僕の欲望を引き摺り出した男

全9話完結済



01

「な、オナニーしたことあるだろ? どんなふうにしてるかって訊いてるんだ」
 背後からぎゅっと抱き締められて、信じ難い言葉が耳元を掠める。
 誠実を絵に描いたような会社員の粟津帝斗の頬は熟れ、内臓がひっくり返りそうなくらい驚いていた。

 この春から社内の配置換えで以前から尊敬していた一之宮紫月の下で相方を務めることになって、ここ数日の間、高揚していた矢先のことだ。
 歳はひとつしか違わなかったが、紫月は社でもやり手の天才型で、社員からも羨望の眼差しで見られている男だ。入社前の研修期間に身近な先陣としてレクリエーションの講演などでも姿を見掛けていたので、鮮明に覚えていた。
 北欧の人形のような顔立ちに反してキレの鋭い洞察力と行動力で業績を伸ばし、ゆえに若いが社の中枢ともいえる企画室長の地位まで手中にしている。女子社員からの人気は絶大で上司からの信頼も厚い。どこからどう見ても非の打ちどころのないといったふうな存在の男で、帝斗も漠然とだが憧れのような感を持っていたのは確かだった。
 その彼の束ねる企画室に配属換えを命じられ、まさに手取り足取りのお膝元に勤務出来るのだから、気分は高まっていたとて不思議はない。男として出世への光望が相まっていたのも事実だった。
 その紫月が自分を抱き締めて破廉恥なことを言っているのだ。帝斗は反応さえ出来ずにただただ抱き竦められたまま身を固くしていた。

「な、どうなんだって? するんだろうオナニー。どんな想像しながらすんの? やっぱり女性のグラビアとか見ながらするのか?」
 異常な質問だった。
 いかに誠実な性格の持ち主といえど、こんなことを訊かれて素直に答える言葉など通常思いつくはずもない。
 それ以前に質問自体が常軌を逸しているのは明確なのだ。しかも相手は社内きっての天才で、人望も人気も絶大の男ときている。この異様事態に硬直する以外、術などあろうか。帝斗は依然返答のひとつも返せないままで、抱き竦められた腕さえ振り払えずにいた。

 事の発端は残業後の企画室でのことだった。
 他の者は皆帰宅し、紫月と二人だけでやり遂げた初仕事の清々しさを味わって頬が紅潮する思いでいた、いわば少しの優越感を噛み締めていたそのときに起こった。
「お疲れさん、粟津のお陰で思ったよりも早く仕上がったよ。とても助かった」
 褒めの言葉と共に軽く肩を叩かれて、心を躍らせていたのは初めの数分だ。
「な、粟津さ、お前ってすげえ真面目なのな? 言葉使いも今時珍しいくらい丁寧な敬語使うし感心だよ。男前だし律儀だし……さぞかし女性にもモテるんだろうな?」
 仕事ぶりを讃える言葉から容姿、性質へと褒め言葉が移行するごとに肩に置かれた手の力が熱さを増すような気がしていた。
 最初は錯覚だろうと思っていたそれが次第に強さを増し、褒められて浮かれている状態でも違和感に感じられる頃には背後から抱かれるように覆いかぶさられていた。と共に、耳を掠める紫月の言葉も異様さを増していったのだ。
 後方から頬や耳たぶにくっつくくらいに唇と吐息の触れるのを感じ、ちょっとした驚きのようなものに戸惑ったのも束の間、
「彼女はいるのか?」
 そう訊かれた時にはスーツの上着を肌蹴くかのように、長い指先がワイシャツを撫でたのに酷く驚いた。
「あ、あの……いま……せんっ……彼女なんて……僕は……その……」
 否定の言葉も内容もしどろもどろで、何を言っているのか自分でも分からない程動揺していた。
「ふぅん、彼女いないんだ? じゃ、独りなんだ粟津。お前、歳いくつだっけ? 確か俺とひとつ違いだったよな? だったら27だ。違う? 早生まれ? それとも遅生まれ?」
 どうでもいいようなことを訊かれた気もしたが、動揺が先立って定かでない。そんな様子を薄ら笑うかのように、紫月は先を続けた。
「なあ、じゃあさ、こっちの処理はどうしてんの? 彼女いないんなら独りでヤルんだろう? 何を想像しながらすんの? ベッドの中で? それとも風呂場とか? 聞きたいな、粟津がどんなふうにするのか……お前のオナニーのこと聞かせてよ」
 これではまるで変質者に他ならない。社内きってのエリートは天才と気違いが紙一重なのだろうかなどと頭の中は驚愕でグルグルしていた。次第に自分が立っている床までが歪んで見えるような気さえしてきた。
「答えられない? 恥ずかしいのか? そうだよな、こんなこと突然訊かれて困るのは当然だよな?」
 その言葉に多少は意識が通常なのかと少しの安堵を覚えたが、紫月が続けたのは更に信じ難い内容だった。
「じゃあ俺が先に教えてやるな? 実はさ、俺も独りなんだ」
「えっ……!?」
「付き合ってるヤツとかいねえから、独り。だから当然オナニーも独りでヤルんだけどさ、俺はね、お前のこと考えながらすんの」

 え――!?

「お前のこと、お前のハダカとか想像する。お前の律儀そうな表情とか、この眼鏡を外して昼飯食ってるときの姿とか、難しい顔して書類に目を通してるときのこととか、あとお前が帰宅して、風呂入って、もしかして独りで抜いてるときのこととかさ? いやらしい顔とか表情見てみたいとかさ? そんなこと考えながら毎晩独りでベッドで抜くんだ。なあ粟津、俺、お前が入社した頃から気になってたんだぜ? だからもうかれこれ五年越しの片想いってかな?」
「なっ……!? 一之宮さん……?」
「マジだぜ? お前が研修生の頃からいいなって。だから今回移動で一緒になれてすげえうれしくってさ? お前はどう? 俺のこと前から知ってた? それともここ(企画室)で一緒になって初めて知った?」
「知っ……て……知ってましたよ僕もっ……あなたは有名でしたしっ……」
「そう? うれしいな。すげえうれしいよ、マジで。知ってくれてたってだけでも至極」
「一之宮さんっ……!」
 耳たぶを甘噛みするように触れられて、何かが背筋をゾクリと這い上がる感に帝斗は思わず身を竦めた。
「な、粟津さ。可哀想だと思わねえ? 俺、お前のこと想って毎晩独りで悶えるんだぜ? 独りで弄って独りで到達して……独りで片付けるなんてさ? 大の男が……だぜ?」
 嬌声混じりに甘く切なく囁く声は普段からは想像もつかない程淫らで、不本意にも背筋を這い上がる欲望を生み出してやまなかった。



02

 耳元をくすぐる低く吐息混じりの言葉が、そこはかとなくいやらしさをかもし出す。

「一之宮さんっ……!」
「ずっと好きだったんだ粟津、マジだぜ俺。この五年間お前のことしか目に入らなかった。毎日お前のフロア覗きに行ったり、昼飯の時間帯には社食探したり、俺けっこう努力したんだ。お前に一目だけでも会いてえって只それだけでさ? お前はどう? 俺のことどう思う? 野郎同士なのに好きだとかって気持ち悪ィとか思う?」
 ベラベラと、流暢という程に耳元で信じ難い言葉が続いた。
 相変わらずに時折甘く噛まれる耳たぶの感覚にどうにかなりそうだ。現実が信じられず、悪い夢でも見ているのかという気分になる。
 硬直し切った身体をもてあそぶかのように抱き締める腕の力も強くなって、仕舞いには呼吸さえも儘ならない程に拘束されるのに恐怖感までが湧き上がった。
「いち……之宮さんッ、すみません、腕……ッ」
「ん? 何? 聞こえねえ」
「腕の……力を緩めてくださいッ、息が……苦しい……!」
 必死の訴えとは裏腹に、帝斗の頬は熱く熟れていた。ぎゅっと瞑られた瞳の上で、長い睫毛がヒクヒクと震えてもいるようだ。
 紫月はそんな様子から帝斗も満更ではないのだろうということを見て取ったのか、恥ずかしがって丸めている肩を解放するように自分の方へと向き直させた。
 強い抱擁から一気に解放され待ち望んだ酸素が、急激に帝斗の呼吸を楽にする。

