番格恋事情
その日の夕刻になってから、鐘崎の家の車で送ってもらうという形で、紫月は自宅へと戻った。
無論、鐘崎も同乗してきたが、家に立ち寄ることのないまま早々に引き上げてしまったのがひどく残念であった。
ちょうど道場の稽古をつけていた自らの父親からも当然御礼の挨拶をするべきだし、何よりここまで運転をしてきてくれた鐘崎の世話人らしき中年の男性も含めて、お茶の一杯もご馳走しないと気が済まない。だが、そんな気遣いは無用だからと、あっけない程の勢いで立ち去ってしまった彼らを見送りながら、何だか心にぽっかりと穴が開いてしまったような気分を拭えなかった。
走り去る車の後部座席には、こちらを振り返っているような鐘崎の様子がシルエットとなって確認できる気がしたが、それもすぐに遠ざかり見えなくなってしまう。ほんの今しがたまであの腕の中に抱かれていたのだと思えば、瞬時に頬が染まる。だが、そそくさと引き上げてしまったことを思えば、それさえも現実なのか夢なのか曖昧に思えてしまうのが怖かった。
「なんもそんなに素っ気なくすることねえのに……」
やはり後悔しているのだろうか――などと思わず勘ぐってしまう自分も嫌で仕方ない。不安な胸中を何とか抑えながら、紫月は眠れない一夜を過ごしたのだった。
◇ ◇ ◇
ようやく寝付けたのは夜も白々と明ける頃だった。派手な青痣も気になることだし、その日は学校を休むことにした。
父親には一通りの説教を受けたが、半ばいつものことと諦め気味なのか、さほどしつこく追求されずに済んだのだけは幸いといえる。そして放課後になると、剛と京が様子見に揃って顔を出してくれた。
もしかすると鐘崎も一緒に来てくれるかも知れないと、淡い期待を抱きながら待っていた紫月には、そこに彼の姿が見えなかったことが何とも残念であった。そんなことを露知らずの剛と京は、事の成り行きに興味津々の様子だ。
「やっぱ桃稜の奴ら、報復に乗り出して来やがったか! 氷川のことだから近々こんなことになるんじゃねえかって心配してた矢先だもんなぁ……」
「けど遼二がお前を見掛けたお陰で大事に至らなかったって。それだけはマジでよかったよ」
本心から心配そうに言う剛らにチラリと視線をやれば、その『遼二』はどうしたんだとばかりに受け取れたのか、あえて言葉に出しては訊かなかったものの、彼の方から話してくれた。
「あいつも一緒にどうかって誘ったんだけど。何だか今日は用事があるとかでよ」
そんな説明に京もすかさず相槌を入れる。
「そういや随分急いでたっぽいよな? あ、お前によろしくって言ってたぜ」
それを聞いて半ばホッとした心持ちにさせられども、やはり残念な気持ちは否めない。『よろしく』というくらいだから、とりあえずは昨日のことを気に病んではいないのだろうと思うことにした。
「けどホント不幸中の幸いっつーか。一昨日、お前と例の茶店で別れた後さ、一緒に帰らないかって遼二の奴を誘ったんだ。けどあいつ、教科書を取りに本屋に寄るからってさ。別行動取ったのが正解だったってことだな」
「だよなー。あのまま一緒に帰ってたらと思うとさー」
二人共に、かなり興奮気味に身を乗り出しながら雑談状態だ。
「しっかしまた派手にやられたもんだよな? 身体の具合、どうだ?」
「けど骨折ったとかじゃなくてよかったよ。つーかさ、集団相手の割にはその程度で済んだのは、やっぱお前が強かったってのもあるだろうけど……」
そんなことを口走りながら、京が僅かに声をひそめて興味有りげに耳打ちをしてよこした。
「ところで紫月よー……遼二って腕っ節の方、どうだった?」
「――腕だ?」
「だってその……一応、氷川ともやり合ったわけだろ? お前はそんだけ怪我負ってたわけだし。あいつが氷川をのめしてお前を助けたってことになるんじゃねえの?」
どうやら事の経緯が気になって仕方ないらしい。
聞けば、当の鐘崎からは詳しいことを殆ど教えてもらえていないようで、そのせいで余計に気になっているらしかった。
