番格恋事情

15 鐘崎の秘密2



 目の前の見事な程の摩天楼の景色も霞んでいく。
 今は隣にいて、手を伸ばせばすぐにも温かい掌に触れられて、その温もりを確かめることができる鐘崎を、この摩天楼の景色が連れて行ってしまうようで心が震え出す。
「そっか……そうだよな……やっぱ帰っちゃうんだよ……な」
「紫月……?」
「あ、うん……いや、何でもねえ」
 視線を泳がせ、声が震えてしまうのをとめられない。
「ほんとに……何でもねえか……ら」
 ヘンに思われまいとしているわけか、あるいは心配をかけまいという意味なのか、無理に作った笑顔の中にとてつもなく不安げな表情を隠せないでいる紫月の様子に、鐘崎はまるで抱き締めるかのように彼を腕の中へと引き寄せた。
「紫月――俺が香港に帰ったら嫌……か?」
 すっぽりと腕の中に抱き包み、利き腕の方で髪を撫でながら低い声がそう訊いた。
「そりゃ……」
 せっかく知り合えたのに残念だとは思う。自分だけじゃなく、剛や京だって同じ気持ちだろう――そう言おうと思って、言葉をとめた。

 違う――
 そんなことを言いたいんじゃない。
 本当に言いたいのは――俺が本当に望んでいるのは……!

 そう、帰ってなんか欲しくない。離れたくはない。
 別段、離れたとして、二度と会えないというわけじゃない。だが、おいそれとは会えない距離がものすごく高い壁に思えてならないのは確かな事実だ。
 抱き締められた彼の懐の中で顔を埋め、その胸板にしがみ付きながら唇を噛み締め、紫月が放ったのは心のままの素直な気持ちだった。
「……嫌だよ。帰るなよ……」
「紫月?」
「嫌だ……ンなの、ぜってー……」



 嫌だ――――!



 心の中でそう叫んだと同時に、大きな掌に両の頬をガッシリと包み込まれて、逸ったように唇を奪われた。
 左、右と、顔を交互に何度もついばむような口付けをされた後、
「紫月――俺のところに嫁いで来るか?」
「――――!?」
「それとも俺がお前んところに婿に行くか」
「何……言って……鐘っ……」
 訊き返す言葉をも呑み込むように、更に熱く激しく唇を重ねられ、息も出来ない程の長いキスに包まれた。
「鐘ッ……崎……」
「場所なんて何処でもいいんだ。香港だろうが川崎だろうが、神界だろうが魔界だろうが……嫁だの婿だの結婚だの恋人だの、形なんてどうでもいい」
「鐘……っ……ッ!」
「お前と一緒にいられさえすればそれでいい。俺はお前を……放さない、お前の傍を離れる気もない――」
 激しいキスの合間に唇を触れ合わせたまま、射るように熱い視線を一瞬たりとも動かさないままで鐘崎はそう言った。
「紫月――好きだ」
「鐘……崎……」
「抱きたい――今すぐ」
 やっとのことで解放されたキスと引き換えに、まるで『いいか?』と訊くように、熱く熟れた視線がそう問い掛けてくるようだった。と同時に腰元を引き寄せられ、ギュッと抱き締められ、それは鐘崎の思いの激しさを物語ってもいるような強い抱擁に感じられた。
 一見、クールで感情を表に出さない印象の強いこの男が、こんなにも熱いものを秘めているだなんて――しかもそれが向けられているのは自分自身だ。
 出会ってからずっと心の中で求めてやまなかった思いが、今、目の前にある。嬉しくてたまらない気持ちそのままに、紫月は自らを抱き締めている腕の中へとすべてを預けるように包まった。
 逸り、もつれ合うようにしながら、見事な程の寝具に倒れ込んで身体を重ね合い――
「……鐘崎……っ、だいじょぶなの……か? 誰か……他にも家の人とか……」
 先程会った『源さん』以外にも使用人が数人はいそうなこの邸の様子を気に掛けるように、紫月はそう訊いた。
 だがもう、おいそれとは止めらない程に欲情をきたしている互いの熱は引きそうにもない。
 こんな状態にも関わらず、恥じらい戸惑うように視線を泳がせ周囲を気に掛ける――そんな紫月を心底愛しげに抱き締めながら、鐘崎は微笑んだ。
「何も心配するな。ここへは誰も来ない」
 低く、甘く、色香の漂う声を耳元に落とし、甘噛みしながら首筋から鎖骨へと口付ける。
「っ……っあ……マ……ジ……?」
「ああ、だから安心しろよ」
「っ……ん……うん、……はぁ……鐘っ……」
 しっとりとした厚みのある、形のいい唇が肌を撫でる度に、万感こみ上げるような紫月の甘い嬌声がシーツの海に揺らいで落ちた。
 もつれ合うように服を脱ぎ、これ以上密着するところが無いくらいに肌を絡め合う。素っ裸になった互いの楔を擦り付け合えば、たまらない愛しさで、すぐにもとろけて果ててしまいそうなくらいだった。



