番格恋事情
その日の放課後、紫月はいつもと変わらず鐘崎と共に下校することが何となく後ろめたいような心持ちでいた。途中までは剛や京も一緒だから、気にし過ぎるのはかえっておかしいだろうと思いつつも、昼休みに徳永という下級生から言われたことがモヤモヤと頭の隅から離れない。
駅前の商店街に差し掛かったところで、ファーストフード店で腹ごしらえをしていくという剛と京の二人と別れると、そんな思いははますます強くなっていった。
いつもよりも一歩、いや、もう一歩と、鐘崎よりも遅れ気味で会話も歩も進まない。
トボトボと後を付いてくるような紫月の様子が気に掛かったのか、鐘崎はふと足をとめて後ろを振り返った。
「どうした?」
「……え?」
「今日はやけにおとなしいなと思ってよ。何か気に掛かることでもあるのか?」
具合でも悪いというのなら、その顔色を見ればすぐにも分かる。だから敢えて『気に掛かることでもあるのか』という訊き方をしたのだ。
元来、人の好いというか、何事もマイペースでお気楽に行きたい性質の紫月には、自分の感情を隠すとか、腹で思っていることを抑えて平静を装うような駆け引きめいた事は苦手な性分である。特に、気を許せる間柄の相手に対しては尚更のことだ。
「んー、まあな。実はさ、さっき俺ンとこに来た下級生の野郎がさ……」
気の急くままに苦笑いを浮かべると、紫月は遅れた距離を取り戻すように小走りで駆け寄って、自分を振り返っている男と肩を並べた。
本当はこの鐘崎の家に着いてからゆっくりと切り出すつもりだったが、結局はそれまで待てずに、先程の屋上での経緯を話す。徳永という下級生の親の事情だけは伏せたものの、後は粗方あったことをそのままに伝え、一通り話し終える頃にはすっかりと気分も軽い。ゲンキンなものだと思いつつも、紫月は僅かに懐っこいような微苦笑を浮かべてみせた。
「まあ、何ちゅーか……さっきの今だから」
徳永に注意を促されたのがつい先刻の昼休みで、その直後にこうして肩を並べて歩くのが憚られる――――と、まあそんなところなのだろう。
「なるほどな。まあ、そいつの言い分も分からなくもねえがな。けど俺ら男子校なんだし、別段、一緒に登下校するくらいおかしなことでもねえと思うけどな」
そう言いながら、鐘崎はもうひと言を付け加えた。
「そんな心配をしてくるってことは、案外そいつも想い人がいるのかも知れねえな」
「え?」
「ついでに言うと、その相手が『野郎』なのかも」
「……!? え、ってことは……」
思いもよらなかった鋭い突っ込みに驚きつつも、だがしかし言われてみれば思い当る節が無きにしもあらずで、紫月はもともと大きな瞳をグリグリと見開きながら首を傾げたりと忙しい。そんな様子はまるで仔犬が見せるたまらない可愛さのようにも思えて、鐘崎は思わず口元が緩んでしまうのを感じていた。
「お前の気持ちも分かるが、かといってわざと別々に帰るのも逆に白々しいだろうしな? まあ、あまり気にするなよ」
「ああ、うん。そうだな。何てーかさ、俺もちっと不思議なこと言うなーとは思ったんだ。んだってアイツさ、俺とお前の仲が羨ましいとか……チラッとそんなことも言ってたからよ。もしかしてヤツが本当に言いたかったことってのは、てめえの恋愛相談だったりして」
自分自身がそうだったから、思い当る節は大いにある。異性に興味が持てないことをまだ誰にも打ち明けられなかった頃は、一人で悩み、不安だったのは確かだ。あの下級生もそうだとしたら、身近な上級生である自身を頼って来るのも充分頷ける話だ。
「……あいつ、誰か好きな男でもいんのかな」
「案外そうかもな?」
ふっと穏やかな笑みと共にそう言った鐘崎の顔を見て、急激に頬が染まる思いがした。
そうなのだ。この鐘崎の、時折見せるこんな表情がとてつもなく大人に感じられることがある。同い年なのに、本当は随分と年上のように思える時もある。落ち着きがあって、傍にいるだけで気持ちが安らぐというか、とにかく信頼がおける。初めて会った瞬間から、何ともいえない安堵感を覚える印象をこの男から感じていたのは確かだった。
