番格恋事情
「なんで俺がてめえにホられなきゃなんねーんだか……!」
半ばうっとうしげに鼻先には面倒臭そうな嘲笑の笑みまでたずさえて、一之宮紫月《いちのみやしづき》はそう言った。きわどい台詞とは裏腹な、ともすれば余裕しゃくしゃくを見せ付けんばかりの挑発的な態度で、だ。それもそのはず、彼にとっては不本意極まりない『伝統行事』とやらがこれから行われようとしているからである。
この春に高等部の三年になったばかりの彼は四天学園《してんがくえん》という高校の最上級生であり、今年度の番格的存在の男だ。この紫月の他に隣校の桃稜学園《とうりょうがくえん》からは同じく新番格の氷川白夜《ひかわびゃくや》、そしてもうひとつの白帝学園《はくていがくえん》からは陰番で生徒会長の粟津帝斗《あわづていと》というメンツが顔を揃えている。
新学期が始まったばかりの春四月、隣接する三つの高校の番格と呼ばれる面々が、それぞれの手下を従えて続々と集まってきていた。一見異様な光景――ここは埠頭の外れにある廃墟化した倉庫街だ。
互いに威嚇《いかく》し合うような一触即発の緊張した空気を漂わせながら、各々の頭である男らを見守り、時折けん制しつつも静寂を保つ。古くからの伝統といわれている新学期の一大イベントを目の前に、誰もが心を踊らせ、事の成り行きに目を凝らしているのである。
◇ ◇ ◇
同じ市内にある三つの高校、四天学園と桃稜学園、そして白帝学園はまるでピラミッドの三角形を模《かたど》るように位置した隣接校だ。その中でも毛色の異なる白帝学園は優秀な生徒の集うとして有名で、進学校でもあった。
その白帝はさておき、四天と桃稜の二校は素行不良で名をはせてもいた。ゆえにこの二つの学園は犬猿の仲で、しょっちゅう睨み合いや小競り合いが繰り返されていることでも有名だった。
街中だろうがどこだろうがお構いなしの悠々自適、その奔放ぶりに学園側はもちろんのこと、一般市民にとっても又、厄介な存在であるらしい。
その二つを取り持つような役割をしているのが白帝学園なのだが、一応進学校といえど陰の番格は存在していて、表向きは生徒会の面々が仕切っているというところから陰番だなどと噂されてもいた。
このようにして異色の進学校が強面《こわもて》の四天と桃稜の仲裁役を担っているというところも、言わずと引き継がれた伝統のひとつだ。
そんな立場を表すかのように、白帝学園生徒会長の粟津帝斗は少々かったるそうな面持ちで、倉庫端の欄干へと腰を下ろして大アクビ状態だ。これから行われようとしている新学期の一大イベントを前に緊張感のかけらもない。相反して残りの二校では早くもギラギラとした興奮状態が続いていた。
「少しはシャキっとしてくださいよ会長。そんなふうに締まりのない顔をしていると彼らに文句言われますよ?」
隣に腰掛けた副会長にそんな嫌味を言われて、より一層面倒臭そうにノビをしてみせた。
だいたい何だ。自分たちには一文の得にもならない上に、さして興味もないこんな集まりに顔を出さなければならないというだけでもダルいというのに、緊張感を持てという方が無理だ。まあ仕方ない、これも役割というので仕方なく出向いて来たものの、正直なところ早くコトを済ませてもらって退散したいというのが会長帝斗の本音だった。
それはさておき、一大イベントといわれるこの伝統行事の内容なのだが、そもそもは前年度の番格同士が卒業直前に行うタイマン勝負が万事の発端となっていた。
その勝負に負けた方は次の一年間、勝った方の学園の言いなりになるというとんでもないお約束事が成されているのだが、そんなものを素直に受け入れるバカはいない。しかも自分たちとは関係のない卒業生の勝敗に、高校最後の一年間を左右されるとあっては黙っている者のいないのは当然で、だから新学期になると同時に、その不本意な勝敗を覆す為の集会が次年度の番格同士で行われるのである。
昨年の勝負で勝ちを手にしたのは桃稜学園、敗者側の番格である一之宮紫月が先程から面倒臭そうな顔をしているのはそんな理由からだ。今後一年間の自由を勝ち取る為には、勝者である桃稜番格を倒さなければならないのは言うまでもないのだが、この伝統行事にはもうひとつ厄介な決め事が付随していた。
