分たちと一緒にいる堅気の方に余計なとばっちりが行かないように気遣うのは鉄則だから――という方の理由であった。
◆8
「俺もちょっとマズイ話向きだなって思ったんだけども。けどまあ、社交辞令とも受け取れるし、実際ホントに飲みに行ってる暇なんてのはねえだろうなって思ってさ」
その場の話で盛り上がっただけで三春谷の方でも仕事に結婚準備にと忙しいのは事実だろう。紫月としては実際に三春谷がいつどこどこで――などと本当に飲みに行くつもりでもないだろうと思っているようだ。
「ふむ、そうだな。まあもし――またその三春谷ってのが声を掛けてくるようなら一度くれえは付き合うことになることも念頭においておかにゃならんか――」
鐘崎はその際、自分が行ければ一緒に行くとして、もしも都合が付かなければ春日野や橘といったお付きと一緒に行かせるかと言った。
「うん、まあそん時はまたおめえに相談するさ」
「ああ、そうだな」
「それよか晩飯! 今日はおめえン好きなハンバーグにしたぜー!」
「おお、そいつぁ楽しみだ」
以後、三春谷については話題に上がらないまま、夫婦水入らずの夕膳を楽しんだのだった。
翌朝、鐘崎は紫月側付きの春日野に話を通すことにした。何事につけても備えあれば憂いなしだからだ。
春日野は自治会の飾り付けで三春谷と偶然会った時にも紫月と一緒にいたわけだし、その三春谷のことも当然目にしているだろう。その時の様子なども聞いておくに越したことはない。春日野もまた、三春谷と会ったことははっきり覚えていたようだ。
「ああ、姐さんの後輩だったという方のことですね。今は都内の建築会社に勤めているとおっしゃってました。割合残業が多いらしく、通勤時間を考慮して都内住みになさったとか」
見たところ普通の青年でしたよと、春日野自身特には気に掛かったところもないようだ。
「ただ――そうですね。姐さんに会えてすごく嬉しいといった感情は感じましたが」
多少興奮気味ではあったが、十何年ぶりというならそれもうなずけるかと思ったそうだ。
「ふむ、そうか――」
鐘崎はその三春谷があの後道場を訪ねて来たことと、結婚祝いで飲みに行きたいと言ったことなども話し、一応気に掛けておいてやって欲しいと伝えた。
「承知いたしました。心に留めておきます」
この春日野はまだ若いが実にしっかりとした考えの持ち主だ。実家が任侠一家というのもあり、裏の世界のことにも精通している。だからこそ紫月の側役に置いているわけだが、とにかく彼に任せておけば鐘崎としても安心できるといったところなのだ。
それから半月程は何事もなく過ぎた。次の週にも三春谷は訪ねて来なかったし、やはり単なる社交辞令だったのだろうと思っていた時だった。再び三春谷から道場に連絡が来たというのだ。今度は電話だったそうだ。
高校時代の伝手で電話番号を調べたのか、あるいは道場としては公の案内にも載っているのでそれ自体調べるのは誰にでも可能といえる。
綾乃木が出て、今紫月は外出していると伝えると、自身の携帯番号を告げて折り返して欲しいと言ったそうだ。綾乃木もまた、先々週に突然訪ねて来た紫月の後輩というのは分かっていたので、とにかくは要件を聞いて通話を切ったそうだ。
◆9
「三春谷から? あー、そう。やっぱ社交辞令じゃなかったってことか」
話を聞いて紫月もまた、やれやれと思いつつも後輩の結婚祝いとなれば無碍に断るのもどうかと思う。この際、地元の友人たちにも声を掛けて何人かで祝おうかと提案したものの、三春谷は二人だけで飲みに行きたいと希望した。鐘崎はこのところ依頼の仕事で出ずっ張りなので都合をつけるのは難しそうだ。だったら道場の師範で高校時代から幾度か顔を合わせてもいたしということで、父の飛燕と綾乃木も一緒でどうだとも訊いたのだが、それもあまり乗り気でない様子だった。仕方なく二人で会うことを承諾するしかなかった。
「場所は駅前の居酒屋にした。銀ちゃんの店。あそこだったらスタッフも皆んな顔見知りだしさ、要らぬ噂になることもねえべ?」
銀ちゃんの店というのは鐘崎組の古くからの知り合いで、夜の繁華街見回りなどでも貢献している相手だ。居酒屋の他にもゲイバーなども経営していて、オーナーの銀ちゃんは僚一の高校時代の後輩。信用のおける男だ。
「銀さんのところなら安心だろう。橘と春日野に言って、席は別にして護衛がてら一緒に行ってくれるよう頼んでおく」
鐘崎の理解と心遣いを有り難く思う紫月だった。
そうして飲み会の日がやってきた。
居酒屋には鐘崎からも事前に事情を話していてくれたので、銀ちゃんことオーナー自らが迎えてくれた。橘と春日野も紫月らとは背中合わせの席に陣取ってくれて、警護の準備は万端だ。むろん、彼らが組員で警護としてついて来ていることは当の三春谷には内緒である。
乾杯後、しばらくは高校時代の懐かしい話題などで適当に過ごした。
それから二時間も経った頃だ。酒も入ってきたし、夜も更けてきた。あと小一時間で切り上げようかと思い始めた時だった。三春谷が少々物言いたげな真顔で厄介なことを言い出したのだ。それは紫月の結婚相手についての話題だった。
