番格恋事情
「それで――どちらへ参りましょう」
運転手がそう訊いてくるので、氷川は後部座席で冰と肩を並べながら丁寧な調子で答えた。
「特に行く当てがあるというわけではないんですが……海を見たいと思っているんです」
氷川にしては珍しくも敬語である。傍では冰が少々驚いたようにして、そんな彼の横顔を見つめていた。
「海――でございますか?」
「ええ。とりあえず湘南方面へ向かっていただいてもいいですか? 海岸を散歩できそうな所があればいいと思っているので、現地に行ってから探せればと思います。お手数お掛けしてすみません」
「どこの海岸でもよろしいのでしょうか?」
「ええ」
運転手は少しの沈黙の後、すぐににっこりと微笑みながら一つの具体策を提案してよこした。
「それでは葉山は如何でしょう? 葉山には粟津家の別荘がございまして、プライベートビーチも眼下にございます。お散歩なされるには人目にも付きませんし、ごゆっくりしていただけるかと存じます」
プライベートビーチ付きの別荘とは、これまたさすがの大財閥である。まだ夏前なので別荘には管理人がいるだけで大したもてなしもできないのですが――と、恐縮しつつも運転手がそう説明してよこすので、氷川は素直に厚意に甘えることにした。
「何から何まで世話になってしまって――申し訳ないです!」
ぺこりと頭を下げる氷川の様子をバックミラー越しにチラ見しながら、運転手はにっこりと微笑んだ。
「では葉山へ向かわせていただきます。お昼食は――別荘でご用意して差し上げられないのが恐縮なのですが、近くに帝斗坊ちゃまがご贔屓にしておられる美味しいお店がいくつかございますので。現地に着いてからご案内致しましょう」
こうして一路、葉山へと向かうこととなった。
幸い、天気も上々である。朝方は少し雲が多かったものの、次第に晴れ間も広がってきて、海辺でのデートには打って付けであった。
途中、目立った渋滞もなく、割合スムーズに車は流れ、現地に着く頃には午後の二時になろうという頃合いだった。ちょうど昼食時の混雑も解消した時間帯で、これならばどこのレストランに入ってもゆったりと過ごすことができそうなのも好都合だった。
運転手はいつも帝斗が贔屓にしているという店を三軒ほどピックアップすると、後部座席の氷川らに何処がいいかと訊いてきた。彼の説明によると、シーフードのパスタがメインで若いカップルなどに人気の店、もしくはちょっと渋い嗜好だが純和風で鰻が評判の店、もうひとつは洋風のア・ラカルトとケーキなどのスイーツが人気の店があるらしい。そのいずれも別荘から左程遠くもなく隣接しているということだ。氷川はしばし顎先に手をやりながら考える仕草をすると、隣の席の冰に「お前は何が食いたい?」と好みを尋ねた。
「俺は別に何でも。アンタが食いたいのでいいよ」
どうやら冰に好き嫌いもなさそうなので、氷川は少し身を乗り出しながら、今度は運転手に向かって同じ質問を投げ掛けた。
「運転手さんはどのお店がいいっすか? パスタやケーキってよりは……やっぱり鰻とかがいいですかね?」
運転手は見た目からして自らの父親よりもかなりの年配と感じたのでそう尋ねたのだ。その問いに、運転手の方は驚いたようにしてバックミラーに視線を向けた。
「あの……もしかして私もご一緒して構わないということでしょうか? ですが……あの……」
まさか自分が氷川と冰の昼食の席に呼ばれるなどとは思ってもいなかったのだろう、ほとほとびっくりしたというようにして、パチパチと瞬きを繰り返す驚きようだ。
そんな彼の様子の方が不思議だといった調子で、氷川はポカンと首を傾げつつも、
「あ、その……何か用事でもあるんでしたらアレですけど……。もしご迷惑でなかったら、昼飯一緒に食いませんか?」はみかみながらそう言って頭を掻いてみせた。
「……いえ、別に用事があるわけではございません。ですが本当によろしいのでしょうか、私などがご一緒させていただいても……」
「勿論っすよ! 俺ら、今もこうやって散々厄介になって……せめてメシくらいご一緒させてください!」