まあ勝った方に花を持たせるというか利があるのは当然のことで、番格勝負のやり直しに応じてやる代わりに、何かひとつ希望する条件を出せるというのがそれだった。ところが今年度の番格である氷川白夜が突きつけてきた条件というのが耳を疑うような代物で、『一発ホらせろ』というものだったわけだから、その場にいた全員が呆気にとられたのは言うまでもない。
ホらせろ――とはつまり性交、セックスのことだ。しかもこの場所に集まった全員の目の前でそれをやれというのだから紫月が呆れるのも無理はなかった。
通年の例ではたいがいの場合、集団暴行などが圧倒的だ。たった一人で相手校の複数人と戦わなければならないわけで、いかに番格が強いといえど、たいがいの場合は打ちのめされて終いになる。ぶっ倒れてもそれに耐え切ることができれば、前年度の勝敗がサラになるという決まりになっている。
それらがエスカレートしすぎない為にも仲裁役を置いているわけで、そういった意味でも白帝学園の存在は外せないといったところなわけだ。
他に珍しい例では、バイクで埠頭の端から海面めがけて全速力で突っ走り、どちらがギリギリの位置で停まれるかを競うという男気のある勝負などをした年もあったようだが、とにかくセックスを条件に出してくるなど前代未聞のことだった。しかも双方は男子校、過去にそんな例が無いのも頷ける話だ。
本気なのか冗談なのか、氷川の提案を聞いた一同は、その場にいた誰もが一瞬耳を疑った程だった。当の紫月も例に漏れず苦笑いをしながらも、滅法呆れたというように大袈裟なゼスチャーまでつけて深く溜息をついてみせる。
「てめえの冗談に付き合ってるヒマはねえんだよー。ほら、白帝の会長様も面倒臭えってなツラしてることだし、早いとこマトモな条件出せっての!」
挑発するように氷川の目の前に立ち、その顔を覗き込みながらそう言った。
だが、氷川はふざけるなと言いたげに片眉を吊り上げると、
「はん、他人《ひと》のせいにしてんじゃねえよ。俺は条件を変えるつもりなんぞねえな。白帝の奴らに手間掛けたくねえってんなら、てめえがさっさと脱ぎゃいいだけの話……」半ば小馬鹿にしたようにそう言い掛け、ちらりと白帝学園の粟津帝斗へと目をやった。――と、その時だ。帝斗の隣に見慣れない制服姿の男を見つけて、怪訝そうに片眉をしかめた。
「おい――ちょっと待っとけ」
氷川は紫月にそう言い残すと、一旦勝負を預けるようにして白帝学園の一団が固まっている方へと歩を向けた。そして、その中に混じっている一人の男の真正面へと立つ。側へ寄ってよくよく見れば、やはり白帝学園とは別の高校の生徒である。一見真面目そうだが、眼力のある結構な男前だ。これから対戦をしようとしている一之宮紫月とどこか似たような印象を受けるが、この男の方がほんの僅かに紫月よりも華奢といったところだろうか。
氷川はしばし怪訝そうにしながらも、ジロジロと彼を観察し、
「お前、白帝のヤツじゃねえな? こんなところで何してやがる」そう訊いた。
すると、すかさずそれに答えたのは白帝の会長である粟津帝斗の方だった。
「彼は僕の友人でね。楼蘭学園《ろうらんがくえん》の三年生さ。ここへは僕が誘ったんだ。いい暇潰し――じゃなかった、社会勉強になるだろうと思ってさ」
悪気のなさそうに、にこやかな表情でそんなことを口走った。お坊ちゃん学校に通う御曹司のくせに、不良と言われる自分たちを前にして度胸のいいことだと、氷川は若干呆れさせられたふうに苦笑を誘われる。だが、それよりも連れの男の方に興味を惹かれるわけか、未だジロジロと彼を観察視していた。
「――楼蘭、ね。ってことは、こいつもお坊ちゃんってわけだ」
楼蘭学園といえば、白帝学園と似たり寄ったりの進学校だ。ただ、隣の市にある為に普段はあまり見掛けることがない。しばし彼を凝視し続けていた氷川は、次第にニヤッとした不敵な笑みをたずさえながら言った。
「お前、名前は?」
どうにもこの男のことが気になって仕方がないらしい。
