官能モデル
「なぁ、腹減らねえ? 次の信号過ぎたところにあるファミレス、あそこでいいよ。飯食ってこうぜ」
そう言うと、運転席の男は驚いたようにして振り返った。
イエスでもなければノーでもない、しばし待っても無言のままの彼に、少しの苛立ちが過ぎる。
「何――? この後、何か用でもあんの?」
不機嫌をそのままに、ぶっきらぼうにそう言い放てば、慌てたようにして車を左車線に寄せる。
「いえ、特に用事はないんで……そこのファミレスでいいんですね?」
「ああ」
ようやくと返ってきた同意の言葉に、ホッとする気持ちを押し隠して平静を装う。生真面目な表情で狭い駐車場に車を入れる彼の運転は見事なものだ。半袖のシャツから垣間見えている腕は少し陽に焼けていて男らしい。自らの色白のそれとは比べものにならないくらい筋肉も張っていて、実際羨ましいくらいだ。
「すっげ、ドンピシャじゃん。運転上手いのな?」
チラリと上目遣いで彼を見つめ、褒めそやせば、僅かに染まった頬に心臓を鷲掴みにされたような気分に陥った。
午後の三時半過ぎ、この時間の店内は比較的空いていて、その男は眺めの良さそうな窓際の広いシートを選んで、上座に当たる席を勧めてよこす。そんな彼は対面に腰掛けると、メニュー表を開いてこちらへと向けた。
「何、食います?」
わずかに小首を傾げてそう問う仕草の節々に、相当気を遣っているのが見て取れる。それもそのはず、彼は年齢的にも一つ年下で、仕事の上でもこちらを立てなければならない立場だからだ。他人行儀な敬語が今ひとつ気に入らないが、致し方ないというところか。
「ん、俺はパスタ。お前は?」
そう訊いてやると、
「……じゃあ、俺もそれで」
いつまでも遠慮がちな姿勢を崩さない彼に、歯がゆい思いが募る。
「ふーん。ならさ、違う種類のにしねえ? そうすりゃ交換こして両方味見できるじゃん」
壁をぶち壊したくて、そう告げた。
ここ最近――一之宮紫月《いちのみやしづき》は、とある一人の男のことが頭から離れずに、胸中を掻き乱されるような日々を送っていた。寝ても覚めても、ふと気が付けば知らずの内にその男のことを考えている。頬が火照り、心臓が脈打つのが早くなって落ち着かない。独りの時ならまだしも、人前でそれらを悟られまいと繕えば、視線が泳ぐ挙動不審を自覚して我に返る。
ふがいない思いに苛立ちがつのり、行き場を失った心はまるで深い沼に足を取られてもがいているような状態だった。
それがこの男――今、目の前でメニュー表をこちらに向けている鐘崎遼二《かねさきりょうじ》だ。
紫月はゲイ向けのアダルト誌で不動の人気を誇るといわれるほどのモデルである。現在の役割は”ネコ”側で、相思相愛の濃い濡れ場シーンから無理矢理犯される強姦シーンまでをも幅広くこなす。整い過ぎてケチの付けようがないような顔立ちに加え、肢体はほどよく筋肉もあり、だが決して隆々というわけではない細身の長身に加えて、タチ・ネコのどちらからも好かれるような曖昧な色香もダダ漏れとくれば、不動の人気も納得できるというものだ。
そんな彼を撮っているのが新鋭と賞賛されている氷川白夜《ひかわびゃくや》という写真家で、腕は確かなところにもってきて性質は気さく、その上結構なイケメンなので、紫月は彼が気に入っていた。
モデルの側からスタッフを指名するのは珍しいのだが、紫月ほどの売れっ子となると、多少の我が侭もまかり通るのか、毎度のように氷川を名指しで撮ってもらっているというわけだ。
その氷川がここ最近連れてくるようになったアシスタントの男――それが紫月を悩ませる張本人だった。
名を鐘崎遼二といい、氷川に憧れて助手にしてもらったという経緯らしいが、初めて彼を紹介された時には正直驚いたというのが本当のところだった。髪や瞳は一目で印象に残るほどの黒曜石のような深い漆黒で、顔の作りだけをとってみても、ハッとさせられるくらいに整っていた。その上、一八一センチの自身をわずかに上回る長身で、服の上からでもガッシリとした筋肉質だと分かるような見事な身体つきは、同じ男としては実際羨ましいほどだった。
一見にして、誰もが放っておかないだろうと思わせる外見からしても、写真家のアシスタントにしておくのはもったいないと思ってしまう。撮る側よりも”撮られる側”の人間だろうというのが第一印象だった。
それは彼の師匠である氷川も認めていて、遼二が履歴書を持って初めて事務所に訪れた時から、既にそんな印象を抱いたと言っているほどだ。今までそれ相応のイケメンといわれるモデルたちと仕事を共にしてきた紫月でも、ちょっとした動揺を覚えるくらいに遼二は印象的だった。
おそらくは男女問わずして相当モテるのだろうし、当然遊び慣れてもいるのだろう――と、そんな印象に相反して、実際の彼はひどく純粋だったのも憎いところだ。
最初の撮影時にはゲイアダルトの現場が初体験だったようで、衝撃を受けて機材をひっくり返すなどのドジをやらかしていた。顔を真っ赤にし、身体が反応してしまったのか、その場にうずくまったまま恥ずかしそうに動けないでいる様子も、堪らなく新鮮に映ったのを覚えている。そんなギャップも手伝ってか、日に日にこの遼二という男が紫月の中で気に掛かる存在になっていったのだった。
そんな彼に自宅まで送ってもらうことになったのは、つい先程、氷川の事務所を訪れた際のことだった。先日撮影した分の写真が出来上がってきたというので、チェックがてら打ち合わせに行った帰りに、車で来ていた遼二に家まで送るようにと、氷川はそう命令した。明日、明後日は事務所も連休に入るし、この後は特に急ぎの仕事もないので、直帰していいから紫月を家まで送り届けるようにと言いつけたのだ。
