番格恋事情
一時間後――
剛と京の二人は駅前の派出所へと向かっていた。紫月のもとへ応援を頼みに来たクラスメイトの連中同様、茂木と川田の二人からも大した情報は得られなかった。単に下校途中に氷川に声を掛けられて、例の廃工場へ連れて行かれただけというようだ。やはり目的は紫月のみということなのだろうか、剛と京は一先ず茂木らを救出すると、早々に紫月の行方捜しに向かった。
とりあえずどうすればいいのだろう。氷川が運転手付きの車で来ていたことを考えると、紫月を拉致して自宅へと帰った可能性が高い。しかし氷川の自宅というのを知らないことに気付いた剛らは、手にしていたスマートフォンで『氷川貿易』を検索すれども、さすがに自宅の場所など載っているわけもない。まだ十分に下校の時間帯でもあったので、桃稜生を捕まえて訊くことはできるが、それこそいらぬ小競り合いにでもなったりしたら災難が増えるだけだ。紫月を助けるどころの話ではなくなる。
困った二人は、剛の従兄が勤務している派出所に相談に行くことにした。
さすがに警察沙汰にするまでのことかとの躊躇はあったが、紫月が車で拉致されたというのは確かな事実だ。通報するというよりは、剛の従兄に話を聞いてもらうという形ならと思い、二人は派出所へと急いだ。
ところが、着いてみればまたしても当が外れてしまう。
「清水巡査なら、今は出張交番で出掛けてるよ」
交番勤務の警察官にそう言われてしまい、ガッカリと肩の落ちる思いに陥った。と同時に、さすがにあまり悠長にしていていいものではないと焦りが募る。
「そうだ! 遼二に相談してみっか」
「遼二か……。けどあいつ、今日は家の用事で東京へ出掛けるとか言ってなかったっけ?」
「まあそうだが……緊急事態だしな。知らせないでおく理由もねえだろ」
八方塞りの二人は、とにかく鐘崎の携帯へと連絡を入れてみることにした。
◇ ◇ ◇
一方の鐘崎は、香港から来日した范美友を迎える為に、源次郎と共に都内のホテルに来ていた。
一先ずはロビーラウンジで落ち合う算段になっていた為、そちらへと向かう。待ち合わせの時間まではまだ余裕があったものの、美友の方は人待ち顔で既にラウンジに居た。彼女の方も付き添いの者を従えているようで、美友が腰掛けているソファ席の周囲には数人の男性が警護をするかのように立っているので、何かと目立っていた。
「もう来ているようだな。あの奥の席か?」
「はい、人目がお邪魔にならない方がよろしいかと思い、コーナー席をお願いしました」
さすがの心配りである。もっと大事なことも無論だが、こういった細やかなことまで、源次郎に任せておけば卒がない。入り口で先方の姿を確認し、ラウンジへと足を踏み入れた途端、
「遼二!」
待ちわびたように美友が立ち上がり、ひと際大きな声でそう叫んで寄こした。
割合、ざわついているロビーラウンジといえども、周囲の客たちが一斉に視線を向ける程の大きな叫び声だ。感極まったらしい彼女が、こちらから席へと向かう間も待ち切れないといったふうにして、華やかなドレスを翻しながら駆け寄って来た。
余程、気持ちが逸っているのか、毛足の長い絨毯の上を高めのハイヒールで駆けたせいでか、思わずつまづきそうになるのを、寸でのところで源次郎が支えた。
「お怪我はございませんか、お嬢様」
「あ……ええ、大丈夫」
本当は鐘崎にそうして欲しかったのだろう、転びそうになったことを恥ずかしそうにしながらも、美友は少々怨めしげな上目使いで源次郎の後方にいた彼を見上げた。
「久しぶりだな、美友。親父さんたちも皆、変わりはないか?」
そう言って、源次郎の腕から交代するように手を差し伸べた鐘崎の懐に抱き付く勢いで、美友は逞しい胸板に顔を埋めた。
