官能モデル

6 飛べない蝶



 その驚くべき話を聞いたのは、これから撮影に出掛けんと支度をしていた――まさにその時だった。
「中止になったって……どういうことですか?」
 鐘崎遼二は、憧れである写真家の氷川白夜の下で見習いとして勤めている新米のカメラマンだ。突然の話に、みるみると瞳を見開きながら師匠の氷川にそう訊いた。
「俺も詳しくは分からん。たった今、連絡を受けたばかりなんだ――」
 氷川からの説明によると、ゲイ向け官能雑誌のモデルである一之宮紫月の特集企画が急遽取りやめになってしまったというのだ。これには遼二のみならず、同じ撮影に参加していた先輩カメラマンの中津川も驚きを隠せないといったふうだった。
「紫月君の特集がなくなったって……彼、どっか具合でも悪くしたのかな?」
「さぁ、つい一昨日会った時は特に変わりはねえように見えたがな。あの後、風邪でも引いちまったってか?」
 中津川も氷川も首を傾げている。
 これまで不動といわれるほどに人気を博していた紫月は、ゲイ雑誌界でも常に巻頭カラーを独占するようなトップモデルだった。故に単独での写真集も出していて、氷川がその撮影も担当してきたのだ。
 その氷川に連れられていった撮影現場で紫月と出会って以来、遼二は心を鷲掴みにされたように苦しくなり、今では彼のことで頭がいっぱいの日々を過ごしている。当初は同じ男性に対してこんな奇妙な気持ちになるなど――と、困惑もあったものの、彼と接するにつれ、そんなことはどうでもよくなってしまった。いわゆる世間一般でいうところの一目惚れというやつである。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、つい最近では師匠の氷川から、紫月を自宅まで送ってやれと申し付けられたりと、遼二にとっては思いも寄らない幸運に恵まれたばかりである。その際に紫月の方から『お前が撮った写真が見てみたい』と言われ、舞い上がったのも束の間、もっと驚くべきことには、『モデルになってやるから俺を撮ってみろよ』とまで言われて、それこそ思いも寄らず親密な間柄へと発展したばかりだったのだ。彼の申し出に、半ば強引に流されるようにして撮影を始めたものの、人気ナンバーワンを誇るその演技力に、みるみると欲情させられ、呑み込まれてしまいそうになった。もう撮影どころではない。目の前の色香に、これまでは密かに抑えていた想いが堰を切ったようにあふれ出し、終ぞ堪えきれずに遼二は紫月に口付けてしまったのだ。
 無我夢中で唇を奪い、あわや彼をこの手に抱いてしまう寸前までいったのだが、ちょうどその時に中津川から仕事の電話が入ったことで一線を越えずに留まることができたというわけだ。何とも間の悪い思いをした二人だったが、その後、紫月から携帯の番号を渡されたことで、想いはより深くなってしまった――ということがあったばかりだった。
 その紫月の特集企画がなくなってしまったと聞いて、遼二は思わず焦燥感に襲われた。もしかしたら、先日の出来事が何らかの原因となっているのかも知れないと思えたからだ。
 紫月の所属事務所にプライベートで写真を撮らせたことを咎められたとか、あるいは一線を越える寸前までいってしまったことがバレて、そのせいで紫月が事務所から謹慎のような処置を食らってしまったのかなど、考えれば考えるほど自己呵責の念はつのっていった。

