番格恋事情
こうして昼食を終えた氷川と冰は、佐竹に連れられて粟津家の別荘へと向かった。
目の前にはプライベートビーチが広がる好立地で、建物はといえば言うまでもない。バリ島やプーケット島といった高級リゾート地の豪華なコテージのような造りの離れを持ち、母屋である本館は、まるで五つ星のホテルさながらだった。
佐竹は別荘で管理人と一緒に待つというので、氷川は冰と共にビーチを散策することにした。
特にこれといってデートのプランも考えてはいなかったが、広大な海に午後の日差しがキラキラと反射しているこの絶景を、一緒に眺めるだけでもムードは満点である。
氷川よりも半歩遅れる感じで後を付いて歩きながら冰がポツリと呟いた。
「なあ――、アンタってさ……優しいのな」
え――?
氷川はキョトンとした調子で、自分より背丈も身幅も華奢な冰を振り返った。その表情が全く別のことを考えていたといった雰囲気丸出しで、そんな様子にも冰は思いきり瞳を細めてしまう。
きっと、今現在のデートのことで頭がいっぱいで、つい先程佐竹から褒められたことなどすっかり忘れているのだろう。氷川の表情からはそんな様がよくよく窺えるようだった。
「さっきの佐竹さんの話――、アンタにそんな一面があったなんて――」
「ああ、あれには参ったぜ。何か、めちゃくちゃ大袈裟な話になってるしよ」
氷川はそう言って苦笑したが、冰にはそんな氷川にますます親近感が湧くような気がしてならなかった。
大概は、あれだけ褒められたならば、こうして二人きりになってからも多少なりと自慢げな雰囲気を醸し出していても良さそうなものなのに、氷川ときたらすっかり忘れたように普通そのものなのである。俺って案外いい奴だろう――などと威張るわけでもなければ、ひけらかすこともしない。それどころか、これからどんな会話でこのデートを盛り上げようか、ただ散歩するだけでは味気ないだろうし――くらいのことを考えていそうなのである。
別荘からここまで並んで歩いて来る間にも、さりげなく周囲の景色を見渡したりしながら、『見ろよ、波間が綺麗じゃねえか』とか、『プライベートビーチってだけあって、他人もいねえし正に絶好のデートスポットだな』などと話題を振ってくれたりしていた。少しでも二人で楽しめる何かを思案してくれているふうに思えるのだ。
そんな氷川に、冰はどんどん気持ちが傾いていきそうで、胸が高鳴る反面、これからのことを考えると切なくも思えて仕方なかった。
もうすぐ見知らぬ企業社長の愛人にならなければいけない自身の境遇が、重くのし掛かる――
氷川は『だったら、俺たち本当の恋人同士になろうぜ。そうすれば俺は自分の恋人を愛人にさせるなんてことはしねえ』と言ってくれた。とても力強く、有り難い言葉だった。
だが、本当に彼をこんなことに巻き込んでしまっていいのだろうか――と、迷う気持ちが沸々と湧き上がる。
事実、”愛人になる”という話が持ち上がるまでは、同性相手に恋愛をするということなど考えたことも無かった冰だ。叔父から初めてその話を聞かされた時に、脳裏に浮かんだのがこの氷川だったことは否定しない。新学期の番格対決で、隣校の男子生徒を相手に”ケツを掘らせろ”という淫猥な要求を出していたような氷川という男ならば、男性相手のそういったことにも慣れているのだろうと思ったことも事実である。
愛人の話を聞いた直後は酷く動揺もしていたし、見ず知らずの社長といかがわしい関係になるくらいなら、あの番格対決の時に出会った氷川という男とどうにかなってしまえたらと思ったことも本当だ。不良で名高い学園で頭を張っているような男なら、そのくらいの望みは叶えてくれるかも知れない――と、彼を軽く扱っていた自分に気付く。
無論、頭ではそんなことを思ってはおらずとも、心のどこかで氷川を軽視していた感があったことも認めざるを得ない事実であろう。