遼二に興味を惹かれている紫月にとっては正直、心躍る話だった。だが、素直に喜びを表せるような性質でもない。ましてや、当の遼二を前にして、少なからず彼に魅かれていることを悟られたくもないわけだから、ついついそんな気持ちを隠さんと少々高飛車に出てしまうわけだった。
そんなこちらの思惑を知る由もないだろう彼は、緊張気味で態度も丁寧だ。
「他には何か取ります? サラダとか、つまみになりそうなグリルとか……?」
そんなふうに訊かれて、紫月は歯がゆさに舌打ちをしたい気分にさせられた。
「つまみを取ったら飲みたくなっちまう。お前、車だし、俺だけ飲むんじゃ悪ィだろ」
こう言えば、十中八九、『どうぞ、お構いなく』と返ってくるのは目に見えている。だからそれを言わせまいと、すかさずこう続けた。
「それとも……車置いて飲みに行くか?」
わずかに上目遣いに、心の内の内までえぐり出すべく、揺さぶるように挑発を掛けてみる。すると、思った通り驚いたふうに、漆黒の瞳をパチクリとさせながら固まってしまったのが分かった。
「なんてな――冗談だよ、冗談!」
軽く流すためにわざとおどけて見せつつ、内心では残念で堪らないと、焦れる想いを持て余す。これが、『いいですよ、じゃあ飲みに行きましょう!』と明るく二つ返事でも来ようものならどんなに舞い上がることか――こんなことを思う自体、既にどっぷりとこの男に囚われてしまっているようで、紫月は気重な溜め息を隠せなかった。
そんな思いを払拭したいが為か、ついつい態度がぶっきらぼうになってしまう。気分を変えるべく、全く別の話題へと振ることにした。
「ところでさ、お前もヒカちゃんみたいな写真家目指してるんだろ?」
ヒカちゃんというのは、遼二の師匠でもある氷川白夜のことだ。氷川だから”ヒカちゃん”――と、紫月はそんなあだ名で呼んでいるのだ。
その氷川の事務所のサイトには、所属しているカメラマンの撮った写真を載せているギャラリーのようなコンテンツがある。紫月もたまに覗くのだが、この遼二の作品がそこに掲載されているのを見たことがないので、気になって尋ねてみる。
「お前のコーナー、作ってもらえてねえの?」
「はい。あそこに載るのはもっとベテランの先輩方なんで……自分はまだまだです」
「へえ、そうなんだ。中津川さんのとか、割とよく更新してるからさ、俺もたまに見せてもらってるんだけど」
中津川は遼二ら若いカメラマンの良き先輩である。カメラの腕もいいし、事務所代表の氷川より年齢も上で、後輩の面倒見もいい尊敬できる人物だ。
「中津川さんは超ベテランですから。見習うところだらけです」
「ふぅん。けど、お前も撮ってんだろ? ギャラリーに載る載らないは関係なくしてさ」
「ええ、まぁ……休みの日とかに撮りに出掛けたりもしますけど」
そういえば、先日の打ち合わせの時に、氷川と中津川がそんなことを言っていたのを思い出す。遼二も見えないところで努力してがんばってるんだよなぁなどと話していたっけ。紫月は、この遼二がどんな写真を撮っているのか興味が湧いていた。
「見てみたいな、お前の写真――」
「――え?」
「自分のパソコンとかには保存してるんだろ?」
「ええ、それは勿論……」
「な、よかったらさ……お前の撮ったの、見せてよ」
そう言うと、遼二は驚いたようにして瞳を見開いた。
「俺の写真……見ていただけるんですか……?」
ほとほとびっくりしつつ、尚且つ意外も意外だというように、男前の整った瞳をパチクリとさせている。
自分の撮ったものに興味を持ってもらえるのは、例え相手が誰であれ嬉しいことだ。それが紫月ならば尚のことだ。何故なら――二人は心の内を表に出してこそいないが、互いに惹かれ合っているのは否定できない事実だからだ。
――が、どちらからも気持ちを打ち明ける気概がない。片や遼二は自身の師匠が請け負っているクライアントでもある紫月に対して、気軽に接するなど言語道断の気があり、また、紫月の方にしてみても、ゲイアダルト界でトップクラスの人気を誇るプライドが邪魔をしてか、そうは素直になれないというのが実のところだった。
だが、気持ち――とかく恋愛感情が絡む気持ちというのはそうそう上手くは思い通りになるものでない。接する機会が増える毎に、互いに対する恋慕の感情は大きさを増してしまう。
紫月が遼二に対して抱く気持ちが大きくなっていくのと同じように、遼二の方も日夜この紫月のことで頭がいっぱいになってしまっているのだった。
しばしの沈黙が二人を包み、と、そこへタイミング良く注文した料理が運ばれてきた。遼二は小皿にサラダを取り分ける気遣いをしながらも、素直な気持ちを口にした。
「紫月さんに写真を見てもらえるのは嬉しいです。今日はパソコン持って来てないんで――今度機会があったら是非――」
そう言い掛けた言葉を紫月は遮った。
「じゃあ、この後お前んちに寄っていい?」
「――え!?」
「いきなりじゃ迷惑か?」
器用にフォークでパスタをすくい取りながら、上目遣いでそう訊く。遼二にとって、そんな仕草は堪らなかったことだろう。
「……いえ、迷惑だなんて、とんでもないっす……。紫月さんがよろしければ――是非」
思わず言葉もうわずっている。だが、紫月の方はその綺麗な顔立ちを惜しげもなくクシャっと緩めると、とびきりの笑顔で嬉しそうに頷いた。
「ん、なら早く食って行こうぜ!」
◇ ◇ ◇
