番格恋事情
戸惑いながらもこの場から動くことも躊躇われて、紫月が一人悶々としていたその時だった。部屋の外が少しざわつき始め、誰かの話し声が聞こえてきたと思った矢先、扉が開かれ、紫月はハッとそちらを振り返った。部屋に入った来たのは鐘崎であった。
「紫月――! 起きていたのか」
息を弾ませた彼が少々逸ったような表情で近付いて来たのを見て、紫月は切なげに瞳を細めた。
「あ、うん。今さっき気が付いて……。そろそろ帰ろうと思ってたところ……」
その先に続く言葉を遮るように鐘崎は突如、強烈というくらいの抱擁で紫月を腕の中へと抱き締めた。
「鐘……ッ」
「お前の家には……親父さんには、お前が今晩俺のところに泊まると伝えてきた」
「――え!?」
「だから頼む。俺の話を聞いて欲しい」
抱き締める力が強過ぎるせいでか、鐘崎の声は少しくぐもってもいて、そしてやはり焦るかのような早口だ。しかも今夜はここへ泊まれという。紫月は驚きつつも、とにかくは話を聞こうと鐘崎の腕の中でコクリと素直に頷いてみせた。
「急にこんなこと言い出して済まない。――こっちへ来て座ってくれ」
ベッドへと促され、抱擁を解いた鐘崎に導かれながら並んで腰掛ける。
鐘崎は紫月の手を取ると、少しも離れていたくはないといったふうにその掌に力を込めながら言った。
「紫月――少し長い話になるが、最初にこれだけは言っておく。俺が好いているのは……心から大事に想っているのは、この世の中でお前だけだ。お前一人だ。これだけは信じて欲しい」
「鐘……崎……?」
「それに――俺には婚約者などはいない」
鐘崎のひと言に紫月はハッと瞳を見開き、驚いたように彼を見つめた。その表情で、やはり氷川から何かを吹き込まれていたのだろうと悟る。
「実は今、剛と京たちに会ってきたんだ。お前が氷川に連れ去られた時の状況を知っておきたくてな」
「剛と京に……?」
「ああ。茂木と川田にも来てもらって話を聞いてきた。お前――氷川ってヤツから俺のことで何か聞かされただろう」
じっと、食い入るように見つめてくる鐘崎に、紫月は困ったように視線を泳がせた。
「聞かされた……つか、あの野郎の言うことなんか……」
「氷川の親は香港にも支社を持つ企業の社長だそうだな。大方、あっちの社交界で俺の噂でも耳にしたのか、それともわざわざ調べたのかは知らねえが、それをお前に吹き込んだってところだろう――」
少々難しげな表情で眉をしかめる鐘崎に、紫月は上手い相槌も返せないままで、ただただ彼を見つめていた。
「紫月――いずれ話そうと思っていたことだが、今がその時なのかも知れない。少しお前を驚かせちまう内容も混じっているかも知れねえが、聞いてくれるか?」
若干重めな声音で鐘崎はそう言った。
彼が何を話そうとしているのか、想像がつくようなつかないような、紫月にしてみれば酷く胸が逸るような心地だ。だが、今しがた彼が言った『俺が想っているのはお前だけだ』というその言葉を信じ、紫月は黙ってコクリと頷いた。
鐘崎は『ありがとう』と言うと、「もしかして氷川に聞かされたかも知れないが」と前置きしながら静かに話し出した。
「先ず何から話せばいいか――今日、俺が都内まで用足しに行ったのは、香港から幼馴染みが来日してきたからだ」
「……お……さな馴染み?」
「ああ。親父が昔から懇意にしている人の娘でな、名は美友という。歳は俺らと同じで、香港では同級生でもあった女だ」
女――、その言葉に一瞬紫月の表情が強張る。
鐘崎は『違う、心配するな』というように、ゆっくりと首を左右に振りながら続けた。
「彼女とは親同士が懇意だったから、小さい頃から会う機会も多かったんだ。そんな中で親父達の雑談から、俺と美友が大きくなったら一緒にさせたいなんていう話が持ち上がってな。いわゆる許嫁ってやつだ」
許嫁――!
