番格恋事情
自分も冰もまだ子供である。いくら不良で名を馳せ、番格だの頭だのと持て囃されているとはいえ、企業がらみの大人の社会を目の前にすれば、吹けば飛ぶような無力さである。何の手立ても思い付かず、何の実行力も持ち得ない子供そのものなのだ。
いくら同情しようが、一緒になって腹を立てようが、現実問題としてこの冰の力になれることなど皆無であることに変わりはない。
だとすれば、彼にしてやれることは彼が望むそのひとつのみであろうか――。
氷川は自らの無力さに唇を噛み締める思いで立ち上がると、まるで無感情のようにポツリと言った。
「分かった――」
「……え?」
「お前の頼み、聞いてやるぜ」
氷川は冰を見下ろしながら手を差し出した。
「……えっと、あの……」
「ヤるんだろ? ベッドルーム、何処だよ」
「……え、あの……アンタ……」
「抱いてくれって言ったろうが――」
氷川に強く手を握られて、冰は驚きに瞳を見開いた。
「……いいのか?」
「ああ――。いいから言ってる」
「そう……」
冰は切なげに瞳をゆるめると、氷川に手を取られるままにベッドルームへと案内した。
◇ ◇ ◇
「――すっげ、バカでけえベッド……」
ベッドルームに入るとすぐに、氷川が驚いたように目を剥いていた。
「キングサイズが二台分はありそうじゃねえか……。粟津の奴、ここは自分専用の部屋だとかって言ってたが、マジお坊ちゃんなんだな。どうせヤツの自宅ってのも、ここと似たり寄ったりなんだろうが……それにしてもいくらダチの頼みだからって、俺とお前を引き合わせる為にこんな豪華な部屋をポンと提供するとか……てめえら、一体どういう付き合いしてんだよ……」
半ば呆れ気味で、氷川は肩をすくめてみせた。
「てかよ……粟津の野郎はお前の現状を知ってんのか?」
冰が帝斗にどこまでをどう話しているのかが気になって、氷川はそう訊いた。
「ああ、ザッとだが話してある。帝斗には言うつもりはなかったんだが、財閥同士のこういう話ってのは噂が耳に入るのも早くてな。俺が言う前に既に知ってたよ」
まあ、そうだろうなとは想像が付く。粟津家は大財閥だ。そういった話はすぐにでも行き渡ってしまうのだろう。
「帝斗の奴ったら、俺ん家の苦境を知って、それだったら自分の親父さんに助力を頼んでみるとか言い出してよ……。まあ、ヤツがこのことを知れば、十中八九そう言うと思ってたけど……。けど俺は嫌だったんだ。いくら困ってるとはいえ、親友の家に迷惑掛けるなんざしたくねえし」
それは分からないでもない。
粟津家にとってみれば、冰の家に助け船を出すなど、いとも簡単なことだろうと思える。だが、冰の側にしてみれば、そんなことに親友を巻き込みたくはないというところなのだろう。
そんな冰の気持ちを聞いて、粟津帝斗とこの冰とは、それなりにわきまえたいい付き合いをしているのだろうことが窺えた。
「これは俺の家の問題だ。帝斗に頼らずに俺自身で解決しなきゃならない。その手段が愛人になることしかねえってんなら、それも致し方ない。けど……その前に一度でいい、後で振り返った時にあったけえ思い出を作りたい。男に抱かれるなんて……今まで想像もしてなかったことをしなきゃなんねえなら、せめて……初めての時くらいはてめえでいいと思ったヤツとできたらいい、そう思ってアンタに会えないかって帝斗に相談したんだ」
冰の考えや意思の固さ、筋を通したい気持ちは氷川にも理解できる気がしていた。
だが、ひとつだけ、その相手が何故自分なのかということだけは、いくら説明されても合点がいくようないかないような、曖昧さなのだ。氷川は思い切って、そのモヤモヤとした気持ちを冰にぶつけてみることにした。
「てめえの考えは粗方分かった。けど、何でその相手が俺なんだ? てめえがさっき言った、”俺が野郎同士でも寝られるだろうから”ってのが一番大きな理由なんだろうけどよ……。けど、そんなヤツだったら――例えばゲイバーにでも行けば、他にいくらでも好みの男を見つけられるだろうが。それとも俺が不良で自由奔放にやってそうだから、頼めば簡単に乗ってくるだろうとか……そんなところか?」
その問いに、冰は驚いたようにして千切れんばかりに首を左右に振った。
「違う! それは……違う……。アンタがそんなふうな軽いヤツだなんて思っちゃいねえよ。ただ……」
「ただ――何だよ」