◇    ◇    ◇



 陽が伸びて来た時期とはいえ、外はとうに日が暮れて、すっかり夜の闇に包まれていた。
 地下室のこの部屋では、時間の流れが分かりづらい。激しく求め合った後、散々に乱された寝具の上で、二人肩を並べていた。
 もう少しで放心する寸前というくらいに愛されまくった紫月は、しばらくは動けない程にぐったりとしたふうで、四肢を投げ出したままだ。
 ぼうっと天井を見つめる瞳はトロンと潤み、未だ熱は冷めやらぬのか、色香を濃くたたえている。
「ちょっと乱暴にし過ぎちまったな? 大丈夫か……?」
 利き手を腕枕にして、頭ごと抱えるように髪を撫でながら、鐘崎がそう問う。
「んなの、全然。平気だってば」
 あえて『嬉しかった』とは言葉にしないが、内心では嬉しくて幸せでたまらない。そんな思いのままに紫月はクスッと笑み、心地よいだるさが残る身体をゆっくり鐘崎へと向けた。
「そういえば、さっきさ……すげえこと言ってたよな?」
 ふと、思い出したように紫月は言った。
「すげえこと?」
「ん、何だっけ……神界とか……魔界がどうとか言ってなかったっけ、お前」
 そうだ。多分――二人で一緒にいられるならば、場所や形などどうだっていい。川崎だろうが香港だろうが、嫁だろうが婿だろうが、全くもって些細なことだ――と、そんな意味合いだったように思う。鐘崎がそれ程までに熱い想いを自分に向けてくれるのが嬉しくて聞き流してしまったのだが、その時に確か『神界でも魔界でも――』とか何とか言っていたのが、少し不思議な感覚として妙に耳に残っていたのだ。
 おおよそこの鐘崎からそんなファンタジーめいた言葉が飛び出すなどとは、想像も付かなかったので尚更だった。
「なんかお前が神とか悪魔とか言うなんてさ、ちょっと意外っつーか……」
 さも不思議そうに訊いてくる紫月を横目に、鐘崎の方はそれ以上に怪訝そうに瞳をしかめて見せた。
「俺、そんなこと言ったか?」
 まるで記憶に無いとばかりに首を傾げて困惑顔だ。照れ隠しなのか、本当に覚えていないのかは分からないが、
「まあ、それだけお前と一緒にいたいっていう、強い気持ちの表れだったのかもな?」
 少々はにかみながらそう言って笑った。
 その笑顔があまりにも屈託がなく、爽やか過ぎて、
「……っ、そういうの、反則じゃね?」
 思わずこちらの方が赤面させられてしまう。普通だったら恥ずかしくてなかなか言えないようなことも、何の臆面もなく真っ直ぐに伝えてくれる。そんな鐘崎の腕にこうして包まっていられることが、嬉しくてたまらない。これまでの自分にはおおよそ有り得ないことだが、この鐘崎の前でだけはとびきり素直に甘えられることが、くすぐったくもあり、信じられなくもあった。と同時に、身体も心もすべてがこの上なく幸せな気持ちで満たされていくのを、紫月はひしひしと実感していた。