 不安なままで午前中いっぱいを過ごし、一之宮紫月が特集から降ろされた原因を聞いたのは、昼飯時のことだった。
 事務所の喫茶スペースで氷川と、そして中津川も一緒だ。
「けど、それ本当なのか? あの紫月君に限ってスランプなんて信じらんねえけどなぁ」
 コーヒーを口に含みながら中津川が言う。あの後、すぐに氷川が詳しい事情を訊きに紫月の事務所へと向かった。話によれば、ここ最近の彼は覇気がなく演技にも身が入らないことが多いという。それどころか、相手となるモデルとの濃い絡みを嫌がるきらいがあり、これまでは難なくこなしてきた強姦系のシチュエーションなどは演りたがらなくなったというのだ。
 まあ、紫月の撮影に関しては主に氷川が撮っていたわけだが、それでも毎回というわけじゃない。写真集や巻頭カラーなどの大きな特集はむろん氷川が担当するのだが、普段の小ページ扱いのものは他のモデルらと同様に出版社と契約のあるカメラマンが撮るのが通常なのだ。直近で氷川が撮ったのは、紫月の三冊目となる例の個人写真集だったから、次の大きな特集までは撮影の依頼もなかったわけだ。当然、氷川や中津川、それに遼二も含めて紫月の演技力に変化が生じていることなど知る由もなかったというところなのだが、それにしてもあの紫月に限って――と、すぐには信じられない思いだった。
「写真集の時はあんなに張り切ってたのになぁ……。何か心境の変化でもあったんだろか」
 首を傾げる中津川に、氷川が煙草の紫煙を煙たげにしながら言った。
「まあ……ヤツもこの世界じゃ長い方だからな。良く言えばベテランだが、若い新人もどんどん出てきてる。コアなファンも勿論多いんだろうが、目新しさを求める読者が多いのも酷な現実だ」
「……確かに。演技力という面でいえば紫月君のような完璧なプロには及ばなくても、案外その方が親近感が湧くとかってのは聞いたことあるわな」
「ああ。特に今時は紫月みてえな”超”が付くような男前よりかは、もっと身近に巡り会えそうなタイプってのか? そういうモデルの方が需要あるのかも知れねえな」
「紫月君も若い連中の中でだんだん浮くようになっちまったってことなんだろか?」
 氷川と中津川のそんなやり取りに黙って耳を傾けていたが、遼二にはそれだけの理由で紫月がスランプに陥っているようには思えずに、ハラハラと胸中掻き乱されるのを拭えずにいた。
 やはり、自分が紫月にしてしまったことが少なからず原因になっているのではあるまいか。彼を目前に欲情を抑えられずに口付けてしまったこと、中津川からの電話がなければ彼を抱いてしまっただろうあの時の行動が紫月に何らかの傷を与えてしまったのだとしたら――そう思うと遼二はいてもたってもいられなかった。
「まあ、とにかく――そんなわけなんで今日明日は予定が開いちまった。思い掛けない休暇というには語弊があるが、中津川も遼二もゆっくり休んでくれ」
 氷川はそう言って苦笑した。
 急なことで午後からの時間が空いた遼二は、帰宅の足ですぐさま紫月の自宅アパートへと向かった。動揺もあってアポイントすら取っていなかったが、幸いなことに紫月は在宅中ですぐに出てきてくれた。
「突然にすみません。実は俺――」
 紫月は訪問に驚いたものの、すぐにその理由が分かったのだろう。少々苦笑気味ながらも、『入れよ』と言って遼二を部屋へと招き入れた。
「お前ン家と違って狭えけど、適当に座って」
「すみません、お邪魔します――」
 紫月の家は、本人が言うように確かに広いとはいえない造りだ。先日、送迎をした時には部屋の中にまでは入らなかったので分からなかったが、ゲイ雑誌で絶大な人気を誇るトップモデルという印象からすると、正直なところちぐはぐなイメージを受けざるを得ない。部屋の狭さという点でもそうだが、置いてある家具や調度品からも質素というか、かなり簡素な感じを受ける。遼二は悪いと思いつつも不思議そうに室内を見渡してしまった。
「お前が淹れてくれたンと比べたら申し訳ねえようなインスタントだけど……さ。良かったら飲んで」
 しばしぼうっとしながら突っ立ったままだった遼二は、コーヒーをトレーに乗せてきた紫月の声でハッと我に返った。
 ダイニング用のテーブルらしきはなく、小さな丸い座卓の周囲にはラグが敷かれてあって、遼二は勧められるまま床へと腰を下ろした。
「すみません、お気を遣わせてしまって。いただきます」
 出されたコーヒーに口をつける。例えインスタントでも紫月が淹れてくれたそれは温かくて美味しかった。