くっきりとした大きな瞳を見開きながら、大真面目な調子でそう言って頭を下げる氷川をミラー越しに見つめながら、運転手の男は感慨深げに瞳を細めて頷いた。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」
そうして一同は鰻が評判の店で昼食を共にすることになったのだった。
◇ ◇ ◇
店は海沿いから少し山道に差し掛かった閑静な場所に位置していて、純和風の落ち着いた雰囲気の佇まいだった。植樹された竹林の庭は見事で、母屋とは『離れ』のようにして点在する棟が全て個室仕様になっているとのことだ。
粟津家の運転手である彼は、店とも顔なじみであったから、他の客と顔を合わせずに寛ぐことができる離れの部屋に通してもらうことができた。
こじんまりとしているものの、磨き抜かれた板の間の廊下といい、見事な掘りの欄間といい、まるで小京都のような趣きである。部屋に入れば、床の間に飾られたお軸と茶花に、思わず背筋がピンとするような心持ちにさせられた。
「さすが――粟津のヤツがお薦めの店ってだけあって、すげえ雰囲気あるのな」
氷川が無意識に漏らしたそんな言葉にも、運転手の男は微笑ましげに瞳を細めていた。
そして、すぐに飲み物と共にお通しが運ばれてきて、三人は一先ず乾杯を酌み交わした。と言っても、氷川らは未成年であるし、運転手も無論のこと飲酒はできないので、清涼飲料での乾杯である。時期的なこともあって、甘茶をベースに更に甘味を加えた店独自の飲み物とのことだった。
メインの昼食には皆で同じ鰻重を頼んだ。この店は直に鰻を裁いてから炭火で焼いてくれるとのことで、少々雑談をしながら待つこととなった。
「あの、運転手さん――っていうのもナンですよね。お名前を窺ってもいいッスか?」
突き出しの鰻の骨の唐揚げを摘まみながら、氷川がそう尋ねた。
「は、これは失礼を致しました。私は佐竹と申します」
「佐竹さんですか。自分は氷川といいます。氷川白夜です。こちらは雪吹冰君ですが……って、もう既にご存じの間柄――なんスよね?」
冰と帝斗は親しいのだろうから、この佐竹という運転手にも馴染みがあるのかと思いつつ、氷川は照れ笑いをしてみせた。
「ええ、雪吹のお坊ちゃまとは幾度もお目に掛かっておりますので存じ上げております」
そう言った佐竹の言葉に、
「はい、いつもお世話になっております」冰もコクリと頷いてみせた。
それからほどなくして仲居が現れたと思ったら、見事な刺身の舟盛りが運ばれてきて驚かされた。何故なら先程オーダーしたものの中には舟盛りなど含まれていなかったからだ。
「こちらは店主からの差し入れでございます。この辺りは新鮮な魚介類が捕れますので、よろしければ是非お召し上がりいただきたいと存じます」
おそらくは粟津家が日頃贔屓にしている関係で、店側が気を遣ってくれたのだろう。氷川も冰も丁寧に礼を述べると、厚意に甘えることにしたのだった。
その後、お待ちかねの鰻重が運ばれてきて、二人は運転手の佐竹と共に舌鼓しつつ昼食を楽しんだ。
「何だか色々とお気遣いいただいてしまってすみません。本当に旨かったです!」
食後の水菓子を目の前にしながら、氷川がぺこりと頭を下げる。そんな様子に佐竹がまた瞳を細めながら言った。
「それにしても……氷川の坊ちゃまは本当にお噂通りの素敵な御方でございますね。真田様がご自慢なされるのも納得です」
その言葉に、氷川は水菓子を口に含みながら、驚いたようにして佐竹を見上げた。
「真田をご存じなんですか?」
「ええ。パーティーの際などに、いつも運転手や付き人たちの控え室でお顔を合わせておりましてね。色々と世間話などをさせていただいておるのですよ」
「そうでしたか」
真田というのは、氷川の家の執事の男のことだ。仕事で忙しく留守がちの両親に代わって、氷川家の一切を取り仕切っていて、氷川にとっては親代わり、もしくは祖父のような存在でもある。氷川が生まれる前から執事として勤めてくれていて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているのだ。
