官能モデル
他人の視線を気にしながら、コソコソとアダルト書籍のコーナーをうろついていた。
ストレートの黒髪を、めいっぱい頬に垂らして顔を覆うようにうつむき加減、背筋を丸めてなるべく目立たないように装っても、一八三センチの長身では限界があろうというものだ。しかも幸か不幸か、よくよく整った顔立ちは、男前というより他に形容のしようがないくらいで、ワイルドさの中にも人の好い性質が透けて見えるようなソフトさをも併せ持っている。それら二つの見事中間をいくような曖昧さがブレンドされて、ひどく目立って仕方がない。誰かとすれ違う度に、必ずといっていいほど、振り返って顔を見られるのが実に厄介だった。しかもほぼ控え目な感じでそれをやられるから、余計に気に掛かって仕方ない。なんだか密かに監視されているようで、不安な気分にさせられるのが堪らない。
ここは駅ビルの中にある大手書店の一角だ。駆け出しカメラマンである鐘崎遼二《かねさきりょうじ》は逸《はや》る気持ちを抑えながら、とある本を探していた。
大学時代に友人に誘われるままに入った写真サークル、もともと興味の”キョ”の字もなかったこの世界に魅了されてしまったのはいつの頃からだったろうか。気付けば自らを誘った友人以上にのめり込んでしまった挙句、卒業を機に本格的にその道を目指そうと、アルバイトをハシゴしながら現在に至る。
そんな中、最も憧れであり目標にもしていた新進写真家の氷川白夜《ひかわびゃくや》の助手として使ってもらえることになったのは、つい先日のことだった。
サークル時代の後輩から氷川の事務所で助手を募集していることを聞いて、ダメ元で履歴書を片手に押し掛けた。応募の詳細がいまいち分からなかった故、焦って直談判のような形をとってしまったその行動が意外にも功を奏して、氷川本人になかなかガッツのある奴だとその場で採用を口にされた時には、喜びを通り越して驚きもひとしおだった。
そうして都合のよすぎる追い風に乗るように始まった助手としての日々は、過酷でありながらにして充分に刺激的だった。
早朝から深夜までの慌ただしい撮影、華やかなファッションモデルたちを目前に雲の上を歩くようなトキメキの連続。はたまた夜通しでの画像データの整理などすべてが新鮮で、忙しないながらも充実した毎日を過ごしていた。そんな折だ。
つい過日の撮影現場で、助手になって初めてといっていいほどの大失態をしでかしてしまったのだ。モデルたちの目の前でレフ板を引っくり返し、挙句は撮影自体をも中断させてしまうほどの失態。原因はゲイ向け官能写真集の現場で目にした光景そのすべてが衝撃で、あまりのカルチャーショックに身動きがとれなくなってしまったというものだった。
若手ではその右に出る者はいないというくらいにもてはやされている師匠の氷川が、まさか官能写真の撮影にまで携わっているということにも驚かされたが、それが男性同士の絡み合う――しかも恋愛ものではなく陵辱強姦系だったということが輪をかけて刺激となってしまったわけだ。だが失態以前に最も衝撃だったのは、その撮影で主役を務めていた男性モデルのことが気に掛かって、それ以来脳裏から離れないということだった。
そして今、そのモデルが載っているというゲイ雑誌を探して、密かに大型書店内をウロついているというわけだ。
確か、写真集も数冊出していると言っていたっけ。それらの内のどれでもいいから、とにかく手に入れば見てみたいという欲求が抑えられずに、日々モヤモヤとした感情に振り回されている今日この頃――まさか自身の中にこんな欲望があったなどとはおおよそ信じ難い。
だがちょっと視点を変えてみれば、これだって立派な仕事の一環だ。例の男性モデルと組む撮影は今後もあるようだし、次の時にまた同じ失敗を繰り返さない為にも、彼についての知識を得ておいた方がいいのは当然だろう。その為に彼の出ている写真集や雑誌に目を通しておくのは、冷静に考えてみても決しておかしなことじゃない、むしろ褒められた学習意欲といっていい。