◇    ◇    ◇



「さあ、そろそろシャワーでも浴びて支度するか。お前の親父さんも心配してるといけねえしな?」
 今一度、長い指先でやさしく髪を梳きながら鐘崎は言った。
「あ……そうだな、忘れてた。今、何時なんだ?」
「もう九時になる。ここは地下だから時間が分からねえのが玉に傷なんだ」
 チュッっと額に軽いキスを落としながらそう言う鐘崎に、再び頬が染まる。
「そっか……もうそんな時間……。親父の方も道場の稽古が終わって、ひとっ風呂浴びてる頃だな」
 名残惜しい気持ちを飲み込んで、紫月はゆっくりとベッドの上で上半身を起こしながら、
「――ヤベ! そういえば晩飯の買い物すんの忘れてた!」
 突如、すっとんきょうな声を上げた。
 隔日で夕刻から小中学生の部の稽古がある日には、父に代わって買い物をして帰るのが紫月の役割でもあるのだ。今日はまさにその日だったのをすっかり忘れていた。
 この時分だと開いているスーパーも限られてくる時間帯だ。少々焦る紫月の横で、またひとたび鐘崎が余裕の様子で微笑んだ。
「大丈夫。親父さんへの土産にと思って点心を用意してあるんだ」
「え!? マジ?」
「ああ、うちの料理人自慢の点心だ。親父さんにも気に入ってもらえるといいんだが」
「や、そりゃもちろん。さっきのもすげえ旨かったし! けど、何だか……すまねえな。いろいろ気を遣ってもらっちゃって……さ」
「構わねえさ。今日はお前を一人占めさせてもらった詫びも込めて……な?」
 細められた瞳がそこはかとなくやさしくて、何度でも頬が染まってしまいそうだ。ガラにもなくモジモジとしてしまい、紫月はしどろもどろに視線を泳がせていた。
「ぼちぼち行くか。源さんの車で送っていくぜ」
「あ、うん……さんきゅな」



