背徳な彼
01
その淫猥な出来事は転校直後の級友のひと言から始まった。
「なぁなぁ、一之宮さぁー、いいコト教えてやる! 化学の粟津って知ってる? あいつさ、美形相手なら誰にでもヤラせてくれるんだぜ?」
まだ左程親しくもなっていないクラスメイトからソワソワとそんなことを耳打ちされたのは、気だるい春の午後だ。父親の海外赴任の為、高等部の二年間を海外で過ごし帰国転入したばかりの一之宮紫月は、それを聞いて怪訝そうに顔をしかめた。
ここは一応名門校といわれていて、富豪の子息らが集まっている私立学園だった。街ひとつ分くらいはゆうにある広大な敷地内には幼稚園の部から大学院までが雄大に立ち並ぶ優美な校風だ。
そんな中でも海外からの転入はやはりまだ物珍しいのか、或いはこの一之宮紫月本人に何かの魅力があるのか、休み時間ともなれば誰かこっかがこうして集まってくるのだった。
「一之宮ってさ、超美形じゃん? だからお前だったら一発スルー出来っかもよ?」
「そうそう、ぜってーOKだろ? 俺、デキル方に一万(円)賭けてもいいぜ?」
「おうよ、試しに誘ってみ? な、一之宮」
いつの間にかワイワイと自分の周りを取り囲んできた級友たちを、当の一之宮紫月は半ばうっとうしそうに眺めていた。
「化学の誰だって? はっ、先公かよ? ならお断りだぜ。俺りゃ~、姐御はカンベンよ。そーゆー趣味ねえし!」
かったるそうなローボイスでそう言うと、椅子にもたれながらほとほと呆れた様子で溜息までもらして見せた。
「しっかし世の中おぞましいこともあるもんだ。どこの世界に生徒にヤラしてくれるなんて先公がいるっつーの。あっち(海外)でもそんなんは珍しいぜ? てか、はっきし言ってそいつ、コレ?」
指でこめかみの辺りをクルクル回しながら紫月は再び椅子の背にもたれ、ギシギシと体重を掛けたり引いたりしていた。だが呆れ加減のそんな話題に、もたれていた椅子から引っくり返る程驚いたのは、級友たちが後に続けた言葉だった。
「バカ、違うって! 化学の粟津ってのはな、姐御じゃねえーっつーの!」
「はあ? 何言ってんだお前。先公っつったら年上、つまりは姐さんだろうが?」
「違うんだって! 姐じゃなくてよ」
「兄――なんだよな、これが」
――へ?
「だから兄! っつーかオトコ!」
「先公は男だっての!」
――はぁ……!?
気づけば紫月は文字通り引っくり返る程驚いて、背もたれごと床へと転げていた。
「だ、大丈夫かよ一之宮」
ちょっとした騒ぎに他のクラスメイトたちもガヤガヤと集まって来ては、級友たちが超美形と銘打った転入生、一之宮紫月を囲んで興味ありげに彼を取り巻いていたのは五月も終わりの緑萌える季節のことだった。
ふざけた話もあるもんだ――そんな思いが好奇心に変わったのは、転校後初めて噂の張本人を見たときからだ。移動授業の合間に偶然見掛けた化学室の中の彼、教師の粟津帝斗の姿を目にして以来のことだった。
栗色のやわらかそうな髪をはらりとかき上げながら、ふと垣間見えた暗褐色の瞳は少し物憂げでもあり、遠目からでもよく分かる程の色白の頬と質感のよさそうな手の甲、長い指先がチョークを走らせる仕草には図らずもドキリとさせられた。
だがそんな感覚は逆に紫月の中で嫌悪感とも好奇心ともつかない奇妙なものとなって膨れ上がっていった。感覚的には癪に障るといったのが近いだろうか。およそ教師のすることとは思えない粟津帝斗の行動も勿論のこと、又は不本意ながらもその彼を見て一瞬でも胸が高鳴った自分にも妙に腹の立つ思いがしていた。
紫月がもう少し大人であったならば『ああ、なる程な』などという苦笑い程度で済んだかも知れないが、十八歳を手前の彼にはそう都合よくはいかなかったのも当然だろう。とにかく日が経つにつれて、紫月の中で『美形なら誰にでもヤラせてくれる化学の粟津帝斗』の存在は、異様な程に大きさを増していったのである。
そんな思いを払拭させたかったから、というのは只の言い訳に過ぎないだろうか、二人の出逢いはモヤモヤした思いを我慢出来ない紫月が化学室を訪ねたことから始まった。
◇ ◇ ◇
「化学の粟津ってアンタ?」
行儀の悪く、ドアに片脚を引っ掛けながらぶっきらぼうに訊く声に、化学準備室の自分の机に居た粟津帝斗はふいと入り口を振り返った。
「何だね、君は? 見たところ高等部の三年のようだが?」
見掛けのやわらかさに相反して少々強面の声色が返って来たのに、紫月の方も不服そうに顔をしかめて見せた。そしてわずかに苦笑いのようなものを漏らしながら、半ば侮蔑する感じで紫月は言った。
「はん、いきなりご挨拶じゃねえか。せっかくヒトが噂のセンセに会いに来てやったってのによ?」
まだドアを足先で突つきながらポケットに突っ込んだままの手を持て余し、粟津帝斗の方はそんな様子をいぶかしげな表情で見ていたが、いきなり自身の机から立ち上がるとドアにもたれている紫月のもとへと歩み寄った。
あっという間に近づいた距離と初めてこれ程までに傍で見るその容姿に、遠目に彼を垣間見たときのような高揚感で一瞬ドキリとさせられる。それは威圧感ともとれるような感じで、どう批判的に例えても美しいという以外には彼を形容する言葉が浮かんで来なかった。
そんな様子で一瞬ぼうっとした感じでつっ立っている紫月を粟津帝斗の方は未だ いぶかしげに見上げている。まるで珍しいモノでも眺めるように見入られて、ようやくの思いで紫月の口から抗議の言葉がついて出たのは色白の手が制服のネクタイを取りあげたという予期せぬ行動のすぐ後だった。
「な……にすんだてめえっ……!」
じっと見つめられた視線をピクリとも外さないままでいきなりタイを引っ張られて、紫月は驚き引っくり返ったような声をあげた。
元々だらしなく解け気味のタイをどうされるでもなかったが、一応初めて対面したばかりの人間にいきなりそんなことをされたものだから驚くのも無理はない。
それに淫猥な噂の持ち主のことだ、逢ってすぐさま行動に突入するのかなどという、ふと湧き上がった邪念に満更でもないと思ってしまったのは、若気の至りといったところだろうか。とにかくドキリとさせられたことと、そしてそれを云わば好意的に受け取ってしまったことは否定できない事実であった。
だがタイを手に取ったままの彼の口から飛び出したのは、相反して好意的といえるものではなかった。
「このタイの色、じゃあ高等部の三年生ってことか? まったく、だらしのないにも程があるな。このダラけた結び方、シャツも肌蹴いてこれがオシャレのつもりか?」
淡々と蔑んだようにそう述べる彼の口角は緩く上がり気味で、整った形の唇から漏れた侮蔑の言葉が瞬間的に頭の中を真っ白にした。
「なっ……何なんだよ、てめえはっ……悪かったな、だらしなくってよ!」
「ああ、言葉使いもめちゃめちゃだな。聞くに堪えない」
呆れたようなゼスチャーで握っていたネクタイを離すと、大げさに肩まですくめて見せる。のっけからの唐突な仕打ちに紫月は思わず声を荒げると、
「あ……のなぁー、そーゆーテメェだってだらしのねえのは十八番(オハコ)入ってんだろうがっ! 知らねえともでも思ってるわけ? アンタのとんでもねえ噂っ!」
掃き捨てるようにそっぽを向きながらそう言った。
どうせ又ハキハキと弁解の言葉でも並べ立てるのか、或いは威張り口調で一喝されるか。淫らな噂の持ち主は意外にもウンチクの多い面倒なヤツなのだと思い始めていたそのとき、
「だったら何だ?」
それこそ意外な言葉が耳元を掠めて、紫月は思わずポカンと口を開いたまま目の前の彼を見つめてしまった。
02
「僕の噂って? もしかして誰にでもヤラせてくれるんだとかってアレか? だったら当たってるよ。ま、誰にでもってわけじゃないけれどね? 僕の好みの素敵な子とだけね。それが何か?」
物怖じする様子もなく当たり前のようにそう言った彼の口角はやはり緩く上がっていて、そのさまからは少しの挑発のようなものが感じられなくも無かった。そんな様子に紫月はほとほと呆れ果てたといった感じでしばし呆然としながら、目の前の自分よりも少し華奢な彼を見つめていた。
「ふ……ふふふ……まさかと思うけれど、もしかしてそれが目的で此処へ来たのか?」
又もや信じ難い言葉が笑み混じりにそう言った頃には、紫月の方も不思議と感情が据わり始めていた。あまりの率直さとズケズケとした物言いに高揚していたのがバカらしくも感じられ、時間が経つごとに呆れと侮蔑の気持ちが強くなっていったのだ。