「さっきも言ったけど……アンタは俺に無いものを持ってる。確かに自由奔放で堂々としてて、自分の思った通りに嫌なことは嫌だってはっきり言えそうなところが羨ましいってのもあるけど……それだけじゃない……。ゲイバーとかで一時の相手をしてくれるヤツを探すってのも考えた。でもそれじゃ愛人になるのと変わらねえよ。俺は……もっと、何ていうか……その……」
言いづらそうに口籠もりながらも、薄らと頬を染めて視線をそらす。そんな様子に氷川は片眉を吊り上げながらも、クスッと苦笑を漏らしてみせた。
「つまりは何だ。てめえ、俺に惚れちまったってわけ?」
おどけて見せるも、その実、氷川も内心ではバクバクと心拍数が上がってしまいそうなのを必死で抑えていた。
この冰の態度からして、好意が全く無いというわけではないのだろうことが嬉しくもあり、だが、案外ぬか喜びだったとしたら、残念に思えてしまうだろうことが本能で分かるからである。
どうせならはっきりと告白でもしてくれれば分かりやすいものを――などと思いつつも、心躍るこの感覚は、この冰から僅かでも好意を抱いてもらえているのだろうことが嬉しいという気持ちの表れである。
正直なところ、遊びで付き合った相手は数多かれど、こんな気持ちになったのは初めてで、氷川は戸惑ってもいたのだった。――が、その直後の冰の返答で、その甘やかな考えは吹っ飛ばされてしまった。
「惚れたとか……そういうんじゃない……。アンタには惹かれるもんがあるのは否定しねえけど、好きとかそういうのとは違う。何て説明したらいいのか……上手く言えねえけど……」
氷川は鳩が豆鉄砲を食らったような表情で固まってしまった。
やはりぬか喜びだったわけか――一瞬でも、もしかしたら好意を持ってもらえているのかなどと思ったことが恨めしくもあり、恥ずかしくもある。
どう反応してよいやら、しばしは唖然としたまま動けずにいた。
「は……はは。ま、まあ……惚れた何のってのは冗談だっつの! ま、てめえが何でこんなことを俺に頼みてえのか――その理由は訊かねえことにしとくよ。それよか、ヤるんならサッサとおっ始めようぜ」
若干引きつる表情を、わざとおどけることで隠しつつも、氷川は目一杯の道化を気取りながらそう言って笑った。
そしてジャケットを脱いでベッドの対面に設えられたソファの上へと放る。
「てめえも早く脱げって」
落ち込む気分を盛り上げんとばかりに明るさを装って笑う。
冰はそんな氷川の様子を横目にしながら、切なげに瞳をしかめてみせた。そしてひと言、独白のようにポツリと呟かれた言葉が、氷川の道化を瞬時に突き崩してしまった。そう、跡形もないほどに衝撃的な言葉で――。
「アンタに……惚れるわけにはいかねんだ……」
「――あ?」
「だってよ……俺、これから知らねえオヤジの愛人になるんだぜ? なのに……本気で惚れちまったりしたら……辛えじゃん……」
表情には微笑みを浮かべつつも、哀しげに伏し目がちの瞼を揺らしてそんなことを口走った。
ドクン――と、大きく心臓が跳ねては、もぎ取られるようだった。
表現しようのない切なさを笑みに代えてそんなことを口走った冰を、氷川は無意識の内に懐へと抱き包んでいた。
「バカか、てめえは……!」
「……ん、ごめん」
「なあ、おい――聞けよ」
「――ん?」
冰は抱き包まれた腕を振り払おうともせずに、素直に氷川の懐の中で顔を埋めたまま、相槌を返すだけだ。その様は、まるでこれが自由でいられる最後の瞬間とでもいうように儚げだった。
「冰――っつったっけ、お前?」
「ああ……」
「聞けよ、冰――! 俺は……てめえの恋人を……どこの誰とも知らねえエロオヤジに差し出してやるほど腑抜けじゃねえつもりだぜ」
「――え?」
「惚れろよ、俺に――」
「――!?」
「なろうぜ、本当の恋人に……! マジで俺らが付き合っちまえば、お前は正真正銘俺のもんってことになる。事情がどうあれ、誰がてめえの大事なヤツを愛人になんかさせるかよ――!」
「……あの、アンタ……でも……」
「でももクソもあるか!」
かなり大胆なことを言ってしまった手前か、瞬時に熱を持ちそうな頬の色を隠そうと、氷川は慌てたように話をはぐらかした。そして、目の前の色白の頬に手を伸ばし、顎先を掴んで顔を近付け――クイと斜めに首を傾げながら唇を重ねようとしたその瞬間だった。
「――ッ!」
思わず胸板を押し返されて、氷川は動きを止めた。