その真田と粟津家の運転手であるこの佐竹が顔見知りだとは思わなかったが、どうやらよく見知った仲らしい。
「坊ちゃまのことは真田様がいつも褒めておいでですよ。とてもご自慢の若き主なのだと」
佐竹の言葉に、氷川は苦虫を潰したように片眉をひそめながら、危うく口にした水菓子を喉に詰まらせそうになってしまった。
「……ッ、自慢って……俺が……ですか?」
「ええ。それはそれはお優しい心根をお持ちのお坊ちゃまだと、顔を合わせる度に褒めておいでです」
「……いや、そりゃ……”優しい”じゃなくて、”厄介”な――の間違いじゃないッスかね?」
謙遜したわけではなく、本心からそんなことを口走った氷川の様子が手に取るように分かったわけか、佐竹は微笑ましげに再び瞳を細めてこう言った。
「はは――確かに坊ちゃまは高校ではご学友に一目置かれる程のやんちゃぶり――」と、ここまで言い掛けて、照れ笑いを交えながら先を続けた。
「ああ、失礼致しました。やんちゃというのは語弊がありましたな。たいへんお元気なところも多いそうでございますが、でも本当はとてもお優しいお心の持ち主とご自慢でございますよ」
「――俺が……ですか? そりゃ、あれだな。他所様の前だからきっと真田も気を遣ってそんなことを言ってるだけでしょう。第一、俺は今も停学を食らっているような身ですし、褒められたところなんざ、これっぽっちもありゃしません」
何とも表現しようのない困ったような照れたような表情で、頭を掻きつつそう言う氷川を、冰は黙ったまま密か横目に見つめていた。だが、佐竹がその後に続けた話を聞く内に、その瞳はみるみると驚いたように見開かれていった。
「それは確かに――そういったお元気なところもあると真田様も申されておりますよ。こんなことを暴露していいのか分かりませんが、坊ちゃまはお言葉も決して丁寧とは言い難いし、目に見えていつも優しい笑顔を振り撒くようなタイプの御方でもない――。ですが、根底にあるものはとてもあたたかくて、たいへん人情に厚い御方なのだと」
氷川にしてみれば、またもやむせかえるような褒め言葉である。それこそどう反応してよいやら――というよりも自分のどこをどう見て真田がそんなことを思っているのか、全くもって分からないという心持ちでいた。
どうせ、対面を考えて、外ではそうして褒めてくれているのだろう。氷川家に対して忠実な真田には感謝すれども、何とも反応に困る話題である。
ところが、佐竹の方は存外大真面目なようで、氷川にとっては益々反応に困るようなエピソードを披露し出した。
「まだ坊ちゃまが今よりもお小さい頃のことだったそうでございます。何でも氷川家のご一家様と避暑地の別荘にお出掛けになられた時だとか。皆様でピクニックと称してご散策に出られた時に、真田様がお足をくじいてしまわれたのだそうです。その時、坊ちゃまが真田様をおぶって別荘まで連れ帰ってくださったのだそうで――坊ちゃまは覚えていらっしゃいますですしょうか?」
「――俺が真田をおぶって?」
氷川はまるで心当たりがないといったふうに少しばかり難しい顔をして考え込んでいたが、
「ああ……! 思い出した。そういや、そんなこともあったな」
「ほほ! やはり坊ちゃまは真田様のおっしゃる通りの御方なのですね」
「え?」
「普通は他人を手助けしたり、良い行いをして差し上げたりしたことは、してもらった方よりもよく覚えているものでございます。ですが、坊ちゃまは今、わたしが申し上げるまですっかり忘れていらっしゃった」
「はぁ……まあ、俺は記憶力が悪いっつーか、あんまし頭がいいって方でもないんで……」
苦笑気味で氷川はタジタジと照れ笑いをしてみせたが、佐竹にはそんな氷川の率直なところが、まこと真田から聞き及んだ通りだと感嘆したようである。
「真田様はおっしゃっておられました。きっと坊ちゃまはその時のことなどお忘れでいらっしゃると思うと。ですが、真田様には一生涯忘れることのない、とても大きくてあたたかい坊ちゃまのお背中だったとおっしゃっておられました」