 何故だろう、理由もなく胸が締め付けられるように苦しかった。紫月のイメージからして、豪華な部屋で自由奔放で我が侭放題、それこそ”オレ様”というような印象で雅やかに生活しているものと――勝手にそんな想像をしていた。だが実際はまるで違う。この簡素な部屋で、彼はたった独り、どんな思いで過ごしてきたのだろう。特集企画を降ろされた今の彼の立場が、より一層そんな思いに拍車を掛けるようだ。遼二は何を話してよいやら、しばし言葉に詰まったままうつむくしかできずにいた。
 ギュッ――と、コーヒーカップを握り締めたまま、立ち上る湯気を見つめる。彼が自分の為に淹れてくれたコーヒー、その気持ちがうれしくて愛しくて堪らなかった。気を許せば涙が滲みそうだった。
 そんな遼二の胸中を察したのだろうか、紫月が苦笑気味ながらも明るめの声で笑った。
「何てツラしてんだって!」
「……あ、いえ……すみません。あの、俺……」
「聞いたんだろ?」
「――え?」
「特集降ろされたって話。ホントなら今日明日はヒカちゃん――つか、お前らに撮ってもらう予定だったんだもんな。そのことでここへ来てくれたんじゃねえの?」
「――あ、はい。その……俺……すみません」
「何でお前が謝んだって! お前やヒカちゃんのせいじゃねんだし。かえって撮りが潰れて、申し訳ねえことしたって謝んなきゃなんねーのは俺ン方じゃん。俺もこの世界入って割と年数来てるしな。まあ、遅かれ早かれこんな日が来るんじゃねえかって思ってたよ」
 紫月の言葉に、先程氷川と中津川が同じようなことを言っていたのを思い出す。
「あの――紫月さん」
「ん? 何?」
「――紫月さんは……どうして今の仕事に就かれたんですか?」
 何かに突き動かされるようにそう訊いてしまった。

 何故ゲイアダルト誌のモデルになったのか――当人を目の前にして直球で訊くことはデリカシーがなかったかも知れない。訊いてはいけないことだったのかも知れない。だが、気付いた時には遅かった。自然と言葉が出てしまっていたのだ。

