番格恋事情

10 報復戦4



――試しにアンタも一発抜かしてもらったらどうだ?

「なーんてのは冗談だな。こんな具合のいいカラダをみすみす譲ってやるつもりは更々ねえんでね。さっさと出てってくんねー?」
 今までとは打って変わったドスのきいた調子で言い放つ。氷川の表情からは余裕だった薄ら笑いもすっかり消えて、本気の様を窺わせる。これ以上相手をしてやるつもりは毛頭ないとばかりに、氷川は突如降って湧いたように現れた男を睨み付けた。
 だが、男の方はそんな脅しにビビるどころか、眉根ひとつ動かさない。
「おい、そいつを放せ」
 静か過ぎるともいえる落ち付いた物言いに、逆に焦燥感を煽られるだけだ。
 この時点で既に気負いさせられているようで、氷川は普段からは想像できない程に苛立たせられるのを感じていた。
 そんな感情のままにか、あるいはそうしないではいられないとばかりの勢いで、怒りをあらわに怒鳴り上げた。
「うるせーなッ! 部外者はてめえの方だっつってんだっ! 本気でブチのめされる前にさっさと失せやがれっ!」
 氷川もまさか自分が負けるなどとは微塵も思ってはいないから、ある種当たり前のようにそう言い放ったのだ。
 確かに見張りの連中をたった一人で片付けてきたようではあるが、だからといって自分が相手をすればそこそこ互角に戦えると信じて疑わなかったのだろう。戦闘体制の為か、抱えていた紫月をソファへと乱暴に放り投げれば、さすがに男の表情がピクリを動いた。
 その一瞬の隙を見逃すはずもなく、氷川は間髪入れずに目の前の男へと拳を繰り出した。まるで最初から持てる力のすべてで体当たりせんという勢いで、ともすれば一撃で沈めん気合いの入った強烈な利き手ストレートを振り上げざま、歯を食い縛る。男を殴り倒した時に受けるだろう自身の拳への衝撃を和らげる為だ。
 だが、それ程の渾身の攻撃を仕掛けたにもかかわらず、次の瞬間にはまるで想像とは逆の空振りに、一瞬自らの力を制御できなくてつんのめってしまった。予想もしていなかった結果に頭が真っ白になる。
「何……ッ!?」

 まさか、かわされただと――!?