「紫月さん、こんなこと言ったら失礼かも知れませんが」
そう前置きした上で三春谷は身を乗り出してきた。
「紫月さんが結婚された相手って……男なんですよね?」
そう振られて紫月は内心ついに来たかと苦笑。男同士で結婚と知れば、必ず持ち上がる話題だからだ。だが、もうバレているなら隠す必要もない。
「うん、そう。誰かに聞いたん?」
「ええ……。地元のヤツらから聞きました。相手の人、高校も同じだった鐘崎さん……でしたっけ。あの人が紫月さんの結婚相手だって」
「そそ! ここいら辺のヤツらは皆んな知ってっからなぁ」
「そういえばあの頃も……自分が紫月さんのクラスに顔出してる時、よくあの人に睨まれた記憶がありますよ」
「睨まれたぁ?」
まさかそんな――と、紫月は苦笑気味だ。
「マジですよ。あの人いつもおっかねえ顔して自分のこと見てました」
「はは……! まあな。あいつ愛想ある方じゃねえから誤解されやすいけど。でも別に睨んだわけじゃねえと思うぜー。ツラがな、元々仏頂面だから」
笑いながらそう言うも、三春谷にはそれが鐘崎を庇う言葉に聞こえたようだ。
◆10
「まあ……結婚するくらいですから? 庇うのも当然なんでしょうけど。でも紫月さん、俺心配なんス!」
ますます身を乗り出しながら、まるで耳打ちするかのように顔を近付けて三春谷は続けた。
「あの人、ヤクザですよね? 地元じゃ有名だって。そんな人と一緒にいて紫月さんヤベエと思わないスか?」
これにはさすがの紫月も返答に困らされてしまう。
「いや、まあヤクザってのはちょっと違うんだけどな。あいつとはガキん頃からの幼馴染でさ。性質もよく知ってっから」
心配には及ばないと笑えども三春谷は大真顔を崩さない。
「脅されて一緒になったとかじゃないんスか? だったら俺、うちの会社にも弁護士とかいるし、力になれることがあるかも知れませんので」
「脅されてって……そりゃないない! つかさ、おめえが思ってるようなことは全然ねえからダイジョブダイジョブ!」
紫月は極力明るくあしらったが、三春谷は納得できていないような顔つきでいる。
後ろの席で聞いていた橘と春日野も無言のまま視線を見合わせてしまった。
「それよか今日はおめえの結婚祝いなんだから!」
時間も時間だし、あと一杯飲んだらそろそろ引き上げるかと言って話題を変えた。
「今日は実家に泊まりだべ?」
ラスト一杯なと言って三春谷と自分のグラスにビールを注ぐ。三春谷はまだまだ話し足りないような顔で黙り込んでしまったが、ちょうどその時だった。
「あら、遼ちゃん! いらっしゃーい!」
オーナー・銀ちゃんの甲高い声で入口を振り返ると、なんと鐘崎が顔を出したことに紫月も――それに後ろの席にいた橘と春日野も驚かされることと相成った。
「遼!」
大きな瞳をまん丸く見開いて嬉しそうな声を上げた紫月とは裏腹に、三春谷の方は何とも形容し難い顔つきで押し黙ってしまった。それもそのはず、席に向かってゆっくりと歩いてくる鐘崎の出立ちは一目で粋に見えるダークで上品なスーツ姿が店内にいた客たちの視線を一気に集めていたからだ。
がっしりとした高身長の体格は堂々としていて、それに嫌味なほどによく似合う男前の顔立ちは一目見たら視線を外せなくなるような美丈夫ぶりだ。表情は穏やかながらもおいそれとは声すら掛けずらい独特のオーラを放っている。
鐘崎は紫月らの席までやって来ると、ちらりと三春谷を一瞥し、
「鐘崎だ。今日は紫月が世話になった」
低く落ち着いているが色香を感じさせる美声でそう挨拶を切り出した。
「ご結婚されるそうだな。おめでとう」
こう出られては三春谷とて無視するわけにもいかない。言葉少なながらも、「どうも……」と言って焦ったように視線を泳がせたまま軽い会釈をしてみせた。
◆11
「遼、仕事は? もう済んだん?」
「ああ。ちょうど帰り道だったからな」
迎えに寄ったのだと言って微笑を見せる。紫月に向けられたその笑顔は穏やかでやさしく、完璧なまでに品がいい。
「楽しめたか?」
短いそのひと言の裏には、『もう夜も遅い。そろそろお開きにしよう』という意図が含まれているように思えたのか、三春谷は苦虫を噛み潰したような顔つきで黙り込んでしまった。
「迎えに来てくれたんか! さんきゅなぁ」
紫月は今し方注いだグラスをクイと空けると、そろそろ行こうかと言って三春谷に向かって微笑んだ。
「三春谷、今日はありがとな! 幸せになれよー」
そう言って伝票を手に取る。ここは俺が――ということなのだろう。三春谷は半ば呆然ながらもその動きをただただ目で追っていたが、その直後にオーナーの銀ちゃんから思いもよらない言葉を聞いてハタと我に返らされてしまった。
「紫月ちゃん! いいのよぉ。お代はもう遼ちゃんからいただいてるの!」
ゲイバーをやっているだけあって、クネっと腰をよじりながら可愛らしい仕草でウィンクをしてよこす。
「マジ? 遼が?」