ここへ向かう途中に何度も自分にそう言い聞かせながら来た。かくいう、書店を回るのはここで六件目だ。自社ビルを持つほどの大型書店をはじめ、少々入りづらいそれ専門のマニアックな店まで、思いつく限りでアダルト系を多く置いていそうなめぼしい所を当たったが、そのどこにもお目当てのものは見当たらなかった。
まあ、いつ頃出た写真集なのかもはっきりとは分からない上に、そういった類のコーナーで腰を落ち着けてじっくりと探せるほどに肝が据わってもいない。男女もののアダルトコーナーでさえ足早になってしまう肝っ玉の小ささで、ゲイ向け官能写真集を堂々と探せるわけもなかった。
先程から何度も何気ないふりを装いながら、書店の隅っこの方に配置されたそれらしきコーナーを素通りする。千里眼よろしく屈指してみても、堂々とその場にいることすら冷や汗もののこんな調子では、たった一冊のそれを探し出すなど不可能に等しかった。
既に夜の九時を回っている。如何に遅くまで開けている繁華街の書店とて、そろそろ閉店間際だろう。なんだかどっと疲れが押し寄せてくる気がして、諦め半分に店を後にした。
夜道を照らす街灯の下を歩きながらアパートメントへと向かう足取りは重い。早い話がたったひと言、師匠の氷川に『あのモデルの写真集を見てみたい』と言ってしまえば済むことなのは重々承知だ。氷川ならば、自分が撮った写真集を持っていないわけがないからだ。だがどうしてもそれを言い出す勇気がなかった。例え”勉強の為”という大義名分があったにせよ――だ。
見てくれによらず、案外晩熟でウブな遼二には、堂々とその”大義名分”を掲げるには荷が重過ぎるというのは百も承知だったわけだ。
後ろめたい思いが先立って、絶対によからぬ方向に勘繰られるだろうことは目に見えている。
とにかく自分で何とかするしかない。ほぼ半日以上を費やし、足を棒にして歩き回ったせいで、ダルさが酷く堪えてしんどいったらこの上ない。何だか子供の頃の遠足の帰り道を思い出してしまう。たかだか一冊の写真集の為に何てザマだ。実際、どうかしてしまったんじゃないかと思うほどに、頭の中は混乱してもいた。
◇ ◇ ◇
部屋に帰ってすぐさまシャワーを浴び、冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶の入ったペットボトルを取り出して、一気にそれを飲み干した。
「やっぱビールにすりゃよかったかな……?」
そんなどうでもいいようなことが思い浮かんでは、ああ疲れてるんだなと苦笑いがとめられない。ふと、視界に飛び込んできたモバイルタイプのパソコンに、瞬時にひらめきが過ぎって、急いでそれを立ち上げた。
そうだ、ネット通販って手があったじゃねえか!
そう思うと、何でこんな単純なことに気が付かなかったんだと今日一日の労力を振り返っては、ますます苦笑。つまりはそれほどまでに余裕がなかったということか。
「俺ってなんちゅーアホ! つか、バカ? わざわざ本屋で対面購入しなくったって、こんなイイ方法があったじゃねえかよ……」
自分自身のバカさ加減にホトホト呆れながらも、先ずは使い慣れた大手通販サイトのページを開く。
「アダルトカテゴリ……だろうなぁ、多分……」
ブツブツと独り言をつぶやき、わざと遠回りをするように検索窓を避けて、”本と書籍”の欄から写真集へと進み、マウスをクリックするその度に指先にじんわりと汗が浮かぶようで心拍数が増加する。一之宮紫月――と、例のモデルの名前の文字列を打つ瞬間がマックス状態だった。
検索待機中のマークが画面に浮かび、すぐさま結果ページへと切り替わる。ほんの短いこの一瞬が恐ろしく長く思えるほどに、心臓がバクバクと高鳴り出すのが何ともムズ痒かった。
――あった!
