官能モデル

4 癪香



「今日はちょっと予定してたよりもハードにいくぜ」
 その日、一之宮紫月《いちのみやしづき》はいつも以上に意気込んでいた。
「へぇ? 随分気合い入ってんじゃねえの。ハードっていうと具体的にはどんな?」
 仲間内からの問い掛けに、羽織っていたガウンの袷《あわせ》をゆるめると、不敵な笑みと共にそれを開いてみせた。
「お前、それ……」
「マジかよ。いきなり?」
 ガウンの下は全裸だった。
「下着も付けねえ気か?」
 瞳をパチパチとさせながら唖然とする仲間たちを前に、紫月は今一度ニヤリと笑った。
「俺の役どころは”裏社会の組織を裏切った幹部”って設定だ。お前らは俺を追って来て拘束する組織の一員、要するに頭領《ドン》の手下だ。その後、俺はお前らに犯《ヤ》られちまうってな話筋だが、今回は”やらせ”は一切ナシにしてもらうぜ」
「――ていうと?」
 無論、大まかなそのストーリーなら誰もが承知だ。先日も同じシチュエーションで既に一度、撮影は済んでいるからだ。だが、今日はその動画版を撮るということで、より細密な打ち合わせの最終確認をしているというところだった。
 先程から皆の中心となって熱心に動きの確認をしているのは、メインモデルを務める一之宮紫月という男だ。薄茶色のゆるやかなウェーブの掛かったミディアムショートの髪が端正な顔立ちに似合っていて、よくよく艶めかしい。彼はゲイアダルト誌で不動の人気を誇っている男だった。
 今回、自身の三冊目となる単独写真集の発売に向けて、映像特典を付けることにしたのだ。今日はその動画の撮影日である。
 この紫月の写真集は過去に二冊が発行されているが、そのどちらも大層な人気を博していた。紫月自身の色香やモデルとしての才能も勿論だが、単にエロショットだけを撮り下ろすというのでなく、ドラマ仕立てで魅せるという個性的な作りも人気の理由のひとつとなっていた。
 三冊目の今回も例に漏れず――というよりも、より一層ストーリー性に凝ったものにしようということになり、所属事務所の代表をはじめ、スタッフらの意気込みも相当なものだった。
 そんなわけだから、当の紫月がやる気を見せるのも当然――といえばそうなのだが、表向きは気合いの入っているふうに映れども、実のところは少々”苛立っている”といった方が正しかった。無論、周囲にはそんな気配は一切みせないが、自身の中でくすぶるモヤモヤとした感情を消せずにいるのは確かだった。そんな気持ちを振り払うかのように、紫月は更に演技の手順を確認することに没頭していく。
「殺陣《たて》は使わねえ。ボコる時も”ふり”じゃなくて本気でやっていい」
「それって、演技じゃなくってことか?」
「ああ、そうだ。張り手食らわすのも手加減なしだ。ボコったっら強制フェラの後に顔射」
「その後は全員で紫月を拘束して輪姦《まわ》すってシチュだけど……挿入まではなしだろ?」
「ああ、ラストは正直どうでもいい。どうせ映像処理で画面ぼかしてフェードアウトだしな」
 仲間を横目にふてぶてしく苦笑し、紫月は撮影セットの中へと歩を進めた。

 ライトが当てられ、モデルらの配置も済むと、スタジオが色めき立つ。少々乱暴に袷を剥ぎ、ガウンを脱ぎ捨て放り投げ、紫月が惜しげもなく全裸を晒せば、スタジオ内からはちょっとしたどよめきが起こった。
 色白の背中に施されたどす黒い痣のメイクが憐情感を誘う――
 さすがに人気絶頂のモデルなだけあって、意気込みも大したものだと周囲のスタッフたちが熱気付く中で、本当のところを言えばこれが単なる自身のくだらない苛立ちの裏返しなのだと、自嘲の思いが胸を掻き乱す。滅多なことでは感情の起伏を見せない紫月の苛立ちの原因は、二日ほど前の、と或る出来事に起因していた。