やはり氷川が言っていたことはまるっきりの嘘ではなかったというわけか。そう思いながらも、特には何も口にせずに紫月は鐘崎の話の続きを待った。
「だが、それは俺たちが中学に上がると同時にはっきりと解消になったんだ。元々、食事中の雑談から出た戯言のようなもんだったらしいし」
鐘崎の話によれば、子供達には子供達の人生がある、親が伴侶を決めるなど時代錯誤だということになって、許嫁の話はキッパリと打ち切られたとのことだった。
その美友が連休を利用して来日するというので、親の顔も立てて接待がてら彼女に会いに行ったというわけだ。
先刻、氷川から聞かされた許嫁の話が脳裏に蘇る。きっと氷川は親の会社の社員あたりから、そんな話を聞き付けてきたわけなのだろう。それを得意満面に披露して見せたというところだろうか。
ということは、氷川が言っていたもうひとつの話題――鐘崎はマフィアの倅だというのも満更冗談ではないということか。鐘崎自身も『少し驚かせてしまうかも知れないが』と前置きしていたし、もしかしたら本当の話なのかも知れないと紫月は思った。
それを確信させるかのように鐘崎の話は続いた。
「前に少し話したことがあったと思うが、俺には育ての親がいる。いわゆる養父ってやつだ。美友ってのは、その育ての方の親が懇意にしている御仁の娘でな。無碍にもできねえってわけだったんだ」
鐘崎にとっては彼女の接待は致し方なかったというところなのか、苦笑気味の表情からはそんな内心が窺えるようだった。
とにかくは彼に許嫁という存在が今はいないということにホッと胸を撫で下ろす。鐘崎本人の口から聞けたことで、それはより一層の安堵感となって紫月を包み込んだ。
残るは、彼が本当にマフィアの一族であるのかどうかということだ。それが鐘崎の言う”育ての親”の方なのか、それとも実父がそうであるのか。とにかく今は鐘崎の告白を黙って聞くしかない。まるでそんな気持ちが伝わったかのように、
「なぁ紫月――俺の実の親父だが……」
鐘崎が切り出した言葉に胸が逸る。彼は一旦そこで言葉を止め、だがすぐにこう続けた。
「少し信じ難い話かも知れねえが、俺の親父の稼業はいわゆる”裏社会”と言われる世界と密接な繋がりがあるんだ。というよりは裏社会そのものといった方が正しい」
「裏……社会?」
「俺たちの間では”始末屋”という通称で呼ばれている裏稼業だ。財界や政界のお偉いさんをはじめ、時には闇社会で生きる人間から依頼を受けて、それを遂行するような仕事だ」
「……それって、もしかマフィア……とかからも依頼が来たりするのか?」
思わずそう訊いてしまった。鐘崎の説明を待とうとすれども、やはり酷く気に掛かっているのは正直なところだったのだろう、本能がそう言わせてしまったのだ。
鐘崎はそんな紫月の内心がすべて理解できているというように苦笑すると、
「氷川がそう言ったのか?」と訊いた。
「あ……いや、その……うん。お前が……マフィアの倅だとかって……。あ、けど、あの野郎の言うことだから、嘘ハッタリかも知れねえけど……さ」
しどろもどろになってしまい、まるで挙動不審をどうにかして繕おうとする紫月に、鐘崎は再び苦笑した。
「嘘じゃねえ。本当のことだ」
――――!
驚きに目を見張った紫月の頬に利き手を添えながら鐘崎は言った。
「俺の親父は香港マフィアの頭領と言われている人間だ。氷川は恐らく向こうの社交界あたりから情報を仕入れてきたってところだろう」
「……頭領……」
「ああ」
「……それって……実の親父さんが……ってこと? それとも――」
「育ての親の方だ。実の親父とは仕事で知り合ったらしい。俺が生まれる前からの付き合いだそうだ」
如何に氷川から聞かされていたとはいえ、こうして鐘崎本人の口から打ち明けられれば、やはり驚きは尋常でなかった。すぐには相槌のひとつも儘ならない。
まるで唖然としたように硬直してしまった紫月を見つめながら、鐘崎は続けた。
「いずれお前には話そうと思っていた。なかなか切り出せなかったが――」
「あ……うん。そう……なんだ」
「驚いたか?」
「……えっと、そりゃまあ……何ていうか、驚いたってより……話が凄過ぎて……ちょっとビビってる」
「そうか――」
鐘崎はそれで当然だというように瞳を細めながらも、
「マフィアの家で育った俺は……嫌いか?」
そう訊いた。
鐘崎の黒曜石のような瞳が僅か切なげに揺れている。
紫月は上手く言葉になりそうもない気持ちを自らの手で背押しするように答えた。
「嫌いなんて……! ンなの、有り得ねえよ――! お前が……何処で育とうが……そんなん……関係ねえし」