「……ちょい待ち……これって!?」
何とも皮肉というべきか、予想外というべきか、なんとお目当てのソレは、師匠の氷川が出した写真集の一環として、”氷川白夜”の一覧の中に埋もれるような形で紹介されていた。少々複雑な気分だが、ともかくあっただけでめっけモンという思いで、それらしきをクリックしてみた。
ざっと見た限りで個人的な写真集の紹介が二つ三つ、他にはゲイ雑誌全般の中に小さな特集が組まれているような感じのものが数冊。その中で一等上に出てきたものがお目当ての写真集なのだろう、太字で記されているタイトルには『一之宮紫月ファースト写真集/月下繚乱』とある。
商品紹介には、『朔夜編/残月編の二つのテーマに沿った全カラー撮り下ろし。新月に紛れて無理矢理奪われる苦悩を描いた朔夜編と、月光の下で乱される淫靡な魅力が満載の残月編。対極のイメージで撮った紫月のファースト写真集。カメラマンは新進アーティストの氷川白夜が手掛けているのも話題を呼んでいる。』とあった。
残念ながら――と言っていいべきか、イメージ画像はないようだ。だが、紹介欄を一読しただけでも何ともいえない奇妙な何かに全身を支配されるような心持ちになって、遼二は少々焦った。
ゾワゾワと背筋をのぼってくるようなこの感覚は、あの時の撮影現場で感じたものとは異なれど、一種独特のものだ。次第に下腹あたりが掬われるような、足腰から力が奪われていくようなヘンな気持ち――欲情の感覚に他ならなかった。
そんな気持ちを鎮めるように機械的な感じでタイトルをクリックし、だがそれこそ残念なことに写真集は売り切れているらしく、『在庫なし』と出てきた。入荷予定を見ても不明とされている。仕方がないので、元のページに戻って次を見た。
二番目のそれも最初の物と同様、紫月個人の写真集のようで、タイトルは『天使と悪魔の狭間/一之宮紫月ザ・セカンド』とあった。二冊目の今回はどっぷりと本気の純愛をテーマにしているらしく、紹介文にもそれらしいことが綴られていた。恋愛要素満載というだけあってか、この本には相方モデルの名前も記されている。”橘京《たちばなきょう》”、聞いたことのない名前だ。
「当たり前か……俺、こっち方面はまるっきし縁なかったしな……」
二度目になると先程よりは慣れてくるのか、左程ドキドキせずに、どちらかといえば期待の気持ちの方が強い感じでクリックの指先もスムーズだ。そんな自分にまたしても苦笑いが漏れ出すのを抑えながら、次へとページを進めた。
こちらもタイトル画像はナシ、しかも一冊目と同様売り切れ状態なのに、かなりの勢いでガッカリとさせられた感が否めない。
「……ッ、こっちも売り切れ、入荷も未定ってさ……」
これってもしかしてわざとかよ――と思わされるくらいに全滅だ。
そういえば思い出した。確か師匠の氷川が言っていたことには、一之宮紫月の写真集は過去に二冊が出されていて、今回の撮影が三冊目に当たるとかだったような――。
ということはこれで全部というわけか。なんだか癪《しゃく》に思えてきて、この際は雑誌の一部でもいいからという気にさせられ、検索を続けた。
やはりこういったものはソレ専門のサイトでなければ扱いはないのだろうか。少々気後れ気味ではあったが、それらしきを調べて回った。
そんなことを繰り返し、途中で別のゲイ写真集のコーナーを俳諧、散々それ系統の商品ページを渡り歩いたりしている内に、あっという間に夜は更けていった。
いくつか別の通販サイトを巡っても、結局お目当てのものはすべてが品切れ、どこへ行っても肩すかしをくらったようで、一気に疲れが押し寄せてきた。まあ明日は出張撮影もスタジオ撮影もなし、事務所でデータ整理がメインの予定なので気に病むまでもないといえばそうだが――とにかく気力体力共に削がれて、急に眠気が襲ってきた。
そのまますっかりと眠りに落ち、翌朝は出社ギリギリで目が覚めて、慌てて身支度だけを整えて家を出た。朝食は満足どころかほんの一口もできないままに、昨日の疲れも手伝ってか、全身がダルダルの腑抜け状態だ。
「あーあ、今日、現場入ってなくてよかったぜ……」
事務所に着き、荷物を置いて、先ずはコーヒーマシンに向かった。
とりあえず目覚ましだけでもしなければと、濃いめに豆を挽き、今日の事務処理の予定を確認する。師匠の氷川はまだ顔を見せていないことに少々ホッとさせられて、またまた苦笑いに口元がひきつる思いだ。