「あっ……ふ……」

 めいっぱいの思いで吸い込んだ息も束の間、酸素を取り込んでいる唇の開きを塞ぐように重ね合わされて、再びの驚愕に帝斗の身体は硬直してしまった。
「――好きなんだ粟津」
 無理矢理塞がれたにしてはそれ以上強引に進入してくるわけでもなく、紫月はただ唇と唇を浅く触れたり離したりを繰り返し、そんな行為に逆に欲望の煽られることに帝斗はひどく戸惑った。
 格別望みもしないというのに、モヤモヤとした何かが背筋を這い上がってくるようなのだ。
 そして繰り返される言葉は低く甘く、時折切なさまでをも含んだようなハスキーボイスで『好きなんだ』とだけ。
 抗えず、押し流されるように側にあった来客用のソファへと追い込まれて、足がもつれた拍子についには長い座椅子の上へと押し倒されてしまう。
 もう何がどうなっているのか解らなかった。
 長い睫毛を携えた眼鏡の奥の切れ長の瞳は開いたまま、瞬きさえ忘れて渇ききり、それを潤してやらんとばかりに紫月の指先がフレームに掛かった瞬間に、不本意ながらもゾクリと背筋が揺らされたような気がした。
「や……めてくださいッ……一之宮っ……さん!」
 身に着けているものを他人に剥がされるというのは、少なからず嫌な感覚だった。それが服であれば尚のことだが、紫月の手が剥ごうとしたのは眼鏡であった。こと不思議なことに服やネクタイを弄られるよりも圧迫感を感じ、もっと信じ難いことには背筋を這い上がるムズムズ感が身体中に伝わるような衝撃を受けた。
 性の衝動に他ならなかった。
 瞬間的に潜在能力を掻き回すかのように切り取られた画像が浮かんでは消える。
 眼鏡を外された後はどうなるのだろう? 先程重ね合わせるだけだった唇が激しく自分を攻め立て、放られた眼鏡が床へ落ちる音が耳を掠める頃には彼の長い指先が強引にネクタイを振り解こうとし、けれども思うようにはたやすく外れてくれない。
 逸った彼がタイを毟り取る頃には、抑えられない衝動が先走ってワイシャツのボタンが弾けて飛ぶ程に引き裂かれたりするのだろうか?
 身を捩って逃れようども、今度は髪を掴まれて顎を掴まれて再びあの熱い唇で抵抗の言葉ごと取り上げられてしまうのだろう、そんな妄想が映像つきで浮かんでは消えた。
 考えたくもないことだったが、少なからず自身の身体はそうされることをどこかで望んでもいるのか、それを証拠に股間のあたりが熱くなる感覚に帝斗はそれらを振り払うようにぎゅっと唇を噛み締め、頭の中は最早妄想なのか現実なのかも解らない程混乱に陥っていった。
 目の前には霞む程近くに迫った形のいい唇が半開きになっている。
 チラリと覗き見える濡れたものは、これから自分の唇に進入してくるだろう彼の舌先の紅さ。
 性懲りもなく同じ言葉が繰り返され、熱い吐息には最早逆らえず。
「好きだ、粟津。好きなんだよお前がっ……!」
「い……ちのみやさんッ……!」

 奪われる――!

 そう思って無意識に瞳を閉じた。
 僅かながらも彼の思いを受け入れる気持ちが存在したのか否かなど解らなかったが、身を固くしながらもとにかく覚悟を決めたその瞬間だった。
「その辺にしとけよ一之宮!」
 呆れたような声と共に誰かが室内へ入って来る感覚に、帝斗はハッとしたように我に返った。
「新入りをいたぶるのもいいが、度が過ぎるとセクハラだ何だって訴えられるご時世だぜ紫月?」
 余裕たっぷりにそう言い放ったのは紫月の直属の上司で、企画部長の氷川白夜であった。
 慌てて座椅子の上に身体を起こして見上げた先に、薄ら笑いを浮かべている氷川の顔が目に飛び込んできた。彼も又、紫月と並ぶ若手ホープでやり手の男だ。 いや、実のところ紫月の直属の上司なのだからそれ以上といったところか、若干30歳で部長の地位にまでなっているのだから、その実力は相当なものなのだろう。
 今しがたの驚愕の出来事にまだ意識が呆然となりながらも、帝斗はそんなどうでもいいようなことを考えながら、ぼうっと氷川を見つめていた。
「まったく、お前の強引さにゃ毎度迷惑をこうむってるんでな、その辺にしといてくれよ。後で上(上司)にバレて説教食らうのは俺なんだからな、ちっとは自粛しろっての! 粟津も粟津だ。嫌なら嫌だとハッキリ言わねえってーとマジで犯られちまうぜ?」
 ニヤリと不適な笑みを漏らし、ひん曲げた唇に煙草をくわえながらそんなことを言ってよこした。
「氷川部長っ……」
 とにかく救世主現れたり、ということだ。
 やっとのことでそう理解出来た頃には、今まで自分を組み敷いていたはずの紫月が頭を掻きながら、既に本人の机に腰掛けていた。
「はっ、何て間の悪ィったら! せっかく新しい相方とコミニュケーションを取ろうって盛り上がってたってーのによ。とんだ邪魔が入っちまった! 仕方ねえな。残念だがこの続きはいつか又ってコトでー。粟津、もう帰っていいぜ? ご苦労さんー!」
 大袈裟に溜息など漏らしながら、少々ふてくされたようにそんなことを言ってのけた一之宮紫月は、すっかりと通常の彼に戻っていた。

――神隠しにでも遭ったような気分だった。

 未だぼうっとした足取りで帰路を辿れど、踏みしめるアスファルトの感覚もまるで雲の上か何かのようだ。現実感がまるで無い。
 先程までのことが何だったのだろうかと記憶を鮮明にさかのぼることも出来得ずに、帝斗はフワフワと自室の鍵を開けたのだった。


03

 次の日からも当然の如く社で一之宮紫月と顔を合わせたが、不可思議なことに彼は平静そのものであった。まるであの残業後の出来事が嘘のように通常通りに仕事をこなしている。帝斗からするならばそんな紫月が別人のようにも思えた。
 本来ならばあの夜の紫月の方が別人のようだったと言うべきなのだろうが、不思議なことに帝斗にとっては今現在、此処で熱心そうに仕事をこなしている彼の方が別人に思えたのだった。
 紫月は持ち前のキレの鋭さで淡々と仕事をこなしている。同じ企画室という狭い空間の中で顔を合わせど何の物怖じする気配も無く、平気な態度で接してくるのだ。あの夜のことは自分だけの妄想だったのではないかと錯覚する程だ。
 帝斗はそんな紫月の態度にも面食らう思いでいたが、日を追う毎にえもいわれぬ図太さのようなものを感じ、紫月に対する不快感とも何ともいえない奇妙な気持ちが込み上げるのを感じていた。

 あんなことをしておいて、一体どういうつもりなのだろう?

 破廉恥な言葉で罵倒され、まるで女の代わりのように扱われ、生真面目な性質をもてあそばれたようでもあり、そんな思いが錯誤する内に次第に憤りのようなモヤモヤ感が胸を締め付けるようになっていった。
 バカにされたのだろうか?
 はたまた軽くあしらわれ彼の退屈しのぎに遊ばれでもしたのだろうか?
 考えれば考える程、モヤモヤはつのっていった。
 机の上に散らばった書類の山にも気が入らない、パソコンのデータ処理も進まない。几帳面だったデスクまわりは雑然となっていて仕事どころではなかった。
 そんな疲れた神経を逆撫でるかのように、
「おっ、粟津! この書類すぐにコピーしてくれないか? 忙しいところ悪いな?」
 まるで飄々(ひょうひょう)と当たり前のようにそんな頼みごとを投げ掛けて来るのは、他ならない紫月本人だ。聞き慣れたハスキーボイスと、ポンと肩を撫でた指先の感覚に思わずビクリと身体が硬直した。
 自らの手には渡されたばかりの書類が一式。せわしなく書類を他人(ヒト)の手中に押し付けて行った存在を追い掛ける視線の先には、忙しそうに打ち合わせらしきものをしている一之宮紫月の姿が映り込み――
 何やら意見を闘わせているらしい。相手は部長の氷川白夜、先日のあの夜に紫月に襲われているところに助け船を出してくれた男だ。
 企画室の精鋭といわれるその二人が熱心に討論している光景など、格別珍しいものでもなかったのだが、このときの帝斗にはひどく印象的に映った。
 一之宮紫月よりも若干上背のある氷川白夜が熱弁を奮っているらしい。割合遠目なので、会話の内容までは鮮明に聞き取れなかった。
 ゼスチャーで、紫月が首を横に振っては不機嫌な顔をしている。氷川はそれをなだめるように懸命に自分の意見を述べているようだ。数分後、和解が成立したのか二人から同時に笑みが漏れたのが分かった。
 ふと氷川の指が紫月の頬を撫で――
 その瞬間、今まで漠然と二人のやり取りを瞳だけが追い掛けていた帝斗の意識が、衝撃を受けたかのようにハッと我に返った。
 視線は氷川と紫月に焼き付けられて、外そうとすれど外れない。
 頬を撫でていた手が髪に移動し、掻き上げる。まるで『いい子いい子』とでもいうように髪を撫でている。
 そんな光景に次第に心臓が早くなっていった。と同時に胸が締め付けられたようにウズウズと変な気分に陥った。
 チクチクと心臓の中心が痛むような気もする。
 紫月の髪を撫でる氷川の手が憎らしくも思えてきて、早く側から離れて欲しいという奇妙な衝動に駆られた。



