番格恋事情
それから表立っては何事もなく一週間余りが過ぎた。世間ではゴールデンウィークも終わり、初夏を思わせる日差しが新緑をより鮮やかに彩る心地よい季節だ。紫月に対する鐘崎の送り迎えは既に恒例となり、今では彼らが共に登下校するのが当たり前の光景になってもいた。気に掛けていた桃稜学園の不良連中らの動きもぱったりと止んだまま、誰もが新学期の乱闘騒動自体を忘れ掛けていたその頃だった。
それは或る日の昼休みのことだ。午前中の授業の終わりを告げる鐘の音を待ちわびたようにして、剛と京が教室の最後列に席を並べている鐘崎と紫月の元へと駆け寄って来た。
「よー! やっとこ昼飯だぜ!」
「あ、俺、購買寄ってくから。おめえら欲しいモンあったらついでに買ってきてやるぜ?」
剛は持参の弁当袋を片手に準備万端で、京の方も握り飯を抱えてはいるが、それだけでは足りないらしく、購買で菓子パンを追加するらしい。彼の食欲旺盛っぷりは仲間内でも知れた日常の光景だ。人の良い剛が、それなら自分も何か飲み物を買うからと言って、購買まで付き合うことを告げたその時だった。
やけに室内が静かになったような気がしてふと視線をやれば、教室の入り口からこちらを観察するように窺っている一人の男の存在に気付いて、一同は不思議そうに互いを見やった。
「あいつ……確か二年の徳永とかいう奴じゃね?」
「だな。なーんか俺らのこと見てっけど、気のせいじゃねえよな?」
剛と京が口々にそう言いながら、再び入り口を見やる。確かにこちらを凝視したまま動かないその男の顔には見覚えがあり、今しがた剛が指摘した通りに、同じ四天に通う一学年下の生徒のようだった。
だがいくら下級生といったところで、格別には誰とも親しい間柄というわけではなく、部活動などにも縁のない彼らにしてみれば、直接の後輩というわけでもない。では何故皆が揃ってこの『徳永』という男の顔と、しかも名前まで知っていたのかというと、彼が紫月の後を継ぐだろう次期番格と噂されていたからである。
そんな男が一学年上の自分たちの教室に何の用があるというわけだろう。如何に不良だの番格同士だのといっても、学年が違えば大した交流があるわけでもないし、互いに何となく存在を意識する程度というものだ。見たところ、特には連れを従えているわけでもなさそうで、たった一人でじっと教室内を見据えているのだ。
彼の存在に気付くや、昼休み到来でザワついていた室内が一瞬にして奇妙な静寂に包まれたから、それだけ人を注目させる雰囲気を纏っているということだろう。格別には生意気といった態度は感じさせないものの、紫月らと同じくらいある長身の上、意志の強そうな瞳とそれを引き立てている端正な顔立ちのせいで、酷く目立って仕方ない。次期番格といわれるだけあって、それなりの風格は持ち合わせているようだ。
そんな彼を目の前に、自称不良を地で行くクラスの連中にとっては、後輩に対する威厳を示したい半面、その雰囲気に押され気味でバツの悪い感がもろ見えなのも確かだった。そんな彼らが助けを求めるかのように、教室の一等端にいた紫月らのグループをチラチラと振り返り始めたその時だ。二年生の彼が誰に断るでもなく、ツカツカと室内へ歩を踏み入れたのだ。と同時に、まるで彼の為に道を開けさせられるような形で、誰ともなしに後ずさる。酷く奇妙な光景だった。
「あー、えーと、おい。お前、二年だよな? 何か用あんのか?」
あまりにも堂々たる後輩に威圧されてばかりでは情けないと思ったのだろう、クラス内にいた連中の中の一人が勇気を出してそう声を掛けた。すると、一応先輩に呼びとめられては無視をするわけにもいかないわけか、下級生の彼はその言葉にほんの一瞬足をとめた。
「はい、一之宮さんにちょっと……」
「紫月に……?」
「はい、突然すみません」
そう言って一応は丁寧に会釈だけをくれると、ポーカーフェイスを崩さないままで、真っ直ぐに目的の人物の方へと歩を進めた。そして紫月の机の正面まで来て立ち止まると、取り巻いていた剛と京にも軽い会釈をした後、当の目的らしい紫月を見つめると同時にチラリと隣の席の鐘崎を一瞥した。
