番格恋事情
「紫月――その状態じゃ辛えだろうが。我慢しなくていいからこっちに来て座るんだ」
再度抱きかかえようとするも、紫月は酷く頑なだ――。
「鐘崎……ごめ……。俺、マジで一人でだいじょぶ……だから」
「無理をするんじゃねえ。それとも……俺がいたら邪魔なのか?」
少々辛そうに顔を歪めた鐘崎の言葉に、紫月はハッとなり、慌てて首を横に振った。
「違ッ……! そうじゃねんだ。ただ……またこんなふうに……なっちまって、お前に迷惑掛けてるのが嫌なだけ――」
「そんなことは気にするな」
「それに――」
何かを言わんとして、ほんの一瞬躊躇する。
「何だ? 何でも言ってくれ」
「……お前、今日は何か用事があるんじゃ……なかったのか? 俺のことはホントだいじょぶだから……そっちを優先して」
何だ、そんなことを気に掛けていたというわけか。鐘崎はホッと小さな安堵を呑み込むと、
「用事ならもう済んだ。何も心配しなくていい」
愛しそうに紫月の髪を撫で、再び抱き包むように腕の中へと引き寄せながらそう言った。
「……済んだ? 東京に出掛けてたんじゃ……ねえの?」
「ああ。ちょっと親父関係の知人が来日しててな。挨拶くらいはしねえと親父の顔が立たねえから出掛けただけだ。もう義理は果たしたから心配するな」
「…………」
本当にそうなのだろうか――
鐘崎が嘘をつくような男ではないと信じたい気持ちとは裏腹に、氷川から聞いた話が頭の中で水を差す。
『おおかた、結婚前に女の目の届かねえところで遊び納めでもするつもりなんじゃねえの? じゃなきゃ、こんな時期にわざわざ日本の高校に転校なんて有り得ねえ話だと思わねえ?』
『すぐ傍にお前みてえな都合の良さそうな野郎が居りゃ、願ったり叶ったりってな?』
無意識の内に涙が頬を伝っていた。
そうだ――何をこうも頑なになる必要があるだろうか。氷川から聞いた話が本当ならば、邪魔者なのは本来自分の方なのだ。知らなかったとはいえ、婚約者がいるらしい鐘崎に魅かれて愛してしまったのは他ならぬ自分自身だ。もしもその女性が知ったら、きっと嫌な思いをすることだろう。
鐘崎が遊ぶつもりでやさしい素振りをしているのか本心なのか、そんなことはどうでもいいと思えた。要は自分の気持ちがどうであるか――だ。
今ここで鐘崎から本当のことを聞いたとして、果たして彼を諦めることができるだろうか。一時の遊びだったと、潔く身を引くことができるだろうか。――否、無理だ。
鐘崎と出会ってから重ねてきた思いが沸々と脳裏に蘇る。転入生として四天学園に来た彼と同じクラスになり、隣の席になって教科書を見せてやったこと、ほぼ一目惚れのようにしてどんどん魅かれていったこと、氷川から助けてもらったこと、好きだと告げられたこと、彼に抱かれたこと、すべてを過去の思い出になどできはしない。あふれる想いが涙となって紫月の頬を濡らした。
「ごめ……鐘崎、俺……どうしようもねえクズ野郎だ……」
「――?」
お前を諦められない。
離れたくない。
遊びでも構わない、今ここにある温もりを手放すなんてできない――!
「俺、バカだし迷惑掛けてばっかだし……我が儘で身勝手でしょうもねえけど……」
そうだ、例え婚約者の彼女を傷付けてしまうことが分かっていても止められない。
「俺――お前が好きだ」
ボロボロと涙しながら、声を嗄らして紫月はそう云った。
「鐘崎、これで最後――、もう二度と……お前に迷惑掛けたりしねえから……ッ、だから――」
最後にもう一度だけお前の温もりが欲しい――
この身体に、心に、お前を刻み付ける。決して忘れないように誠心誠意を込めてお前の体温を、声を、息遣いを、愛撫を――そのすべてを刻み付けておきたいから……!
