極道恋事情

38 絞り椿となりて永遠に咲く2



◆21
「姐さん――今のお電話の相手、例の三春谷という後輩の方ですね?」
「春日野……! ああ、うんそう。ったく何考えてやがるんだか」
 しようもねえヤツだなと苦笑する。
「今、表の様子を見て来たんですが、少し行った先の路地に車がありました。おそらく社の営業車と思われますが、乗っていたのはその三春谷さんでした」

「…………!」

 やはり自分たちを見張っていたのか。
「そっか……。まあこのタイミングでかけてくるってことは、そうじゃねえかなとも思ってたんだが」
「彼はこちらが思っている以上に少々厄介かも知れません。姐さんのおやさしいお気持ちはお察ししますが――このことは若にご報告すべきかと存じます」
 春日野の立場からすればそうあるべきだろう。紫月もまた、そこのところは承知していた。
「そうだな。黙っておいて遼を不安にさせるのは良くねえしな。俺から話しておくよ」
 とはいえ結局春日野からも報告は上がるだろうが、鐘崎に心配を掛けまいとした挙句、隠し事をするのは紫月としても本意ではない。

 その夜、経緯を聞いた鐘崎は、先日の牽制がまったく効いていなかったことに頭の痛いことだと思ったようだ。だが、確かに放置していいことでもない。かといって再度似たような苦言を呈したところで、あの三春谷が素直に聞き入れるとも思えない。出方を待つしかないが、悠長に構えていていつぞやのように紫月に危険が及ぶのは絶対に避けねばならない。ただ、現状では紫月の警護をこれまで以上に固めるくらいしか手立てがないのも実のところだ。鐘崎は春日野に加えて、若い衆をもう二人ばかり見繕うことに決めたのだった。

 その後、紫月には極力邸から出ないようにしてもらい、自治会などでどうしても用事がある際には護衛役として新たに橘と徳永が抜擢された。幹部の清水は鐘崎の依頼の仕事でも補佐役としての任を負っているので、幹部補佐である橘が名乗りを挙げたのだ。また、徳永は春日野付きの舎弟だが、体術面でもなかなかに頼れるそうなので、三人体制で護衛を任せることになったのだった。

 一方、三春谷の方でも思うようにならないことに焦れまくっていたようだ。
「クソ……ッ! 鐘崎のヤクザ野郎……。あいつさえいなければ紫月さんだってもっと俺の話をちゃんと聞いてくれるだろうに」
 紫月本人からもう電話をかけてくるなと言われたショックは想像するよりも遥かに大きかったようだ。
 秋に控えた結婚式のことなど当に頭から消え去っていて、考えることといったら紫月のことばかりだ。よもわくば結婚自体を取り止めてもいい――三春谷の思考は既に常軌を逸し始めていた。



◆22
 そんなおりだ。上司からとある仕事の件で用を言いつけられた彼は、とんでもない策略を思い巡らすことになる。その仕事とは、近々行われるビルの解体実験に関することだった。元々数社が協力してシステム作りに携わってきたのだが、三春谷の勤める建設会社もまた、その実験に名を連ねていたからだ。その資料を役員室に届けるようにと言われて、ふと邪な思いが過ってしまったのだった。
「あの解体か……。もしかしたら……あれに乗じれば、上手いことあのヤクザ野郎を始末できるかも」
 それは汐留付近で行われることになっているビルの解体実験だった。周焔の元へもその解体にちなんだ説明が配布されていた――例の発破解体である。その爆破に巻き込めば、自分自身は手を汚さずに鐘崎を葬ってしまえる。三春谷はそう思ったのだ。
「……ッ、どうすれば俺自身が疑われずにあのヤクザ野郎を嵌められる……」
 とにかくは鐘崎をあの発破解体の現場へ誘い込む必要がある。しかも万が一事が上手く運んだとして、その後で自身の関与が疑われずに単なる事故として処理される手を考えなければ意味がない。
「こうなったら……見ず知らずの誰かを雇うしかねえ。どうにかして鐘崎をあの場所へ誘き出さなきゃ始まらない」
 解体までは日も迫ってきている。綿密な計画を練るにしても日にち的には余裕がないのも事実だ。それに、結婚式までも半年を切っている。もしもこの計画が失敗に終わったら、自分は何食わぬ顔をして予定通りに結婚すればいい。紫月を諦めるのは残念だが、必ずしも失敗に終わるとは限らない。だが、万が一「失敗に終わった」際の保険として、今の婚約者とも上手くやっておけば痛手が少なくて済む。上手くいって紫月が手に入れば婚約者の方を捨てればいい――三春谷は無意識にもそんな大それたことを思い巡らせているのだった。
 変な話だが所詮は紫月に対する想いもその程度ということだ。まるで子供が目の前のおもちゃを欲しがるように我が侭で身勝手な計画が幕を上げようとしていた。



◇    ◇    ◇



 数日後、三春谷はネットで雇った匿名の相手との連絡に忙しくしていた。報酬は二十万円だ。その仕事内容とは鐘崎組若頭の鐘崎遼二を呼び出すこと。そこで鐘崎にほんの少し指示した通りのことを伝えるだけでいい。たったそれだけで二十万円という利のいいバイトに飛びつく相手はすぐに見つかった。
 三春谷はその相手と直に会うことはせず、すぐに破棄できる捨てアカウントを作り、アプリを使って鐘崎に伝える内容や落ち合う場所などを細かく指示していた。
 その場所というのは発破解体が行われるビルが目視できる海沿いの遊歩道、日時は解体が行われる予定日で、時間は解体決行の五時間前を指定した。爆破時刻は深夜〇時だ。つまり、鐘崎とバイトを落ち合わせるのは夜の七時である。その際、会って話す内容も事細かに決められていた。



◆23
 鐘崎遼二に会ったら、あんたは私立探偵だと名乗ること。
 依頼人は彼の妻を追いかけ回している男で、鐘崎の素行調査を頼まれたと伝えること。
 ただし、依頼人に対して胡散臭く思うところがあった為、調査対象である鐘崎にその事実を伝えに来たと、そう話すだけでいい。

 それで報酬の二十万円を支払うという約束だ。

 金は最寄駅のコインロッカーに入れておく。ロッカーのすぐ隣にある男子トイレの個室に鍵をガムテープで貼り付けておく。水洗タンクの蓋の裏だ。鐘崎と落ち合って話が済んだら、金を受け取って仕事は終了。即行でアプリを削除し、お互いのことは忘れること!

 実行部隊の男にとってもそれだけで二十万円が手に入るなら万々歳だろう。
 そんな計画が練られているなど夢にも思わない鐘崎と紫月の方では、しばしの間平穏な日々を過ごしていた。



◇    ◇    ◇



 そうして解体当日がやってきた。
 夕刻、鐘崎は幹部の清水を伴って指定された遊歩道へと出向いた。内容が内容だけに紫月には特に知らせずに来たが、数日前に連絡があり、私立探偵と名乗る男から極秘密裏に会いたいと言われていたからだ。
「あんたが私立探偵か――?」
「はい、中田友也といいます。新宿で小さな探偵事務所を開いています」
 中田と名乗ったアルバイトの男は名刺を差し出しながらそう言った。あらかじめ三春谷からコインロッカーを通じて受け取っていた偽の名刺だ。もちろんのこと『中田友也』というのも偽名である。
「お電話でもお伝えした通り、実はある人から鐘崎様についての素行調査を依頼されたのですが――。私もまがりなりに探偵なんていう商売をしている者です。鐘崎様はその世界では有名でいらっしゃいますし、調査を頼んできた依頼人がどうにも気に掛かる人物でして。もちろん依頼は断りましたが、念の為鐘崎様にこのことをお伝えすべきかと思った次第です」
 男は三春谷からの指示通りにそう話した。
「――話は分かった。それで――その依頼人というのは?」
 探偵である以上守秘義務というのものがあろうが、依頼自体は断ったというし、何よりこうしてわざわざ事情を暴露しに来ているくらいだ。鐘崎はダメ元でそう尋ねた。
「ええ、本来でしたらお伝えするのは避けるべき事柄です。ただ……鐘崎様に隠しておくのは気が引けます。依頼人の名前だけは伏せさせていただきますが、鐘崎様の奥様と懇意にしていると言っていました」

「――なるほど」

 三春谷からはそれだけの情報で、鐘崎という男は依頼人が誰であるかおおよその見当がつくはずだと言われていた。案の定その通りの反応を見せた鐘崎に、中田と名乗った探偵はそろそろ引き上げ時と思ったようだ。
「では私はこれで……。あとのご判断は鐘崎様にお任せいたします」
「――ああ。情報に感謝する」
 男は深々一礼と共にその場を後にした。