ふと、窓の外の竹林に視線をやりながら、佐竹は真田から聞いた時のことを思い出すように話を続けた。
「そう――真田様はこのようにおっしゃっておられました」
――せっかくご一家でお楽しみのピクニックに水を差すような事態になってしまい、申し訳ないことでした。私は大丈夫でございますから、どうかご散策をお続けになって欲しいと申したのですが、その時に坊ちゃまがおっしゃいました。
『ごちゃごちゃ言ってねえで、早く俺の背中におぶされ! しっかり掴んで離すんじゃねえぞ!』
言葉こそ荒いものの、坊ちゃまの表情から真のあたたかさを感じました。
その後、結構な長い道のり――、しかも山坂の起伏のある中、坊ちゃまは最後まで弱音一つ吐かずにずっと私をおぶってくださいました。ようやくと別荘に着いて背から下ろしていただいた時、坊ちゃまは汗だくでございました。季節は夏、照りつける太陽の下、真っ赤に頬を染めて、それでもご自分の汗を拭うより先に私を気遣ってくださって、『冷やして手当てするから早く足を出せ』とおっしゃり、甲斐甲斐しくお手当をしてくださった。
私は有り難くて嬉しくて、思わずこぼれそうになった涙を坊ちゃまに見られないようにするのに苦労致しました――
「真田様は本当に嬉しかったのでございましょうな。氷川のお家に仕えて良かった、これからも命ある限り、この若き主に仕えていこうと固く心に誓ったのだそうでございますよ。そんなお話を真田様からうかがっていたものですから、今日実際にこうして坊ちゃまとお話しさせていただくことが出来て、ああなるほど――真田様がご自慢に思われる理由がよく分かったのでございます」
「……はぁ」
普段は険しいと恐れられることの多い瞳をパチクリとさせながら、氷川は困ったように視線を泳がせていた。
「そうそう、それに坊ちゃまは普段からお邸にお仕えする方たちをよくよくお心に掛けてくださるのだともおっしゃっておいででしたよ!」
「はあ――?」
まだあるのかと思いつつ、氷川は正直なところ自分が使用人たちを気遣った覚えなど皆無といった調子で、若干唖然としながら佐竹を見つめてしまった。
「坊ちゃまのお邸でお食事のお支度をなされていらっしゃる女性の方が、お夕飯の食材をお買いに出られた時のことだそうですよ。ちょうど坊ちゃまの下校時に出くわされたとのことで、その際に買われたお品物を坊ちゃまがお邸まで持って帰ってくださったんだそうでございます。普通は主が使用人の荷物を持ってやるなど、全く逆なのでございますが、坊ちゃまは進んで俺が持ってやるからよこせとおっしゃったそうで。調理場の女性の方はとても感激したそうです」
さすがにそのことは氷川もよく覚えていた。というのも、一度や二度のことではないからだ。邸の調理場の者が、駅前の大型スーパーで買い物をするのは日常のことなのだが、その時間帯がちょうど下校時と重なるわけだ。まあ、毎度というわけではないが、見掛けた際には買ったものを持って帰ってやるのは事実である。氷川は苦笑しつつも照れ臭そうに言った。
「うちの調理場を仕切ってる者はもういい歳なんですよ。俺のばあさんよりも年上っていうくらいでして。買い出しには車で行ってくれっていつも言ってるんですが、健康の為だとか駐車場が混むとかいろいろ言いましてね。こっちの言うことなんか聞きやしないんです」
彼女も執事の真田と同じく、氷川が生まれる前から長く仕えてくれている者だ。仕事で忙しい両親に代わって、幼い頃からよくよく面倒を見てくれた、まさに祖母のような存在だ。氷川にとっては家族も同然なのである。
だが、佐竹が感心したのは、氷川のように年若く一番格好をつけたい年頃であろうにも係わらず、恥ずかしがらずにスーパーの袋を持ってやり、しかも並んで一緒に帰るという――そんなところだったようだ。
氷川にしてみれば、突如予想もしていなかった褒められぶりにタジタジである。照れ臭そうにしながらも、困ったようにはにかむしかできないでいる。そんなところにも、佐竹は酷く感銘を受けると共に、好感を覚えたようだった。
◇ ◇ ◇