「昼時にすみません。俺、二年の徳永竜胆《とくなが りんどう》っていいます。一之宮さん、ちょっとお時間いただけないでしょうか?」
より一層丁寧に頭を下げてそう言った後輩に、剛も京も、そしてクラス中の全員が驚いたような面持ちで、興味ありげに成り行きを見守る。当の紫月はといえば、格別には何の返答もしないままに視線だけで彼を窺っている。唯一人、隣の席にいた鐘崎の眉間に僅かな皺が浮かんだのを見て取ったのか、徳永というらしい下級生は初めてその表情に薄い笑みを浮かべてみせた。
「別に何もしませんよ。ちょっと一之宮さんに訊きたいことがあるだけです」
言い訳か弁明でもするかのように、紫月にではなく隣の鐘崎に向かってそう言った。これではまるでこの鐘崎が保護者か、そうでなければ紫月にとって余程特別な存在のように映ってしまう。ほんの一瞬立ち込めたそんな気まずさが堪らなかったのか、すかさずに紫月は返事を挟んでみせた。
「俺に話って?」
聞いてやるから手短に言えとばかりにそう言った。だが、
「ここじゃちょっと……。できれば場所を移して二人きりで話をさせてもらえないでしょうか」
他人には聞かれたくない話というわけか。ますます眉間の皺を深くした鐘崎の様子に気付いてか、徳永はまたニヤリと不敵な苦笑を浮かべてみせた。
「心配なら皆さんもご一緒で構いませんよ。ただ……話の内容だけは聞かれたくないんで、姿が見えるくらいの位置で一之宮さんとだけ話させてもらえたら嬉しいです」
そこだけは譲れないらしい。まあ同じ四天の学生同士だし、相手はたった一人だ。敵対する桃稜の輩というわけでもないので、過剰な勘繰りは必要ないだろうか。そんな表情を浮かべた鐘崎に、徳永は真摯ともいえるふうな態度で頭を下げてみせた。
◇ ◇ ◇
「で、俺に話って何?」
少し風の強い昼休みの屋上で、金網を背もたれに菓子パンの袋を開く。目の前にいる徳永の肩越しには、遠目に鐘崎と剛、京といったお馴染みの面子がいつものように弁当を広げながらこちらを窺っているのが見える。
「つーか、お前昼飯は?」
特にはそれらしい用意のない下級生の様子を半ば怪訝そうに窺いながらも、紫月はぶら下げていた袋の中にあるもうひとつの菓子パンをチラ見した。
「も一個あるけど、食うか?」
なかなか話を切り出さない男にしびれを切らしたのか、はたまた何とも手持無沙汰の雰囲気が居づらいのか、或いは元来人が良い性質なのか。とにかくそんな気遣いをしてくる紫月を少し驚いたように見やりながら、徳永はようやくと口を開いた。
「ありがとうございます。けど、俺は飯はいいっスから……」
「ふん、なら早く本題に移ろうぜ。話って何だよ」
「はい、それじゃ遠慮なく……。あの、一之宮さん……」
「あ?」
剛の買ってきた購買の紙パックコーヒーを飲みながらそう訊き返した紫月は、その直後の徳永の問い掛けに思わず喉を詰まらせてしまった。
◇ ◇ ◇
「ぶはッ……! てめ、今何つった……」
「だから……あの人のこと好きなんですかって訊いたんですよ」
あの人――とはどうやら鐘崎のことを指しているらしい。あまりにも唐突過ぎる質問に、赤面を通り越して唖然とさせられてしまった。
「……ッのなー! いきなり何だ、てめえは! 何で俺が『野郎』のことなんか好きンなんなきゃいけねーんだよ!」
いくら図星でも、殆ど初対面も同然の下級生に対して正直に暴露してやるいわれはない。紫月は当たり前の返事を当たり前の態度で返してみせた。
「つーか俺、一応お前の先輩だぜ? (学年)上に対してそーゆージョーク言うかね? つか、ジョークにしてもブラック過ぎだし!」
「俺はジョークなんか言ってるつもりはないですよ。だってあんた、ここんとこずっとアイツと一緒じゃん。ガッコ来んのも帰んのも一緒だし、片時も離れてんの見たことねえっつーか……」
「あ……ンなー、そんなんダチなんだから当然っしょ? てめえだって誰かとツルんで帰ったりとか、普通にすんだろそーゆーの!」
わざと大袈裟に吐き捨てる。だが徳永はもっと驚くようなことを言ってのけた。
「あの人、鐘崎さんっつったっけ? 転校生なんだろ? あの人がアンタの騎士気取りみてえになったのって、桃稜とのイザコザがあってからだって聞いたけど」
