倫周らと別れた後、俺は一人――風穴の開いた心を抱き締めながら帰路についた。バイクで受ける晩秋の風は冷たく、俺の心も凍てついてしまいそうだった。
 源さんのタバコ屋は既に閉まっていたが、繁華街のネオンは相変わらずに賑やかで、そんな喧騒がより一層孤独を突き付けてくる。そんな俺の心を癒したのは、ふと見上げた三階の窓に灯りが灯っているのを見た時だった。
 通りに面した窓が少し開いていて、わずかに立ち上る紫煙が風に揺れている。

(紫月――)

 まだヤツは居る。あの紫煙はきっとヤツのふかすタバコの煙――だ。
 帰りを待っていてくれと言った俺の言葉通りにあの部屋で俺を迎えてくれる。
 古びたビルの狭いコンクリートの階段を踏みしめながら、涙がこぼれそうになった。

 ドアノブに手を掛ければ、鍵のかかっていない感覚が俺の胸を躍らせた。
「ただい……」
「遼二――!」
 ダイニングの椅子を窓際に引っ張っていってタバコをふかしていた紫月の顔を見た瞬間、目頭が痛くなるほどに熱くなり涙が込み上げた。
「お……かえり」
 紫月はタバコをひねり消してキョトンとした顔で俺を見つめている。
「遅くなっちまって……悪かった」
「ん、いって。もっと遅くなるかもって思ってたし……もしかしたら今夜は帰って来ねえかもって思ってたから」
 悪かった――そう言って謝ると、紫月は『いーよ』と言って笑った。その笑顔にまたも涙が滲みそうになる。それらをごまかさんと、上着を脱いでハンガーに引っ掛ける。
「……源さんは? 階下か?」
 二階の電気もついていたからおそらくそうだろう。
「うん。晩飯食いに連れてってもらった。そんで……暖房も。寒いといけねっつって、あの人がつけてくれた。お前いねえのに勝手にどうかなって……思ったけど」
 そう言われてみて初めて部屋の暖かさに気付く。
「いや、構わねえ。源さんは俺の親も同然の人だから」
「そう……なんだ」
「メシ、何食ったんだ?」
「うん、炒飯。対面の中華屋さんでさ。すっげ高そうな店だったけど、奢ってもらっちゃった。メシもスープもめちゃめちゃ旨かった!」
「そうか。良かった」
 たわいのない話が続いた。本当はもっと――話さねばならないことがたくさんあるというのに、どちらからも言い出せずに互いの胸の内を探り合うような視線を交わすのみだ。
 こんなんじゃいけねえ。意を決して告げねばならないことを切り出した。
「な、紫月――。さっきは悪かった。その……おめえを無理矢理どうにかしようだなんて……。本当にどうかしていた。すまねえ。この通りだ――!」
 目一杯頭を下げて謝ったら少しだけ心が軽くなった気がした。
 それとは逆に、今度は紫月の方が慌ててしまったようだ。窓際まで引っ張っていった椅子を倒す勢いで立ち上がって、ブンブンと首を横に振っている。
「あ……れは、おめえのせいじゃねって! 俺が……ヘンなこと言ったから……」
 自分こそ悪かったと言いながらモジモジと視線を泳がせて頬を染めるツラを見た瞬間、心がギュッと摘まれるように熱くなった。
「……えっと、その……つか、冰……は? お前、あいつを追っ掛けて行ったんだべ?」
「ああ。冰は無事だ。ちゃんと保護したから」
「保護って……やっぱ何かあったの?」
「いや――」
 ヤツがいかがわしい目に遭っていたことは伏せたものの、父親の経営する会社がらみで冰が少々巻き込まれていたとだけ話すことにした。おそらく冰は紫月にも本当のことを話していないだろうからだ。
 その後、冰がしばらく香港の親父さんに会いに行くことや休学のことなども打ち明けた。紫月は驚いていたが、同時にやっぱりそんなことがあったのかと言って軽い溜め息を漏らしてみせた。

