番格恋事情
違う――違う、違う、違う!
鐘崎はそんな男ではない!
真剣な眼差しで『好きだ』と言ってくれた。味わったこともないような優しさと激しさを交叉させながら抱いてくれた。絶対に放さないと、一緒にいられるならば神界だろうが魔界だろうが構わないとさえ言ってくれたのに――!
彼は氷川の言うような男ではない。
断じてない!
心の中で自分に言い聞かせるようにそう繰り返すも、氷川の言っていることも満更有り得なくはないと思う気持ちがジワジワと浸食してくる。と同時に望まない欲情がドクドクと全身を這いずり、呑み込まれてしまいそうだ。遣りどころのない気持ちに気が狂いそうになった。
「聞けよ、一之宮――俺はさぁ、あの番犬野郎と違って二股かけたりしないぜ? 付き合うって決めたらお前一筋にする。約束するぜ?」
本気なのか冷やかしなのか、まるで真意が伝わってこないニヤけまじりで氷川は言う。”二股”という言葉が、今の紫月には何より手酷い棘となって気持ちを掻き乱した。
――もう抵抗する気力もない。
頭の中では鐘崎を信じているも、気持ちが付いていけずに氷川の言葉に翻弄される。身体はダルいまま、催淫剤の力も手伝ってか、されるがままだった。
無抵抗のままシャツを剥がれ、タンクトップも捲し上げられ脱がされて、縛られた両腕の上から更に巻き付けられる。氷川の興奮した吐息が肌を撫で、もうどうにでもなれと自我を捨て去ろうとした――そんな折だ。
急にドアの外が騒がしくなった様子に、氷川は愛撫をやめ、紫月もおぼろげながらそちらに視線をやった。
「お待ちください! 不法侵入ですぞ!」
切羽詰まったような喧騒が廊下から聞こえるような気がする。叫び声を掻き消すようにけたたましく扉の叩かれるのに、氷川は怪訝そうにベッド上から身を起こすと、脱いだばかりのシャツを羽織り直してそちらを睨み付けた。
「一体何だってんだ、騒々しい!」
不機嫌のままに様子見へと向かった矢先、蹴破られるようにドアが開かれた。
「何ということを! 本当に警察を呼びますぞ!」
そう叫んだのはこの家の執事の男だ。彼を振り払いながら姿を現わしたのは、高校生とは思えないダークな色のカジュアルスーツに身を包み、源次郎を従えた鐘崎だった。
「てめ……っ、番犬野郎!? 何で此処に……」
驚いたのは氷川だ。居るはずのないこの男がどうして――というのも無論だが、制服の時の印象とはかけ離れた出で立ちの彼に、一瞬足の竦む思いが過ぎる。見るからに機嫌の悪そうに歪められた眉間が、何も言わずとも彼の怒りを代弁しているかのようだった。
鐘崎は瞳の中に業火の焔が揺らめくような視線で室内を一瞥すると、
「源さん、紫月を頼む」
低い声でそれだけ告げて、間髪入れずに目の前の氷川の脇腹へと一撃を放った。
「ぐぁ……ッ」
氷川はその場に崩れ落ち、だが鐘崎はすぐさま首根っこを掴み上げると、彼の肩をひねり上げて背中に鉄槌を下し、そのまま部屋の隅まで転げるくらいの勢いで突き飛ばした。
洒落た造りの暖炉の柵が外れて、棚から調度品がガラガラと音を立てて落下し散らばり、倒れ込んだ氷川の頭上を直撃する。そんな様子を横目に、ベッド上では源次郎が紫月を丁寧に抱き起こすと、自らの上着を脱いで素早く彼を包みながら保護し終えていた。鐘崎はそれを確認すると同時に氷川の傍へと歩み寄り、床に転がったままの彼を蔑むように見下ろした。
「……ッう、てめ……何……で……」
氷川がうめき声を上げながら身体を引きずって後ずさる。背後には暖炉――もう逃げようもないのだが、どうにかして壁伝いにでも尻込む氷川を見遣りながら、鐘崎がようやくと口を開いた。
「性懲りのねえ野郎だな――この間のじゃ足りなかったか?」
一見物静かだが、低くドスのきいた声音は嵐の前の地鳴りのようだ。背筋にゾっとするものを感じ、だがしかし氷川もここで引いては面子が立たないと思うのか、口調だけでも強がりを保とうと食い縛る。
「……っくしょう……何でてめえが……どうやって此処を嗅ぎ付けた……」
「――まだそんなことをほざく余裕があるのか?」