「もう……! もう、遼二ったら……! 会いたかったんだから! 勝手にいなくなっちゃうなんて酷いわよ!」
長身でガッシリとした体格の鐘崎が思わず一歩後退りする程の勢いで、その広い胸板を叩きながらそう詰る美友のそれは甘え声だ。会話は広東語であったから、その内容は容易に伝わらないにしても、周囲にいる他の客らの視線を憚りもしない仕草は目に余る。さすがにそれを諭すかのように彼女の付き人たちでさえ慌て気味で、
「お嬢様、と、とにかくお席へ。遼二様も……どうぞお掛けになってください」
そう促した程だった。
◇ ◇ ◇
周囲からの好奇の視線も落ち着き、とにかくその場にいた全員で一旦は席に着いたものの、美友は鐘崎の傍にピッタリと寄り添うようにして離れようとはしない。隣に腰掛け、彼の腕にしがみ付いたままの姿勢で、彼女の口から飛び出す言葉は「どうして? 何故?」の一点張りだった。
「いきなり日本の学校に転校だなんて、そんなことひと言も話してくれなかったじゃない……! パパから聞いて驚いたなんてもんじゃなかったのよ? ねえ、どうしてわたしには何も教えてくれなかったの?」
相も変わらずの甘え声ながら、恨み節は変わらない。どうやら鐘崎は転校のことを彼女に一切告げていなかったようだ。
まあ、鐘崎からしてみれば転校は自身のプライベートなことだし、美友は単なる幼馴染みというだけで、逐一報告する必要も無かったというところなのだが、彼女にしてみれば見解が全く違ったらしい。
「一年間も海外の高校に転入するだなんて、そんな大事なことをわたしには一切断りなしで決めちゃうなんて酷いわ! 貴男も貴男だけど、パパやおじ様たちも、誰も何も教えてくれなくて事後報告だなんて……どういうことかちゃんと説明してくれるまで許さないんだから……!」
”おじ様たち”というのは、鐘崎の父親らのことだ。美友とは幼い頃から家族ぐるみで交流があったので、鐘崎の実父のことは無論、養父のことも、互いの家族については周知のことだった。
美友の一方的な問い詰めに、源次郎をはじめ、彼女の側の付き人たちも口を挟みづらそうに無言のままだ。そんな沈黙を破るように鐘崎が口を開いた。
「転校のことは前々から決まっていたことなんだ。お前にだけじゃなく、向こうの高校で親しくしてたダチにも言って来なかったから」
だから『お前にだけ告げなかったわけじゃない』ということを言いたかったのだが、当然のことながら美友には納得できるものではないらしい。
「あなたっていつもそうなのよ! 大事なことは一人で決めちゃって……香港にいた頃からそうだったわよ。高校に進学する時だって、わたしには何の相談もなしに通う学園を決めちゃって、危うく別々の高校を受験するはめになるところだったわ。パパからの情報で同じ学園になれたから良かったものの、こっちはいつもハラハラさせられっ放しなのよ?」
「ああ……すまない。だが、進学なんて個々の事情もあるし、相談し合って決めることじゃねえだろ?」
半ば苦笑気味ながらも宥めるようにそう言えど、そんな鐘崎の態度は余計に彼女の焦れを焚き付けてしまうだけのようだった。
思い余ってか、
「ん、もう! わたしたち許嫁同士なんだから! 何でも話して欲しいって思うのは当然じゃないの!」
そのひと言に、珈琲カップに掛けた鐘崎の指先がピクリと止まった。
「――美友、それについてはもうだいぶ前に”無し”になったはずだぞ」
穏やかではあるが、はっきりとした口調でそう放った鐘崎に、美友の整った眉根に剣が浮かぶ。
「無しって……あたしは了承してないわ。あれはパパたちが勝手に……!」
「元々――許嫁なんてのは俺らがガキの頃に親父たちの間で口約束していただけの話だった。俺とお前が中学に上がる時にハッキリとそういう話は無しにしようってことに決めたはずだ。俺らももう子供じゃなくなる。親同士の夢話や眺望なんかじゃなく、子供たちの将来は子供たち自身が決めるのがいいって、そういう話になったはずだ」