と、急に隣の事務室の扉が開き、中から事務所の大先輩である中津川《なかつがわ》という男が出てきたのに、驚いてそちらを振り返った。
「よー! 早えな。あ、俺にもコーヒー頂戴!」
ふぁーあ、と大アクビをしながら気さくそのものだ。
この中津川というのは、氷川の初の助手として数年前から修行を積んでいて、最近では独り立ちも間近といわれている男だった。助手といっても実年齢は氷川より五つ六つ上の三十代も後半らしい。無精髭がトレードマークの、一見にしてズボラな雰囲気丸出しの大男だが、仕事は細やかで氷川譲りの才覚もあるとされ、評判も上々だ。そのくせ威張ったようなところは微塵もなく、ペーペーの新人や後輩などにもわけ隔てなく接してくれる懐っこさは本当に有難い。無論、遼二も例外ではなく、事務所に入ってからこのかた、よく面倒を見てもらって非常に助かってもいた。
その彼が朝一で事務室から出てきたところを見ると、きっと徹夜で作業をしていたのだろう、遼二は淹れたばかりのコーヒーをカップへと注ぎ、眠たげにしている彼へと差し出した。
「徹夜だったんスか?」
「あー、まあな。昨日まで地方だったからさぁ。週末までに一本上げねーってーと、締切りに間に合わんのよ」
「そーすか。お疲れさまッス」
甘党の彼の為に砂糖とミルクを勧めながら、ペコリと頭を下げてみせた。そんな遼二に中津川はニコッと微笑むと、
「で、どうよ調子は? だいぶ仕事にも慣れてきたか?」
相変わらずの懐っこさで訊く。その、決して作り物ではない爽やかな笑顔に不思議と気持ちが和むように思えて、遼二はつい心のままをこぼしてしまった。
「まずまずってトコです……。仕事は楽しいし、氷川さんに使ってもらえるってだけで文句なんかないんスけど……。俺、足引っ張ってばっかで」
「はあ? そーなの?」
「ええ、まあ……。こないだなんかすっげえ大失敗しちゃって……撮影中断させちまったんです。氷川さんはもちろん、モデルさんたちにも迷惑かけちまって。俺、経験少ねえっつーか、あんなの初めてだったから焦っちまって大ドジ踏んじまった」
「あんなの――?」
ズズーッとコーヒーを飲み干しながら中津川は不思議そうに首を傾げ、だが次の瞬間、突如何かにひらめいたとでもいうような大声を上げてみせた。
「あんなのって、もしかしてアレかっ!? 例のゲイアダルトのヤツかよ!? 氷川の奴、マジでお前を連れてったのか!?」
「え? ええ……けど、あの、なんで……」
――何故そのことをを知ってるんですか、というような顔つきで遼二は彼を見やった。
「ああ、知ってる知ってる! 前に氷川がそう言ってたからよ。官能写真集の撮影にお前を連れてくって。俺はよせって言ったんだがな? 免疫のねえ新人なんぞをあんなトコに連れてきゃ、フツーに衝撃受けるでしょうが! けど条件に合う助手はウチの事務所内じゃお前しかいねえって氷川がよ、そう抜かすから。そっか、マジで連れてかれたのか、お前」
少々呆れたように、だが心底『お疲れさん』とでもいうような調子で、マジマジとそんなことを言われて、どうにも返答のしようがなく、ペコリと軽く頭だけを下げる。
そんなことよりも条件に合う助手が自分だけ――とはどういうことなのだろう?
中津川の言った意味がどうにも気になって仕方ない。そんな様子を察するかのように、彼は自分の方から先を続けた。
「お前の連れてかれた現場ってアレだろ? 何ってったっけ? ナントカ紫月とかいうゲイモデルの……」
「あ、はい。一之宮紫月さんです」
「そうそう、一之宮紫月! そいつってさ、パッと見、感じ悪ィ野郎じゃなかった? 何つーか、高飛車ってか無愛想ってーか!」
「はぁ、まあ……」
「そいつよ、撮影ン時にてめえと組むモデルもカメラマンも全部てめえで決めるって有名なのよ! 要はあれだよ、てめえで気に入った奴としか仕事しねえってことなんだろうが……まあとにかくご高慢な野郎でな?」
「そーみたいッスね。氷川さんもそんなこと言ってました」
「だろ? 氷川のことは大のお気に入りらしいからな、よく指名が来るわけなのよ。俺もあのモデルの初写真集の撮影ン時、手伝いで入ったんだけど、実際ビビったもんなー! ゲイ写真ってだけでもアレなのによ、目の前で本番ギリギリかそれ以上みてえな演技かまされた時にゃ、マジで腰引けそうんなったもんだぜ」
懐かしいなあとばかりに中津川は火を点けたばかりの煙草の煙をうまそうに吸い込んでは、『ふぅー』と深くそれを吐き出した。
「けど知ってっか? あれって全部”演技”なんだってな?」
え――?