 そう思った時には、男の大きな掌が自らの喉元にがっしりと食い込んでいるのに気が付いて、氷川は次第に蒼白となった。
 一体いつの間に隙を突かれたというわけか。
 言っちゃナンだがこんなことは初めてで、それ故しばしは自分がどういう状態にあるのかが把握できなかった程だ。
 ここいら界隈ではまともに相手をするのも馬鹿らしいくらいの連中にしか遭遇したことがない。強いと言われていた一之宮紫月に対してさえ、こんな焦燥感を感じたことなど皆無だったのもハッタリではない。
 自分の攻撃がかわされるなど有り得ない。
 それ以前に、相手の男は大した動きもしていないはずだった。殴るふうでもなければ蹴りを繰り出すわけでもなく、喧嘩には付きものの怒りとか殺気とかいった感情のかけらも読み取れない内に急所を押えられてしまったのだ。
 まさか自分が窮地に立たされるなど、経験したこともなければ想像したことすらない氷川にとって、今のこの状況は焦りを通り越して驚愕とさえいえる初めての現実だった。
 喉元に食い込んだ男の指には大して力が入っているふうでもなかったが、それがかえって恐怖を突き付けてくるようでもあって、おいそれとは身動きもままならない。おそるおそる窺うように彼の表情に視線を向ければ、そこには静かな中にも鋭い眼光が真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「――ここで死にてえか?」
 余分な詰りも罵倒もまるでない、短いそのひと言と同時に掴まれていた喉元の指先に若干の力が込められたのに蒼白となる――。
 男の言葉は脅しとは到底思えず、ずっとこちらを捉えたまま微動だにしない鋭い眼光がそれを物語ってもいた。
 その気なら本当にこの場で殺してやっても構わないという殺気が窺えるのだ。
 背筋の凍る思い――などというものでは表しきれないものを感じて、氷川は呆然とさせられてしまった。
 反撃どころか腹見せの台詞さえ出てこない。喉がカラカラに乾いて、焼けつくようだ。
 そんな緊張感を打ち破ったのは、突如物々しげに飛び込んできた仲間の叫び声だった。
「氷川さんッ……! ヤバいっす! サツが……っ、隣の飲み屋のオヤジがお巡り呼びやがった!」
 先刻、邪魔扱いして外に追いやったはずの彼らに救われる形となったのも、皮肉この上ない。だが今はそんなことを言っていられる余裕などなかった。
 一瞬ゆるめられた男の腕を無我夢中で振り払うと、
「ッ……!」
 本来ならば、「覚えていやがれ」のひと言くらいは吐き捨てて当然のところ、そんな余裕すらないままというのも信じ難い。
 氷川は自らの脱ぎ散らかした服だけを拾い上げると、一目散にその場を立ち去って行った。
 その後ろ姿を険しい表情で見据えながらも、今は紫月のことが最優先だ。残された狭い空間には未だ意識を失ったままの氷川の仲間が一人転がっている。店外で意識のある者も、苦しそうにうめきながら何とか逃げ出していく気配が窺える。
 混沌とした室内には引き裂かれた血濡れのシャツや学生服が散乱している――。鐘崎はそのすぐ側のソファの上に全裸で放置されている紫月の元へと駆け寄った。そしてすぐさま身体を抱き起こせば、その酷い有様に瞳を歪めずにはいられなかった。
「一之宮! おい、しっかりしろっ」
 焦燥感を抑えて、先ずは容体を確認するのが先だ。致命傷がないか、脈はあるのか、そういったことを素早く診てから、軽く頬を叩いて呼び掛ける。
「一之宮! おい、紫月ッ!」
「……あ……?」
 意識があることに胸を撫で下ろし、傷だらけの彼を抱き上げると、遠くから近付いてくる物々しい気配に警官の到着を悟って、鐘崎は急ぎその場を後にした。



◇    ◇    ◇



 それからどのくらいの時間が経ってからだろう、紫月が意識を取り戻したのは静寂の中でだった。
 ぼんやりと視界に映り込むのは見慣れない天井の白色、澄んだ空気が心地よく思えるのは適宜に整えられた空調のせいだろうか。
 肩から全身をすっぽりと包み込むような居心地のいい感覚は、手入れの成された広いベッドと糊のきいた清潔なシーツ、それに洋物映画に出てくるような大き目の枕のせいだ。
 ふと、視線を動かした先には品のいい柄のカーテンの隙間から垣間見える、早朝を告げるような蒼い闇。ぼうっとその色を見つめながら、不思議と安堵感に包まれる気がしていた。