紫月は面食らっていた先程までの表情を一転させると、ニヤケ混じりで今度は彼の華奢な肩に肘を乗せ、
「その通り、アンタとヤッてみたくてさ? アッチの方も最高だって噂だし。なら一度くらい自分のカラダで確かめんのも悪くねえかなって。どう、俺と試してみねえ?」
少々自身ありげにそんなことを言ってのけた。
幼い頃から格好いいだの素敵だの、ハンサムだの美形だのといった褒め言葉はうっとうしいくらいに聞いて来た。今更ながらだがまさか容姿の点で申し出を断られるなどとは、本能的に頭中には無かったというのが本音だ。
目の前の淫らな男も外見だけはそんな自分に相応しい花のある相手のようだし、まだ少ない人生経験の中で同性とのセックスの経験など無かったが、たまの火遊びもいい機会だなどと心の中で思ってもいた。だがそんな思惑を引き千切るような冷淡な言葉が返ってきたのは、半ばとろけた瞳で気の強い彼の顎先を持ち上げたその瞬間だった。
「は、はははは、まさか図星だったとはね。恐れ入ったよ。でもお断りさ、言っただろう? 僕は”自分好みの素敵な子としか寝ない”ってね?」
悪びれた様子もなくあっけらかんと肩をすくめたジェスチャーをされて、紫月は又も面食らった思いに陥った。
予想外、などという言葉では表せない心境だ。
何を言われているのかすぐには理解出来なかった程で、そんな紫月の様子を横目に満足そうな笑みを讃えながら粟津帝斗は先を続けた。
「キミのようにこんなだらしのない服装、先ずはそれからしてNGだな? これ、本心から格好いいと思ってしているわけ? だったら論外だよ。確かに少し整った顔をしているようだが、でもだからといって僕がキミに身体を許すとでも思った? しかも初めて会ったというのに。キミ、僕の授業も受けてないだろう? 噂だけで此処に来ていきなりヤラせてくれだなんてそれ自体失敬にも程があるよ。言葉使いも好みじゃない。僕はね、もっと紳士的な子が理想なの! 分かったらお引取り願おうか?」
形のいい唇で流暢に並べられた言葉はあまりにも予想に反し理不尽で、さすがに紫月はカッとなったのか、機嫌の悪そうに瞳をしかめると、目の前の華奢な胸倉を掴み上げて今までもたれていたドアへと押しつけた。
「ふざけんじゃねえ、黙って聞いてりゃ調子コキやがってよ? アンタ、そこそこ綺麗な顔して言うことキッツイのな? っつーか、てめえは何なんだってーの。未成年のガキ捕まえていかがわしいことしてんだろうが? 他人の服装がどうの、だらしねえのって言えた義理じゃねーと思うケドねぇ」
あれだけの勢いでけなされた割には紫月は落ち着いた様子の低い声で、先程のお返しといったようにそう言った。
「お高ぶってんじゃねえよ、いいからグダグダほざいてねえでヤラせな」
かったるそうに薄ら笑いまで漏らしながらぎゅっと顎先を掴み上げると、今度は有無を言わさずに唇を重ね合わせた。
「やっ……!」
粟津帝斗は思わず身をよじってくちづけから逃れようとしたが、自分よりも上背のある紫月に押さえつけられては適わない。
重ねるだけの軽いキスは最初の数秒で、上唇、下唇と包み込むように捉えられ、挙句はぎゅっと閉じた歯列を割って濡れた舌先が進入されて、といった具合に次第に濃厚に絡み合わされて、気が遠くなりそうになった。
必死に身をもがいて抵抗し、仕舞いには呼吸も儘ならず、けれども決して離してはもらえない。どのくらいそうされていたのだろう、息が苦しくなるくらいの長いくちづけを強いられて、耐え切れずにズルズルと床へとしゃがみ込んでしまった。まるで激しい運動をした直後のようにハァハァと息が上がってしまい、しばらくは抗議の言葉も出て来なかった程だ。
紫月は床にぺったりとしゃがみ込んだまま頭を抱えている教師の様子を冷めた目で見下ろしながら、掴んでいた彼の服の端をスルリと放した。
「なんだ、もうお手上げかよ? 口ほどにもねえじゃん。こんなキスくれえで腰抜かしちゃってさ? アンタの相手ってよっぽど甘ちゃんなんだな? 何が紳士だか素敵な子だか知らねえが。つーか普段どんなセックスしてるわけ? ただのままごとかよ? ま、ガキ(生徒)相手じゃ無理もねえか……」
半ば呆れ気味にそう言い捨てると、少し乱れた自身のシャツを羽織り直し、しゃがんだままの彼を残して紫月はその場を後にした。
「自分だってガキのくせにっ! こ……の野蛮人っ! 二度と此処へ来るなっ!」
壊れるんじゃないかというくらい乱暴にドアを閉める音と共にそんな怒鳴り声が聞こえて来たのは、ちょうど廊下の曲がり角に差し掛かった頃だった。
紫月は一瞬ポカンとしたように後ろを振り返ると、しばし瞳をパチパチとさせ、そして一呼吸置いてから思わずふき出してしまった。
「は、何だあのセンコー……ヒステリーかよ? 自分こそガキじゃねえか」
ふと湧いたそんな想像に何だか彼が可愛らしくも思えてきて、しばらくは笑いが止まらなかった。
このときの紫月にしてみれば格別同性に興味があったわけでもないし、この教師と色事をたのしみたかったわけでもなかったが、ただ何となく淫らな噂の張本人に会ってみたかったというのが正直なところだった。
遠目から見た感じがソソったといえないこともないが、あくまで冷やかし半分だった化学室への訪問が済んでひとまず気が済んだという感じの方が強かったのだ。
クラスメートに賭けの対象にされていた為その結果をしつこく聞かれたりもしたが、その度にあのときの彼の仕草が思い出されては、意味ありげな含み笑いなどを浮かべたりしていた。そんな様子に『誘いは成功だったらしい』という話題が飛び交い、それらは次第にエスカレートして、有ること無いことが噂されてもいたが、紫月はそんな様子も半ば微笑ましげに流していた。
そして噂話も風の如く流れ流れて沈着する頃には校風にも慣れ、クラスメートらとも親しんでいて、紫月は学園生活を普通にエンジョイする日を送っていた。
一方粟津帝斗の方はといえば、相も変わらずに気に入りの生徒らと色めいた日々を重ねているらしかった。最も彼にとっては紫月との不本意な出来事を払拭する意味でも、今まで以上に怠惰なひとときを楽しんで少々癪な記憶を消してしまいたかったのかも知れない。
そしてそれからしばらくの間、二人は校内で顔を合わすことは無かった。
紫月もあれ以来、格別に粟津帝斗に対して執着もなかったのか、冷やかし半分で彼の元を訪ねるなどということはしていなかったし、むしろ忘れかけていたといっても過言ではない。
そんな彼の意識を変えたのは、とある午後の出来事だった。移動授業で化学室の側を通り掛けたとき、仲間のひとりが浮かれ気味に相槌を打ってきたのがきっかけだった。
「なあほら、見ろよ紫月。あれ……」
顎を突き出して化学室の方向を指す級友の仕草につられて何気なくそちらを振り返ると、そこには生徒らしき誰かと連れ立った粟津帝斗の姿があった。
少し距離があったので向こうはこちらの気配に気づいていないようだ。
長身の生徒にくったりと寄り掛かるようにして彼を自室へと誘う粟津の仕草が妙にいやらしく感じられて、紫月は一瞬胸クソの悪い感覚に陥った。
「な、見ろよあいつ。ま~たオトコ連れ込んでやがる」
「うっそ、マジー? あいつも好きだよなー。で、今日のお相手って誰よ?」
「お! あれ生徒会長じゃね?」
「マジで? 俺、昨日別のヤツ連れ込んでんの見たぜ?」
周りでは興味本位で浮き足立った仲間らの会話が、より一層気分を悪くさせる。意味もなく苛立って、紫月はひとり眉間にしわを寄せていた。
「な、な、紫月さ? お前こないだヤったんだろあいつと。なあどうだった? やっぱ美味かったか?」
そんな訊き方をするのもいれば、
「知ってる? あいつ、生徒会の奴らばっか相手にしてるらしいぜ? そんでブランド志向とかって威張ってるらしい」
「は、バッカじゃね?」
「でもよ、そんならよく紫月はできたよな」
「バッカ、紫月は特別だろ? 顔さえよけりゃ、とりあえずは食ってみるっつーのが粟津のやり方だろーが?」
「それを言うなら食われてみる、の間違いだろ? あいつケツ掘らせんの専門の方らしいぜ?」
「ひぇー、うらやましい! 俺もいっぺんお試しさしてもらいてえよなー」
「そういやサッカー部の主将ともヤったって聞いたぜ!」