◇    ◇    ◇



 帝斗が自身の心の変化に気づいたのはその日、帰宅をした後だ。
 昼間の氷川と紫月のやりとりの様子が脳裏に焼きついて離れなくなったのだ。
 冷静になってよくよく考えてみれば何の変哲もない普通の光景なのに、何故かしつこく記憶に残る。チラチラと頭をよぎるのは紫月の髪を撫でる氷川の指先、そしてそれを思い出す度に胸が苦しくもなった。
 嫌な感覚だった。
 何が嫌なのかよく分からない、けれどもとにかく嫌なのだ。
 氷川の手が嫌だ。
 親しそうな二人の様子も見たくない。
 そんなことを考えれば考える程イライラと、それでいて無性に心配になったりもする。
 何がそんなに心配なのか?
 頭を冷やすようにシャワー室へと駆け込んで、熱い湯を全身に浴びれば、先日の残業後のことがふと脳裏をよぎった。

『可哀想だと思わないか粟津? お前を想って毎晩悶えるんだぜ?』

 まるで本当にすぐ側で囁かれたかのように耳元を聞き慣れたハスキーボイスが掠めては、内臓を引き出されるような感覚に駆られた。

『好きなんだ粟津。ずっと好きだったんだよお前のこと』

 耳鳴りがする程に押し寄せるその言葉が更に心拍数を上げていく。
 熱いシャワーに打たれながらも心臓の中心が急激に冷たくなっていくようで、帝斗は思わず両腕で自身の肩を抱き竦めた。

――一之宮さん!

 やわらかなヘーゼル色の髪、
 北欧の人形のような顔立ち、
 真っ直ぐに見つめる褐色の瞳、
 切なげに揺れる指先、
 そして極めつけは重なり合わされた唇の感覚までもが鮮明に蘇るようで――
 次々と浮かんでくる紫月の幻影は酷な程で、思い出せば思い出す程帝斗の心はぎゅっと締め付けられるように苦しくなっていった。
 気付けば目下、湯気の中に存在を増した自身の身体の中心、つまりは分身の男根がピクリと頭をもたげていることさえ、帝斗にとっては激しく驚愕だった。


04

「くっ……あ……っ!」
 確かめるように恐る恐る手を伸ばせば、硬く勃ちあがったその感覚に驚いて、指先も空で止まった。



 お前のこと、お前のハダカとか想像する……。
 お前の律儀そうな表情とか、この眼鏡を外して昼飯食ってるときの姿とか、
 難しい顔して書類に目を通してるときのこととか、
 あとお前が帰宅して、風呂入って、もしかして独りで抜いてるときのこととかさ?
 いやらしい顔とか表情見てみたいとかさ?
 そんなこと考えながら毎晩独りでベッドで抜くんだ――

 するんだろうオナニー?
 聞きたいな。粟津がどんなふうにするのか、お前のオナニーのこと聞かせてよ

 言いづらいなら俺が先に教えてやるよ
 好きだ粟津、好きなんだ――



 浴室にこだまするその声から逃れるように、シャワーを止め、寝室へと逃げ込んだ。けれどもその先に自身のベッドが瞳に映れば、皮肉なことに妄想は輪をかけるように大きさを増してしまった。
 あの時、押し倒されたソファとベッドの映像がリンクするようだ。
 白いシーツの上であのときの続きがもしも行われたとしたら。
 そうだ。あの時氷川がとめに入らなければ、自分は紫月とどうなっていたのだろう?
 あの極地に咄嗟に脳裏をよぎった妄想までもが鮮明に蘇る。
 眼鏡を外されて、ネクタイを解かれて、ワイシャツのボタンが飛ぶ程に引き裂かれ、その後は――!

「ああ……っ……い、ちのみ……やさ……んっ……!」

 抑え切れなくなった吐息混じりの嬌声に気づいて、そんな声をあげてしまった自分にひどく驚きもした。
 だがもっと信じ難いことには、無意識に分身を握り込んだ掌が激しく上下に揺れていたことだった。勃起した自身のペニスを必死で握っては、背筋を這い上がる快感に思わず肩を丸めていた。
「あ……っ、ああっ……ダメ……だ、こんなの……」
 こんなことしちゃいけない。
 こんなのは自分ではない。
 誰かを想って性処理をするだなんて今までに無かった。
 イケナイことだ……!
 それまで比較的生真面目に生きてきた帝斗にとって、そんな変化が信じられなかった。
 自分だっていい歳をした通常の男だ、マスターベーションくらいしたことはあったし、格別に悪いことだと意識したことなどない。むしろ当然の欲望だと認識していた。食欲とか睡眠とかといった人間の生きる上での普通の欲求、性欲とて単にその内のひとつで、特別なものではなかったはずだ。
 だが帝斗にとって驚愕だったのは、特定の誰かを頭に描いてそんな行為を行ってしまったということだった。
 それが異性ならばこれ程までに罪悪感や驚愕を伴うなどなかったかも知れないが、今自分が想像しているのは他ならぬ同性、しかも同じ会社に勤める身近な人物だなんて――
「あの人があんなことを言うからだっ……! 一之宮さんがあの日、僕にあんなことを言ったりしたりしなければ、僕はこんなことをせずに済んだのにっ……! あなたの……せいだ……あなたの……一之宮…さんッ……!」
 ベッドの上で身悶えながら帝斗は果てた。ガクガクと身体中が叫びをあげるように震えているのとは裏腹に、全身を伝う快感に頭の芯がしびれるような気持ちのよさが帝斗の誠実心を揺さぶって、それらは次第に罪悪感となって彼を押し包んだのだった。



◇    ◇    ◇


 それからは日を追う毎に欲望も又、大きさを増していった。
 出社して紫月の姿を瞳に映せばムズがゆい感覚が湧き上がり、ちょっとした仕草にも視神経を刺激されるようで、それだけで帝斗は悶えるようになってしまっていった。
 椅子に腰掛ける仕草、ペンを持つ指先、きちんと正され着こなされたスーツ、パソコンのキーを叩く音までもが心臓を鷲掴みにし、掻き乱す。
 仕事に没頭しながらうっとうしそうにやわらかな髪をかきあげたりするのを目の当たりにでもしたものならば、瞬時に頬が染まり、みっともない程に焦がれる気持ちも恨めしい程だった。
 それに反してあの残業の日以来、まるで幻だったとでもいうように紫月はおかしな態度のひとつも見せやしなかった。普通に仕事の会話をして普通に接してくるだけなのだ。その普通という態度に苛立ちさえ感じるくらいだ。
 あんなことをしたのに、何も無かったかのような平然振りが憎らしくもあり、或いはあれは実は妄想であったのではないかと錯覚する程に、月日と共に記憶が曖昧になっていくのが恐怖にも感じられるまでになっていた。
 どうして紫月はあれ以来何もしないのだろう?
 あのとき言ったはずだ。いつか又この続きをと、確かにそう言ったはず。今になってみれば、つくづく止めに入った氷川が憎らしくも思えるようだった。
 あのときあのまま二人だけのときを過ごせたならばこんな苦しい想いはしないで済んだのではないか?
 いっそ奪って欲しかった。
 強引でもいい、驚愕に硬直した身体を無理矢理押し広げらても構わなかった、いや、むしろそうして欲しかったのではないか?
 甘噛みされた耳たぶの感覚が、くすぐったいくらいに蘇る。
 熱く逸った吐息と共にいやらしい言葉をもう一度浴びせてもらえるならばどんなにか――!
 そんな妄想に翻弄され仕事は手につかず上の空で、帝斗はぼんやりとした日々を過ごしていた。心に大きな穴が開いてしまったようで、悲しくもないのに泣きたい衝動に駆られることもあった。
 そして帰宅後の自室ですることは決まっていた。
 たまらない想いを慰めるように必ず行ってしまう自慰行為、それをするときに想い浮かべるのは、あの残業後に自身を抱き締めた紫月のことのみだ。

