番格恋事情
「すまなかったな、源さん――」
駐車場へと向かう道すがら、ほうっと深い溜息をつきながら鐘崎は言った。
あの後、感情のコントロールがつかない美友を抱えるようにしながら、お付きの者たちが彼女を部屋へと連れ帰るのを見送った。あの様子では、当初の予定通りにディナーを共にするなど不可能なことだ。付添人らもそうわきまえたようで、とにかくは彼女の気持ちが落ち着く頃を見計らって、内々だけでディナーを取ってもらうようにと頼み、鐘崎と源次郎らは帰ることにしたのだった。
往路は専属の運転手だったが、帰りはその男にも他の同行人らと一緒の後続車に乗ってもらうことにして、気を利かせた源次郎が自ら鐘崎の乗る車の運転を買って出た。二人きりの方が話しやすかろうし、話すことで少しでも彼の気休めになるかと思っての配慮だった。
「ご令嬢がお声を荒げてらしたので、少しだけお話の内容が聞こえてしまったのですが……」
源次郎も香港暮らしが長いので、広東語には不自由しない。金切声で彼女が鐘崎を詰り出してからの会話は大方分かる。尤も、他の客たちにはほぼ内容は伝わっていなかっただろうか――あの場に広東語に馴染んだ客がいなかったことを願うだけだ。
「俺もまだまだだな……」
「……どのようなお話向きだったのです? ご令嬢は相当興奮なされていらしたようですが」
バックミラー越しにこちらに視線をやりながら源次郎がそう訊いてくる。
「――俺には心に決めたヤツがいるってことを……添い遂げるならそいつとしか考えられねえっていうことをハッキリ云った」
「そうでしたか。それは……ご令嬢も少なからずショックだったのでしょうね」
「ああ……。もっと他に言い方があったのかも知れねえが、俺にはあれしか思いつかなかった。まあ、親父ならもっと上手くやっただろうな。こんなことが親父の耳に入ったら、『女の一人もあしらえないようじゃ、まだまだ半人前だ』くらいは言われそうだぜ」
窓の景色を視線で追いながら鐘崎は苦笑し、そしてこう続けた。
「けどよ、源さん――俺、嘘は付きたくねんだ。別段、美友に本当のことを告げなくても良かったのかも知れないとも思う。あいつの気持ちに気付かないふりを続けながら、うやむやにしている内に時が経って、その内あいつにも他に好きな男ができて――そうすりゃあいつの気持ちを踏みにじることも傷付けることもなく、お互いに気持ちよく別々の人生を歩めたのかも知れねえって、そうも思うんだけどな……」
独白のようにポツリポツリと語る彼の言葉に源次郎は黙って耳を傾けていた。
「けど俺はそういうの嫌だったんだ。それに……本当に好いたヤツに対して不実みてえなことはしたくねえんだ。一番大事なヤツには一番大事だって、何隠すことなく堂々とそう告げ続けたい。こんな俺って、やっぱり我が儘なのか?」
「……遼二さん」
「てめえの気持ちに正直でいたいが為に誰かを平気で傷付けても仕方ねえ――なんて考え方は、ケツの青いガキのすることなのか……な」
恋愛が成就するもしないも、それは人の縁だ。誰が悪いわけでもない。だが、幼馴染みの女性の気持ちに応えられないことで、少なからず自身を責めながら思い悩む鐘崎の優しさに、源次郎は瞳を細めた。
「いずれにせよ、いつかはご令嬢に本当のところをお伝えしなくてはならない日が来るでしょう。うやむやにして今を無難に切り抜けたとしても、後々もっと傷が大きくなるようなこともあるやも知れませんし、この度のことは致し方なかったと思います。あまりお悩みになりませんよう……」
「ああ、そうかもな……いろいろ気を遣ってもらってすまない、源さん」
「いえ、とんでもありません」
高速道路は割合順調に流れて、夕暮れの陽が映える川を渡ればすぐにインターチェンジだ。家が近付くにつれて鐘崎は脳裏に愛しい者の姿を思い浮かべていた。
――この川崎の街に紫月が住んでいる。剛や京という楽しい仲間もいる。彼らの顔を思い浮かべれば、先程までの重い気持ちが嘘のように楽になっていくようで、ホッと心が安らぐ。今ひとたび、深呼吸するように深くシートへと背を預けた、そんな折だ。マナーモードにしていた携帯が震えて、鐘崎はハッと我に返った。
今しがた別れたばかりの美友にはこの番号を知らせてはいない。だが――先程の今なので、つい彼女か彼女の付き人の誰かからかも知れないと、一瞬そう思ってしまったのだ。若干緊張の面持ちでディスプレイを見やると、そこに『清水剛』の文字を確認してホッと胸を撫で下ろす。そんな自分に苦笑しながら電話を取った。
「よう、どうした?」
気心の知れた仲間からの電話に、鐘崎の声は穏やか且つ安堵であふれていく。今頃、彼らはまだ紫月の家だろうか。何なら今から自身も寄ってみようかなどと思った矢先――だが、一瞬でそれが焦燥へと変わった。
「もしもし、遼二か!? 忙しいところ済まねえな……けど、こっちもちょっと大変なことになってて。紫月が……」
「――? 紫月がどうした」
――紫月が桃陵の氷川にさらわれちまったんだ!