◆24
 そんな彼の後ろ姿を見送りながら、鐘崎は無言のまま清水と目配せを交わしながら眉根を寄せる。
「若……、依頼人というのは例の三春谷という男でしょうか」
「おそらくな。懲りんヤツだ。まあ、今の探偵という男も信用できるわけじゃねえが」
「そうですね。新宿で小さな探偵事務所を開いていると言っておりましたが、正直聞いたことのない事務所ですし」
 胡散臭くはあるが、名刺を置いて行ったことだし、後程彼の素性を洗っておけばいい。今日はこの後の仕事も入っていないし、とにかくは撤収せんと運転手の待つ大通りまで戻ることにした。
 歩きながら組で待っている紫月に一報入れておこうとスマートフォンを手に取る。通話口からは元気そうな声が聞こえてホッと胸を撫で下ろす。紫月の方に異変は無さそうだった。
「紫月か。俺だ。これから帰るが、今ちょうど汐留の近くでな」
『マジ? 氷川ンとこの近くか。もしか寄って来んの?』
「いや――。ヤツとはまたいつでも会える。それより例のホテルラウンジのケーキでも仕入れて戻るさ」
 そう言ってやると嬉しそうな声が返ってきた。
『マジ? 嬉しいけどわざわざ寄ってくれんのも申し訳ねって! それこそまた氷川ンとこに行ったついででもいんだからさ』
 気持ちだけもらっておくから、それよりも早く帰って来いよと心遣いの言葉が嬉しい。そんなふうに言われれば、尚更ケーキを土産に持って帰りたくなるというものだ。
「分かった。なるべく早めに帰るぜ」
『おう! 気をつけて帰って来いなぁ。ツマミと晩飯用意して待っとく!」
「そうか。楽しみだ。それじゃな」
 鐘崎は愛しい気持ちのまま笑顔で通話を終えたのだった。
「すまんな、清水。帰り掛けにちょいと例のホテルラウンジへ寄らせてもらって構わんか?」
「もちろんです! 姐さんへのケーキですね」
「ああ。あいつは早く帰って来いと言ってくれたが、ああ遠慮されると逆に買っていってやりたくなっちまってな」
「分かります。実を言うと私もあのラウンジのクッキーが好物でしてね。前に周さんご夫妻が差し入れしてくださったのがとても美味しかったものですから」
 寄ってもらえるなら有り難いと言いながら、クスクスと微笑ましげに清水は笑う。そんな彼の理解に感謝しつつ、なるべく早くケーキを選んで帰ろうと思う鐘崎だった。

 運転手の花村が待つ大通りまでは約一キロといったところか。この辺りは海沿いなので倉庫街が立ち並んでいる。
「やけに静かだな」
「そういえば――この辺りは昭和の初め頃に建てられた倉庫街だそうですよね。ここ数年の内には取り壊して新しく建て直すことになっているとか」
「なら今は稼働してねえってことか」
 人影はおろか、運搬車なども見当たらない。まるでゴーストタウンのような雰囲気の中、大通りへ向かって歩いていた時だった。

「キャアア!」

 どこからともなく女性の悲鳴が聞こえてきて、二人はハタと歩をとめた。
「やめて! 離してください! 離してー!」
 明らかに嫌がるのを強要されている若い女の叫び声だ。すると、その後に続いて男が怒鳴る声も聞こえてきた。
「うるせえ! 静かにしやがれ!」
「可愛がってやるっつってんだ! 有り難く思え!」
「大人しくしてりゃ悪いようにはしねえって!」
 こんな人気のない所では何がなされようとしているのかは聞かずとも想像できるというものだ。男の声は二人、もしくは三人か――。女は一人だ。おおかた強姦でも企んでいるに違いない。女は未だ泣きじゃくって叫び続けている。
「……クソッ、下衆めが!」
 鐘崎は清水と共に声のする方へと駆け出した。



◆25
 少し行くと、閑散とした倉庫街の中に佇む古ビルが見えてきた。声はその中へ入って行ったようだ。
「追うぞ!」
「はい!」
 目的が強姦ならおそらく武器などの類は所持していないだろう。持っていたとしても刃物くらいだ。
 鐘崎と清水ならば例え相手が三人いたとしても苦ではない。取り押さえんと声のする方に向かって古ビルの中へと潜入、男の怒鳴り声と女の悲鳴が激しくなってくる。
「嫌ぁあああ! やめて! 嫌ぁーーー!」
「そっち押さえてろっ!」
「暴れんな、このクソ女ッ!」
 ガラガラと物が倒れる音が取っ組み合いを想像させる。その音のする部屋を突き止めれば、扉は開け放たれたままになっていた。こんなゴーストタウン同然の廃倉庫街では、どうせ誰も来ないとタカを括っているのだろう。今にも襲われ掛かっている女を助けんと部屋の中へ飛び込んだ時だった。

「――――ッ!?」

「なに……ッ!?」

 部屋は思いの他狭く、小さな事務室といった感じだったが、どうしたわけかそこに人影は見当たらなかった。女どころか襲っていた男たちの姿すら皆無だ。
 部屋を間違えたかと思った矢先だった。突如バタンと轟音を立ててドアが閉められ、鐘崎と清水は同時に扉口を振り返った。外からは鍵の掛けられる音――。それと同時に狭い部屋の片隅からは未だに女の悲鳴と男たちが襲い掛かる様子が鳴り響いている。
「クソッ! やられた……。こいつぁ録音だ!」
 なんと、小型のプレーヤーが大音量で再生されているのに気がついた。悲鳴は録音されたドラマか何かの強姦シーンだったのだ。
 即座にドアに駆け寄り蹴破ろうとするも、それと同時にグラリと目の前の景色が歪んで、鐘崎は側にあった机に手をついた。見れば清水は既に意識朦朧、彼もまたドアへと向かおうとしたようだが、儘ならずに床へと倒れ込んでいた。
「わ……か……ッ」
 すみません――そう言い掛けて清水は気を失ってしまった。
 鐘崎もまた、凄まじい睡魔のようなものに逆らえず、机に寄り掛かって何とか持ち堪えようと踏ん張ったものの、扉口に辿り着いたと同時に意識を失ってしまった。

 扉の外ではゼィゼィと荒い息を押さえながら聞き耳を立てる男が一人。中の物音がしなくなったことにホッと胸を撫で下ろしていた。三春谷だ。
 あろうことか、彼は女が襲われるドラマの音声を流しながらこの小部屋まで先回りして鐘崎らを誘い込んだのだった。鐘崎らが追って来るのを確認しながら危険な薬品の入った瓶を部屋に撒いて扉の外で待機、二人が中に飛び込んだと同時に閉じ込めて鍵を掛けたのだ。



◆26
「……は、はは……やった……。ついにやったぞ……! これであの邪魔なヤクザ野郎ともおさらばだ。あと少しでここは吹っ飛んじまう!」
 元々普段から人の立ち入ることのない廃倉庫街だ。大通りには侵入禁止の看板とテープによる規制線が貼られているものの、建物周辺には特に囲いなどはない。発破解体後に鐘崎らの遺体が見つかったとしても、無人で遠隔操作される実験現場のことだ。何も知らない鐘崎らが勝手に迷い込んで、運悪く爆破に巻き込まれただけだと処理されるだろう。狭い部屋に撒いた薬品は強力だ。丸一日は目を覚ますこともない。と同時に、解体後は気化した薬品の痕跡も瓦礫に紛れて消えてしまうだろう。
「やった……。やったぞ! これであの人は……紫月さんは俺のモンだ!」
 狂気的な高笑いと共に三春谷はその場を後にした。



◇    ◇    ◇



 それから二時間が過ぎた頃だった。
 鐘崎から帰宅するという電話を受けていた紫月は、組事務所で亭主の帰りが遅いことに気を揉んでいた。
「……っかしいなぁ、遼のやつ何やってんだべ……」
 『今から帰る』と電話が来た時間から考えればとっくに着いていてもいいはずだ。仮に例のラウンジに寄ってケーキを買ってくれたとして、渋滞を見込んでもこれほど時間が掛かるはずはない。
「急な仕事でも入ったんかな……」
 そうであれば邪魔になってはいけないと思いつつも、とにかくは電話だけでもと思い、かけてみたが繋がらない。コール音はするものの留守番電話になってしまうのだ。
 一応メッセージを残して清水にもかけてみたが、同じく留守番電話になるだけだ。それならばと運転手の花村にかけて、初めて非常事態を予測させられることとなった。
『実は……若たちはまだ車に戻って来られておりません。確か――私立探偵とおっしゃるお方にお会いになるとのことでしたので、お話が長引いていらっしゃるのかと……」
 とはいえ、指定された場所は海沿いの遊歩道で、ホテルのラウンジやバーなどの室内でもない。外での立ち話にしては幾分長過ぎるのでは――と、花村としても気に掛かっていたらしく、かといって車を離れるわけにもいかずに、どうしたものかと思っていたそうだ。
「そっか……。やっぱり何かあったのかも……」
 すぐに鐘崎の現在地を探査に掛けると、場所は汐留近くの倉庫街と反応が出た。
「花さんの車からそんなに離れてねえな……。ってことは、まだ打ち合わせ中なんか?」
 だが、花村が言っていた私立探偵と会うという言葉が気に掛かる。
「けど、私立探偵って……何の用なんだ?」
 朝方、組を出ていく時はそんな打ち合わせがあるとは特に聞いていなかった。ということは、依頼の仕事の後でその私立探偵とやらに会うことが急遽決まったということだろうか。
 紫月はすぐに源次郎へと報告し、対応を検討することにした。



