番格恋事情
香港から范(ハン)氏の娘の美友(メイヨウ)が来日するという日、何も知らない紫月はいつものように鐘崎に送られるという形で帰宅した。ちょうど剛と京も遊びがてら寄るというので、当然のこと鐘崎にも立ち寄っていかないかと誘ったのだが、あいにく実家関係の用事があるらしく、今日は遠慮するというのを残念に思いながらも、三人でそのまま彼を見送った。
「しっかし、遼二も律儀だよなぁ。用があるってのにわざわざ遠回りしてここまで一緒に付き合うとかさ」
「ま、今じゃヤツが紫月を送るのは日課みてえなもんだからな」
剛と京が口々にそんなことを言いながら感心の面持ちだ。鐘崎が転入してくる以前も、この二人が下校途中に紫月の家へと遊びに寄るのは珍しいことではなかった。道場とは別に母屋があり、紫月が住んでいるのは更にその母屋の隣に建てられた離れときている。人の出入りも多いから、仲間内では一番気軽な溜まり場といったところなのだ。
その道場では今日も小中学生の部の稽古が開かれているらしく、子供たちの威勢のいい組み合いの声が賑やかだ。それらを遠くに聞きながら、離れの紫月の部屋では早速悪友たちが寛いでいた。
「遼二のヤツも寄って行けりゃ良かったのになぁ」
簡易冷蔵庫から適当にソフトドリンクを選び、そのすぐ脇のチェストの上に置いてある菓子を物色しつつ、京が暢気な声を出す。
「ま、家の用事だってんなら仕方ねえだろ。また今度一緒に遊べばいいじゃん」
一方の剛は、ベッド脇の棚からお目当てのゲームソフトをゴソゴソと引っぱり出してコンセントを繋ぎながら、まるで勝手知ったる我が家といった調子だ。当の紫月は微苦笑ながらも気の置けない仲間といるのは心地良く、親友らの好きにさせていた。そんな折だ。
突如、物々しい慌しさで、同じクラスの男が二人、紫月を訪ねて駆け込んで来たのである。
「紫月! ああ、剛と京も一緒だったか……。大変なことになっちまった! 俺らのクラスの茂木と川田が桃稜の氷川に捕まっちまった」
「はぁッ!?」
すっとんきょうな声を上げたのは剛と京である。
「捕まったって……どういうことよ。拉致られたってこと?」
「けどよ、何で茂木と川田なんだ? あいつらって特に悪目立ちするようなヤツらじゃねえじゃん」
まあ、四天学園に通うくらいだから、それなりに――といおうか、確かに品行方正と褒められたものでもないが、他所の学園に目を付けられる程の不良というわけでもない。いわば、少々洒落っ気がある今時の高校生といった二人だ。そんな彼らがどうして氷川などという、不良グループの頭的存在の男に絡まれなければならないわけだろう。
ある程度名を成した不良連中というのは、とかく、自らと同等もしくはそれ以上と認めた者しか相手にしないのが暗黙の道理だ。ましてや氷川ほどの男が下っ端と思われる者に手出しなどするだろうか――少々疑問だという様子の剛と京をよそに、焦り口調でクラスメイトたちは紫月にすがった。
「実は俺らも一緒に捕まったんだ! 茂木と川田は単なる人質だ……。返して欲しけりゃ、紫月一人で迎えに来いって……」
それまで黙って事の成り行きを窺っていたらしい紫月が、僅かに眉をしかめ、口を開いた。
「……で、場所は?」
静かだが短く発せられる声音は低く、助けを求めて遣わされてきた二人にとっては凄みさえ感じられるくらいだった。だが、実のところ、そう余裕があるわけでもない。先だっての暴行騒ぎのことを思えば、氷川相手に単独で乗り込むとなると、それ相応の覚悟が必要だからだ。ましてや今日は鐘崎が出掛けていて留守だ。
ザッとそんなことを巡らせながら、だがしかし囚われた連中を放っておくわけにもいかずに、紫月は苦々しく表情を歪めてみせた。
「ば……場所は河川敷に出る手前の送電線が並んでる広場があるだろ。あそこへ行くのに通る一本道の途中くらいにあるバカでっけえ倉庫だ」
必死で説明する彼らに、「それって確か……前にクリーニング屋か何かの工場だったところか?」剛がそう訊いた。
「……かも知れねえ。何か、やたらと作業台みてえのがいっぱいあって、錆びたアイロンとかも転がってたし」