電話の向こうから叫ぶようにそう言われた言葉が、運転席の源次郎の耳にもはっきりと伝わった。
◇ ◇ ◇
一方、氷川はスタンガンで身体の自由を奪った一之宮紫月を抱えて自宅へと戻っていた。両親が香港の支社へ行ってしまっている今、邸の中に自分を咎める者など誰もいない。氷川の思うがままだった。
邸の一切を取り仕切る――いわば執事的な初老の男の出迎えに、しばらくは誰も部屋へは近寄らせないようにと伝えて自室へこもる。未だ意識が朦朧としているふうな紫月の身体をベッドへと横たえると、逃げられないように両腕を紐で縛り上げ、以前にもこの紫月に盛った催淫剤を吸い込ませてニヤリと口元をひん曲げた。
「おい、一之宮――いつまで寝ボケてんだ」
横たわる彼の脇に腰を下ろし、ペチペチと頬を叩きながらその顔を見下ろす。学ランの下に着ている木綿のシャツのボタンをひとつひとつ丁寧に外し、開いたその中に薄いタンクトップを目にして更に口元をひん曲げた。
「いったい……何枚着込んでんだよ――」
思わず口をついて出た侮蔑笑いと共に、下半身が疼くような感覚が湧き上がる。タンクトップから透けて見える胸元の突起がプクリと浮き上がっている様子を目にすれば、瞬時に雄が固く熱を持った。
「ふん、相変わらずいやらしい身体つきだな……野郎のくせに乳首おっ立てやがって……もう薬が効いてきたってわけかよ?」
突起を親指の腹で弄り、クリクリとこねくり回す。
「……んっ、ん……ふ」
ようやくと意識がハッキリしだしたのか、苦しげに身をよじった紫月の様子に、慌ててその身体を組み敷くように腹の上へと馬乗りになった。
「油断するってーと、お前はヤベえからな。もっとちゃんと縛っといた方が良かったか?」
「…………?」
ぼんやりとした視界に飛び込んできた見覚えのある男の顔――ニヤけた氷川の顔が自身を見下ろしている状況に、紫月はギョッとしたように瞳を見開いた。
「お……まえ、氷川……? 何……してやがる」
身体の痺れが完全に抜け切っていないせいでか、何かにつけておぼつかないままでそう問う。
何故目の前に氷川がいるのか、それすらすぐには理解できない紫月は、ぼんやりとしたままで、瞳はとろけ、言葉も儘ならない。そんな様が奇妙な程に色香を醸し出している。
「は……! たまんね……! お前、それ計算してやってんのかって訊きてえくれえヤベえって」
「……何……のことだ……つか、何でてめえがここに居んだよ……? 一体何して……」
「何って、そんなのいちいち訊く必要もねえだろ? やっと邪魔者もいなくなったんだ。じっくり時間掛けてイイことしようぜって話だよ」
先日の乱闘でこの紫月を穢して以来、脳裏から離れなくなった独特の欲情の感覚を再び目前にして、氷川は益々興奮していく自身をはっきりと感じていた。
「邪魔者……って、何……? ――ッ!?」
紫月はそう訊きながら、自由にならない身体の感覚と自身の腹の上に馬乗りになっている氷川を確認し――、ということは、組み敷かれているということなのか。身をよじり撥ね除けようとして、もうひとつ別の嫌な感覚が疼き出しているのを悟った。
急に背筋をゾクゾクと這い上がってくるこの感じ――先日、暴行を受けた時と全く同じ予兆に蒼白となる。まさかまた例の催淫剤でも盛られたというわけか。咄嗟に周囲を見渡せば、見たことのない部屋の景色に焦燥感を煽られた。
「何……してんだ、てめえ! ここ、何処だよっ!?」
腹上の氷川を蹴り上げん勢いで拘束を振り解こうとするも、身体のどこそこに力が入らない。ここまでの経緯がだんだんと蘇ってきて、紫月はようやくと自身の置かれている状況が見え始めていた。