そうこうする内に、気付けば既に鐘崎のマンションに着いてしまっていた。だが、既に用件は済んでしまっている。
部屋に寄る口実が無くなってしまったことが気掛かりなのか、マンションの入り口で突っ立ったまま動こうとしない紫月の様子に気が付いて、鐘崎はまたしても破顔してしまった。
「寄ってけよ」
「え――?」
「別に用事が有ろうが無かろうが構わねえだろ?」
まるで腹の中を読まれてしまったようで、バツが悪い。
「うん……そんじゃ、ちょっとだけ」
照れ笑いまじりに、それでも嬉しそうに懐っこい調子で駆け寄って来る仕草に、またひとたび、鐘崎は瞳を細くするのだった。
「実は俺もお前に用事があるっていうか、ちょっと見せたいものもあるんだ」
「見せたいもの?」
「ああ」
紫月は鐘崎に連れられて、マンションの入り口をくぐった。
◇ ◇ ◇
部屋に上がると間もなく、その見せたいものの正体が分かった。
鐘崎の部屋に来るのは、先日彼に助けられて以来だが、相変わらずにだだっ広いという印象に改めて驚かされる。あの時は怪我もしていたし、意識も朦朧としていたので、はっきりとは覚えていないが、まるで格調高いホテルの一室のような造りだ。整い過ぎている感があるくらいに、生活感がまるで感じられない。そんな様子からは、掃除などのハウスキーピングは専任の誰かがいるのだろうかなどと思ってしまう。
ふと、いつも彼の豪華な中華弁当を作っている同居人のことが気に掛かって、辺りを探してしまった。
「なぁ、お前と一緒に住んでる人は? この前、俺を車で送ってくれた……」
もしかしたらその彼が鐘崎の身の回りの世話をすべて行っているのかも知れないと思ったのだ。
「いるぜ。でも別の部屋だ。このマンション自体が親父の持ち物なんでな」
「え、マジ? やっぱお前んちってすげえ金持ちなのな」
心底感心しているふうなその表情に微笑しながら、「来いよ、こっちだ」鐘崎はそう言って、いとも当たり前のように手を繋いだ。
「え、あの……」
しどろもどろなのは紫月だ。突如、手を取られて頬が染まるのを隠せない。いつもこの鐘崎の大胆さには驚かされるといった調子で、ガラにもなくモジモジとうつむいたりしている自分自身も信じられなかった。
そんな戸惑いも瞬時に吹き飛んだのは、鐘崎に導かれて部屋のクローゼットらしき小部屋の中へ案内された時だ。
「――!? な、何……これ?」
あまりに驚いて、紫月は小さな子供のように瞳をパチパチとさせてしまった。
そこにはクローゼット本来の設えではなく、地下室へと続くようなコンクリートの世界が広がっていたからだ。
深さにして三階程はあるだろうと思える長い階段を下ると、その先に広めの地下通路のような道が現れた。部屋の中にこんな場所があるだなんて、まるでアニメか映画の世界観だ。戸惑う暇もなく、繋がれた手を引かれるままに先に進めば、驚きは極限に達した。
通路の先にはがっしりとした石造りの大きな扉が見えて、入口にはオートロック式のマンションにあるような認証装置のようなものがある。鐘崎はそこに手を翳すと同時に、「俺だ。今帰った」とだけ、短く告げた。
中に誰かいるのだろうか。それは彼の中華弁当を作っている例の同居人なのだろうか――ドアが開くとそんな勘繰りもいっぺんに吹き飛んだ。
「おわっ……何……ここ……!」
先ずは何をおいても、おいそれとは言葉にならない程の広大な広間に驚かされた。大の大人が数人で輪になって両手を繋ぎ合って、ようやくと囲える程の太い柱が何本もあり、吹き抜けのような高い天井からぶら下がっている細やかな装飾の照明器具に目を見張らされる。床は総大理石のような感じだろうか、磨き抜かれており、その上には毛足の密な絨毯が道を作るように敷かれている。ロビーの端には天井から滝が流れ落ちるオブジェが配置されており、所々に置かれた腰掛けやテーブルには芸術品のような細かい彫りが施されている。その側に置かれているインテリアの室内樹木も作り物ではなく本物の竹なのだろうか、そのどれをとってみてもオリエンタルな雰囲気に包まれて、ひと言でいうならば、まるで映画に出てくる皇帝の館のようだった。