道場を横目に縁側に腰掛け、出されたりんごジュースを飲み干しながら京が口を尖らせている。
「遼二の奴さぁ、どんなふうな様子だったかって訊いても『ああ』とか『うん』とか言いながら肝心なことはさっぱりでよー。無口っつーか、寡黙っつーか、どうにも埒があかねえのよ! そりゃ英雄気取りされるよりはいいけどー、俺らにしてみればやっぱ気になるところじゃん?」
確かにそうだろう。剛や京にとっても他人事ではない上に、いつまた桃稜の連中が絡んで来ないとも限らない。どんな乱闘で、どんな形勢だったのかを一応知っておきたいのは当然といえばそうだ。
まあそれ以前に、京にとっての興味の種は、転入生の鐘崎がどの程度デキる奴なのかということの方らしい。彼の風貌や雰囲気から想像させられる見掛け通りに、実際のところ喧嘩も強かったのかということが気になって仕方がないようだった。
紫月はそんな様子に理解を示しながらも、若干苦笑い気味で歯切れの悪い相槌を打つしかできずにいた。
というのも、鐘崎が詳しい経緯を安易に話していないことが有難くもあり、それはおそらく自分を庇ってくれているのだと思えたからだ。きっと氷川にされたことを誰にも知られないようにと、口をつぐんでくれたのだろう。案の定、剛も京も単に報復の集団暴行に遭っただけという認識しかないらしく、まさか破廉恥な陵辱行為を受けたなどとは微塵も思ってはいないようだった。
鐘崎のそんな気遣いは無論のこと、その後彼に抱かれたことも含めて、何だか二人だけの秘め事のように感じられるのが、紫月にとっては何よりうれしく思えていた。彼の言った一言一言、気遣ってくれた仕草のすべて、そして甘く淫らな欲情の時の表情。そんなことを思い起こして火照る気持ちを抑えながら、あえて平静を装って紫月は言った。
「まあ、俺も結構な勢いでボコられてたから……あいつが来た時には正直、記憶飛んじゃっててさ……よく覚えてねーっつーか」
「マジッ!? ってことはやっぱ遼二が一人で氷川たちをのめしたってことになるわけ!?」
「……さあ、そうなのかも……。誰かがお巡りがどうとかって騒いでたのは何となく覚えてるけど、それ以降はさっぱりでさ……」
「マジかよー!」
まるでその現場に居合わせたかったともでも言いたげに、京が大袈裟なゼスチャーで頭を抱えているのに、またしても紫月は苦笑させられてしまった。その傍では剛がやり取りを聞いて、思い出したように首を傾げていた。
「そういやその『お巡り』だけどよ、確かにあの後警察が来たらしいんだが……」
「それがどうかしたのか?」
大騒ぎしていたのなら当然だろうとばかりに京が怪訝そうに剛を見やる。
「いや、それがどうも話がヘンなんだ。桃稜の連中でその場に残ってた奴らは一応しょっ引かれたらしいんだけどよ。肝心の氷川の名前は上がってねえらしいぜ?」
紫月も京もどういうことだと眉をひそめる。
「当然学園にもバレて、捕まった奴らは停学になるかならねえかってくらいの騒ぎになったらしいが、氷川に関しては名前も上がってねえらしい。不良連中の揉め事に『頭』と言われてる氷川が関わってねえ方がおかしいってくらいなのによ」
また、それと合わせて彼らが誰と争っていたか――つまりは紫月のことだが――どうやらその情報も含めて今回の件に関してはお触り禁止のような風潮になっているらしかった。歳の離れた従兄が警察官であり、駅前の派出所に勤めているという剛が気になって経緯を聞いたところ、まるで上層部がもみ消したような形で、ともすれば抗争自体が無かったことのように処理されてしまったらしいというのだ。紫月にとってみれば正直有難いことでもあったが、確かに不可思議なことには違いなかった。
「ならアレじゃね? 氷川が親父の力を使って、もみ消したとか? あいつん家って貿易会社とかやってていろいろ顔広そうだしよー!」
京がぶっきらぼうに言い放ったのを横目にしながら、紫月も剛も不思議そうに首を傾げる。