と、更に胸クソの悪くなるようなことをベラベラと並べ立てる。
視線の先には生徒の手に腰元を撫でられながら準備室へと消えていく粟津帝斗の姿が映り込んだ。
「や~らしー! ケツなんか触らしてやがる。やっぱこれからヤんのかなぁ、あの二人」
「っつーか授業もサボらせちまうってか?」
「いーんじゃねえの? 生徒会長なら授業サボるくらい朝飯前じゃん?」
「ゲッ、一応センコーだろうが? 普通は授業に出なさいっつーのが教師のススメじゃねえの? そーゆー教育ってアリ? ねえねえアリー?」
「ありありよ~、粟津にゃ何でもアリーじゃねえのー? 何せ校内きってのヘンタイ教師だからよー」
「おい、早く行こうぜ。遅れっとドヤされっぜ?」
仲間たちがおもしろ可笑しくはしゃぐ後姿を見送りながら、紫月は何となく苛々とした気分が抜けないでいた。
その日以後も気分が浮かないことが多く、ちょっとしたことでも苛立ったりするようになっていて、それは不機嫌とまではいわなくても、楽しく盛り上がることも出来ないままで悶々と二週間が過ぎていった。
03
そんな二人にとって運命ともいえるようなその機会が訪れたのは、あの化学室での日以来、実にひと月程後のことであった。
それは学園の理事会が催した初夏のとあるパーティーの晩のことだった。肌を撫でる宵凪が生暖かさを連れてくるその時分、粟津帝斗は退屈そうな表情でその会に参加していた。
理事会がこういった会を催すときは、体外が役員交代などの顔見せ的なことが決まり事だったからだ。歳のいった理事連中などと会話していても退屈なだけで、普段若い生徒ばかりを好んで寄せている彼にとっては、この上なく面倒なひとときでもあった。
そんなお偉い連中を遠巻きに眺めながら、帝斗は壁にもたれて軽いあくびなどを漏らしていた。
ふと目をやった視線の先に、だだっ広い会場の入り口が何やら騒がしく色めきたっているような様子に、いぶかしそうにそれを眺めた。
あっという間に黒山ならぬ銀髪の人だかりが出来たと思いきや、老人とは思えない甲高い声でガヤガヤとした騒ぎが聞こえてきて、会話の様子からするならば、どうやら誰かを取り囲んではもてはやしているようだ。帝斗は未だ軽いあくびなどを繰り返しながら少々呆れ顔で様子だけを窺っていた。
どうせ新しい理事長か副理事か、はたまた高額寄付者か何か。そんな人物のご登場ってところだろう。呆れを通り越して侮蔑の含み笑いさえ浮かんでくる気色の悪さに、早々に会場を抜け出そうかなどということを考えてもいた。
まあ仕方ない、この際だから帰り際に新しい偉いさんの顔でも拝んでやるかなどと思って視線を向けた瞬間、ちょうど機をよくして人だかりを分けて脚光を浴びているらしき当の本人が姿を現したのが目に入った。
「あ~あ、何てタイミングの悪さ! やっぱり挨拶のひとつもしなきゃならないかねぇ……」
ブツブツと溜息と共にそんな独り言を漏らしながら、面倒くさそうにもたれている壁から身を起こす。粟津帝斗というのはそういう人物だった。
先日の転入生一之宮紫月にどぎつい言葉を平気で投げかけたように、興味のあるもの以外にはあからさまに機嫌を表情に出すような男、といったら分かりやすいだろうか?
やわらかで当たりのよさそうな外見に反して彼の本質はそんな感じで、かなりの棘を持ち合わせた性質でもあった。
そんな帝斗の顔色が変わったのは、人垣をかき分けて現れた人物を瞳に映した瞬間だ。顔色が変わったというよりは形相が変わってしまう程驚いて、帝斗の瞳はその人物に釘付けになってしまった。そこにはダークな墨色のタキシードをきっちりと身に纏ったあの日の生徒、高等部三年の一之宮紫月が立っていた。
◇ ◇ ◇
まあ帝斗からしてみれば、あの化学室での出来事など、当に記憶の底から消え去っていたといっても過言ではなかった。何せ彼の色めいた悪癖は今や学園中の噂であったから、時折自信ありげな態度で訪ねて来る生徒らが後を絶たなかったというのも理由のひとつではある。しかし何故にこの生徒、つまりは一之宮紫月のことは覚えていたのかといえば、それはやはり強引なことをされたからというのも勿論であったが、それ以上に彼が極めて飛び抜けた容姿の持ち主だったからだろう。
あの時は服装がどうのとケチをつけたに違いないが、心底ではその外見の際立った感じが鮮明に記憶に残っていたといっても過言ではなかった。
確かに素行は褒められたものではなかったし、言葉使いも無礼千万、媚びない態度が帝斗の好みからは桁外れていたので、あのときは生理的にこの男の申し出を受け入れる気にはならなかったのも事実だった。けれども帝斗の記憶の中で彼が綺麗なつくりをした男だということだけは鮮明に残っていたのも又、否めない事実であった。
驚いて硬直している帝斗をよそに、紫月は後ろを追い掛けて来る理事連中を軽い会釈で遠退かせると、ゆっくりと見据えながら帝斗の側へと歩み寄った。そんなさまからしても彼は一体何者なのだろうという驚きが心を浮き足立てて、無意識に高鳴りだす心臓音に帝斗は思わず壁面へと背中をへばりつけた。
「御機嫌よう、粟津先生」
軽い笑みと共にそう言い放った紫月の言葉も信じ難い。何より彼の格好が驚きを通り越して気味悪いくらいだった。
今のこの状況は、実に先日の化学室での出来事と反転状態といったところだろうか、今度は帝斗の方が呆然となって目の前に歩み来る『外見だけは非の打ち所のない紳士』から視線が外せないままだった。
そんな教師の姿はある意味滑稽でもあったが、見た目だけは相変わらずに美しいつくりをしていて、その肌の白さといいなめらかそうな手のひらや柔らかな髪、といった彼の容姿の極だった感が思わず瞳をニヤケさせる。
紫月は目の前で硬直し呆然となっている帝斗を薄ら笑うかのように、ジリジリとその距離を詰めていった。そしてにじり寄り、そうされて少しの後退りをする華奢な肩を壁面へと押し付けた。
「お久しぶりです先生。顔色がよくないようですが大丈夫ですか? ご気分が優れないのでしたら俺が付き添いますから、此処(会場)を出ましょうか?」
『はい』も『いいえ』も言えないままで、粟津帝斗はズルズルと紫月に引きずられるようにして、会場を後にした。そして、遠退く雑踏の音さえ聞こえないような廊下の端まで早歩きさせられて、乱れた吐息も苦しいままにそこにあった一室へと連れ込まれるまでに大して時間は掛からなかった。
何が起こっているのかが把握出来た頃には、電気もつけていない薄暗い部屋の隅に位置した物置のようなコネクティングルームにいて、その狭さと暗さに心拍数が急激に増加するのを感じていた。
「あの……一体どういうつもり……? キミは……」
驚愕という感じでそう訊く様子に、紫月の方は満足そうに含み笑いのようなものを漏らしていた。
「どうしたセンセー、らしくねえ蒼っ白い顔しちまってさ?」
先程までの丁寧な物言いが明らかに変わっている。その独特の言い回しからするならば、今、目の前にいる男があの化学室を訪ねて来た生徒だということを物語ってもいて、帝斗はひどく戸惑っていた。
理事たちに囲まれてもてはやされていた姿や今現在の彼の出で立ち、それに一ヶ月程前の印象がグルグルと頭の中で入れ替わる。あまりにもチグハグでかみ合わず、だが薄暗いのに目が慣れてくる頃にはすぐ傍で自身を捉えている熱っぽい視線のあることに思わずドキリとさせられて、帝斗はますます戸惑った。
「こんな格好がアンタの好みなんだろ? この前、紳士的がどうとか言ってたもんな?」
耳元を掠める言葉も何もかもが信じ難く、まるで現実ではないようだ。あまりの混乱に帝斗は未だ言葉のひとつも発せずにいた。
紫月は目の前で呆然となっている美しき教師の様子にニヤリと頬を緩めると、狭い壁に彼を押し付けるようににじり寄り、怯えている頬をゆるりと撫で上げた。
「やっ……! 何をっ……!?」
小さな抵抗の言葉が飛び出したが、何の役にも立ちはしなかった。
「ねえ、相変わらず生徒に手ェ出して遊んでのアンタ?」
ゆるゆると頬を撫でていた指先が次第に首筋、鎖骨へと移動して、吐息のかかる位置にまで詰め寄られてもいて、身体中の関節から力が抜け落ちていくようだった。
薄暗闇の中で見ても形だけは整った男の顔は不本意にも欲望を煽り、気づけばいつの間にか外された彼の蝶タイと糊の効いたシャツのボタンが目に入って、その肌蹴た襟から覗くのはあの日とたがわない彼の胸元だった。