「す……みません! 失礼なことお訊きしました」

 複雑な表情でそう謝る遼二を前に、紫月はまたひとたびクスッと苦笑した。
「別に失礼なんて思っちゃいねえさ。気にすんな」
 そう言うと、紫月は穏やかな表情でその理由を語り始めた。
「俺さ、ガキん頃に両親亡くしてな。じいちゃんに育てられたんだよ。親父の方のじいちゃんだけど――。あれは成人式のちょっと前だったから、高校出て二年くらい経った頃だったな。じいちゃんが入院しちまってさ。ばあちゃんはずっと前に他界してたし、診てやれる身寄りは俺しかいねえ――。けど、金なんかねえしで、どうしようって思ってた時な。今の事務所の社長に街で声掛けられてさ。いわゆるスカウトってやつ。いい金になるってから飛び付いたんだ」
 遼二は驚いた。まさかそんな事情があったなどとは思いもよらなかったのだ。この紫月の雰囲気からして、盛り場あたりで自由奔放に遊んでいたところをスカウトされたか、或いは自ら進んで入った世界なのではというイメージだったからだ。
 紫月の話では、その後数年入院生活が続いた後、祖父は静かに息を引き取ったのだという。その際の葬儀から墓のことまで紫月が一人で執り行ったというのだ。
「まあ、実際――事務所の社長が言った通り、金だけは結構な勢いで稼げたからな。じいちゃんのことに関して悔いはねえっつかさ。できるだけのことはしてやれたかなって」
 入院の際もずっと個室に入れてあげられたし、祖父はとても穏やかに老衰さながらで亡くなったのだという。紫月は後悔はないと言って微笑った。
 そうだったのか――。
 理由を聞けば、今の紫月の生活とトップモデルとしてそれ相応に稼いでいそうなのに――という印象のちぐはぐさにも納得がいく。遼二は思ってもいなかった事情に驚くと同時に、我が事ではないというのに思い切り心が痛んでならなかった。心臓がジクジクとするようで、苦しくて堪らなくなる。と同時に――とてつもない愛おしさがこみ上げてならなかった。
 それは今まで紫月に対して抱いていた好意や欲情を遥かに越えるような、深く重さをも伴ったような不思議な気持ちだった。ともすれば涙があふれてくるような、堪らない気持ちだ。欲情や恋情に任せて抱き締めるというよりは、持てる全ての愛情をもって抱き包んでしまいたい――そんな感情だった。
「――申し訳ありません。辛いこと言わせちまいました」
 遼二は床の上で姿勢を正し、正座して頭を下げながらそう言った。
「バッカ。ンな改まることねえってよ」
「けど俺――! あの、紫月さん――」
「――ん?」
「あの……! 紫月さんは本当にすげえモデルだと思います。カッコいいし、色っぽいし、演技力もすげえし……! 俺、何度も紫月さんの写真集見ました。失礼な言い方かも知れませんけど……正直――何度ヤバい気持ちになったか分かりません! でも……それ以上にやっぱあなた、綺麗で……すげえ素敵で、憧れました」
「ンだよ、それってひょっとして――慰めてくれてんの? つか、お前ノンケだろ? ゲイアダルト見て欲情できんのかよ?」
「ノンケ……?」
 そういえば以前に中津川からも聞いたことのある言葉だ。あの時も意味は分からなかったが、それ以上に紫月のどんな些細なことでもいいから知りたいと思う気持ちの方が強くて、その後も言葉の意味を調べることさえすっかり忘れていたのだ。
「ノンケ――つまりノーマル、恋人にすんなら女。ゲイじゃねえって意味」
「あ、ああ……」 
 なるほど、そういう意味なのか。確かにこれまでは男性相手に恋愛感情をもつなどとは考えたこともなかったのは確かだ。
「ま、けどそんなん言ってもらえると、世辞でもうれしいけどな」
 紫月がクスクスと可笑しそうに笑う。
「いえ――違うんです! ノーマルとかゲイとか関係なく、ホントに綺麗だって思ったんです! 実際、間近で見てて演技にも圧倒されました。そんなすげえ紫月さんが特集企画を降ろされるだなんて有り得ねえって思って。ついこの前まではめちゃくちゃ輝いて、どんなに手を伸ばしても憧れても手が届かないような人だったあなたが……降ろされるなんて……。それってもしかしたら俺のせいなんじゃねえかって思いました」
「お前のせい? ……って、何でよ。急にどうした」
「この前……ッ、俺の家に来ていただいた時……俺があんなことしたせいで……紫月さんは――」
 欲情しまくり、まるで強姦のように口付けて押し倒してしまったことで、あなたを傷付けてしまったのではないか――さすがにはっきりとはそのままを口にはできなかったが、遼二の表情からそんな思いを見てとったのだろうか。紫月はフッと穏やかに瞳をゆるめてはまた微笑った。
「ま、そうかな。半分はお前のせい――かもな?」
「――えッ!?」
 自分で振っておいて驚くのもおかしな話だが、紫月がはっきりと『お前のせいだ』と告げたことで遼二は硬直、ひどく焦らされてしまったのは確かだった。
「――すみません……ッ、ほんとに俺……あんなこと」
 必死で頭を下げる遼二の手がテーブルの上でギュッと握り締められたまま震えていた。ブルブルと、ガクガクと、彼の気持ちを代弁するかのように震えていた。
 その拳の上から包み込むように紫月は自らの手を重ねると、
「俺さ……あン時、お前にキスされて思ったんだ。お前以外の誰かに抱かれたり、犯られたり――そういうのは……もう嫌だって思っちまった。例えそれが”演技”でも――な」