「ぜってーそうに違いねえよ。氷川の野郎がやらかしそうな汚ねえ手だぜ! つーか、親父の方も息子の不祥事を隠す為に警察にまで圧力掛けたとかなら、親バカ丸出しってところだな」
「――確かにな。バカな息子を持つと、どこの親も苦労するのは一緒だ……」
ふと、憎まれ口を叩いていた京の後方から意外な相槌が返ってきて、皆が一斉にそちらを振り返ると、そこには紫月の父親が道着のままで立っていた。
「親父……! なんだよ急に! びっくりするじゃんか」
ギョッとしたように紫月が口ごもったのを軽く無視しながら、父親は剛らに向かって軽く会釈をした。そして見舞いに来てくれた礼を述べると、紫月を助けてくれたという転入生の鐘崎の姿がないことに少し残念そうに溜息をついてみせた。
「今日はあの鐘崎君という子は一緒じゃないのか? やはり一度彼の家を訪ねてきちんと御礼を申し上げるべきかね」
そう言いながら、まるで郷愁を思わせるような視線を遠くの空に向けた父親の姿を、紫月は不思議そうに見上げていた。
◇ ◇ ◇
その後、土日を挟んで身体の調子も大分快復した紫月は、週明けから登校することにした。その間も鐘崎からの連絡は無く、それだけが気掛かりではあったものの、よくよく考えればまだ携帯番号さえ交換してもいないことを思えば、確かに連絡の取り用がないといえばそうだと納得できる。ただ、もしかしたら見舞いに顔を出してくれるかも知れないという淡い期待もあった為、やはりすっきりとは気が晴れない感は否めなかった。
だがそれも登校して顔を合わせれば済むことだ。彼がもしも先日のことを後悔しているとするならば、会うのが怖いとも思う反面、会って反応を確かめたいと思う気持ちも正直なところで、とにかく紫月は意を決したように鞄を持つと、朝陽の眩しく反射している玄関の扉を開けた。
驚かされたのはその直後だ。
純和風の瓦造りの門をくぐり、引き戸を閉めて一歩を踏み出そうとした瞬間に、思わず硬直してしまうくらいの衝撃が紫月を襲った。何故なら、そこには門塀に背をもたれながらこちらを見て軽く微笑んでいる鐘崎の姿があったからだ。
思いもよらなかった出迎えに、紫月は驚きを通り越して、まるで小さな子供のように瞳をぱちくりとさせながら立ちすくんでしまった。
「今日あたりから出てくる頃だろうと思ってよ」
もたれていた背を起こしながらそう言った鐘崎を凝視したまま、未だ返答のひとつもできずに硬直していた。そんな様を変に思ったのか、あるいはポカンとしたまま立ち尽くしている姿が可笑しく思えたわけか、鐘崎は少しはにかんだように笑ってみせた。
「なんだ、ぼーっとして。俺が迎えに来たのがそんなに驚くことか?」
「あ……いや、そんなんじゃねえよ……! ちょっと意外だったから……」
ともすればすぐにも紅潮しそうな頬の熱を隠さんとばかりに、紫月はアタフタと早口でそう返すのが精一杯だ。そんな様子がまた可笑しかったのか、鐘崎はより一層瞳を細めると、まるでエスコートをするかのように傍へと歩み寄っては、
「具合はどうだ?」
少し薄くなった青痣を気に掛けるように手を伸ばしながらそう言った。
その声はひどく穏やかで、そして紫月にとっては低くて色気の混じったふうにも聞こえてしまうようなローボイスでもあって、たったそれだけで心拍数が上がりそうだった。何よりも迎えに来てくれたという事実からしてうれしいことこの上なく、鐘崎に守られるようにして肩を並べて歩く現状も夢か真かと疑うくらいだった。
「あのさ、こないだはホント世話ンなって……いろいろその、済まなかったな」
ようやくの思いで述べた礼の言葉だが、視線を泳がせながらそう言うのが精一杯で、そんな様子にもうれしそうに鐘崎は笑った。
「気にするな。お前の怪我が良くなったならそれでいい」
「あ、うん……だいぶ調子はいいよ。お陰様っつーか、お前んとこのお医者先生がくれた漢方薬が効いたみてえでさ」
