極道恋事情
◆21
普段はやさしい黄老人が厳しくも真剣そのものの真顔で、じっと視線を合わせながら放った言葉だ。それは狙った場所へルーレットのボールを落とすという投げ方だった。
どんなに鍛錬を積んだとて、万に一つと思うようにはいかない技だ。それこそ血の滲むような努力をしても、近い位置に落とすことができれば万々歳というくらいの難しいものだという。特に昨今はルーレットの板そのものが昔とは違った作りに改良されてきている傾向にある為、ことさらに難しくなっているということだった。
当の黄老人でさえ確実に決められることはそうそうなかったというが、とにかく来る日も来る日も嫌になるほど練習させられたものだ。その苦行の中で、磁気の仕込まれたルーレットのボールを磁気に逆らって枠から外すという方法も教わったのだ。つまり、イカサマを仕掛けられた際の対処法である。
老人がしつこいほどに訓練を積ませた”ボールを狙った位置に落とす”という修行は、実はそれ自体が目的ではなく、ボールに細工をされた時に、手にした感覚でそれを見破れるようにするのが本来の目的だったというのを後になってから聞かされたものだ。鍛錬の末、冰がルーレットの技でお墨付きをもらえた時のことだった。
普通のディーラーならばボールを握っただけでは気が付かないほどの、ごくごくわずかな感覚の差を感じ取ることができるようになって初めて一人前だと老人が認めてくれた日のことを昨日のように思い出す。
「ね、白龍……ディーラーを交代してもらうことはできる?」
冰は意を決したように周へと耳打ちをした。
「――交代って、どういうことだ」
「ん、もしできるなら俺に投げさせてもらえないかなって思って……」
「……まさかお前がフロアに出るというのか?」
「うん……。磁気の仕込まれたボールならそれを回避する方法がないわけじゃないんだ」
「お前にはそれができるっていうのか?」
「前にじいちゃんに教わったんだ。この強さの磁気なら多分外せる。このままだとあのイカサマ師にいいように持っていかれる。それに、ずっと賭けを中止にするわけにはいかないだろ?」
戻って来たディーラーの困惑ぶりを見る限り、彼にはボールに細工をされていることにも気付いていないのが窺える。そんな状態で続けても、相手の思うように負け続けるのは目に見えている。かといって、今になって去年まで使用していたボールに変更すれば、そのデザインの違いからすぐにイカサマ師たちに気付かれてしまうだろう。だったら自分が投げて外すしかないと冰は思ったのだ。
周はその申し出にも驚いたが、それ以上に冰の表情の方に驚かされていた。いつもの恥ずかしがり屋で幼さの残る印象とはまるで違って感じられたからだ。掌の上でボールの感覚を確かめている顔つきは、大人びていて別人のようだ。何よりも淡々としていて感情が窺えないのだ。
◆22
カジノのディーラーはどんなに優勢であろうと、また逆にどんな窮地に追い込まれていようと、決して感情を見せてはならないというのは基本中の基本というが、今の冰はまさに何を考えているのか分からないポーカーフェイスそのものだ。確実にボールを外せる自信があるのか、はたまた”もしかしたら外せるかも知れない”と若干の迷いがあるのか、表情を見ただけではまったく読み取れないのだ。
「冰……? お前……」
それは周でさえも初めて見る、ディーラーとしての一人のプロの顔だった。
「分かった……。親父に話そう」
周はうなずくと、早速にそのことを父親の隼へと告げた。
報告を受けて、隼と風が冰の元へとやって来た。
「冰、本当にいいのか?」
「お父様、お兄様。はい、少々頼りないかも知れませんが、お役に立てるかも知れません。……もしも他に策がないようでしたら私にやらせてはいただけないでしょうか?」
「それは……もちろん我々にとっては有り難い申し出だが……」
万が一にも冰に危険が及ばないとも限らない。上手く外せたとして、大金が賭かっている故、イカサマ師らが逆上した場合、どういう行動に出るかは予測がつかないからだ。
一応、カジノに入る際には危険物が持ち込まれないように探知機を使った厳しいチェックがあるものの、それらを掻い潜って武器などの類を所持していないとも限らない。特に今夜は春節のイベント時だけあって、客以外にも様々な業者も出入りしている。絶対に安全だと言い切れる保証はないのだ。隼も風もそれを危惧してか、即答できずにいるわけだ。だが、冰は毅然とした態度で説明を続けた。
「皆さんがおっしゃるように、あの帽子を目深に被ったお客様は悪意を持ったイカサマ師と思われます。あの人の左右にいる男性と女性がおそらく仲間だと思います。賭けた位置でボールが止まるように磁気のついた器具を所持しているはずです」
「……! 何てことだ……。このボールに細工をしたということは……工場の段階から奴らに入り込まれていたってことか」
つまり、かなりの大掛かりな組織の仕業といえる。
「父上――今年は新しいデザイナーがカードやダイスのデザインを担当したということでしたね?」
このファミリールームへ入って一番最初に目に付いたトランプのカードのデザインを思い出して周が尋ねた。
「ああ、そうだが――。まさかルーレット以外にも何か細工がされているというのか……」
「分かりませんが、この春節のイベントを狙って荒稼ぎが目的であるのは確かでしょう」
もしくは――もっと悪いことを想像するならば、この機会に周一族の持つメインカジノである此処を乗っ取るか潰すかということも有り得ない話ではない。焦燥と緊張に包まれる中、鐘崎がすぐさま源次郎を呼び寄せて、イカサマを仕掛けてきた組織を割り出す作業に取り掛かっていった。
◆23
「源さん、日本の親父にも連絡を入れる。監視カメラの映像から帽子の男らの正体を突き止めるんだ」
「分かりました。ではすぐに」
源次郎は今でこそ現役を引退して家令としての役割を担っているものの、永きに渡り鐘崎の父親の右腕として活躍してきた精鋭だ。緊急時の対処法や諜報力などは群を抜いているプロ中のプロであるのは変わらない。目にもの見せる早さで作業へと向かった。
「とりあえず全ての賭けを中止する理由として、予定よりも少し早いが春節のイベントショーを突っ込むぞ! すぐに用意してくれ」
隼の指示で即刻ショータイムへと切り替えるべくスタッフたちが散り散りに準備へと取り掛かっていった。
春節のイベントでは、毎年レーザー光線を使ったアートショーや雑技団による舞台なども盛り込まれているので、先にそちらを決行して、その間に対策を練る時間を稼ごうというわけだ。
「ショータイムは引き延ばしても一時間がいいところだ。それ以上長引かせると、何かあったのかと他の客に感付かれる恐れがある。仕掛けてきているヤツらも変に思うだろう。ルーレットの他にも何か細工されているかも知れないし、早急に全てのチェックをしろ! 賭けの再開までにできる限りの対策を考える……!」
隼はディーラーを交代させてくれという冰の厚意に、息子である周にも今一度その意を確かめると、周もやらせてやってくれとうなずいた。
「では再開と同時にディーラーを冰に交代してもらうとして、周囲には警護を配置する」