「――え!?」

「だから他のモデルとの絡みができなくなった。今までは平気だったエロい演技もできなくなった……。お前以外のヤツに触られんのが辛くなった――」
「……し……づきさん」
「だから半分はお前ンせい――ってな」
 紫月はクスッと笑った。その笑顔が堪らなく愛しくて可愛らしくて、遼二は例えようもない気持ちに身体中が打ち震えるようだった。
「紫月さん……それって……」
「惚れちまった……ってことかな」
 はにかみながらも正直に言ってくれた言葉に、しばしは返事もままならないくらい遼二は高揚させられてしまった。
 うれしくて、信じられなくて、心が――身体が――震えてどうにもならない。だが、紫月にはそんな遼二の態度だけで彼の返事など聞かなくとも理解できたのだろう。それは先日の遼二の欲情やキスという行為を見ただけで明らかだったからだ。
「ホントはさ、自分から告るなんてあり得ねえって思ってた。今までの俺だったら考えらんね……。けどよ、ンなこと……もうどうでもいい。正直になんなきゃいけねえ時もあるっていうか、正直に言っちまいたくなったってか。そんだけイカれちまったみてえ……お前に」
「紫月さん……! あの、俺……!」

――俺も同じ気持ちです。あなたが好きです!

 あまりの感動で言葉に詰まる遼二の表情だけで、その気持ちは充分過ぎるほど伝わったようだ。
「――遼二」
「はい――」
「海、見たい。連れてってくれね?」
 少し伏し目がちに、だが何とも言えずに穏やかな表情で紫月は言った。それは少し寂しそうでもあって、だがゆったりとした時間の流れの中で安堵しているふうでもあって、今までは華々しく見えていながら陰ではずっと張り詰めてきたのだろう気持ちが解放されたようにも映る。
「はい――。はい、もちろんです! 何処へでも――!」
 遼二はしっかりとした口調でそう言い、うなずいた。