「なあ、お前の家ってどこら辺なの? さっき、ヒカちゃんがどうせ通り道だろうって言ってたけど」
レストランを出た車中で、紫月は遼二に向かってそう訊いた。そもそも氷川が『直帰していいから紫月を家まで乗せてってやれ』と言ったのは、二人の家が近いからということらしかった。紫月は遼二がどの辺りに住んでいるのかなど知らないし、遼二にしても然《しか》りだ。先程氷川に言われて、初めて互いの住所が近いらしいことを知ったのである。
「紫月さんのところから地下鉄で三駅目です」
ナビを横目に、遼二がはにかみながら答える。
「マジかよ! じゃ、いつも俺んち通り越してヒカちゃんの事務所に通勤してたってこと?」
「そうみたいです。俺も驚きました。紫月さんのご自宅とこんなに近かったなんて……」
つまりは、氷川の事務所と遼二の自宅アパートメントの中間に紫月の家があるということになる。これまでは互いに興味のあれど、互いが何処に住んでいるのかなど知る由もなかったので、本当に驚いたといったところだった。
「すみません、俺ん家に来ていただくんで、一旦紫月さんのご自宅を通り越しちゃいますが、後できちんと責任持ってお送りしますんで……」
真摯な様子でそんなことを言う遼二に、紫月は何ともワクワクとした心地でいた。自分に目を向けられていることが素直に嬉しい。彼が自分のことを考えてくれているのを実感できる――こういった瞬間がたまらなく心を躍らせるのだった。
その後、ほどなくして車は遼二の住処へと到着した。三駅分といっても道路が比較的空いていればかなり近い。真夜中ならば十分と掛からないような距離感に、より一層胸が高鳴りそうだった。
「部屋、ここの三階なんですが、古い建物でエレベーターがないんです。階段ですが――すみません」
遼二が少しすまなさそうにそんなことを言いながら先導する。時折気遣うように身体を斜めにして、振り返りながら階段を上る後ろ姿にも、自然と頬が緩むような心持ちだった。
◇ ◇ ◇
部屋に入ると、遼二はすぐにパソコンを立ち上げた。撮り貯めた写真が保存してあるフォルダを開き、『どうぞご覧になってください』と言って、紫月に場所を譲る。彼自身は一緒に画面を見るのが気恥ずかしいのか、茶を淹れるといってダイニングへと向かってしまった。そんな後ろ姿を目で追いながら、紫月はワクワクと躍るような気持ちでいた。
初めて訪れた彼の部屋――偶然の成り行きとはいえ、嬉しいことは否定できない事実だ。すぐに写真を見たい気持ちを抑えて、先ずは部屋の中をぐるりと視線が追ってしまった。
窓から見る景色はなかなかに絶景だ。
遼二の住む部屋というのは都内を流れる有数の川沿いにあって、割合近くには大きな橋が見える。ここへ来るまでの車中で、遼二本人はアパートメントだと言っていたが、複合住宅ではないようだ。外観は少々レトロな感じのするごくありふれたビルといった感じで、一階部分が駐車場になっている三階建ての建物だった。
遼二の説明では、ここは彼の父親の持ち物とのことで、以前はその父親が仕事場として使用していたらしい。二階は当時のまま事務所になっているようだが、今は特に使っておらず、倉庫になっているとのことだった。
遼二が現在住んでいるのは三階部分で、部屋の壁もコンクリートの打ちっ放しになっていた。特にだだっ広いわけでもなく、だが狭くもない。ワンフロアのスイートタイプの部屋は、なかなかに洒落ていて、男の一人暮らしにしては綺麗に整頓されているといった印象だ。紫月が今座っているローテーブルとソファが置かれたこのリビングで写真の整理などもしているふうだった。
チラリと視線をやれば、ダブルサイズを上回るだろうと思える大きめのベッドが一台――掛け布団は二つ折りにされていて、起きっ放しのぐちゃぐちゃではないが、きちんとベッドメイキングがなされているというふうではなく、枕元には彼のものだろうスウェットっぽい服が無造作に畳まれて置かれている。それらを目にした瞬間に、そこで寝ているのだろう姿が脳裏に浮かんで、そのリアルさに思わず頬が染まりそうになり、紫月はハッと我に返った。
(……ったく、ヘンな想像してんじゃねえよ、俺――)
別段、そのベッドの上で、もしも自分と彼がどうこうなったら――などと考えたわけではないが、何となくモワモワとした想像が浮かんでしまったのも否定できなくて、紫月は焦った。
そんなことよりも写真だ。彼の撮ったという作品を見せてもらいに来たわけだから、今はそれに集中すべきだ。数あるフォルダ名を確認しながら、マウスを片手に画面に目をやった。
海、空、街、木々、植物(花)、植物(葉)、夕陽、夜景――などと、撮ったものが細かく分けられている。
(へえ、結構たくさん撮ってんだな……)
少しドキドキとしながらも、紫月は端からフォルダを開いていった。
何枚か連写したものもあり、似たようなショットも多いが、氷川のサイトで見た中津川らの作品とはまた違った印象が新鮮だ。カメラマンを目指しているというだけあって、素人では思い付かないような美しい風景は確かに綺麗に撮れている。花などの写真も鮮明で、絞りやぼかしといった技術も色々と工夫して撮っているのだろうことが一目で分かる。紫月は次第にそれらに魅入りながら、その表情には無自覚の内にやわらかな笑みが浮かぶといった感じで、次々と写真をクリックしていった。――と、その中に珍しい題名の付けられたフォルダを見つけて、ハタと目をとめた。
フォルダの名前は”麗”となっている。
(麗――? 麗しい……ってことか?)