悪いなと言いつつも、穏やかに細められた視線が頼れる亭主だと言っているようで、三春谷は礼の言葉さえ詰まったまま金縛り状態でいて、しばらくは立ち上がることさえできずにいた。
「三春谷、行くべ!」
紫月にうながされてようやくと我に返る。外へ出れば既にタクシーが一台待っていて、それも鐘崎が手配したのだろうことが窺えた。
「そんじゃな! 気をつけて帰れよー。婚約者さんによろしくなぁ!」
「あ……りがとうございます……。紫月さんも……」
それ以上は言葉にならない。自分でも何をしているのかよく分からない内にタクシーが走り出し、窓の外には笑顔で手を振る紫月の姿。その脇には嫌味なほどにサマになっているダークスーツの男。そしてそれによくよく似合いの黒塗りの高級車が一台。聞かずともそれが彼の車なのだろうと分かる。飛んでいく景色の中、それらが切り取られた絵画のようになって視界に焼きついた。
「……チッ! ヤクザめが……」
思わずこぼれてしまった舌打ちに、運転手がチラリとバックミラーに視線を動かす。その後、実家に帰り着くまで三春谷の舌打ちはとまらなかった。
一方、紫月の方はタクシーが遠ざかるのを見送りながら、ホッとしたように小さな溜め息をつき、すぐに愛しい亭主に向かって礼を述べていた。
「遼、まさか迎えに寄ってくれるなんてさ! ありがとなぁ」
笑顔ながらもやれやれと肩の力が抜けたような面持ちを見ただけで、鐘崎にはその胸中が理解できたようだった。おそらくは自分たちが男同士で結婚したことや、組についての話題なども出たのだろう。それを肯定するように駆け付けてきた橘と春日野の表情を見れば、どんな話題でどんな様子だったのかも一目瞭然だ。
「お前らもご苦労だったな」
労うように肩を抱いてくれる亭主の肩に頬を預け、紫月は『ありがとう』と言うように笑みを見せたのだった。
◆12
次の朝、鐘崎は橘と春日野から昨夜の報告を受けていた。
三春谷という後輩が組のことで紫月に苦言めいたことを囁いていたらしいと聞く。やはりか、想像した通りだったというわけだ。
「どうも嫌な予感がしてなりません。あの三春谷とかいう男、姐さんを単なる先輩という以上の感覚で見ている気がしてなりません」
橘は見たまま感じたままを口にするタイプなので、春日野のように言葉を選んで丁寧に物事を説明することもないのだが、鐘崎にとっては現状把握には有り難いことといえる。
「ふむ、俺も高校時代あの男がしょっちゅう紫月を訪ねてうちのクラスに顔を出していたのを見ているからな。当時はヤツも剣道部員ということで、道場育ちの紫月にアドバイスがどうのという口実で寄って来てはいたんだが――」
だがそれも在学中のことだけで、卒業してからはトンと接触もなかったので特に気に掛けてはいなかったのだ。とにかく厄介なことにならないよう注意を払うに越したことはない。
「まあヤツも結婚間近だというし、要望に応えて一度は飲みに付き合ったんだ。今後どうこう言ってくることもねえとは思うが――念の為紫月の周囲には気を配ってやっておいてくれ」
「かしこまりました。これまで以上に心に留めておきます!」
紫月は殆どこの邸にいることが多いし、買い物や自治会に行く時は必ず春日野が付いていく。心配には及ばないだろうと思うものの、少しでも不安要素があるなら早々に芽を摘むか、注視しておくに越したことはない。
紫月はあの通り気のいい性質だから、昨夜のように誘われれば断れないことも承知だ。そういう時は亭主である自分が盾になってやりたいと思うのだ。鐘崎は念の為、三春谷がどこに勤めてどんな暮らしぶりであるかをザッと洗ってみるのも忘れなかった。
それからまたしばらくは何事もなく平穏なまま過ぎた。再び三春谷から実家の道場に電話がかかってきたのは飲み会から二週間になろうという頃だった。
あの飲み会の席で三春谷からは携帯の番号を訊かれたのだが、紫月は持っていないと言ってごまかした。今時携帯を持たない人間がいるのかとしつこく疑われたものの、俺はズボラだからと言って話を濁したのだ。
紫月自身、何となく彼が必要以上に懐っこくしてくる様子が気になっていたのかも知れないが、それ以前にプライベートな番号を教えるほどの仲ではないということと、万が一にも共有した場合、三春谷の携帯から紫月の番号を通して裏の世界の関係者――つまり周や楊ファミリーといったシークレットナンバーが流れないとも限らない。やたらにプライベートをばら撒くような真似は極道の姐としてすべきではない。
◆13
携帯を持っていないと言ったことで連絡手段は実家の家電にかけるしかないわけだが、だからといって普通ならばよほどの用事でもない限り遠慮するのが殆どだろう。そこを堂々かけてよこすこと自体に何か特別な感情か、あるいは何かしらの思惑があるのではと疑いたくもなるというものだ。それが恋情とは限らないが、電話を受けた綾乃木もまた同様で、いったい何の用事があるのだろうと胡散臭く思ったようだ。