 ここは何処だ――

 少し窮屈な違和感を感じて額に手をやれば、手厚く包帯が巻かれているような感覚に気が付いて、紫月はハッと瞳を見開いた。と同時に瞬く間に忌々しい記憶が脳裏を巡り、先刻からのことが鮮明に蘇る。
 それが昨夜の出来事だと意識できたのは、窓の外の蒼色が朝を思わせるからだろうか、ぼんやりとそんなことを考えていた――ちょうどその時だった。まるで高級ホテルのスイートルームと見まごうような広い部屋の扉が開いて、誰かが室内へと入って来る静かな気配を感じた。
「気が付いていたのか?」
 穏やかに発せられたその声音に驚いたのは、それが誰あろう転入生の鐘崎遼二のものだったからだ。
「……鐘……崎…………」
 ではここは彼の家だということだろうか。それを肯定付けるように静かな声が、「安心しろ。ここは俺の部屋だ」こちらから何を訊く前にそう言った。
 ゆっくりと近付いてくる鐘崎の手には茶器や薬の類が乗せられた盆がひとつ、何故かそんなことが目に付いて意識が揺さぶられる。
「具合はどうだ?」
「……え、ああ……うん……」
 慌てて身体を起こせば、ズキリと節々が痛むような気がしたものの、思いも掛けずにすっきりとした感覚は、清潔な寝巻のお陰だということに気付かされる。
 入院着のような着物仕立てのゆったりとした袷が心地いいのも、まるで風呂に入った後のような爽快感も、すべてはこの鐘崎が手厚く手当を施してくれたからだということが漠然と理解できる気がしていた。
 彼は手にしていた盆をベッドサイドのテーブルに置くと、そのすぐ脇にあった椅子へと腰を下ろした。
「何も心配することはない。全身の打撲が酷いが、内臓や骨に異常はなかった。額が切れた箇所を少し縫ったが脳には影響ないということだ」
 端的な説明は、やはり彼が手当をしてくれたことを指しているのだろう。では、昨夜あの場所に彼が現れた気がしたのも事実だったということだ。
 朦朧とする記憶の中で、厳しい表情をした彼が氷川と対峙しているところまでが夢幻のように思い出された。だが、正直なところそれが本当に夢なのか現実なのかは定かではなかった。その後すぐに気を失ってしまったということなのだろう、困惑したようなこちらの様子を気遣ってか、鐘崎はもうひと言を付け足した。
「信用のおける俺の主治医に処置してもらったから安心していい。お前の家には剛と京に言って当たり障りのないように連絡を入れてもらってある。一晩家を空けたことで親父さんが心配されることもないだろう」
 だから何も気に病まずにゆっくり身体を休めろと言われているようで、紫月は安堵しながらも驚きの方が先にたってか、大きく瞳を見開いたまま自分を見つめる男を凝視して動けずにいた。日本に来たばかりのはずの彼に、掛かり付けの主治医などがいるのかという、普通ならばすぐに浮かびそうな疑問もこの時は考えも及ばなかった。
 椅子に腰掛けた鐘崎が、まるで熱を測るかのように額を撫でてくる。
「悪かった。もう少し早くに行ってやれればよかった」
「……あ、えっと……お前が……助けてくれた……んだ……」
「ああ、駅前の大通りでお前がガラの悪い連中と連れ立っていくのを目にしたんだ」
「……そっか」
 ではすべて知られてしまっているということだろうか――紫月は咄嗟にそう思った。
 昨夜のことを何もかも、集団暴行に遭ったことは無論のこと、氷川にされたことの一部始終をこの男は知っているのだろう。今更どう繕おうにも手立てなど無い。敢えて細かいことを訊いてこないのが彼の気遣いなのだ。
 憐れまれているというわけではないだろうが、もしもそんなふうに思われていたら堪らないという思いに、紫月はわざと平静を装おうと賢明になっていた。よほど焦っていたのか、しどろもどろに言い訳めいたことまでが口をついて出てしまった。
「あ……のさ、俺ならその……平気だから……! なんか、すげえ迷惑掛けちまったみてえけど……桃稜の連中とは犬猿の仲ってーか、遅かれ早かれああなることは分かってたんだ」
「――?」
 無言のまま、ほんの一瞬険しく眉根を寄せた鐘崎の様子に、紫月は慌てたように言葉を付け足した。
「あー……っと、その……ッ、お前は転入してきたばっかだから知らねえだろうけど……あいつらとはいっつもいがみ合っててよ……。何かにつけてぶつかり合うのは珍しくねえっつーか……」
 早口で捲し立てるようにした言い訳にも、鐘崎の怪訝そうな表情は崩れない。それ以上何を訊くでもなく遮るでもない間の悪さに耐え切れずに、紫月は思わず一番気に掛かっていることを口走ってしまった。
「それに……っ、あーゆーのも……慣れてっから……俺……」
「――ああいうの?」
 やっと開いた彼の口から出たひと言は、質問するふうな疑問符とは裏腹に、それが何を指しているのかが薄々理解できているのだろうと思えるのはこちらの勝手な思い込みか――。
「……氷川に……されたこと、知ってんだろ……?」
「……ああ」