確かにそうだった。そもそも許嫁の話自体が、まだ鐘崎と美友が幼い頃に親同士の間の雑談で戯れに話していた程度の、いわば世間話の中から出たような仮想だったからだ。鐘崎らの中学進学を機に、将来については親の都合ではなく個々に任せるべきだという話向きに決まったのだった。それは美友も渋々承知してはいたことだ。
だが、成長するに従って鐘崎への恋慕の気持ちが強くなっていった美友にとっては、幼い頃の”許嫁”という強力な決め事をむざむざ無かったことにはしたくない――という思いもまた大きくなっていったのだった。
鐘崎としては、今回連休を利用してわざわざ香港から出向いて来た彼女が、自身に対してそういった”特別な想い”を抱いているだろうことに気付いていないわけでもなかった。無論、源次郎もしかりだ。
傍から見ていても明らかな恋情の気持ちをないがしろにするのは気が病まないでもないが、だからといって彼女と同じだけの気持ちを返せないことが分かっていながら”気を持たせる”方が良くないだろう。少々酷だが、ハッキリと断るのも互いの為だ――そう思って、鐘崎は正直な気持ちを伝えるべきと思った。
だが、この場でそれを告げるのも憚られる。もしも美友が自身に対して恋慕の気持ちを抱いているのが事実であるのならば、それを断るような形になるわけだからだ。付き人たちがいるところで彼女に恥をかかせるようなことになってはいけないという配慮から、鐘崎はしばらく二人だけの時間を貰えないだろうかとその場の皆に頭を下げた。
◇ ◇ ◇
互いの付添人たちが離席して行くと、美友は殊更高揚したように鐘崎の脇へと抱き付くような仕草で、満面の笑みを浮かべてみせた。この席は源次郎が気を利かせて予約したこともあって、間仕切り用に置かれている背の高いグリーンがパーテーションになっている。周囲の客からは見えないことが幸いだった。
「ね、遼二。もし良かったらこんな所じゃなくてわたしの部屋で話さない? 最上階のスイートを取ってあるの」
二人だけになったことで最高に嬉しそうにする美友の表情は、その直後の鐘崎の言葉で瞬時に翳り、豹変した。
「なあ、美友――許嫁の件だが、今一度はっきりとさせておきたい。お前のことは良い友人だと思っているし、ガキの頃から一緒だったから妹のようにも思える。お前にはお前を大事に想ってくれるヤツと幸せになって欲しいって、そう思うんだ」
「――? いきなり何よ……」
「俺にはずっと以前から心に決めた相手がいるんだ。もしも将来を共にする時が来れば、そいつと添い遂げたいと思ってる」
その言葉に美友は滅法驚いた。鐘崎の腕に添えていた色白の手がピクリと止まり、顔色は蒼ざめて、と同時に瞳には剣が浮かぶ。次第に紅潮してくる頬の色は怒りにも似た思いの表れなのか、ワナワナと震えるようにしながら唇を噛み締めた。
「……心に決めた……って、いきなり何言い出すのよ……そんなの聞いてないわよ」
「ああ、今まで誰にも言ったことねえから」
「そんな……! 一体誰なのよ!? あたしの知らない人? もしかして……その女性が日本にいるの? だから貴男、黙って転校だなんて……」
そういう仮説は瞬時に立てられた。だが、よくよく考えてみれば一体いつそんな相手と知り合ったというのだろう。
――ずっと以前から心に決めた相手、と鐘崎は言った。ということは、彼がまだ香港にいる頃からの仲ということになるのだろう。だとすれば、相手は今現在も香港にいるということになるのだろうか。そんな相手を置き去りにして日本の高校へ転入するという鐘崎の行動は、美友にしてみれば信じ難いものだった。