だが、先程佐竹から聞かされた氷川の意外な一面を目の当たりにした今、冰の中で、自分が如何に図々しい頼みを持ち掛けてしまったかと後悔の念が心を乱し始めていた。
申し訳なくて、自分が情けなくて、心の中がぐちゃぐちゃに揺れる。と同時に、こんなにも甘苦しい思いは、氷川に対して惹かれ始めている証拠でもあるのだろうか。
それを自覚できているのか、いないのか――、冰自身よく分からずに、とにかく胸を締め付ける様々な思いに押し潰されそうになっていた。
「どうしたよ? 疲れたか? それともどっか具合でも悪いのか?」
急にうつむき黙り込んでしまった冰の様子を窺うように、氷川が心配そうに覗き込んだ。
「ん――、何でもねえ。具合が悪いとかじゃねえから……」
「そうか? 無理しなくていいんだぞ?」
疲れたとか具合が悪いなら遠慮せずに正直に言えといわんばかりに、氷川がほとほと心配そうに眉をひそめている。冰はますます胸に甘い痛みが走りそうになるのを、必死で堪えていた。
「俺、アンタに……その……」
「――あ?」
氷川が小首を傾げて再び顔を覗き込む。その瞳が、心底こちらの様子を気遣っているふうに思えて、
「ん、あの……、氷川……君……。実は俺……」
冰は、何だか堪らなくなって彼の名を口にした。すると氷川はホッとしたように瞳を緩め、
「ンな他人行儀な呼び方よせって。――白夜でいい」
そう言って、大きな掌で頭をポンと撫でてよこした。
そんな仕草ひとつにも胸が締め付けられそうだ――
「……白……夜」
「ああ、俺の名前だ。これから恋人になろうかってんだからよ、お互い、名前呼びの方が親近感が湧くだろが!」
照れ臭そうにそう言ってはにかむ氷川を目の前にすれば、あふれる気持ちが止め処なくなりそうで、冰は思わず滲み出してしまいそうな涙を堪えるだけで必死だった。
ダメだ――! このままじゃ、どんどん彼に魅かれていってしまう――
そんな気持ちを押しとどめんと、冰は思い切ったように言った。
「ごめん、氷川君……いや、……白夜……! さっき俺がアンタに頼んだこと……なかったことにしてくれ――」
――!?
氷川は一瞬何を言われているのか分からないといった表情で、ポカンと口を開いたまま冰を見つめてしまった。
「……無かったことにって……それ、どういう……」意味だよ――、その問いを遮るように冰は思いの丈をぶちまけた。
「アンタ、いい人だ……。優しくて思いやりがあって……こんな、殆ど見ず知らずの俺の為に一生懸命になってくれて……。そんなアンタを巻き込んじゃいけねえって……思うから」
「巻き込むって……俺は別に」
「本当は……!」またも氷川の言葉を遮るように、冰は必死の形相で先を続けた。
「……本当は……怖いんだ、俺……」
「――冰?」
突然の訴えに、氷川は生真面目な表情で冰を覗き込んだ。
「ごめん、氷川君……。俺、叔父から愛人の話を聞かされた時に……無意識にアンタのことが頭に思い浮かんだんだ。番格対決の時に男相手にヤるだのヤらないだの言ってたアンタなら……もしかして俺を抱いてくれるんじゃねえかって。あんな……会ったことも見たこともねえクソオヤジに好きにされるくれえなら……その前にアンタとヤっちまいてえって思ったのも本当――」
まるで立て板に水のような早口で、必死にそう訴える冰の言葉を、氷川は黙って聞いていた。
「でも……でもさ……。本当は心のどっかで思ってたんだ。”あの”川崎桃陵で不良の頭を張ってるようなアンタなら、あいつを……あのエロオヤジをぶっとばしてくれるんじゃねえかって……。俺は自分でも知らない内に……アンタに助けてもらいたい、アンタに救い出して欲しいって――そう思ってたんだ。アンタのことよく知りもしないのに……勝手に頼みに思って巻き込もうとしてた。それに気付いたんだ」
要は”悪名高い”桃陵学園で番を張っているくらいだから、理不尽な目に遭っていると相談を持ち掛ければ、暴力をもってしてでも解決してくれる気がした――というような意味なのだろう。氷川には冰の言わんとしている心中が何となく理解できる気がしていた。