「はぁ!?」
「あんた、桃稜の奴らに袋(叩き)にされかかったんでしょ? そん時にわざわざ助けに行ったっていうじゃん、あの人」
そんな話をいつ何処で聞いたというのだ。鐘崎自身が触れ回るはずもないし、剛や京だって同じだろう。あの時にあの場にいた桃稜の連中を除いては誰も知り得ないはずのことなのだ。
「てめ、何を根拠に言ってる……? つーかそんな話、どこで仕入れてきたわけ?」
少々蒼ざめたような口調で、声のトーンも一段階低めに放たれた言葉に、徳永は僅かに眉をしかめた。
「心配しないでください。四天じゃ俺以外知らねえし、言いふらすつもりも更々ねえよ。あんたがフクロにされようがされまいが、事実なんか知ったって俺には何の得にもならねえし」
だったら目的は何だというのだ。徳永の意向が掴めずに、紫月は戸惑った。
「ただ俺が知りてえのはあんたとあの鐘崎って人がダチを越えた間柄なのかってことです。率直に言えば、付き合ってんのかってこと」
ずいぶんとまた開けっ広げなことを投げ付けてきたものだ。だが、大胆過ぎるともいえるその質問のわりには、徳永の表情があまりにも真剣で、ともすれば思い詰めたようにも受け取れることから、紫月はますます戸惑わされてしまった。
一体この男は何を言わんとしているのだろう。まるでワケが分からない。ただひとつ言えるのは、彼が冷やかしや侮蔑からこんな問い掛けを寄こしているのではないということだけは、何となく理解できる気がしていた。困った紫月は、逆に開き直ることで彼の意向を探ることを思い付いた。
「付き合ってる……っつったらどうなワケ? ヤツと俺がダチを超えた間柄だったらどーだってんだよ?」
「付き合ってんスか?」
「だからー! もしそうなら何だって訊いてんのは俺の方なんだけど」
少々苛立ち気味にまくし立て、勘に障ったように又ひとたび紙パックのコーヒーをあおる。まさかもう一度喉を詰まらせられるようなことを訊かれるとは思いもしないままで、紫月は一等深くそれを吸い込んでしまった。
「なら、もうセックスとかもしたんですか?」
「――――ぅッ! ぶはッ……ゲホッ……」
「もうアイツとヤっちまったのかなって……思って」
「あ……ッンなー! てめ、冗談にもホドがあるっつーか……」
ようやくの思いで咳き込みを抑え、これ以上は付き合っていられないとばかりにヒクヒクと片眉を吊り上げてみせた。だが徳永は左程焦った様子もなく、それどころかもっと淡々と、しかもとんでもなく的外れな台詞を並べて寄こした。
「実は俺ン家、店やってるんスよ。市内にも一件構えてるけど、本店は都内の繁華街にあって、隣町にも二件程……」
「あぁ!?」
それが何だというのだ。今、てめえの家の稼業なんか関係ないだろうとばかりに睨みを据えた紫月を横目に、徳永は続けた。
「前に一度、見たことあるんス。あんたがウチの店に来てたのを……」
「は――?」
「俺ン家、ゲイバーやってんです」
想像もしなかった意外な言葉に、紫月は硬直させられてしまった。
――世の中は狭い。
つい過日まで自分の通っていたゲイバーが、まさか同じ高校の後輩の家で経営している店だったなどと、突如そんなことを聞かされても反応の仕様が思い付かない。バツの悪さはさることながら、目の前で難しい表情をしているこの後輩にも上手い釈明など思い浮かぶはずもない。まあ、すべて知られているというのなら、ヘタな釈明は逆に不利というものか。
ここは開き直るしかないだろうか、紫月は不本意な苦笑いを漏らすと、
「は、そうだったの。あの店が……お前んちのね? 参ったね、こりゃ」
ワサワサと髪を掻きあげながらそう言った。そんな様子に徳永の方は一層怪訝そうに目を吊り上げる。
「……あっさり認めちゃうんスか?」
「認めちゃうったって、バレてんなら他にどーしようもねえべ?」
あっけらかんとそう言われて、肩透かしを食らった気分にさせられたのか、少々苛立ち気味で徳永は紫月に食って掛かった。
「や、そうじゃなくてさ。人違いだろとか、そんな店行ったことも見たこともねえとか、言い訳ならいろいろあるじゃないスか……」