氷川は一応悪名高い桃陵学園で頭を張っているような器だから、傍目から見ても威圧感を感じさせる雰囲気を十分に持った男である。そんな彼に名を訊かれたりしようものなら、普通は怖じ気づくか尻込みするのが当たり前なので、きっとこの男も怯えたようにしてすぐに名乗ると信じて疑わなかったのだろう、少々冷やかすような上から目線でそう訊いたのだ。
ところが、だ。楼蘭学園の生徒だというその男の返事を聞くやいなや、少々驚いたように瞳を見開かされるハメとなった。
「――あんたに名乗る必要があるのか?」
男はえらく落ち着いた調子でそう返したのだ。しかも、酷く低い声音の、何とも言いようのない美声である。こんな声優がいたら、きっと『声』だけで相当モテるのだろうなと思わせるような色気をも伴ったようなそれだ。氷川はしばし切り返しの言葉に詰まるといった表情で、ポカンと彼を見つめてしまった。そして、ようやくと我を取り戻したように苦笑を浮かべると、
「言うじゃねえの。ますます興味が湧いた」
そう言ってグイと彼の胸ぐらを掴み上げた。その様子に驚いた帝斗が、
「ちょっと……キミ……! いきなり何をするんだ」
慌てたようにして割って入ったのをきっかけに、周囲も次第にザワザワと騒がしくなっていく。タイマン相手の紫月はもとより、この場に集まっている全員が、彼らに釘付けにさせられてしまった。本来の目的からはすっかり横道に逸れたような氷川の行動に唖然状態である。
だが、氷川はそんなことは気にも止めずといった調子で、まだ楼蘭学園の男に執着していた。
「楼蘭みてえなお坊ちゃん校にも――てめえみてえな野郎がいるなんてな」
面白そうに嫌味を吐きながら、掴んでいた襟元ごと突き放すように手を離してみせた。そしてひとたび真顔になると、
「俺は桃陵の氷川だ。氷川白夜。覚えとけ」
不敵にそう言い放ち、『てめえも名乗れ』というふうに、顎先をクイと振るだけの仕草に代えてそう訊いた。ここまで言われれば致し方なくといったところなのか、
「――楼蘭の雪吹《ふぶき》」
ようやくと男が名乗った。すると氷川はひどく満足そうにニヤッと笑い、
「雪吹――何だ?」
下の名前の方は何だと言いたげに、再度顎をしゃくる。
「冰《ひょう》だよ。――雪吹冰《ふぶき ひょう》」
「ふぅん? またえらく冷てえ名前だな。覚えとくぜ、冰」
聞いた側から呼び捨てた上に、未だもってこの場から動こうとする様子もない。あまりにもこの冰に興味を示す氷川のことが気になったのか、粟津帝斗が二人の間に割って入り、面倒臭げに呟いた。
「あのさ、キミ。氷川君だっけ? どうでもいいけれど……別に部外者を連れて来ちゃいけないなんて決まりはないだろう?」
そんなことよりも早く勝負を始めてくれないかとばかりに、溜め息まじりのオーバーなゼスチャーまでたずさえて、帝斗は肩をすくめて見せた。
「ふん、さすがにダチ同士ってだけあって、てめえら口の利き方も知らねえ失礼な野郎だな。だが、まあ――」
この俺を前にして度胸のあるところは認めるといったふうに笑うと、素直に踵を返し、本来の対戦相手である一之宮紫月の元へと戻って行った。
◇ ◇ ◇
「待たせたな。覚悟は決まったのか?」
条件の変更は無い――余裕の上から目線でそう伝える。今しがたの、白帝学園の連中らとのやり取りで潰した時間は、まるで考える暇を与えてやったと言わんばかりだ。紫月の方は呆れをそのままに、思い切り侮蔑まじりで肩を竦めてみせた。
「何が『覚悟は決まったか』だよ。てめえも物好きなヤツだな? 俺とタイマン張ろうって時に、ぜんっぜん関係ねえ野郎にちょっかい掛けるとかさ。余裕ブッこいたふりしてんのか、それともナめてんのか知らねえけどよ? 案外――俺とヤるのが怖えんじゃねえの?」
何だかんだと理由をつけて時間を引き延ばし、タイマン勝負をうやむやにしようとしているわけかと言いたげに嘲笑する。そんな紫月の態度に、氷川はピクリと額に青筋を浮かべてみせた。
「ふざけた口叩きやがる。俺に犯られんのを怖がってんのはてめえの方だろうが。後悔させてやってもいいんだぜ? それとも素直に降参するか? お約束ってやつに従って、今後一年間、俺らの手下に成り下がるってんなら大歓迎だぜ?」