とはいえ、かかってきたことを紫月の耳に入れないでおくわけにもいかない。綾乃木は鐘崎も邸にいる時を見計らって伝えることにしたのだった。
「ふむ、またあの三春谷から電話とな――。今度は何の用だというんだ」
「さあ……? もしか結婚式に出てくれとかかね?」
この秋に式だと聞いていたから、もしかしたら招待状でも渡したいということだろうか。それにしては時期的に早過ぎるが、紫月は特に疑いもなく暢気に考えているようだ。
「だが住所も分かっているんだ。招待状なら郵送すりゃいいだけだろうがな」
「それもそうだよな……」
「とはいえ無視したところでまたご実家にも手間を掛ける。一応要件だけは聞いてみるか――」
その要件次第では一度自分が三春谷に会って、きっちりと話をつけることも前提の上、鐘崎は紫月に連絡を取るように言った。
紫月から電話が来たことで、三春谷は心躍らせたようだった。先日の居酒屋で奢ってもらったことを申し訳なく思っているので、その礼がてら今度は自分に奢らせて欲しい、要件はそれだった。
「じゃあ結婚式の招待状云々というわけではねえんだな?」
「うん、招待状がどうのって話は出なかった。都内のバーで会えねえかって」
「バーか。それで場所は?」
「渋谷だって。会社の近くに洒落た店があるからって」
「ふむ――」
奢ってもらった礼に奢り返すというのは一見道理としては通っている。――が、会う為の口実とも受け取れる。
「紫月、正直お前はどう感じる。三春谷がお前に対して先輩やら友人以上の感情があるように思うか?」
「さあ……どうかなぁ。ダチ以上の感情って、まさか俺に気があるとか?」
そりゃねえべと言って紫月は笑う。
「まあ……確かにちょっと押しは強えなと思わなくもねえけど、単に懐かしいだけじゃね? だってヤツは結婚を控えた身だぜ? 第一高校卒業してから一度も連絡すら来たこともねえし、単にこの前偶然会ったから懐かしがってるだけじゃね?」
結婚してしまえば自由に飲みに行く時間も少なくなるだろうし、その前に羽を伸ばしておきたいくらいに思っているんじゃねえの? と、暢気なことこの上ないが、これも紫月の人の好さゆえだろう。
「ふむ、羽伸ばし――ね」
鐘崎にとっては思うところのあるものの、三春谷が何を考えているのか掴まないことには始まらない。もっと言えば何を企んでいるのか――ということも視野に入れねばならない。
「分かった。とりあえず会ってみろ。ただし護衛はしっかりつけるぞ」
橘と春日野に加えて源次郎にも出向いてもらった方が良さそうだ。鐘崎は表向きは彼ら組員に任せつつ、自らも密かに様子を窺うことに決めたのだった。
◆14
三日後、渋谷――。
指定されたバーに行くと三春谷が逸ったような顔つきで迎え出た。
「紫月さん、紫月さん! こっちです!」
「おう」
「よく来てくださいました! お忙しいところ時間割いてもらって恐縮っス!」
「いや。いいバーな?」
いつも通り気さくな笑顔で席についた。陰からは橘と春日野、そしてまた別行動で源次郎と清水がそれぞれ客を装って店内に散らばる。鐘崎は源次郎らに持たせた通信機を通しながら、店の外の道路に車を停めて待機した。
店内の様子は外から見えない造りになっているが、音は通信機を通して拾えている。紫月はごくありきたりの会話で三春谷と向き合っているようだ。
「礼だなんて、わざわざ良かったのに」
「いえ、この前はご亭主にご馳走になっちまったし――何かしないと自分が落ち着かないっスよ」
「そりゃご丁寧に。すまねえな」
愛想を見せながら笑うも、『ご亭主』という言い方は気に掛かるところだ。男同士で結婚しているのだから旦那とか嫁とかと定義付ける言い回しには遠慮があるのだろうが、はっきり『ご亭主』というところから勘繰るに、鐘崎の方が『夫』で紫月の方が『妻』の立ち位置なんでしょう? と訊かれているような心持ちにさせられるからだ。
だがまあ、そこのところは深く突っ込まずにたわいのない会話を心掛けた。
「会社、この近くなんだって? 建設会社だっけ」
「ええ、まあ」
「婚約者さんとは職場で知り合ったんだべ?」
「そうです」
当たり障りのない会話を振るも、三春谷の方からは相槌を打つだけで積極的には会話が弾まない。
「どした? 元気ねえじゃん」
「……いえ、そんなことは」
「幸せの絶頂だってのにー」
「……そうスね」
「らしくねえぞー。なんか悩みでもあるん?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
グズグズと煮え切らない空返事を繰り返していたが、突如三春谷が真面目な顔付きで姿勢を正した。
「実は……紫月さんにお願いがあって」
「お願い? 俺に?」
何だよーと明るく笑ってみせる。まさかこの直後に想像だにしない言葉が返ってくるなど思いもよらなかった。
「あの……紫月さん。一度でいいんです。結婚しちまう前に……一度だけ……俺の頼み聞いていただけませんか?」
「頼みって?」
「一度だけ――俺と寝てくれませんか」
は――?