頭上では氷川が服のボタンを外しながらニヤけ顔でいる。
「いい部屋だろ? ここ、俺ん家」
「てめえの……家だと?」
「そ! この前のパブの跡地とは大違いだろ? 今日はゆっくり楽しめるぜ?」
「……勝手なこと抜かしてんじゃねえぞ! いいからそこどけよ! クソッ……!」
暴れようにもやはりまだ身体が自由になってくれずに、紫月は言葉で罵倒を繰り返すしか術がない。この状況をひっくり返せる方法はないかと周囲を見渡し、初めて自身の両腕が括られていることを悟った。
「てめ……これ、どういうつもりだよッ!? ふざけてんじゃねえぞ!」
思い切り腕を振って紐を解こうとするが、その動きはすぐに氷川に取り上げられてしまった。
「無理すんなって! まだスタンガンの効き目が切れてねえんだからさ」
「スタンガン……ッ!?」
そこまで言われて、ようやくと全てを思い出した。クラスメイトたちを人質に捕られ、廃工場に呼び出されて――そこで氷川がほざいていた数々の言葉までもが次々と蘇ってくる。紫月は次第に蒼白となっていった。
「どうした? やっと状況が飲み込めたってわけか?」
薄ら笑いを漏らしながらも、どういう風の吹き回しか、氷川は紫月の身体を丁寧な扱いで抱き起こすと、信じられないような突飛なことを言ってのけた。
「ところでよ、一之宮――モノは相談だが、俺ら付き合わねえか?」
「――!?」
紫月は驚いて隣の氷川を見やった。
「俺とお前がいい仲になっちまえば、桃陵と四天の因縁関係も解消だ。今までみてえなくだらねえ小競り合いもなくなるぜ? 一石二鳥だと思わねえ?」
「……な……に言ってんだ、てめ……」
あまりに話が飛び過ぎていて、ついて行けない紫月は唖然としたままだ。そんな様子を他所に、氷川はベラベラと流暢に先を続けた。
「正直、俺はお前が気に入っちまってな。まあ……お前がっていうよりは”身体”が気に入ったって方が正しいんだが――お前を犯って以来、女じゃ満足できなくなっちまったってわけ」
突飛を通り越して、何を言われているのかすら分からない。
「それによ――お前と付き合えば俺の面子も保てるんだわ」
「面子……だと? 何……の話だ」
「お前の番犬、鐘崎っつったっけ? 俺はこの前、あいつに初めて敗北させられた。あの野郎、お前を助けに来た時、一瞬で俺の急所を押さえやがった……」
「――!?」
どういう意味だ。氷川に暴行を受けた時の記憶は殆ど朧だから、鐘崎がどうやって自分を助け出したのかは正直なところ覚えていない。氷川がこう言うところをみると、やはり鐘崎が力で打ち勝ったということなのだろうか。
「このままやられっ放しじゃ、俺は負け犬だ。桃陵の仲間たちにも示しがつかねえ。本来、鐘崎って野郎を殺るのが一番いい訳なんだけどな……さすがの俺も本物のマフィアが相手じゃ諦めざるを得ねえってことだ」
「マ……フィア……だ?」
そういえば先程の廃工場で氷川がそんなことを言っていたのを思い出した。そうだ――確かにマフィアの倅がどうとか――そしてその後に続けられた言葉、彼には婚約者がいるとかいないとか。それを思い出した途端に紫月は焦燥感に蒼ざめた。
ブルブルと肩を小刻みに震わせうつむいて、抵抗はおろか覇気さえ失くしてしまったような様子に氷川の方は首を傾げ――そこから或る仮定に辿り着く。
「おい、一之宮――ひとつ訊きてえんだがよ。お前、あの後ヤツとどうした?」
訊かれている意味も分かるような分からないような表情で呆然としている肩に手を掛け覗き込めば、無意識のように視線と視線が重なった。
大きな瞳が驚愕をあらわに揺れている。それを目にした瞬間、氷川は燻り始めていた欲情を更に煽られたような気分にさせられた。