他のは”海”とか”花”とか非常に分かりやすいものなのに、これだけが随分と抽象的だ。彼がフォルダ名にまでする”麗しい”被写体とはどんなものなのだろう。紫月は無性に興味が湧いてしまい、逸る気持ちを抑えながらもそれをクリックした。ところがだ。
(――――ッ!?)
開いた瞬間に、マウスを持つ手がビクリと震えた。視線は画面を見つめたまま、瞬きさえままならない。そこに写っていたのは、一人の男が欲情に身悶えるような官能ショットだったからだ。
(何……これ……)
被写体は男が一人だけ。相方となる誰かはおらず、だが明らかにエロティックな類いのショットに他ならない。まるで自慰でもしている最中のような表情の男が、服を乱しながらベッドの上で身悶えている。
震える手で次へ次へと写真を送る内に、もっと驚かされるようなショットを見つけて、紫月は硬直させられてしまった。
(こいつ、確か……)
そうだ。写っている男は紛れもなく、先日ホテルの地下駐車場で遼二に抱き付いていた年上の男だったのだ。
まるでモデルか俳優のように綺麗な顔立ちをした――例の男だ。遼二に縋り付き、抱いてくれ、キスしてくれとせがんでいたあの男――。
やはり彼らはただの顔見知りというわけではなく、深い間柄なのだろうか。だが、遼二はあの時、明らかに彼を拒んでいた。抱いてくれという彼の懇願をバッサリと振り切り、しかも他に好きな相手がいるからとまで言い切っていたではないか。
ではこの画像は何だというのだ。それともこの男と遼二は過去に付き合っていて、今はもう別れたとか、そういった仲なのだろうか。とにかく紫月にとっては衝撃も衝撃、思考も停止してしまうほどのショッキングな写真であるに違いはなかった。
しばしぼうっとしたまま固まってしまっていたのだろうか、『どうぞ』と言って差し出されたコーヒーカップの置かれる音で、ハッと我に返った。
「さっきのファミレスでも飲んできたから、どうかと思ったんですが……。豆から挽いて淹れたんで、よろしければ――」
やわらかな笑みと共にそう言われた遼二の声で、紫月は呆然と視線だけを彼へとやった。
その様子をヘンに思ったのだろうか、小首を傾げながらパソコンの画面を覗いた遼二が『あッ!』と焦ったような声を上げた。
やはり見られたくなかったのだろうか――慌てたその表情を横目に、紫月は感情のないような声でひと言、
「これ、誰?」
遼二の方へは視線を合わせないままでそう訊いた。
「あ……っと、それは……知り合い……なんです」
「知り合い――?」
「え、ええ……。あの、俺……紫月さんたちの現場をお手伝いさせていただくことになってから……その、少しでも雰囲気に慣れたくて……知り合いに頼んでモデルになってもらったんです」
ということは、過去に撮られた写真ではなく、つい最近のものというわけか。それ自体にも衝撃を受ける。
「ふぅん……。この人、ゲイモ? 俺、見たことねえけど……」
そう訊く声にも感情は見られず――だ。紫月は未だ無表情のままで、ずっとパソコン画面を見つめている。
「ゲイモ……?」
遼二の方は焦って声を上ずらせながらも、聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「ゲイモデルのこと! 略してゲイモ」
「あ、ああ……そういう意味でしたか」
「すっげ美形だけど、どんな知り合い?」
つい、ぶっきらぼうな物言いになってしまうのは致し方ないか――衝撃を悟られたくなくて、紫月は高飛車に訊くことしかできずにいた。
「ずっと……昔からの知り合いです。他に……頼める人がいなくて……」
「やっぱお前が撮ったんだ?」
「え、ええ……」
「……上手く……撮れてるじゃん」
「あ……りがとうございます……」
「お前の撮り方が上手いのか、モデルの人の表現力がすげえのか……どっちにしろいい写真だよ」
言葉上では褒めつつも、顔は笑っていない。感動したというわけでもなく、かといって、けなしたいわけでもなさそうで、全く本心が読み取れないような言い方に、遼二の方は困ったようにペコリと頭を下げるのみだ。気まずい空気が重苦しく、二人の時間を止めてしまうかのようだった。
「この人、プロ? 俺、マジでゲイモ仲間じゃ見たことねえけどよ。どっか他の雑誌社のモデルなんかな……」
カチッ、カチッとマウスをクリックしながら写真を次、次へと送り、独り言のように紫月が言う。
「あの……そいつ、ゲイモさんじゃないんです」
そう言った遼二の言葉で、紫月はようやくとクリックする手を止めた。
斜め横に中腰で立ったままでいる遼二を見上げ――
「ゲイモじゃねえって……」
それなら知らなくて当然だ。
だが、では素人がこうまで堂々とカメラの前で脱げるだろうか――。しかも自慰で”イく”瞬間を連想させるような淫らな表情は、珠玉と言わざるを得ない。仲間内の本職のモデルたちにも引けを取らない見事な演技力だ。いや、引けを取らないどころか、本職も真っ青といった方が正しいか。紫月は正直なところ、ひどいショックを隠せなかった。