兄の風が信頼の置ける側近たちを集めて、冰の警護に当たるようにと指示を出す。それを聞いて、周自らもその一員に加えてもらえるようにと申し出た。何かあった時にすぐ側で彼を守ってやりたいからだ。
「――だが、お前は面が割れている。今は香港を離れているとはいえ、知っているヤツが見ればすぐに我々の一族だとバレてしまうだろう」
相手側に警戒されて、イカサマの現場を押さえられなければ意味がない。
「ですが兄上……!」
周としてはどうあっても冰の側を離れたくはないというのも理解できる。
「だったら変装させればいい。ヘアメイクなら息子の倫周に任せろ! ヤツの手に掛かれば、別人に変えるのなんざ朝飯前だ」
皆の動向を窺っていたモデルのレイ・ヒイラギの言葉で、一同はハッとしたように彼を振り返った。
「それと同時に俺もルーレットのテーブルで賭けに参加する。例の帽子の男とはさっきまで同じテーブルで賭けていたんだ。ヤツも俺が参加していたことを覚えているだろうから、不自然には見えんだろう」
さすがに隼の友人というだけあってキレ者だ。レイの提案で、早速に息子の倫周がヘアメイクに取り掛かることになった。
◆24
「では周焔さんにはディーラーの側に居ても不審に思われないよう、フロアの黒服役に化けていただきましょう。初老の紳士に見えるように髪を銀髪にして、肌にも年齢を加えるようにメイクします。それから……ディーラー役になる冰さんでしたか? 彼のヘアスタイルも少し弄らせてください」
冰には先にディーラーの服に着替えてもらうとして、その間に周を初老の男に変えるべくメイクを施していく。その手際の良さには目を見張るばかりだ。さすがに世界のファッションショーの舞台でレイ・ヒイラギのメイクを担当しているだけあって、早技にも息を呑む。みるみる内に周は別人のような老紳士へと変貌を遂げた。
倫周が続いて冰のヘアスタイルをディーラーらしく整えている側で、今度は鐘崎からも変装の提案が持ち出された。
「まだ時間はあるな。すまないがこいつの変装も頼めるか?」
鐘崎は、自らはテーブルの近くで警護に当たるとして、伴侶の紫月をレイと共に賭けに参加させたいと言った。イカサマ師とその仲間を取り囲むように客の中にレイと紫月を配置すれば、より強固な態勢が敷けるだろうというわけだ。
「こう見えて紫月は体術にも長けている。取り押さえる時に仲間は一人でも多い方がいいだろう」
そう、紫月は幼い頃から実家の道場で鍛錬を積んでいるので、何かの役に立てるかも知れないというのだ。
カジノにとっても乗っ取りのかかった突然の事態にあって、皆が心を砕いてくれる。隼はもちろんのこと、周も兄の風も皆のそんな厚情が身に染みて有り難く思えるのだった。
そんな中、紫月を一目見たレイが「うーん」と首を傾げながらポツリと呟いた。
「えらく綺麗な男だな……。おい、倫周、彼を女性に変装させられるか?」
「――え!?」
皆が驚いたようにしてレイを見やる。
「野郎ばかりが周囲を固めるんじゃ怪しまれないとも限らねえ。美女が一人入れば周りのギャラリーたちは少なからず気を取られる。隙ができることで、敵にとってはやりやすくなって油断を引き出せる。紫月といったか、この彼には女装してもらって、俺の女として賭けに参加してもらうってのもオツじゃねえか」
突飛な発想だが、確かに奇を衒ういい考えではある。とかく、鐘崎にとっては眉根を寄せてしまいそうな提案ではあるが、作戦としては悪くない。
「了解だよ、レイちゃん! 彼、元が美男子さんだからね。とびきりの美人に仕上げてみせちゃう!」
倫周が任せてよとばかりにガッツポーズで意気込みをみせる。父親を”ちゃん”付けで呼ぶのには驚かされるが、この父子にとってはそれが通常なのだろう。いつまでも若々しいトップモデルは、”お父さん”と呼ばれるよりも友達感覚の方が心地好いのかも知れない。
「じゃあ、紫月さん用のドレスを急いで調達してください!」
言うが早いか、すぐに紫月の変装に取り掛かる倫周だった。
◇ ◇ ◇
◆25
階下のフロアではそろそろショータイムがクライマックスに近付いていた。
支度を終えた冰は、あらゆる突飛な事態に対応すべく、ルーレットのボール以外にも何か仕込まれていないかと、カードやダイスなどのサンプルも念入りに触診してみることにした。
ダイスには磁気を仕込まれた形跡がないものの、カードの方には異変が見て取れた。サンプルは三セットほどあったので、その一つ一つの中身を調べていく。
(これは……! へえ、敵も案外やるじゃない)
ふと、ひとつ疑問が湧き、冰は兄の風に確かめた。
「あの……お兄様。今見せていただいたボールやカードのサンプルは納入業者さんから事前に渡されたものでしょうか?」
「いや、それは納品された中から保存用にと思って私がいくつか取っておいたものだが」
風の話では、毎年そうしているとのことだった。単に新品のままでその年度のデザインを保存しておく為だという。
ということは、本来ならフロアで実際に使われるはずのものだったということだ。
よくよく考えてみれば、もしも事前にサンプルとして周ファミリーに見せるものであれば、その中にイカサマの証拠が残るようなものは渡すわけもないだろう。
冰はこっそりとサンプルのカードから数枚を抜き取ると、不測の事態に備えてそれを懐に収めたのだった。
「ショータイム、レーザーアート終了します。今より雑技団のステージに切り替わります」
フロアからの連絡で、残り時間が三十分を切ったことを知る。
ファミリールーム内では、黒服に化けた老紳士の周にピッタリと寄り添われながら、冰もディーラーとしての顔に変身していた。
「すまねえな、冰。お前にまで世話をかけるハメになっちまって……」
「ううん、俺でも役に立てるならこんなに嬉しいことはないよ。きっとじいちゃんも天国から見ててくれてると思うから」
凛とした表情でうなずく。
「お前を危険な目に遭わせることだけは絶対にさせねえ。安心してゲームに集中してくれ」
「うん! 白龍が側に居てくれるなら怖いものなんかないよ」
「ああ。命をかけて守る――!」
「頼むね。でも白龍、ロマンスグレーも似合ってる! なんか将来を見てるようでドキドキしちゃうよ!」
「おいおい、嬉しいことを言ってくれるじゃねえか」
そっと肩を抱き寄せ、その髪に口付けを落とす。緊急時には不似合いな会話だが、こんなふうにリラックスしていられることが、緊張を解すのには必要な掛け合いなのもまた確かなのだ。
やわらかに微笑み合う二人の元へメイクを済ませた紫月が鐘崎に連れられてやって来た。
「うわ……! もしかして……紫月……さん?」
黒い繻子のドレスに身を包み、艶のあるロングヘアはウィッグだろうか、絶世の美女という出立ちにファミリールームにいた全員が息を呑んだ。
スレンダーな体型の紫月は身長こそ高いものの、モデルのレイ・ヒイラギが連れて歩くには最適な華のある女性といえる。周囲の皆はきっと同じモデル仲間だと思うだろうからだ。
◆26
「どうだー、俺、美女に見えるか? ……じゃねくて、どうかしら、アタシ美人?」
ほほほ――と、腰までくねらせながら、すっかり女性言葉も板に付いている。
「見てちょうだい、この谷間ちゃん! めちゃくちゃグラマーでしょうが!」