第一、香港にいる頃から鐘崎が特定の誰かと付き合っているなどという話は聞いたことがない。もちろん、鐘崎は容姿端麗で男らしい外見の上、性質も明るくてやさしいと評判だったので、女生徒らからは、それなりに人気があったというのは知っていた。だが、恋人がいるという話は聞いたことがないし、逆に『恋愛に関しては硬派過ぎる程で、誰のことも相手にしてくれない』と噂されていたのも本当だったので、彼にそんな相手がいるなどとは思ったことすらなかったのだ。
だからこそというわけではないが、親同士が決めた許嫁という口約束が、いつかは現実になるかも知れないという期待の気持ちも膨らんでいったというものだ。もしかしたら鐘崎の方も自身を想ってくれていて、いずれ彼の方から告白してくれる日が来るかも知れない――美友は勝手にそう決めつけてしまっていた。
が、冷静になって考えてみれば、彼の方からそういった気持ちや素振りを感じたことがないというのもまた事実であった。幼馴染として家族ぐるみで交流する機会も多かれど、色めいた雰囲気になることは一切なかったし、そんな鐘崎に対していつも焦れた思いを持て余していたのも認めざるを得ない。
それなのに、『ずっと以前から心に決めた相手がいる』などと言われても、すぐには信じられないのも当然だった。
戸惑いを振り払うように、美友は突如声を上げて笑い出した。
「嫌だわ、遼二ったら! いきなりそんな冗談言い出すなんて! あたしに黙って日本に行っちゃった言い訳にしては随分と陳腐じゃない?」
嘘を付くにしても、言い訳をするにしても、もう少しマシな――と言いたげな言葉を遮るように遼二は言った。
「言い訳なんかじゃねえさ。本当のことだ」
真っ直ぐに視線を合わせてそう言う鐘崎の言葉に、さすがに瞳が曇る。
「本当のことって……嘘……でしょ? 冗談よね?」
「嘘でも冗談でもねえんだ。お前にはちゃんと云っておいた方がいいと思ったから打ち明けた」
「そ……んな、酷いわよ……! あたしが貴男のこと好きだって知ってたでしょう? なのにそんな……いきなりそんなのって……!」
「……お前が俺を好いてくれてるのかも知れない――と思ったから、ちゃんと本当のことを云うべきだと思った」
「そんな! じゃあ、その人に会わせてよ……!」
「そこまでする必要はねえだろう?」
「必要なくなんかないわよ! あたしはあんたの許嫁なのよ!? あんたがどんな相手を選んだのか知る権利くらい有るわよ! 香港にいるの? それともまさか……本当にこっち(日本)に居るってわけ!?」
興奮させないようにと、なるたけ穏やかに告げたつもりだったがダメだった。最初こそ丁寧な言葉使いで甘えまじりに詰っていたものの、最早それも飛んでしまったようだ。
「会わせてよ! 会わせなさいったら……! あたしよりも金持ちの女なの!? あたしよりも綺麗なの!? どんな女だろうと絶対許さないんだから――!」
手元にあったおしぼりを叩き付けながら、金切声を上げて涙まじりにそう叫ぶ。ある程度、言いづらいことだと思ってはいたものの、想像を遥かに超えた騒ぎぶりに鐘崎は眉をしかめた。
「美友、この話はもう仕舞いだ。この後、上のレストランに席を取ってあるから、皆で美味いものでも食いながら……」
そんな言葉は慰めにもならない。
「はぐらかさないで! 美味いものなんか食べ飽きてるわよ! とにかく……その女を呼んでよ! 今すぐここへ呼びなさいよ!」
「美友――もうよせ」
「早く……呼びなさいってば! その女と二人で話を付けてやるって言ってるの!」
最早、手に負えない。いくらパーテーションで仕切られているというものの、周囲の客たちも何事かとざわつき始める。離れた席で待機していた源次郎たちと美友の付添人たちが、慌てたようにして駆け付けて来た。
◇ ◇ ◇