「抱……いて……くれ。頼む……」
これを最後にお前を諦められるよう努力する。いつか――心から婚約者との幸せを祝えるよう努力するよ。だから――
「ごめん……ごめんな……今だけ――」
俺にこいつを貸してくれ――!
祈るような気持ちで、嗄れた声を更にボロボロに嗄らす勢いでそう懇願した。鐘崎の逞しい腕にしがみつきながらそう言った。だが、鐘崎にとってはそんな紫月の様子がやはりいつもとは違うように感じられてならなかった。
「紫月――、おい紫月――!」
一旦、抱擁を解き、泣き濡れる彼の肩をガクガクと揺さぶりながらその表情を覗き込むも、紫月の視点は定まっていない。『抱いてくれ』と訴えてくる――まるで必死とも思えるような懇願とは裏腹に、視線は空をさまよい、どこか別の次元を捉えているような感じを受けてならない。もしかしたら与り知らぬところで、氷川から何かよほどのことをされたのかと勘ぐれども、今の紫月にそれを問い質したところで、まともな返事が聞けるとも思えない。鐘崎はできる限りやさしく丁寧な扱いを心掛けながら紫月を抱え上げると、とりあえずはベッドの上へと腰掛けさせた。
「紫月、とにかく今はお前が楽になることが先決だ。何も心配しないで、俺に任せておけばいい。分かるな?」
紫月を横たわらせ、そのすべてを包み込むごとくやさしく抱き締める。持てるすべての愛情を注ぐように、鐘崎は紫月を抱き締めた。
◇ ◇ ◇
催淫剤によって欲情させられた紫月の身体を解放した後、気力も体力も限界に達してしまったわけか、そのまま気を失ってしまった彼を丁寧にベッドへと寝かし付けると、鐘崎は一人外出の支度を整えた。
「源さん、悪いが紫月を頼む。俺はちょっと出掛けてくるが、ヤツが目を覚ましても、俺が戻るまでここに引き留めておいてくれ」
「お出掛けですか? どちらへ――?」
「級友の剛と京に会ってくる。紫月が拉致された前後の状況を知っておきたいんでな」
「かしこまりました。お気をつけて」
源次郎に後を任せると、鐘崎は急ぎ剛らの元へと向かった。
時刻は既に午後の十時になろうとしていたが、夜遅いなどと言っていられなかった。剛たちには迷惑だろうが、とにかく詳しいことを知るのが先決である。無理を言って、紫月を呼び出すのに利用されたという茂木と川田にも集まってもらい、当時の状況を尋ねることにした。
茂木らの話によれば、下校途中に氷川に声を掛けられ、例の廃工場へと連れて行かれたという。氷川は本当に一人だったようで、周囲に仲間らしきはいなかったとのことだった。
「俺らも軽くド突かれた程度で、特に酷えことはされなかった。情けねえけど、氷川のオーラに圧倒されちまっててさ……反撃のひとつも繰り出せなかったんだ」
「そんで、少し待ってたらすぐに紫月が助けに来てくれたんだ」
二人の説明に、鐘崎は少し思案するように眉をしかめた。ではやはり氷川の目的は紫月を拉致して、先日の暴行事件の時のように不埒なことをするのが目的だったというわけなのか――氷川の紫月に対する執着具合が気に掛かる。やはりもっと立ち直れないくらいに打ちのめすべきだったかと苦い思いまでもが湧き上がる。
「それで……紫月が来てからの様子はどうだったんだ。氷川はすぐにあいつを拉致して行ったわけか?」
一応、そう訊いた。
「いや、すぐにってよりは……しばらく二人で何かボソボソ話してたよな?」
茂木がそう言えば、川田もその通りだと頷いた。
「話の内容までは詳しく聞こえなかったんだけどさ、何か妙に気の抜けたような会話をしてたような……」
気の抜けたとはどういうことだろう。