その倉庫なら紫月も見知ってはいた。この前、氷川から呼び出されたスナックの跡地のような場所と比べれば、比にもならないくらいの広い工場だ。万が一、あの時のような多勢に無勢という状況でも、あれだけの広さがあれば立居振舞いに苦労はしないだろうか――桃稜勢が何人までならこちらに勝機があるだろう。そんな算段を脳裏に描きながら、紫月は今しがた脱いだばかりの学ランを手に立ち上がった。
「捕まってんのは茂木と川田の二人だな? 奴らの怪我の程度は? 相手の桃稜の連中は何人くらいいた?」
無表情のまま、仕入れておきたい情報だけを尋ねる。だが彼らから返って来たのは、意気込んだ気を削がれるようなものだった。
「怪我は……顔と腹に二~三発軽く食らった程度で、今は二人背中合わせに柱に縛られてる。相手は氷川一人だった」
「は? 一人って……他の桃稜の連中は?」
「し、知らねえ……俺らに紫月を呼びに行って来いって……追ん出された時は氷川だけしかいなかったよな?」
「ああ、他には誰も見当たらなかった。俺ら、ゲーセン寄って帰ろうってブラ付いてたら氷川が声掛けて来てよ、何つか……圧倒されて連れてかれたって感じで。情けねえけど、あいつってめちゃくちゃ威圧感あるし……」
双方がうなだれながらそんなことを口にする。
――氷川が単独で、他に仲間連中がいないとは一体どういうわけだろう。
「とにかく……茂木と川田を迎えに行って来る」
紫月は手にしていた学ランを羽織ると、そう言って縁側から庭先へと降りた。
「ちょっ、待てって! 一人じゃやべえだろ! 俺らも一緒に……」
剛と京が慌てて引き止めたが、紫月はすぐにそれを断った。確かに一人で氷川と対峙することには気乗りしないどころか、極力避けて通りたいのは言うまでもない。先日の淫らな暴行のことが否が応でも思い出されて、腰が引けてくる。では――だからといって剛と京と共に乗り込んだ挙句、またあの時のような成り行きになったとしたら、それこそ冗談で済まされることではない。親友たちの目の前で屈辱的な淫行など真っ平ごめんだからだ。そうなるくらいなら、誰にも知られず一人で行った方が数段マシだと思えたのだ。
「心配するな。氷川だけだってんなら俺一人で何とでもなる……。お前らはここで待ってろ」
「けどよ……」
戸惑う剛らの傍らでは、紫月を呼びに来た二人が一緒に行く気力など毛頭無いといった様子で、震えながら縮こまっている。彼らだけをこの場に置いて行くのも忍びなく、考えあぐねている内に紫月はさっさと出て行ってしまった。
急に静かになってしまった部屋で、互いを見合いながらも何を話していいか分からない――そんな沈黙を突き破るように剛が立ち上がった。
「……やっぱ、俺らも紫月の後を追った方がいいだろ」
「ああ……そうだな。もしも氷川の他にも桃稜の連中が集まって来てねえとも限らねえ」
剛と京は意を決したようにうなずき合うと、残された二人にはとりあえず帰るように告げて、指定された工場跡地へと急いだ。
◇ ◇ ◇
紫月が呼び出された場所へ着くと、先程迎えに来たクラスメイトの二人が言っていた通り、茂木と川田が工場内の柱に背中合わせで縛り付けられていた。遠目から見ただけだが、二人共にそう重傷というわけでも無さそうだ。こちらの存在を目にするなり、はっきりとした声で口々に「紫月!」と名を叫んで寄こした。
傍には彼らを見張るような形で氷川が手持ち無沙汰にしており、他には誰も見当たらない。これなら勝機が望めないわけでもなさそうだと安堵した反面、こんなややこしい形で呼び出す氷川の意図が読めないのもまたしかりだった。
「よう、一之宮――随分と早かったじゃねえか」
氷川はこちらに気付くと、嬉しそうに冷笑した。紫月がいるのはこの工場の入り口、氷川とは大分距離がある。とりあえず拘束されている二人を助けるのが先か――いや、その前に先ずは氷川をどうにかしなければならないだろう。どうやら本当に一人らしい氷川の様子を不気味に感じつつも、紫月はやや慎重に工場内へと歩を進めた。
「どういうつもりだ、てめえ」
低く憤った声音がそう訊くと、氷川は面白がるように唇をひん曲げながら、満足げに双方の距離を縮めて寄こした。
「本当に一人で来るとはな。さすがに『四天の頭』を張ってるだけはあるってか?」