「寝るって……お前。冗談言ってる暇あったら嫁さん大事にしなきゃダメだべ」
「冗談なんかじゃないス! 俺、俺……前からその、お、男にも興味あって……。紫月さんのこと高校の時から憧れてましたし……」
「憧れ? 俺にかー? や、そう言ってもらえんのは恐縮だけどさ。お前もうすぐ結婚するんだべ? 変なことに興味持つ暇があったら嫁さんのこと――」
「結婚するからです! 結婚したら……もう自由な時間なんて無くなる……。その前に一度でいいんです。男とも……その、経験してみたくてですね」
「経験って……」
さすがの紫月も冗談と受け流すべきか、それともここは真剣に諭すべきか迷うところだ。
◆15
「俺のこと嫌いスか? 紫月さん、あの鐘崎って人とヤってるんでしょ? だから俺にも手解きしてくれるだけでいいんです。独身時代のいい思い出にしたいんです。憧れてた紫月さんが相手なら俺、男でも抱けると思うし」
「つまり何? お前さん、単に野郎とヤってみたいって――そういう好奇心か?」
「野郎なら誰でもいいってんじゃないです! 紫月さんなら……」
「おいおい……」
紫月はもちろんのことながら、周りの席で様子を窺っていた源次郎や橘らも目を剥くほどに驚かされてしまった。
車中で店内の音を拾っていた鐘崎にとっては言うまでもない。額には青筋が浮かび上がり、集音器が壊れんばかりに握り締める。
(野郎……ふざけたことを――)
ただの懐かしさや先輩を敬う後輩というなら大目に見てやろうかとも思っていた。だが、相手がそういう魂胆ならば話は別だ。
鐘崎は無表情のまま車を降りると、店の入り口で紫月らが出てくるのを待った。おそらくは源次郎らの計らいですぐに三春谷が追い出されると分かっていたからだ。
集音器は未だ店内の音を拾っている――。
「冗談にしちゃ度が過ぎるぞ三春谷。聞かなかったことにしてやるから」
くだらねえことを言ってねえで嫁さんを大事にするんだ――普段気のいい彼が割合真面目な声音でそれだけ言うと、席を立ったのだろう。椅子の引かれる音を拾った。すぐに橘と春日野が紫月を連れて店を出るようだ。引き留めようと慌てた三春谷を源次郎と清水が静かに取り囲む様子が窺えた。
一分も待たない内に紫月が橘らと共に店から姿を現した。
「……! 遼! 来てたんか……」
鐘崎は無言のままうなずくと、先に車に行っていろと視線だけでそう云った。
またしばしの後、源次郎らに押されるようにして出てきた三春谷を待ち受ける鐘崎の瞳には冷たく燃える蒼白い焔が宿っているかのようだった。
驚いたのは三春谷だ。なぜ今ここにこの男がいるのかと驚き顔でいる。しかも、源次郎ら見知らぬ男たちに取り囲まれていることにも驚愕といった表情で、要は紫月の護衛として組員たちが付いてきたのだろうということが察せられたのか、冷や汗が滲む。三春谷にしてみれば密かに監視されていたような気分になり、やはりヤクザのやり口は汚い――と、そんなふうに感じているのだろう。
「まさか……見張ってたんスか……?」
たかだか先輩後輩の飲み会にまで監視をつけるとは小心者めと言いたげに睨みを効かせながら険を浮かべるも、当の鐘崎は当然だとばかりの無表情でいて、微塵の動揺すら感じさせない堂々ぶりだ。
「ツラを貸してもらう」
たった短いそのひと言は得体の知れない魔物が地を這う地鳴りのようだった。
◆16
鐘崎は少し歩いた先の路地裏で静かに三春谷を振り返った。何気ないその一挙手一投足に三春谷の視線が泳ぐ。人の目の届かないこんな場所だ、まさかとは思うがいきなり殴られたり、はたまた刃物でも突き付けられたりしやしないかと焦る想像が心拍数を上げる。所詮はヤクザのすることだ、そういうことも有り得なくはないだろうと身構えながらも、三春谷は逃げ腰のまま声を裏返して叫んだ。
「……あんた……ッ、何でここへ……! 俺をどうするつもりだよ……ッ」
「モノを尋ねたいのは俺の方だな」
落ち着いた感じの応答に、今すぐ殴られるとか刺されるとかいった雰囲気は感じられないことを悟ってホッと肩の力が抜ける。
「……尋ねるって……。俺に何を訊きたいんスか……?」
「三春谷――だったな。てめえが結婚前に誰と遊ぼうが婚約者を不幸にしようが、それ自体に節介する気はねえ。だが、その相手に紫月を巻き込もうというなら別だ」
「……ッ、巻き込むって……。まさか盗聴してたスか?」
店内での会話がすべて筒抜けているような鐘崎の苦言に驚きを隠せない。