だらしくなく着崩した制服の合間から覗いていた胸元。意外な程に色白でしっとりとした綺麗な質感でもあったのを思い出す。
それらを瞳に映せば帝斗の心拍数は瞬時に激しさを増し、それはどう足掻いても抗えない欲情の感覚でもあり、見つめられるだけで腹の底が掬われるような気さえしていた。
「よ……せっ! やめないかっ!」
言葉じりだけは抵抗という名の意思表示だったが、熟れた頬に震える瞼をぎゅっと閉じるその様子からは到底言葉通りの感情などは窺い知れなかった。
そこにあるのは確かに肯定の意のみだ。肩を丸め、まつ毛を揺らしながらも唇は濡れて光って欲情を示す、強引ににじり寄られたまま次の行動を待っているのがありありと感じられて、紫月は思わずニヤリと微笑んだ。
04
「はっ、ホントに好きなんだな? 何とかかんとか言いながらも次は何されっか期待してます――ってなふうに見えるけど?」
痛いくらいの力で掴まれていた手首がいきなり宙に持ち上げられたと思ったら、いつの間に外したのか、彼のしていたサッシュベルトで両の腕を括られて、帝斗は更に蒼白く頬を震わせた。
「全く忙しいヤロウだな? 真っ赤になったり真っ青になったりアンタの頬っぺって信号機?」
ペチペチと軽く叩かれる感覚はある種恐怖でもあり、だが蔑むように見つめてくる瞳に不本意ながらも背筋から欲望を煽られる感じもした。
熱っぽい瞳、
それでいて冷たさをも含んだ瞳、
獣のような攻撃的な感覚、
頭は危険だと指示を出しても、背筋を伝う欲望が言うことを聞いてはくれない。そんな葛藤に苛まれながら次第に追い詰められた帝斗の瞳からは、自然と涙までもが滲み出していた。
それらを煽るように耳元ギリギリに囁かれる言葉は残酷だ。
「こないだのキスの続き…今ここでしてやるよ。あんときはアンタが先にイカれちまっただろう? だから今日はちゃんと最後までしてやる。普段アンタが相手にしてるガキ連中なんかとは比べ物にならねえくらいヨクしてやるぜ?」
紫月はそう言うやいなやネクタイをめくり上げ、下のワイシャツのボタンを勢いよく引き千切ってみせた。
「やっ……ぁぁあああーーーっ……!」
帝斗は驚き、思わず悲鳴をあげた。その乱暴さたるや今までに経験したこともないもので、だがしかし、そうされて不本意にもゾクリとした感覚が全身を伝ったのにも驚きを隠せなかった。
「は、律儀にアンダーシャツまで着てんのアンタ? 今時めずらしいな?」
薄ら笑いと共にクリクリと胸の突起を弄られて、もうどうにかなりそうだった。
頭の中は真っ白で何も考えられない。逃げようにも衣服を引き裂かれたこんな格好では逃げられない。助けを呼ぼうにも最早驚愕で声など出はしなかった。
「今日アンタに会えるだろうって思ってたから。これでも結構楽しみにしてたんだぜ?」
「なっ……!? どういう……」
「だってセンコーなら理事会主催のパーティーなんかにゃ、ぜってー来るだろうと思ってさ。だから今度逢ったらお仕置きしてやろうとか思ってたんだ」
「な……! お仕置き……って……なんでそんなっ……! 何の権利があってそんなことっ……」
緩い力で身体中を撫で回されながら、帝斗は必死に抵抗の言葉を繰り返し、悪戯から逃れようと身を捩っていた。
「何の権利っつーか、ただ教え子にミダラな遊び教えてるセンセーにそういうことはよくないよって教えてやらなきゃとかね? それともさっきの理事連中にチクって、あいつらからお仕置きしてもらった方がいいか? あんたのしてること学園側にバレたらやべえんじゃねーの?」
「キ、キミはっ……僕を脅かすつもりかっ……」
「はは、脅かすなんてそんな無粋なことしねえさ」
「だったら何でこんなこと……! こんな……立派な犯罪だぞっ……!」
「犯罪なのはテメェの方だろ? 毎日毎日生徒連れ込んでヘンタイ遊びしてるっつーんだからな!」
紫月は少し語尾を荒げると、今度はアンダーシャツを勢いよく引き摺り下ろして、更にはベルトを外しスラックスのファスナーまで引き下げた。
「やっ……よせっ……! よさないかっ……!」
「うるせー、少し黙れよヘンタイ教師! これからとびきりイイことしてやるっつってんだからさ? あんま可愛いげねえと俺、キレちまうかもよ?」
「……っ、なん……で……なんでこんなことするんだ……僕がお前に何した……? お前には何もしてないだろ……? なのに何で……」
次々と乱暴に服を剥ぎ取られ、帝斗は涙混じりにそう言った。
「なんでかな? なんとなく……アンタ見てると無性に腹立つっつーか……よくわかんねえけど……何か、むちゃくちゃにしてやりたくなるんだよね?」
「っ……!」
ずり落ちたスラックスの中から覗いた下着ごと手のひらに包み込むように揉みしだかれて、帝斗は思わず腰を浮かし仰け反った。
「やっ……ぁっ………やだ…………っ」
「はっ、すげえ。野郎に弄られてるっつーのにマジで勃たせてる……しっかりソノ気になってんじゃん」
「やっ……は……っ嫌っ……っ…………!」
ブリーフの上からでもしっかりと勃ち上がった男根が、天を目がけて張り詰めているのがありありと分かった。下から上へとなぞり上げる度に耐え切れない嬌声が漏れ出してもいる。
紫月はそのまま手のひらで彼の男根を弄り続けていたが、しばらくして先端から溢れ出した蜜液で下着がじんわりと湿ってきたのを感じ取ると、それを合図のように自身のベルトにも手を掛けて逸るようにそれを外した。
カチャカチャと急ぎながらファスナーまでが下げられた音に、帝斗の方は更に身を固くした。そして括られていた手を解放されたと思ったら、そのまま持っていかれた先には紫月の勃ち上がった硬い感覚を握らされて、思わずビクリと腰が引けた。
「やっ……嫌だっ……! やめ……やめろってば……! ああっ……!」
互いに勃起した男根同士を重ね合わされると、尻に手を回されて動けないように固定させられてしまった。後ろには壁、前には紫月の勃起したペニスを押し付けられて、逃げ場のないまま驚愕の表情で硬直するしかなかった。
「すげえ、アンタのガマン汁でこんなに湿ってる。俺のも出てたりして? ほら、どうよコレ?」
スリスリと上下させられながら下着ごと擦り付けられて、帝斗は涙目になっていた。
こんなことをされているのに確かに言われる通り身体は反応じまくっていて、止めようもない。耳元を掠める少し荒い吐息で目の前の彼も興奮している様子が見て取れると、それだけで自身の欲望も煽られてしまうのが理不尽だった。
下着ごとなんかじゃ我慢出来ない、そう思うのは時間の問題だ。見てくれだけは美しい、けれども野獣のような激しさで乱暴され翻弄されてもいて、なのに自分の身体はそれを悦んでいるだなんて――
元々プライドの高い帝斗はそれを酷く傷つけられた感じがして、悔しさでいっぱいになり唇を噛み締めていた。
「あ……あっ……嫌……っ、嫌だぁー……っ、っ……!」
むずがゆい感覚がどうしようもない。先走りで濡れた下着の湿りを肌に感じる度にゾクゾクと背筋を這い上がる欲望に、もう到達させられてしまいそうだ。
普段なら思いっきり気持ちよく達けるはずなのに。
そう、従順で危なげのない生徒に尊敬混じりの奉仕をされながら、甘い言葉を囁かれて到達できる、なのに何でこんなことになってしまったんだ。
何でこんなことをされているんだ。
こんな野蛮で乱暴な男、直接の教え子でもない生徒なんかに無理矢理こんなところへ連れ込まれて悪戯されているなんて。
しかも信じ難いことにはそうされて予想外にも反応じまくっている自身の姿がある。
そんなことを呆然と思い巡らしながら、いつまでたっても下着越しに擦り合わされるむずがゆい感覚が半ば恨めしくも思えていたとき、それを好機会といったようにいきなり下着の中に進入してきた指先に蜜液で濡れまくった先端をクルリと撫でられて、思わず『ひぃ…』と悲鳴が漏れた。
「あ……ぁっ……ダメッ……もう、だっ……め……」
到達感がうねるように背筋を這い上げる。直に指で擦り上げられ揉みしだかれて、帝斗は天を仰ぎ見た。
「いいぜ、イケよ。我慢しねえでほら……」
耳元を掠めた言葉は意外な程に穏やかでやさしくて、それにも欲望を煽られた。
散々乱暴なことをしたくせに、こんなときだけやさしくするなんて反則じゃないか?