◇    ◇    ◇



 その後、鐘崎も同乗して”源さん”の車で自宅前まで送ってもらった。
 紫月にしてみれば、当然茶の一杯くらいは――と思っていたのだが、二人は家には上がらずに帰って行ってしまった。もう遅い時刻だし、遠慮もあったのだろう。
 驚いたのは紫月の父親である。
 目を見張るような美しい盛り付けの、まるで一流飯店やホテルで出てくるような豪華な点心の差し入れに、紫月によく似た面差しの大きな瞳をグリグリとさせながら絶句状態だ。
「これを……あの鐘崎君が?」
「ああ、うん。俺はヤツの家で先にご馳走になって来たんだけど、すげえ旨かったぜ」
「お前……今まで彼の家に行ってたのか?」
「そうだけど。今もここまで車で送ってもらってさ。家にも上がってもらおうと思ったんだけど、今日は帰るってから」
「……そうか。で、晩飯までご馳走になって来たわけか?」
「ん、そう。けどまあ、食ったの夕方だったし、こんなに量もあるし、俺ももっかい食わしてもらおっと!」
 正月のおせち料理さながらの塗りの箱を広げながら、上機嫌で紫月は箸を付けた。
「うっめ! まだあったけえし! 親父も食えよ」
「あ……ああ、じゃあ遠慮なくご馳走になるとするか……」
 紫月の父親は時折、手元の晩酌の酒を注ぎながら、点心のひとつひとつを大事そうに口に運んだ。
「旨いな」
「だろ? 俺、こんな旨えシュウマイなんて食ったことねえ!」
「ああ、そうだな。本当に……旨い」
 そう言って感慨深げにする父親の瞳が潤んでいるように思えたのは錯覚か――紫月は不思議そうに首を傾げながらも、いくら美味い料理だからといって、泣くほど感激したのだろうかなどと暢気なことを考えていた。
「どうしたよ? 泣くほど旨えってか?」
 少々茶化しながらも、親父も歳かな? と、――そんなふうに思った瞬間、
「バカ野郎、誰が泣いてるだって? この……辛子が……」
 シュウマイに付けた辛子醤油を片手に、慌てて茶をすする様子に思わず吹き出してしまった。
「あははは! 何だ、辛子かよ? そういやさっき源さんが練りたての辛子だとかって言ってたな」
「源さん……?」
 慌てて飲んだ茶のせいでゴホゴホと咳込みながら、父親がそう訊いた。
「ああ、うん。あいつんちに一緒に住んでる人でさ、すっげいいおっさん! 何でも……あいつの父ちゃんの昔っからのダチだとかって言ってたな」
 モゴモゴと料理をかき込みながら説明をした紫月に、
「ああ、あの御仁か――」
 先日、紫月が世話になった件で御礼の挨拶に行った際に迎えてくれたその人が源さんなのだろうと思った。
「そういや、親父よー! あいつんちに挨拶行ったってマジ? 源さんに聞いてビックリしちまったぜ、俺」
 そうならそうと自分にも伝えておいてくれればいいものを――というような顔をした紫月をチラ見しながら、父親の方は思い切り眉をしかめてみせた。
「ビックリしちまった……じゃねえわ! 元はと言や、お前が他人様に世話掛けるようなことするからだろうが」
 道場師範の彼がちょっと本気で睨みを据えれば、いかに父親といえども、さすがの目力に一瞬気持ちがひるむ。
「……んな、マジんなることねえじゃん」
 紫月は茶碗で顔を隠しつつ、上目使いにタジタジだ。
「いつまでもバカなことばかりやってねえで、もう高校も三年なんだし、そろそろ将来のことを真面目に考えねえとな」
 途端に説教モードが漂い始めたのに焦って、紫月は空気の流れを変えんとばかりに、おどけて見せた。