(やはり――)
 分かってはいたことだが、紫月は愕然とした。

「俺ッ、野郎と寝んのとか……初めてじゃねえし……前にも言ったことあると思うけど、ゲイバー行ったりとか……結構好き勝手して遊んでっから……」
「だから平気だとでも言いてえのか?」
「……え、あの……」
「――俺は許せねえな」
 そう言う鐘崎の表情は険しく歪み、その瞳の奥には蒼白く煮え滾るような怒りの感情がありありと浮かんでいた。
「許せねえよ。お前に不埒なちょっかい出しやがった氷川って奴も、それにもっと早くに行ってやれなかった俺自身もだ」
 その言葉に紫月は酷く驚いた。
「……そ……んなん、お前のせいじゃないじゃんよ……実際、お前が来てくれてすげえ助かったんだし」
 そんなことで気に病まれたら、こちらの方が恐縮してしまう。まるでこうなったのが彼自身のせいのように言う鐘崎に、紫月の方は逆に戸惑ってしまった。
 それ以上は特に何を言っていいか会話も進まなかった。近い位置に二人きりで互いの息遣いまでが分かるような状況に、急激に心拍数が加速する。今更改めて思うことでもないような気がするが、印象的な黒髪や鼻梁の高い整った顔立ち、それに少し憂いを含んだ険しい眼差しなど、そのどれもにドキドキとさせられるのは困りものだ。
 氷川からあんな目に遭ったばかりだというのに、邪な感情と共に欲情の感覚までもが疼き出すようで信じ難い。いや、あんな目に遭った後だからこそ余計にそうなのか、気を許せばそれを口実に縋り付いて甘えたくさえなってしまう。今なら動揺に任せて少しくらい大胆になったとしても、大して変に思われないのではないだろうか。
 そもそも氷川に犯されている間中、ずっと想いを巡らせていたのはこの鐘崎のことだった。せめて彼に抱かれているつもりでいたいと、切にそう願い続けてもいた。その彼が今目の前に居る。しかも偶然とはいえ、街中で見掛けただけで後を追ってくれて、その上助けてくれたのだ。
 そんな彼に縋りたいと思うのはごく普通の感情ではないだろうか。格別におかしなことではない。ありがとうと言って彼の胸に顔をうずめ、そのまま逞しそうなこの腕に抱き包まれてみたい。
 次々に浮かんでくるそんな想像を巡らせていたら、比例するように欲情の感覚も増してしまいそうで、それらを振り払わんと紫月は慌ててうつむき肩を丸めた。
 これ以上傍にいたら本当に縋り付いてしまいそうだ。そして、そうなったが最後、想いを抑え切れずに何をするか分からない。甘えて乱れて、彼を求めてしまうかも知れない。氷川から受けた傷を癒す為にも、お前に抱かれて慰められたいんだなどと口走ってしまわないとも限らない。
 そんなことになったらそれこそ本当に引かれてしまうだろう。助けてくれた好意に対しても申し訳ないし、こういってはナンだが、しばらく一人にしておいてくれないかななどと考えていたその時だった。
 ソワソワと落ち付かない様子を変に思ったのか、鐘崎の方は相反して怪訝そうに眉をひそめると、思わず『えっ?』と思うようなことを口にした。
「……もしかしてまだ抜けてねえのか?」
 そして更に驚くべき質問が続く。
「お前が握らされてた瓶、あれを使ったのは氷川って野郎か?」
 そう訊いてくる鐘崎の表情は苦くて、とても機嫌の良さそうな感じではない。紫月は一瞬、何のことかと困惑したが、考える内に彼の言っている意味に思い当たった。