ユサユサと豊満になった胸元を揺すっては、色っぽい声色で悩殺ポーズまでサービスするオマケ付きだ。案外脳天気なところのある紫月は、早速役になりきって張り切っているようだ。彼もまた、周と冰同様に、緊急時に緊張を度返しすべく、おどけていられる大きな器を持っている男といえるのだろう。それでこそ裏の世界で右に出る者はいないといわれる鐘崎組の唯一無二の”姐”なわけだ。
「いや、これはすごい……! 香港中捜してもこんな美女には滅多にお目に掛かれんぞ」
周の父親たちも驚いたように目を見張っている。伴侶である鐘崎も勿論のことで、誰かに惚れられやしないかと別の心配が湧いてしまいそうな顔付きで苦笑気味だ。そんな彼の様子にレイ・ヒイラギがクスッと笑いながら言った。
「お前さん方、いい根性してるぜ! 揃いも揃って、この状況で余裕ぶっこいていられるんだからな。この雰囲気なら、絶対成功すること間違いなしだ」
こういう時こそ変に緊張せずに、リラックスした和気藹々の体制で挑めることが何よりなのだ。それもこれも互いに信頼し合える仲間が側にいるという安心感があるからこそといえる。
「それよりお前さん、リョウイチ・カネサキの倅さんだってな? 僚一には俺のボディガードをやってもらった縁で世話になったことがあるんだが、こんな立派な倅がいるとは驚きだ」
紫月にぴったりと寄り添っている鐘崎に、レイがそう話し掛けた。
「恐縮です。俺もレイさんのことはよく父から聞いておりました」
そうなのだ。まだ鐘崎が子供の頃の話だが、周の父親からの伝手で、父の僚一がレイのボディガードを引き受けたという話を聞いたことがある。鐘崎自身はレイに会うのは初めてだったが、モデルとしての彼の活躍は知っていたし、何だか初対面の気がしないといったところだった。
「レイさん、こいつのことよろしく頼みます」
紫月の肩に手を添えながら丁寧に頭を下げる。
「ああ、任せておけ。さっき隼から聞いたが、お前さんら二人は祝言を交わした仲だそうだな?」
「はい。俺たちは男同士ではありますが、こいつは俺の代え難い存在です」
「なるほど。いい男にはいい伴侶がつくものだ。僚一も鼻が高いことだろう」
「――恐縮です」
「少しの間紫月を借りるが、お前さんも近くで警護に当たってくれるなら安心だ。頼りにしてるぜ」
「ええ、その点は抜かりなく」
そんな話をしている中、フロアから間もなくショータイムが終了するとの報告が入ってきた。
「よし、それじゃ賭けを再開する。冰、それから皆もよろしく頼む」
隼の号令で、一同は決戦の舞台へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
◆27
ゲームの再開が告げられると、待っていたとばかりに帽子の男たちがルーレットのテーブルへと戻って来た。面子は先程までと同じで、帽子の男の左隣に仲間らしき女が一人、右隣から一つ置いて別の男が陣取っている。おそらく彼らが磁気の操作をする係で間違いないだろう。
彼らから三つほど離れた位置に紫月をエスコートするようにしてレイが座る。背後には賭けの様子を見学する客を装った周ファミリーの精鋭たちと鐘崎がガードを固め、配置が完了した。
「ディーラー交代致します」
老紳士に化けた周が冰に付き添ってブースへと入る。一気に緊張が高まった。
「お待たせ致しました。では皆様、お賭けください」
しなやかな仕草で冰が促すと、帽子の男は早速に大きな金額で勝負に出てきた。予期せぬイベントショーで一時間も待たされて、さすがに焦れているのだろう。彼らとしては、さっさと稼いでカタをつけたいのだろうことが窺えた。
帽子の男が賭けたのは赤の七番だった。仮にし勝ったとすれば、配当率が最も高い一点賭けだ。やはり早々に勝負を決したいのと、確実に勝てる自信があるということだろう。
それを見ていた周囲の客たちもそれぞれ思うところにチップを置いていく。皆に続くようにしてレイと紫月も適当な位置に賭けることにした。
「さっきはそちらの紳士に連続で持っていかれちまったからな。俺はツキが落ちちまってるだろうから、お前に決めさせてやる」
レイが紫月の肩を抱いてそう振りながら、さりげなく嫌味を交えつつも帽子の男のツキを讃えるように絶妙な言い回しで苦笑してみせる。すると、男の方もイカサマだということを気付かれていないと思ったのか、『いやいや、たまたま運が良かっただけですよ』などと調子づいた返事をよこす。そんな様子を横目に、紫月はわざと色っぽい声色の女言葉で賭けの場所を指定してみせた。
「それじゃアタシは黒の十三番にお願い」
すると、周囲の客からは『おお!』とザワついた声が上がった。世間一般的にはあまり縁起のいい数字とはいえない上に、帽子の男とは対極ともいえるナンバーだったからだ。
紫月らの目的としては、とりあえず帽子の男が賭けた位置とは別の適当な箇所を言えばいいだけなので、好きな数字を指定したまでなのだが、黒の十三番とはまた思い切ったものだ。
「おいおい、いいのか? もっと可愛い――そう例えば赤の一番とか、せめて十二番とかにすりゃいいんじゃねえか?」
レイがからかうように笑う側で、
「あら、アタシが決めていいって言ったじゃないの。アタシの男は最高にイイ男なんだけれど、彼を色に例えるとすればイメージは黒なのよ。彼はアタシにとって唯一無二のキングだしね。だから黒の十三番にしたの。これ以上ない幸運の番号じゃなくて?」
うふふと軽いウィンクまで飛ばすオマケ付きで紫月は笑った。
それを聞いて、冰は思わず笑みを誘われてしまった。アタシの男というのは鐘崎のことを言っているのだと分かるからだ。つい先刻も、紫月が鐘崎に似合いだと言って黒いダイヤのアクセサリーを選んでいたことも知っているので、何だかとてもあたたかい心持ちにさせられてしまった。
そんな紫月は、群を抜く美麗な容姿で、レイが睨んだ通りに周囲の視線を釘付けにしている。ゲーム同様、”彼女”に目を奪われて気が散漫になっている者たちも出ているようだ。
そして、何よりきっと緊張しているだろう冰に平常心でいられるよう、彼なりのやり方で解してくれているようにも思える。冰にもそれが分かるから、しっかりとその応援の気持ちを受け止めたのだった。
「では、皆様よろしいでしょうか。只今を持って賭けを締め切らせていただきます」
落ち着いたテノールの声がそう告げると同時に、運命の瞬間に向けてのターンが幕を上げた。
◆28
カラカラと音を立てて盤が回転する。
その動きがゆっくりと静止に近付くにつれ、誰もが息を呑むように静寂が立ち込めた。
カタ……ッと音と共にボールがひとつの溝にはまる。
「ノアールの十三番。そちらの美しいご婦人の勝ちです。貴女様のイイ男というのは本当に強運の持ち主でいらっしゃるのですね」
冰がゆったりとした微笑みと共に女装した紫月を見つめると、周囲からは溜め息まじりのどよめきが上がった。
「んまぁ……! なんてことでしょ! ホントに勝っちゃったわ、アタシ!」
紫月が胸前で両手を擦り合わせながら歓喜の声を上げる。
なんと冰は見事に帽子の男らのイカサマをかわしただけではなく、紫月の賭けた黒の十三番にボールをピタリとはめてみせたのだ。