 気が変になりそうだった。
 誰かを想い、焦がれ、不安になり、
 この歯がゆさは何なのだろう?
 肯定などしたくはないが、自分は一之宮紫月に恋をしてしまったとでもいうのだろうか?
 初めの頃は事故呵責の念に囚われていなくもなかったが、今ではもうどうでもいいことだ。
 心の中は紫月でいっぱい、
 頭の中は紫月でいっぱい、
 彼の放ったいやらしい言葉の残像と共に妄想が膨れ上がり、それらを解放する帰宅後のひとときが至福でもあり地獄でもあった。

 好きだ
 好きだ
 大好きだ、一之宮さんっ――!

 果てる瞬間に涙が込み上げる。
 独りで味わう遠慮のいらぬ快楽の感覚とは裏腹に、ゾッとする程の孤独感が押し寄せるのに耐え切れず涙を流すまでになっている。


『な、粟津さ。可哀想だと思わねえ? 俺、お前のこと想って毎晩独りで悶えるんだぜ? 独りで弄って独りで到達して、独りで片付けるなんてさ? 大の男が……だぜ?』


 可哀想だと思わねえ?
 なあ粟津、
 好きだ、お前のことが、
 好きだ、
 好きだ、
 好きなんだ粟津――っ!


 追い掛けてくるハスキーボイス、
 切なげに揺れていた瞳、
 本当にあなたは僕を想って悶えるのだろうか?
 僕のいやらしい姿を想像して、あなたのモノを弄ったりしてくれているのだろうか?
 ならばどうしてあの日以来あなたは僕に触れようとさえしない?
 どうしてあんなにも平然としていられるんだ?


 そんな疑問が思い浮かべば、邪魔な人物の放った言葉も同時に記憶の糸を解していった。


05

 『まったく、お前の強引さにゃ毎度迷惑をこうむってるんでな、その辺にしといてくれよ。後で上(上司)にバレて説教食らうのは俺なんだからな、ちっとは自粛しろっての! 粟津も粟津だ。嫌なら嫌だとハッキリ言わねえってーとマジで犯られちまうぜ?』

 そう、あの残業の日に自分たちの邪魔をした氷川の言葉だ。
 今の帝斗の意識の中では、あのときの氷川の存在が邪魔であったと認識されるまでになってしまっていた。
 絡み合い、奪い合うはずだったひとときを盗り上げて止めに入った氷川の言葉。皮肉たっぷりに苦笑いなんかもしていたっけ。ひとつひとつが切り取られた映像のように蘇る度に不安に翻弄される。
 やはり氷川と紫月は、やり手のパートナーという以上の特別な関係にあるのだろうか、という不安だ。二人は自分などが割って入れないような深い関係にあるのではないか。知らないのは自分だけではないか。
 あの日氷川が言ったように、紫月の異様な行動は只の彼の悪癖の一種なのだろうか?
 ほんのひとときからかって遊んだだけ?
 彼にとっては単なる気紛れの冗談だったとでもいうのか?
 だから彼は平然としていられるのだろうか?
 あんなこと、無かったことのように詫びのひとつも口にしない。彼の本当の恋人はあの氷川白夜で、自分など眼中にもなくって今頃は二人で楽しく食事でもしていて――
 有ること無いこと、妄想だけが過激にエスカレートしては、帝斗の心を苛んだ。
 それまでの生真面目だった人生を変えてしまう程、高い障害の壁となって押し寄せたのである。
 そんな理由でせっかくの昇格的配置換えにも心は重く、明るい四月の午後の日差しまでもが、帝斗の頬にだけは斜の暗い影を落とし込んでいるようでもあった。

 単なる五月病とでも思えばいい――

 世間がゴールデンウィークの賑わいで浮き足立つ頃になって、ふとそんな言葉を思い出した帝斗は、ここ最近で急激に変わってしまった自分をなだめるようにそう言い聞かせ、納得しようとしていた。



◇    ◇    ◇



 帝斗と紫月の二人にとって運命ともいえる二度目の残業が巡り合わせたのは、そんな折だった。
 忙しい残業の中、一人、二人と社員が持ち分をこなして帰宅して行き、気づけば企画室の中に二人だけになっていて、帝斗は不本意にも心臓が高鳴り出していること自体にショックを受けた。
 自分は何を期待しているというのだろう。
 この高揚感はいったい何だ。
 二日前からの出張の為、今日は氷川も不在だ。
 こじんまりとした企画室の空間に、二人だけと思うと嫌がおうでも先日の記憶が鮮明に蘇った。と同時に速さを増す心拍数が、何かを期待しているということを肯定付けるようにも思えて、そんな自分に、帝斗はかなりの後ろめたさを感じてもいた。
 けれどもその何倍もの期待感が身体中を火照らせていくのも抗えない真実で、この上ない矛盾に生真面目な性質は激しく揺れ、複雑な心意を素直に表情に映し出す。
 反して紫月の方はといえば、机周りなどを片付けながら先日のことなど微塵も思い出している様子はないといったように、平然と背伸びなどをしていた。
 そんな様子を横目に映せば、帝斗の中には憎らしいくらいの感情が湧き上がる。まるで自分だけが振り回されて、疲れ果てて、期待して、心底もてあそばれたように思えてきて、帝斗は次第にイライラとした感情が湧いてくるのを感じていた。



◇    ◇    ◇



 極地に追いやられた行き場のない感情は凶暴だ。ときとして信じ難い行動を促進させる。
 目の前で飄々(ひょうひょう)としている、歯がゆいくらいの平静さを突き崩してやりたくもなる。
 行き場のない苛立ちをぶちまけるように、帝斗が自分でも信じられないような言葉を口にしたのはその直後のことだった。

 肩を並べて休憩用のコーヒーメーカーの前に立ち、互いを労う儀礼的な言葉を交し合ったそのとき、
「お疲れさん、今日は結構手こづったな? 疲れただろう?」
 そんな問い掛けにも、思わず罵倒するような苦笑いが自然に漏れ出す。自分ばかりが期待しているだろうことを毛嫌い、強がるように皮肉混じりに帝斗は言った。
「今日は何もしないんですか?」
 その言葉に紫月は一瞬意外そうに帝斗の方を振り向いた。
 その瞬間的な表情に、帝斗はほんの少し優位に立てた気がして、ますます気分が高揚すると共に妙な自信までもが湧き上がるようで、強気な態度でもう少し煽ってみたくなるのを感じていた。
「この間の残業のときのこと、忘れたわけじゃないでしょう? あなたが破廉恥なことを言って僕をからかったこと……。今日もあんな嫌がらせをするのかなって?」
 その問い掛けに、少し驚いたような紫月の表情に心が躍った。からかわれた表情の変化を見ているのは意外と心地よいものだ、そんなふうにも思えて帝斗はより調子づいていったのだ。
 この人でもこんな顔をするんだ?
 今まで自分のことを生真面目だと思っていたのだろうが、ちょっと強気な態度に出られて困惑しているのか?
 自分の問い掛けに即刻返事の返せないでいる紫月の様子に、何だか勝ち誇ったような気分にもなり、先日から散々にもてあそばれた苦悩の仕返しでもするかのように、帝斗は目の前の存在により大胆な発言を放り投げた。
「ね、一之宮さん。この前のこと覚えていますよね? あなた、僕に訊いてきたでしょう? どうやって性処理するんだとか何とか。あのときはちょっとびっくりしてすごく失礼な方だとも思ったけれど……。だから今日はそのお返しってわけでもないんですけれどね? あなたのことも聞かせて欲しいな? あなたの……」
「オナニーのこととか?」
「えっ……!?」
 蔑むように余裕たっぷりにコーヒーメーカーが置かれた台に寄り掛かりながらそんなことを言っていた帝斗だったが、突然の意外な返答に瞬時に身体が硬直させられてしまった。
 びっくりして隣りを振り返れば、これ又意外な程に真面目な表情で自分を食い入るように見つめている褐色の瞳が飛び込んできて、帝斗は一瞬ひるんだように硬直を解き放つことが出来ないでいた。
 代わってそれまでの立場を引っくり返すようなハスキーボイスが低く呟く。
「警戒してんのか粟津?」
「は……?」
「似合わない強がりなんか言って、今日も又俺に何かされるんじゃないかって警戒して牽制してるわけ? それとも……?」
 表情ひとつ変えずにジリジリと互いの距離を詰められて、帝斗は思わず後退りし、額には瞬時に冷や汗のようなものが浮かぶのを感じていた。
 無表情が怖いくらいだ。
 自然と身体中にガクガクと震えが伝わるのが分かる。
 ふと伸ばされた指先に軽く頬を撫でられてビクリと肩が震えた。
「牽制してる? それとも……」


――期待してる?