「そっか……。やっぱ家のことでいろいろあったんだな、あいつ」
「――そんな感じを受けたのか?」
「ん、直接聞いたわけじゃねえから詳しいことは知らなかったけどさ。あいつ、元々はもっと明るいっつーか、可愛らしい性質っつーの? よく笑うし、いつも他人のこと気に掛けてくれてさ。誰にでもやさしいヤツなんだ。けど、三年になって少ししてからだったな。雰囲気変わっちゃったっつーか、あんまし喋んなくなって、何事にも無関心っていう感じで滅多に笑わなくなっちまったんだ。親父さんは香港の支社に行ったっきりで殆ど家に帰って来ないとかで、そーゆうのが原因なんかなって思ってた」
 本人が特に理由も話さないので、言いたくないことなんだろうと思っていたと紫月は言った。
「悩みあったなら言ってくれればいいのにさって思うけど、まあ……だからって俺が何してやれるわけでもねえから仕方ねえっちゃそうだけど」
 だがとにかく理由が分かって紫月はホッとしたようだった。
「紫月――お前ン家には連絡したんだったな?」
「うん、ダチん家に泊まるって言っといた」
「そうか――。だったら風呂入れるから入って来い。待たせちまって悪かったな」
「あ……うん。けどお前先入ったら? バイクで帰って来たんだべ? 外寒かったんじゃね?」
 確かに寒かったが、こんなふうに気遣ってくれる言葉がひどく心に染みて嬉しかった。
「いや、俺はちょっと源さんに報告だけしてくっから。先入ってくれ。下着は――まだ開けてない新品のがあったはずだから。俺のじゃ少しでけえかも知れねえが」
 タンスを引っ掻き回してパッケージに包まれたままの下着を差し出すと、それを受け取りながら紫月はクスッと笑った。
「XL……? デカッ! おめえ体格いいもんなぁ」
「やはりデカいか。まあ小さくて穿けんよりはいいだろう。それで我慢してくれ」
 パジャマなんて洒落たモンは無いから、割合新しめのTシャツとスウェットパンツを見繕う。それを持って紫月はバスルームへと向かった。少しすると風呂の壁に反響した鼻歌まじりの声が聞こえてきて、自然と頬がゆるむ。
 いつもは味わえない感覚だった。
 誰かと共に暮らすということのあたたかさが身に染みる。いつもの――殺風景な部屋の壁さえ心を躍らせる、そんな不思議な気分だった。

 源さんに報告をした後、部屋に帰るとちょうど紫月が風呂から上がったところだったようだ。俺の大きな服に身を包んだ華奢な身体が、まるで小さな子供を連想させるようだ。
「やはり大きかったな」
「うん、見てくれ、ダボダボ!」
 両手を広げて笑う仕草にギュッと心臓が摘まれる気がした。
「似合ってるぜ。可愛いわ――」
「マジ? イケてる?」
「ああ。お前、普段はMサイズか?」
「うん、だいたいそう。んでも、まあまあタッパはあるからL着る時もあるよ」
 お前の匂いがすると言って、袖口をクンクンと嗅いでいる様子が愛らしい仔犬のようだ。
「よし、湯冷めしねえ内に寝るか。俺はシャワー浴びてくっから、お前先に布団入っててくれ」
「ん――、そんじゃお言葉に甘えっか」
「退屈だったらテレビでもつけて観ててな」
「うん、さんきゅ! ゆっくりあったまってこいよー」
 ヒラヒラと白魚のような手を振って微笑む顔を見ただけで、湯になど浸からずとも身体の芯から温まる気がしていた。