そう言われて、ふと自らの変調に気付いた氷川の顔から、みるみると色が抜け落ちていった。
「な――――ッ!?」
利き腕の右肩に違和感を覚え、おそるおそる手をやれば、まるで皮一枚で繋がっているだけのようにブラブラと力が入らない。
「――ッ!? てめっ、何しやが……った!」
蒼白を通り越し、声まで裏返らせてそう叫んだ氷川を見下ろしたまま、
「騒ぐな。肩の関節を外してやっただけだ。医者に診せればすぐ元に戻るさ」
鐘崎は平然とそう言い放った。
「……関……節……!?」
「今はこれで勘弁してやる。だが次やったら――てめえの命をもらうことになるぞ」
怒鳴るわけでもなく声音だけは至って平穏だが、逆に淡々とし過ぎていることが空恐ろしく思えた。
「聞こえたか? 三度目はねえぞ」
「――――」
ひと言も発せないままでコクコクと頷くだけが精一杯、それを見てもう用は無いとばかりに踵を返した鐘崎を遠巻きにしながら、執事の男が床を這いずって氷川へと歩み寄っていった。
「坊ちゃま……坊ちゃま……!」
ひたすら名を呼ぶだけで、後は言葉にならない。「大丈夫ですか」のひと言さえ発せられない程に恐怖しているふうだった。
その彼に続くようにして、鐘崎の行く手から逃げるように使用人たちが次々と氷川の元へと集まっていった。彼らは鐘崎と源次郎が有無を言わさずに邸内に踏み入れるのを、阻止しようと追い掛けてきた者たちだ。
鐘崎は既に部屋の扉口で紫月を支えて待っていた源次郎のところで足を止め、再び後ろを振り返った。
今度は何をされるのだろうと、氷川の背に隠れるようにしながら誰もが身を震わせ縮こまる。一応は主である氷川を――しかも怪我を負っている主人を――盾にしてでも身を守りたいというのは本能だろうか。まるで蛇に睨まれた蛙の集団という図だった。
「警察を呼びたきゃ呼べばいい。尤も、そんなことをすればてめえの首を締めるだけだろうがな――。今回は沙汰無しってわけにはいかねえぞ。停学くらいは覚悟しておくことだな」
鐘崎は氷川に向かってそれだけ言い残すと、源次郎の手から紫月を受け取るように抱き寄せた。
「遅くなってすまなかった。大丈夫か?」
腕の中の紫月を見つめ、額に唇を寄せて、無事を確かめるかのように口付ける。
「怪我はしてねえか?」
そう問う声はそこはかとなくやさしい。本心から身を案じているのがありありと分かる気がしたが、紫月は何一つ反応を返すことができないままだ。
「もう何も心配はいらねえからな」
瞳を細めながら鐘崎はそう言い、またひとたび頬と額へと口付けを落とす。上半身は剥かれていたものの、しっかりと制服のズボンは穿いたままの様子にとりあえず安堵する。だが、紫月の表情は、まるで時が止まってしまった人形のように呆然としたままだ。少々様子がおかしいと感じたのか、鐘崎は心配そうに眉をしかめた。
「どうした? どこか辛えのか? 痛むところでもあるのか? 紫月?」
「……い、だいじょぶ……」
「ん?」
「……一人で……歩ける……から」
放してくれというように腕の中でもがく動きを押さえ込んで、
「無理をするな。とにかく俺の部屋へ帰ろう」
氷川が紫月に様々と吹き込んだ内容を知る由もない鐘崎は、愛しむようにそう言った。
「お……まえの部屋?」
「ああ、もしかしたら道場の――お前ん家の方には剛や京がまだいるかも知れねえ。一旦俺の家へ寄って、落ち着いてから帰った方がいい」
「……剛? やつらが……知らせたのか?」
「ああ。剛と京から電話をもらってな。二人には心配しねえように俺から連絡を入れておく」
確かに鐘崎の言うことも一理ある。精神的にも不安定な今、剛や京ならず、父親にも心配を掛けるに違いない。それ以前に催淫剤も抜けていない状態では、まともに立っていられるかさえ自信がない。氷川に何をされたのかと説明できる状態でもない。
だが、このまま鐘崎の自宅へと寄ることにも危惧がないとは言い切れなかった。
氷川の言っていたことが本当ならば、鐘崎の邸には香港から来ているという婚約者の女性がいるのではないか――?