 低い声で囁かれた短いその言葉に、全身をくすぐられるような快感が帝斗を金縛りにした。


06

「どっち? 警戒してるの? それとも期待してんのか? なあ粟津」
 頬に触れた指先がゆるゆると上下し撫で上げる。
 はっきりとは視界に入らないくらいまで顔を近づけられて、不本意だが背筋に欲望のゾワゾワ感が這い上がるのを否定出来なかった。
「だっ、誰が期待だなんてっ……僕は別にっ……」
 焦ってそう返せど帝斗の頬は熟れ、信憑性のかけらもない。逆に否定の言葉を口にすればするだけ『期待していました』と肯定づけてしまうようで、そんな理不尽さをも隠すようにぎゅっと瞳を瞑った。
 それでも食い入るように見つめられているのがはっきりと分った。瞳を閉じて視界を遮っても、自分を見つめてくる紫月の褐色の瞳が熱く逸っているような気がしてならないのだ。

 どうしたらいい?
 真意はこのまま奪われたって構わない。
 でも自分から待ってましたなんて云うのは絶対に嫌だ。
 弱みなど見せたくは無い。
 素直になるなんて出来ない。
 ああだけど――!

 余計なプライドが頭の中を駆け巡り、けれどもすぐ側では吐息がかかる程顔を近づけられて頬を撫でられて、もうどうにかなってしまいそうだった。
 くだらないプライドなんかどうでもいいじゃないか?
 素直に欲しかったと云ってしまえ。
 肯定と否定が錯誤し、帝斗を狂わせていく。
「粟津? どうした? 何か言えよ。今日は残業になるって知ったときから俺とこうなることを期待してたのか、それとも……それとも本当に嫌なんだったらハッキリそう云ってくれ」
「――え?」
「でないと俺は都合のいいようにとるぜ? 今のお前の頬、こんなに真っ赤になってる……。肩が震えて硬直してて、動けないくらい動揺してる。本当はずっとこうなりたかったって言ってるように思える。俺にはそんなふうに見えるぜ? どうなの粟津? このまま何も云わないなら、俺、本当に……」
 軽く唇が重なり合い、すぐに離された。もう立っていることも出来ない程だ。膝に力が入らなくて、返事をしたくても声など出なくて、脳みそはトロトロに溶けてしまっているんじゃないかというくらいだ。
 紫月の言葉は初めての残業の日と同じように強引で、ズケズケと真髄を突いてくる。
 どうしてこの人はこうなのだろう?
 いつも憎らしい程のマイペースで都合のいいように僕を振り回す。
 いやらしい言葉で翻弄し、こんなにも掻き乱すくせに、明日にはきっと又前回のように何事もなかったように平静さを装うつもりなのだろう?
 又あんな苦しい日が再開するのだとしたらもう耐えられないよ。
 帝斗の頭の中は依然、肯定と否定がぐちゃぐちゃに入り乱れて収集がつかなくなっていた。
「粟津、黙ってないで教えて? こんなことされるの嫌か?」
「……っ嫌とか、嫌じゃないとか……そんなこと……僕は……」
「分からない? 動揺してる?」
「し……てますよ……すごく動揺してる……あなた何だってこんなこと……するのか……分からない」
「お前のことが好きだから。お前が欲しくてたまらないから。前にもそう言ったろ? お前のことずっと好きだったって、俺告白したろ?」
「あ……んなの……冗談か……と思って……僕は……」
 声をうわずらせながら、途切れ途切れにやっとの思いで返事を返したが、もう喉がカラカラだった。頬を撫でられているだけで心臓は飛び出そうになっているし、吐息がかかるこの距離がもう耐えられない。すぐにも抱きついてしまいたくて、そんな衝動を抑えるだけで必死だった。
 黙って震えているだけで、一向に返事の出来ないでいる帝斗の様子に、紫月の方も複雑な心境だったといえばそのようだった。生真面目な性質だから、たとえ嫌でもはっきりとそうは言えないのだろう、そんなふうにとれる気もしていた。
 はっきりとしない帝斗の態度に、紫月は半ば諦めとも憤りともつかないような感じでクッと息を呑むと、
「嫌ならもうしない。お前が俺のこと何とも思ってないなら、せめてこれ以上嫌われたくねえよ。仕事で毎日顔合わせてもよそよそしいなんてのは辛えから……少しは脈ありかもなんて思ったのは俺の勘違いのようだな」
 苦笑いと共に、ポツリとそう呟いた。
 僅かに寂しげな声が心臓を鷲づかみにする。
 ふと、触れていた指先が頬を撫でるのをやめたと思ったら、紫月は軽い溜息と共に帝斗から離れ、無言のままコーヒーメーカーを手に取った。
「安心しろ、もうヘンなことしねえから。とりあえずお疲れさんってコトでこいつ(コーヒー)でもやろうぜ?」
 コポコポとコーヒーを注ぐ音と独特の苦い香りが、今の自分そのもののように思えて、帝斗は瞬時、泣きたいような感覚に駆られた。

――どうして?

 この前はあんなにも強引に、押しの太く他人(ヒト)のことを振り回したというのに、こうもあっさりと引いてしまえるものなのか?
 変なところで大人ぶるなんて卑怯じゃないか?
 もっともっと強引に押して押して、押しまくってくれると思っていたのに。
 そんな思いが浮かべば、自身の根底にあった都合のよい甘えに気がついたような感じがして、帝斗はハッと我に返った。
 そうだ、自分は期待していたのだ。
 自分からは何の意思表示などしなくても、この人の強引さのせいにして流されるようにこの恋にのめり込んでしまえばいい。
 同性を想って自慰をしたことも、みんなこの人のせいにしてしまえば自己呵責の念から解放される。僕は何も悪いことなどしていない。悪いのは全部この人、目の前の強引な男が僕の中に眠っていた欲望を引き摺り出してもて遊んだだけなのだから――!
 そう、今までの悶々とした思いをすべて紫月のせいにして、楽になりたかっただけなのだ。
 そう気づいてしまえば今度は別の意味での、つまりはすべてを誰かのせいにして現実や本心から逃げている汚い自分の姿に嫌悪感が込み上げた。
 隣りではそんな情けない自分の為にコーヒーを注いでくれる紫月の姿が、瞳に痛く飛び込んで来て……。
「ほれ、粟津。仕切りなおしてお疲れさん会しようぜ?」
 軽くこぼれる笑みが、ズキンと心に突き刺さる。
 鼻をくすぐる苦い香りは、今の自分の心そのものだ。
 このまま、その香りの如く延々と苦い思いに翻弄されるなんて耐えられない。コーヒーを差し出す彼が、ものすごく遠い存在に感じられて、胃が竦むように痛みもした。
 こんなに側にいるのに、
 すぐ隣りに立っているのに、
 恐ろしいくらいの距離と隔たりを感じるようだ。
 くだらないプライドなんかの為に、この人を失くしてしまうのだろうか?
 確かに珍しいきっかけだったとはいえ、たとえ短期間にもこんなにも心を翻弄されたこの人との距離を縮めるのも引き離すのも自分次第だというのに。