◆27
「若が帰っていらっしゃらないですと――!?」
 何か緊急事態であれば、例の暗号化されたメッセージなどが受信されることになっているが、源次郎のところには何も届いていないという。
「場所は汐留でしたな? 姐さん、我々も現地へ行ってみましょう!」
「すまねえな、源さん! 世話掛ける」
 紫月と源次郎は橘や春日野ら若い衆数人を伴って鐘崎のGPSが示す汐留へと向かった。その車中で源次郎が更に詳しい場所を探査に掛ける。
「ここは――どうやら海沿いに近い倉庫街のようですな。ですが……確かこの辺りは昭和の初期に建てられた倉庫だとかで、数年内に建て替えられる予定になっていると聞いた覚えがあります……」
「ってことは今は使われてねえってわけか?」
「――おそらくそのはずですが」
「廃倉庫か……。嫌な予感がするな」
 もしかしたら鐘崎と清水は私立探偵という男と会った後に何かの事件に巻き込まれたのかも知れない。
「ですが若は『今から帰る』と姐さんに電話をされているんですよね? その時のお声の感じはどうでしたか?」
 切羽詰まっていたり、変わった様子は無かったかと源次郎が尋ねる。
「いや……特に変わった様子はなかったな。例のラウンジに寄ってケーキ買って帰るって言ってくれてたし、いつも通りだったけど」
 とするなら、その時点で私立探偵との用事は済んだことを示している。異変が起こったのはその直後ということだろう。
「花村さんの車はこの倉庫街を抜けた大通りに停めていたそうですから、やはり姐さんへのお電話の直後に何かあったと考えるべきでしょうな」
 鐘崎と清水のどちらとも連絡が取れないということは非常事態が予測される。
「スマフォのコール音がして、GPSが生きてるってことは、スマフォ自体はここにあると見て間違いねえ。問題は遼たちがこの場所に居るとは限らねえってことだが……」
 仮に何者かによる拉致だったとして、スマートフォンを取り上げられ、鐘崎と清水は既に拘束されてどこか別の場所へ連れ去られた可能性もある。
「若の刺青に付けてあるピアスのGPSはどうでした? 実は今探査に掛けているんですが反応が出ません」
「やっぱ繋がんねえか……。俺もさっき事務所で調べたんだけど反応が無えんだ。繋がったのはスマフォの方だけで」
 ということは、やはりスマートフォンだけが置き去りにされて、本人たちは連れ去られたという可能性が出てくる。実のところ鐘崎の肩に付いているピアスのGPSは、薬品による目眩で倒れ込んだ際にぶつけてしまっただけなのだが、状況を知らない紫月らにとっては連れ去られたかピアスの所在に気付かれて潰されたかのどちらかを連想しても無理はない。
「汐留か……。氷川にも言ってみっか」
 GPSが示す場所からは周の邸も近い。万が一に拉致だったとすれば彼の助力が必要になろう。時刻は夜の十時を回ったところだが、申し訳ないなどと言っている場合でもない。紫月はすぐに周に宛てて連絡を試みた。



◆28
 連絡を受けた周がすぐに合流しようと言ってくれたのは有り難かった。――が、直後に紫月以下、全員が蒼白となる事態にぶち当たるとは思いもよらなかった。GPSの位置を聞いた周から、そこは今夜爆破による解体が行われる倉庫街だと知らされたからだ。周の方でもその解体の様子を気に掛けていて、告知時刻の深夜〇時までは起きているつもりだったそうだ。
「クソ……ッ、嵌められた! 敵はカネを爆破解体に便乗して葬るつもりかも知れん!」
 周はすぐさま現場に駆け付けると言ってくれた。
「一之宮! 今どこを走ってる!?」
「い……今ちょうど昭和島のジャンクションのとこ!」
「高速か――! 分かった! では俺の方が早いだろう。源次郎さんは一緒だな?」
「うん、ここにいる!」
「替わってくれ!」
 周は源次郎に通話を替わらせると、爆破解体を担っている各社の連絡先を告げた。
「もう時間がない! 解体は遠隔操作で行われるとある! 今から爆破を止められるかは五分五分ですが……とにかく連絡を頼みます! 俺は李たちと現場へ向かいます! どこの誰か知らねえが、爆破解体に乗じてカネを始末しようと企んでるとすれば、カネがGPSの場所にいる可能性は高い!」
「……ッ! 承知しました。私は解体を取り止めてもらえるよう至急各社に取り合います!」
「頼みます!」
 電話口の周は既に彼の邸の駐車場へ向かってくれているのだろう、荒く乱れた吐息が駆け足で移動しながらの様子を物語っている。
「姐さん! 周さんの予測が当たっているとして、現場に敵がいる可能性は低うございますが――」
 念の為、武器をと手渡された。
 組を出る際に敵との対峙を予想して日本刀や銃器類を持参してきた。だが、確かに爆破に巻き込むつもりでいるなら敵は既にその場にいない可能性の方が高い。
「ってことは……遼と剛ちゃんは拘束されてるか、あるいは気を失ってるか……」
 既に殺されているのでは――ということが脳裏を過ったが、今はうろたえている場合ではない。

(そうだよ……。そうだ……、遼がそう簡単に殺られるわけがねえ。生きてる! きっと生きて無事でいる――!)

 仮に最悪の事態だとしても、警察が介入して爆破後の遺体を調べられれば他殺か事故かは割れるだろう。敵とて事故に見せ掛けて始末する方法を選ぶはずである。とすれば、わざわざ事前に手を下してしまうよりも爆破に巻き込まれて亡くなったとする方が敵にとっては都合がいいはずだ。二人は拘束されて動けないか、あるいは眠らされている可能性の方が高いだろう。とすれば、生きて自分たちの助けを待っているはずだ――!

 次第にバクバクとし出す心臓を抑えるように拳を握り締めながら、紫月はそう自分に言い聞かせた。



◆29
 一方、三春谷の方は、現地が目視できるホテルの一室にいた。
「ふ――! あと三十分を切った……。もうあとちょっとであいつはお陀仏だ。ふ……ふふふ、……あはははは!」
 グラスに注いだ酒を高々と掲げて窓に映す。
「爆破と同時に乾杯だ! 午前〇時、日付が変わった時には――俺は勝者だ!」
 ネットで雇ったバイトの男にこちらの素性は一切教えていない。連絡に使ったアプリは既に削除した。ここのホテルを予約する際も、東京から遠く離れた地方の適当な住所と適当な偽名を使った。チェックインの際にはフロントを介さずに設置されたタブレットの操作だけで誰にも顔を見られずに部屋まで入れるタイプのホテルだ。婚約者の女には今夜は残業で電話はできないと伝えておいた。
 これで今ここに三春谷という人間がいたことすら誰も知らなかったことにできる。
(明日、いや……二、三日置くべきかな。少し経ってから鐘崎が死んだことを知って驚いたと言って紫月さんに会いにいこう。最初は同情して、一緒に悲しんで、あの人の信頼を得て。そうやって会う機会を増やしていけばいい。あの人も旦那を亡くしたばかりで寂しいはずだから、きっと俺を頼ってくれるはずさ! そしたら俺が思う存分慰めてやるから。二人で新しい人生を始めればいいじゃない。ねえ、紫月さん!)
 口元に浮かぶ笑みを止められないまま、三春谷は今か今かと爆破が決行される時間を待っていた。

 同じ頃、源次郎の方は汐留へと向かう車中から必死になって発破解体を担っている各社への連絡を試みていた。だが、不幸なことにどこも留守電のアナウンスが流れるばかりで一向に通じなかった。

 爆破予定時刻まではあと二十分足らず――。

 誰もが祈るような気持ちで手に汗を握っていた。
「あと五分で着きます!」
 運転を買って出た春日野が叫ぶ。
 その頃、周と李らは一足早く現場のビルへと到着していた。いち早く救助が行えるように鄧の乗る医療車も出動、冰は鄧の手助けをせんとそちらに分乗していた。
 倉庫街を囲むように侵入禁止のテープが巡らされていたが、それらを突き破ってビルの真横へと車を着ける。
「GPSは間違いなくここを指してる! 急ぐぞ!」
 小さなビルといっても五階建てくらいはありそうだ。このビル内のどの部屋に鐘崎らが居るのかは分からない。手当たり次第に探すしかなかった。
「皆、聞け! このビルの至る所に爆破解体の仕掛けが施されているはずだ! 時間は無えが極力冷静に各部屋を探ってくれ!」
 周が伴って来た側近ら全員が各階に散らばって、人海戦術でくまなくビル内を探す。ちょうど紫月らも到着して、すぐさま探索に加わった。
「遼ーッ! どこだッ! 返事しろ!」
「若! 若ーッ!」
 全員が張り裂けんばかりの絶叫で鐘崎らに呼び掛ける。そんな中、とある部屋の前で異臭を感じ取った紫月が、ふと立ち止まった。
「この臭い……! クロロフォルムか……!? いや、エーテルか……」
 それはクロロフォルムと思わしき意識を刈り取る危険な薬品の香りだった。



◆30
「ここか……ッ!?」
 ドアノブに手を掛けれどもカギが掛かっているようだ。
「クソッ! 外からじゃ開かねえってか!?」
 では内側から鍵が掛けられているということか。ドアノブの形からして単純な仕掛けのようだし、鍵穴は外側に付いている。ということは、中からは簡単に鍵が開けられるはずだ。にも関わらず外へ出られないということ、加えて薬品の臭いが漏れているということから察するに、二人はここに閉じ込められて眠らされたと考えるのが自然だ。例え拘束されて動けなかったとしても、意識がある状況下の鐘崎ならば何とかして拘束を解き、こんな単純な造りのドアを蹴破ることくらい朝飯前だろう。それができないということは、やはりこの薬品で意識朦朧にさせられているか眠らされてしまったということだろう。
「遼ーッ! 剛ちゃんッ! 居るのか!?」
 思い切りドアを叩きガチャガチャとノブを回す。
「チッ……! 蹴破るしかねえ……ッ」
 紫月はノブを叩き落とすように蹴りをくれ、体当たりでドアを破ろうとした。
「一之宮ッ! 見つかったかッ!?」
 音に気付いた周が駆け寄って来る。
「氷川! こっから薬品の臭いがするんだ! 閉じ込められてるのかも……!」
 周もまたその異臭に気付いたのだろう。着ていた上着を脱ぐと、それで自身の鼻と口を塞ぐようにして巻き付け、
「下がってろ! 服を脱いで鼻と口を覆うんだ!」
 そう言って思い切りドアへと蹴りをくれた。