「……冰」
「けど、アンタめちゃめちゃいい奴で……! 今だってこんな俺の為に、一生懸命楽しいデートになるようにって気を遣ってくれてる……。さっきの佐竹さんの話からも分かるように、こんなに優しくてあったけえアンタに……俺は何て自分勝手なことを頼もうとしてたのかって思ったら……情けなくて堪んねえよ……。自分が嫌ンなる……アンタに申し訳なくて……」
堪え切れなくなった涙がボロリと頬を伝ったのを必死に隠さんとばかりに、冰はグイグイと乱暴な程にその涙を拭った。
そんな彼を目の前にしながら、氷川もまた神妙な思いを呑み込むかのように瞳をしかめていた。そしてひとたび大きく息を吸い込むと、午後の日差しがキラキラと反射している大海原に視線を逃がしながらポツリと呟いた。
「――俺は、お前が思ってるような”イイ奴”なんかじゃねえよ」
まるで感情の無く――といったように吐き出されたそのひと言に、冰はハッとしたように氷川を見上げた。
「俺はイイ奴なんかじゃない。さっき、佐竹さんが言ってたこともまるっきりの嘘ってわけじゃねえけど、あれはほんの一部分の話だ。佐竹さんやウチの真田が知らないところでは、褒められねえことしてるのも事実だ。学園の中でだって、不良同士の派閥争いでしょっちゅう揉め事が絶えねえし、近隣校の連中とは顔を合わせりゃ小競り合いの繰り返しだ。優しい奴でもなければ、イイ奴でもねえさ」
苦笑いというよりは、存外大真面目な様子でそんなことを口走った氷川に、冰の方は『そんなことはない』といったふうに、ブンブンと首を横に振って否定する。
「そ……んなことない。そりゃ……不良の頭って言われてるくらいなら、確かにそういう一面もあるんだとは思うけど……でも……アンタ、本当はすげえ……」
「優しくてイイ奴だってか?」
今度はしっかり苦笑しながら振り返った氷川の表情に、ドキリと胸が高鳴った。傾き出した午後の陽が逆光となって、はっきりとは分からないが、何だか酷く寂しげに思えてならなかったからだ。
冰は、まるでこのまま氷川がとてつもなく遠いところへ行ってしまうようで、得も言われぬ喪失感ともつかない思いに、身体が震え始めるような心地でいた。
それを確定するかのような氷川から飛び出した言葉――
「お前が”無かったことにしてくれ”って言うなら、それも悪くねえ。――お前を抱くって話も、俺らが恋人になるって話も白紙にしようぜ」
そのひと言に、目の前が真っ白になった。
◇ ◇ ◇
まるで閃光が走ったかのように、全てが真っ白の世界に包まれて、今どこでどうしているのかも分からなくなりそうだ。
自分から言い出したこととはいえ、こうもあっさり『白紙にしよう』などと言われれば、驚きを隠せないのも本当だった。上手い言葉など出てくるはずもなく、相槌など以ての外で、まるで幽体離脱でもしたかのように身動きできないでいる。
しばしの後、打ち寄せる波の音が耳元に戻ってきたと思った次の瞬間に、この氷川からもっと衝撃的なことを聞かされる羽目になるとは、この時の冰には想像すらできずにいた。
「よくよく考えてみりゃ、俺にはおめえの恋人になる資格なんてねえんだよ――」
苦笑しながらそう言う氷川に、冰は必死という勢いで首を左右に振ってみせた。
「資格がないなんて……そんなこと……! それをいうなら俺の方で……」
「お前さ、番格対決を見に来てたんなら知ってるだろ。俺のタイマン相手だった野郎のこと――」
「え……? えっと……ああ。四天学園の頭って言われてた人だろ……? 確か一之宮君……だったっけ?」
「ああ――。俺はその一之宮に……絶対に許されねえ、とんでもねえことをしたんだ」
「……とんでも……ないこと……って?」
「――犯っちまったってこと」
「ヤった……って……何を……?」
「俺はヤツを強姦した」
重く低い氷川のひと言に、今度は目の前が真っ暗になった。