官能モデル
「紹介するよ。先週からアシスタントに入った鐘崎遼二《かねさきりょうじ》だ。まだ若いがいい感性を持ってる奴でね。ま、経験は浅いし手際の追いつかねえところもあると思うが、よろしく頼むよ」
師匠である氷川白夜《ひかわびゃくや》からそんなふうに紹介されて、鐘崎遼二は初対面のその男の前でペコリと頭を下げた。憧れの新鋭カメラマンである氷川の助手として使ってもらえることになって、数日めのことだ。
今日の撮影はちょっと珍しい部類だから覚悟しとけよ――と、おどけ気味に言われて付いて来たスタジオで紹介された一人の男。一目でモデルだと分かるような雰囲気をまとったその”彼”は、ひどく艶かしい色気を醸し出していた。
遼二は、これまで氷川に連れられて三度ほどスタジオ入りを経験していた。そのすべてが今現在人気の女性ファッション誌の撮影だったこともあり、モデルに対しては見識ができつつあったというか、徐々に見慣れてきたというところだった。
普通ならおいそれとはお目に掛かれない、今をときめく美人モデルたちがすぐ目の前にいる。それだけでもちょっとしたカルチャーショックというか、とにかく驚きやら感動やらで軽い興奮状態、一時仕事に来ているということを忘れるくらいの衝撃だったのが記憶に新しい。
その氷川が少し含み笑いをしながら『今日の撮影は今までとは毛色が違うんでな』と、まるで楽しげに、ともすればからかうようにそんなことを言うものだから、ひどく興味を惹かれて来たというのに――紹介されたのがこの男だったわけだから、なんだか肩透かしをくらったような気分にさせられてしまったというのが正直なところだ。
単にモデルが男だというだけで、つまりは男性ファッション誌の撮影というところだろうか。そんな大袈裟な前置きをするほど珍しいことでもないだろうに――と、遼二は小さな溜め息を漏らさずにはいられなかった。
だが、まあ確かにこのモデルの男は一種独特の雰囲気があるというか、とにかく美形という以外に例えようがないような顔立ちをしている。
身長は一八三センチの自分と同じか――若干低いくらいだろうか、細身だがヤワな印象はなく、華奢というほどでもない。洋服越しにでも分かる筋肉もほどよく付いていそうで、十分に男らしく魅力的な上に、薄茶色のやわらかな巻き毛が首筋あたりまである少し長めのショートヘアが額に掛かってなんともいえずに色っぽい。好み云々を抜きにしてほぼ万人が見惚れるだろうと思えるようなこの男は、モデルの中でも群を抜いているのだろうということは、如何に新米の遼二であろうとすぐに理解できた。
そんなことを考えながらしばしボーッと男に見とれてしまったというのだろうか、氷川にポカッと頭を小突かれて、遼二はハッと我に返った。
「何ボサッとしてんだ遼二! ほれ、挨拶! こいつは今日のメインモデルを務める一之宮紫月《いちのみやしづき》だ。見ての通り抜群の男前の上に、この雑誌でもナンバーワン人気のモデルだからな。失礼のないように気を配れよー?」
見とれていたのがモロばれだというように、ニヤッと笑いながら氷川がそう言ったのに対して、遼二は少々バツの悪そうにペコリと頭を下げてみせた。
そんな様子に男の方はクスッとおかしそうに笑うと、いきなり至近距離まで身を乗り出すようにしながら、
「へえ、すっげイイ男じゃん? 助手なんかにしとくの勿体ねえくらいだな? よろしく遼二」
ニヤリと瞳を細めてそう言った。
(いきなり呼び捨てかよ……)
親しみを込めてなのか馴れ馴れしいだけなのか、きっと売れっ子モデルなのだろうが、しょっぱなから格下扱いをされたような気がして遼二は軽くへこんでしまった。