 風呂を上がると紫月はベッドで布団に包まりながら半身を起こして携帯を弄っていた。
「今さ、冰からメッセ届いたから返事打ってた」
「――そうか」
「もうすぐ離陸だって。空港からみてえ。なんかすっげえ豪華なプライベートジェットだって!」
 おそらくは周焔の家の物だろう。
「助けに来てくれた人らがさ、めっちゃいい男だって。一人はやさしくて話しやすいみたいけど、もう一人はすっげ強面で緊張するとか書いてある。けど超絶男前だって! 俺が見たらぜってー気に入る――だってさ!」
 俺は何だか可笑しくなってしまい、自然と口元に笑みが浮かんでしまった。話しやすいのは当然倫周だろう。強面の男前は――周焔のことか。
「おめえの好みかどうかは分からんがな。確かにツラ構えはいい方だと言えるかもな」
「マジ? お前とどっちがいい男?」
 そんなふうに訊かれれば悪い気はしない。
「いい男――なんて言ってくれんのはおめえくれえだがな」
 それを言うならこの紫月だって充分にいい男だろう。先程冰が「紫月は昔からモテていた」と言っていたし、実際好き嫌いは別としてほぼ万人が綺麗な男だという印象を抱くはずである。
 俺は掛け布団をめくって紫月の隣へと腰を下ろした。
 何故だろう、今まで誰にも話すつもりのなかったいろいろなことを――この紫月には聞いて欲しいという衝動が込み上げていた。
 親父がパートナーの麗さんと愛し合っていたこと、これくらいは源さんも知ってはいるが、お袋が俺に抱かれようとしたことまでは言っていない。というよりも言えなかった。
 例え昔から家族も同然で、尚且つ裏の世界を知り尽くしている源さん相手でもそこまでは打ち明けられなかったのだ。てめえの胸にだけしまって墓場まで持っていこうとさえ思っていたことだ。
 だが、紫月には知っていて欲しい。過酷な事実があったということよりも、俺自身のことを少しでもこいつに知っていてもらいたいというような思いだったかも知れない。
 逆にこいつのことも、もっともっと知りたい。何でもいいから、些細な笑い話やくだらない小さなことでもいいから何でも知りたいと思う気持ちが止め処ない。
 二人並んでベッドの上で腰掛けながら、気付けば俺はまるで独白でもするかのように胸に抱えていることを話し出していた。
「なあ紫月――」
「ん?」
「俺の親父は――いわゆる堅気とはいえない職に就いていた」
「……え? 堅気じゃねえって……まさかヤクザ……とか?」
「いや――いわゆる日本のヤクザとは少し意味合いが違うが、まあ世間一般から見れば括りは同じだろうな。親父はもちろん、その家族である俺たちも同じ裏の世界の人間として認識されていた」
「裏の世界……? えっと……じゃあマフィアとか?」
「マフィアとも繋がりはあった。親父自身がどこかの組織に与していたというわけじゃねえが、そのマフィアと組んで仕事をしたり、時にはマフィアから依頼を受けたり――な。危険を伴う案件も多かった。親父だけじゃなく、お袋やガキだった俺も含めて恨まれることも多い、そんな環境の中で俺は育ったんだ」
 紫月は驚いていたが、そう言われてみればどこか自分たち凡人とは違う雰囲気を持ってると思っていたと言って、曖昧な微笑をみせた。
「お前……転校初日の時からさ、どっか俺らとは違うっつーか、何となく大人びてるっつーか、そんなふうには思ってたけど……」
「――こんな俺を軽蔑するか? それとも怖いと思うか?」
 たいがいはそう思われて当然だろう。マフィアだのヤクザだのと聞けば、関わり合いになりたくないと思われても仕方ない。だが、紫月は小さく首を横に振ってくれた。
「んと……裏の世界とか俺にはよく分かんねえけどさ。お前のことを怖えとかは思わねえよ」
「そうか――」
 そう言ってもらえただけでも俺は充分うれしかった。
「本来ならば俺は香港で親父と同じ職に就いているはずだった。だがその親父が亡くなったことで俺は香港を離れることを決めたんだ。それと同時に裏の世界からも足を洗って――普通の高校生として平穏に生きたいと願った。だから今の学園に転入したんだ」
「……そっか。そういやお前、ご両親亡くしたっつってたな」
「ああ。親父とお袋は――銃撃されて死んだ。親父が請け負っていた任務の最中でな」
 さすがに紫月は驚いたようだった。大きな瞳を更に大きく見開いて俺を凝視する――。
「銃撃って……そんなに危ねえ仕事……だったんだ?」
「親父は裏の世界じゃ凄腕と言われていたからな。あんなヘマをするような人間じゃなかったんだがな」
「…………」
 返す言葉を失っている紫月を――更に驚かせることを告げた。
「紫月――」
「……うん?」
「俺の親父には常に仕事を組んで行うパートナーの男がいたんだが――そいつと親父は互いに妻子がありながらも愛し合ったようでな。いわば不義密通だ」
「……へ?」
「相手は麗さんといった。ひどく綺麗な男でな。そのことを知った麗さんの嫁はショックを受けて自害しちまった」
「……え、そんな……」
「俺のお袋も当然ショックだったろうが、幸い自殺を考えるまでには至らなかったようだった。だがお袋は――また別の意味で精神を壊しちまってな。息子の俺に抱かれようと迫ってきたんだ」