 腹の中が掻き回され足元が掬われるような孤独感を感じて、帝斗はたまらずに本心を口にした。


07

「ち……がうんだ一之宮さんっ……僕はっ、あなたが嫌いなんかじゃない……嫌だなんて思ってないっ……」
「粟津……?」
「期待して……今日の残業、あなたと又どうにかなるんじゃないかって思ったらどうしようもなくなって……本当は待ってたんです……僕は……あなたが又何かしてくれるかも知れないって」
 子供が親に許しを請うように必死な思いでそう吐き出したときには、無意識に紫月の腰にすがりつくように抱きついていた。床に膝をついて、懸命にしがみついていた。
 帝斗は更に熱く頬を紅潮させながら、思いのたけを差し出すように言った。
「ずっと待ってたんだ……。あの初めての日以来、あなたが何かしてくれるのを……。でもあなたは何かどころかまるで平気な顔をしてて……あの日のことなんか無かったことみたいに普通で……僕だけが一人で舞い上がって、僕だけがのめり込んでいるみたいで怖かった」
「粟津……?」
「教えてあげます一之宮さん。あなた、前に訊きましたよね? マスターベーションするのかって……。どうやってするのかって訊きましたよね? だから教えてあげます……。僕はあなたのことを想って……あなたの声とか思い出して、あなたが言ったこととか、あなたが本当に僕のことを想像しながら自分のものを弄ってくれたりしてるのかとか、そんなことだけを考えながら風呂でもベッドでも……毎日しました。毎日あなたを想って何度も何度も……休みの日なんか本当に朝から晩まで、何度したかなんて分からないくらいっ!」
「……粟津、お前」
「なのにあなたときたらアレ以来全く平然としてるんだ……。あんなこと無かったことみたいに普通すぎて僕はどんなに辛かったか……。もしかして……あなたは氷川部長と関係があるのかなんて、そんなことまで想像した」
「氷川? 何であいつのことなんか?」
「だって仲がいいからっ……! 僕はただからかわれただけで、それなのに本気にして一人で悶えてるんだとしたら恥ずかしくって……。でも止められなくて……あなたを想うとどうしようもなくなって毎日マスターベーションをしてしまうんだ。こんなのは僕じゃない、僕はもっと真面目だったはずだ、もっともっと普通で、もっと真面目で、あなたのせいだ……。あなたがヘンなことするから僕は……」
 取り留めをなくしたように乱れる帝斗の様子に、たまらないといったように瞳を細めると、紫月は自身の腰元にしがみつきながら揺れている髪をくしゃっと撫で、そのまま頭ごとかかえるように抱き締めた。
 ひざまずいていた帝斗の顔が、ちょうど紫月の股間の位置にあったのは偶然だ。
「粟津、じゃあこんなことも想像した?」
 顎先を軽く持ち上げられ、きゅっと押し付けられた先に、スラックスの中でうごめく紫月の分身を感じて、帝斗は思わず赤面してしまった。
「こんなことも想像した? ココ、ほら……俺のコイツのこととか」
 しっかりと逃げられないように股間に押し当てられた頬は、熟れて崩れて落ちそうなくらいだ。後頭部をやわらかに撫でられ、ときおり掻き上げられる髪の感覚だけでもどうにかなりそうなくらいなのに、目の前にはスラックス越しに徐々に質感の変わっていく紫月のモノが押し当てられていて、朦朧とした意識の中で思うことはそれを覆っているスラックスが邪魔だということのみだ。
 ちょっとでも気を許せば、自分から彼のズボンのベルトに手を掛けてそれを解いてしまいそうなくらい混乱し、欲望は絶頂へと達していた。
 そんな経験は無論のこと無かったが、ともすれば目の前のスラックスを剥いで彼の生々しいものを自分の口で求めたくもなる。そんな衝動に駆られていた。
 それらを煽るように、紫月の声が甘く頭上から降りかかってきて、相変わらずに悪気のあるのかないのか、素直過ぎる故にいやらしく響く彼の言葉は、背筋の欲望を増長するに余りあった。
「オナニーしながら俺のことを想ってくれたんだろ? すげえうれしいよ。どんな想像したの? 教えて欲しいな、お前がオナニーしながら考えてたこと詳しく言って?」
「やだ……そんな……そのオ、オナニーって……言い方やめて……ください……」
「なんで? だってオナニーはオナニーだろ? どっかヘン?」
「っ……だって恥ずかしい……そんな言い方……もっと他に言い方が……」
「他の言い方? マスターベーションとか?」
「そ……の方がまだいい……です」
「そう、他には何ていうかな? 千擦り、とか?」
「せっ……千って……」
 瞬時に顔から火を噴きそうになった。
 どうしてこの人はこうも簡単に恥ずかしい言葉を次々と口にするのだろう?
 ロマンのかけらもありゃしない。相手が女性ならば、少なからずそのズケズケとした感じに嫌気を催すことだってあるだろうに。
 半分呆れたような思いが浮かばなくもなかったが、今の帝斗にとっては紫月の放つズバリそのもののいやらしい物言いも又、自身の欲望を煽るには心地よくて、逆にもっともっと極致までその世界観に浸らせて欲しいと心底思う。
 もっともっと大胆な程の言葉で辱めて欲しい。そんな欲求までもが込み上げて、気づけば妄想そのままにベルトに手を掛け解いている自身の姿があった。
「粟津?」
 むさぼるようにスラックスにかじりついているさまに、紫月の方は少々驚きもしたが、慣れないのを懸命にどうにかしようとしている姿が愛しくもあり、分身を素直に反応させていった。
「フェラチオしてくれるの?」
「ぁっ……一之宮さん、又そんな言い方っ……」
「言い方って”フェラチオ”って言葉がか? 何で? どっかヘンかな?」
「だっ……ヘンというか……いやらしい……感じがします。すごく恥ずかしい……から……」
「恥ずかしいこと言うの嫌か?」
「あなたが言うと……恥ずかしく感じるだけかも……でも、やっぱり僕には……」
「刺激が強いか? でもその方が感じるだろ? 思いっきりいやらしいこと言いながら求め合うと何倍にもお前を感じられる気がするから」
「っもう……いいです……もう分かりましたから……いやらしくても何でもいい、だから早く……」
「俺のを舐めたい? それとも俺も舐めてやろうかお前の――」
「ペニスッ……をですか?」
 恥ずかしそうに、だが思い切って強がってそんなことを言った帝斗の頬はこの上なく紅潮してもいたが、それ以上にもう我慢ができないといったようにとろけた瞳が紫月を見上げていた。
「服を……脱いでください……あなたのペニスを……」
「咥えたい?」
「……くっ……あ……咥えたい……咥えさせて……一之宮さん……ッ」
 ベルトが外れ、スラックスのシークレットファスナーが下ろされ、それは紫月が促したものか或いは自分が引き摺り下ろしたのかなど最早わからず仕舞いだ。興奮して、息も絶え絶えに濃灰色の下着をなぞれば、そのいやらしさにゾクゾクと背筋が震えた。
 木綿の質感がたまらなく視神経を煽る。その奥でみるみると存在を増し硬く勃ちあがってゆく彼のモノ、窮屈そうに中で硬くなっているソレに早く触れたくて、気が狂いそうになった。
 震える指先でペロリと木綿を引き摺り下ろして、逸った彼のモノを下着から解放して、その弾みで勢いよく頬を叩かれたのが痛いくらいでもあり、帝斗は間髪入れずにソレにしゃぶりついた。
 根元から先端へと舌を這わせ狂ったようにむしゃぶりつき舐め上げれば、先端のくびれた形が舌先に引っ掛かって目眩がしそうだ。
「っ、ぁっ……粟津ッ、たまんねえ」
 押し殺すようなハスキーボイスは嬌声に他ならず、それと同時に言葉の通り本当にたまらないといったように髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す紫月の指先をも捕り上げると、迷わずにそれにもむしゃぶりついた。
 形の綺麗な爪から水かきの部分まですっぽりと口に含んで上下して、唾液でびしょびしょに濡らしていった。