「そりゃよかった。ああ、医者からその漢方薬の追加分も預かってきてるぜ。そろそろ切れる頃だろうってさ」
「マジ? なんか……何から何まで申し訳ねえな……」
たわいもないそんな会話で繋ぎながら朝の通学路を歩いた。住宅街の路地とはいえ、通勤通学の時間帯だ。前後から飛ばしてくるような自転車やスクーターなどから庇うかのように気遣ってくれる鐘崎の傍らで、紫月はドキドキと鎮まらない心拍数と闘いながらも、同時に幸せを噛み締めていた。
「なーんかさ、俺、シンデレラっつーか……お姫様みてえ」
クスッと照れ笑いを漏らしながら、わざとおどけるようにそんなことを言った紫月を振り返りながら、鐘崎は首を傾げた。
「だってそーじゃん? お前にいろいろ気ィ遣ってもらってさ。わざわざ迎えにまで来てもらってー、それにさっきから自転車とかから庇ってもらっちゃってるし?」
うれしいけれど照れるじゃねえかと言わんばかりの紫月の様子に、鐘崎はまたしても思わず頬が染まるような意外過ぎる返答を平然と言ってのけた。
「当たり前だ。あんなことがあったばかりなんだ。桃稜の連中がまた悪巧みしてこねえとも限らねえし、惚れた奴のことはてめえの手で守らねえとな」
「……っ! 惚れた……ヤツって……?」
「お前のことだよ」
「……えっ!?」
あまりの率直さに紫月は舌を噛みそうになった。
「あの……それって、ええっと……」
まさにしどろもどろで言葉にならない。相反して頬だけはきっと真っ赤に染まっているんだろうなと自覚できるくらいに熱くなっていた。
「惚れてるから抱いた。お前は……お前も俺のこと……」
「……えッ!? え、あ……うん、もち……うん」
好きだよというそのひと言は、鐘崎のように堂々とそう簡単には出てくる言葉ではない。だが、モジモジと恥ずかしそうにうつむく様で心の内は伝わったのだろう、鐘崎は爽やかに微笑むと、またひとたび前方からやってきたスクーターから庇うように紫月の身体を引き寄せる。二人はそうしてくっ付いたり離れたりしながら学園までの通学路を歩いたのだった。
◇ ◇ ◇
鐘崎のストレート過ぎる物言いはうれしくもあり、至極この上ないが、よくよく考えれば出来過ぎてもいるようで、半信半疑に陥ったりもする。彼に限って他人を騙したり嵌めたりすることは有り得ないだろうとは思うが、出会って間もないのに絶対的に信頼をおけるかと言われれば、確たる自信もない。
「やっぱ外国育ちって俺らとは感覚違うのかなぁ……」
まるでうわ言のように呟いていたとでもいうのだろうか、昼休みのうららかな屋上で、菓子パンをかじりながら剛が首を傾げて顔を覗き込んできたのに驚かされた。
「うわっ……! なんだいきなり……!」
「そりゃこっちのセリフだろ? さっきからボーッとしちゃってよ、どうかしたのかー?」
少し遠目のフェンスの辺りで鐘崎の豪華な弁当をうれしそうに漁っている京の姿をぼうっと見やりながら、紫月もまた剛と肩を並べて菓子パンを頬張った。
「別にどうもしねえよ。つーか、相変わらずだな京の奴。あいつの弁当を分けてもらうのが日課になってるって感じじゃん」
「ああ、遼二の中華弁当だろ? 俺もこないだ味見さしてもらったけど、確かに旨かった!」
「ふぅん、そうなんだ」
「それよか今朝は遼二がお前ん家まで迎えに行ったってじゃん?」
「ああ、うん」
「また桃稜の連中が絡んでこねえとも限らねえしな。あいつなりに心配だったんだな?」
まるで『いい奴だよな』とでもいうような感じで、京と戯れている鐘崎に視線をやりながら、剛がそんなことを口走っていた。その横顔からは、彼もまた鐘崎に対して好印象とか信頼できるといった感情を持っているのだろうということが一目で分かる。やはり誰の目から見ても、鐘崎は信頼するに足るといえるのだろう。
「ま、確かに……悪い奴じゃねえと思うわ」
あえてぶっきらぼうにそう返しながら、紫月はまた一口、菓子パンを頬張った。