◇    ◇    ◇




 遼二が紫月を乗せて向かったのは葉山の海岸だった。ちょうど午後から夕刻へと向かう陽が傾きだした一番美しい時間帯だ。
「ここ、たまに撮影の練習がてら来てたんです。あまり人もいないんでゆっくりしていただけると思います」
「へえ、なかなかいいところな」
 そこはこじんまりとした入り江のようになっていて、砂浜もあるが周囲を岩に囲まれていて、あまり観光客などが行き来するような場所でもない。確かに落ち着いて撮影やらスケッチなどをするにはもってこいな海岸だった。
 紫月は眩しそうに西日を見つめながら、うれしげに伸びをする。
「気持ちーのな」
 そのまま波打ち際へと向かって二人で歩を進める。格別には何を話すでもなかったが、雄大な景色と波の音に包まれているだけで幸せな気持ちにさせてくれる。というよりも、遼二も――そしてもちろん紫月も、側に互いがいるというだけで良かったのかも知れない。
「な、靴脱いでい?」
「え? あ、ええ。もちろん! 気持ちよさそうっすね」
 紫月はうれしそうに靴を脱ぎ捨てると、まるで子供のように波に素足をさらしてはしゃいだ。
 そんな彼は撮影時に見せる大人の色気はまるでないが、遼二にとってはそのどちらも愛しくて堪らないと思えたのだった。
「紫月さん、ちょっと待っててください!」
 遼二は急ぎ車へと戻ると、カメラを片手に戻ってきた。
「え? 撮るの? 俺を?」
「はい。撮らせてください。紫月さんはカメラのこと気にしないで自由にしててくださっていいんで」
「ん、そんじゃ撮って」
 波と戯れ、はしゃぐ。何ものにも縛られない無垢な少年のような笑顔が本当に綺麗で愛おしかった。
――と、その時だ。岩場の陰から突如黒い塊が飛び出してきた。大型犬のシェパードだ。犬の方も二人を見て驚いたのだろう、野太い声で吠えながら二人に向かって突進してきた。
「紫月さん……!」
 遼二は咄嗟に紫月を姫抱きすると、まるでバレエのリフトさながらに肩の上へと担ぎ上げた。
「わ……ッ、た……っと! おわッ……!」
 紫月は紫月で、遼二の手から放れたカメラを間一髪でキャッチすると、必死でそれを胸の中へと抱え込んだ。
「リョウ! リョウ君……! ダメよ!」
 遼二の足下の周囲で弧を描くようにしながら吠え続ける犬に向かって、後方から慌てた声がそう叫んだ。見れば老夫婦が岩場の方からこちらへと駆けてくる。飼い主だろうか。何かの拍子にリードを離してしまったようだ。
「申し訳ありません! お怪我は……!?」
 白髪の夫人が蒼白な表情でそう叫ぶ。犬の方も飼い主が現れたことで落ち着いたのだろう、すぐさま遼二の足下を離れると、おとなしく彼らの方へと駆けていった。
「本当にごめんなさい。この子、大きくて力が強いんで、私たちではどうにもならなくて……」
「お怪我はありませんか!? 本当に申し訳ないことです!」
 婦人の亭主だろう、老紳士も必死の形相で謝罪を繰り返す。
「僕らは大丈夫ですので!」
 遼二の返答を聞いて、老夫婦はドッと肩を落とした。幸い怪我などもなかったことで安心したのか、息を切らしながらも深く溜め息をつき、心底安堵したようだった。
 聞けば、この犬は彼らの息子が飼っているらしい。
「息子夫婦が旅行に行くというので預かったのですけれど、やっぱりお散歩は私たちでは無理だったようですわ」
 夫人が申し訳なさそうに言う。彼女の夫の方も、慣れないことでご迷惑をお掛けしてしまってと平身低頭で謝ってよこす。
「本当にもうお気になさらないでください。僕らは何ともありませんでしたし」
 遼二が肩に担ぎ上げた紫月を下ろしながら、にこやかに微笑んだ。
「それよりこのワンコの名前、リョウっていうんですね? 男の子かな?」
 紫月が問う。
「ええ、そうです。飼ってからもう五、六年になるかしら。雄だからパワーがあるし、もう振り回されちゃってこんなことに……。元々は黒い毛並みがとても良質だっていうところから”良”にするんだって。息子が名付けたんですのよ」
 夫人がリョウの身体を撫でながら教えてくれた。紫月はリョウの目の前で屈むと、じっと彼を見つめながらうれしそうに微笑んだ。
「そっか、リョウ。お前もめっちゃ男前だな! ハンサムだし身体も引き締まってすげえカッコいいぜ!」
 犬の方も褒められたことが理解できるのだろう、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、紫月の頬をぺろりと舐めて答えている。
「あの、俺……ちょっとリョウと遊んでもいいスか?」
 紫月が老夫婦に訊くと、その返事を待つ前にリョウがとびきりの美声で「ウォン」と吠えた。
「まあ! この子ったら早速その気になって!」
「本当だ。遊んでくださるのが分かったようだね」
 夫妻もうれしそうにうなずいた。
「よっしゃ! じゃ、リョウ、行くぜ!」
 紫月が波打ち際に向かって走り出すと、リョウもその後を付いて伸びやかに駆け出していった。
 遼二はその姿をカメラで追いながら次々とシャッターを切っていく。夕陽は今まさに地平線へと吸い込まれる瞬間の絶景だ。波がさらった砂浜で無邪気に戯れる紫月とリョウの姿も、それに勝るとも劣らない、いや遼二にとってはそれこそが何物にも変え難い絶景だった。

 その後、夫妻に代わってリョウのリードを預かりながら、彼らを自宅まで送り届けると、夫妻は本当に助かったと言って喜んでくれた。是非ともお茶をと勧められたが、もうすっかり陽も沈みきってしまったことだしと、気持ちだけもらうことにして遼二と紫月は夫妻の家を後にした。
 宵闇が降りる中、海辺へと向かう小道で二人、肩を寄せ合いゆっくりと歩く。
「今日はマジ楽しかった。ありがとな、遼二」
「いえ。お陰様で俺もいい写真が撮れました」
 遼二は思い掛けず撮ることのできた紫月の愛しいショットに大満足で高揚冷めやらぬだった。密かに引き伸ばして、部屋に飾ろうと心に決める。
「あのワンコ、お前とおんなじ名前だったからさ。すっげ親近感湧いちまった」
 至極楽しげに紫月が言う。
「ええ、俺も驚きました」
「あいつもなかなかにハンサムなワンコだったな。思わず抱きついちまおうかと思っちゃったぜ」
 照れ笑いでごまかしながらも、チラリと上目遣いで笑った紫月の笑顔が堪らなく愛おしかった。