 バキッという音と共に鍵が壊される――。
 体当たりで破った部屋の中に――折り重なるようにして気を失っている鐘崎と清水を発見した。

「カネッ!」
「遼……ッ」
 すぐさま周が首筋に指を当てて生死を確認。
「大丈夫だ! 脈はある――!」
 狭い部屋には異臭が充満していて、軽い目眩に誘われる。
「一之宮ッ、息を止めろ! 二人を担ぎ出す!」
 周に言われて紫月もまた脱いだ上着で鼻を覆いながら、中の空気を吸わないようにして一気に鐘崎らを部屋の外へと引きずり出した。
 すぐに李や橘、春日野も駆け付けて来て、皆で鐘崎らを肩へと担ぎ上げ、急いでビルの外へと避難。手元の時計を確認すれば、爆破までは十分を切っていた。
「全員いるかッ!?」
 周の掛け声で皆がそれぞれ互いの存在を確認。
「います!」
「揃ってます!」
 誰一人取り残していくわけにはいかない。周は直接全員の顔を見て無事を確かめると、
「よし! 撤収だッ! 全員急いで車へ!」
 即刻この場を後にした。
 ビルの入り口では鄧浩と冰が医療車の扉を開けて待っていてくれた。
「鄧! 冰! 二人を頼む!」
 皆で鐘崎と清水を医療車に担ぎ込み、紫月と冰も付き添ってすぐに発車。李や橘、源次郎らもそれぞれの車に乗り込んで倉庫街を離れた。
 車中で周が荒い吐息を抑えながら腕時計を確認すると、爆破時刻の〇時まではあと三分足らずだった。できる限り遠くへと車を走らせながら倉庫街を振り返る。

 午前〇時、闇夜に白い噴煙を上げて発破解体は決行された。



◆31
 一時間後、汐留の医療室では鄧が鐘崎と清水の容体を診ながら治療に忙しなくしていた。捜索に携わった者たちも念の為全員が医療室で鄧の部下である医師たちの診察を受けていた。ビル内に充満した薬品の影響を受けていればいけないからだ。
 幸い、周や紫月以下、全員がこれといって体調に変化は見られず無事だったことに安堵させられる。鐘崎と清水の衣服に残っていた薬品の臭いから、クロロフォルムかエーテルのような薬品をばら撒かれた可能性が指摘された。
「遼二君たちを動かすのは危険です。しばらくこのままここの医療室で入院してもらい、経過を見ましょう」
 外傷はなく命に別状はないものの、長時間に渡って薬品を吸い込んでしまったことに変わりはない。安静にして逐次目の届くところで容体を診てくれるという鄧に、紫月らは感謝の思いでいっぱいだった。
 また、源次郎の方では警視庁の丹羽修司へと一報を入れ、すぐに丹羽が周邸へと駆け付けて来た。事情を聞いた丹羽はひどく驚いたようだ。
「まさかそんなことがあったとは……。それで、鐘崎の容体は?」
「命に別状はないとのことですが、強い睡眠剤で未だ目を覚ましておりません。意識が戻れば詳しい経緯も分かりましょうが……」
 源次郎は鐘崎がスーツの上着に保管していた名刺を丹羽へと差し出した。
「今のところ手掛かりはこの名刺しかありません。運転手の話では、若たちはこの私立探偵という男に会いに行った先で事件に巻き込まれたと思われます」
 源次郎は名刺の指紋から犯人を割り出せないかと丹羽に助力を要請。
「分かりました。すぐに前科者指紋との照合を行ってみます!」
 源次郎らは周邸に戻ってからすぐに私立探偵の男がよこしたその名刺の住所を調べに当たったが、記載先はでたらめで、探偵事務所そのものが存在しなかった。もしもこの名刺の中田友也という男が何かしらの前科で逮捕歴があれば、指紋からすぐに素性が割れるはずだ。
 ところが、丹羽からの報告で彼に前科は無いようだとのことだった。
「前科者ではありませんでしたが、駐車違反の際に取得された指紋からこの男の素性が割れました! 今、捜査員を向かわせています!」
 中田友也というのも当然か偽名だったとのことで、本名は上坂譲というらしい。フリーでコンピューター関係の仕事をしているらしく、住まいは埼玉県だそうだ。
「埼玉の上坂――とな。聞き覚えのない名前ですな」
 住所からも名前からも思い当たらない見知らぬ相手だ。
「裏の世界の関係者という線も捨てきれませんが、もしかすると闇バイトの類で実行犯として雇われただけとも考えられます」
 源次郎が考え込む中、周の方では李と劉がその上坂譲という男の素性を更に詳しく洗ってみることにした。



◆32
 そうして一夜が明けた。
 朝になっても鐘崎と清水の意識は戻らないままだったが、丹羽らの捜査によって上坂譲が引っ張られ、事の詳細が明らかになってきた。それによると、やはり上坂は一時的にバイトとして雇われただけで、発破解体のことなどまるで知らなかったということのようだった。朝一番で丹羽がこれまでに分かったことを報告にやって来た。
「どうやらこの上坂という男は本ボシの素性を知らないようです。ネットで利のいいバイトを見つけて乗っかっただけだと言っている」
 連絡はすべてアプリにて文字のやり取りだけで行われ、偽の名刺や報酬の受け渡しもコインロッカーを介して受け取ったという。幸い、まだ上坂がアプリを削除していなかった為、やり取りはすべて残っていたことから本ボシによって与えられた指示も事細かに知ることができたそうだ。
「今、この名刺が刷られた印刷会社を当たっています」
 おそらくはインターネットで手軽に刷れるところに発注されたに違いない。鐘崎に渡すこの一枚だけが入り用だとすれば、刷った枚数も少数だろう。
「それから――上坂が残していたアプリから気になる情報が取れました。ヤツが雇われた際の仕事内容ですが、鐘崎を海沿いの遊歩道へ呼び出して、私立探偵と名乗るよう指示されていたようです。その際、鐘崎に会う時間と伝える内容も詳しく決められていましたが、気になるのは鐘崎の嫁さんというくだりが出てきたことです」
「嫁さん……というと、姐さんのことか?」
「ええ……。上坂の証言では、鐘崎についての素行調査を依頼されたが、その依頼人が胡散臭かったので依頼自体を断り、鐘崎に事の次第を打ち明ける為に呼び出したと言えと指示されたそうです。その際、依頼人の名は明かさずに、鐘崎の嫁さんと親しい間柄のようだったと伝えろと言われたとか」
 そこまでの情報で誰もが紫月の後輩である三春谷を思い浮かべた。
「じゃあ……遼を嵌めたのは三春谷の可能性が高えってことか……?」
 紫月は驚愕といった感じで拳を握り締めてしまった。
「ただし上坂の証言では、発破解体のことはまったく知らなかったということですし、鐘崎と落ち合った場所も解体現場のビルからは少々離れていました。上坂の言うには鐘崎と会って話したのはほんの数分で、すぐに別れたということですから、その後どうやってあのビルに閉じ込められることになったのかが謎です」
 上坂が鐘崎らをあのビルに連れ込んだわけではないとすれば、話が終わって別れた後に何かが起こったということだ。



◆33
「本ボシの男は上坂への指示や報酬の受け渡しもすべて直に会うことはせずに済ませています。おそらくは身元がバレるのを避けたのでしょうが、そこまで用心深いヤツがどうやって鐘崎らをあのビルに閉じ込めることができたかということです。上坂とは別に第二の実行役を雇ったとも考えられますが、もしかしたら鐘崎たちがあのビルに行った理由は、この本ボシとはまったく関係がなかったとも考えられます」
 仮にその本ボシが三春谷だったとして、わざわざ上坂のような男を匿名で雇ってまで意味深なことを吹き込んだのは、単に紫月のことで鐘崎に苦言を食らった腹いせに少々困らせてやろうとしただけという可能性も出てくる。だとすれば、本ボシは三春谷ではない別の誰かなのかも知れない。
「それにしても――報酬の額が少々多過ぎやしませんか?」
 単に困らせてやろうという目的にしては、二十万円という数字が気に掛かるところではある。
 やはり鐘崎らの意識が戻るまで待つしかないということか――。
 あの辺りは建て替えが決まってから稼働していない倉庫街ゆえに、防犯カメラの類なども無いという。とにかく丹羽の方では上坂を雇ったのが本当に三春谷であるかどうかを含めて、引き続き調べを進めるということだった。