ひとくちに撮影といってもいろいろと種類はあるのだろうが、こんなことなら女性誌の現場にいる方が居心地がいいや――そんなことを思いながら黙々と機材運びに精を出す。そうこうする内に他の男性モデルたちが続々とスタジオ入りして来る様子に、ああやっぱり男性誌の撮影なのだと確信した。
見れば四、五人はいるモデルが、それぞれにダークで粋な感じのするスーツ姿でウロウロとしている。鼻歌まじりに化粧をチェックする者、一服をする者など様々で皆案外リラックスしているようだ。
女性誌の時はメイクや衣装替えなどでごった返していたから、雰囲気としてはこちらの方が気楽でいいかもなどと暢気なことを思ってもいた。
そんな遼二のお気楽思考が一気に引っくり返されることになったのは、それから間もなくして始まった彼らのミーティングの会話を聞いた時からだ。自らの師匠である氷川を取り囲んで交わされ始めた奇妙なやりとりが気になって、ふと彼らの方を振り返った。
「今日のテーマは”裏社会に盾突いて追われる男”っていうところだからな。紫月の役柄設定はどんなのがいいと思う? 例えば……撮っちゃいけねえモンを撮っちまったフリーカメラマンとかどうだろう? 闇取り引きの現場を抜いてマスコミに売ったのがバレて取っ捕まる設定なんか」
「或いは組織を裏切って、逃亡するところを押さえられた幹部とかでもいいんじゃねえ?」
「そーだな。紫月の雰囲気だったらフリージャーナリストよか幹部設定の方が合ってんじゃね? カメラマンだったら服装もラフなイメージがあるけど、紫月はスーツとかの方が似合うだろ?」
「だな! それにスーツの方が脱がした時に色気あんだろうし」
モデルの内の一人がクスッと笑いながらそう言ったのが妙に耳に残って、遼二はしばし聞き耳を立てながらも、荷を解くふりを続けていた。
驚いたのはその直後に続けられた会話だ。
「いいね、スーツ姿で陵辱されちゃう紫月! 今日のセットにも合ってんじゃん? 廃墟まで何とか逃げ込んだところで取っ捕まって犯《ヤ》られちまう姿なんて超ソソるだろ?」
「ならスーツは白系がいんじゃね? 俺らが黒だから、そーゆー意味でも目立つし」
「それに脱がした時も白の方がエロい感じだしな? この際、下着も白にすれば?」
破廉恥な会話の内容とは裏腹に、話している当人たちの表情は至って真面目そうなのにも驚かされる。
一体何の撮影だというのか、思わず先程紹介された”紫月”というモデルを視線が捜してしまった。
彼はどんな顔をしてこの会話に参加しているというのだろう。
急激にバクバクとし出した心臓音に遼二はひどく戸惑いながらも、事の成り行きが気になって気になって仕方なかった。
紫月はどうやら男らの円陣の中心にいるようだが、ここからでは彼らの背中越しで表情までは窺えない。
心拍数は速くなるばかりだ。
しばし荷解きを忘れて、ミーティングの様子にばかり気を取られていた。
◇ ◇ ◇
「よう遼二! セッティングは済んだか? もうちょいで撮影入るから今の内に休憩取っとけ」
打ち合わせを終えたらしい氷川を目にするなり、待ち切れずといった調子で遼二はその側へと駆け寄った。
「あの……氷川さん、今日の撮影って……」
言いづらそうに、おずおずと訊く。そんな遼二の表情からは、いったい何の撮影なのかと怪訝そうにしているのがすぐに分かる。氷川はまたしてもおかしそうにクスッと笑うと、まるで種明かしせんとばかりに得意げに口元をゆるめてみせた。
「ああ、それね。言っとかなきゃって思ってたよ。実はな、官能写真集の撮影なのよ」
「はぁッ!? か、官能っ!?」
「でっけー声出すなバカッ! だから昨日言っといたろ? 今日の仕事は今までとはちょっと違うぞって」
そんなことは分かっている。予想もしない返答にとっさに大声が上がってしまっただけだ。それに官能云々といったって、メインモデルは先程のあの紫月という男ではないのか?