日増しに強くなってくる陽射しに、少し汗ばむ陽気が初夏の訪れを告げている。吹き抜けるそよ風が心地いいと思える、そんな午後だった。
◇ ◇ ◇
その日、授業が終わると、鐘崎は朝方と同じく当たり前のように紫月と共に下校した。家の門をくぐるのを見届けるのが使命だとでもいった具合に、やはり朝と同じく常に車道寄りを歩き、いろいろなものから守るかのように気遣いを忘れない。ぶらぶらとゆっくり歩いて十五分足らずの道のりだが、紫月にとっては意外過ぎる展開というか、夢のような現実に心拍数は上がりっぱなしだった。
そして次の日も、そのまた次の日も当たり前のように鐘崎の送り迎えは続けられた。確かに方向が一緒だといえばそうだが、まるっきり通り道というわけではない。九の字型に遠回りをしなければならないような道のりを、まるで苦もなく平然とエスコートを続ける鐘崎の様子には、さすがに剛と京も唖然としたように首を傾げ気味だ。
だが、鐘崎はそんなことにもごく爽やかな笑顔で平然と対応し続け一週間が経ち――そして十日も過ぎた頃になると、まるでそれが当たり前という認識を植え付けてしまったから不思議だった。
時には剛と京も揃って紫月の家まで付き合っては、道場のある母屋とは離れに建てられた紫月の部屋へ寄って行くこともしばしばで、おやつを頬張りながら和気藹藹とした時間を過ごすのも日常の一駒となった。そんな時も何故か鐘崎だけは部屋に寄らずに、紫月を送り届けるとそのまま帰ってしまうことも多かったが、剛らにしてみれば転入したてで気を使っているのだろうくらいにしか思っていないふうだった。ただ紫月にとっては、そんな鐘崎の態度がひどく残念に思えてならなかったが、それでも次の朝になれば必ず門塀に寄り掛かりながら待っていてくれる彼を思えば、皆でいる時は少なからず遠慮もあるのだろうなどと、自らに言い聞かせるようにしていた。
一方、紫月がそんなふうに穏やかな幸福感に浸っている同じ頃、桃稜学園の氷川の方は、それとは真逆の焦れた思いを持て余していた。
いきなり現れた見知らぬ男――鐘崎遼二にいとも簡単にのめされて、逃げるように立ち去らざるを得なかった屈辱を思い返しては、苛立つ日々が続く。仲間たちは警察にしょっ引かれて停学云々の大騒ぎとなり、そんな中で何故自分にだけお咎めが降り掛かってこないのかが分からずに、それ自体にも苛つかされていた。
登校すれば、まるで上手く逃げやがったというような負のレッテルを貼られたも同然の視線を浴びているようで、正直いたたまれない。あえて誰もそうは口にしないのが、より一層みっともなく思えてならなかった。
番格といわれて、一応は持ち上げられてきた氷川にしてみれば、この上なく堪え難い状況に違いはない。何もかもに苛立つ毎日を送る中で、共に難を逃れた仲間の一人から、あの時の男の正体を聞きづてにしたのは、つい近日のことだった。
「――転入生だ?」
まるで高級ホテルのエグゼクエィブルームを思わせるような自室のソファにふてぶてしく背を預けながら、携帯片手に仲間からの情報に目を吊り上げた。
『ああ、この四月に香港から転入してきたとかって話だぜ。名前は、えーっと……鐘崎だ。鐘崎遼二とかいうらしいぜ。四天でそいつと同じクラスだって奴らをとっ捕まえて訊いたんだけど、何でも結構な金持ちのボンボンらしいって話! 今は一之宮や清水(剛)、橘(京)たちとツルんでるみてえだよ』
「香港から――ね?」
通話を終えた氷川は、それを聞いて間髪入れずに、携帯画面に映し出された別の連絡先を開くと、その名をじっと見つめた。
中国人名で記されたその人物は、父親の経営する貿易会社の香港支店を取り仕切っている上層部の精鋭だ。
現地に詳しい彼ならば、何か情報を手に入れられるかも知れない。鐘崎という転入生が香港の富豪の子息だというのなら、近隣企業等を調べてもらえば、そんな噂は案外簡単に入ってくるだろう。そう踏んだ氷川は早速香港にいるその男へと連絡を入れた。