「フツー、あそこまでエロいと案外ホントに感じちゃってんのかー、とかって思うじゃん? まあ、今回は紙面で静止画だからアレだけど、ゲイビだったら本番あるわけだし。けど紫月ってヤツの場合は最初っから最後まで演技らしいぜ? 絡みシーンでも全然勃たねえって話。相手のモデルなんかは結構ソノ気になっちまうらしいけどよ」
それを聞いて、何故だか知らないが少々意外に思えた。というよりも、実のところそんな内情までは想像する余裕もなかったという方が当たっているが、今の話を聞いて、これまた何故かホッとした感が湧き上がるのに、そちらの方が驚愕に思えた。つまりは、紫月というモデルが”仕事”という枠を超えたところで、”その気にならない”ということに安堵させられたというわけだ。無論、自覚はないものの、これがいわゆる興味から出た嫉妬であることは明らかだった。
遼二は話の流れついでに乗っ掛かるようにして、
「あの……紫月さんって、マジにゲイなんスか?」
気のいい先輩に甘んじるように、最も気にかかっていることを投げ掛けた。
「マジにって? ああ、実際もそうかって意味かよ?」
「……や、別に……しっ、紫月さんに限らずですけど……。ああいうモデルさんたちって、皆さんがそうなのかなって……」
「さあな。そうじゃねえのも勿論いるだろうし。けど紫月ってヤツはそうだって聞いたぜ? しかもここだけのハ・ナ・シ! 写真集同様、実際もニャンコだって噂だぜ?」
急にヒソヒソ声でニヤけまじりにそんなことを囁かれて、遼二はキョトンと首を傾げた。
「ニャンコ?」
「おうよ、ネコ! けど新人の頃は逆だったんだよな、確か。タッパもあるし、パッと見はタチ役に見えなくもねえだろ? 編集部も本人もそのつもりでワイルド系目指してたらしいんだけどよ、読者の要望が多いからとかで逆を演《や》るようになったんだと」
「要望……ですか」
思わずそう相槌ちを打ったが、それより何よりネコだのタチだの、そりゃいったい何のことだ?
ワケが分からず、既に話に付いていけていない状態だったが、それでもひょんなきっかけから次々と飛び出す知られざる彼の素性めいたものへの興味がとめどなくて、遼二は懸命にその先へと会話を振った。
「やっぱ読者からの要望とかって大事なんスかね?」
「そりゃそーだろ。商売絡んでくりゃ当然でしょ? で、何だっけ? なんでもヤツが犯《ヤ》られるっぽいのが見てえとかって編集部に投稿が殺到したって話でよ」
「ヤられる……って」
「すごかったらしいぜ? 『紫月君がボコられて犯されるヤツをお願いします』とかさ。要は単にケツ掘られるんじゃなくって強姦されるみてえなシチュの希望が異様に多かったんだと! ゲイアダルトにしちゃ驚くほどメールとか書き込みがきたってんで、試しに特集組んでみたらすげえ反響! 増刷しなきゃ間に合わねえ勢いだったとか」
「…………」
「その流れで写真集も陵辱系に決まったんだよな。普通にヤってるだけじゃつまんねえからって。まあ、氷川はそれならそれでエロと芸術ギリギリみてえな感じで撮ってみてえとかって、案外張りきってたけどな?」
次々と明かされる彼についての話――それらを耳にしながら、まるで秘密を覗き見ているような気分になって、と同時に遼二は軽いカルチャーショックを受けた心持ちにさせられてしまった。しばらくは相槌ちさえ返せずに、軽く硬直状態が解けない。
「で、何? お前も例のエロ演技見て驚いちまったってわけか? そんで大失態?」
「えっ!? あ、ええ、まあ……」
バツの悪そうに視線を泳がせる遼二を横目にしながら、中津川はもう一服を吸い込み、そしてフッとやわらかく微笑んだ。
「ま、でも氷川がお前を連れてった理由が何となく分かるなぁ。ノンケ、ゲイ関係ナシに紫月ってのは仕事組む相手に関してはうるせーみてえだから? おめえくれー男前ならヤツからも文句出ねえだろうって、氷川はそう踏んだのかもな? なんせ俺ン時なんか『ムサくるしいおっさん』呼ばわりだったらしいからなー?」
「オッサン……ッすか?」
「そ! ひでぇだろー? もっとイケメンで爽やかな助手はいねえのかって、文句タラタラだったって話よ!」
ガハハハ、と笑って中津川はフィルターギリギリまで灰になった煙草をひねり消した。
「さて、と。そろそろ引き上げるとすっかなー」