理解できないといったふうにますます険しくなった表情には、若干の嫌悪感も混じっているように感じられる。特に反論もせずに、のらりくらりとこの話題から遠ざかりたいふうにしている紫月の様子が勘に障ったのか、徳永は不機嫌極まりないといった調子で、大袈裟なくらいのため息をついて見せた。
「開き直るってわけスか? それとも潔いってのか……」
正直、呆れてモノも言えねえわ――
そう言いたげなのがありありと伝わってくる。
存外、マイペースなところのある紫月は、面倒臭いこの時間が早く終わってくれねえかなとでも言いたげで、いわば深い話をしたげな徳永とは裏腹だ。早急に、できれば穏便に話を済ませてしまいたいらしい。
向かい合った互いの表情からしてそんな腹の内が分かるのか、徳永の方はおいそれ逃がすものかといったふうなオーラをモロ出しだ。紫月は半ば彼の機嫌を取るようなおだて調子で、
「んな、あからさまに嫌なツラすんなよ。ま、もうあの店には行かねえし……未成年の客を入店させて遊ばせてたなんて、お前んちに迷惑掛けるようなこともねえだろうからさ」
だから安心しろよといわんばかりの態度に、徳永は更に不快感をあらわにした。
「ウチ(店)に来ないって……要はあの鐘崎っていうカレシができたから、もうゲイバーで男漁りする必要もねえってわけですか? で、今度はそのカレシとらぶらぶ登下校かよ」
いちいちつっけんどんな態度で、しかも遠慮のかけらもなしにズケズケと突っ込まれて、さすがの紫月も眉間に剣を立てた。
「おい、さっきっから聞いてっと随分トゲのある言い方してくれてるけどよ、他に用がねえなら――」
もう勘弁してくれねえか、そんな意味合いを込めて視線だけで彼を睨み付けた。
一応この学園の『頭』と言われている紫月を不機嫌にさせ、面と向かってガンをくれられた。普通の下級生ならば、この辺りで引き下がるのが当然だろう。だが、まるっきり尻込みをする様子もなく、それどころかもっと辛辣といった調子で徳永という男は先を続けた。
「あんたさ、嘘か本当か知らねえけど、今年の桃稜との対番勝負で向こうの『頭』の氷川ってヤツにえらい条件食らったって話じゃないですか」
「は?」
「ケツ掘らせろとか何とかさ……。それだけなら笑い話で済むかも知れねえが、実はてめえのクラスメイトに本命の彼氏持ちだったなんてさ。もしもそんな噂でも広まったら、冗談で済む問題じゃなくなるんじゃねえの?」
本命の彼氏というのは鐘崎のことを言っているのだろう。だが、何故この男がそこまで執拗に鐘崎との関係について食い下がって来るのか、正直理解に苦しむところだ。単に男同士のそういった間柄を嫌悪しているというだけではなさそうに思える。それを肯定するかのように、徳永という男はもっと突飛なことを言ってのけた。
「ハッキリ言わせてもらいます。もっと自重……いや自粛してもらえませんか?」
「――は?」
「だってそうでしょ? あんた、一応四天の頭とか言われてんだからさ、あんまり外れ過ぎたことされると迷惑なんスよ」
「……迷惑って……」
「俺ら後輩にとってもそうだし、因縁関係にある桃稜の奴らにだってあんたがゲイかもだなんて知れたら、興味本位で何しでかすか分かったもんじゃねえんだし……!」
苛立ちまじりに、というよりもまるでまくし立てるように早口でそこまで言って、だが徳永は『そうじゃない、本当はこんなことを言いたいわけじゃない』とでもいうように、打って変わって今度は自己呵責気味に顔をゆがめて見せた。
突っかかってみせたと思えば後悔したり危惧したり、コロコロと表情を変える忙しい男だ。一体何を言いたいのか、さっぱりワケが分からないのはこちらの方だ。しばし紫月はそんなことを思いながら、黙って目の前の男の様子を窺っていた。
「すいません、俺、別にあんたを責めてるとかじゃないんス。あんたの弱みを握って脅してやろうとか、誰かに言いふらそうとかそういうんでもない。だから……その証拠ってワケじゃないですが、自分のことも打ち明けます。俺の親父も……そうなんです」
突如とした告白に、紫月は不思議そうに彼を見やった。
「――?」
「俺の親父……親父っていうか、見た目はもうお袋って言った方がいいくらいなんスけどね」
「――!?」