『ちゃんと握ってろよ。気持ちよくなるまじないなんだからよ――』

 ニヤけた氷川の顔面ドアップが脳裏にチラついて、次第に記憶の中の点と点が繋がってゆく――。
 英数字の組み合わさった妙な瓶、面白そうにそれを弄り続けていた氷川の態度。甘い匂いのするそれを得意げに嗅がせられた時のことが逐一フラッシュバックするように浮かび上がってきて、紫月は思わず眉をしかめた。
――あの瓶をずっと握り続けていたというわけか。
 意識を失ったにも関わらず、そんなものだけは後生大事に持ってくるだなんてと思いながらも、鐘崎が言うのだから間違いないのだろう。実のところ、あの瓶の中身が何だったのかということについては、はっきりとしたことは知らずじまいだった。何となく想像はつかないでもないが、どうせロクなものじゃないに決まっている。
「……あんなん、まだ持ってたんだ俺」
 痛みも苦さもすべてを呑み込むような諦め口調でそうつぶやいた紫月を見て、鐘崎の方はますます険しく眉をしかめた。
「お前、道場育ちの段持ちなだけあって受け身の取り方が巧かったんだな。打撲だけで致命傷に至らなかったのもそのせいだろうって医者が言ってたぜ」
「……え?」
 自分が危惧していたこととは掛け離れたような言葉に、紫月の方は少々困惑気味だ。だがすぐにそれも薄れた。
「問題はあの薬だ。お前の意識が朦朧としちまったのも、アレが原因だ。もちろん打撲のショックも少なからずあるだろうが、あんなとんでもねえ代物を使いやがって……」
「あれって……そんなヤバいもんだったわけ?」
「催淫剤だ。それも相当強烈で厄介なヤツだ」
「……ッ……催……って……」
 内心、やはりと思ったが、鐘崎自身の口から改めて告げられると、とてつもなく恥ずかしい気がしてならない。
 そういえば思い出した。あの時、氷川はうれしそうに『マジで天国にイかしてやるから』などと息巻いていたっけ。その後にされたことを思い出せば、次第にその残像が身体のどこそこでくすぶり出すような感覚が堪らなかった。薬の正体を知ってしまったから尚更なのかも知れない。
「一般人が……それも高校生のガキにまであんなもんが出回ってるとすりゃ、日本も厄介になったもんだな」
 ボソリと独り言のようにそうつぶやく鐘崎の表情は相変わらず苦い。
「ああ、それなら多分……ヤツの家は貿易会社とかっつってたから……」
「貿易? ああ、そういえば剛たちがそんなことを言っていたな」
 何でも香港に本社だが支社だかがあるという話だったか。親の目をちょろまかして遊び道具にするような息子など、ロクなもんじゃない。それ以前にその会社自体も胡散臭いに甚だしい。
 そんなことを巡らせながらますます険しい表情で黙り込んでしまった彼を横目に、紫月は急に疼き出した身体の変調を鎮めようとかなり焦っていた。
「あ……のさ、悪いんだけど……」
 もう少し眠らせてくれないか――とでも言えば当たり障りがないだろうか。とにかく熱を持ち始めてしまったこの変調を何とかしたくて堪らない。単刀直入に出て行ってくれと言うのは気が引けるし、この場を丸く収めるにはどうすればいいのだろう。そんなことが頭の中でグルグルとしていた。