そして、最も驚いたのはそのロビーを一面に覆っているパノラマのガラス窓から見下ろす景色だった。
見下ろす――といっても、よくよく考えてみればここは地上ではなく、地下にあたるはずである。先程、鐘崎の自室から地下へと続く階段を降りて来たのだから間違いないだろう。だが、窓一面に広がっていたのは明らかに高層ビルから望むような見事な景色――しかもそれは見紛うことなき香港の摩天楼だったのだ。
こう言っては何だが、この鐘崎の住んでいるマンションは外観だけ見れば至って平凡という印象しか受けないというのが実のところだ。特に目立つほど洒落た建物というわけでもなく、どちらかといえば街並みに溶け込んでしまって、気に留めるような造りではなかった。だが一歩中に入れば外の印象を裏切る豪華さで、その上シックで落ち着いた重厚感のある部屋だと驚かされたものの、まさかこんな目を疑うような地下室があるだなどとは想像も付かなかった。
窓の景色を見つめながら唖然としてしまっている紫月に、鐘崎は愛しげな視線を向けると、やわらかに微笑んだ。
「これは単なる立体映像だ。香港の実家と造りをそっくりにしてあるんだ」
「立体映像!? そっくりって……」
ということは、香港にある鐘崎の実家もこんなに豪華な大邸宅ということになるのだろうか。それこそおとぎの世界にでも迷い込んでしまったような顔付きで、ポカンと佇んだまま会話も忘れてしまいそうだ。
「こんにちは、一之宮さん。その後、お怪我の具合は如何ですか?」
その言葉でようやくと我に返ってみれば、そこには先日世話になった鐘崎の同居人の男が穏やかな物腰しで佇んでいた。
「あ……! お邪魔してます」
紫月は咄嗟にペコリと頭を下げながら、
「この前はどうも……いろいろご迷惑お掛けして……その、すみませんでした! お世話になりましてありがとうございました」
丁寧な言葉使いは慣れないのか、懸命な感じのその様子に、男の方は更に瞳を細めて微笑む。
「いいえ、こちらこそですよ。つい先日、お父上様がご挨拶にいらしてくださいましてね。かえってご丁寧にしていただいてしまい恐縮です」
「え? 親父が来たんですか?」
「はい。どうぞよろしくお伝えください」
「あ、はい……どうも」
まさか父親が鐘崎の家に挨拶に来ていたなどとは全く聞いていなかったので、酷く驚かされてしまった。まあ、父は普段、道場の稽古で忙しくしているし、顔を合わせるといえば朝晩の飯時くらいだ。その上、互いにおしゃべりな方でもないので、知らなくて当然といえばそうなのだが、それにしても自身の怪我のことで世話になった鐘崎の同居人に挨拶に行ったことくらい話してくれてもいいものを、と紫月は少々頬を膨らませる心持ちだった。
そんな思いが表情に出ていたのか、隣に立つ鐘崎が紫月の様子を窺いながら、またひとたび可笑しそうに笑う。
「そうだ、源さん。飲茶をお願いできるか? 今日はちょっと昼休みに野暮用ができちまって、飯が軽かったんだ」
さらりとそんなことを言った鐘崎の言葉に、紫月はハッとなった。この男性の名は『源さん』というのか。確か向島育ちの祭り好きな人だということは以前に聞き及んでいたが、名前を聞くのは初めてだった。
ぼんやりとそんな思いを巡らせながら、またひとたびハタと我に返る。そう言えば、確かに菓子パンひとつだけと軽かった昼食を思い出し、今更ながら腹が鳴るような気がしてきた。鐘崎のさりげない気遣いを嬉しく思うと共に、そんなふうに大事に扱われることにドキドキと頬の染まる思いがしていた。
◇ ◇ ◇
その後、飲茶を済ませてから鐘崎の自室に通されたが、やはり先程のロビー同様、オリエンタルな雰囲気がたっぷりの装飾に目を見張らされてしまった。
「すげえ……何か……映画とかゲームとかに出てきそうな部屋だよな」