そう言って背伸びをし、だが、ふと思い出したように自らの机へと舞い戻ると、引出しを開けて何やらガサガサと忙しなさげに探し物をしだした様子に、遼二は未だポカンとしたまま視線だけで無意識にその背中を追い掛けていた。
すると、少ししていきなり大声を上げたかと思いきや、
「おー、あったあった! これだよ、これ!」
うれしそうに叫ぶと、中津川は数冊の本の束を差し出してみせた。
「ほらよ! よかったらこれでも見て勉強しとけ! つか、免疫付けとけっつった方が正解か?」
ニヤッと微笑《わら》いながら差し出されたものの表紙を見た瞬間に、遼二は思わず『あ――ッ!?』と声を上げてしまった。
長い間、引出しの奥底に放置してあったせいでか、表紙の帯が折れて擦り切れてしまっているが、それは紛れもなく喉から手が出るほど欲しかったものに相違なかった。そうだ、昨日一日足を棒にして探し歩いたお目当てのそれ――官能モデル一之宮紫月の写真集だ。
「お前にやるよ。俺も一応携わらせてもらったんで取っといたんだが……それ見ていろいろ研究しろや。ってか、やっぱ免疫用って方が合ってっか?」
中津川は豪快に笑いながらそう言うと、写真集をよこして大アクビをしながら去って行った。
後に残された遼二は何が起こったかというほどの軽い硬直状態のまま、しばらくは呆然とした感じでその場に立ち尽くしてしまった。
ずっと見たいと望んでいた写真集を両手に抱えたまま、ブラインドから差し込み始めた朝日が事務所の床に長い影を作っていくのを、ぼんやりと見下ろしているのが精一杯。高揚し、だがその反面、手にしたそれをすぐに開くこともできない。遼二にとって、それほどに衝撃であった。
その日は一日中うわの空同然で過ごし、夕刻になって事務所を出る頃になっても、未だ現実感のないままに帰路についた。
それでも自身のアパートメントが見えてくる頃には幾分か心が逸り出し、心拍数も上がるような気がしていた。ドアの鍵を開け、靴を脱いで荷物を置けば、今までの夢遊感から急に現実へと引き戻されるような感覚が襲い来る。
バクバクとし出す心臓音は最早ただひとつのことで頭がいっぱいであることの証拠だ。逸る気持ちを抑えて鞄の中から二冊の写真集を取り出し、震える手でページを開いた。
どうしてか事務所では見る気がおきなかった。
独りになって誰にも邪魔されない所で見たい、というよりは誰にも知られない所でといった方が正確か、とにかく無意識にそう感じていたのだった。
先ずはファースト写真集の方からだ。別に順番通りにというわけじゃないが、何となく【1】から見なければいけないような心持ちになって、ファーストの方を手に取った。
表紙は墨色一色にエンボス加工がなされているようなシンプルなもので、一見しただけでは何の本か判別できないような仕様である。
最初のページを開くと、まず目に入ってきたのがサブタイトルの文字の羅列だった。昨夜ネット通販のサイトで見たのと同じものだ。
『朔夜編 - 新月に紛れて奪われるキミの一部始終を見ていたい』となっている。昨夜見た紹介文を少々もじってあるようだ。これが実のタイトルなのだろう。
いちいちそんなことを考えてしまうのは心拍数を抑える為か。既に足腰がくだけるような、軽い欲情状態に陥りそうになっていることが信じられなかった。
仄暗い闇に薄い雲が流れるような空の写真、そして深い木々に覆われた森が風に揺られてざわめくような写真へと続き、その次をめくれば古びた一軒の小屋のようなものが映し出されたショットが、わざとブレたような手法で写し出されている――
次のページを開いた瞬間に、一瞬息が止まるかと思うほどの衝撃が襲い来た。
薄暗い小屋の中、藁のような素材で編まれた敷物の上に、着物姿のあのモデルが突き飛ばされたような格好で膝をつき、こちらを振り返っている。一之宮紫月だ。
今より若干若いからだろうか、それともデビューしたてで初々しいからなのか、先日見た当人のイメージに敢えて付け足すならば、”もっと付け入りやすい”とでもいうような雰囲気が漂うのに、一気に欲情を煽られる。たったこれだけでそんな気分にさせられるのは、まさに驚愕だった。
次をめくればその彼の表情のアップがしっかりと読者を見据えて、軽く睨みをきかせているようなショットが現れた。実際には読者を、というよりは彼の目の前に居るだろう誰かを見据えているという設定なのか。この時点で既に淫猥さをかもし出しているのには、正直すごい表現力だと、しばし欲情を忘れて感心させられる。