まさか今から別の女性モデルでもやって来るというわけか、しばし頭が混乱しているといった表情で言葉を失っている遼二の様子を面白がるように氷川は口角を上げた。
「もともとはゲイ雑誌の特集企画から始まったんだがな。さっき紹介した紫月が結構な人気なんで単独写真集を出すことになったんだ。確か今回で三冊目だったっけか……? ま、今じゃ案外女性のファンも増えてきてるみてえだけどな? 見ての通りの男前だが、意外に性質はフレンドリーだから仕事はやりやすい。その代わりヘンなとこにこだわりがあるっつーか、紫月は気に入ったモデルとしか絶対に組まねえし、カメラマンも自分で選ぶんだ」
そう説明されて遼二は思わず目を丸くした。
ゲイ雑誌で人気のモデル――確かにギョッとするほど綺麗な男だったが、妙に含みを持ったような独特の威圧感が何とも心地悪いと感じたのも確かだ。
思わず心の中を覗き見られるような、或いは鷲掴みにされるような、とにかくこれまでに体験したことのないような奇妙な感情を掻き立てられるような気がするのだ。
たった今、出会ったばかりの男のことが何故にこんなにも気に掛かるというのだろう。彼についての話題だというだけで頬が染まるような気さえする。
遼二はそんな自分の気持ちの揺れが信じられずに、また悟られたくもなくて、さほど興味のなさそうにして平静を取り繕おうと必死になっていた。
「……すごいっすね? そんなに権力《ちから》あるんですか、あの人?」
わざと冷めたふうな口調でそう訊ねながらも、内心はドキドキと心拍数が早い。
「仕事が絶品だからな。そんくらいの我が侭だったらまかり通るってとこだろ? ま――、そんな紫月に選ばれたわけだから、俺らもがんばっていいモン撮らなきゃって思うわけよ。お前も初めてのことだらけでたいへんだろうけど、しっかりアシスト頼むぜ!」
ガッツポーズでそう言われて、コクンと頷いた。
新鋭写真家だなどともてはやされるだけあってか、さすがにこの御師匠様は堂に入っている。今までもそうだったが、どんなに慌しい現場でも決して苛立たず、物怖じもせず、陽気にスムーズに仕事をこなす。
だが、まさかゲイ向け官能写真の撮影まで引き受けているとは思いもよらなかったというのが正直なところだった。しかも今まで同様、やる気も満々らしい。
一流になるってのはこのくらい度量が深くないとダメなのかなぁ――などと変なところに感心させられたりもして、遼二はただただ驚いたように自らの師匠を見つめていた。
◇ ◇ ◇
そしてしばらくの休憩の後だった。支度を整えてメイクルームから姿を現した紫月という男を再び目にした瞬間に、遼二は自身の中で例えようのないような何かがうごめき始めたような感覚に囚われるのを感じて、少々戸惑った。
整い過ぎた顔立ち――
やわらかそうな髪――
思わず触れたくなるような肩先――
そのすべてが得体の知れない感情を炙るようなのだ。
この気持ちはいったい何だ――?
「お待たせ! こんな感じでどうだ?」
他のモデルたちにそんなふうに声を掛け、茶菓子の置いてあるテーブルの周りで座談する。最終打ち合わせなのだろうか、紙コップに入った茶をすすりながら、皆と会話を交わしている彼から目が離せなかった。
先程聞きかじった打ち合わせ通りの真っ白なスーツを身にまとい、その粋なスーツのところどころに泥で擦ったような汚れが施されている。おまけに顔には殴られた痕のような痣がメイクされ、その痛々しさが整った顔立ちをより一層魅惑的に見せてもいるようで、彼の出で立ち仕草、すべてにドキリとさせられる。
しばしポカンと口を開きっ放しで視線が外せないといった様子に気が付いたのか、紫月という男は意味ありげに笑うと、撮影セットへと向かい際にわざわざ側を通って、フッとからかうように微笑んでいった。
すれ違いざまにフワリと立ち上った何とも言いがたい甘い匂いは香水だろうか、バクバクとしてとまらない心臓音に遼二はひどく焦らされてしまった。
白いスーツの後ろ姿、独特のクセのあるような歩き方が妙に心を逸らせる。
思わずその肩を掴んで振り返らせたくなるような、引き止めたくなるような、ヘンな感情までもが湧き上がる。
ものすごく不思議な感覚だった。
今までに味わったことのない感情だった。
理由の分からないままに気持ちが揺れる。
奇妙な胸騒ぎを体現すべくか、この直後に想像をはるかに超えた衝撃の撮影体験が待っているなどとは、遼二にとって思いもよらなかった。
- FIN -
※次、エピソード「渦」です。