「何つーか、紫月と氷川っつったら顔を合わせればすぐにもドンパチ始まりそうな感じするだろ? けど、そうでもなくて……逆に和気藹々ってのもヘンな言い方だけどよ、普通にしゃべくってたような……」
「ああ、俺も妙だと思った。だってよ、あいつら映画かなんかの話してんだぜ?」
鐘崎は更に眉をしかめさせられた。
「映画――だ?」
「うん。何でもマフィアがどうとか……、ホテル王の娘と結婚するんだけど、それがめちゃめちゃイイ女だからとか……氷川はかなり上機嫌で楽しそうにしてるし、あの二人どうなってんだって思ったんだよ」
その言葉に、鐘崎は驚いたように瞳を見開いた。
「ホテル王の娘――? 氷川がそう言ったのか?」
「ああ、うん……。はっきりは聞こえなかったけど、かなり楽しそうにそんな話してっからさ、まさかだけど一緒に映画でも観に行くつもりなのかなって。そんなわきゃねえと思いつつも、案外裏では紫月と氷川って仲良かったりすんのかなって」
茂木の説明に、鐘崎はもうひとつだけ質問を付け足した。
「それで――紫月の方はどうだったんだ。紫月も楽しそうに話に乗ってるふうだったか?」
「いや。紫月のヤツはどっちかっつったら相手にしてなかった感じだけど……」
「うん、でもちょっと様子がヘンだったよな。いつもならもっとこう……氷川を前にしたら殺気みてえなのがあっても良さそうなのに、最初っから負けを認めてんのかってくらいおとなしくしててよ。だから思ったんだよ、ホントはあいつらって仲いいんじゃねえかって」
「だよな。紫月、普段はあんなに強えのに一撃も繰り出さねえまんまでさ。氷川だって、やたら楽しそうに紫月に笑顔向けてたし」
その直後に剛と京が駆け付けて、そのまま氷川に連れ去られてしまったのだという。
なるほど――彼らの説明を聞いて、鐘崎は事の粗方が掴めた気がしていた。先刻からどうにも紫月の様子がおかしかった理由も、これで理解できる。おそらく、氷川という男はこちらの事情を少し把握しているのだろうと思えたからだ。香港に親の経営する会社があるとのことだったし、そういった経路から情報を得たのだろう。ホテル王の娘というのは美友のことをいっているのだろうことも想像出来得た。紫月は氷川から自身に婚約者がいるということを聞かされたのかも知れない。
鐘崎は仲間たちに礼を述べると、急ぎ自宅へと舞い戻った。
◇ ◇ ◇
その頃、紫月の方は鐘崎の部屋のベッド上に腰掛けたまま呆然と過ごしていた。目が覚めた時には鐘崎は傍におらず、このまま帰ってしまってもいいものなのかを考えあぐねていたのだ。
この部屋から出れば、おそらく源次郎らはいるのかも知れないが、もしかしたら鐘崎の婚約者だという女性が来ていないとも限らない。むやみに顔を出して鉢合わせでもしたら、鐘崎にも迷惑が掛かってしまうかも知れない。そう思った紫月は、一先ず鐘崎が戻るのを待つことにしたのだった。
が、それにしても手持ち無沙汰である。もう夜の十一時を回っている時分だ。家には何とでも言い訳のしようがあるにしろ、こんな夜更けに鐘崎は一体どこへ行ったというのだろう。もしかしたらこの広い邸内にいるのかも知れないが、だとすればそれこそ婚約者だという女性が訪ねて来ていないとも言い切れない。
特にすることもないのでベッドに横たわってみたりもするが、そうすることで先程の情事を思い出してしまい胸が苦しくなる。シャワーを貸してもらうこともできたが、紫月は鐘崎に抱かれた痕跡を消したくはなかった。
彼と触れ合えるのも、もうこれが最後なのだと思う。できることなら身体中に残る彼に愛されたというこの印を、生涯消したくはない。風呂に入れば残り香は消えてしまうだろう。そんなのは嫌だ。一生風呂に入らないで生きていければ――そんなふうにも思っていた。