「ま、まあまあ……! これからはちゃんとすっからさ。それよか、ほら……冷めねえ内に、ギョーザ! あ、春巻きも旨えよ。メシのおかわりは? よそって来ようか?」
 機嫌を窺うようにニコニコとしながら、これまたキビキビと”痒いところに手が届く”ふうに立ち回る我が息子を眼前にしながら、紫月の父親は「ふぅ……」と軽く、呆れまじりの溜息を落としたのだった。

 その頃、邸へと戻った源さんこと、『東堂源次郎(とうどうげんじろう)』と鐘崎の二人も、紫月たちに振る舞った点心の残りで遅めの食卓を囲んでいた。
「ところで遼二さん、実は今日、香港の親御さん方からご連絡がありまして。ちょっと厄介な話があるんですが……」
 少々深刻そうな面持ちで、源次郎が切り出した。
「厄介な話?」
「ええ。何でも遼二さんとはご同級だという、あちらではホテル王と言われている『范』氏のご令嬢のことで」
「ああ……美友(メイヨウ)のことか」
「ええ、その美友さんなんですが……」
 范 美友(はん めいよう)というのは、鐘崎が香港に住んでいた頃に同級生だった女性だ。鐘崎を引き取った育ての両親が懇意にしていたのが、范 将雲(はん しょううん)という地元では名のあるホテルの経営者だ。美友はそこの一人娘で、幼い頃から度々家族ぐるみで行き来をしていた、いわば幼馴染みともいうべき間柄である。有名なホテルチェーンを経営する家柄であり、本人の容姿が美しいことも手伝ってか、少々高飛車なところのある性質の娘だった。
 そんな美友だが、どうやら鐘崎に好意を抱いていたらしく、彼の前でだけはしおらしく、優しい女性を装うようなところもあった。いわゆる『相手によって態度を変える』という、我が儘娘の典型のような女性だと記憶している。香港にいた頃は随分と懐かれていたというか、悪い言い方をすれば、付きまとわれていた感が無くもない。源次郎の言うには、その美友が創立記念日の連休を利用して来日するというのだ。
「御父上からのお話では明後日のフライトで来られるようで、都内のホテルに二泊のご予定だとか。美友さんのご希望としては、この邸へ遼二さんをお訪ねになられたいとのことなんですが……どうしたものかと」
 なるほど、厄介な話である。食後酒を口にしながら、鐘崎は少々難しそうな表情で眉をしかめた。
「ここへ押し掛けられても困るな……。あまり気は進まないが、俺が都内のホテルとやらに出向くしかねえか」
「まあ、それが一番無難だとは思うんですが……」
「わざわざ香港から出掛けてくるってのに、まるっきり無視すれば角が立つだろうしな……。メシか茶くらいは一緒にしなきゃならねえか。親父と范大人(はんターレン)との付き合いもあるし、後々面倒なことになるのは避けてえし……」
 軽く溜息を付きながら、
「会うのはホテルのロビーラウンジかレストランでいいだろう。源さん、ご足労掛けちまって済まないが、一緒に付き合ってくれるか?」
「勿論です。私の他にも二~三人ほど手伝いの男衆を手配します。ご令嬢の接待の方は手落ちの無いように致しますのでご安心ください」
 親しげながらもそう言って丁寧に頭を下げる様子は、鐘崎の世話人というよりは、まるで主に従える側近か、ともすれば執事のような雰囲気である。鐘崎から見れば年齢もかなり上の源次郎だが、彼らの間ではそれが普通のやり取りなのか、格別の違和感もなく、鐘崎は目の前の男を労うかのように頷いて見せた。
「手を煩わせて済まないが、よろしく頼むぜ源さん」
「承知致しました」