――そっと、遼二が紫月の手を取り、繋いだ。

「すみません。ちょっとこうして歩きたくて……」
 そう言う彼の頬にはうっすらと朱が差している。電灯も何もない夜空の下でも紫月にはそれが分かった。
「ん、俺も――」
 繋がれた指にキュッと力を込めて握り返した。
「――紫月さん」
「ん?」
「好きです」
 それは、初めて聞く”言葉”という形での遼二からの告白だった。
「ん。さんきゅ、遼二」
「いえ。本当に……大好きです!」

 多分、そう、出逢ったその瞬間から――

 今度は言葉にせずともその気持ちが伝わったのだろう、紫月は思いきりはにかんだ笑顔で、
「俺も同じ」
 そう言って頬を染める。

 そうだ。俺ら、きっと出逢った時から魅かれ合ってた!

「な、遼二。俺さ、今日はまだ……その、帰りたくねえ……かな」
 このまま帰るのはしのびない。もっと一緒に居たい。放れたくない。
「はい――、俺も帰したくありません。帰り道にちょっと雰囲気のいいカフェがあるんで、何か食っていきましょう」
「……ん、いいな」
 紫月としてはそういう意味で言ったわけでもあるようなないようななのだが、生真面目な遼二のことだ、食事に誘ってくれるだけでも精一杯なのだろう。
 本当はこのまま彼の部屋へ帰って、もっと深く結ばれてしまいたい――そんな想いを込めて言ったものの、あまり急いで先を望むのもガッツき過ぎというものか。紫月は微苦笑ながらも、今夜は共にカフェに寄れるだけで満足しなければと自分に言い聞かせた。
 ところが――である。その直後に遼二から飛び出した言葉に唖然とさせられるハメとなった。
「メシ食ったら、夜景が綺麗なブリッジがあるんでそこに寄りましょう。家の近くまで帰ったらもう一度軽くお茶をして……何なら……」
「……何なら、何?」
「何なら……ずっと一緒にいたいです」
「ずっと……って、お前それ……」
「ずっとです。このままずっと……俺はずっとあなたと一緒に生きていきたいです」
 早急で大胆過ぎる台詞だが、遼二は至って真剣な眼差しで当然のように言ってのける。そんな彼を前に、紫月は思わずプッと噴き出してしまった。
「……ッ、お前ってホント……」
「……え?」
「いや――、いい」
 そういえば以前に氷川と中津川が彼のことを晩熟でウブだと言っていたのを思い出した。
「んー、晩熟ってよりもド直球?」
「え……晩熟? ……って、何スか、それ?」
「んー、何でもね!」
「えー!? 紫月さん、ひどいッス! 教えてくださいよ!」
「教えね!」
 紫月は隣を歩く大きな肩に頬を寄せながらしっかりとその逞しい腕に抱き付いては、クスクスと一人幸せな妄想に浸るのだった。その表情は心からの笑顔で満たされていた。

 飛び方を忘れてしまった蝶のようだと思っていた。今まではゲイアダルト界のトップモデルといわれ、自由気ままに花から花へと移り気に羽ばたき、そこに群生するすべての植物の中で君臨していたはずが、急に羽を失ってしまったように思えて落ち込みもした。
 だが、そうではなかったのだ。
 野に咲くすべての花々から愛される蝶でなくていい。今、自分の側に居るこの逞しく温かい遼二という花の周囲で、彼の為にだけ飛んでいられたならそれが何よりの幸せだ。そんなふうに思わせてくれる唯一の存在に出会えたことに、この上ない幸福を感じていた。二度と――この腕を放したくはない、紫月はそう思ってやまなかった。



 一之宮紫月がゲイアダルト誌のモデルを引退すると発表したのは、それから間もなくして後――真夏の太陽がやわらかな秋の陽射しへと移りゆく季節のことだった。

- FIN -

次エピソード、「蜘蛛からの挑戦状」です。



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