溜め息の渦が次第に歓声へと変わる中、真っ青になって震え出したのは他でもない、帽子の男とその一味だった。
「バ……バカな……こんなことが……」
ワナワナと額に青筋を立てて拳を振るわせている。特に帽子の男は、仲間とおぼしき男女を睨み付けながら、『お前ら、しくじりやがったのか!』という顔付きで鬼のような形相に変わっている。それもそのはずだ。男の賭けた金額は、普通では考えられないほどの桁違いな額だったからだ。
今のワンゲームで一瞬にして大金をすってしまった男は、引っ込みがつかないとばかりに突如バンッとテーブルを叩いて立ち上がった。
「おいコラ! お前らグルだな! そこの女と……それからディーラーのお前だ! 今のはイカサマだろうが!」
男が怒鳴り上げると同時に、周は冰を守るべくサッと彼を庇うように腕を広げて自らの背で隠した。
だが、冰はひどく落ち着いた様子で、全く動じていないという静かな口ぶりで対応を買って出た。
「お客様、どうぞお気を鎮めてお座りください。当カジノに於いて、イカサマなど断じて有り得ません」
何ならもう一度勝負致しますか? と、穏やかに微笑んだ冰に、帽子の男はギリギリと眉間を筋立てながら円盤からボールを掴み取ると、勢いよくそれを叩き付けた。
「ふざけるな! だったら今度はあれで勝負だ!」
隣のカードゲームのテーブルを指さすと、
「ディーラー! お前と俺の一騎打ちといこうじゃねえか! ただし、今度はイカサマされちゃ敵わねえからな、カードは俺が切らせてもらう!」
前代未聞の勝手な言い分に、周囲を固めていたファミリーの側近たちが身構える。だが、それよりわずか先に、冰は落ち着いた態度で男からの申し出に受けて立つと言い放ったのに驚かされた。
「いいでしょう。では、カードはお客様がお切りください。ただし、配るのは私がさせていただきます」
元々アンフェアな勝負だ、そのくらいは融通していただいてもいいですねといったふうにニッコリと微笑まれて、帽子の男はギリリと唇を噛み締めた。
「い、いいだろう。配るのはてめえに譲る。ただし……カードは一枚ずつ交互にじゃなく、五枚をいっぺんに配ってもらおう」
とんでもないことを言い出した男に、さすがに誰もが眉をひそめる。次第にザワザワとし出す中、冰の口からもまた驚くべき返事がなされたのに、周はむろんのこと、側近たちもみるみると瞳を見開いてしまった。
「それで結構です。賭け金の方は如何なされましょう」
冰に促されて、男の方もまた、とんでもなく法外な金額を口にした。
「賭け金は今のルーレットの倍だ。俺が勝てばアンタにそれを払ってもらう。それで構わねえな?」
よほど自信があるのか、不敵に笑う男に、周りの皆に緊張が走った。
◆29
如何に冰がデキるディーラーであろうと、さすがに足が震えるような金額だ。ファミリーの側近たちは無言ながらも、チラリと互いに視線をくれ合って、どうしたものかと動揺が隠せない。冰のガードに付いている周でこそ、また然りだった。
「ディーラー、こちらのお客様の言い分は論外です。これではゲームになりません。お受けになる道理はないかと」
怪しまれないようわざと丁寧な言葉使いで平静を装いつつも、目配せで無理をするなと訴えている。動向を見守る鐘崎も紫月も、そしてレイも、皆一様にその通りだという顔をしていた。
帽子の男がこれだけ自信満々で言うからには、カードにも何らかの仕掛けがなされているに違いないからだ。
「……そうですね。ですが、ここでお断りすれば当カジノの面目が立ちません……」
冰は、少し困ったなといったふうに表情を固くする。それを見た男の方は、得意顔で嘲笑の眼差しを細めてみせた。
確かにルーレットでの腕前は認めざるを得ないが、別のカードゲームではその手腕を振るえないだろうとばかりに余裕綽々なのだ。冰の顔付きからも戸惑いの様子が見て取れるので、痛いところを突いてやったというふうにして、更に追い詰めに掛かってきた。
「どうなんだ、ディーラー? 自信がないなら無理にとは言わねえ。そのかわり、このカジノでイカサマがあったことをマスコミに暴露するまでだがな」
高笑いする男に、
「……仕方ありません。当カジノでイカサマはございませんし、それを分かっていただく為にもお受けするしかないでしょう」
そう言って、冰は隣のカードゲームの卓へと歩を進めた。
「お客様も、それからご観覧の皆様方もどうぞこちらへ」
ギャラリーの観客たちを促しながら、テーブルの上に置かれていたカードの束を扇状に開いてみせる。そして、それらを開いたり閉じたりして観客を楽しませるべく、ある種マジシャン的な動作で魅せる演出を披露する。
その様子を窺いながら、男は内心でほくそ笑んでいた。
◆30
(随分と気の強いガキだ。この若さからすると、さしずめディーラーになって間もないといったところか。必死にポーカーフェイスを装っているつもりだろうが、動揺が見え見えだぜ)
こんなディーラーしかいないとすると、周一族のカジノも噂に聞くほど大したことはないなと、せせら笑いがとまらない。
「ディーラーさんよ、俺はマジックを見に来たわけじゃねえんだ。早いとこ勝負に取り掛かろうじゃねえか」
ニヤニヤとしながら、もう少し追い詰めてやらんとばかりに上目遣いでしゃくってみせる。
「え? ああ、失礼致しました」
冰は弄っていたカードを元の通りに束ねると、男に向かって差し出した。
「ではお客様、勝負と参りましょう。どうぞお切りください」
「いい度胸だ」
男は不敵に笑うと共に、聞こえるか聞こえないかのような小声で、「後で吠え面かくな!」そう言ってカードの束を受け取った。
場内は水を打ったように静かになり、誰もが固唾を呑んで二人の勝負に釘付けになる。
特に周や鐘崎、紫月など親しい者にとっては、シャッシャッというカードの切られる音が止むまでの間が永遠のように思えていた。
「よし、じゃあ配ってもらおうか。もう一度言うが、配るのは五枚いっぺんにだぞ?」
男が念を押すのにうなずくと、冰は言われた通りに上から五枚を男の目の前に並べ、続いて自らの前にも五枚を並べた。
「チェンジは何枚に致しますか?」
男がチラリとカードを確認したのを受けて、そう尋ねる。
「一枚だ」
「承知致しました」
冰は新しい一枚を男へと差し出し、自らも三枚ほどをチェンジした。
「では賭け金を」
「いいだろう」
男は手にしていたアタッシュケースをテーブルの上へと持ち上げると、自信満々の様子でその蓋を開けてみせた。
中には帯封の付いた札束がぎっしりと詰められている。それを目にしただけで、周りのギャラリーたちも息を呑む。
「勝負だ。ディーラー、てめえからだ」
男に顎でしゃくられて、冰は手持ちのカードを裏返す。
「ダイヤのジャックとスペードのシックスのツーペア! やった!」
冰はディーラーらしからぬはしゃぎ顔で喜んでみせた。
すると、男はひと言、
「バカか!」
嘲るように言い放ちながら、腹を抱えて笑い出した。そして自らの手札をろくに確かめもしない内から、
「こっちは絵札のフォーカードだ!」
得意満面で裏返してみせた。
◆31
ところが――だ。
「何……ッ!?」
何と、開いたカードはフォーカードどころか、ワンペアにもならない不揃いだった。