「えっと、鐘崎……その悪いんだけど俺……」
 モゾモゾとうつむき加減の紫月の様子に、鐘崎はちらりと気をやった。どうにも逸ったような仕草で視線を泳がせ、言いたいこともはっきりと言い出せないような態度でいる。鐘崎は先回りをするように、低い声で訊いた。
「一人にして欲しいのか?」
「――えっ!?」
 何で分かったのかといった表情をした直後に、バツの悪いように再び視線を泳がせている紫月の様子を見れば一目瞭然だった。要はまだ薬の余韻が抜けきらなくて辛いのだろう。一人になって楽になる為の『処理』をしたいのだろう彼を気の毒に思うと同時に、裏を返せば彼をこんな目に遭わせた氷川という男に対しての怒りが燻ぶり返す。
 鐘崎は部屋を出ていくどころか、もっと紫月の傍へ寄るようにベッドサイドへと腰を下ろした。
「紫月、お前は楽にして横になってろ」
「え……? え、あ……えっと……」
 苗字ではなく、いきなり名前の方で呼び捨てられたことにドキッとさせられる間もない内に、軽く顎先まで持ち上げられて、紫月は目を白黒させてしまった。焦る暇もなく、既に視界に入りきらないくらいの近い位置にあるのは、仄かな想いを抱いていた唯一人の男の視線だ。
 普段、教室の隣の席で微かに知っていた香りが、近距離にいることで熱を伴ったように立ち上り、ゾワゾワとした欲情となって瞬時に背筋を這い上る。
 催淫剤の余韻と恋慕の念が渦巻いて、突然の展開に気が動転しそうだった。
「俺が嫌か――?」
「え……?」
「嫌なら無理強いはしねえ」
「それって……どういう……」
 温かく大きな掌が頬に添えられる。と同時にクイと自然に傾げられた顔の角度で、唇を重ねられる気配を悟る。近過ぎて焦点は合わないものの、そんな仕草にとてつもない色香を感じて、バクバクと心拍数が加速した。
「その怪我じゃ一人でやるのは苦痛なはずだ」
「……え、あの……それって……」
 まさか手伝ってやるとでもいうつもりなのだろうか。無論断る理由などないし、好意を抱いていた男にこんなことをされれば、うれしくないはずはない。
 だが少し冷静になれば、そんな都合のいい展開などあるわけがないとも思う。紫月にとっては困惑を通り越して驚愕なくらいだった。そんな戸惑いを他所に、鐘崎はもう一度同じことを訊いてよこした。
「嫌か――?」
「え、あの……嫌なわけねえよ……お前にはすげえ世話になったし……その……」
「そんなことはどうでもいい。恩に感じる必要もねえ」
 単純に『俺』にこうされるのが嫌なのかどうかを訊いているんだといわれているようで、紫月は胸の奥がキュッと熱くなるのをとめられなかった。
 意識せずとも目の前の男を待ちわびるように瞳を閉じる。それをイエスと受け取ったのか、鐘崎はより一層二人の距離を縮めてみせた。
「――ここ、いいか?」
 唇を撫でられる仕草で、それがキスを意味しているのだと分かる。だが、今更それを訊く必要があるのかと思うほどに、既に唇と唇が軽く触れ合う位置で、低い声がそう囁いた。
 少しかすれ気味の問い掛けは、まるで『欲しい』と言っているようで、色気などという言葉では表し切れない程でもあって、ともすれば淫らの一歩手前のような濡れた声だ。クラクラと眩暈を誘うほどに官能的でいながらして、余裕がない。その裏腹な感じがどうにも堪らなくて、全身がゾクゾクと震えた。
 『いい』とも『ダメ』とも反応できずに、紫月の口からは嬌声ともつかない甘い吐息が漏れ出している。
「鐘……だ……め……俺、……鐘崎っ……あ……ぁっ……っ」
「ん……? ダメなのか?」
「違っ……! そ……うじゃなく……て」
「――じゃあ、何だ?」
「ダメな……んてっ、あるわけ……ねえけど……はぁ……っ」
 鐘崎は、声にならない淫らなその吐息を呑み込むように唇を重ね合わせると、一気に深い口づけで奪うように舌を絡めた。そして次第に激しく貪りながら両の掌で頬を掴んで顔を交互し、濡れた音のキスを繰り返しながら彼の上へと覆いかぶさり――

「――俺が鎮めてやる」

 ゆっくりとした調子の低い声音が囁けば、紫月の肩先がビクリと跳ねた。
「鐘崎……ッ」
「その薬は強力なんだ。ちょっとやそっとじゃ治まんねえし、お前が自分で鎮めるのは無理だ」
「……あ、……けど……」
「いいから――じっとしてろよ」
 淫らで、甘くて、欲しくてたまらない。このままどこまでも乱されてしまいたくなる。
 そう思っているのは自分だけではないのだろう、鐘崎と紫月は互いに無言ながらも相手の胸中が手に取るように感じられていた。
「鐘崎……ごめ……、俺、どこまでもお前に迷惑掛けちまってる……」
「迷惑だなんて思っちゃいねえ。余計なことは考えなくていいから――ほら、手貸せ」
 まるで『掴まれよ』とでも言うように手を取られ、彼の大きな背中へと導かれる。
「……ごめん、マジで……」

 でも、でも今はお前に甘えていたい――

「謝るなよ。何度言えば分かる――」
 低い声はそこはかとなくやさしい。
「ん……」
 紫月は万感極まったように押し寄せる波の感覚に身をよじりながら、想いを寄せる男のもたらす欲情の渦の中へと堕ちていった。



Guys 9love

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