◇    ◇    ◇



 それは二日前の晩、写真集の撮影を担当するカメラマンの氷川白夜《ひかわびゃくや》らと、最終打ち合わせを兼ねて食事に出掛けた際のことだった。場所は有名ホテルに入っている、氷川お勧めのダイニングだ。
「テーマとシチュエーションは写真集用のと同じでいいんだな? こう撮って欲しいとか、特に強調して見せたい場面とか、お前の希望があれば聞いとくぜ?」
 食後のコーヒーと共にうまそうに煙草をくゆらしながらそう訊いてよこす、この氷川は新進写真家として名を上げている、業界内でも注目度の高いカメラマンの一人だ。年齢はまだ三十代の半ば手前といった若手だが、既に自身の事務所まで構えているほどのやり手で、写真家としては無論だが、経営者としての才覚も伴っている頼もしい男だった。
 普段の撮影時には助手を一人連れているだけの彼だが、今回は動画撮影ということもあって、事務所の中でもベテランで腕のいい中津川耕治《なかつがわこうじ》という男も撮影に参加することになっていた。紫月のファースト写真集の時にも助手として活躍していた彼だが、今回、動画のカメラはこの中津川が回すらしい。
「うーん、やっぱりカメラは二台必要かなぁ。メインは中津川に任せるとして、俺も別方向から撮ってみるか」
 灰皿へと煙草をひねり消しながら、氷川が独りごちている。
 そんな様子を横目に、
「そうだな、遼二じゃカメラ回させんのは、ちっとばかし無理があるだろうしな。お前さんと俺とで撮った方がいいだろうよ」
 ニヤけまじりで中津川が相槌を打って返す。黙って二人の会話を聞きながらコーヒーを口にしていた紫月は、中津川が口にしたその名前を聞いて、わずかに眉根を寄せた。
「――遼二って、もしかしてあの新入りの助手?」
「ああ、そうだ。この前の撮影ん時に連れてったヤツだ」
 『なかなかのイイ男だろう?』などと言いながら、少し自慢げに氷川が笑う。それというのも、以前、撮影の際に助手として連れて行った中津川のことを、紫月が”野暮ったいオッサン”よばわりした経緯があるからだ。どうせならもっと見目の良いイケメンを連れて来てくれよと文句を言ったのは有名な話で、紫月自身も身に覚えのあることだった。
「そりゃまあ、見た目だけなら多少イケてるけどよ」
 少々口を尖らせながらも、紫月はバツの悪そうに中津川の方をチラ見した。
「ひっでえなー、紫月君! 今、俺と遼二を比べたろ? 俺だってこの中年腹さえ引っ込めば、そんなに悪くねえと思うんだけどなぁ」
 こちらもふてくされ気味に、だがユーモアもたっぷりといった調子で、中津川はゲラゲラと笑ってみせる。彼のこんな一面は人の好さがよく表れているというか、滲み出ているといったところだ。無論、紫月もそこら辺はよく分かっているようで、苦笑しながらもすぐにフォローの言葉を口にした。
「あれは中津川さんに対する尊敬の裏返しなんだってば。俺、ヒカちゃんちのサイトで中津川さんの作品見て、すげえカッコいいって思ったもん!」
 紫月は前々から氷川のことを略して”ヒカちゃん”と呼んでいる。彼が誰かに対してここまで砕けるのは珍しいのだが、それくらいこの氷川に対しては信頼度が高いというところなのだろう。また、サイトというのは事務所のホームページのことで、その中で所属カメラマンの撮った作品などもアップしているから、時折覗いてみたりしているのだ。
「たまに作品の画像入れ替えてるっしょ? こないだ新作で出てたの全部見たけど、幻想的で感動だった」
「マジか、それ! おお、すげえ! まさか紫月君に見て貰えてるとは思わなかったぜ! 何かめちゃくちゃ感激……つーか、おじさん嬉し過ぎてやべえよー!」
 またもや豪快なゼスチャーをまじえてはそんなことを言って、三人はしばしサイトや作品の話などで盛り上がった。