08

「あ……わづッ! お前いつ、こんなこと覚えた? こ……んな」
 性器のみならず、指先やワイシャツをめくり上げた腹やヘソまで舐め回されて、紫月はたまらずに腰をかがめた。帝斗の舌先の動きは欲望に駆られていやらしく、どこもかしこもねっとりと絡みつくように激しく愛撫の施される度に、ゾクゾクと背筋が鳴るようだ。瞬時に湧いた嫉妬の感情が紫月の欲望を激しく煽った。
「いつ……こんなっ、お前初めてじゃねえだろっ!?」
 絶頂近くまで追い込まれる毎に、どんどん嫉妬心が燃え上がり、理性が抑えきれなくなってゆく。
 気持ちよく快楽の果てに辿り着きたいのと、今、自分の男根を夢中で愛撫している彼を激しく問いただしたいのとで、紫月の心はグラグラに揺れていた。
「あっ、クソっ、畜生ッ、こんなのッ……」
 問い掛けも耳に入らないといった感じで、夢中で分身にかじりついている帝斗の舌先の動きに抗えず、ついに我慢出来ずに絶頂を迎えそうになって、紫月は突如帝斗を突き放すように両肩を掴んだ。
 その瞬間、勢いよく飛び散った白濁の液が、帝斗の顔面に向かって射精された。
 まるで癪に障ったかのように頭を押さえつけ、最後の一滴までをまんべんなく顔射しながら紫月はハァハァと肩で荒く息をしていた。
「……っ……」
 精液まみれになった頬にまだ冷めやらない男根の先端をこすり付けられ撫でられて、帝斗は小さな嬌声を漏らした。
 飛んでくる液を避けようと、閉じたままの瞳をうっすらと開けてとろけるように見上げてくる表情は淫らで、そんな様子が紫月の嫉妬心をますます燃え上がらせていった。
「畜生っ、粟津、てめえ……初めてじゃねえだろ!? こんなっ、野郎同士なんてうろたえたようなフリしてやがったくせに本当はっ……! 本当は前にも男がいたんじゃねーのか!? だから俺とのことも迷って……何とか言えよッ!」
 いきなり罵倒し荒ぶる紫月に、帝斗の方は面食らってしまった。
 今まで夢中になり過ぎていて分からなかったが、気づけば自身の頬にべっとりと濡れた液の流れる感覚や、それらがワイシャツの襟までをも湿らせていることにちょっとした驚きのようなものを感じ、けれどもすぐにソレの正体が何であるかが解ると、恥ずかしそうにうつむいて頬を染めた。
 当然のことながら、そんな態度が紫月の心をより凶暴にしたのは言うまでもない。
 ぼんやりと夢見心地な表情の帝斗の肩を勢いよく掴むと、長椅子のところまで引きずるように連れて行き、乱暴に放り投げるようにして組み敷いた。
「なっ……!? 一之宮さんっ……!?」
 いきなりの乱暴さ加減に、帝斗は戸惑うだけだ。キョロキョロと悪気のなく見つめる帝斗の瞳が更なる加虐心を煽ってしまい、紫月は苛々とした感情をぶちまけるように怒鳴った。
「言えよ粟津ッ、男は初めてじゃねえんだろ? 前に付き合ってるヤツでもいたのかよ!?」
「何……を言って……僕はそんな……誤解です一之宮さん……」

 ああっ……!

 弁明の言葉も途中で取り上げられ、むんずと髪を掴まれたと思ったら、乱暴に噛み切るようなキスを強いられた。
「や……っ……一之宮っ……何をっ……」
「逃げるなよっ、畜生! 誰と付き合ってたってんだよ! 社の人間かっ!? それとも全然別の誰か? いつからだよ! いつからそんな野郎とっ……」
「なに言ってっ……僕は付き合ってなんかいませんッ……女性とも、もちろん男性となんて……何でそんなこと、急に言ってる意味が解りませんっ」
「お前が、上手過ぎるからッ……! さっきのフェラ、あんなの……経験なくて出来るわけねえよ! 畜生っ、やっぱりもっと早くに云えばよかった。お前のこと五年もじっと見て焦がれてただけなんてバカみてえじゃねえか俺」
「一之宮さん……?」
 乱暴な言葉とは裏腹に、切なげに辛そうにそんなことを言っては独りで合点して憤っている様子に、帝斗は何故かものすごく愛しい感情がこみ上げるのを感じていた。
 普段は隙のなく男らしいこの人が、こんなにも動揺し、子供のように嫉妬している。そんなことを思えばどうしようもなく愛しくて、自分を組み敷きながら震わせている肩を、ぎゅっと抱き締めてやりたい衝動に駆られた。
 そう、ほんの少し前までは自分だって同じように妬きもちをやいていたのだから。部長の氷川と紫月との間に特別な関係があるのではないかと想像して、疑って悶えたのだから。
 帝斗はクッと瞳を細めながら、目の前の広い胸元に顔をうずめるようにしがみつき、甘くうずく今の気持ちそのままに素直に紫月に甘えた。
「妬いてくれたの一之宮さん?」
「え――?」
 突然のやわらかな問い掛けに、紫月の方は驚いたように帝斗を見つめた。
「僕に付き合ってる男性がいたんじゃないかって妬いてくれたんですよね? すごくうれしい……あなたが僕を想ってそんなに乱れるなんて信じられないくらいうれしいけれど……でも僕に恋人なんかいません。今までも……ずっと独りでした……本当ですよ? もしも僕のさっきのアレが……上手だとかいうのなら…… それはあなたに夢中になり過ぎていたからですよ。あなたに夢中で、あなたが欲しくてたまらなかったから……。今までマスターベーションするときに想像してたことをそのまま思い描いてしたから……」
「粟津、ホント?」
「ホント……です」
「粟津っ――!」
 紫月は帝斗の身体を更に深くソファに押し付けると、夢中でキスをした。先程、顔面めがけて振りかけてしまった精液がまだペタリと頬に残ってもいたが、自身の吐き出したその欲望ごと呑み込むように唇、頬、耳たぶと舐め上げた。と同時にしっとりと湿った襟を開いてじれったそうにタイを振り解き、首筋に紅い痕がつく程強く吸って舌を這わせ、左手で焦れるように外したワイシャツのボタンの内側にあらわになった胸元の突起を見つければ、ゾワリと全身が鳴るのと同時にガラにもなく頬を染めた。
 むさぼるように始まったキスから喉元への愛撫までの激しさとはまったく逆に、今度はわざと焦らすように突起のまわりを指先で撫で回せば、帝斗の唇からは『ああっ……』という声が漏れて、それと共にぎゅっと瞳を瞑った様子に紫月は再び分身が硬くなっていくのを感じていた。
 互いに同じくらいの身長だから、重なり合った身体の中心部、つまりは分身同士がたまに触れ合う度に帝斗も自分のモノをしっかりと反応させている様子が判る。やはり互いに同じように硬く勃ち上がっているようだ。紫月は男根同士を擦り合わせるように自身のペニスで帝斗のを軽く突つき、そうされて紅く染まった頬を恥ずかしそうに横を向けたのにクスッと微笑いながら、再びスラックスのファナスナーを下ろした。
「粟津、お前の興奮してる、こんなに硬くして……エロイぜ」
「なっ……一之宮さんだって……もうこんなになってるくせに……」
「でもお前の方がすごい、俺はほら、さっき一回イッてるから。お前の口でさ?」
「や……! いやらしいこと……言わないでくださいよ……!」
「ふふ、だから今度はお前のしてやりたい。お前のパンパンに腫れてるココを楽にしてやりてえとか?」
「くっ……ぁっ……!」
 言葉とは裏腹に、焦らすように先端だけを舌先でチロチロと突つかれて、帝斗は思わず腰を仰け反らせた。
「すげえ粟津、トロトロだぜ? こんなに漏らしてる」
「やっ……ぁっ……」
 舐め上げ、突つかれ、しゃぶられながらも、紫月の指先が何気に腰や太股の付け根あたりに回り込み、繁みの辺りをまさぐっているのを感じて、帝斗はビクリと背筋を丸めた。
「……一之宮さんッ、そんな……こと……ああっ……」
 やはりそこはまだ抵抗があるのか、徐々に腰元が逃げるように引けていくのを見て、紫月はクイとそれを戻すように引っ張った。
「粟津、逃がさねえって」
「い……一之宮さんっ……」
「逃がさないぜ帝斗――」
 突如名前で呼ばれて、聞き慣れないその感覚に背筋が快感に震えた。


09

「逃がさないぜ帝斗、好きなんだ、お前のすべてが好き。何度もそう言ったろう? さっきみてえな勘違いでも後悔すんのは嫌だ。お前のこと全部知りてえんだよ」

――帝斗っ!