 その丹羽とは別に周や源次郎の方でも独自の捜査が進められていた。パソコンの地図に印を入れながら鐘崎らの足取りを追ってみる。
「時系列で状況を整理してみよう。まず、カネたちが上坂扮する探偵を名乗る男と会ったとされるのがここ。海沿いの遊歩道だ」
「運転手の花さんが若たちを降ろして待機していたのはこの大通りですな」
「発破解体のあったビルはここだ。地図上で見ると、カネたちは遊歩道で上坂と別れてから花村さんの待つ大通りまで徒歩で向かったはずだ。例のビルはちょうどその間にある……」
 ということは、車まで戻る道のりで何かがあり、鐘崎らはこの古ビルに立ち寄ったということになる。
「ここで誰かに呼び止められでもしたってのか……? とすれば、その人物にビルの中へと誘導された可能性が高い。カネは数時間後にここで発破解体があることを知らなかった為に疑うことなく誘い込まれた――ということになる。仮にそれが三春谷というヤツだったとして、何か罠のようなものが用意されていたとしてもカネと清水が二人揃っていたわけだ。三春谷なんていう素人同然のヤツにむざむざ閉じ込められたとは考えにくい」
「とすれば――若たちが加勢しなければならないような事態が起こったとすればいかがでしょう。例えば三春谷自身は姿を現さずに、誰かが言い争いをしているか、あるいは窮地に陥っているような声を聞きつけて加勢に向かった。若たちがビルの中へ入ったのを見届けてドアを閉め、あの狭い部屋に閉じ込めた……とか」
「一理あるかも知れませんね。源次郎さんの予想が当たっていたとして、言い争いをさせる人間が必要になります。上坂の他にも闇バイトとして三春谷が誰かを雇ったということでしょうか……」

 それとも――。




◆34
「――こうは考えられねえだろうか。もしかしたら音声だけで誘き寄せられたのかも知れない……」
「音声だけといいますと……録音か何かで誰かが言い争う声を若たちに聞かせたということでしょうか?」
 その想像に誰もが互いを見合わせて静まり返る。
「ふむ――案外この想像で当たりかも知れんな。上坂以外に別の実行役を雇うとなれば更に報酬が必要になってくる。その人数が増えれば金が掛かるのはむろんだが、口止めをする手間も増えるということだ。それなら三春谷本人が動いた方が確実だし利もいいだろうな」
「言い争う音声はドラマなどの乱闘シーンを録音すれば簡単ですな。若たちがビル付近を通り掛かった頃合いを見計らってその音声を流し、ビルに誘い込んだとすれば……」
「三春谷一人でも犯行は可能ということになるな……」
 急ぎ、昨夜の三春谷のアリバイについて調べが進められることとなった。

 そして昼過ぎ。
 皆で手分けして三春谷の近辺を洗ったところ、昨夜は帰宅していなかったらしいことが浮かび上がってきた。
「三春谷の住むアパートの隣近所に聞き込んだところ、昨夜は帰宅した様子がなかったことが判明しました。いつもは夜の十時過ぎには大概帰宅しているそうですが、昨夜は部屋の灯りも点いていなかったようです。隣には一人暮らしの大学生が住んでいて、夜遅くまで起きているようですが、いつも夜中の十二時過ぎまで壁越しにテレビの物音などが聞こえていたそうです」
 それが昨夜はまったく静かだったことから、今夜は留守なのだろうと思ったそうだ。
「また、アパートの管理人が宅配便を受け取っていて、夜に三春谷が帰って来たら渡そうとしていたようですが、昨夜は管理事務所でもヤツを見掛けなかったと言っています」
 ということは、どこかに泊まって来たと考えられる。
「念の為、川崎の実家と婚約者のアパートの方にも探りを入れましたが、どちらにも立ち寄った形跡はありませんでした」
 組員と側近たちからの報告を受けて、周と源次郎は三春谷の所在について思い巡らせていた。
「もしかしたら解体現場が目視できる場所から様子を窺っていた可能性も考えられるな……。本当にカネたちが爆破に巻き込まれたかどうかを確かめるつもりだったとすれば――」
「――! 急いであの辺りのホテルを当たってみます!」
 解体現場の様子が見渡せるホテルといえば限られてくる。周と源次郎は至急ホテルに出向いて直接聞き込みに当たることにした。警視庁の丹羽に言って刑事を二人ばかり貸してもらい、ホテルを回ったものの、どのホテルでも三春谷という名の客が宿泊したという痕跡は見当たらなかった。
「クソッ! どこもハズレか」
 まあ、実名で泊まったとは考えにくいものの、洗い出しには少々時間が必要だ。
「今、丹羽君のところの刑事さんらが各ホテルで防犯カメラを当たってくれています」
 運良く三春谷が映っていればいいのだが、とにかくは待機しかない。
 陽が傾き出し、夕刻を迎えようとしている。今ひとつ決定打となる証拠が掴めない中、医療室から鐘崎らの意識が戻ったとの朗報が届けられた。



◆35
 周らが医療室に駆け付けると、付ききりで看病に当たっていた紫月と冰が安堵の表情を浮かべていた。鐘崎と清水も未だベッドの上ながら、リクライニングで半身を起こした状態でいて、病状としても特に気になるところは見当たらず、良好とのことに安堵させられた。
「カネ! 清水! 気がついたか」
「氷川――すまなかったな。世話を掛けた」
「具合は――?」
「ああ、お陰様でな。まだ少し頭痛がするが、問題ない」
「そうか――良かった」
 とにかくは二人の無事な様子に一安心である。
「目覚めたばかりで悪いが、経緯を話してもらえるか?」
 周がベッド脇に腰掛けていた紫月と替わって事情を訊く。鐘崎からは周と源次郎らが想像していたこととほぼ同じことが語られた。
 その結果、やはり私立探偵を名乗る男を差し向けたのは三春谷だろうことと、例の古ビルに誘い込まれた経緯は数人の男たちが女性を手籠めにしようとしているような言い争いを聞いたことによるものだと判明した。
「だが、俺たちが声を追い掛けてビルの部屋に入っても、女どころか男たちも見当たらなかった。そこで初めて録音による偽の音声に嵌められたと気付いたんだ」
 ところが室内には既に大量のクロロフォルムらしきものがばら撒かれていて、咄嗟に外へ出ようとするも扉まで辿り着く前に酷い目眩に襲われて儘ならなかったそうだ。
「今、紫月と冰から聞いて驚いたが、まさかあのビルで爆破解体が行われることになっていたとはな……」
 鐘崎は異変に気付いて自分たちを捜してくれたことに心から感謝すると言って頭を下げた。
「それでおめえ、あのビルに誘い込んだヤツのツラは見なかったのか?」
 周が訊くも鐘崎も清水も残念ながら人影は見ていないと言って眉根を寄せた。
「言い争う声ははっきり聞こえんだがな。ただ、俺たちが部屋に飛び込んだと同時にドアが閉められて鍵を掛けられたのは確かだ。その後も録音された音声が回しっぱなしになっていたことから、あの場に誰かが居たことは間違いねえ」
 とすれば、やはり三春谷という男が疑わしくなってくるが、鐘崎らもはっきりと顔を見たわけではない以上、確たる証拠となるものが無いのも事実だ。
「三春谷って野郎はどうやら昨夜は自宅アパートにも実家にも、それに婚約者という女の元にも行った形跡がねえ。今、周辺のホテルを当たっていたんだが、仮に泊まっていたとしても偽名だろうしな」
 そんな話をしている時だった。丹羽から報告が入り、解体現場近くのビジネスホテルの監視カメラに三春谷らしき人物が映っているのを確認したとのことだった。
「やっぱり遼たちを嵌めたのは三春谷のヤツだったってことか……」
 紫月は何ともいえない表情で頭を抱え込んでしまった。



◆36
 三春谷が鐘崎のことを快く思っていないことは察しがついていたものの、まさかこんな大それた事件を起こそうとは思ってもみなかったというのが実のところだった。
「俺ンせいだ……。俺がもっとしっかり対応してれば……」
 だが、それこそ紫月のせいなどでは決してないと言って、鐘崎も周らも全員で紫月を宥めた。
「おめえのせいじゃねえ。罠に引っ掛かったのは俺の落ち度と言える。それ以前に、おめえに危害がいかなくて良かった」
「遼……。剛ちゃんもホントにすまねえ。三春谷が犯人なら原因は俺だ。本当にすまねえ!」
 とにかく二人が無事で良かったと言って、救出に動いてくれた周らをはじめ、皆に頭を下げた紫月だった。
「ところで、その三春谷って野郎が本ボシとして――だ。実際にカネたちをビルの中へ誘い込んだという動かねえ証拠が必要だな」
 腕組みをしながら周が言う。現段階では鐘崎ら自身も自分たちを閉じ込めた人物の顔を見ていないことから、三春谷が犯人だとするには証拠不十分といえる。だが、それについては警視庁の丹羽の方で動いていてくれていた。

 警視庁、捜査一課――。
 その部屋の扉口には「汐留倉庫街発破解体現場殺人未遂事件」と掲げられた対策本部が設置されていた。捜査員たちを前に捜査一課長の丹羽が陣頭指揮を取っている。
「被害者をあのビルに閉じ込めた手口が分かった。鐘崎たちは録音による暴行シーンの音声を聞かされたことで解体現場のビルへ誘い込まれたと見られる。捜査員は各所に分かれて証拠の採取を行ってくれ。一班は解体現場のビルで音声が録音されていたという機器の捜索。これについては爆破によって原型を留めていない可能性が高いが、残骸だけでも入手して欲しい! 二班は三春谷という男のアパートで家宅捜査だ。録音元となった動画または音声を探してくれ! 家宅捜索の令状は取った」
 残った者たちは解体現場周辺のホテルの聞き込み――と、丹羽の指示で捜査員たちが各現場へと散って行った。
 それから二時間もしない内に三春谷のアパートから例の強姦シーンと思われる録画が見つかったとの報告が届けられた。また、鐘崎らを閉じ込めた際にばら撒いたと見られる薬品の予備らしき瓶も発見され、パソコンの検索履歴からはその薬品についての効果を調べたことや購入経路が割れた。と同時に、既に削除されてはいたものの上坂を雇ったSNSのアカウントなども復元された。
 はっきりと決め手になったのは、上坂と鐘崎が落ち合った海沿いの遊歩道から解体現場のビルまでの道筋の地図が出力されていた紙が見つかったことだった。そこには蛍光ペンで鐘崎が大通りへ出るまでに通るだろう箇所に印が入れられており、例の録音を再生する場所にはご丁寧にもバツ印が書き込まれていた。おそらくそこで鐘崎らを待機し、自ら古ビルへと誘い込んだものと思われる。
「よし! 三春谷を引っ張れ!」
 午後五時少し手前、警視庁は三春谷の連行に踏み切った。