「けどよ、その遼二ってヤツ。ダイジョブなの? こないだはレフ板とか引っくり返したりして、えれー緊張してたみてえじゃん」
 紫月は、自身もまた取り出した煙草に火を点けながら、氷川に向かって上目使いでそう言った。
 ”遼二”というのは、氷川の事務所に入ってまだ日の浅い新米カメラマンということだが、つい先日の撮影の際にはいろいろとドジを踏んでいたのを思い出す。確かに顔やスタイルは氷川が自慢するのも納得の”イイ男”には違いないが、仕事の方はいまいち信用できないといった調子で、紫月は冷笑してみせた。
「今度は動画なんだし、またあんな調子じゃ困るっつーか、俺だって何度も同じシーンの撮り直しなんてイヤだぜ?」

 少々毒舌気味だったか――

 だが、こうでも言わないと落ち着かない。心の奥の方でくすぶっているような、ソワソワとした気持ちの原因を紫月は自覚していた。
 遼二に関しては、確かに見た目は文句なしというか、一言で言ってしまえば彼の格好良さというのは認めるところだ。かくいう紫月自身も、この前初めて彼を紹介された時にそう思ったからだ。少々癪だが、初対面で彼を見た瞬間にドキリとさせられたのも事実だった。
 だからだろうか、何故か彼に対して必要以上に突っ掛りたい気持ちにさせられたりもして、彼がレフ板を引っくり返した際には意地の悪い言葉がついて出てしまったくらいだった。とにかくこんな気持ちは初めてで、紫月は戸惑ってもいたのだ。
 それらを払拭したいが為か、今もまた毒舌が止まらない。
「なぁヒカちゃん、他にもっと慣れた人いないの?」
 わざとぶっきらぼうにそう口走る。すると、すかさず中津川が、
「まあまあ! そう言うなって。ヤツはこの前が初めての現場体験だったんだし、衝撃受けちまうのも仕方ねえだろう? ゲイアダルト誌の撮影だって、事前にちゃんと説明しなかったコイツにも責任はあるってことで! ま、勘弁してやってくれ」
 隣の氷川を指差しながら、まるで後輩を庇うように気遣ったのを受けて、氷川も苦笑しつつ加勢の言葉を口にした。
「ま、あれでいてなかなか根性はあるんだぜ? 早出や残業が重なっても文句ひとつ言わねえしよ? カメラの手入れだってすげえ丁寧だし、よく気も付くしな。ヤツなら将来的にいいカメラマンになれるだろうぜ?」
「ふぅん? ヒカちゃんも中津川さんもあいつのこと”買ってる”ってわけ」
 ふてくされ気味にそう言えど、内心はホッとしているのを自覚する。『他にもっと慣れた人材がいないのか』と訊いた言葉通りを真に受けられて、もしも本当に助手を変えられたら困る――などと、ちょっとでも思ってしまう自分に驚いてもいた。
 そんな戸惑いをよそに、氷川と中津川の間ではまだ遼二に関する話題が続いている。
「ヤツは見掛けに反して性質は素直っつーか、ウブっつーか、可愛いところあるしな。仕事の合間には一人で写真撮りに出掛けたり、結構努力もしてるみたいだぜ?」
「まあでも、俺からしたら遼二はカメラマンってよりは……どっちかいったら”撮られる”側の方が合うんじゃねえかと思うけどな」
 二本目の煙草に火を点けながら氷川がそう言ったのに、紫月は首を傾げた。
「撮られる側って?」
「ん、被写体の方ってことよ。あいつが初めて履歴書持って来た時に第一印象でそう思ったんだわ。例えばさ、お前とのツーショットなんかも撮ってみたらすげえいい絵になるんじゃねえか、とかね?」
「はぁ? 俺と?」
 冗談だろうというように紫月は大袈裟に苦笑する。
「こないだ程度の撮影見てビビってる兄ちゃんだぜ? 俺とのツーショなんて有り得ねえだろって。つか、ヒカちゃんが撮りてえっつっても、ぜってーカンベンだぜ」
 やはり毒舌がついて出てしまうのは、声がうわずるのを気取られないようにする為――などと思うこと自体、信じ難い。別段、そんなつもりはないのに、こと、この遼二というアシスタントのことになると、ついつい思っていることと逆のことばかり言ってしまうのは何故だろう。裏を返せば、それほど彼に興味を惹かれてしまっているようで、ますます頭はこんがらがるばかりだった。
 そんな思いを知ってか知らずか、目の前の氷川はまた暢気なことを口にする。
「別にアダルトショットに限らずってことよ。お前ら二人並べたら、すげえ迫力あるやつ撮る自信あるわ! 絵になるならねえってのが直感でビーンと来んだよ、俺の場合」
 既に撮る算段になったような口ぶりでそんなことを言う氷川に、紫月は苦虫を潰したように片眉を吊り上げてみせた。
「あのなー、一体何でこんな話になってんだよ? つか、ヒカちゃんがそこまで言うって……あいつ、よっぽど”買われて”んだな」
 呆れたように紫月は目を丸くして、だがその実、悪い気もしないといったふうな上目使いで、冗談半分に軽く氷川を睨み付けた。
「まぁまぁ、二人とも! 遼二の奴はとにかくいいヤツだってのは確かだから。多少ウブで晩熟《おくて》なところもあるけどよ。撮影にもその内慣れるだろうし、それまでは紫月君も大目に見てやってくれよ。な?」
 中津川までがそんなことを言い出す始末に、紫月は唖然としたように彼らを見やり、だがそんなかばい合いが可笑しくも思えて、次の瞬間には三人でプッと噴き出してしまった。
「ああ、もうー……分かったって! じゃあその晩熟君共々、明後日の撮影はよろしく頼むぜ」
 素直にそう言ってしまえば、驚くほどに気持ちが楽になるのが不思議だった。何だか心がワクワクするような、躍るような気持ちになって、紫月は照れ臭そうに笑ってみせたのだった。