チラリと目をやった先には熱く逸った男の瞳が、やはり彼も充分に反応じているといったような表情でこちらを見ている。それだけでもう限界だった。
帝斗はプツリと糸が切れたように目の前の胸に寄り掛かると、そのまま果ててしまった。
「っ……あっ……!」
暗闇の中、ヌルリとした感覚が分身を包み込むのが分かった。自身の解放した白い欲望ごと彼の大きな手のひらが未だ最後のひとしずくまでを解放させてくれようとしているのだろうか。徐々にゆっくりと余韻を搾り出すように、丁寧に到達へと導いてくれている。そのお陰で射精を終えても、しばらくは背筋を伝う欲望が心地よくフェードアウトしていくのを感じていた。
「う……んんっ……」
荒い吐息と激しい心拍数を抑えられないままで、帝斗はくったりと紫月の胸元に寄り掛かっていた。これから彼が欲望を解放する番だ。きっと余韻の治まらない自分の両脚を開かれて彼自身が挿入されるのだろう、或いは口で彼のものを咥えさせられ奉仕させられるのだろうか。又少し乱暴なことをされるのかも知れない。
そんなことを考えながら、けれども早くそうして欲しい自分がいて帝斗は複雑な思いがしていた。
乱暴だが肝心なときは丁寧でやさしい彼の愛撫。何よりも彼自身がそう言ったように身体は最高潮の快感を与えられて、気づけばもっともっと深くまで愛されたい欲求が芽生えているのが驚愕でもあった。
『アンタが普段相手にしてるガキ連中なんかとは比べ物にならないくらいヨクしてやる』
そう言った言葉の通りに快楽を与えられて、もっとその先を望む自らの欲求が自分でも信じられなかった。
そんなことを考えながらぼうっと胸元に寄り掛かったままの頬に少し冷やりとした指が触れられて、帝斗はビクリと肩を震わせた。
顎を持ち上げられるとすぐに唇が重ね合わさってきた。初めての化学室でされたときと同じように次第に上唇、下唇と包み込むように吸われ舐められて、心拍数は更に上昇していった。
ときおり交互にされる顔の向きがだんだんに激しくなり、くちづけの合間の呼吸も荒くなる。求められるだけだったのが、いつしか自らも彼を求めるように舌を動かしその要求に応えようとしがみつく。気づけば帝斗の方から紫月の上にまたがるようにしっかりと抱きついている状態になっていた。
ああ、早く欲しい――
プライドなんかもうどうでもいい。
彼の乱暴さも、少し悪びれたところも今ではかえって心地いい。
いつまでも深いキスを繰り返すばかりの紫月に催促するように、帝斗はとろけた瞳で彼を仰ぎ見た。信じ難い言葉が頭上から降ってきたのは、その直後だった。
05
「気持ちよかった? センセ?」
にっこりと微笑みながらそう訊いて、
「じゃ、そろそろ俺行くから」
よいしょ、というように急に立ち上がってしまう様子に、帝斗は呆然となるくらい驚いた。あまりにびっくりしてすぐには言葉も出なかった程だ。
だってこれからが本番じゃないのか?
それに彼はまだ到達していないじゃないか?
だが呆然とする帝斗をよそに、紫月は更に驚くような行動をとった。着ていた上着を脱ぎ捨てると、糊の効いたワイシャツまでをも脱いで肌をさらしたのだ。
え……っ!?
やはり抱くつもりなのだろうか、ふとそんな思いがよぎったが、紫月は脱いだシャツを帝斗の手に押し付けると軽く微笑みながら、
「ほら、コレ着てけよ」
そう言ってポンポンと髪を撫でただけだった。
「あ……あのっ……コレ……って……」
訳が分からず帝斗は不思議そうに紫月を見上げた。
「そのままじゃ帰れねえだろ? アンタのシャツ、俺が裂いちまったから」
「……!」
「それ、着てけよ。俺りゃ~、どうせこっちのが似合ってっから」
そう言って素肌に墨色の上着だけを羽織ると、少し悪戯そうに微笑んで見せた。
「あ、あのっ……キミは……」
気づけば立ち上がり、ドアへ向かおうとする彼を引き止めるように無意識に声を掛けていた。
「何、センセ?」
振り返った彼の胸元が墨色の上着から覗いている。
初めて見た日そのままに、キメの細かそうな意外な程に綺麗な肌が覗いている。
少しワイルドな感じの肌が……覗いている。
帝斗は思わず顔から火を噴きそうなくらいの恥ずかしさを感じて、咄嗟に瞳を反らせた。
――ドキドキと心臓が早くなっていく。
たった今まであの胸元に抱かれて寄り掛かっていただなんて。そんなことを思い出せば、何故か心がキュッと掴まれたような甘い痛みでうずきあがった。
「あの……どうして……? どうして……」
――最後までしないの?
そう訊きたかったが訊けなかった。恥ずかしくて訊けなかった。それが帝斗の本心だったからだ。
先日はあんなに罵倒したりした彼のことを、今は自分から求めていることに気づいてしまったからだ。
帝斗は自身の心の変化に揺れていた。
急激に媚薬でも盛られたかのように、目の前のこの男が愛しく感じるだなんて…!
「あの……どうして……コレ……本当に貸してもらっても……いい……の?」
渡されたシャツを握り締め、そう訊くのが精一杯だった。
本当はもっと訊きたいことがあるのに言葉が出ない。
どうしてこんなことをしたのかと、それなのにどうして最後までしないのかと、どうしてこんなシャツなど手渡して、自分を気遣うようなことをして去ってしまうのかと、訊きたいことは山程あるのにどうしても言葉が出てくれなかった。
歯がゆかった。
こんな気持ちにしておいて逃げてしまうなんてどういうつもり?
仕舞いには理不尽な彼の態度が憎らしくさえ思えてきた。
どうして?
どうして?
どうして?