「人聞きが悪いことを言ってくれる」
「……ひ、人聞きが悪いのはアンタの方でしょ……。いくら紫月さんと結婚してるからって……俺たちの会話を盗み聞きするなんて……犯罪っスよ?」
「俺たち――だ?」
「は、はは……突っ込むところはそこですか! 俺と紫月さんが仲良くしてるからって妬いてるってわけ!」
鐘崎からすればえらく理不尽な言い草だ。本来ならば今のひと言でぶちのめしてやってもいいくらいだが、あまりのバカさ加減に怒りよりも呆れが先に立って、軽い溜め息が漏れてしまった。
こうまで言われても平静さを崩さない鐘崎に、三春谷の方ではすぐに殴られるなどの危険性がないと確信したのか、次第に横柄な感情が顔を出す。ヤクザとは名ばかりで、思っていたよりも案外大したことのない男なのかと舐めて掛かる上から目線で調子づいていった。
「そうでしょ? さっきの人ら……あれもアンタのところのヤクザなんでしょ? あの人らに盗聴器でも持たせてたっていうんスか? アンタ、そうやっていっつも紫月さんのこと縛り付けてるんスね? たかだか後輩と飲みに行くくらいで監視までつけるとか、異常っスよ!」
思いつく限りの言葉を並べ立てて罵ったつもりだったが、目の前の鐘崎は依然怒るでもなければ顔色ひとつ変えない無表情そのものだ。普通ならば、「何をッ!?」とか、「もういっぺん言ってみろ!」などと憤慨して言い争いになるだろうシチュエーションのはずだ。そうなればなったでちょうどいい、三春谷としては子供の頃から剣道を嗜んでいて、腕にもそこそこ自信がある。この際、鐘崎を怒らせ、取っ組み合いにでも持ち込んで打ちまかしてやればいい気味だ――そんなふうに思ってもいた。
ところが――だ。直後に鐘崎から飛び出した言葉に、驚きを通り越して硬直させられる羽目となった。
◆17
「紫月は俺の伴侶だ。さっきのようなふざけたことをぬかしたり、指一本触れたらてめえのタマをもらう」
「……は?」
怒鳴るわけでもなく、憤りすら感じさせない冷静そのものの平坦な声音だが、その内容は平坦ではない。
「タ……タマ……?」
言われている意味が分からずに首を傾げるも、意思とは裏腹に身体中がガタガタと震え出すような恐怖が這い上がる。
「今後、万が一にも紫月に粉掛けるようなことをすれば後はねえという意味だ。二度と俺たちの前にそのツラを見せるな」
目の前の鐘崎は至って静かな口ぶりだが、まるで金縛りにでも遭ったかのように三春谷は腕一本、足一歩動かすことができずにその場に固まってしまった。
やはりこの鐘崎という男は恐ろしいヤクザだ。例えばだが、『ナメてんのか、てめえ!』とか、『ぶっ殺してやる!』などと口汚く怒鳴って威嚇したり、刃物などをチラつかせて脅したりすることはないものの、ごく静かな二言三言だけで瞬時に背筋が凍り付くような底知れぬ恐怖を植え付けてくる。一瞬でも舐めて掛かったことを心底後悔させられる気がしていた。
マグマ溜まりの如く、まるで悪魔のようにどす黒い紅を湛えたような瞳が三春谷を射る。
艶のある濡羽色の髪が夜の繁華街のネオンを受けて鈍色に光る。
「返事は?」
「……へ?」
「口のきき方すら忘れたか?」
「……え……いえ、はい……。分かり……まし……た」
「分かればいい。今の返事、二度と違えるな」
仮にも違えたならば命はない――まるでそう言われているかのようだ。鋭い視線も艶のある黒髪も、恐ろしいほどに男前の顔立ちも堂々たる体格も、嫌味なほどに似合う高級そのもののスーツも、街灯を映し出して輝くばかりに磨き抜かれた漆黒の革靴も――何もかもが鋭い切先を思わせるような風貌にガタガタと全身が震えて総毛立つ。まるで今にもその背に真っ黒い烏の羽が生えて羽ばたくような錯覚にとらわれる。
この世にもしも悪魔がいるというなら、今目の前にいるこの男こそがそうなのではと思わされるほどだ。
三春谷は、生まれて初めて触れてはいけないものに手を出そうとした報いの恐ろしさを体感したかのような気分に陥った。
鐘崎が踵を返していく様を瞬きひとつ儘ならないまま見つめていた三春谷の身体が、遠ざかる足音と共にヘナヘナと崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
◆18
「遼、ごめんな。まさか来てくれてたなんてさ」
車中では鐘崎にしっかりと肩を抱き寄せられながら紫月がすまなさそうにしていた。