◇    ◇    ◇



 その後、ダイニングを後にし、ホテルのロビーで氷川らと別れた紫月は、地下の駐車場へと向かっていた。
 心なしか足取りも軽い。
 先程の氷川の話を思い起こせば、存外楽しい心持ちになって、自然と頬がゆるむ。ついついニヤけながら歩いているのを自覚して、思わずこぼれる苦笑いも悪くない、などと思えてしまうのが不思議だった。
「あの新米カメラマンとのツーショねぇ……。ま、そういうのも有りかな」
 彼と並んでポーズを決める自分の姿を想像しては、知らずの内に鼻歌まじりになっているのが何ともむず痒かった。

――そんな気分を一転させたのはその直後のことだ。

 ベルトに引っ掛けたキーチェーンから車の鍵を選び、ドアの開閉ボタンを押さんとした、正にその時だった。
「待ってくれよ、遼二!」
 少し離れた――そう、太い柱にして二本ほど間を置いた辺りから聞こえたその叫び声に、思わずハッとなって身をひそめた。今の今まで話題にしていた”遼二”という男と同じ名前に反射的にビクリとし、つい隠れてしまったのだ。だが、気を取り直して声の方向をチラ見した瞬間に、驚きで目を見開いてしまった。
 何と、そこには噂話に上がっていた当人である新米カメラマンの姿が目に入ったからだ。

(嘘……! 何であいつがここにいるんだよ……)

 まさか同じホテルの地下駐車場で鉢合わせるなど、とんだ偶然だ。今しがたまでの打ち合わせには来なかったのと、向こうも連れがいるらしいことから考えて、今日は彼は別の仕事か、或いは休日だったのかも知れないと思えた。さすがにそこまで親しくもないので、声を掛けることまではためらわれたが、やはり少し気になって、こっそりと様子を窺った。その瞬間、紫月は目を疑うほどに驚かされてしまった。
 思わず『ヒッ』と引きつった声を上げてしまいそうになり、慌てて柱の陰に身を隠す。
 夢か真か、連れの男が背中から抱き付くようにして”遼二”の腰に腕を回していたからだ。
「なぁ、遼二……頼む。抱いてよ」