疑問だらけで焦れる帝斗の長いまつ毛がふるふると揺れていた。
「もう……あんなことすんなよセンセ」
僅かに切なげな声がそう言ったのに驚いてビクリと顔を上げた。
「え……?」
「もう生徒引き込んだりすんのよせって言ったんだ。毎日取り替え引っ替えなんてやめた方がいいって。あんなことは……セックスなんてのは好きなヤツとだけすりゃそれでいいんだ。アンタが男を好きならそれでいい。男とか女とかそんなことを言ってんじゃねえし。ただ……あんまし自分を粗末にしてほしくねえなって思ったから。余計な節介かも知れねえけどな?」
それだけ言うと、紫月はクルリと後ろを振り返って、背中越しに軽く手を振りながら部屋を出て行ってしまった。残された帝斗は呆然としたままその姿を目で追って、しばらくは彼のシャツを握り締めたまま床から立ち上がることさえ忘れていた。
◇ ◇ ◇
粟津帝斗が憑き物でも落ちたかのようになったのは、それからすぐのことだった。
あれ程頻繁だった教え子との蜜月も中断し、毎日ぼうっとしている感じで授業さえ上の空といった調子になった。
そんな様子はすぐに学園中の噂となって広がり、野次馬な級友たちがこぞってそんな話に花を咲かせたものだから、当然の如くそれは紫月の耳にも届いた。
「な、知ってる? 化学の粟津さぁ、最近おとなしくなっちまったって」
「そうそう、エロ遊びもさっぱりご無沙汰らしいぜ?」
「何でも毎日ボケ~っとしてて覇気がねえんだと!」
「あっ、もしかアレじゃねえ? ついにヤバイびょ~きにでもなったとか?」
「うっそー! フケツー! ってか、当然の報いってか? あれだけ派手にオトコ取っ替えて遊んでりゃなー」
ぎゃあぎゃあと楽しそうにそんな噂話で持ちきりの級友たちに、紫月は怪訝そうに顔をしかめた。
「ビョーキだなんて……ヘンなこと言うもんじゃねえって。改心しただけじゃねえの?」
弁護するようにそう言ったが、級友たちははなからバカにした調子で真面目に取り合おうとする者などいなかった。
「まーったく紫月は甘いんだからよー、粟津の野郎が改心なんかするわきゃねーってよ!」
「そうそう、今頃青い顔して病院通いでもしてんじゃねーの?」
「あははは……ざまーねえよなー、あのエロ教師!」
こんな噂がいつまで続くのだろう、まあせいぜい一週間もすれば飽きるだろうが――
紫月は少し心配そうにそんなことを考えていた。
――あの理事会のパーティー以来、粟津帝斗には会っていない。
広い学園の中で偶然に会うこと自体が稀であったが、かといって自ら彼の元を訪ねるのもどうかといったところで、紫月も又、ただ悶々とした日々を過ごしていたのだ。
頃は六月も半ばのそろそろ梅雨に入ろうかというその季節、天候と同じようにすっきりとはしない心持ちで、紫月は昼休みの時間帯をひとりで過ごしていた。
学園の校舎から少し丘を登ったところに、ちょうどいい休憩処を見つけたのは最近のことだ。高等部から大学のキャンパスへ通じる近道のようだったが、誰も知らないのか普段は人通りが無く、少し荒れ果てた感じの小道を抜けたところに、よく風の通るちょっとした広場を見つけたのだった。紫月はそこが気に入って、近頃は級友たちのくだらない噂話が面倒でもあったりするせいで、よく独りで足を運んでいた。
「あ~あ……」
かったるいような溜息をつくと、ゴロリと芝の上に横になった。見上げる空は眩しいくらいに白くて、遠くの雲間からこぼれる薄陽が夏の到来を思わせる。このところの晴れない気持ちを鎮めるように、うつらうつらと瞳を閉じていたそのとき、
「わっ……!」
突拍子もないような驚きの声と共に誰かが自分の上を横切ったのか、或いは寝転んだ自分の身体につまづいたのか、いきなり足を蹴り上げられてバラバラと荷物の散乱する音に飛び起きた。
「っ……痛ぇー……な」
「ご、ごめん……」
あ――!
蹴られた足を抱えながら見上げた先には、やはり驚きの表情でこちらを見下ろしている粟津帝斗の姿があった。
06
「あ……キミ…………」
帝斗の方もめっぽう驚いたのか、それ以上言葉にならないといったように呆然と立ち尽くしていた。
気まずさを隠すように、紫月は辺りに散らばった彼の持ち物を拾い集めると、ほんの少し切なげに微笑みながら彼にそれを差し出した。
「久しぶりセンセ。元気だった? あ……ほら、コレ、落とし物……」
やはり紫月の方もそれ以上何をしゃべっていいのかといった感じで、言葉を詰まらせてしまった。
「ここ、座ってもいい……?」
「あ……ああ、いいぜ……どうぞ……」
ぎこちない会話にやっとの思いで肩を並べたが、やはり言葉に詰まる。二人はしばらくの間ただ隣りに腰を下ろしたままで、そよそよと伝う風だけを感じていた。
◇ ◇ ◇
「よく……ここに来るの?」
最初に口を開いたのは粟津帝斗の方からだった。
「めずらしいね。ここ、誰も知らないと思ってたのに……」
「ん、俺もこの前見つけたばっか……。センセーは知ってたのか?」
「うん、高等部に在学中のときから僕の隠れ場所だったから……」
「そっか、そうだよな。アンタってこの学園出身だったんだよな……」
「え……?」
不思議そうに振り返った瞬間、初めて互いを見合わせて、二人は同時に頬を染めた。そして恥ずかしそうにすぐに又、視線を外す。
「ん、アンタのことちょっと調べたから俺。何か気になって……驚きだったよ。アンタここの生徒会長だったんだな? 高校から大学まで首席だったって……。つーか。やっぱヘンだよなそんなの、他人のこと調べるだなんて……俺、キモイよね……」
「ううん、実は僕も調べたんだキミのこと……」
「え?」
「ごめん。僕も気になって……調べた……。キミ、新しい理事長の息子さんなんだね? 知らなかったよ……だったら僕すごく無礼なことをしたよね。初めてキミに会ったとき酷いこと言ったの謝らなきゃね……ごめんなさい……」
「そんなのっ……酷えことなら俺の方がっ……、この前のパーティーのときだって……」
紫月はムキになったようにそう言って、再び視線が互いを捉え合った。そして又、同時に頬が染まる。
「ごめん……俺の方が酷いことした……この前は……ホントに悪かった。ごめん、センセ……」
うつむきながら憤っているのか、ぎゅっと唇を噛み締めながらそう言った。帝斗はそんな様子を横目に見ながら少し切なそうに瞳を細めた。
「ねえ一之宮くん、聞いてくれる?」
ボソリとそう言って寂しそうに遠くを見つめる帝斗に、今度は紫月の方が切なげに首を傾げた。
「俺の名前……」
「うん、調べたって言ったでしょ? だから……名前は紫月君だろ?」
「あ、ああ、うん、そう……」
「ね――紫月くん、聞いて。僕の父親もね、この学園の理事だったんだよ。祖父も父もこの学園の出身でね、僕も小さい頃からここに入るように教育されてきたんだ。ここってほら、そこそこに成績優秀じゃないと入れないでしょ? だから…小さい頃からその為の勉強とかたくさんしてきたんだよ」
ツラツラと独り言のような感じで流暢に話されるその言葉――
だが、そんな淡々とした態度とはまるで裏腹の、衝撃ともいえるようなことを聞かされることになろうなどとは、当然のことながら予期もできずにいた。
相も変わらずの調子で続けられるその告白に、紫月はひと言の相槌さえ打てずに、呆然と彼から発せられる言葉を聞くだけで精一杯だった。
◇ ◇ ◇
『――僕は元々あんまり頭のいい方でもなかったから。本当はもっと友達と遊んだりしたかったけど、小さい頃から塾に通ったりしてね。それはそれで有難かったんだけど。
でも僕はもっと自由にいろんなことがしたかったんだ。父からいい子でいなさいって言われる度にそれが苦しくて面倒で、本当は流行の音楽とかも聴きたかったし友達と映画やファミレスとかにも行きたかったけど全部我慢してきたんだ。
いい子でいなきゃいけない、首席にならなきゃいけない、父に恥をかかせてはいけないってね……自分を抑えてきたから。
で、父の思い描いた通り大学を卒業してこの学園の教師になって、それでも僕は満足していたんだ。逆にここまで何不自由なく教育も充分に受けさせてくれた父に感謝してた。
教師になって、それはそれで楽しくて…学園のOBとして後輩たちに何かを教えられるなんてとってもうれしいことだと自負もしてた……。
でもね紫月くん、教師になってまだすぐの頃だよ、丁度今の季節くらいだったな。父は僕に見合い話を持ってきたんだ。
それだけなら普通だろ?
ちょっと早過ぎるってくらいで別に驚く程のことじゃない。だけど……父が持ってきたのは百件近くもあったんだよ。お見合い写真を束と重ねて僕に好きなのを選べって言ったんだ。どれでも好きなのを選べって。
そのわりには写真を見ながらこの子の経歴が今一だの、こっちはスタイルがよくないだの、こんなに細くちゃ子供を育てられるか心配だの、髪型がだらしないだのって、延々と文句を言い続けた。
笑えるだろ?
自分で持ってきたお見合いなのにさ?