◆37
 一方、その少し前だ。当の三春谷の方は何食わぬ顔でいつも通りに出社していた。
 午前中の仕事が済んで、社員たちは昼休憩に入る時刻だ。爆破から既に半日以上が経とうとしている。計画通りに事が運んだものと思っていた彼は、出社直後から鐘崎らの遺体が見つかったという情報を今か今かと待っていた。
 ところが昼を過ぎてもそういった話は耳に入ってこない。解体現場では撤去作業が行われているだろうにどうしたことかと内心焦り始めてもいた。社内では今回の解体実験は大成功だったと歓喜の声が聞こえてくるのみだ。
(おかしい……。もうとっくに見つかっててもいい頃なのにな)
 撤去現場で人間の遺体が出てくれば大騒ぎになるはずである。だが、詳しい様子を知りたくても部署が違う三春谷には欲しい情報が上がってこない。幾分不安になり掛けた退社時刻直前だった。警視庁から来たという刑事が数人、自分たちの部署へやって来たのに胸を逸らせたのも束の間、
「三春谷だな? 殺人未遂の容疑で署まで同行してもらおうか」
 鋭い眼光の刑事にそう言われて絶句――。何が何だか分からないまま刑事数人に両腕を掴まれて蒼白となった。
「ちょっ……! 何なんですか、あんたら……。俺が何したっていうんです!」
 同僚たちの驚きとも冷ややかともつかない視線が針のように突き刺さる。有無を言わさずといった刑事たちに引きずられるようにして、三春谷は警察車両に押し込まれたのだった。



◇    ◇    ◇



 三春谷が引っ張られたとの一報を受けて、汐留では誰もが一件落着に安堵の面持ちでいた。鐘崎と清水もすっかり体調が戻ってきたものの、大事を取ってもう一晩を鄧の医療室で静養することになっていた。紫月にとっては後輩の三春谷が起こしただろう企てに気の重いことだったが、鐘崎と清水が無事だったことが何よりといえた。
 鐘崎らの快気祝いと皆の労いを兼ねて、その日は周邸のダイニングにて夕卓を囲むことになったが、安堵の中にあっても紫月だけは今ひとつ晴れない面持ちが拭い切れずにいた。やはり自身のことで皆に迷惑を掛けてしまったという思いが消えないのだろう。食事が済み、リビングに移ってティータイムをしながらも、『すまなかった』と謝り続ける彼の胸中を思うと、誰もが気の毒な気持ちになるのだった。
「紫月、今回のことは決しておめえのせいなんかじゃねえんだ」
「遼……」
 気に病むなと宥めながら鐘崎は続けた。
「おめえは――自分がもっと上手く対応していればと思うかも知れねえが、俺にも同じことが言えるだろう。三春谷がお前に邪な考えを抱いていることを知って俺はヤツに苦言を呈したが、もしかしたらもっと違う言い方をすれば今回のような恨みを買わずに済んだのかも知れない」



◆38
 鐘崎は自分の言い方が少々きつかった為に三春谷の気持ちを逆撫でし、彼をあのような大それた犯行に駆り立ててしまったのかも知れないと言った。もう少し別のやわらかい言い方をしたのなら、結果はまた違ったのではないかとも思う。だから決して紫月一人のせいではないし、気に病む必要はないとそう言いたいわけだ。と同時に、今回は鐘崎自身が被害に遭いながら意外にも落ち着いていられるのは、恨みの矛先が紫月に向かなかったという安堵感であると思われた。むろんのこと清水を巻き込んでしまったことは反省すべき点だが、清水とて組幹部という重い立場にある。いつ何時そういった危険に遭遇したとしても、対処すべき覚悟と備えはできている。にもかかわらず、若頭である鐘崎を守り通せなかった点では充分に反省すべきことだと言ってくれる彼の気持ちが有り難かった。
 そんな皆のやり取りを聞いていた周が、誰も間違ってはいないと口を挟んだ。
「おめえらが三春谷って野郎に対してどんなふうに対応したのか――なんてことは聞かずとも想像がつくがな」
 紫月の性質からすれば、例え邪なことを言われたとしても、怒ったり気分を害したりすることなく穏やかに諭しただろうし、それを知った鐘崎が少々厳しい態度で三春谷を牽制しただろうことも手に取るように分かると言うのだ。
「俺がカネの立場だったら同じように対処しただろう」
 というよりも、もっと厳しいやり方をしたかも知れんなと言って周は笑った。
 変な話だが、香港にいた頃はファミリーに与する者たちが自分の囲う女性にちょっかいを掛けられたりした際、有無を言わせずその相手を始末してしまったような事案も数多く見てきたものだ。
「羅辰を覚えているか? 以前、鉱山を狙って俺を嵌めたあの男だが――」
 羅辰といえば周の兄・風の側近に取り立てられなかったことを恨んで、鉱山の宝を奪い取ろうと企てたならず者だ。その際、周を拉致してデスアライブという危険薬物を盛り、とんでもない目に遭わされたことは誰にとっても苦い思い出といえる。
「あの男は色事にもかなり派手でな。てめえは何人もの女を囲っちゃ奔放に遊んできたくせに、少しでも手をつけた女に粉掛けられたりすれば、次の日には湾に屍が浮かぶと言われていたくれえだった。実際手に掛けた数も相当なもんだったようだ」
 羅辰に限らずそんな男たちを方々で見てきたという。好いた惚れたで簡単に殺人に手を出してしまうことは問題だが、それからすれば鐘崎が三春谷に対して苦言を呈したことなど厳しくも何ともないと言って周は苦笑した。
「嫁さんを護るのは亭主の務めだ。カネも一之宮もどこも間違っちゃいねえ」
 だから気に病む必要などないし、互いが窮地にあれば助け合うのは当然だと言った。
「俺と冰だってお前らには散々世話になってる。お互い様だ」
 これからも頼りにしているぜとニヒルに笑う周に、鐘崎も紫月も有り難い思いでいっぱいにさせられたのだった。
 今回、鐘崎の父である僚一は例によって海外での仕事で留守にしていた為、側で逐一知恵を借りることは叶わなかったのだが、彼が帰って来た際にはいろいろと助言をもらいたいものだと周が笑う。
「カネや俺の親父たちから見れば俺たちはまだまだ半人前だ。また助言をもらいながら精進していきたいものだな」
「氷川の言う通りだ。もしも親父だったら、ああいった場合にどう対処したのかってなことを聞いてみたくなるな。それに、俺たちには窮地に陥っても互いに支え合える相手がいる。仲間ってのは本当に有り難いものだ」
 どちらからともなく掲げたグラスをコツリと合わせて、周と鐘崎は微笑み合った。そんな亭主たちを見つめる冰と紫月もまた、尊い絆に胸温めるのだった。



◆39
 一方、警視庁では丹羽らによって三春谷の取り調べが進められていた。
 家宅捜索の結果、数々の動かぬ証拠を突き付けられた三春谷は、意外にもあっけなく観念するに至ったようだ。
 ネットで上坂を雇い、遊歩道にて待ち合わせさせたのも、鐘崎らを解体現場の近くに誘い込む為だったそうだ。あの遊歩道へは車で乗り入れることができないことから、鐘崎が少し離れた大通りに車を待たせるだろうことも見込んでいたらしい。解体現場のビルに連れ込んだ手口はドラマの録画から取った暴行シーンの音声で、鐘崎らが助けに飛び込んだのを見計らって、自分自身で部屋に鍵を掛けたことを認めた。今回の発破解体に三春谷の勤める建設会社も名を連ねていたことから、解体現場の古ビルの小部屋の鍵もこっそりと入手できたとのことだった。
 しかしながら、丹羽らが驚かされたのは犯行の動機だったそうだ。三春谷の供述によると、紫月を鐘崎という男の呪縛から救い出したいが為の犯行だったとのことで、当の紫月本人からも鐘崎による日常的な暴力に遭って疲弊しているという相談を受けていたのだと主張したらしい。
 丹羽は鐘崎のことは若い頃からよくよく知っているし、彼が紫月をどれほど大切にしているかも承知だ。罪を軽くする為だとしても、三春谷という男のあまりのデタラメさ加減に怒りを通り越して呆れてしまうほどだった。
 そんな三春谷が何と言い訳をしようが、捜査員たちの聞き込みによる裏付けによって、嘘は早々に暴かれるに違いない。警察も検察も陳腐な言い訳に騙されるほどバカではない。
 起訴は確実となろうという丹羽からの報告によって、一件落着となったのだった。