 会話の内容にも度肝を抜かされた――

 抱き付かれているのは確かにこの前、氷川が連れていた助手のカメラマンだ。つい今しがた、氷川と中津川が”ウブで晩熟”だと言っていた彼と、彼に抱き付いている男が口にした台詞が、あまりにもちぐはぐ過ぎて、すぐには状況が呑み込めないほどだった。しかもあろうことか、相手は”男”なのだ。
 遼二という彼は、今どんな表情をしているのだろう。そして、何と答えるのだろうか。それ以前に彼に抱き付いているこの男は彼の何なのだ。いったい二人はどういう間柄だというのだろう。
 次から次へと心拍数を煽《あお》るような疑問と想像に頭が混乱させられる。

「なあ遼二……!」
「んなこと……できるワケねえだろ」

 抱き締められた腕を引きはがすようにして、遼二が男に向かってそう言った。声音からすると、彼も少々困惑しているように思えるのは、単にこちらの都合のいい想像か。とにかく、今ここで自分が車に乗り込んだり、何か音を出したりすれば、彼らに気付かれてしまうのは必至だ。紫月はその場を動くこともままならずに、しばし息苦しい沈黙状態を崩せずにいた。

「何でだよ……今の俺の気持ち……一番分かってんのはお前だろ!? 少しくらい俺の我が侭聞いてくれたっていいだろうが……!」
「それは……。けど、それとこれとは話が違……ッ」
「一ヶ月だぞ! もう……一ヶ月も放っとかれてんだぞ! 分かってくれよ……気が狂いそうなんだよ俺……」
「……ンなこと言われたってよ……」
「じゃあキス! キスならいいだろ?」
「キス……って……」
 遼二は困ったように溜め息まじりで、だがすぐに『だめだ』と、否定の言葉を口にした。その様子に、男の方は今度は正面から彼の胸に抱き付くと、
「何だよ……! それもダメなの!? 前はしょっちゅうしてたじゃねえかよ! 会う度にお前から抱き付いて来て、あの頃はお前、すげえ可愛かったのによ……」
「……いつの話してんの。ンなの、ガキの頃のことじゃねえか」
「今だってガキのくせに――!」
 ムキになったように男が叫ぶ。と同時に垣間見えたその容姿に、思わず息を呑んだ。

――すげえ美形!

 それは素直な感想だった。遼二の腕の中で愚図る姿もドキリとするほどに艶めかしく、顔のつくりだけをとってみても、俳優か一流モデルばりに雰囲気のある男だ。
 身長は遼二よりも若干低く、体つきもどこそこ華奢なのが一目で分かる。ゲイならば――いや、ゲイでなくとも、おそらくはほぼ万人が魅かれてしまうだろうくらいに魅力的な男だった。そして、何より意外だったのは、その男がかなりの年上に感じられたことだ。氷川や中津川と同じか、もしくはもう少し上のようにも見て取れる。こんな年上の、しかも思わず見とれてしまう程に美しい容姿――
 そんな男にしがみ付かれて困惑顔の遼二の方も先日感じた印象のままの男前で、何とも奇妙なほどに絵になっているのに焦燥感が湧き上がる。男同士が抱き合うという、まるで撮影所で見慣れているような光景が眼前で繰り広げられていることにも困惑させられる。しかもそれは、あの”晩熟”でドジな新米カメラマンなのだ。
「とにかく……送ってくから乗れよ」
 ドアロックを外す音と共に遼二が男にそう促すのが聞こえたが、男の方は更に取っ散らかったようにして、ブンブンと左右に頭を振りながら、ついには泣き出してしまった。
「嫌だ! 帰らねえ……お前が『うん』て言うまでぜってー帰ら……ね……もん」
「バッカ……泣くヤツがあるかよ……」
「……っうるせーよ……お前が冷てえからだろ」
「ダダこねてんじゃねえよ……ったく、もう。顔上げて、ほら……涙拭けっての」
 クイと男の顎を掴み、もう片方の手を男の頬に添えて、指先でそれを拭う――
 なだめるような低い声と共に男を覗き込む遼二の仕草を目にした瞬間、そのあまりの色っぽさに、心臓を射抜かれたような衝撃が走った。
「遼二……なぁ、キスだけ……一回だけでいいから」
 まだしつこくねだる男に、
「――できねえっつってんだろ」
 今度はプイとそっぽを向くようにして拒絶した。すると男の方は今までの懇願するような態度を一変させて、若干の恨みまじりで彼を睨み上げた。
「何、お前――もしかして恋人でも……できたとか?」
「そんなもん、いねえよ……」
「じゃあ何? 好きな子でもいんの?」
 その問いに、ふうと深い溜め息をひとつ落とし、
「――ああ」
 ぶっきらぼうに、だが僅かに頬を染めるような感じで返された短いそのひと言に、息が止まるほどの衝撃を感じたのは、遼二の腕の中でダダをこねている男以上に自分の方かも知れない――というのを自覚して、紫月は目の前が真っ白になっていく気がしていた。
 しばし呆然としてしまっていたのだろうか、彼らの乗ったろう車が駐車場から出て行く音で、やっと我に返ったことすら驚愕だった。