紫月という男の、モデルとしての演技力もそうだが、ここで遼二が感服させられたのは、どちらかといえば氷川の撮り方や見せ方の方だった。
やはり新鋭ともてはやされるだけのことはあってか、これが官能写真集であることを忘れさせられるくらいに、見る者を瞬時にその世界観に引き込んでしまうのはさすがだ。当初、何でこんな売れっ子カメラマンのくせに官能写真などを手掛けるのだと思った自分が恥ずかしく思える気がしていた。
だがそんな感銘に浸っていられたのはほんのそこまで、次のページをめくった瞬間から、生真面目な感動が吹っ飛んでしまうくらいの衝撃的なショットが心拍数を爆発させていった。
男に背後から抱きすくめられ、明らかに逃げ惑うような動きのあるショット。その次には着物の袷を剥がれ背中が無防備この上ない丸出しにさせられたまま、それでもこちらを睨みつける強気な仕草のアップへと続く。髪を掴まれ、口元をふさがれて激しく抵抗するショットからは、まるでその場の叫び声までが聞こえてきそうなほどに臨場感を伴っている。
やはり背後から抱き包まれたまま、胸飾りをまさぐられては仰け反るさまに、ゴクリと喉が鳴った。
まくし上げられた裾から大胆な太股があらわにされ、尻の半分を鷲掴みにされている。
片方の腕を捕り上げられて、痣がつくほどに爪を立てられ拘束されて、唇を噛み締めている。
恥辱に堪える視線が、手前で彼を乱暴している男の着物の隙間を縫って睨み付けてきているのが分かる。その瞳が心なしか潤んでいるふうに感じられるのは撮り方のせいなのか、紙面の中の彼と視線が合うような感覚に、バクバクと鼓動がうるさく響くのがうっとうしくてたまらない。
胸の突起を親指と人差し指に挟まれ弄られて、ほのかに紅く色づいたような感じのドアップ、口中に突っ込まれているのはガサついた男の指先、そして重なり合う腰と腰の密着ショット。
もう見るに堪えない。
少し濡れたように見える髪は激しい抵抗でにじみ出た汗のせいか、乱れたその髪を藁の敷物に押し付けては激痛に耐えるような表情にショックが走る。いま、この瞬間に貫かれたのだろうということを想像させられる。その苦痛をやわらげる為か、無意識に敷物を掴み上げる手だけのアップショットが、彼の感情をリアルに訴えてくるようだった。
そのショットを境に、後のページには手だけ、足だけ、鎖骨だけといった、部分的なショットのアップがしばらく続いていた。まるでひとしきり奪われた後に放置されたような、あるいは放心しているような彼の姿が脳裏に浮かぶ。虚ろな視線と白肌に浮かぶ汗の玉が激しい情事を物語っては、心臓が苦しくなるような不快感を突き付けてくる。
腰の部分に儀礼的に引っかけられた着物、その脇に散乱しているのは鼻緒の切れたような男物の草履と解かれた角帯が何とも生々しくて、思わず目を背けたくなった。
先を見るのも不快に思えたが、意志とは裏腹に指先がページをめくり続けた。後半は『残月編 - 月光の下で乱される淫靡なオマエを壊したい』だ。
「は……っ、いい加減にしてくれよ――ッ」
何だかひどく苛立ってやまず、舌打ちが飛び出した。強姦系のショットなど見ていて気分のいいものではない。そのはずなのに自身の身体は明らかに興奮し、欲情をきたしているのがこれまたひどく不快だ。不愉快な苛立ちがどうしようもなくて、気分は最悪だった。
そんなウサを晴らさんと、一旦写真集を置いて冷蔵庫からビールを持ち出し一気にそれをあおった。酒でも飲まないといられない、そんな気分だったからだ。
酒のせいで少々気が大きくなったのか、苛立ちのままにページをめくり、だが今度は先程とは打って変わった欲情にまみれるようなショットの連続に、視線は釘付け、目の前が歪む。
やはり前編と同じく和服姿だが、今度は自ら望んで抱かれているような甘美な表情が写し出されていて、一瞬、呼吸がとまりそうになった。
ページをめくるごとに脱がされてゆく着物、それにつられて乱れていく彼の表情と仕草。身を捩《よじ》り、眉を震わせ、快楽に溺れる表情は正に官能という以外にない。
わずかに震える手で二冊目を開き、逸るように乱暴にページをめくった。