先の暴行であれだけ酷い目に遭わせたにも関わらず、またぞろノコノコと、よくもまあ単独で出向いて来たものだと、そんな意味合いなのか言葉じりだけは白々しくも賞辞口調だ。裏を返せば思い切り小馬鹿にされていると取れなくもないが、そんなことは正直どうでもいい。
「用件は何だ」
「相変わらず愛想のかけらも無えってか? お前ってほんと、いちいち勘に障る態度は変わらねえなぁ」
「俺はてめえと世間話しに来たわけじゃねえからよ。用が無えってんなら、そいつらを連れて帰らせてもらうぜ」
「つれねえこと言うなって。こっちはお前にとってとびっきりの情報を提供してやろうってんだからな、もうちょい丁重にしてくれてもいいと思うけどね」
何が『とびきりの情報』だか――どうせくだらないことに決まっている。目の前でクダを巻いている氷川を無視して、とりあえず仲間の縄を解こうと一歩を踏み出したその時だった。
「今日は愛しの用心棒はいねえのか? ああ、それともてめえの番犬――とでも言った方がいいかな?」
すれ違いざまに浴びせ掛けられた言葉に、紫月は思い切り眉根を寄せて立ち止まった。
「何のことだ……」
「お前、あれ以来、登下校もずっとあの『番犬野郎』と一緒って話じゃね? いつまで経っても一人になってくんねえからさ、お陰でこんな手間なことして呼び出すハメになったってわけ」
訊かずとも鐘崎のことを言っているのは明白だ。おそらく先日の乱闘騒ぎの際に、助けに来た鐘崎と氷川の間では一悶着あったのだろうが、実のところ暴行のショックで記憶が曖昧だった。そういえばその時の勝敗については一切聞かされていなかったことに今更ながらに気付く。
あの時、自身を助けた鐘崎は特に怪我を負っているふうでもなかったから、脳裏から抜け落ちていたのだが、よくよく思い返せば氷川が素直に見逃すとは思えない。一戦交えたのだとしたら、どちらが勝ったというわけだろう。いや待て、確か氷川の仲間らが警察がどうのと騒いでいたから、単に早々にその場から散ったというだけだったのか。そんな思いを巡らせながら、ぼうっとなっていたのだろうか――紫月の顔を覗き込むように、氷川が更に距離を縮め、にじり寄った。
まるでヒソヒソと内緒話をするかのような小声で、ともすれば頬と頬とがくっ付く程の至近距離に、さすがに身を固くする。
「警戒――するよなぁ。何たって今日は番犬がいねえんだから? でもまあ、お前ならこういう形で呼び出せば、一人でもぜってー来ると思ってたぜ」
こちらの反応を逐一面白がるように、氷川はニヤッと笑ってみせた。
「ホントはさ、こないだのことバラされたくなかったら……とか何とか言って呼び出そうかとも思ったんだけどよ、それじゃあんまりにもセケぇだろ?」
「……人質捕るのはセコくねえのかよ」
「まあそう言うなって。お前がガチで俺に犯(ヤ)られちまったことをバラすぜーとか言うより、よっぽどマシだろ?」
どんな手口だろうと卑怯なやり方に変わりは無いように思えるが、氷川にとっては汚い中にも優劣があるらしい。例えば『この間の淫行の写真をバラ撒かれたくなかったら』などのように如何にも卑劣な脅し方をするのはプライドが許さないといったところなのか。いわば『自分はこれでも筋を通せる男なんだ』というようなことを誇張したいのか、そんな自身に酔うように氷川はかなりの上機嫌だった。
「ま、あんまし汚ねえやり方しても、あの番犬野郎に食い付かれるだけだしな? そういう隙は見せねえに越したことはねえと思ってよ」
上機嫌だったかと思いきや、今度は大層苦々しげに口元をひん曲げて罵倒まじりだ。どうやら鐘崎に対して一物あるふうなのか。
「てめえ……あいつに何か恨みでもあるわけ? さっきっから番犬番犬ってうぜえんだけど」
「はは、そう怒るなよ。つか、お前さ――ヤツの正体知っててツルんでんの?」
「……ああ?」
いちいち突っ掛かるような態度も鬱陶しい。だが、その直後に氷川から飛び出した言葉に、一瞬返答に困る程に硬直させられてしまうことになるとは思わなかった。
「今日、あいつが何処に出掛けて――誰と会ってるか知ってんのかって訊いてんの!」
「は……?」
「その様子じゃやっぱ知らされてねえみてえだな? なら教えといてやる。ヤツは今頃、香港から会いに来てる婚約者様と逢引き中だぜ? 何でもあっちじゃ、めちゃめちゃ有名なホテル王の娘だっていうじゃねえか」
――――!?