正直うんざりしたよ、お見合い自体がじゃなくて父のそんな態度がね。挙句は学園の理事の嫁として相応しい女でなければならないなんて始まって……。
僕はホトホト嫌になってしまったんだ。まだ二十二歳になったばかりなのにお見合いって自体もおかしいし……。第一、女性をそんな色眼鏡でしか見てないなんて、まるで人間じゃなく物か何かみたいに扱う父の姿に嫌気がさしてね』
「センセイ――」
紫月は黙って聞いていたが、話の内容が詰まるにつれて帝斗の表情も重くなる様子にフイと瞳を翳らせた。そんな様子を気使うように帝斗は苦笑いを漏らすと、又すぐに先を続けた。
『それだけじゃないんだ。父はね、僕が結婚した後にちゃんとした夜の生活が送れるようにってそれ専用の女性まで用意してきたんだよ……。初夜の日に僕が恥をかかないように練習しろって言ってね。父は僕にそういった経験がないと思っていたんだろう、何せ真面目一筋で勉強だけに精を出してきたから僕は。
信じられないだろう? 粟津家の息子がちゃんとした初夜をこなせなくて嫁に笑われたら恥だからって言って、半ば強引に父の連れてきた女性たちに快楽を与えられたんだ。殆ど部屋に監禁されるような形で毎日代わる代わる違う女性たちが僕の身体を通り過ぎていった。
おかしいだろ? 普通なら喜ばしいことかも知れないが僕にとっては地獄だったよ。
女性たちは何の経験もない僕を可愛いとか言って奉仕してくれたけど、でも僕には解ってたんだ。彼女らが心の中で僕をあざ笑っているのを感じてた。
恥ずかしくて、毎日夜が来るのが怖くて、逃げ出したくなった。でも僕は父には逆らえなかったんだ。言われるままにその変わったレッスンを受けなければならなかった……。
そのときに思ったんだ。今まで我慢してきたことが爆発しちゃったっていった方がいいのかな? 父を困らせてやりたいって思った……。
家の大儀名分の為にこんなことまで強要する父を……いつも理事会理事会ってそんなことばっかり言って世間体ばっかり気にする父のことを思い切り困らせてやりたいって。
だから僕は教え子を……キミも知ってるように自分の生徒たちをあんなふうにして……しまった……。
始めはただのお遊び程度だったんだ。軽い気持ちで始めたままごとみたいなもんだった。男同士で手を握ったりちょっとエスカレートしてキスしたり……自分の部屋に彼らを呼んではそんなことを繰り返してた。
いつか父が気がついて理事会にもバレて、そして父が恥をかけばいいと思ってた。でもそのうち何だか酷く虚しくなってきて……生徒にキスしたり……そんなことしてる自分が惨めに思えて……どうしようもなくなって、もっと深く溺れたくなったんだ。
もうどうでもいい、何もかもどうでもよく思えて……。
――弱かったんだ僕。
いい歳して全然自立出来てないのをようやくと自覚した。
何だかんだと言って結局は父の傘の下で甘えた日々を過ごしてきたんだってことに気がついてしまって…なのに僕は全部を父のせいにしていい加減なことしてる…生徒まで引きずり込んで迷惑かけてると思ったらいてもたってもいられなくなって……。
生徒をそんなくだらない僕のはけ口にした罰だと思ってこの身体を与えるようになったんだ。
彼らも若いしヤリたい盛りだから秘密を守って僕に付き合ってくれたよ。あの日キミに会うまではそれでいいと思ってた。
そう……キミに会わなければ僕はもっともっと弱くて汚い大人になってしまっていたと……だからキミに会えて感謝……してる……。あんなふうに僕を叱ってくれたこと……とても感謝してるんだ…………キミに会えてよかったと――』
そう言う帝斗の瞳からボロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
07
「そんなっ……俺は別に……」
紫月は話を聞きながら、ドキドキと心臓が早くなるのを感じていた。それはどうしようもなく何かがこみ上げてくるようなヘンな感覚で、心拍数がうるさい程に耳に響く。
理由の解らない激しい衝動に腹の中をかき回されるような気がしていた。
意味もなく癪に障るような感覚が込み上げてくる。紫月は隣りで遠くを見つめながらぼんやりとしている帝斗を無性に抱き締めたいような感覚に駆られた。
「そんな……俺なんか……褒められるようなことしてねえよ。つーか、親父さんもおかしいが、アンタもヘンだぜ! 何で嫌なら嫌だと正直に言わねえんだよっ! そんなっ……独りで自虐行為みてえなことしてよ……。畜生っ……そんときなんか俺まだ超ガキじゃん? 当然とはいえ何も出来なかったのが辛えよ。俺がもっと大人だったら、もっと早くにアンタに出逢ってたら――!」
紫月は悔しそうに握り締めた拳を震わせた。
「ごめん紫月くん、何もかも僕がいけないんだ。キミの言う通りなんだよ。嫌なら嫌だってはっきり言えなかった僕がいけないんだ。弱くて臆病で情けなくて……自分が嫌になるよ。だからキミには感謝してる。キミはいつも本当のことをズケズケと突いてきて、最初はそれが腹立たしかったりもしたけれど、でも今は本当に感謝の気持ちでいっぱいなんだ。キミに会わなければ僕は今でも自暴自棄になっていたろう。生徒たちにも迷惑を掛けて……本当に僕ってしょうもないヤツだよね……」
帝斗は再びポロリとこぼれた涙を拭おうともせずに先を続けた。
「でもね、紫月くん……僕はキミに会って感謝したけど……でも同時に苦しい思いにも気づいてしまったんだ。キミに感謝してるだけならよかったけれど……こんな気持ちになってしまうなんて、今まで僕のしてきたことへの天罰だよね……僕はキミのことを……」
しゃくりあげながら帝斗はそう言うと、紫月が拾い集めてくれた荷物を手に取って急ぎその場を去ろうと立ち上がった。
「ごめんっ……ヘンな話聞かせちゃって……ごめん、今の忘れてくれ……っ!」
そう言って立ち上がった彼の頬から涙が舞い落ちた。その涙のひとしずくを掴み取るように追い掛けた指先が帝斗の腕を捉えて……
え――――?
「バカだな――」
低い声がそう言ったのと同時に勢いよく抱き寄せられて、帝斗は驚きに大きく瞳を見開いた。
「何一人合点してやがる。センセーあんたってホント、バカ……」
「なっ……!? どうして……」
「そういう俺もバカだけどな? アンタのことが気になって、あれからずっと眠れなかった……あのパーティーの夜からずっと……あの後無事に帰っただろうかとか、ホントに酷えことしちまったとか。格好いいコト言ってホントはアンタに興味があっただけなんだ――あんなっ、乱暴なことしといて俺……今更だけど。ホントはアンタと一緒にいる奴らに嫉妬してただけなんだ。アンタと生徒会の奴らとかが一緒にいるとこ見る度に、すげえ気分が悪くなった……。噂を聞く度に……無茶苦茶腹が立ったりもした。そいつらをまとめてぶん殴ってやりてえとかも思った。イライラしてどうしようもなくなって……。それだけじゃない、アンタのことを……めちゃくちゃにしてる夢まで見たりして。やらしいことして泣かせて興奮してる夢だぜ? アンタを裸にして……この前みてえにっ……してえだなんてずっと思ってた。俺ってホント、バカ。アンタのことどうのこうの言えた義理じゃねえよな」
抱き締めた腕が震えていた。
自分よりも逞しくて男らしい腕が小刻みに震えているのを感じて、帝斗はそれ自体も信じられなかった。
彼がそんな思いでいたなんて。
あのパーティーの日以来眠れなかったのは自分だけではなかったということを聞いて、あふれた涙が止まらなくなる。彼の気持ちを聞いてうれしかったし、心が安らかになるのも感じた。
けれども自分は又しても生徒に対して不埒な気持ちを抱いているのだという事実を目の前にすれば、それも心苦しかった。決して今までのようないい加減な遊び心ではないにしろ、相手が生徒であることに変わりはないのだ。
そんな戸惑いが帝斗の心に歯止めをかけて、抱き締められた腕を押しのけようと身を捩る、
「紫月くん……僕はっ……」
だがその云わんとしていることが解ったのか、紫月は逃れようとする身体を更にきつく抱き寄せると、迷わずといった感じで唇を重ね合わせた。
「ダ……ダメっ……だよ……僕はもうっ……」
その言葉ごと取り上げて、更に深く吸い込むように唇が押し付けられる。
抑制しなければならない思いと、流されてしまいたい本能とが交叉して、帝斗は切なさでいっぱいになり再び涙をこぼした。
こんなこと、イケナイことだ。
彼は少なからず現在はまだこの学園に在籍する生徒なのだから。
こんなことをしちゃいけないんだ。
でも――抑えられない……!