そもそも鐘崎はどうしてこの場所が分かり、助けに来ることができたのだろう。剛や京に聞いたにしろ、此処に連れてこられたことまでは分からないはずだ。
次々と浮かんでくる疑問と不安に思考が回らない。
思いも寄らず、こうして駆け付けてくれたこと自体は嬉しいに違いはない。違いはないのだが――鐘崎の腕に抱かれながら、紫月は複雑な思いを隠せずにいた。
◇ ◇ ◇
鐘崎の家に着いた頃には、紫月の身体は催淫剤によって翻弄され、欲情が抑え切れない程になっていた。どうにもならない火照りと、すぐにでも欲を解放したい衝動で、もはや周りを気に掛けてなどいられない。邸の中に鐘崎の婚約者がいようがいまいが、誰にどう思われようがどうでもいい――そんな状態であった。
源次郎が気を利かせて直接地下の駐車場に車をつけてくれた為、幸い邸内の者には会わずに鐘崎の自室へと辿り着いた紫月は、部屋に入るなり床へとへたり込んでしまった。
「大丈夫か? とにかくこっちへ来て横になるんだ」
氷川の家から帰る車中で、紫月が再び例の催淫剤を盛られたことに気が付いていた鐘崎は、先ずはそれを解放してやらねばと思っていた。無論、再三に渡ってこんなことに興じる氷川に対する怒りはあったが、今は紫月の体調が何より優先だ。
「紫月――? 立てるか?」
床へと突っ伏すようにうずくまったままの身体を後方から抱き包もうとしたその時だった。
「一人に……してくれ……っ」
差し出した腕を突如振り払われて、鐘崎は眉をしかめた。
「どうした?」
「……あ、ごめ……悪い……」
紫月は自分のしてしまった行動に自ら驚いているというふうな表情で、その瞳は驚愕でいっぱいといったように揺れている。
「もう何も心配する必要はねえんだぞ? 何があっても俺はお前の傍にいる」
精神的に不安定であろう紫月を安心させようと、鐘崎は必死にそう声を掛けるも、どことなくぎこちない雰囲気が二人の間に見えない壁を作っているように感じられてならない。
まさか氷川から特異なことでもされたのだろうか。先日の暴行の時も酷いことをされたに違いないが、その時でさえ思ったよりもしっかりとしていた。だが今日は違う。
どちらかといえば先日の方が受けた衝撃は大きかっただろうことは明らかだ。身体的に見ても、今回はどこにも殴られたような痕は見当たらないし、陵辱という面でも多少服を剥がれた程度で、実質未遂だ。が、明らかに様子がおかしいのは思い違いではない。
先程から殆ど言葉も発さないままでいるのも気に掛かる。助けに駆け付けて抱き包んだ時でさえ、安堵の表情とは真逆の――どちらかといえば驚愕に近い表情で見つめてきた。鐘崎はそんな紫月の様子に酷く違和感を覚えてならなかった。
「――氷川に何をされた? 何があっても俺はお前の味方だ。だからどんなことでも俺に話して欲しい。それが辛いことなら尚更一人で抱え込まないで欲しい。分かち合いたいんだ」
丁寧に、穏やかに、気持ちを乱さないようにと細心の注意を払いながら、紫月の目を見つめてそう云った。
「……味……方?」
「ああ、そうだ。お前の辛いことは俺の辛いことだ。二人で考えたい。一緒に悩んで一緒に解決したい」
「……何で……」
「お前が大事だからだ」
「……大事…………?」
「ああ、そうだ」
本来嬉しいだろうはずの言葉を掛けても、紫月の表情は変わらない。まるでこちらの言うことなすこと全てに疑りを持ってくるような顔付きが崩れない。鐘崎は何とも言いようのない困惑にますます眉をしかめさせられてしまった。