「……どうして……そんなはずは……」
既に声にもなっていない。全身をガクガクと震わせながら、その顔面は蒼白を通り越して真っ白になっていく。
そんな男を穏やかな様子で見据えながら、冰は静かに言った。
「お客様がフォーカードを磁気で束ねてくるのは分かっていました。イカサマをなされたのは貴方の方ですね」
「……な……にを……」
先程から少々困惑した素振りを見せていたのは、油断をさせる為のディーラー側の作戦だったのだということを、今になって思い知らされる。男は硬直したままヨロヨロと後退り、掛けていた椅子ごと後方へと崩れ落ちてしまった。
「こんの……ガキが! ふ……ざけるな……! そんなはずはない……そんな……!」
仮に磁気で束ねたフォーカードが見破られていたとしても、男が冰にチェンジさせたのはたったの一枚だ。どんなカードが来ようが、束ねたはずのフォーカードが崩されるわけはないのだ。
最初に配られた五枚を確認した時には、確かにフォーカードは揃っていたはずだ。しかも絵札だった。見間違えるはずはない。
百歩譲ってチェンジの際にしくじったとして、最悪でもスリーカードで勝てたはずなのに、実際に裏返してみれば全くの不揃いになっていた。いったいどうすればこんな結果になるのだろう。男は頭の中を真っ白にしながらも、テーブルの上にあったアタッシュケースにかじりつくようにして覆い被さると、すぐさまそれを抱えて逃げ出そうとした。
「退けッ! 邪魔だ、退きやがれ!」
だが、周りは既にファミリーの側近たちが取り囲んでいる。逃げられるわけもなかった。
すぐに取り押さえられ、現金の入ったアタッシュケースも取り上げられてしまった。
一方、その様子を隣のルーレットのテーブルで窺っていた男の仲間も、彼を見捨ててその場を立ち去ろうとしたところ、レイと紫月に足を引っ掛けられて転ばされてしまった。
「あら! あらあら、大変! 大丈夫、あなたたち?」
わざとらしい女言葉の紫月に見下ろされる傍らで、鐘崎が俊敏に二人を取り押さえる。もがく彼らのポケットからこぼれ落ちた物を、これまたわざとらしく拾い上げたレイが、場内の客たちに見せびらかすように高々とそれを掲げてみせた。
「おい、こりゃ一体何だ?」
カチカチとボタンを押したり戻したりしながら、
「ああー! もしかしてあんたら! あっちの男とグルで、ルーレットでもイカサマしてたんじゃねえのか? どうりでさっきっから連勝するわけだ!」
こうして仲間たちもすぐにファミリーの側近に取り押さえられ、苦しくも企みは大失敗に終わったのだった。
一方、カジノの入り口は既にすべてが閉鎖されており、他にもイカサマを仕掛けた仲間がいないかという捜査からも逃れる手立てはなかった。その間、裏方でイカサマ組織の割り出しに取り掛かっていた源次郎が、日本にいる鐘崎の父親とリモートで繋ぎながら、早速に敵の正体を突き止めていたのだ。
場内には帽子の男らの他にも業者を装った数人が潜り込んでいるのも分かって、そちらもすべてお縄にしたのだった。
◆32
こうして一時焦燥感に包まれた周ファミリーのカジノは無事に難を逃れたばかりでなく、冰の手腕によって敵の賭けた法外な金額を売り上げとして回収することまでできたわけだった。
源次郎らの調べで、彼らを送り込んだ組織は歓楽街の飲食店を表蓑にして、裏で違法賭博を行なっているチンピラ集団だということが判明した。いわゆるマフィアにはなり切れない中途半端な組織ということだ。小者と言ってしまえばそれまでだが、だからこそ仁義も礼節も持ち合わせていない無法集団であることも事実である。
彼らの中にたまたま物理化学に少し精通している者がいたらしく、磁気を使った細工を思い付いたらしい。工場に送り込まれた仲間も芋蔓式に捕まることだろう。
周らが危惧していたように、ファミリーのカジノを乗っ取るというような大掛かりな企みではなかったわけだが、春節の一大イベントを機に、少しまとまった金を稼ごうというのが目的だったようである。
結局、イカサマ騒ぎがあったことでこの夜の春節イベントはお開きとなったが、頭領の隼の計らいで日を改めてイベントのやり直しが約束された。時期は春の花々が咲き誇る頃に必ずということで、客たちも納得して解散となった。
「いやぁ、ものすごいものを見せてもらった!」
「本当に! さすが頭領・周のカジノだ。ディーラーも一流だ」
「ああ、ベガスでも滅多にお目に掛かれんですな」
皆、口々に興奮を語りながら帰路につく様子からして、不満どころか感嘆の渦といったところだ。本来、カジノにとっては不祥事といえるイカサマ騒動を、冰は見事に感動の嵐に変えたのである。
そうしてすべてが片付いた後、ファミリールームへと戻った冰を待っていたのは、隼からの強い抱擁だった。周に寄り添われて扉を開けるなり大きな胸の中に抱き包まれて、冰は瞳をパチパチとさせてしまった。
「冰! 良くやってくれた! お前のお陰でカジノは救われた」
ガッシリと腕の中に包まれての力強い抱擁に、思わず窒息しそうになる。
「お、お父様……! ぷは……ッ」
「あ、ああ……すまない。つい加減を忘れてしまった」
つまり、それほど感激したということだろう。隼は抱擁を解くと、改めて冰の前で腰を屈めながら彼の手を取って、まるで中世の貴族がするように敬愛の口付けをしてみせたのだった。
マフィアの頭領である彼がこんなふうに誰かに敬意を表すのは、非常に珍しいことといえる。それは息子の周であっても、おおよそ滅多にお目に掛かれない仕草だった。
「お、お父様……あの……ッ」
勿体ないほどの扱いに、冰はオロオロと恐縮しきりである。だが、父の隼に続いて、兄の風までが同じように冰の手の甲へとキスをしながら頭を下げたものだから、冰はそれこそもうどうしていいか、またまた機械仕掛けの人形のようにぎこちない動きで硬直するばかりであった。
それを見ていた側近たちも隼と風がこうまで丁寧にするものだから、当然のように驚き顔でいたが、だが彼らも冰の活躍を目の当たりにしていたこともあって、納得させられた様子だった。
◆33
「それにしても冰君、ホントにすごかったな! 俺の賭けた黒の十三番にドンピシャ玉がはまった時はマジで驚いたぜ!」
紫月がほとほと感服といった表情でいる。
「それについては俺も同感だ。間近ですげえもんを見せてもらった!」
レイも感心顔だ。
「それにさ、カードゲームの方だってどんな魔法を使ったんだってくらい見事に相手を打ち負かしてくれてさ! もう感動も感動だったし!」
「本当だな。伝説になるくらいすげえ勝負だった」
紫月とレイが交互交互に興奮気味で言う。誰しも思いは同じなわけだが、特に目の前でそれを見ていたこの二人にとっては格別な感動なのだろう。
「いえ、そんな……! 実は……紫月さんの賭けた黒の十三番にボールがはまったのは本当に偶然なんです」
「ええ!? そうだったのか?」
「てっきり冰君が狙った位置に落としてくれたのかと思った」
皆が驚く傍らで冰は言った。
「いえ、本当に偶然で……俺自身驚いています。きっと……天国のじいちゃんが力を貸してくれたんだと思います」
面映ゆい表情ながらも感慨深けに瞳を細めた様子に、皆一様に温かい気持ちに包まれたのだった。