「紫月――」
「俺は……お前だから……お前だから……その、好……きなんだから」
「そっか――そうか、紫月――ありがとうな」
額と額をグリグリと音がする程こすり合わせながら、鐘崎は何度も何度も同じ言葉を口にした。それはまるで『ありがとう』という言葉の裏に『ごめんな』という気持ちが表裏一体となっているようにも受け取れるかのようだった。
実父と養父が裏社会に身を置いているという特殊な環境で育ったことで、敬遠されると危惧していたのだろう気持ちが、痛いくらいに伝わってくる。紫月は自らも鐘崎の胸元に頭を預けながら、すっぽりとその腕の中に包まるように抱き付いた。
「んなの、礼なんて……言うな。そんなら俺だって同じ……。お前と出会う前は……散々好き勝手に遊んで歩いてた汚ねえ野郎なんだ。こんな俺を……その、好き……だなんて言ってもらって……礼を言うのは俺の方……」
ところどころ言いづらそうに言葉を千々にそんなことを口にする紫月を、鐘崎は愛しそうに両の腕で抱き締めた。強く、深く、その髪に頬に無数の口付けを落としながら抱き締めた。
「紫月――」
「……ん」
「本当は少し怖かったんだ。俺の素性を言ったら、お前に嫌われちまうんじゃねえかって……。そんなのはずるいやり方だって分かっていても、お前がもっともっと俺に情を抱いてくれるまで……もう少し先延ばしにしよう、俺から離れられなくなるくらい惚れさせてから話そう、それまでは黙っておこうなんて思ってもいた。情けねえ男だ、俺は」
声の感じだけで鐘崎の切なさがひしひしと伝わってくる。きつく抱き締めてくる腕も、僅かに震えを伴っているように感じられる。今までになく気弱な彼の一面を体感しながら、紫月はますます募る愛しい思いに双眸を震わせていた。
「な、鐘崎さ――。お前ん家がマフィアとか裏社会とか、確かにビックリはしたけどさ。でもこの家見ればそれも納得ってか――、ただの金持ちってだけじゃねえよなって思うじゃん?」
「――紫月?」
「ん、何つーか、この地下室とか立体映像の香港の街並みとか。それに源さんとか料理人の人たちとか……とにかく”すげえ”ってのを通り越してるっつかさ。マフィアの頭領って聞いて、ああなるほどなーとか思っちまった……ってこと」
時折照れ臭そうに微笑みながら、紫月は一生懸命といったふうに話す。いつもは無愛想の無表情が持ち前の彼にしては、笑顔も見せながら饒舌だ。そんな様からは、『俺は本当に気にしていない。お前がどんな境遇で育とうが誰であろうが、好きだという気持ちは揺るがない』というのを賢明に伝えようとしているのがよくよく分かるようである。鐘崎はそんな紫月が愛しくてたまらなかった。
「この家、お前は気に入ってくれたか?」思わずそう問う。
「気に入ったっつか……俺ん家とは世界が違い過ぎてビビるくらいだけどさ。でも……うん、好きだよ、ここ。この立体映像も……いつか本物を見てみてえなって思うし」
「ああ、本物なんていつだってお前が望めば見せてやる。実際はもっと綺麗だぜ」
「ん、夜景とか凄そうだよな。てかさ、この家ってやっぱりマフィアの方の親父さんの別荘とかなのか?」
「いや、実の親父の持ち物だ。育ての親もこの日本に別邸はあるんだが、都内だしな」
「そうなんだ。しっかしマジ見事っつか……今は夜景になってるけど、この前夕方に来た時はちゃんと夕陽が沈んでたし。昼とか夜とかまで映してるなんてすげえとしか言いようがねえよな。まさか……雨とか雪も降ったり……する?」
案外真面目な様子で瞳をクリクリと輝かせながらそんなことを訊いた紫月が可愛らしく思えてか、鐘崎の口元には自然に笑みが浮かぶ。思わずフッと口角が上がってしまうようで、微笑ましい気持ちでいっぱいになっていた。
「一応雨風も表現できるようにはなってるぜ。けどまあ、香港は暖っけえからな。滅多なことじゃ雪は降らねえな」
「そうなのか? へえ、ふぅん……。冬でも暖っけえなら、いいよな」
腰掛けていたベッドを離れて、映像の夜景をマジマジと見下ろしながら、紫月が身を乗り出している。こうしていると、本当に香港の自宅に紫月と二人、肩を並べて窓からの景色を眺めているような心持ちになる。
「俺も行ってみてえなぁ、香港」
まるで無意識にこぼれたような言葉も、鐘崎にとっては愛しく嬉しいものだった。
「俺が連れてってやるさ。お前に、俺の育った香港の街を案内するぜ」
「ん、いつか行ってみたい。連れてって……くれよな」
クスっと笑みながら、照れ臭いのかモジモジと視線を泳がせながら言う紫月を、鐘崎は再び強く抱き締めた。