◇    ◇    ◇



 同じ頃、桃稜学園の氷川の方も、彼の側近ともいうような人物と、少々深刻な電話の最中だった。
 まあ、こちらは鐘崎と源次郎のような間柄とは違って、自身の側近というよりは父親の秘書と言った方が正しい存在のようだ。香港支社にいるその彼に、やはり香港から転入してきたという鐘崎のことで、いろいろと尋ねたいことがあるわけだった。
 聞きかじった話だが、桃稜の不良仲間からの報告によれば、鐘崎という男はどうやら結構な金持ちの息子らしいとの噂が上がっている。つまり、どこかの企業の御曹司だという可能性は高い。
 だとすれば、案外自身の父親が経営する貿易会社とも、多かれ少なかれ繋がりがあるかも知れないと踏んだのだ。
 年始のパーティーなどで企業同士の名刺交換くらいはしたことがあるかも知れないし、とにかく現地にいる人間ならば、鐘崎の素性も調べやすいと思ったのである。
 電話の内容は、先日から頼んでおいたその件への返答だった。ところが、氷川が期待していたものとは少々――というよりもかなり話向きが違うようである。
「はぁ!? この件からは手を引けって……それ、どういうことだよ!」
「お伝えした通りです。先日、坊ちゃんから調べて欲しいとご依頼のあった『鐘崎遼二』というお人とは、関わらない方がよろしいという意味です」
 いきなりの回答がこれでは、まるで意味不明だ。戸惑う氷川をよそに、電話の向こうからは秘書の男性の落ち着いた声音が先を続けた。
「彼は香港では知らない者がいないというくらい有名な家柄のご子息です。と言いましても、現在は『養子』というような形になっているようです。実際の戸籍がどうなっているのかまでは定かではありませんが、彼の実父も香港におります。養父、実父共に相当な力をお持ちですので、一般の人間ならば彼らと関わり合いになるなど以ての外――と言っても過言ではありません」
 ますます理解不能な話である。
「相当な力って何だよ! もっと分かりやすく説明してくんねえ? 一般人が関わり合いたくねえってことは、カタギじゃねえってことかよ? それとも国の権力者――軍や政治関係とか?」
「まあ……そのようなところです。我々のような一般人が興味を持つべきお相手ではありません」
「…………」
「とにかく、御父上からも直々にご伝言がありまして、白夜坊ちゃんにはその『鐘崎』という転入生とは関わりを持たぬようにとのお達しです。ヘタな好奇心からお近付きになったりしませんようにと、口酸っぱくおっしゃっておられました」
 冷ややかとも取れる声が電話の向こうでそう結ぶ。これ以上、余分なことは訊くな――とでも言わんばかりである。仕方がないので、一旦は引き下がって電話を切ったものの、内心ではいよいよ興味を引かれて焦れるばかりだった。無論、ここで素直に親の言うなりに従うような氷川ではない。
 切った電話を置く間もなく、次なる相手へとコールを入れた。
 今しがたの通話相手から見れば、かなり下っ端に当たる者だが、氷川と年齢もそう変わらない平社員だ。彼もまた香港支社に勤めており、幾度か会って話した際にも、かなり気が合ったという印象の男である。
 まだ役職にも就いていないので、大した情報も得られないだろうか――あまり期待せずに掛けた電話だったのだが、これが予想に反して、なかなかの耳寄りな話を聞き出すことが出来たのだった。
 受話器を肩先に挟みながら、気を落ち着ける為か煙草に火を点けて、逸ったように身まで乗り出す勢いで氷川が問う。
「今の話……本当なのか?」
「ええ、間違いありませんよ。裏の世界で『鐘崎僚一(かねさきりょういち)』といえば、知らない奴はいないってくらいのツワモノって聞いたことがあります。実際にどんな仕事をしていて、どこに住んでいるのか――とかの詳しいことは一切謎に包まれてる黒幕的な人物らしいですよ。彼には一人息子がいて、それが多分、白夜君のおっしゃってる『遼二』って子なんだと思います」
「……そんなに有名なのか?」
「ええ。その遼二って息子の方が、香港マフィアの頭領と言われている『煌』一族の養子になってるって話なんですよ。それもあって多かれ少なかれ有名というか。ああ、そうだ……確かその遼二って子には、既に許嫁もいるんじゃないかな」
「許嫁だって?」
「ええ、俺も噂で聞いた程度なんで定かじゃありませんが……香港では勿論のこと、世界的にも有名なホテルチェーンを展開しているホテル王の令嬢だったと思います」
「ホテル王の娘――ね。そんな許嫁がいるってのに、何だってヤツはまた日本に転入なんかして来たんだ?」
「さぁ、どうでしょうね。こっち(香港)で育ったっていっても、やっぱり日本人だから故郷が懐かしいとか? それとも一度くらいは日本の高校に通ってみるのも人生経験になるとか、そんな感じじゃないでしょうかね。気になるんなら、もうちょい詳しく調べてみましょうか?」
「いいのか?」
「ええ、構いませんよ。ちょうど明日、大企業のお偉いさんの面々が集うパーティーがあるんで、それとなく話を振ってみます。煌一族の話題なんて、俺も個人的に興味ありますし」
 父親の側近連中とは違って、まだ若いせいもあってか、この男は秘密めいた隠し立てをする素振りは全く無い。それどころか、自身もまた、興味津々で熱心に話を聞いてくれる上に、こちらの一等知りたいような情報をペラペラとしゃべってくれるものだから、氷川にとってはこの上なく有難いことであった。
「いろいろ助かるぜ。またこっち(日本)に来た時には、お礼にメシでも……いや、酒でも奢らしてもらうぜ。一緒に一杯やろう」
 氷川は上機嫌で電話を切ると、自然と湧き上がってしまう含み笑いのまま、至極満足そうにソファへと腰を落ち着けた。