「何……あいつ。ウブで晩熟どころか……とんだマセガキじゃねえかよ……」

 その後、どうやって家へ辿り着いたのかも分からないほどに、紫月は今さっき目にした光景が頭から離れずに動揺していた。
 寝酒を煽り、煙草で気持ちをなだめても――何をしても落ち着かない。
 意味もなく掻き毟られるような感覚が止んではくれない。

『一ヶ月だぞ! もう……一ヶ月も放っとかれてんだぞ! 分かってくれよ……気が狂いそうなんだよ俺……』
『……ンなこと言われたってよ……』

『……会う度にお前から抱き付いて来て、あの頃はお前、すげえ可愛かったのによ……』
『……ンなの、ガキの頃のことじゃねえか』

『何、お前――もしかして恋人でも……できたとか?』
『そんなもん、いねえよ……』
『じゃあ何? 好きな子でもいんの?』
『――ああ』

 遼二というあの男の、あの駐車場で目にした一部始終の仕草と言葉が、事細かに鮮明に浮かんでは消え、また浮かんでは消え、胸を掻き乱す。それだけには留まらず、想像もし得なかった色っぽい表情が脳裏にチラついては、時折ゾワリと背筋を撫でるような欲情にも似た感覚に翻弄される。
 晩熟なのかと思いきや、男に抱き付かれても顔色一つ変えずに上手くなだめたり、何よりも『好きな相手がいるのか』と訊かれて、『いる』と答えたその時の様を思い浮かべれば、気持ちは動揺し、胸が鷲掴みされたように苦しくなる。
 予期もしなかった感情があふれ出し、うずき出し、コントロールのきかないままに、それらは次第に苛立ちへと変わっていった。
「……ッ! っくしょう……! 何で……俺があんなヤツのことで……」
 そう、どうしてこうまで気持ちが乱されるのか――
 まさか遼二というあの男に惚れてしまったとでもいうわけか。
「……は、冗談じゃねえぜ。あんな……マセガキ……なんかに……」

 この俺が……! そう――あんなヤツ……なん……か――

 ゲイアダルト界でも絶大の人気を誇るこの俺が、あんな素人のガキに惚れるだなんて有り得ない――そう思えども、だがそれとは裏腹に、癪に障るほどに自覚できてしまう、胸が鷲掴みにされていくその感覚が怨めしい。
 あの男を叩きのめしてやりたい。
 初めて会った時に、自身の艶めかしい演技を見てレフ板を引っくり返すくらい動揺していた彼に、あの時と同じ焦った表情をさせてみたい。例えそれが”演技”というフィルターを通したものでも構わない。

 もう一度、いや、何度でも――!
 俺の演技であいつを翻弄してやりたい。

 ジワジワと浸食するように熱を増す、どうしようもない欲望に翻弄されているのは己自身の方なのか――。
 灯ってしまった恋情を認められないままで、けれどもくすぶる想いは到底とめられず――それらは癪とも切ないともつかない苦しい感情を焚きつけてくる。紫月は燃え上がってしまう寸前の、途方にくれたような感情を持て余し始めていた。

- FIN -

次、エピソード「誘惑」です。



Guys 9love

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