思い切り高飛車な態度でニヤけまじりだ。何だか酷く楽しそうな氷川の様子に、紫月の方はチ苦虫を潰したような表情で氷川を睨み付けた。
「ふざけてんのはてめえだろって……! 誰が降参なんかすっかよ」
「じゃあグダグダ言ってねえで、サッサと条件呑みやがれ! いいか、一之宮。俺はてめえをリンチだのミンチだのにしてえとも思わねえし、実際そんなもんじゃ満足できねえわけだ。ケツをくれんのが嫌だってんなら、さっさと降伏しちまえっての!」
未だ面白そうにニヤニヤと笑っている。どのみちお前らには服従しか選択肢は無いと言われているようで、紫月はブチ切れた。
だがここで引いてはそれこそ相手の思うツボ、文字通り自身の面目も丸潰れだ。紫月はふと微笑むと、
「へえ、そーかよ。一発ホらせりゃいーんだな? いいぜ、そんなんでいいならお安い御用!」
自分よりも若干上背のある氷川の顎先に指を這わせ撫でながら、色気めいた視線まで携えてニヤリと笑ってみせた。そして、氷川だけに囁くように耳元へと思い切り唇を寄せる。
「なあ氷川。てめえ、随分とあの楼蘭の野郎に興味持ってたみてえけど――一目惚れでもしたってか?」
図星だろうと言いたげに、からかい文句を口にする。同じ男である自分にいかがわしい条件を突き付けてくるくらいだから、案外そういう趣味でもあるのかと思ったのだ。
「俺はさしずめ当て馬かよ? とんだ貧乏くじ引かされちまったぜ」
クククと鼻先で笑いながらおちょくってやる。そして言葉通りというわけなのか、すぐさま羽織っていた学ランに手を掛けると、あっさりとそれを脱いで放り投げてみせた。しかも中に着ていたシャツのボタンを一つ二つと外し、準備万端といったように素肌を晒していく。これには氷川よりもその場にいた全員が驚かされてしまった。
呆気にとられる者、予期せぬ興奮に思わずゴクリと喉を鳴らす者など様々で、一時倉庫内が騒然となる。
条件を突き付けた氷川当人は若干バツの悪そうに片眉を吊り上げ、だが挑発めいた紫月の行動が満足だというようにすぐにニヤリと瞳をゆるめると、
「は――、好き勝手抜かしやがる。だがそれも悪くねえかもな? 楼蘭のあいつ、今時珍しく根性のありそうなヤツだったし――興味を惹かれたってのも事実だしな。てめえを当て馬にすんのも面白えじゃねえか」
存外本気の様子でそんなことを言ってのけた。紫月にとってはますます嘲笑を誘われる言い草だ。
「は、前からイカれた野郎だとは思ってたけど……ここまで頭オカシイとはね。番格勝負に来て野郎をナンパかよ? しかもマジで俺を当て馬にするとか――」
呆れてモノも言えないぜとばかりに憐れみめいた笑いが止まらない。だが、ふと何事か閃いたわけか、紫月は氷川の襟元を掴むと、まるで濃厚に抱き合うように彼を引き寄せた。
「なあ、おい氷川――マジで当て馬になってやってもいいぜ? そん代わり、これで勝負はチャラにしねえ?」
「はあ!?」
「実際……てめえだってこんな大勢の前で、本気で俺を犯る度胸なんかねえだろうが? だったらそれなりにイチャつくのに付き合ってやっから、それで終いにしようって言ってんの!」
いい提案だろうとばかりに、紫月は上機嫌だ。相反して氷川にとっては、いささか相手にだけ都合の良すぎる話向きである。素直に同意できるはずもない。だが、少し冷静になって考えてみれば、この紫月の言うことにも一理ある気がするのも否めなかった。
実のところ、この場で本当に『行為』に及べるわけもないことは氷川にも分かっていた。本来、四天の連中を屈服させる為に無理難題な条件を突き付けてみせただけだからだ。当然、断ってくるのは目に見えているし、そうなれば適当にタイマン勝負でケリをつけるか、乱闘騒ぎにしてしまえばいい――と、そんなふうに思ってもいた。まさか予想に反して紫月がこんなふざけた条件を呑むなどとは思ってもみなかったから、その後のことなど想像さえしていなかったのだ。多少なりと苦い思いを堪えつつも、ここは紫月の提案に乗るしかないとも感じていた。