――とりあえず今しがたに聞いた内容を頭の中で整理する。相も変わらずに煙草をふかしながら、ソファの上でふんぞり返るその姿はとても高校生の態度ではない。
 氷川の父親は香港に支社を持つ程の大手貿易会社の社長をしているやり手だが、都内一等地にある本社と国内の各支社、そして香港へも行ったり来たりの多忙を極める身の為か、一人息子の氷川については殆ど使用人任せの放任状態だった。母親はといえば、香港での暮らしが水に合っているのか、支社の方へ行ったきりで、氷川が住まう川崎の自宅には滅多に帰って来ない生活だ。両親はうるさくしない上に、金銭面でも何の不自由もない。家の一切を任されている執事のような男を筆頭に、掃除洗濯など身の回りの世話は無論のこと、料理人までもが専門に配備された環境で育った氷川は、いわば両親が不在のことの多いこの邸の主のようなものだった。
 容姿は端麗でいて小さい頃から発育も良く、長身で常にクラスで一番背の高い存在だったので、周囲からはチヤホヤとされるのが当たり前だった。それは高校に入ってからも変わらずに、『いいところの息子』だということで教師は持ち上げてくれるし、腕っ節も気も強いので仲間内からも一目置かれて、もてはやされている。望むものはすべて容易く手中に入る環境が、少々横柄で自信家の性質を作り上げたといって過言でないだろう。
 そんな氷川が初めて屈服させられたのが鐘崎遼二という男なのだ。しかも彼もまた香港と縁があり、長身で腕も達つとなれば、どこそこ似通っているようで、それだけでも勘に障る存在である。とにかく氷川は鐘崎のことが気になって気になって仕方なかった。
 苛立ちを抑えるかのように肺まで取り込む勢いで一服を吸い込んでは、より一層深くソファにふんぞり返って天井を仰ぎ見る。
「……裏の世界の黒幕が実父で、マフィアが養父だと? 冗談にしては度が過ぎるっての!」
 いかにも現実離れした信じ難い話である。だが、よくよく思い起こせば、それも満更嘘ではないのかも知れないと思えてくる。先日の暴行事件の時に一之宮紫月を助けに来た鐘崎という男が、尋常ならないくらいに強かったことを考えると、確かに納得がいくというものだ。見張り役に置いていた不良連中をいとも簡単に片付けてしまい、何より喧嘩の実力は抜きん出ていると自負していた自身でさえ、有無を言う間もなく急所を押えられてしまったのだ。
 もしも彼がマフィアの組織で育ったのならば、それも当然と頷ける話だ。
「……関わり合いになるな――だと? 人の気も知らねえで……クソ親父が!」
 このまま黙って引き下がれば、桃稜の頭と言われてきた自身のプライドはズタズタだ。如何に親がマフィアだろうと、まさか子供同士の喧嘩に口を出して来るとも思えずに、氷川の頭の中は汚名を挽回することだけでいっぱいになっていた。
 とはいえ、やはりあの鐘崎相手に単独でどうこうできるかといえば、少々自信がないのも否めない。
「クソッ……! どうすりゃいいってんだ!」
 こうなったら、鐘崎を倒すことよりも一之宮紫月だけにターゲットを絞った方が歩が有るのではないか。彼一人だけでも押さえれば、とりあえずの面目は保てるだろう。
 聞くところによれば、あの日以来、鐘崎がボディガードのようにして四六時中紫月と行動を共にしているらしいという情報も得ている。下校時は無論のこと、登校の際にもわざわざ家まで出迎えに行くという執心ぶりだという。

(まさか、あの後デキちまったのか、あの二人――)

 格別、同性に興味があるというわけではない自身でさえ、一之宮紫月の色香には惑わされた程だ。凌辱行為を受けて弱っていた彼を目の前にして、間違いを犯したくなるのも考えられないことではない。
 一瞬、そんな思いが過ったが、普通に考えればおおよそ有り得ない話だ。男女であるならばその可能性は無くもないだろうが、彼らは男同士だ。登下校時の送り迎えというのも、単に桃稜学園や他校との揉め事に巻き込まれないようにとの配慮だと考えるのが妥当なところだろう。
 とにかく、どうにかしてあの鐘崎という男と一之宮紫月を引き離す策を巡らせる必要がありそうだ。常に一緒に行動されているのでは、隙を狙うことも儘ならない。
 悩み焦れる氷川の元に、香港支社に勤める例の男性社員から朗報が入ったのは、次の日の夜半のことだった。
 昨晩の電話で話題に上がったホテル王の娘という女性が、鐘崎を訪ねて近日中に来日を予定しているというのである。各界の要人が集うパーティーで、こちらから網を張るまでもなく、そんな話題に花が咲いていたらしい。
 氷川はそれを聞くや否や、昨晩とは打って変わった追い風に、ニヤけまじりの高笑いが抑えられない程に上機嫌の心持ちになった。



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