◇ ◇ ◇
その後、ホテルへと戻ると、部屋に入るなり冰は突如背後から周に抱き締められた。
「冰……! 本当に良くやってくれた。お陰でカジノは救われた」
「白龍……! ううん、そんな……」
周は後方から顎先を掴むと、言葉よりも何よりも先に、奪うように唇を重ね合わせた。
「……白……ッ龍……」
そのまま、唇を離さないままでもつれ合うようにベッドへと移動し、なだれ込むようにしてシーツの海へとダイブする。ふと触れ合った周の身体の中心は、既に硬く張り詰めて欲情を表していた。
「……白……!」
「すまねえな、冰……本当はゆっくり休ませてやらなきゃならねえのは分かっているんだが……」
今はどうしても気持ちが抑えられない。
周にしてみれば、冰が見事過ぎる活躍でカジノの危機を救ってくれたことに対する感謝はむろんのことながら、彼が危険な目に遭わずにこうして自らの手の中にいることを確かめたいという思いも同じくらいに強かったのだろう。それと同時に、今まで見てきた素直で可愛い彼が見せたプロとしての大人びた一面を目の当たりにしたことで、新たな魅力に抑え切れない恋慕の情が噴火のごとく湧き上がってもいたのだ。
周は自分自身でさえ表現しようのない不思議な感情が渦巻いているのを感じていた。取り留めのない気持ちのままに、今はただ、愛する者が手中にあることを何度でも確かめたくて堪らない、そんな思いにつき動かされるように抱擁に代えるしかできずにいたのだった。
◆34
息もできないほどにむさぼるようなキスの嵐がとめられない。濃厚に唇を重ね合い、いったいどのくらいそうしていたのだろう。一通り奪ったことで落ち着きを取り戻したのか、周は腕の中の冰をようやくと解放すると、今一度額に――今度は敬愛を込めた口付けを落とした。
「すまねえ、つい我慢がきかなかった……」
「白龍……ったら……さ」
「何だろうな、不思議な気分だ。今夜のお前は――俺が知らなかった大人びた一面がひどく新鮮で……ガラじゃねえが本当にヤバい気持ちだ……」
一般的には”ドキドキがとまらない”――などという表現で合っているだろうか、周にとってこんな気持ちは初めての感覚なのだ。
「それなら俺だって……同じだよ……? 何て言ったらいいのか……未来の白龍と一緒にいるようで、白龍は白龍なのに……別の人と一緒にいるような気になっちゃったりしてさ。これって浮気じゃないよねって……俺、銀髪の白龍にときめいちゃって、悪いことしてるような気になっちゃった」
冰からもまったく同じ気持ちを聞かされて、周は普段は鋭い眼力のある瞳をクリクリとさせてしまったほどだった。
「そう――それだな! 俺も――お前なのにお前じゃねえ、誰か別の人間になびいちまってるような気にさせられた。もちろん普段のお前もめちゃくちゃ愛しいんだが――今夜の……ちょっと大人びたお前にも……その、な?」
あまり言い慣れない言葉だが、敢えて今の気持ちを言葉にするならば『胸がギュンギュンする』とでもいうのだろうか。とにかくは周も冰も互いの変装や、別の一面に触れたことで、初めて恋心を意識した時の気持ちが蘇ったような感覚に戸惑ってしまっていたのだった。
「冰――お前……まさかだが、歳食った俺に惚れちまった……なんてこたぁねえよな?」
「え……ッ!? え、いや……そんなことは……!」
「そうだろう? 顔真っ赤にして――そいつぁ、立派な浮気ってもんだ。正直に言わねえと仕置きだぜ?」
「……ん、もう! それなら白龍だって! 大人びた俺にときめいたとか、それってしっかり浮気じゃない?」
「俺は――浮気なんぞしねえ」
「えー、ホントかなぁ? 白龍だって顔赤いじゃん……!」
「んなわきゃねえ!」
仮にもマフィアの周に『顔が赤い』などと言えるのは冰くらいだろうか。たわいもないじゃれ合いの後、二人はタジタジとしながら挙動不審な様子で視線を泳がせ合っていることにプッと噴き出してしまった。
「大人びたお前も可愛いお前も――どっちもお前だ。浮気とは言わねえ」
「ん、まあ……そうだよね? 若い白龍も老紳士な白龍もどっちも……うん、カッコイイし……」
えへへ、と頬を染めた冰をもう一度強く腕の中へと抱き締めた。
「冰――」
「ん?」
「好きだ――どんなお前も、お前がお前である限り、全部が魅力だ」
「白龍ったら……さ」
「さ――、それじゃ風呂にでも浸かって、元の俺たちに戻るとするか」
銀髪と加齢メイクを洗い流し、若返る。それはそれで、また冰に新鮮な気持ちを抱かせることだろう。二人は仲良くバスルームへと向かい、のぼせるほどに熱い愛を紡いだのだった。
◆35
一方、向かいの部屋では鐘崎と紫月もまた、周らと同様、普段とは違う出で立ちの恋人に新鮮な気持ちを抱いていたようである。
まあ、鐘崎は服装がタキシードというだけで特に変わったわけでもないのだが、紫月の方は女装のままホテルに戻ってきたこともあって、互いに別人といるような感覚が新鮮だったようだ。
「この豪華なドレスさぁ、氷川の父ちゃんが記念にくれるってから貰ってきちまったけどよ」
今後はそうそう着る機会もないだろうと、紫月は勿体なさそうな顔をする。
「しかも乳付き! これ、シリコンで出来てるんだってけど、しっかしまあ良くできた代物だよなぁ」
自分の胸を揺さぶったり揉んだりしながら感心顔だ。
「あ、よかったらお前もちっと触ってみる?」
面白そうに言うと、鐘崎も遠慮なしにドレスの上から胸を鷲掴んだ。
「確かに良く出来てる。触り心地も本物と遜色ねえな」
「だろ? このやーらかい感触といい、弾力といい……マジで女の乳そのものじゃん! 今時の技術ってのはすげえな」
何気なく口をついて出てしまったひと言だったが、一瞬の間を置いて、ふと怪訝そうな目で互いを見合った。
「まるで触ったことがあるような口ぶりだな?」
少々怪訝そうにして鐘崎が呟く。だとするならば、それはいつのことで相手は誰だと顔に書いてあるのに、紫月はタジタジと表情を引きつらせてしまった。
「え? や、その……あれだよ、ほんのモノの例えだって!」
「ほう? 例えね」
「……つか、てめえこそどうなんだって!」
鐘崎は学生の時分から女には相当モテていた。恋人として付き合っていた女性がいたという記憶は紫月の知る限りないのだが、彼と正式に想いを告げ合ったのは、互いにいい大人になってからだ。
よくよく考えてみれば、その間に遊び相手の一人や二人は当然いただろうと思われる。逆に清廉潔白な方が有り得ない話であろう。かくいう紫月にだって、そういった経験が皆無だったというわけでもない。
今の今まで考えたこともなかったのだが、気になり出したら多少なりとモヤモヤするものだ。
「ま、別にいいけどさ」
今更、過去のことをほじくり出すこともない。知らなくていいことは知らないままにしておくのも大人の対応というものだ。
だが、嘘か本当か、鐘崎は意外も意外、驚くようなことを口にした。
「俺が抱くのはお前だけだ。今までもこれからも、生涯ずっとお前唯一人だけだ」
「え……」
紫月はポカンと口を開けたまま、目の前の恋人を見つめながら硬直させられてしまった。
「それって……まさか……」
お前は俺しか知らないってことか?