「まあな。俺もどっちかっていったらここの地下室よりは上の部屋の方が住みやすいと思うわ」
鐘崎はそう言って笑ったが、それにしてもベッドや家具、絨毯や調度品に至るまで、すべてが異次元だ。また、この自室にも壁一面の大きな窓があって、それはロビーからの続きのような造りになっているのだろう、立体映像だという香港の摩天楼を望むことができる。
「マジですげえ。お前の親ってどんだけ金持ちなんだよ」
嫌味でも何でもなく、素直に思ったことがそのまま口に出てしまったという調子で、紫月は未だ瞳をグリグリとさせている。そんな様子に鐘崎はまたひとたびやわらかに微笑むと、
「まぁ、親っていっても実の親じゃねえけどな」
思わず、『え?』というようなことを口にした。
「実の親じゃないって……けどこの前、確かお袋さんはここ――川崎が実家だとか言ってなかったっけ? じゃあ香港にいる親父さんたちってのは……」
「ああ、育ての親だ。実の両親は俺がまだ小せえガキの頃に離縁したからな。お袋が親父に愛想尽かして、男を作って出て行っちまったんだと。今はアメリカにいるらしいが、俺はそれ以来会ってねえし、川崎にあった実家ってのも既に人手に渡ってる。お袋の方のじいさんとばあさんは早くに他界しちまったから」
「……」
「まあ、親父も親父で仕事柄、年中家を空けてることが多かったからな。そういう不安定な生活に付いていけなかったんじゃねえかって、お袋が出てった頃に親父がそんなふうに言ってたのを覚えてる」
「……そう……なんだ」
「で、親父が懇意にしてた今の両親が俺を引き取って育ててくれたってわけ。小せえガキを抱えたまんまで家を空けてるような仕事じゃ大変だろうっつってさ」
初めて耳にする鐘崎のそんな事情に少し驚きながらも、だが自らも既に母親が他界している紫月は、
「そっか。ま、そういう俺んちもお袋はいねえんだ。俺が生まれてすぐの頃、病で亡くなっちまったんだって。だから俺はお袋の顔は覚えてねんだ。写真では見たことあるけどさ、ずっと親父と二人暮らしだったから、『母ちゃん』がいるって感覚が分かんねえし」
まあ、男所帯だから細かいことは言われないし、気楽なものなんだと言いながら笑ってみせた。と同時に、鐘崎の方の実父のことが気に掛かって、
「あ……じゃあさ、お前の実の親父さんはどうしてんの?」
思わずそう訊いてしまった。
「ああ、親父の方とはたまに連絡取ってる。育ての両親とも未だに懇意にしてるから、よく顔も合わせてたしな」
「てことは、実の親父さんも香港にいるんだ?」
「ああ。仕事が向こうなんでな」
「そうなんだ」
目の前に広がる香港の摩天楼、そこに鐘崎の実の父親と育ての親が住んでいる。立体映像に映し出されたこの景色を、今頃彼らも目にしているのだろうか。それと同じ景色をぼうっと見つめながら、ふと或る思いがよぎって、隣に立つ鐘崎へと視線を移した。
「なぁ、鐘崎さ……」
「ん?」
「……や、あの……もしかだけど……」
そう言い掛けて、次の言葉を詰まらせてしまった。
――そうだ。この鐘崎はついこの春に転入してきたばかりだから、今の今まで気にも留めなかったが、よくよく考えてみれば、いずれは実家のある香港へ帰るのではないだろうか。いや、元々向こうで生まれ育ったわけだし、両親も家もすべてがそちらにあるのだから、当然帰るのが道理だろう。
ふと思い浮かんだそんな想像に、心が締め付けられるようだった。視線も泳いで、目の前の鐘崎を直視できない。
そんな様子をヘンに思ったのか、
「もしか――何だ?」
鐘崎は穏やかな感じでそう訊き返した。
「……え、ああ……その、もしかして……いつかは香港に帰っちまうのかなって……ちょっとそう思ったもんだから」
「ああ、まあな。一応、育ての方の親父との約束では高校を卒業するまでってことで留学させてもらってる」
「卒業!? ……ってことは……一年したら帰るってこと……?」
「ああ、その予定だけど」
頭の中が真っ白になっていく気がしていた。