見れば瞳をギュッと瞑ったまま、小刻みに肩を震わせ顔を赤らめている彼の表情があって、首を傾げさせられる。
「――どしたよ。やっぱ俺じゃお前の相手にゃふさわしくねえか?」
押し返された距離を縮めることもできないままで、氷川はそう訊いた。
「違……ッ! ンなことねえ! ふさわしくねえとか、嫌とか……そういうんじゃねんだ……! ただ……」
「ただ――何だよ?」
「いや、その……俺……ただ、こ……ゆの、慣れてなくてだな……その……」
「……?」
「……ごめん。今はちょっと緊張しちまって……すまない。今度はちゃんとすっから……!」
懸命といったふうにそう訴えてくる様子に、氷川は半ば唖然としながらも片眉をしかめさせられてしまった。
「もしかして――てめ、キスも初めてってか?」
まるで初な中学生のような反応をする様子に苦笑しながらそう問う。すると、目の前の冰はこちらが驚くくらいに真っ赤に頬を染めて、恥ずかしそうにソッポを向きながらこう言った。
「わ……悪りィかよ……!」
横向きに反らした頬が熟れて落ちそうなくらい朱に染まっている。モジモジと頼りなさげに肩を震わせ、艶のある黒髪までをもフルフルと揺らしている。
そんな様子に氷川は今一度片眉を吊り上げながら、
「お前……そんなんでホントにできるのかよ……」
大きな溜め息まじりで訊きつつも、次の瞬間には先程ソファへと放り投げた上着を手に取ると、
「行くぞ――」そう言って、『付いてこい』というようにクイと顎先を振ってみせた。
驚いたのは冰だ。
「……行くって……何処へ……?」
「デート!」
「デ……ート……?」
「そ! デートだ。先ずはデート! お前、その色情オヤジの愛人にされるのって、今日明日ってわけじゃねんだろ?」
「え!? あ、ああ……。その人は……今月いっぱいは海外の支社に出張だとかで……来月初めに帰国したらすぐにもって言われてる」
「ふぅん? だったらあと半月もあるじゃねえの。そんだけありゃ十分だ」
若干楽しそうに鼻を鳴らす氷川を不思議そうに見上げながらも、冰は首を傾げていた。
「十分って……何が……だよ?」
「俺らが知り合う為の時間が!」
「……知り合う為の……時間……?」
「考えてみりゃ、お互いのことよく知らねえまんまで、いきなりヤるってのも味気ねえわな。それに――てめえはキスも初めての晩熟野郎みてえだし」
「晩熟……って!」
「初めてのキスくれえ……その、何だ。いい思い出のあるもんにしてやりてえってだけだよ」
照れを隠さんと、わざとニヒルに笑いながらもサラリと飛び出した気障な台詞に、冰は滅法驚かされてしまった。一見、自由奔放で強引そうなこの氷川から、こんな繊細な心遣いのこもった提案を聞かされるとは思いも寄らなかったのだ。
「どうせなら、お互いどういうヤツなのかってのを知って――ちったー好きとか嫌いとか、そういう気持ちを持ててから決めりゃいいだろが。寝る寝ないはそれからでも遅くねえ」
僅かにはみかみつつも、口角を上げてニッと微笑んでくる。その整った男らしい笑顔は、冰の心を一瞬で鷲掴みにしてしまったかのようだった。
「ほれ! ボサッとしてねえで――行くぜ!」
真っ白く綺麗に整った歯列を輝かせながら爽やかに笑う顔、差し出された大きな掌――高鳴る心拍数を抑えるように、冰は差し伸べられた氷川の手に自分の手を預けたのだった。
◇ ◇ ◇
「坊ちゃま方、お出掛けでございますか?」
部屋を出てペントハウスの廊下を歩き、粟津帝斗と一緒に乗ってきたエレベーターホールまで来ると、その脇に設えてあったベルデスクのような小部屋から先程の運転手が顔を出してそう訊いてきた。
「え、ああ、はい――」
氷川がそう答える脇では、冰が恥ずかしそうに氷川の大きな背に隠れるようにして頬を染めていた。未だ繋いだままだった手が恥ずかしかったのだろう、氷川はすぐにそれに気付くと、彼を自らの身体で庇うように隠しながらそっと手を放し、ニッコリと爽やかに応答してみせたのだった。
「すみません、ちょっと出掛けて来ます」
「お二人ご一緒にお出になられるのですか?」
運転手は氷川だけが帰るのを冰が見送りに付いて来たのかも知れないと思ったわけか、そう訊いてきたのだ。氷川は『そうです』と言って頷いた。
「では、只今お車を回します。お出掛けになられる際には付き添うようにと、帝斗坊ちゃまから言付かっておりますので」運転手はにこやかにお辞儀をしながらそう言った。
◇ ◇ ◇