「ふん、仕方ねえな。それで手を打ってやる。その代わり、しっかり『イチャついて』もらうから覚悟しとけよ」
氷川はそう言うと、紫月の腕を乱暴に掴み上げて、倉庫中央に放置されている作業台の所まで引き摺るようにして連れて行った。
まあいい、どうせ半分は『やらせ』である。この際、少し際どいところまで追い詰めて、多少の恥をかかせてやればいい。それに、先程の楼蘭学園から見物に来たという雪吹冰という男の反応も楽しみだ。自分たちがまぐわり合う場面を見て、彼がどう思うだろうかなどと考えるだけでワクワクと気分が高揚してくる。まかり間違って彼が妬いてくれでもすれば面白い――無意識の内に氷川はそんなことを思い巡らせてもいた。
「そんじゃ、始めるとするか――」
氷川は台の上に紫月を押し倒して縫い付けると、半分は開《はだ》けていたシャツのボタンの残りをビリリと引き裂いてみせた。
「……ッ! いきなり強姦かよ」
チッと吐き捨てるように侮蔑めいた笑みと共にそう言った紫月を組み敷くように、その腹の上へと馬乗りになった。
――見下ろす姿は確かに憐れだ。
たった今、引き裂いたばかりのシャツと、そこから覗く素肌にゴクリと喉が鳴る。
想像を遙かに上回る、何とも言い難い淫らな『図』に予想外の欲情が疼き出す――
ほどよく付いた筋肉のわりには細い首筋、くっきりと浮き出た鎖骨、そして胸元には色白の肌に似つかわしくないような濃い目の突起が二つ、そのどれもが瞬時に妙な気分を誘ってくるようだ。ドキドキと早くなる心臓音を紛らわさんと、氷川はしどろもどろに口走った。
「何だ、てめえ……乳首真っ黒じゃねえかよ……もっと綺麗なピンクだと思ってたけどな」
卑猥な思いをそのままに『言葉』という形にしてみれば、それこそ想像もしていなかった程の欲情がこみ上げるようで、氷川は目の前の光景に酷く興奮していく自分に戸惑いさえ感じる程であった。
一方、紫月の方からしてみれば、自分を組み敷きながら興奮しているその様子が、何とも可笑しくて嘲笑を誘われる。今の氷川は学園の番格という硬派なイメージとはほど遠い、血気盛んなただの高校生にしか見えない。余裕の『ヨ』の字も感じられない、そんな様を嘲け笑うかのように、紫月はニヤリと瞳をゆるめてみせた。
「誰がオンナみてえなピンク色なんかしてっかよ。そーゆーてめえはどうなんだよ? 焦らしてねえでさっさと脱ぎゃいいじゃん。何なら俺が手伝ってやっか?」
まるで慣れっこだと言わんばかりにそう囁く。そして頭上の氷川を見上げながら、シャツごと胸ぐらを鷲掴みにするように引き寄せると、じっくりと焦らすように指でひとつひとつボタンを弾いていった。
「おい、何ボサッとしてんだ。イチャつくんだろ? 周りのギャラリーを退屈させちゃ悪りィだろうが」
まるでリードするかのようにそう言って笑う。チラリと横目に周囲を窺えば、紫月の言った通りに全員が唖然としたような表情で自分たちを凝視していることに気付かされる。氷川はガラにもなくカッと染まり掛けた頬の熱を紛らわさんと、紫月の髪を掴み上げた。
「……ッの、調子コイてんじゃねえぞ……てめ、マジで犯っちまってもいいんだぜ……!」
そんな脅しにも紫月の方はどこ吹く風だ。
「別に俺は構わねえけど? 何ならしゃぶってやろか?」
「……ッ、はぁ!?」
「てめえの自慢の息子だよ。マジでヤるんだったら、もっとガチガチにしねえと入んねえぜ?」
そう言って笑い、そしてもっと熾烈な言葉で煽ってみせた。
「ま、でもホントにここで脱ぎ始まったら、てめえは公然猥褻罪だわな。あー、それとも強姦罪か」
氷川にとっては堪らない侮辱である。ここは割合広い倉庫なので、紫月とのこの会話が周囲に届いているとも思えないが、それでも思い切りプライドをへし折られたような気がしてならない。羞恥と怒りとでワナワナとし始めた拳で、いっそのことぶん殴ってしまった方がスッキリするかと思った――その時だった。急にその手を取られて、導くように持っていかれた先は紫月の胸板の上だった。