「素人なら……すげえじゃん。俺よか、よっぽどイケてる――」
そう言うと、
「そんなことありませんよ! 紫月さんとは比べものにならないです!」
遼二は慌てたようにして否定した。
そして再び、二人の間を沈黙が襲う。
なんだかモヤモヤとした気持ちが胸を掻き乱すようだ。
「あの、珈琲……冷めない内に……よろしければ……」
重苦しい空気を破るように遼二がそう言ったのに対して、紫月は無言のまま、出されたティーカップを高飛車な態度で口へと運んだ。
◇ ◇ ◇
「なあ――」
「……はい」
「撮らしてやろっか」
「――え?」
「だから俺を――! 早くゲイアダルトの撮影現場に慣れてえんだろ? だったら、素人の知り合いに頼むよか、本職の俺を撮ればって言ってんの!」
「……紫月さんを……俺が……?」
「そ! この彼も確かにイケてるけどよ。俺ならもうちょいキワドイの撮らしてやれるぜ?」
「際どい……って……」
「これ、自慰シチュだろ? 相方モデルもなしで、よくこんだけエロい表情できるなって感心だけどよ。俺、いちおプロのゲイモだし! 相手いなくても強姦シチュも演れるし!」
紫月はそう言うと、すっくとソファから立ち上がって、ベッドへと向かってしまった。
「あの……! 紫月さん……!」
「カーテン閉めてい?」
「え、あの……ええ、構いませんが……。や、あの、俺やりますから!」
「いいって! それよか、早くカメラ持って来いよ」
「あ、はい……ですが、その……」
「もちろん、ヒカちゃんや中津川さんたちには内緒にしとくって! 誰にも言わねえし」
師匠の氷川に内緒でプロの紫月にモデルになってもらうわけにはいかない――そんな言い訳を聞きたくなくて、紫月は先を読むようにそう言い放った。
絶対に嫌だとは言わせない――
”まだ新米の自分にはそんなことできません”そんな言い訳は聞きたくない。
何が何でも有無を言わせないといった紫月のオーラの押されるようにして、遼二は困惑気味ながらもカメラケースから機材を取り出したのだった。
「で、どうする? シチュとかポーズ、お前の撮りてえの言ってくれれば注文通りに何でも従うぜ?」
「あ、ああ……はい。あの……」
「ンな畏《かしこ》まることねえだろ? さっきのあの人のも――上手く撮ってたじゃん。あれ、お前がポーズとか指定したんだろ?」
「いえ、あれはアイツが適当に……」
「あいつ……ねえ。その彼が適当につけたポーズってこと?」
「ええ、まあ」
「そんで自慰シチュかよ。ま、相方モデルがいねんじゃ自慰くらいっきゃ演《や》りようがねえっか」
遼二はカメラを構えたままで硬直状態だ。その頬には薄らと紅色が射している。
そんな様子を横目に見やりながら、紫月は不敵に苦笑が漏れ出してしまうのをとめられない。
「それにしても――フォルダ名が”麗しい”ってさ。何が写ってるかと思いきや、ちょっとビックリだったわな」
緊張状態を崩せず、いつまでたってもポーズの指定すら口にできないでいる遼二に苦笑しつつも、紫月は鼻で笑うようにそんな会話を繰り出す。すると、慌てたようにして、遼二が否定した。
「あれは……! 麗しいとかじゃないんです……! あいつの名前、麗《れい》ってんです。だから、その……」
「名前……?」
「ええ。撮りっ放しで、まだフォルダの整理もしないまま、とりあえず放り込んでおいただけなんで……」
麗《れい》――それがあの綺麗な年上の男の名だというわけか。あの容姿にして、その名前。何とも出来過ぎているようで、心の奥底の方からモヤモヤとしたものが湧き上がる気がした。
意味もなく苛立つような、急に暴れたくなるような、おかしな気分だ。しかも彼を呼ぶ遼二の言い方が”あいつ”――。まるで親しげなその呼び方にもズキズキとした何かが身体中を苛むようだ。急激に暗雲に包まれるような嫌な感覚に少しの恐怖すら覚えて、紫月はますます高飛車に口元をひん曲げ苦笑した。
「お前さ――、あの人とどういう関係なわけ?」
「どうって……」
「もしかして……彼氏――とか? ンなわきゃねっか。お前、ノンケだろ?」
「ノンケ?」
「ノーマルって意味! いくら知り合いだ、ダチだっつっても……あんな写真撮らしてくれるヤツなんて、そうそういねえだろうから、もしかして恋人同士なのかって思っただけ」
「こ……ッ、恋人って……! 違いますよ! あの人はただの……」
「――ただの?」
「……腐れ縁なだけです」
紫月はベッド上に寝転がったまま、片や遼二はカメラを持って突っ立ったままで、取り留めもない会話だけが繰り返される。
「なあ、お前――恋人いんの?」
枕元にルーズに畳まれてあった遼二のカットソーに手を伸ばし、それを弄びながら紫月が訊いた。
「い……ませんよ……! 恋人なんて」
「ふぅん? じゃ、好きな娘《こ》は?」
「い……ません」
「いねえ――?」
この前、あの綺麗な男に訊かれた時は、好きな相手がいると言っていたのに――!