「……んなわきゃねえべ!」
紫月はアワアワと口を半開きにしながら苦笑がとめられない。
そうだ。どう考えたって有り得ない話だ。鐘崎ほどの男前がモテないわけがないし、それに彼は初めての時も巧みだった。下世話な話だが、抱き方も手慣れていて上手かったといえるだろう。
(まさか……まさかな。俺とヤるまで……一度も……なんてこたぁ……あるわきゃねって)
そんな想像に挙動不審でいると、鐘崎からは微笑と共にますます頭がこんがらがりそうな台詞が飛び出した。
◆36
「まあ、乳を揉んだり吸ったりしたことがねえとは言わねえが、俺にとってはお前がこの世で唯一無二ってことだ」
「え……はぁ?」
って――それ、ホントはどっちなんだって!
紫月は苦虫を噛み潰したような表情で、目の前の男を見つめてしまった。
「正直なところ記憶にはねえが、赤ん坊の時分にはまだお袋も家を出て行く前だったろうしな?」
ニヤッと不敵に微笑まれた次の瞬間には作り物の豊満な胸を揉みしだかれて、紫月は『ひ……ッ』と声にならない声を上げさせられてしまった。
「せっかくだ。今夜はそのまま抱いてやる」
余裕綽々にベッドへと押し倒されて、首筋から鎖骨へと色香際立つ濃厚な口付けの嵐にすぐさま背筋がゾワりと栗毛立つ。
「ちょ……ッ! 待て待て待て! それってまさか……赤ん坊の時に母ちゃんのオッパイを吸ったとかいう冗談かよ……」
「まあな。産まれてすぐの頃はまだお袋も家にいた。乳くらいは飲んだろうさ」
「あ……? はぁッ!?」
巧みな仕草で背中のファスナーを下ろされて、あれよという間に肩先から胸元までがあらわにされる。と同時に、肝心なことは上手くはぐらかされたようだ。結局、どっちなのかうやむやのままで、すっかり抱く体勢に入っているのが何とも憎らしい。しかも女物のドレスを脱がしていく仕草も手慣れていて迷いがない。
「……って、おい、遼……ッ! なし崩しかよッ! 結局上手くごまかしやがる気……だな!」
「ごまかすとはご挨拶だな。お前の方こそ相変わらずに口が悪い」
そんな口は塞ぐに限るとばかりに、息もままならないほどに歯列を割り忍び込んできた舌先に口中を掻き回されて、
「……ッ、遼……!」
抵抗虚しくすぐに欲情の海へと引きずり込まれてしまう。
「バ……ッカやろ……、ンなギュウギュウすんなって……の! せっかくの服……が皺に……ッ」
「心配するな。丁寧に扱うさ」
そう言いつつも遠慮なしに大きな掌で乳をワシッと揉まれて、紫月は大焦りで視線を泳がせた。
「……って、遼! 待……ッ、乳取れる……!」
「ああ、お前に乳は必要ねえ。俺には豊満な乳房より、この可愛い乳首だけで充分だ」
卑猥ともいえる台詞を恥ずかしげもなく、こうも堂々と言われると、逆にひどく恥ずかしくなってしまう。と同時にゾワゾワと欲情の波がつま先から頭のてっぺんまでを電流のように貫いた。
「てめ、よくそんな……スカしたツラで、ンな、やーらしい……台詞言える……ッ」
「いやらしい俺は嫌いか?」
すっかりとドレスを剥ぎ取られ、女物の下着を盛り上げている欲情の印を尖った舌で突かれて、思わず淫らな嬌声が上がってしまう。
「い……ッ、あ……遼!」
「ほう、下着まで女物とはな? しかもガーターまで付いていやがる。あの緊急時に、こんなもん一体どこで調達したんだか――随分とまた凝ったもんだ」
その”ガーター部分”を器用に弄びながら、上目遣いの瞳が弧を描いている。整いすぎた顔立ちがまるで捕食者のような獣を連想させるようで、ふと――めちゃくちゃに奪われてみたいような欲情が突き上げて、紫月は焦った。
「や……ッ、だって……レイ・ヒイラギの息子が……これ穿けっつーから! あ……、クッ……」
好きで穿いたわけじゃない。これをどうぞと出されたから従ったまでのことだ。
「てめ、勘違いすんな……よ! 別に俺の趣味ってわけじゃ……ねし」
「そう照れるな。まあドレスの下がブリーフじゃ、確かに味気ねえってもんだ。レイさんの息子もいい仕事をする」
不敵に笑いながら細く華奢な下着の脇ひもの間から指を滑り込ませて、一等敏感な部分を指の腹で擦り上げられる。
「あ……ッつ! 遼……! こ……ッの、嘘……つ」
焦らすように太腿のやわらかい部分を吸われ、赤いキスマークを方々に散らされていく。慣れた仕草でショーツまで剥ぎ取られ、みるみると頬が染まった。
(やっぱ、てめえ……女を抱いたことないなんて……嘘だろが!)