「――――! 抱……って、お前の母ちゃんが……お前……に?」

「そうだ。俺はもちろん拒んだし結果的には未遂で済んだが、それを知った親父は少なからず責任を感じたんだろう。両親が銃撃に遭ったのはそれから間もなく後のことだった。俺はあれが親父の無理心中だったんじゃねえかって――思っている」
「……そんな……ッ」
 絶句といった表情で固まってしまった紫月の手を取ってそっと腕の中へと引き寄せた。
「おめえを初めて見た時、えらく綺麗な男だと思った。誰かに似ているような既視感を覚えてな。よく考えたら――ああそうだ、麗さんに似てるんだと思ったんだ」
「麗さんって……お前の親父さんの……?」
「ああ――。俺はずっと……心のどこかで消化しきれねえものを抱えていてな。それが何なのかよく分からずじまいだったが、さっきお前に寝てみねえかって言われて気が付いたんだ。俺は……俺たち家族から親父を取り上げた麗さんを恨んでいるんじゃねえかって。それと同時に――親父と麗さんがどんな気持ちで互いの家族を裏切っていたのかを知りたかったんだということに気が付いたんだ。お前を抱いて……身体を重ねてみれば少しは親父たちの気持ちが理解できるかも知れねえと思った。だからつい……お前にあんな乱暴を……」
 すまなかったと言って謝った俺の手を握り返すと、紫月はその白魚のような綺麗な腕で俺を抱き締めた。
「……紫月」
「……ん、そっか。そっか、そんなことあったんだ」
 俺の身体を抱き締めながらそう言う声が涙に滲んでいる気がしていた。まるで辛かったなと言うように華奢な腕が目一杯やさしく俺を抱き締める。
 紫月はそれ以上特には言葉にしなかったが、ずっと俺の胸に顔を埋めたまま抱き締め続けてくれた。
「遼……遼二。俺、さっきも言ったけどおめえのことが好きだ。俺、チャランポランに見えっかも知んねえし、好きとか言っても軽いノリか冗談かってなふうに思えっかもだけど……これはマジ。だから……おめえのことなら何でも知りてえ……」
 話してくれてありがとう――そう言っているようだった。
「遼……俺、俺さ。俺なんか……知識も何もねえし、何の役にも立たねえって分かってけど。でも俺、これからもおめえの側にいてえ。ダチとして……でいい。こやって、たまには遊びに来たり泊まりに来たりしてえ。俺ン家に来てくれてもいい。ガッコだけじゃなくて、こやってたまには……」
 ところどころ言葉を詰まらせながら、それでも一生懸命に思っていることを言葉に出して伝えてくれる――そんなヤツが愛しくて愛しくて堪らない気持ちだった。
「紫月――ありがとうな。こんな俺に――そんなふうに言ってもらえて、本当にうれしい……」
「遼……」
「いいな、それ」
「……え?」
「遼――って呼び方。そんなふうに呼ばれるのは初めてだ。たいがいは遼二か、源さんだって遼ちゃんだし」
「あ……! そっか。そういや冰も、クラスのヤツらも皆んな遼二って呼ぶもんな?」
「お前だけの特別な呼び方――って思えて何だかうれしいな」
 真っ向素直にそう言えば、紫月もまた、嬉しそうに俺を見上げては頬を染めた。
 その染まった頬に唇を押し当てて軽く触れるだけのキスをした。

「俺も――好きだ」

「へ……?」

「お前のことが好きだ。さっき帰って来た時、この部屋の灯りがついてるのを見た時、すげえうれしかった。お前が待っていてくれる――そう思ったら心があたたかくなった……んだ」
「遼……」
「好きに――なってもいいか? こんな俺が……誰かを想う資格があるのかって思うが」
「遼……! 資格なんて……」
 そんなのあるに決まってる! ヤツの目がそう訴えてくれていた。
「結局俺は……きっとこれからも裏の世界を捨て切れねえかも知れない。育ったのがどっぷりその中だからってのももちろんだが、堅気になろうと望んでも――本能では裏の世界のことが捨て切れずにいる。さっきな、冰を助けに来たヤツらと会って気がついたんだ。ああ、俺はやはり親父から受け継いだこの血を手放したくはねえんだって。親父のこと、麗さんのこと、俺たち家族をぶち壊したあの二人を恨んでいるつもりでも……心のどこかでは愛しているんだってことに気がついたんだ」
「遼――」
「できることならもう一度――親父に会いたい。叶わねえ夢だと分かっちゃいるが……親父が生きててくれたら、今度こそ洗いざらいいろんな気持ちをぶつけてみたい。恨み言も……寂しくてすがりたい気持ちも……みっともねえと思えるような弱みでも――どんなことも包み隠さずぶちまけてみたい。そう思えるようになったのはお前のお陰だ。お前が――人を愛する気持ちってのはどんなもんかっていうことを教えてくれたんだ。親父に対する思いも、麗さんに対する思いも――全部気付かせてくれたのはお前だ」
「遼……」
「こんな……心に闇を抱えたような男がお前のような――身も心も真っさらで綺麗なヤツを好きになる資格があるんだろうかって思う。だがもう……」