咄嗟のことで嘘を付いたわけか、それとも出会って間もない間柄の自分に本当のことを打ち明けるつもりがないだけなのか。紫月はとっ散らかる気持ちを振り切るかのように、撮影に集中することにした。
「ま、どうでもいっか――! ンなことより、撮ろうぜ。シチュは……お前が決められねえってんなら、俺主導で勝手に演《や》らしてもらうけど――」
「あ、はい……! すみません、お願いします」
真摯にペコリと頭を下げる様子に、焦れた気持ちがジワジワと身体を炙《あぶ》るようだ。
「じゃ、仕方ねえ。こういうのはどう? 目の前の――頭の固え恋人を誘惑して、その気にさせるってシチュ」
紫月はいきなり片方の手を上げながら、じっとカメラのレンズを見つめた。
伸ばした手でカメラを持つ遼二の指先に触れ、誘うように撫でてみる。ゆるゆると手の甲をなぞり、早くどうにかされたくて堪らないんだといったふうに視線を潤ませる。
そうされて焦ったわけか、カメラを持つ手をわずかに震わせながら硬直している彼に、またもやぶっきらぼうな言い草で、
「どした? 早くシャッター押せって」
余裕の冷めた目つきで見上げながらそう言った。
「あ、はい……! すいません……!」
促され、慌てて押されるシャッター音も心なしか焦燥気味だ。
「ンな、緊張すんなって! 今、俺はお前に抱かれたくてたまんないお前のコイビトってシチュなんだから」
「こ……いびと……」
「早くどうにかして欲しい、お前にもその気になって触れて欲しいっていう俺の願いを――お前が感じるままに言ってくれたら、俺はその要望通りに演じるぜ?」
「要望……」
「受け入れる? それとも拒否る?」
「拒否るなんて……有り得ません! 勿論……」
「受け入れる――でいいのな?」
「はい――」
「そう――じゃ、もっとこっち」
紫月はいきなりカメラを持つ腕ごとグイと引き寄せると、今にも頬と頬とが触れ合うくらいの距離で瞳をとろけさせた。
「ちっと撮りづれえだろうけど、ガンガンシャッター押せよ。お前が感じるままに撮りまくってみろ」
そう言うや否や、紫月は自らのシャツのボタンを外して、大胆な程に胸元をさらけ出してみせた。
「ずっと……こうされたかった……。お前ンこと考えながら……毎晩自分で慰めてた……。お前にめちゃくちゃにされること想像して……抜きまくった……俺……!」
だからもう待てない。もう我慢できない。その言葉に代えて身体中で目の前の”コイビト”を求めるかのように、終にはベルトを緩めてボトムのジッパーに指を掛ける。
ジッ――と、それが下ろされる音とシャッター音が重なり――至近距離の二人の間の空気は溶岩が流れ伝う山肌に立っているかと思えるくらいに熱にまみれていった。
「触って――」
ジッパーをおろし、開き、瞳を潤ませる。
カメラを持つ手と反対側の手を取り上げて、ボトムの中へと引きずり込んだ。
「な、どんだけお前ンことが欲しかったか……分かるだろ?」
硬くなり始めた熱い雄の感覚を、下着の上からなぞらせる。
「し……ッ、紫月さん……!」
「何――? 拒否るなんて有り得ねえって――言ったじゃん、お前」
だからこうして誘っている。早くシャッターを切れと言わんばかりに、頭上の彼を軽く睨み付ける。
「焦ってる場合じゃねっだろ? これは演技なんだから。お前はそういう俺の演技を見て、感じたままに撮ればいいんだって」
あくまで”演技”を主張して、もっともっと淫らな仕草で甘えてみせた。
「分かってます……分かってるんですが……すいません……! 俺、まだまだ修行が全然足りなくて……その」
「言い訳はいいから、早く撮れって」
「違うんです……! このままだと俺……紫月さんのせっかくの演技も……撮るってことも忘れちまいそうで……」
既にカメラを持っていることさえできないわけか、枕元にガクリと手を付いたまま、苦しげに瞳を瞑りながら必死に何かに耐えている。そんな遼二の表情を見上げながら、紫月は陶酔するように瞳を細めた。
そうだ、これが見たかった――
この表情、この仕草。
自身の淫らな演技に翻弄されて戸惑う彼のこの姿を望んでいた。
今、彼は――初めての撮影の――あの時と同じように、自分を目の前に興奮している。欲情に抗えず、それでも必死に耐えている。紫月は得もいわれぬ満足と興奮が渦巻いていく中で、この上ない幸福感に打ちひしがれん心持ちでいた。
突如グイと彼の腰元を両手で掴み、引き寄せて、互いの雄同士を擦り合わせるように自らも腰を浮かせた。案の定、思った通りに彼のソレは硬く興奮していて、厚めのジーンズの上からでもはっきりと分かるくらいだった。
「紫月……さんッ! ダメです……マジで……俺、犯罪者になっちまう……!」
焦って裏返った声も、紫月にとっては堪らない。
「犯罪って……何だよ? 俺を犯《ヤ》っちまうかも知れねえってこと?」
「……ッ、そ……んなこと……するわけにいきません……! すみません、今日はもう……撮影は……」