 熱い吐息と共に紫月はそう言いながら、夢中で帝斗のスラックスと下着を引き摺り下ろし、硬く勃ちあがっているペニスを何度も何度も愛撫してくちづけした。
「だ……っめ……一之宮ッ……さんっ……そんなことしたら……」
 名前で呼び捨てられたことで信じられないくらい快感が増長し、帝斗はこの上ないくらい高みに押し上げられてしまった。
 嫉妬の言葉も心地よくゾクゾクと欲望を煽る。
 とどまることなく押し寄せてくる快楽の波に呑まれながら、ふと瞳に飛び込んできた紫月のやわらかな髪が自身の股間でうごめいている様子に、思わぬ妄想が脳裏を掠めて帝斗は身震いのようなものを感じた。
 そうだ、もしも今誰かがこの部屋に入って来たらどうしよう?
 先に残業を終えて帰った社員の誰かが、例えば忘れ物でもして戻って来たりだとか、或いは出張に行っているはずの氷川が直帰せずに社に立ち寄ったりだとか。
 こんなところを誰かに見られたとしたら?
 ふとそんな想像が浮かんだが、不思議なことにそれは心配とか困ったとかいった感情ではなくて、どちらかといったら紫月とこんなことをしているのを誰かに見られたいという欲望の方が強いことに気がついて、そんな自分に驚き頬を染めた。
 そう、紫月とこんなことをしているところを誰かに見られたい。いや、見せてやりたい。
 社の精鋭といわれている紫月が、自身の性器を愛撫して夢中になっているこの姿を見せつけてやりたい。誰か、例えばあの氷川がこんなところを目の当たりにしたらどんな顔をするのだろう?
 驚いてあの涼しそうな顔をヒクヒクと歪めたりするところを見てみたい。彼は少なからず紫月に悪い感情は抱いてないのだろうから、嫉妬のひとつも感じるに違いないのではないだろうか?
 あの初めての日にせっかくの逢瀬のチャンスを取り上げてしまった氷川にこそ見せてやりたい。そんなことを考えていたら、知らずの内に淫らこの上ない嬌声までもがあふれ出していて、だがこれまたそんなことは露知らずの紫月の方は、帝斗の乱れように煽られるままにますます激しく欲情していった。
 そしてたった今までの自身の妄想とは正反対の言葉が耳をくすぐれば、帝斗の欲望も又、ますます膨れ上がり、急激な射精感が込み上げて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「畜生、帝斗っ、なんて顔してんだ! 今のお前、すげえいやらしい顔してるぜ? 淫らでエロくて……そんな顔誰かに見られたらって思うと俺どうにかなっちまいそうだ。誰にも見せたくねえよ、お前のこんな姿。絶対見せたくねえっ、俺だけのもんにしときてえ」
 再びの嫉妬の言葉がますます射精感を増長させ、もう限界だった。
「ああっ……だめです……一之宮さんっ……! 離れて! お願いだっ……!」
 我慢出来ない絶頂手前で自身の股間で揺れている紫月の髪を掻き乱しながら、指先に力がこもった。
「だめ……離れて早くっ……もう……」

 イッってしまいそう――!

「いいよ、イケよ。このままイッちまえ」
「そんなことできない……っ! あな……た……に……」
「いいっ! お前のすべてが欲しいって言ったろ俺? お前の味わいたい……お前の……」
「い……っや……ぁっ……!」
 引き離そうとすれども、紫月の唇は分身を咥え込んだまま離してくれず、求められる言葉に欲望を促進されて、我慢し切れずに帝斗は絶頂を迎えた。
 プツリとせきを切ったように紫月の口の中で果ててしまい、快感と共に申し訳なさと恥ずかしさとが絡み合った複雑な気持ちに、急に精神が不安定になってしまったのか、理由もなく涙があふれてきた。
「バカ、なに泣いてんだ」
「だって……あなたの……に……僕のなんか……」
 口の中で射精してしまったことの罪悪感と羞恥心に、帝斗はいてもたってもいられずに、紫月から逃れるように肩を丸めていた。
 如何に気持ちよかったとはいえ、こんな経験は初めてで、無論戸惑いもあったがそれより何より申し訳なさでいっぱいだった。
 唇を噛み締め、うつむいたまま、顔を上げられずにいる帝斗の頭ごと抱えるようにすっぽりと両の腕で抱き締めると、紫月はやわらかに微笑みながら言った。
「そんなとこもすげえソソルぜ帝斗。なんかすげえ可愛いとか思っちまう。あんまりそんなだと何だか虐めたくなっちまうよ」
「え……?」
「ん、何となくさ、お前をとことん追い詰めて虐めてみたいとかさ? お前の可哀想な顔見たいとか。俺にイロイロ悪戯されて悶えたり泣いたりしてるお前のこととか想像しちまう。ヤバイよなそれって。もしかして俺って鬼畜野郎なのかとか思っちまう。だってそんなこと考えたらほら、又勃ってきちまったし」
「な……に、言って……」
 少し照れ気味に鼻の頭などを掻きながらそんなことを言っている紫月に、帝斗は思わず頬の染まる思いがした。
 まったくもって素直というか率直というか、いやらしくて恥ずかしいことを何の物怖じもせずに言ってのける彼の神経に、少々呆れた感がなくもなかったが、そんなところがものすごく愛しく感じたりするのも又事実だった。
 少なからず申し訳ないと感じていた気持ちがスーっと楽になり、逆に微笑ましくもなっている。紫月のそんな不思議な魅力に、帝斗は言いようのない幸福感を感じて、気づけば自らもつられるように微笑んでいた。
「一之宮さん……」
「ん、何?」
「聞いて……僕も……あなたが好きです……こんなに……」

 大好きだ――!

 ソファの上で丸めていた身体をクイと起こすと、帝斗は勢いよく紫月の胸元に抱きついた。
「あなたが好きです、一之宮さん」
 広い胸板に頬を摺り寄せながら、ふと目の前で揺れているネクタイが目に付いて、その先端を何気なく弄りながら指を絡ませると、不思議と又背筋を這い上がってくる欲望の存在のあることに気がついた。
 ネクタイを弄っているだけなのに、ゾクゾクと快楽が大きさを増していくのだ。
 その邪魔なタイを外して、その先のワイシャツのボタンをも外して、そしてそのもっと先で眠っている彼の胸板の突起を想像すれば、今度はそれを舐めてみたい欲望に駆られる。突起を舐めて腹にくちづけて、そして又彼の昂ぶった分身を咥えてみたくなる。そんな衝動が湧き上がって、帝斗は思わずゴクリと喉を鳴らした。
 もうどうにでもして欲しい。
 彼の言うように虐めらてみたい気もする。
 少し意地悪な独特のいやらしい言葉で煽って欲しい。
 そんな想像に自身の分身も硬く熱くなっていくのを感じながら、目の前の胸元に更にきつく抱きつき、そして甘えるように帝斗は言った。
「一之宮……いえ、紫月……さん……今度の休み、家に来てください……」
「帝斗――?」
「ん……家に来て……そして思いっきり僕を虐めて……。どんなふうにでもして……。あなたの意地悪なコレで僕をめちゃくちゃにして……ください……」
 きゅっと股間を握りながら、くったりと寄り掛かり、紫月を見上げる帝斗の瞳はとろけてこの上なく甘く漂っていた。
「バ……ッカ、そんな顔したら休みまでなんて待てねえかもよ? 今のお前の顔エロ過ぎ!」
 紫月も又頬を染め、抱きつかれていた身体に覆いかぶさるようにクっと再びソファに沈めると、恥ずかしそうに熟れている頬にくちづけた。
「いいぜ帝斗、今度の休みお前ン家に行って思いっ切り虐めてやる、腰抜けて立てなくなるくらい。めちゃくちゃになるまで愛してやるよ」
 そう言って幸せ感に少し震えた唇を、帝斗の半開きになっている唇に押し当てた。



◇    ◇    ◇



 あの日あなたが引き摺り出した僕の欲望をもっともっと煽って欲しい。
 もっともっとそのいやらしい言葉で翻弄して欲しい。
 激しくて何も分からなくなるくらい凶暴に僕をいたぶって欲しい。

 ゾクゾクと這い上がる背筋の欲望は、いつしか全身をしびれさせるが如く充満し、逃れられない幸福の快感となって帝斗を押し包んだ。
こうして、少々信じ難く強引な形で幕をあげた奇妙な二人の関係は、様々に形を重ねながら、欲望という至福に向かって歩み出したのだった。

- FIN -



Guys 9love

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