◇    ◇    ◇



 事件から三日が経ち、鐘崎と清水の容体もすっかり元通りとなったその日、無事に組へと帰還した彼らを組員たちが感激の面持ちで迎えた。
「若、姐さん、清水幹部、お疲れ様でございやす!」
 皆揃ってご無事で何よりですと瞳を潤ませる。中には鼻を真っ赤にしながら涙を拭う者もあって、こんなふうに心配してくれる皆のあたたかさをしみじみと感じる若夫婦だった。
「何だかすっげ久し振りに感じるな……」
 縁側に腰掛けて中庭を眺めながら紫月がほうっと安堵の溜め息をもらす。鐘崎の帰りが遅いと気を揉んでいた三日前のことが何年も前のように感じてしまう。紫月にとって、それだけ今回の事件は衝撃であり重かったということだろう。一歩間違えば鐘崎も清水も今頃この世にいなかった可能性も十分あるわけだ。あの日、帰りが遅いことが気になって、すぐに動いたから良かったものの、急な仕事でも入ったのだろうなどと悠長にしていたら――と考えると背筋が寒くなる。



◆40
「あン時、遼から帰るコールをもらってて助かったな」
 そうでなければ単に仕事で遅くなっているのだろうとしか思わなかっただろうし、窮地に陥っていることすらまったく気付かなかったわけだ。
「これからは毎回帰るコールしてもらうかな」
 というよりも、今現在互いがどこに居て何をしているかが把握できるよう、常にGPSを事務所内の目に付くところに表示させておくくらいのシステムが必要になるかも知れない。
「そうだな――。緊急事態が起きた際のメッセージも今回のように送れないまま気を失うことだってあるやも知れんしな」
 逐一互いを監視し合うようで窮屈と思えるかも知れないが、二人の間では行動を知られて困ることもないし、今回のように個人的な恨み云々はもちろんだが、依頼内容によっては危険を伴う事案も出てこよう。互いの状況を把握し合えている方が安全であるのは確かなのだ。
「紫月――すまねえな。因果な商売の亭主を持っちまって、おめえには苦労を掛ける」
「遼……。そんな! 苦労だなんてとんでもねえって! 俺は、俺はさ……おめえとこうして一緒に居られることが何よりの幸せなんだ。俺ン方こそおめえの手ぇ煩わせねえように、もうちっとしっかりしなきゃって思う」

「紫月――」

「遼……」

 どちらからともなく見つめ合いながら、今目の前に互いがいることの安堵感を噛み締め合う。
「けどホント、今回も氷川や源さんたちのお陰で助けられたよな」
「ああ、そうだな。有り難いことだ」
 仲間たちへの感謝や無事に一件落着した安堵感、それら様々な思いが走馬灯のように巡っては、少しやつれたように肩を落とすその視界に、ふと心揺さぶられる光景が飛び込んできて、紫月はハタと目を見開いた。
「遼……! 見てくれ! あれ……!」
 逸るように縁側から飛び降りて、一直線に向かった先に奇跡のような一輪の花がそよ風を受けて揺れていた。なんとそれは紅椿の枝についた紅白の絞り椿だったのだ。

「うっそ……どうして」

 他の花々は紛れもなく紅一色だ。隣には白椿と桃色の椿の木。それぞれに決まった白と桃色の花をつけている。
 そんな中で紅椿の枝にたった一輪だけ紅白が混じって咲く絞り椿の花が開きかけていたのだ。
「なんで……どうして……?」
 奇跡の如く咲いたその一輪を見つめる紫月の瞳がみるみると潤み出し、まるで朝露のように絞り椿の花びらを濡らした。
 鐘崎もまた、庭に降りて奇跡のその一輪を見つめる。
「絞り椿か――!」
「ん……、うん! これって天変地異か……? 今まで紅以外咲いたことねえのに」
「本当だな。紅椿をここに植えて久しいが、俺も初めて見るぞ……」
 今度庭師の泰造親方が来たら聞いてみようかと二人で口を揃える。ごく稀にでも別の種類の花をつけることがあるのだろうか――。
「もしかしたら――この椿の木が俺たちを守ってくれたのかも知れねえな」
「遼……そうだな。おめえが無事で良かったって、この木も喜んでくれてるのかも」
「奇跡――だな」
「うん、ホントに……!」
 紫月は万感込めてその一輪に触れながら、再び込み上げた涙をグイと掌で拭った。



◆41
「な、遼。これ咲いたらさ、押し花にしてもい? せっかく咲いてくれたのに……とも思うんだけどさ」

 奇跡の一輪をどうしても残しておきたいんだ――!

 紫月の気持ちを察した鐘崎も、二つ返事で押し花にすることに同意した。
「じゃあ、一緒に作るか」
「いいの?」
「もちろんだ。俺らが小学生の頃だったな。押し花の授業があって、おめえが作った紅椿の押し花を貰ったっけ」
 それは大切に額に入れられて、今でも組の事務所に飾られている。
「あの時は本当に嬉しかったのを思い出す。おめえから貰ったこの押し花を一生大事にしようって思ったな」
「遼……」
「俺が作ったやつはおめえが貰ってくれたっけ」
「うん! パンジーのやつな。紫色でさ、俺ン名前の色じゃん! って思って嬉しかったなぁ」
 それももちろん、紅椿の押し花の隣に飾ってある。幼い頃に贈り合った二つの押し花は、大人になった今、再び肩を並べて共にあるのだ。
「あのパンジー、紫の花びらの真ん中が黄色いやつだったな。黄色は月の色だろう? 紫と月で」
「あ……! 俺ン名前」
「そうだ。だからあの花で作ろうって決めたんだ」

 あの頃からずっとお前のことが大好きだったから――。

「遼……」

 あの時、俺は単に道場の庭に咲いてた紅椿の花を押し花の材料に選んだだけだったけど――。

「おめえはその紅椿をこの肩に背負ってくれたのな」
 そっと――肩に触れ、刺青の紅椿を撫でる。シャツ越しの肌は温かくて、微かに伝わってくる心臓の音にも今この瞬間の生を実感させられる。万感の思いに安堵する表情を浮かべた紫月の――その添えられた手を包み込むように握り返して鐘崎は瞳を細めた。
「生きてるんだな、俺たち――」
「遼……」
「お前のお陰だ。お前が捜してくれたから――」

 お前が俺を見つけてくれたから、今こうして互いの温もりを感じ合えるんだ。

「確かめ合うか」
「ん、うん――!」

 互いの肩に咲いた紅椿と白椿を重ね合い、生きていることを確かめ合おう。
 好きだとか惚れたとか、愛しているとか――そんな気持ちすら遥かに超えて、ただ互いが互いの目の前に在ることを噛み締め合おう。
「遼、俺……俺さ」
「ん――? なんだ?」
「俺、死ぬ時はおめえと一緒がいい」
「紫月――」
「今回……もしもおめえがあのまま……爆破に巻き込まれてたらって考えたら……俺、俺……」
 腕の中の肩が小刻みに震えている振動が、絶対に離れたくはないと云っているようだ。
 今回の事件がどれほど彼の心に衝撃を与えたのかが手に取るようだった。無事に助かった今、安堵感と共に恐怖もまた、じわじわと心を苛み出してはきっとこの先も彼を苦しめ続けていくのだろう。
 そんな思いを払拭してやるかのように鐘崎は愛しい者を抱き締めた。渾身の想いを込めて抱き締めた。



◆42
「大丈夫だ。おめえを独りになんか絶対にしねえ。俺が死ぬ時はおめえも一緒に連れて逝く――」
 本来ならば決して口にはしないだろう言葉だった。例えば二人が同時に窮地にあったとするならば、身を挺しても紫月のことだけは助けよう、生かそうとするだろう。
 紫月もまた、本能では同じことを感じているだろうし、実際にそんな状況下になれば自分はどうなっても構わない、互いに相手を護らんとするだろう。
 だが、今の彼が望んでいるのはそんな言葉ではないのだろう。例え話で構わない、生も死も共にあらんと伝え合うことが何よりなのだ。
「遼、ホントな? 約束だぜ?」
「ああ、約束する」
「ん、うん、そんなら良かった……」
「安心したか?」
「うん……!」
 普段は天真爛漫、太陽の如く明るい彼が、まるで産まれたての仔猫のように肩を丸めてすがってくるのが愛しくて切なくて、堪らない思いにさせられる。
「約束する紫月。俺はおめえを残して逝くようなことはしねえ。だから安心して側に居てくれ」

 安心して、いつも俺を照らす太陽でいてくれ――。

「約束だかんな……。生きてる今も、死ぬ時も、ぜってえ一緒だって。ぜってえ離れねえって」
「ああ。誓う――」

 そっか。良かった――。まるでそう言うように頬を伝った一筋の涙を指で拭ってやった。それを愛しげにペロリと舐めて、
「うん、しょっぺえな」
 フ――っといたずらそうに笑ってやると、ようやくと腕の中の瞳にいつもの笑顔が戻ってきた。
「バッカ、遼……」
「そう、その笑顔だ。おめえはそうでなきゃ――な?」
「あっは! ん、そだな」
 ガラにもなくナーバスになってしまったことを照れ臭そうにして紫月は笑った。そして、どちらからともなく互いの額と額をぶつけ合う。コツリと合わせたまま、視界に入りきらないほど側に居られる感覚を噛み締め合う。
「紫月、すまんがその……」