「いや――ヤツに会ってみろと言ったのはこの俺だ。俺の方こそおめえを囮に使うような真似をしてすまないと思っている」
「囮だなんてそんな……」
「俺が同席しても良かったんだが、それだと尻尾を出さんだろうと思ったのでな。あの男――三春谷が単なる先輩への憧れや懐かしさでお前に会いたがっているなら寛容にもなろうというものだが、万が一邪な気持ちを持っているなら早い段階で知っておくに限ると思ったんだ。だが結果的におめえには嫌な思いをさせてすまないと思っている」
「嫌な思いだなんて、そんなことはねえって。第一、橘や春日野がしっかり見ててくれてさ。その上、源さんや清水の剛ちゃんまで付いてきてくれるなんて……皆んなを煩わせちまって申し訳ねえなって」
鐘崎としては当然の配慮だ。
「実はな、紫月――。この前ヤツを銀さんの居酒屋から乗せたタクシーだが、あの後運転手の健治さんからわざわざ報告があったんだ」
「健治さんから?」
鐘崎組では地元の人々との交友関係も大事にしているので、繁華街の銀ちゃんの店などと同様に商店街や地域の中小企業ともこまめな付き合いをしている。健治という運転手の勤めるタクシー会社もその一部で、ごくたまに客の苦情などから発展した諍いごとの仲裁役を引き受けたりもしている為、当然運転手らとも良好な関係を築いているのだ。
「健治さんの話では、三春谷を送り届ける間中ヤツはずっと舌打ちを繰り返していたそうだ。主にはうちの組に対する恨み言をブツブツと呟いていたそうでな。ヤツが単に世間一般的な感情で極道を敵視しているのであれば、それ自体に思うところはねえ。だが、仮に極道を毛嫌いする理由がお前への興味からきているとすれば早めに釘を刺しておく必要があると思ったのでな」
「興味って……」
「案の定、ヤツはお前にとんでもないことをぬかした。やはり極道――つまり俺を敵視する理由のひとつにはお前に対する邪な感情があったということだ」
だから大事に至る前に手を打ったということだ。鐘崎がわざわざ出向いて来たのもその為だろう。
「そっか……。おめえにも世話を掛けちまってすまない。けど三春谷のヤツ、何を血迷ってやがるんだか……。変な興味を覚えて道を踏み外さなきゃいいけどな」
相変わらずに紫月は心優しいというのだろうか。あんなことを言われても、まだ三春谷を忌み嫌うどころか目を覚まして正しい道を選んでくれればいいと願っている。そんな彼の為にも、鐘崎は例え自分が悪者になろうとこのやさしい伴侶を守ってやらねばと思うのだった。
◆19
その数日後のことだった。その日は平日だったが、紫月が実家の道場へ出向いた際のことだ。護衛として春日野も一緒だった。
渋谷で会った日以来、三春谷からの音沙汰はなく、とりあえずのところは平穏な日々が続いていた。鐘崎自身が直に苦言を呈したことが効いているのだろう。もう自分たちのことは忘れて、三春谷には三春谷の進むべき人生を幸せに過ごしてくれればと思ってもいた。
ところが――だ。紫月が道場に着くなり固定電話が鳴り、たまたま側にいた紫月が受話器を取った時だった。
「はい、一之宮道場です」
「……紫月さんですね。三春谷です」
まるで道場にいることが分かっているような口ぶりにギョッとさせられる。
「三春谷――おめえ」
「待って! 待ってください。切らないで! ひと言あなたに謝りたくて……!」
そう言われれば聞くしかない。
「この前は……すみませんでした。失礼なことを言いました」
「――ん、済んじまったことだ。もういいさ。それよか嫁さん大事にして幸せになれよ」
紫月は怒ることも詰ることもせずにそう言葉を掛けた。
「あの紫月さん……この前はあんな言い方して失礼しましたが……。俺、ああでも言わねえと紫月さんに重いって思われて嫌われると思ったんです! だから遊びで男と寝てみたいなんて言っちまって……。でも違うんです! 本当は男と寝たいんじゃなくて、あなたと――という意味なんです!」
決して興味本位の遊び半分な気持ちで言ったんじゃありませんと語気を強める。
「俺とって……三春谷、おめえまだンなこと言って」
「好きなんです! 高校時代からずっと好きでした! でも男同士だし……どんなに想っても報われないって諦めてました! けどあなたが男と……あの鐘崎って人とデキてるって知って……気持ちを伝えずにはいられなかったんです!」
ずっと――好きだったんです!