「お前――そんなんじゃ、いつまで経っても慣れるどころの話じゃねんじゃね?」
「……そうですけど……でも本当に……これ以上は……」
腰を浮かせ、密着している互いの身体を少しでも離そうと必死になっている。両腕を突っ張らせて、何とか覆い被さらないようにと耐えるその姿が、紫月には堪らないほどゾクゾクとしてならなかった。
「――ほんっと、可愛いのな?」
「……ッ」
「晩熟《おくて》で、真面目で、純情で――ってか? こんな男前のくせして……マジ堪んね……」
紫月は再び彼の腰元を勢いよく引き寄せると、後方からジーンズの中へと両手を突っ込み、彼の尻を鷲掴みにした。
「紫月……ッ」
「いいな、それ。呼び捨て、堪んね!」
「え、あ……すいま……せッ!」
「いいって」
尻に滑り込ませた手を徐々に前へと移動させ、硬く張り詰めた雄に触れ――
「すっげ、ガチガチ――」
「……ッあ……、くッ……」
欲情に抗い切れないその嬌声が我慢の限界を告げる引き金だった。ついには覆い被さるまいと必死に耐えていた体勢が崩れ――彼の身体の重みに組み敷かれたのを感じたと同時に、乱暴なまでの勢いで唇が重ね合わされた。
歯列を割って、舌と舌とが絡み合う。乱暴を通り越して凶暴と思われるくらいに口中を掻き回され――今までに体験したこともないくらいの濃厚なキスがどれくらい続いたのだろう、長い長い、窒息するほどに長く濃い口付けから解放された時には、ベッドの上で組んず解れつというくらい淫らに、互いの身体が互いを欲していた。
「すっげ……キス……お前、俺を……」窒息させる気かよ――その言葉は言わせてもらえなかった。
再び呼吸ごと奪い取られるように濃厚な口付けを仕掛けられ、と同時に彼のジーンズの中に突っ込みっ放しだった手で、彼の雄を強く握らされた。
「犯罪者になっても……構わない……もう我慢できない……紫月さん、すみません……!」
途切れ途切れに色香がダダ漏れのような低い声が首筋を撫で――紫月は堪らない欲情と幸福感に思い切り瞳を細めた。頬は真っ赤に熟れ、組み敷かれた腕の中で恥ずかしげに眉を震わせる。
「いい……って……。なれよ、犯罪者……」
つい先程までの高飛車な態度は、もう微塵もない。彼がその気になってくれたことを実感できた幸福感が、まるで別人のように紫月を素直にしていた。それは紫月自身でも信じられないくらいで、視線も合わせられないまま彼の胸元で甘えるように頬を染める。
「……紫月……さん」
「犯《ヤ》って……俺ンこと……。お前なら……いいよ」
「紫月――」
「遼……二……」
ジッパーを外し、雄で雄を潰すほどに強く擦り合わせ、再び唇を重ね、首筋から鎖骨までもが舐め上げられていく――
互いの身体が欲情そのものといえるほどに塗れた――その時だった。けたたましいベル音が鳴り響き、遼二のジーンズの尻ポケットの中でバイブした。
突然の着信に驚き、ビクリと起き上がった遼二のポケットからこぼれ落ちたスマートフォンの画面には”中津川耕治”の文字。
『もしもし! 遼二か!? すまねえ、ちょっと急なトラブル発生しちまって――使うはずだった機材を倒して壊しちまってよ。事務所に電話したんだが、誰もいねえようなんだ。至急のことで悪いんだが、助けてもらえねえだろうか?』
スマートフォンから聞こえてきたのは焦燥感たっぷりといった中津川の声だった。こぼれ落ちそうになったスマホを、咄嗟に拾い上げようとした瞬間に触れた遼二の指先が”応答”をスワイプしてしまったのだ。
まさに欲情マックスといった瞬間の突然の出来事に、遼二は呆然、紫月も硬直状態だ。ベッドの上で中途半端な興奮状態の互いの身体を見つめ合いながら、二人は同時にハタと我に返った。
次第に冷静さを取り戻す毎に恥ずかしさがこみ上げて、双方共に顔面紅潮の茹で蛸状態だ。――が、それも一分二分と経つ毎に、気まずさへと変わってしまった。
「行ってやれよ」
「――え!?」
「中津川さん、困ってんだろ?」
「あ、はい――申し訳ないす……」
「いいって」
紫月はわずか苦笑と共にベッドから起き上がると、開けたシャツを繕い、気丈な調子でリビングへと歩を進めた。
「すみません……。急にこんなことになっちまって……」
心底すまなさそうに頭を下げる遼二に、紫月は「いいって」そう言って苦笑した。
「本当にすみません。家までお送りしますんで」
服を繕い、支度を済ませた遼二が言う。
「俺ンことなら気にすんな。近えし、一人で帰れる。お前は急いで中津川さんトコへ――」
「いいえ! 送らせてください!」
是が非でもそれだけは譲れないと、真剣な表情で見つめられて、紫月はまたも苦めの笑みに瞳を細めた。
「ん――。なら送って」
「――はい」
どうせ事務所に機材を取りに寄るのだろうから、送ってもらうにしても通り道だ。紫月は素直に遼二の申し出に従うことにしたのだった。
夕刻の通勤ラッシュ時だが比較的スムーズに車は流れていた。自宅前まで着くと、紫月は紙切れを遼二へと差し出し、