 そろそろ猛獣モードなんだが――。

 言葉の代わりにクイと押し付けられた身体のど真ん中が硬く熱を帯びているのに、紫月はキョトンと瞳を見開き、
「あっは! ホントだ。超猛獣モードんなってる!」
 クスクスと笑うと同時に、逞しく張った紅椿の肩に両腕を回して抱きついた。そして自ら唇を重ねれば、すかさずグイと大きな掌で頭ごと引き寄せられて逸ったように濃い口づけを見舞われた。

 熱い吐息と濡れたキスの音、色香を伴ったとろける視線が欲情の度合いを突きつけてくる――。

「部屋、行くべ」
「ああ……頼む」
 半ば前のめりに腰を折っては少々辛そうに苦笑してみせる亭主の姿がコミカルで、今さっきまでの切ない感情が一気に吹き飛ぶような気分にさせられる。
「おし! 頼まれよう!」
 背中に手を回して腰をさすってやりながら、紫月は朗らかに微笑った。



◆43
「ダイジョブか、遼? 歩ける?」
 おぶってってやろうかと揶揄う視線が悪戯そうで、いつもの紫月を実感させられる。
「いや……おぶられたりしたら逆にやべえ。おめえの背中に風穴開けちまいそうだ」
 こんなジョークで笑いを誘うのも、ひとえに紫月の気持ちを軽くしてやる為だ。彼が自分自身を責めて悩んでいる顔など似合わない。いつも明るく皆を照らす太陽の如く朗らかな気持ちで笑っていて欲しいからだ。
 案の定、紫月はそのひと言にウケた様子で、変わらぬ笑顔を見せてくれたことに安堵する。
「アッハッハ! いつも以上にガチガチバズーカだもんなぁ!」
 スルリとソコに手が添えられ撫でられて、鐘崎はホッと穏やかな気持ちにさせられたのだった。と同時にカラダの方は正直な反応を見せる。愛しい紫月に撫でられれば更に欲情を煽られるというものだ。
「わ……ッたっと……! な、撫でんな!」
 焦ったように一層腰を屈めては鼻息を荒くした。
「んーぬぬぬ……つか、もうそこの客室でいいような気もするが……」
 別棟にある部屋まで歩くのはきついほどに張り詰めた欲情に手を持て余してか、鐘崎はうなだれた。
「いい歳こいて……これじゃヤりてえ盛りのガキんちょと変わらんな」
「はは! いいじゃん! いつまでも若えってことだべ?」
「ああ……。多分な、白髪の爺さんになっても、俺ァこれだきゃ変わらん自信があるぞ」
「マジ? 猛獣爺ちゃんってか?」
 白髪姿で欲情マックス、仁王立ちしている姿が脳裏に浮かんでか、紫月は豪快に笑い転げてしまった。
「んじゃ仕方ねえ。未来の猛獣爺ちゃんを姫抱きでもしてってやっか!」
 言うが早いかグイと抱き上げられて、鐘崎は焦ったように目を剥いてしまった。
「バカ、よせ……ッ! これじゃいくらなんでもカッコつかねえ……!」
「いーじゃん! 俺だってオトコだ。おめえを抱え上げられるくれえの力はあるって!」
 一度やってみたかったんだよと紫月は満足げだ。いつも通りの明るさが戻ってきたことには安堵させられども、さすがに姫抱きされては微妙な気分にもなろうというものだ。
「いや、そのな……おめえが力持ちなのは分かるが……」
 それにしてもこれでは形無しもいいところだ。
「けど……やっぱ重えー! すっげ筋肉量」
「だから言ってんだ……! いいから下ろせって」
「いんや! このまま部屋まで抱いてくんだ」

 な、遼。
 これは俺の詫びっつーかさ。おめえを危険な目に遭わせちまったことへの謝罪でもあるんだ。
 救出の際、今回は殆ど氷川に任せっきりにしちまったけど、どんな窮地でも軽々おめえを担ぎ上げられるくれえになりてえんだ。
 おめえらは亭主が嫁を守って当たり前って言うけどさ、俺たちだって亭主を守りてえって気持ちは一緒だもんよ!
 どんな筋肉質でも、腕がヒクつくくれえ重くても、この世で唯一無二って誓った亭主一人担げねえんじゃ情けねえ。
 だから部屋まで――な? このまま抱いて行かせてくれよ!

 そんな男前な嫁様の胸中を知る由もない亭主殿は、相変わらずにジタバタと大焦りでいる。
「おめえの気持ちは分かった! 分かったからとにかく下ろせ! な?」
「部屋着いたらなぁ。下ろしてやるってー!」
「……ッ、ならケーキ十個! ケーキ十個で手を打とう……」
「あ? なんでここでケーキ?」
「いや、じゃあ二十個! とにかく下ろせって……!」

 頼むから下ろしてくれええええー!

 ギャアギャアと戯れる夫婦の仲睦まじい声を微笑ましげに見つめるかのように、絞り椿の花が宵風に揺れながら、そんな二人をそっと見守っていた。



 紅椿白椿、元は二つだった紅と白の花が重なり合い、ひとつとなって咲く。
 灼熱の太陽が焦がす夏も、
 涼風が郷愁を誘う秋も、
 凍てつく氷に閉ざされた冬にも、
 互いを取り込むように混じり合い、撚り合って咲く。

 次の春もまた、必ず共に迎えると誓う。

 俺とお前は、
 お前と俺は、

 どんな突風にさらされても、どんな雷雨に打たれても、決して分つことのできない絞り椿の花の如く。咲き誇る時も散る時も決して手を離さず生涯共にあらんことを――誓おう。

絞り椿となりて永遠に咲く - FIN -



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ごあいさつ(後書き)

拙作をご覧くださる皆様、いつも本当にありがとうございます!
『極道恋事情』ラストエピソード、お陰様で完結まで漕ぎ着けることができました。
ひとつ前の周焔&冰編「封印せし宝物」と今回の鐘崎&紫月編「絞り椿となりて永遠に咲く」で2組のカップルたちが”もう絶対に解くことはできないよ”というくらいの強い絆で結ばれることができて、何があっても離れない、互いに対する想いは変わらない、生涯を共に歩んでいこう〜という形になったので、いい感じの結びにできたかと思っています。

『極道恋事情』のエピソードはまだ脳内にいろいろありまして、ローカルでは書きとめているものもあるのですが、だいたい似たような事件系ばかり
(1.受けが拉致される
(2.恋の横槍を入れられる
(3.攻めが命を狙われる
(4.そんなら皆んなで協力して乗り越えていこう〜!ヽ(`Д´)ノ
のワンパターンの上、BLカテゴリにしているくせに肝心の恋愛要素もめちゃくちゃ薄くて、マンネリ化になりそうなので、ここで一旦〆とさせていただきたく思います。
今後もし新しいエピソードが脳内で完結した際は、番外編の方か、もしくはエピソード毎の読み切りとして投稿させていただこうと思っております。

NLを合わせると全部で38エピソード、ずいぶんと長い話になりました。
始めた当初はこんなに長い話になるとは思ってもいなくて、周焔編と鐘崎編で完結の予定だったのです。
それがここまで脳内妄想を膨らませられたのは、ひとえにご覧くださる皆様のお陰と、感謝の気持ちでいっぱいです。
ローカルで一人で書いていたら、妄想も湧いてこなかったと思います。
皆様からいただける数々のリアクションやご感想、お言葉に励まされて、続けてくることができました。
ご覧くださいました皆様、毎日のようにスターを届けてくださった皆様、スタンプやコメント、ご感想にてご交流くださいました皆様、お一人お一人のお気持ちが本当に嬉しくて有り難くて、毎日どれだけの励みをいただいたことか……!
どんな言葉で御礼を申し上げても足りません。本当に嬉しかったです!
広い広いWEBの海の中からこの話を見つけてくださり、お立ち寄りくださいましたすべての皆様に心より感謝と御礼を申し上げます。
また読み切りなど新たなエピソードでお会いできました際には、お付き合いしてやっていただけましたら幸甚です。



この後のことですが、『極道恋事情』は少し改稿を入れながら個人サイトや他投稿サイト様に転載していきたいと思っています。
特に出だしの「周焔編」での冰の話し方や性質がぞんざいで、話が進むにつれて現在の冰とは別人のような言葉じりだったりするのが気になっていまして、そこら辺を修正したいと思っています。
実は『club-xuanwu』という話の完結後に書き始めたこともあってか、向こうでの冰の性質に引っ張られていたように思います;
あちらの冰はかなり男っぽい受け君でしたので。
極道の話では亭主の周焔と大分歳が離れていることもあって、素直で幼いというか従順度が高い性質になっています。



また、次回からは『極道恋事情』シリーズとして、新作『極道恋浪漫』を投稿して参ります。
数十年前の香港・九龍城砦編で、以前投稿した『皇帝寝所』と似た設定&時代背景ですが、出会い方やカップルとしての結ばれ方が異なる完全なパラレル話です。
登場人物の名前、生い立ちや稼業、カップリングなどは『極道恋事情』のままです。
恋事情の方でしっかり結ばれたカップルたちが、別の時代でまた一から知り合って恋愛をしていく様を綴っていきたいと思います。
元々私は全ての話を同じ人物名で書いていたりしますので、また何か妄想を始めたなということで、ご興味を持っていただけましたらお時間の許す時にでもお立ち寄りお付き合いいただけたら嬉しいです。
これまで本当にありがとうございました!
そして今後ともどうぞよろしくお願いいたします。一園木蓮拝



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