驚きつつも我に返って見下ろせば、今しがたの毒舌には似つかわしくない程の淫らな視線で見つめられて、氷川は戸惑った。紫月に取り上げられた掌は、彼の胸飾りの周辺をまさぐるようにユルユルと肌を這わせられながら誘導されていく。そうする内に、ふと指先が胸の突起を撫で、
「……っく、っあ……」
その瞬間にとてつもなく淫らな嬌声を聞かされて、氷川は我を失ったように頬を染めると同時にゴクリと喉を鳴らした。
「……てめ、よがってんじゃねえよ……このヘンタイ野郎が……!」
とりあえず罵倒すれども、火の点いてしまった欲情はおいそれと止められるものではない。いつの間にか制服のズボンの上からスリスリと股間をも撫でられて、氷川は驚いたように腰をビクつかせた。
「なあ、おい氷川――」
「……ンだよ」
「お前の――もう勃ってんじゃん。結構デケえのな」
舌舐めずりをするように唇を半開きにしながらそう言われて、不本意ながらもますます頬が染まる。
「ンなとこ触ってんじゃねえよ! ……クソッ、一之宮……! てめ、随分慣れてっみてーじゃねえか……! まさか普段からこんなことしてんじゃねーだろな!?」
「へへ、だったら何だ?」
ニヤリと笑ったふしだらな視線に、またしてもドキリとさせられる。そんな一瞬の隙をつかれたというわけか、
「――――――――ッ!?」
次の瞬間、ドカリと股間を蹴り上げられて、氷川の絶叫が倉庫内にこだました。
一瞬、何が起こったのか分からずに静寂が立ち込める。
皆の動揺を面白がるように紫月は飛び起きると、目にもくれない速さで倉庫二階の欄干へと駆け上り、余裕の笑みで素肌に学ランを羽織ってみせた。
「悪りィな氷川ー! 続きはまた今度ってコトで!」
わざわざ高い位置から見下ろすような形でニヤニヤと勝ち誇ったようにそう言い残すと、自分の仲間を引き連れて、
「ズラかんぞ!」
一気に階段を駆け下りたと思ったら、まるで障害物競走を楽しむように桃稜の連中らを掻き分けて、あっという間に倉庫を後にしてしまった。
◇ ◇ ◇
「あの野郎ーッ! ぜってー許さねーっ!」
学ランを叩きつけ眉間にビクビクと皺を寄せて激怒する氷川を横目にしながら、白帝生徒会長の帝斗は呆れ顔で伸びをしてみせた。
「何? 今日はこれで終いかい? そんじゃ俺らも引き上げるとするかな」
よっこらしょ、というように立ち上がって、大あくびまでするおまけ付きだ。
そんな様子を見送りながらますます怒りを煽られているのは、勝者だったはずの桃稜学園の一団だ。なぜか敗北者のように倉庫内に取り残されて茫然自失、あまりにも呆気にとられて怒る気も湧かないといった顔つきをしている者が殆どだ。
まるでギャグ漫画のような展開に、ともすればプッと噴出しそうな雰囲気までもが立ち込める。氷川を除いてその場の殆どがそんな面持ちでいた。
そんな一同を他所に、唯一人、思い切りバカにされた形で取り残された氷川にしてみれば、到底怒りなどというひと言では括れない程である。未だに激痛の残る身体を、時折地べたに突っ伏すようにして庇《かば》いながらも、白帝生徒会長の粟津帝斗が帰っていく後ろ姿がおぼろげに視界を過ぎる。ふと、彼の周囲を見渡せども、楼蘭学園から来た雪吹冰という男の姿も既に見当たらなかった。
「クソッ! どいつもこいつもヒトをおちょくりやがって! あいつらぜってー許さねー!」
この報復戦はいずれ必ずといった調子でメラメラと怒りをあらわにする氷川を横目に、桃稜の一団は互いをチラ見し合いながらコソコソと耳打ちなどを繰り返していた。
「なあ、俺らって勝ったの? 負けたの?」
「さあ……? つか、氷川さんめちゃくちゃ荒れてんなぁ」
「当然だろ? 思いっきしタマ蹴り上げられたんだから。マジでやべえんじゃね? あれじゃ近い内に果し合いに乗り出すの決まりだな」
「まあな、けどさっきのアレ、四天の一之宮さ。ちょっとソソられなかった? 俺、勃っちまいそうんなった」
「ぶぁかッ! 気色いこと抜かしてんじゃねえよ!」
怒りに燃える自らの背後で仲間内でこんな会話をしているのは、当然氷川には内緒である。
とにもかくにもハナから騒動の出だしは例年に漏れず、因縁関係にある三つの高校の新学期はこうして幕を開けたのだった。