「親父が今のようになったのは俺が生まれて間もなくらしいんですが、そのせいでお袋とも離婚しました。俺はまだ赤ん坊だったから覚えてねえけど、当時のお袋は『男』そのものに嫌気がさしたらしく、男児ってだけで俺を可愛がる自信を失くしたそうです。で、俺は親父に引き取られたんですが、その後、親父は好きな男と知り合って……今のゲイバーの経営者ですけど、あの店はそのおっさんと共同経営してるんです。二人にとっちゃ、事実上結婚してるみたいな感覚らしいですけど」
突如聞かされた何とも相槌の打ち難い話だが、徳永の真剣そのものの表情からは、彼が冗談や酔狂でこんなことを言っているとは思えなかった。紫月は格別の返答もできずにいたが、かといって彼の話を茶化すとか遮るとかは一切せずにいた。それに安堵したのか、あるいは嬉しかったのか、徳永は少し申し訳なさそうな顔をすると、
「すいません、突然こんな話して」
バツの悪そうに、というよりも自嘲気味にそう謝った。今しがたまでの反発的な態度が嘘のようだ。
紫月にしても、大して交流もない一後輩に突然こんなことを打ち明けられる理由はないが、本来言わなくてもいいようなことをこうしてわざわざ話すというには何か事情があるのではないか、そんなふうに思えてならなかった。
「いや、別に構わねえし――」
紫月の真剣な表情が信頼感を与えたのか、徳永はまた少し、今度は寂しそうにボソリボソリと先を続けた。
「そのせいでガキの頃はよく苛められました。オトコオンナの父ちゃんがいるとか、気持ち悪りィとか、知らねえ近所のガキ連中にまで物投げられたり……公園で遊んでりゃ、いきなりド突かれたりね。結構な目に遭ったもんです。今でこそ苛めるヤツもいなくなったが……俺がそんな辛い目に遭ってるってのに親父ときたら、何も悪いことしてるわけじゃない、堂々としていればいいんだなんて抜かしやがってね」
苦めの薄笑いは彼がどんな思いで幼少期を過ごしたのかが訊かずとも理解できた。だがそれに対して、ではどういう言葉を掛けてやればいいのか思い付かずに、紫月にできることはただただ黙って彼の話に耳を傾けるのが精一杯であった。そんな紫月を気遣うように、
「今は何とも思ってません。本心じゃ親父たちのことも応援してるし。ただ……」
――ただ?
「ただ、その……わざわざ自分から他人に突っ込まれるような隙を作る必要もねえんじゃねえかって、そう思うのも事実なんです。親父たちのことにしてもそうだし、あんたとあの鐘崎って人が好き合って付き合ってんなら陰ながら応援したい、この先もずっと……ずっと上手くいってくれればいいって、マジで心底……そう思ってます。俺は別に偏見とかねえし、どっちかってったら羨ましいとかも思うし」
「――?」
「だからこそです。あんたらは真剣に付き合ってても、周囲の全員がそれを応援してくれるとは限らない。むしろ逆でしょ? ホモだなんだって興味本位に騒いでチャチャ入れてくるのがセキの山だ。そういうの嫌なんス。真面目な想いを茶化されるとか、腹が立つんだ……。だからそんな連中にわざわざこっちから隙を与えてやるようなことはしねえ方がいいんじゃねえかって、そう思っただけです」
言いたいことはこれで総てだというように、そこまで話して徳永はいきなり深々と頭を下げた。
「すいません。散々、失礼なこと言いました。時間割いてもらって申し訳ないス」
腰を九十度か、それ以上に折り曲げん勢いでそう謝られても、紫月は未だもって彼に掛ける適宜な言葉も見つけられずに、ただ呆然とたたずむしかできずにいる。それでも一切、悪気があるとか小馬鹿にしているとかの態度ではないのが伝わったのだろうか、徳永はまたひとたびの軽い会釈の後、今度は遠目からこちらを窺っている鐘崎や剛、京らに対しても深々と頭を下げてみせた。
「それじゃ、失礼します」
「あ……おい、お前――! 徳永……!」
離れていく学ランの背に、ついそう声を掛けてしまった。一瞬、迷いながらも振り返った彼の表情は何だか少し寂しげで、何でもいいから言葉を掛けてやりたい衝動がこみ上げる。だからといって何を話せばいいかも分からずに、しばし焦れったい視線だけを持て余す。
ああ、もう、クソったれ! こんな時に何をどう言やいいってんだ!