「この……嘘つき……! ほ……ッんと、しょーもねえ極道……」
「誰が嘘つきだ」
「お……前が……! 俺っきゃ……知らね……とか、信じらんね……、はぁ……ッ」
「――どうとでも。だが紫月、これだけは嘘じゃねえ。正真正銘、今も昔も、俺が心底愛してんのはお前だけだ。未来永劫、お前だけだと誓う」
「……ッ、んあっ……! それ……全っ然、答えンなって……ねー!」
嘘か誠か、そんなことはもうどうでもいいほどに乱されながら、紫月は愛する男の腕の中へと堕とされていったのだった。
◇ ◇ ◇
◆37
その後、二日ほどを観光などで堪能した一同は、周の父親らファミリーに見送られて帰国の途についた。
帰りも行きと同じく周のプライベートジェットで悠々、快適な旅だ。
カジノイベントから帰った夜、ひょんなことから一悶着あった鐘崎と紫月の”初体験騒動”も結局うやむやなまま欲情を貪り合って終わってしまったのだが、案外脳天気な性質の紫月は、その件についてもすぐにあっけらかんと忘れてしまっていた。鐘崎が自分を好いてくれていて、自分も鐘崎を大切に想っている。それ以上でも以下でもない。要は、今が幸せならばそれでいいと思うわけなのだ。
すっかりいつも通り熱々な二人は、周と冰らと共に地元の料理や土産店などを観光して歩き、充実した香港での休暇を楽しんだのだった。
「うん! ハプニングもあったけど、今回の旅はホンっト楽しかったよなぁ! 本場の中華料理もめちゃめちゃ美味かったし、それに冰君が買ってきてくれた月餅も最高だったしさ!」
黄老人が好きだったという店で冰が買ってくれた月餅を気に入った紫月は、鐘崎組の若い衆らや実家への土産にと言って店を教えてもらい、たんまりと買い込んできたほどだった。
「俺は乾物を買ってきました! ウチで待ってくれてる調理場やハウスキーピングの皆さんにと思って。それに李さんと劉さんたちも本国のお料理は懐かしいでしょうし、お茶もいろんな種類を!」
そうなのだ。周が不在の間、社の方は李たちに任せてきたので、お土産は多種多様に選んできた冰である。
「次は二ヶ月後かぁ。氷川の父ちゃんがカジノイベントのやり直しにも是非遊びに来てくれって言ってくれたからさ!」
「そうですね。今から楽しみです!」
「今度はカジノ船でやるって言ってたもんな! クルーズもできるし待ち遠しいな!」
紫月と冰がそんな話で盛り上がっていると、真田がお茶と菓子を持ってやって来た。
「お二方共、お茶をお淹れしましたぞ」
「わぁ、真田さん! ありがとうございます!」
「うは! ケーキだ!」
「ええ、先程空港で選んで参りました。ここ数日ケーキは召し上がっていらっしゃらなかったでしょう? そろそろお懐かしい頃かと思いまして」
さすがの気遣いに礼を述べながらも、二人共子供のようにはしゃぐ紫月と冰だった。
「そういえば遼と氷川はまた経済談義でもしてんのかな?」
先程から姿が見えないことに気がついて、紫月が尋ねると、ニッコリとウィンクを飛ばしながら真田が言った。
「坊っちゃま方はご帰国後のお仕事のご準備とのことで、お二人ご一緒にパソコンを抱えてプライベートリビングにいらっしゃいますよ」
考えてみれば、約一週間ほど仕事を留守にしていたわけだ。メールのチェックやら帰ってからの準備など、大黒柱たちには気掛かりも多いのだろう。
「そっか。じゃ、労いがてら茶でも届けてやるか!」
「そうですね!」
真田からティーセットを受け取って、紫月と冰は周らのいるリビングへと向かった。
ところがだ。
「ありゃ、寝ちまってるじゃねえの」
「あ、ホントだ」
テーブルの上にパソコンを広げたままで、二人共に寝息を立てている。
ソファは悠々ベッドにもなるくらい大きいので、周はその背もたれに深く身体を預けたまま、鐘崎はすっかり大の字になって眠ってしまっていた。
◆38
「きっと疲れが出たのかもですね」
「ああ。何だかんだで気を張ってただろうからな」
忍び足になりながら互いを見合ってクスッと微笑む。
「……っと、確かこの辺にしまってあったよな?」
紫月はクローゼットから掛け布団を取り出すと、冰にもそれを渡して、別のもう一枚を鐘崎のもとへと持っていった。
「あーあ、靴履いたまんま寝ちまって! しゃーねえなぁ」
大きな革靴を脱がしてやりながらクスッと笑う。
「おい、遼。ジャケットも脱げって。これじゃ寝づれえだろー」
甲斐甲斐しく身体を左右に転がしながら上着を脱がしてやっている。かなり遠慮なしに揺すっているにもかかわらず、鐘崎は軽いイビキまでかきながら一向に起きる気配がない。
「……ったく、こーゆー時にでっけえと苦労するぜ」
呆れたジェスチャーながらも、その視線はやわらかで愛情に満ちあふれている。
一方、周の方は既に機内用のスリッパに履き変えていたようで、靴は端の方に揃えて置いてあったのだが、冰もまた彼が寝やすようにと丁寧に靴下を脱がせてやったりしていた。
「白龍、靴下は脱いだ方が疲れが取れるからさ。ちょっとごめんね?」
冰の方はなるべく起こさないようにと、声もひそめ気味でそっと片方ずつ脱がしては、綺麗に畳んでチェストへとしまっている。
紫月も冰もやり方は正反対というくらい雑であり丁寧であったりするのだが、恋人を愛しく想う気持ちは一緒なのだ。
「……ったく! 寝てる時はこんなあどけねえツラしてんのに、エッチになると途端に動物化するしよー。なのにイビキさえ愛おしいー! って俺、相当やべえな」
「うーん、やっぱ寝顔もカッコいいよねー……。神様の芸術品って感じ! でもさぁ、見てる方はしょっちゅうドキドキさせられて……こういうの”罪”っていうんだよ」
言い回しはまったく違うが同時に声が重なって、紫月と冰は互いを見やってしまった。
「あ……ははは! やっべ、聞かれちまったってか?」
「お、俺の方こそ……」
紫月はポリポリと頭を掻きながら照れ笑いをし、冰は俯き加減で頬を染めながらはにかんでいる。二人は同時にプッと吹き出してしまった。
「んじゃ、俺らはあっち行ってケーキでも食うか」
「ですね!」
小声で囁き合い、それぞれすっぽりと掛け布団をかけてやると、ルームの灯りを落としてそっとドアを閉めたのだった。
◇ ◇ ◇
「おや、お二方。お早いお戻りで。坊っちゃま方はお忙しいご様子でしたか?」
早々と戻って来た紫月らに真田が目を丸くしながら訊いた。
「いえ、実は白龍も鐘崎さんも寝ちゃってまして」
「遼なんかイビキまでかいて、突っついたってビクともしませんよ!」
「おや、まあ! それはそれは」
真田は朗らかに笑いながら、
「きっとお疲れが出たのでしょう。日本に帰ればまたすぐにお仕事が待っていらっしゃるお二人ですから。しばし、天使の休息といったところですな」
ほほほと笑いながら、早速にお茶のおかわりを淹れてくれる。
「真田さんもお疲れでしょう。ご一緒にお茶をしましょうよ! 源次郎さんもお呼びして四人で!」
「あ、それいいな! 鬼の居ぬ間のケーキターイム! なんつって。俺、源さん呼んでくるわ!」
紫月が身軽に席を立つと、真田が『そういえば』と言って笑った。
「確か、行きは冰さんたちが眠ってしまわれたんですよね。坊っちゃま方が残念そうにして戻ってらっしゃったのを思い出しました」
あの時も周から『気遣いはうれしいが、たまにはお前もゆっくりしてくれ』と言われてお茶に誘ってもらったのだと真田は言った。
「坊っちゃまも冰さんも本当におやさしくしてくださって。真田は本当に幸せ者でございます」
「そんな! こちらこそ、真田さんはじめ皆さんにはいつも本当にお世話になりっ放しで! どんなにお礼を言っても足りませんよ」
朗らかな笑みを交わし合う二人は、まるで家族のごとく、その表情は幸せに満ちあふれていた。
カジノでのイカサマ騒動などハプニングもあったが、周の家族にも会えて、また黄老人の墓参りもできたしで、心に残る素晴らしい旅だった。帰国後も周と、そして真田や鐘崎、紫月らと共に過ごせる幸せを改めて実感する冰であった。
香港蜜月 - FIN -