我慢し切れず、帝斗は重ねられた唇に応えるように自らも舌を絡ませ、そうする度に大きな瞳からは涙が零れ落ちた。紫月の吐息は少しづつ荒くなり、若い欲望が高揚しているのが分かる。
「ごめんセンセイ……俺、毎日こんなこと考えてた……やらしいことばっか考えて……アンタとこんなことすることだけ考えて……何度抜いたかなんて分かんねえよ。自分でも怖くなるくらいだったぜ、俺、アンタに惚れちまったのかなって。多分、初めて見たあの日から惚れてたのかも知れねえけど」
「そんなこ……と……」
抱き締められたまま芝の上に転がって、組み敷かれて、見上げた先には熱く逸るような瞳が自分を見つめていて――
ふと重なり合った身体の中心は熱く、硬く、自分を求めていることがありありと分かった。
若い彼の硬いもの。
独りで毎晩自分を想って慰めただなんて、そんなことを聞いただけでもうどうにかなりそうだった。
理性を保つことなど不可能だ。
生徒だの教師だの、そんなものはクソ食らえ。
そんなこと、どうでもいい。
立場とか世間体とか、今まで自分が縛られてきて散々嫌だったものなのに、今は自らがそんな壁を作り上げているんじゃないか?
永い間そんな自分が嫌で仕方なかったんじゃないのか?
勇気が出せなくて情けない思いをしてきたんじゃないか?
いつまでもこのままでは一生打ち破れない殻に閉じこもったままだ。
そんなのは嫌だ……!
帝斗は逞しい胸元に組み敷かれながらそんなことを考えていた。そして初めて見た日そのままの少し肌蹴けた制服のシャツの襟に手をやると、
「紫月……僕はずっとこんな格好に憧れてたんだ、こんなふうにタイを緩めて自由気ままに着崩して、僕の心ごと解放できたらっていつでもそう思ってた。初めて会ったときも……どんなにキミが眩しく見えたことか……堂々としていて何ものにも動じない感じのキミが輝いて見えたんだよ。本当はあの日からキミのことが気になって仕方なかったんだ。どうしても言えなかったけれど今なら言える……僕はキミを……」
「俺も……同じ……!」
そう、多分。初めて遠目に垣間見たあの日からずっと心に引っ掛かってた。
野郎に惚れちまうなんて思いもよらなかったけど。
でも、もうとめられない――
08
重ね合わされた唇を交互するのもまどろっこしくて、二人はむさぼるように抱き合った。
少し遠慮がちに、大切なものに戸惑うように紫月の指がシャツの襟に掛けられて、帝斗は込み上げる欲望にぎゅっと唇を噛み締めていた。
けれどもやはり最後のふんぎりがつかないのか再び迷うように瞳を翳らせる。
「紫……紫月っ……待って……! 待ってやっぱり僕らは……本当にいいんだろうか……」
こんなことが理事会にばれたりしたら――
キミと離れ離れになったりしたら僕は――
もう今までとは違うんだ。どうでもよかった今までとは……違う。
本当にキミが大切だから――だからこそ怖いよ……。
ちゃんと卒業するのを待ってそれからでも遅くないんじゃないか……?
僕はどうなっても構わない、でも紫月が卒業できなくなったりしたら僕は――
「僕のせいでキミの将来をぶち壊したりしたくないよ」
急に真面目にそんなことを言い出す帝斗に紫月はポカンと口を開いて、瞬間的に固まってしまったような表情をした。
最高潮に昂ぶってしまった全身を持て余し、ヘンなところで臆病な性質に焦れったささえ込み上げてくる。
初めて会った日のあの高飛車傲慢な態度はどこ吹く風といった調子の帝斗を怪訝そうに見下ろすと、
「アンタってマジしょうーもねえってーか……はっきし言ってバカ!」
呆れたようにそう言って溜息をついて見せた。
「ど、どうせ……僕はバカだよ……そんなの分かってる……だからごめんって謝って……」
やさしく組み敷かれていたのがいきなり両腕をひねり上げられて、帝斗はビクリと肩を竦めた。
「ホント、バカ……おんなじことばっか言って独りでウロウロして。迷って憤って焦れて泣いて、結局は現実から目を背けて逃げちまおうだなんて……俺はそんなの許さねえぜ?」
「でもっ……」
「あんましバカだから……又お仕置きしてやんなきゃならねえかなって?」
紫月は可笑しそうに微笑うと制服のタイを器用に抜き取って、帝斗の腕を縛り上げた。
「なっ……!?」
「ホント、あんたってしょーもねえ。いい歳こいて甘えん坊で……どうしようもねえガキだな?」
ニヤニヤと笑いながら見下ろしてくる瞳が熱く逸っているのが分かった。
「だから仕置きしてやるよ。アンタのその甘えた根性、俺が叩き直してやる」
そう言うやいなや、又しても乱暴にシャツのボタンを引き裂かれたのに、帝斗はびっくりして思わず身を捩った。
「やっ、ちょっと何を……っ」
「うるせー」
抵抗の言葉ごと呑み込むように再び強く唇を奪われて、シャツを毟り取られて裸にさせられて…熱い唇が喉元を掠めれば再び涙が込み上げた。
「嫌じゃないの……? こんな……僕、嫌いじゃない……のか?」
込み上げてくる涙にズルズルと鼻声で帝斗は訊いた。
紫月は何も言わずにただ笑っているだけで、首筋を這う愛撫だけが次第に強く熱を増す。
「汚ねえな、ほらー、鼻出てんぜ? ビジンが台無しだ、センセーよー?」
クスクスとそう言いながらも、ベルトに掛けられた手がそれを外したがっているのを感じて、帝斗は更に鼻水をすすった。
「ホント、ガキ。今時は女だってこんな甘えた根性してねえぜ? なあセンセー? 覚悟しとけよ、これからずーっと仕置きし続けてやっから。俺が……アンタを……」
「あっ……うぁ……!」
解いたベルトを外されズボンを引き摺り下ろされて、下着の中に容赦なく入り込んでくる指に敏感なところを探り当てられて――
「言ったろ? 俺もアンタのことが気になって眠れなかったって。この数日狂ったようにアンタのことばっか考えてたって……。だからもう待てねえし、それに仕置きなんだからちょっと我慢しろよ?」
信じられない言葉が耳を掠めたと同時にグイと腰を持ち上げられて、いきなり彼の逸ったモノが押し込まれる感覚に、ほんの一瞬ビリリと甘い痛みが走った。
「やっ……ぁああっ……待って……まっ……」
「ダメ、待てねえっ。俺ずっと我慢してたし……アンタの噂聞く度にコイツがうずいてうずいて仕方なかったんだし……! だからもう待たない……早くアンタとつながって……」
――俺だけのモンにしちまいってえーって、ずっとそう思ってきたんだから
そう、ずっとそう思ってた。
ずっと前から。
恐らくは初めて遠目にその姿を垣間見たあのときから。
ずっとこうしたかったのかも知れない。
ずっと噂話を聞く度に、
焦れて焦がれて癪に障るほど。
あんたのことが好きだったのかも知れない。
そんな俺も充分臆病者だ、
他人のことなんか言えた義理じゃない。
俺たちは似合いのカップルだと思わないか?
ポトリポトリと怪しい空から落ちてくる雨粒に肌を晒しながら、紫月はゆっくりと確かめるように腰を揺すっていた。
「あ、雨が……」
「いいよそんなの……そんなの気にすんなっ……」
「んっ……んんっ……」
そうだ、この雨に濡れて今までの弱い自分を流してしまえたら――
甘えたこの気持ちを綺麗に洗い流してしまいたい。
そしてできればいつまでもあなたにお仕置きしてもらえたらどんなに僕は幸せだろう?
「紫月……あなたを好きになってもいい……?」
「はっ、何言って……」
もうとっくに好きなくせに――
そうだね、初めて逢ったあの日から僕はキミに囚われていたのかも知れない――
次第に強くなる雨粒の中で、激しさを増す腰の打ちつける感覚がこの上なく至福に感じられた。
帝斗は目の前の広い胸元にしがみつくと、そっと微笑みながら瞳を閉じた。
- FIN -