「仕事終わったら……ここへかけて」薄く笑ってみせた。
「これ――?」
「俺の携番。お前がちゃんと家に帰れたかどうか心配だから……。遅くなってもいいから、帰ったらぜってー電話しろよ!」
そう言い残して車を降りた。
「気を付けて行けな」
「……はい。今日は……本当にすみませんでした」
真剣な顔付きで謝りながら、いつまでたっても発車しようとしない遼二の背を押すように、笑顔で手を振った。
「ほら、早く行ってやれって!」
「はい――それじゃ、失礼します」
ビルの谷間に落ちる夕陽の逆光の中、遠くなるテールランプを見送った。
◇ ◇ ◇
遼二からの着信があったのは、それから数時間後の午後九時を回った頃だった。
「お疲れ! 結構時間掛かったな」
「あ、はい。今日は本当にすみませんでした」
相も変わらず真摯に謝る声に、電話の向こうで頭を下げる様子までもが浮かびそうだった。きっと、機材を届けがてら中津川を手伝ってきたのだろう。それでもこうして、きちんと言われた通りに電話をしてきてくれたことが素直に嬉しかった。
「お前、明日は休みだっけ?」
確か、氷川の事務所を出る時に連休だと聞いていた。
「はい、そうです」
「そっか……。それじゃ……」
もしよかったら、明日会えないか? さっきの撮影の続きでも――そう言おうとしたが、どうしても言葉にして伝えることができなかった。あわよくば、遼二の方からそんな誘いがあればどんなに舞い上がることか――そうも思ったが、いくら待ってもスマートフォンの向こうの彼からそんな言葉を聞くことはできないようだ。
無論、遼二の方にも遠慮があるのだろうし、気軽にはそんな話向きになるわけもないかと思いつつも、溜め息がとまらない。
「ゆっくり休めな――」
紫月は致し方なく、苦笑と共に差し障りのない言葉を口にしたのだった。
「……ありがとうございます。紫月さんも……ゆっくりお休みください」
「ん。さんきゅな。んじゃ……おやすみ」
「おやすみなさい」
通話の切れたスマートフォンを手に、ベッド上へとダイブした。大の字になって天井を見上げる――。
ゆっくりと瞳を閉じれば、瞼の中の頭上に遼二の姿が浮かぶようで、紫月はクッと瞳を震わせた。
つい先刻の――激しい口付けが脳裏に浮かべば、次第に背筋をゾワゾワとした欲情が這い上がる。まるで野生の獣のような激しいキスだった。硬く、大きく張り詰めた彼の熱。ほんの一瞬だったが、それを直に握らされた時の感覚が蘇れば、指先もビクリと震える。
『犯罪者になってもいい――もう我慢できない――』
そう言った彼の、色香に塗れた低い声をも思い出せば、堪らない情欲が身も心も焦がすようだった。
「遼二……遼……! あ……っう……ッ」
今すぐここに来て欲しい。そしてさっきと同じように、堪え切れないあの声で求められたい。
もしも今、仮にしもインターフォンが鳴って、ドアの向こうに彼が立っていてくれたとしたらどんなにか――!
紫月さん、すみません。どうしても――会いたくて来てしまいました。そんなふうに言ってくれたら、どんなにいいだろう。
それに――遼二が撮った”麗”という男と彼の関係も気になるところだ。先程までの遼二の様子からすると、本当にただの知り合いなだけで、以前に付き合っていたとかいう特別な関係ではないのかも知れない。だが、あんな際どい写真のモデルを平気で引き受けるということは、やはりそれ相応の親しい関係であることは確かだとも思える。紫月は、遼二のすべてが頭から離れずに、甘苦しい思いに悶えるしかなかった。
もう何もいらない。ゲイアダルト界のトップモデルとしての地位も、人気も、同僚や後輩からの憧れの眼差しも――何もかも――いらない。
あの遼二さえ側にいてくれたら。
あの遼二さえ自分を求めてくれたら――他にはもう何も望むものなどない……!
「……ッ、や……はぁ、遼二……ッ、遼……ッ!」
シャツを開け、胸飾りの突起を弄り、まるで彼の手にそうされているような錯覚にさえ陥り――
「あ……もっと、触って……。こんなんじゃ……全然足りね……! ここ、そう……ここ……に、お前の……」
お前のその熱で貫かれたい。満たされたい。ジッパーを下ろし、擦り、撫で、それだけでは到底足りずに自らの指で後ろを掻き回し――
「りょ……じッ……はぁ……遼二……」
遼ーーー!
大袈裟なくらいの吐息と嬌声を、ただ独りの部屋に轟かせながら紫月は果てた。ポタポタと肌の上に舞い散る白濁と共に、双眸からはポロリとひとしずくの涙があふれて伝った。
もう独りには戻れない。
彼を知らなかった頃には戻れない。
もう分かっている。
もう認めている。
俺はお前に惚れている――
そんな自身の恋情を持て余しながら、紫月は自らの両肩を抱き締めた。まるで彼の手でそうされる想像を脳裏に描きながら――甘く苦しく、切ない涙に明け暮れたまま、眠りに落ちたのだった。
- FIN -
次、エピソード「飛べない蝶」です。