見知らぬ男性モデルと濃厚に絡み合う全裸らしきショットの連続。
筋肉のついた腕に抱きかかえられて仰け反る背筋に揺れる髪。
逞しい肩先にしがみつきながらクッと歪められた表情は達く瞬間のものなのか、男に抱かれ虚ろに空を漂う彼の視線を見ているだけでも喉が焼けつきそうになる。一冊目にも増して淫らな色香にあてられ、おかしくなりそうだ。ページをめくる手も汗ばみ、震え出し――得体の知れない怒りと興奮のままに写真集を見終えると、それと共に中津川から貰った刊行雑誌の方も手に取って、立て続けにめくった。
こちらには紫月の特集が組まれているらしく、内容は単独写真集に輪を掛けて過激なものだった。
先日目の当たりにした撮影の時と同じように、複数人によって拘束されるようなショットが盛りだくさんで、シチュエーションも現代風、和風と様々だ。挙句は縄に縛られたままで到達させられてしまったようなショットまでもが飛び出す始末――それらを目にするなりカッと身体中の血が逆流するような感覚に襲われて、遼二は思わず音を立てながらピシャリと冊子を閉じた。
「何、これ……」
アダルト写真集というからにはそれ相応、内容の見当はついていたつもりだ。だがまさかこれほどまでに衝撃的なものだとは思わなかった。それより何よりどうしようもなく熱を帯びた自身の身体の変調が苦しくて堪らない。真夏の炎天下でもないのにぐっしょりと汗ばんだTシャツが背中に張り付いて、暑いったらこの上ない。
言いようのないゾクゾクとした気持ちがついには行き場を失って、堪らずにベッドへと転がり込んだ。
脳裏をチラつくのはこの上なく淫らな紫月の顔、肌、息遣いにそのすべて――
我慢できずにジッパーに手をかけ、摺り下ろし、すっかりと興奮しきった雄をわずかに擦っただけで、信じられないくらいの射精感に意識をもっていかれそうになった。
先走りがブリーフの布地に擦れて糸を引いている。
あっという間にヌルリと指に絡み付く白濁を腹の上にぶちまけて、整わない吐息に眉をしかめた。
男を想像しながらイってしまっただなんて、それこそ信じられない。驚愕だった。
解放した熱の後処理をする気力もないままに、ふとベッド脇のテーブルに放ったままの写真集が視界を過《よ》ぎれば、再び熱がうずき出す。その紙面で乱れる”紫月”を思い浮かべれば、すぐにもくすぶり出す欲情が背筋を這いずり、どうしょうもない気持ちにさせられる。と同時に言いようのない嫉妬で頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
これを購入した見知らぬ誰かも同じような気持ちになったのだろうか。
彼の写真を見ながら、その誰かが今の自分がしたのと同じような行為にふけったのだろうか。
恋焦がれ、狂おしい気持ちを持て余し、来る日も来る日も彼を想像してはいやらしい妄想に乱れ、のたまったのだろうか。
そんなことを考えるだけで気がおかしくなりそうだった。
次に彼に会う時に、どの面下げて平静を装えるというのだろう。
「アンタのことを想像して抜きました、俺は完全にイカれてます……ってか?」
最悪だ――――
「は、マジでイカれてる……!」
そっと写真集に手を伸ばし、こちらを見つめる彼のアップを見ただけで、我慢できずに紙面の中の頬を撫でんと指が追う。
「……っう、くそッ、はっ……こんなん……」
紫月……紫月さん……っ!
今、ここにアンタがいたらきっと抱いてしまう。我慢できずにアンタのすべてを俺のものにしてしまうだろう。
あの写真の中でアンタを犯していた見知らぬモデルの男にとって代わりたい。
こんな気持ちになるなんて思わなかった。
男を相手にこんな行き場のないような気持ちを持て余すだなんて、思いもしなかったよ――!
ドクドクと身体中を逆流するような血の流れの熱さに、火照り出す欲情を最早とめようもなく、ベッドにうずくまりながら両の手で自身の肩を抱き締めた。
まるでこの腕の中におさまる紫月という男を連想するかのように幻を抱き締めて――膨れる妄想のままに、鎮まらない雄を何度も何度も慰めた。
何度も――
そう、何度でも押し寄せる淫らな波に抗えず、もはや彼を知らなかった頃には戻れない激情の渦《うず》に呑み込まれては、すべてがカラになるまで欲情し尽くした夜だった。
- FIN -
※次、エピソード「癪香」です。