そんな感情のままに紫月は持っていた未開封の菓子パンを差し出して、
「これ、食っとけ……!」
上手く出てこない言葉に代えてそう言った。
本当はもっと、今聞いた話に対しての自分の意見などを伝えたい。例えば単に『そうだったのか』でもいいし、『お前の言いたいことは分かった、これからは気を付けるぜ』でもいい。はたまた『お前って俺らより年下のくせに案外しっかりしてんのな?』でもいいだろう。何でもいいから相槌を打ちたいのに思うように表せない。そんな紫月の気持ちが伝わったのか、徳永は口元に穏やかな笑みを浮かべると、
「ありがとうございます。メシ食ってなかったんで助かります」
少々元気な声と共に菓子パンに手を伸ばし、素直にそれを受け取った。
「これ、中身は何スか? 焼きそばパン? だったら嬉しいかなぁ」
「あ? いや、焼きそばは食っちまった……。そっちはコロッケだし」
「あ、マジ、コロッケだ。コロッケも好きっすよ、俺」
一瞬、互いをとらえた視線同士が親しげにぶつかり合う。
「そんじゃ、次は焼きそば奢ってくださいね」
「は?」
「なんて、冗談スよ! 有難くいただきます」
「お、おう……」
歩き出し、すぐに袋を破いてひとくちパンをかじりながら去っていく後姿がわずかに楽しげに思えた。紫月は瞳を細めながら、その背が屋上の重い扉の中へと消えるまで見送っていた。
◇ ◇ ◇
「で……? あいつ、何だって?」
徳永が去った後で鐘崎が訊くよりも先に剛や京がそう訊いたが、大した用事じゃなかったと言って、紫月は言葉を濁した。
「ん、こないだの……新学期恒例の桃稜の連中との番格勝負のことが気になったみてえでさ」
「ああ? ンなことでわざわざ紫月を呼び出したってのか?」
「ヤツも二年の頭とかって言われてるらしいから、知っときたかったんじゃねえか?」
「はあ、そんなもんかね? ま、揉め事とかヘンな方向の話じゃなかったんなら別にいいけどよ」
釈然としないながらも、それ以上突っ込んで訊いてくるでもない剛と京に、紫月は「まあな」と言って笑ってみせた。だが、突然訪ねて来た下級生と二人きりでどんな話をしたのかということを一番気に掛けているのは鐘崎だろうということも忘れてはいなかった。
当の鐘崎は特には何も訊いて来ないが、秘密事を作りたくはない。という以前に、徳永が指摘してきたのは鐘崎と自分の恋仲についてのことなわけだから、話しておかない理由もない。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「あー、もう終わりかよ。かったりぃーなぁ」
午後の授業が面倒臭いという態度で腰を上げ、連なって教室へと向かう中、剛と京より少し遅れて距離を取り、紫月はコソリと鐘崎に耳打ちをした。
「な、今日さ、お前んち寄ってもいい? ちょっと話しておきてえことがあって」
「ん? ああ、もちろんいいぜ」
即答した彼を見やると、何とも穏やかそうな視線がこちらを見つめていて、格好悪くも頬が染まるのをとめられずに紫月は焦った。
――自重してくださいよ?
つい先程の徳永の言葉が脳裏によみがえり、苦笑せざるを得ない。ある意味、確かに的を得ている彼の忠告は微笑ましくもあり有難くもあるのだが、実際、理想通りに立ち回れれば苦労はしない。
「――は、自重ね。ンなこと言われたってなぁ……」
先が思いやられるも、ほのめく心は止め処なく、何ともこそばゆい心持ちがする初夏の午後だった。