三春谷は受話器の向こうでそれだけを繰り返した。
「三春谷――。気持ちは分かった。そう言ってくれんのは有り難いが、俺には既に生涯を誓った相手がいる。おめえだって人生を共にしようって女性がいて、結婚を控えた身じゃねえか。一時の好奇心や気の迷いでいずれ後悔するような馬鹿なことをして欲しくねえ。彼女を大事にして現実を見るんだ。それがお互いの為だぞ」
「紫月さん……。分かってます。ただどうしても誤解されたままじゃ嫌だったんです! 遊びでも何でもなくて、真剣にあなたが好きだからあんなことを言ったって……伝えたかっただけです」
「そっか。おめえン気持ちは分かったから。誤解もしてねえ。だからもう連絡してきちゃダメだ。彼女を大事にして幸せになれよ」
「……はい。分かりました。あなたに気持ちを伝えられただけで……充分です。想いが報われないだろうってことは分かってますし、もうこのことであなたを困らせるつもりもありません。ただ――。ただ俺、心配なんです。鐘崎さんはあなたにとっては良い人かも知れません。でも世間的にはヤクザでしょ? あなたが……ヤクザと一緒にいるのは……やっぱり心配なんです!」
紫月は溜め息を抑えることができなかった。
◆20
「三春谷、心配してくれんのは有り難え。お前が世間一般的なイメージからヤクザを嫌うのも理解できる。だがな、俺もその”ヤクザ”だ」
「そんな! 紫月さんはヤクザなんかじゃありませんよッ! あの人に……鐘崎ってヤツに脅されて一緒にいるんでしょ? 俺にはそうとしか思えません!」
「バカ言え! そいつぁおめえさんの誤解だ。俺は脅されてなんかねえし、てめえの意思であいつと一緒になったんだ。心配には及ばねえ」
「そうでしょうか? 本当は……逃げたいって思ったことはありませんか? あいつが――鐘崎って人が怖いから我慢して一緒にいるんじゃないんスか? もしかしてDVとかも受けてるんじゃないかって、心配で仕方ねえんです! 誰にも相談できなくて困ってるんじゃないっスか?」
「おいおい……DVって、おめえも想像力豊かなぁ。ンなわきゃねえって。何でそうぶっ飛んだ想像ばっか……」
「想像じゃありません! あいつ……この前俺に言ったんです。あなたに指一本触れたらタマをもらうって! それってヤクザの世界じゃ命を取るって意味だそうですね? そんなおっかねえことを平気な顔して……仮にも堅気の俺に……顔色ひとつ変えないで言うようなヤツですよ? あんなヤツと一緒にいたらあなたがいつか危ない目に遭うんじゃねえかって……それが心配なんです!」
正直なところ、まだ言うかとげんなりさせられそうだ。それ以前に道場に来たタイミングで電話がかかってくる自体に首を傾げさせられる。まるでどこかから自分たちを見張っていたようにも思えるのだ。
「三春谷、おめえ今何処にいる?」
「え……?」
途端に声が期待を含ませたように逸るのが分かった。会ってくれるのかと浮き足だったかのようにも思えるのだ。
「あの……紫月さん? もしかして今から……」
「何で俺が道場にいることを知ってる」
「何でって……別に……。た、たまたまですよ。この前のこと……あ、謝りたくてご実家にかけたら……偶然紫月さんが出てくれたからラッキーだなって」
「そうか――?」
本当はどこかから俺を見張っていたんじゃねえのか?
「い、嫌ですよ紫月さんったら……。まさか俺がどっかからあなたを監視していたとでも言うんですか? そんなストーカーみたいな真似するわけないじゃないですか……」
「だよな? 今日は平日だ。お前さんも仕事だろうしな」
「そ、その通りっスよ……。今は都内で……会社の近くっス」
「それならいい。疑って悪かった。とにかく――もう電話はかけてくるな。おめえはおめえの幸せだけを考えて彼女さんを大事にしろって」
分かったな? そう言って静かに受話器を置いた。
「待って! 紫月さ……ッ」
三春谷の焦る声を遮るように通話を切った。
「はぁ……。ったく! いい加減目ぇ覚ましてくれっといいけどな」
重い溜め息と共に独りごちるのをとめられなかった。