「おい、何とか言えよ。もしかして……マジでヤっちまったわけ、お前ら?」
包み込むように添えられた掌が頬に触れ、食い入るような氷川の視線は奇妙な程に真剣だ。今にもキスを仕掛けんとばかりの甘い雰囲気さえ伴っている。まるで恋人同士でなされる蜜月のようなそれだ。
無理矢理されるならまだしも、真逆の甘い雰囲気が互いの間に浮かび上がりそうな感覚に紫月は焦った。
氷川の指先が唇に触れ、ゆっくりとなぞられる――
「よせっ……!」
紫月は咄嗟に顔を背けた。
「おいおい――ンな、つれねえ態度すんなって。今から俺たち恋人になるんだからよー。やさしくしてやるって言ってんの」
「だ……れがッ、てめえなんかと! 冗談じゃねえ――!」
氷川の腕の中から逃れるように突き飛ばし、未だ自由の戻らない身体で少しでも距離を取ろうと身をよじる。が、やはり儘ならず――縛られている腕の紐も解けないままベッドから立ち上がろうとしたところを、背後から抱き包むように拘束されてしまった。
「……放せ、クソ野郎ッ! ブッ殺すぞ!」
「は――相変わらず凶暴っつーかさ、往生際が悪いよなぁ、お前も!」
「う……るせえっ……」
暴れれば暴れる程、氷川は面白そうにしながら拘束する力を強めてくる。
「いい加減、観念して俺のモンになっちまえっての! てめえの番犬野郎だって、どうせ今頃は美人の婚約者様とイイ感じで盛り上がってんだろうし? こっちも負けじと楽しもうって!」
――――――ッ!?
「婚……約…………?」
「さっきも言ったろ? 香港からヤツの許嫁が会いに来てるって。聞いた話じゃ結構イイ女みてえだぜ? 高校卒業したら式を挙げるとかって噂も出てるらしいし」
「式……だと?」
「俺ン家の香港支社にいる社員から仕入れた情報だから、ガセじゃねえと思うぜ。その女の親父も乗り気で、早く二人を結婚させたがってるって噂!」
(ま……さか、鐘崎に限ってそんなこと……)
未だ身をよじりながらも、目の前が真っ白になりそうだ。
「しっかし、ヤツも罪な野郎だよな? 向こう(香港)に女を放っぽって来るなんてよ。おおかた、結婚前に女の目の届かねえところで遊び納めでもするつもりなんじゃねえの? じゃなきゃ、こんな時期にわざわざ日本の高校に転校なんて有り得ねえ話だと思わねえ?」
次から次へと飛び出す信じ難い情報に、返す言葉も見つからない。これが氷川の憶測にせよ、あるいは事実にしろ、驚愕に変わりはなかった。それに追い打ちをかけるように氷川から飛び出す残酷な言葉は次第に紫月の心を突き刺し、えぐっていった。
「なぁ一之宮、ヤツと俺と――どっちが上手い?」
「…………ッ!?」
「お前、ヤツと寝たんだろ? あの時、俺がお前に盛った催淫剤。あれって結構強力なやつだから、一発抜いたくらいじゃ治まんなかっただろうが? で、ヤツはお前を助けたついでに、”抜く”方も手伝ってくれたんじゃねえか……ってのが俺の想像だけど。どうだ、当たりだろ? 正直に言ってみ?」
タンクトップを捲し上げるように手を突っ込まれて、指の腹で胸飾りを弄られる。氷川の興奮した吐息が首筋を撫でる度に、催淫剤によって欲情を煽られていった。
「……っ、は……ぁ、よせ……! 放せ……ッ」
「マフィアの倅だってからには相当遊んでるだろ、あいつ。女には不自由してねえだろうから、日本に留学してる間に男の味も試しとこうって魂胆かよ?」
「……ッく、……ぁあ……」
「すぐ傍にお前みてえな都合の良さそうな野郎が居りゃ、願ったり叶ったりってな?」
つまりは『お前は遊ばれただけだ』と言われているようで、気が遠くなりそうだった。