 この想いはとめられない――!

 ふと、空気が動いたと思った瞬間に紫月の唇が俺の唇に重ねられた。
「……紫……月」
「へへ……! いいじゃん。裏の世界だろうが表の世界だろうが、世界ってのはめっちゃ広いもんじゃね? 裏と表だけじゃなくて縦の世界や横の世界、斜めの世界とかもあるかも知んねえし。けど……俺がいいなって思うのは……お前と俺が一緒に居られる世界――」
「紫月……」
「そういう世界があったらいいなって……思う」
「――紫月……!」
 思わず溢れて頬を伝った熱い雫を隠すように俺は紫月を抱き締めてしまった。ヤツの陶器のような綺麗な肌に涙を擦り付けるように互いの頬を重ね合わせる。気付けば、そのままどちらからともなく引き寄せられるように唇を重ねていた。
 それはやさしくて熱くて――先程のように何かに当たり散らすような乱暴なものでは決してなくて――、怯えるほどに大切で、触れるのも憚られるほどに怖くて、でも愛しくて欲しくて堪らない。そんな想いだった。
 しばし唇と唇をくっつけ合うだけの子供のようなキスをして、そっと互いを見つめ合えば――熟れて落ちるほど真っ赤になった顔を俺の胸板に押し付けながら紫月は笑った。
「へへ……! 俺んファーストキス……! おめえにもらってもらった」
「紫月……」
「すっげうれしいわ」
 モゾモゾと恥ずかしそうに腕の中で揺れる絹糸のような髪。華奢な肩。ほんのりと匂い立つバスソープの香り。
 そのすべてが愛しくて、あたたかくて、またも滲み出した涙をヤツの髪に擦りつけては拭った。

「好きだ――」

「ん……俺も」

 今なら分かるような気がする。親父と麗さんがどんなふうに想い合ったのかが――。
 妻や子に申し訳ないという思いも当然あっただろう。それでも尚、互いを求める気持ちを抑えられずに背徳を重ね合ったその時の二人の気持ちを想像すれば、まるで幽体離脱でもしたかのように心が痛み、そして甘く苦しく俺の胸を締め付けた。

 腕の中の温もりを感じながらふと窓の外に目をやれば、そこに在りし日の親父の笑顔がこちらを見つめているような錯覚にとらわれた。

 すまなかったな、遼二――。勝手をして、家庭を壊して、お前を独りにしちまったこんな俺を許して欲しい――親父の幻影がそう言っているように思えた。
 俺はいつでも、どこからでもお前を見守ってる。だから思った通りに精一杯生きていけ――。大事なものを大事と言える、そんな男になって幸せになるんだぜ。
 そう言って幻影は空へと消えていった。

 涙があふれて、あふれて、とまらなかった。
 もはや嗚咽を隠すこともできなくなった俺を紫月は黙って抱き締めてくれていた。

「遼、大丈夫。俺、ずっとお前と一緒だ。ずっと――ずっと――!」

 少し冷んやりとした形のいい指で涙を拭ってくれながら、紫月がそう言った。
 耳を撫でるやさしい声が、寄り添ってくれようとするあたたかい気持ちが、有り難くて愛しくてならなかった。

 いつか――いつの日かあの世で再び親父に会えた時、胸を張ってこの大事な人を紹介したい。俺は幸せだぜと、そう報告したい。
 そんな思いを抱き締めながらそっと腕の中の絹糸のような髪にくちづけた。
 かくも尊きこの人を――生涯かけて愛していきたい、焔の如くあふれる想いを胸に抱き、大切に大切にくちづけた。



Guys 9love

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