「ホ……テル王……?」
驚きを通り越して驚愕とでもいうべき紫月の反応に、氷川の方がたじろぐ勢いだ。
「おいおい、そんなにショックだったってか? まあ、お前は未だにオンナの一人もいねえみてえだし? ダチに先越されて悔しいってのは分からねえでもねえがよ」
「……だ……れが、ンな……こと……」
どうやら氷川の思考はとんでもなく明後日の方向にいっているようだが、今はそれに反論する気力など到底湧かない。正直なところ、衝撃などという言葉では言い表せない程だった。
顔色は蒼白となり、身体中の血の気が引いていくような気さえする。氷川の言うことを鵜呑みにするわけではないが、確かに鐘崎は今日、”家の用事”で出掛けると言っていたのは事実だ。
ガクガクと膝が笑ってしまうのを抑えるだけで必死の今、例えば氷川から不意打ちを食らったりすれば到底防ぎ切れない状態だ。傍目から見ても様子がおかし過ぎる反応に、
「そんなショック受けるなんてよ、まさかだけどお前……あの後ヤツとデキちまったとか?」
半ば放心状態と言っても過言でない程に呆然となっている紫月の顎先を掴み、その表情を興味深げに覗き込みながら氷川は言った。
「まあ、てめえには俺でさえすっかり惑わされたぐれえだしな? あん時の憔悴しきったてめえを見て、ヤツがその気になっちまった――ってことも考えられなくはねえってか?」
確かに一度はそういった可能性を想像したものの、普通に考えれば有り得ないだろうと思っていたのだが、この紫月の反応を見る限り、案外それで”当たり”なのではないかと思えてくる。氷川は更に面白そうに口元をひん曲げると、まるで独り言に納得するかのようにベラベラとこう言い放った。
「確かにな。てめえ相手なら、そこいらの女なんかとヤるよりよっぽどソソられるし。慰め半分で抱くぐれえ、有り得ねえ話じゃねえな? しかもヤツはマフィアのガキ(息子)だって話だし、案外男との経験もあったのかも」
紫月にとっては、もはや驚愕だの衝撃どころではない。誰の、何についての話題なのかも、すぐには理解できないくらいだった。
「…………」
「――どうしたよ? まさか言葉も出ねえ程のショックなわけ?」
「……だ……や、な……の話……してんだ、てめ……」
しどろもどろで、まさに言葉にすらなっていない。
「何のって――てめえの番犬、鐘崎遼二って野郎のことだよ。ヤツの親父は香港マフィアの頭領だそうじゃねえか。ま、番犬にするにはある意味打ってつけだよなぁ」
――――!?
「あれ以来、ヤツが毎日てめえを送り迎えしてるせいで、俺も今日まで手出しできなかったわけだし? さすが血統書付きってか?」
耳元でベラベラと続けられる言葉も、もはや意識にすら入らない。すべてがスローモーションのように感じられ、今この時が夢なのか現実なのか、はたまた自身が立っているのか座っているのかさえも分からなくなりそうだ。ちょうどその時だった。
「紫月っ――!」
「無事かッ!?」
入口の扉から剛と京が飛び込んで来たのに、無意識に視線だけがそれを捉えた。普段の紫月ならば、それを機に氷川の脇腹あたりに一撃をくれているだろう。だが、すぐには何も反応できない。
氷川はチィと舌打ちと共に、
「クソッ、邪魔が入りやがった」
そう吐き捨てると、懐に忍ばせて来たスタンガンを紫月の背中へと押し当てた。そしてすぐさま崩れ落ちた肢体を肩に担ぎ上げると、裏口に当たるもう一方の出口へと急ぎ、扉を蹴り飛ばした。
けたたましい轟音と共に土埃が舞う――
「ちょっ……氷川、てめえ! 待て、この野郎!」
「紫月をどうしようってんだ!」
慌てて追い掛けて来る剛らの声を背に、待たせてあった車に紫月を放り込み、氷川は一目散といった調子でそれに乗り込んだ。
「出せ! すぐにだ!」
ドアが閉まると同時に車が急発進する。
「ちょッ……! 待て氷川ッ!」
懸命に叫ぶも、狭い裏路地に巻き上がった土煙で視界もままならない。情けないが、手出しひとつできなかった。残された剛と京の眼前には、タイヤのクラッシュ音と、きな臭い焦げたようなニオイが焦燥感だけを煽ってくる。
「……クソッ、まさか車で来てるって……そんなん有りかよ!? ナンバー見たか?」
「ああ、覚えやすい番号で助かったぜ! 七七七、スリーセブンだった」
「あれ、ベンツだったろ? 氷川んちの車か?」
「運転手付きだったみてえだし、そうなんじゃね?」
貿易会社の御曹司だというのだから、そのくらいは当然か――追い掛けようにも、こんな裏通りの細い一本道ではタクシーも捕まえられないだろう。ともかく、氷川が自宅の車らしきもので去って行ったことから、行き先を割り出すのは案外容易かも知れないと思えた。最悪は彼の家に押し掛けて、親もろとも巻き込んで騒ぎ立てれば、紫月はすぐにも解放されることだろう。そう踏んだ剛と京は、先ずは工場内で捕まっている茂木と川田の二人から詳しい事情を聴くことにした。