番格恋事情
「ご……う……姦って……、アンタ……が?」
「ああ――。報復と銘打って、ヤツを繁華街のパブの跡地に呼び出して――集団でボコった挙げ句、裸にひん剥いて犯した。今回、停学を食らったのだって、その一之宮にまたちょっかい掛けようとしたからだ」
冰はまるで雷に打たれたかのように、反応は無論のこと、微動だにできずに呆然と突っ立っているしかできなかった。何かを言葉にしようとすれども全く儘ならない。例えば『どうして、何故?』のひと言さえも言い出せずじまいだ。
そんな様子を横目に、氷川は話を続けた。
「これが本当の俺だ。だからお前が俺を巻き込んで申し訳ねえなんて思う必要はこれっぽっちもねえんだって」
「……そんな……」
再びあふれ出した涙がボトボトと音を立てて砂浜へと吸い込まれていく。思い切ったように冰は言った。
「じゃあ……じゃあ、アンタは……あの一之宮って人のことが好き……なのか?」
うつむいたまま顔も上げられず、視線も合わせられないままそう訊いた。
「好き――か。どうかな。さっき粟津にも同じことを訊かれたが、正直好きとか嫌いとか、そういうのとは違うと思う。ヤツの通う四天学園とはずっと前から因縁関係だったから――単に四天で頭を張ってるヤツが目障りだったってのもあるし、いつか潰しちまいてえって、常日頃思ってたよ。ただ――」
ただ――? 何だというのだ。その先の言葉が待ち切れないといったふうに、冰はうつむいたままだった頭を上げると、必死の形相で氷川を見つめた。
「ただ――犯っちまいてえくらいに興味はあったってのも事実だ」
「…………!」
氷川のひと言は、あふれて止まらない涙が一瞬で乾ききってしまう程に衝撃的だった。
何も反応できずにいる冰の前で、氷川の重たい言葉が続く。
「さっきは――、お前に抱いてくれなんて言われて、すっかり舞い上がっちまって――調子に乗って恋人になろうなんて言ったけどな。本来、俺はそんなことを言えた立場じゃねえってことだ。だから恋人云々の話は忘れてくれ」
「……ッ、……そんな」
冰は未だうつむいたまま、顔さえ上げられずにいる。その肩は小刻みに震え、どれ程の衝撃が彼を包んでいるのかが一目瞭然だった。
「けど、それと愛人の話は別だ。お前を愛人にしたがってるっていう何処ぞの社長には俺が話をつける。例えどんな手を使ってでもお前を愛人になんかさせねえから――」
だから安心しろと言ったように意思のある瞳が海を見つめていた。氷川のその言葉に驚いたように、ようやくと視線を上げた冰が見たもの――それは、鋭く尖った鈍色の刃物のような男の眼差しだった。
遠く、海原に傾き出した夕陽の反射を受けて、キラキラと光る。まるで、細かく砕け散ったガラスの破片のようだ。酷く危なげであり、そして酷く儚げで寂しそうにも感じられた。
静と動が混在するかのように鋭く突き刺すような意思のある視線、それと同時に砕け散った無数の破片に突き刺される痛みを耐えんというばかりの寂しげな視線が交叉する。
これが番格と崇められる男の真の姿なのだろうか――徒党を組むことなく、仲間を頼ることもせず――ただ一人、孤独を背負いながら敵に挑み、挑まれ続ける野生の獣のようだ。
冰は初めて氷川という男の本質に触れたような気がしていた。
「じゃ、そろそろ行くか――。佐竹さんをあんまり待たせちゃ申し訳ねえしな」
今の今まであった孤高の視線がふっと緩んだと同時に、微かな笑みを口元に浮かべながらそう言った氷川に、冰は胸が潰れそうな程の切なさを感じていた。
「ほら、使えよ」
若干苦笑気味ながらも、穏やかな視線と共に差し出されたのは一枚の白いハンカチだった。
涙を拭えという意味だろう。真っ白でピシリと糊の効いた四角いそれを、無意識に伸ばした手が受け取った。
「それ、やるから遠慮なく使え。ンなツラしてっと、佐竹さんが心配する」
まるで掌で頭を撫でん仕草を穏やかな視線に代えてそう放たれた言葉が、冰の胸の痛みをますます強くしていくようだった。
昼に佐竹から聞いたやさしくて思いやりのある、理想的な男の行動の話は感動的だった。それとは真逆のような、残忍で身勝手な男の行動――それこそが本来の俺なのだと、当の本人から打ち明けられた話は衝撃だった。
本当はどちらが真実の彼なのだろう。
知りたいような、知るのが怖いような感覚だった。
もっと深く彼を知れば、自らも引き裂かれて、彼に抱いていたあたたかで優しい理想のイメージごと粉々に砕け散るかも知れない。
だが、このまま袖触れ合っただけで離れてしまうとすれば、思い切り後ろ髪を引かれてならない。
自分でもどうしたいのか、どうすべきなのか全く分からない程に、冰の胸は乱れに乱れていた。
◇ ◇ ◇
その後、佐竹の運転する車で粟津財閥の所有するホテルに戻ると、冰を部屋まで送り届けて氷川は自宅へと帰って行った。
残された冰は、もう宵闇が降り始めた部屋で一人きり、何を考えるともなし、何を感じるともなしといった具合でいた。ただただ呆然と、今日一日で起こったことが絵空事の夢のような心地でいた。
親友の帝斗に報告の電話を掛ける気にもなれず、大パノラマから見下ろす見事な夜景を楽しむ気にもなれず、頭の中が空になったように何も考えられない。まるで放心したかのように、ぽっかりと空いた大きな穴の中で無重力に漂う自分を、別の自分が呆然と見つめているだけのような状態であった。
ふと、視線の先に、皺くちゃになった白いハンカチを映し出して、冰はハッとしたように瞳を見開いた。
先程、氷川から渡されたハンカチだ。無意識にずっと握り締めてきたのだろうか、掌の中で形を失くしたようにぐちゃぐちゃなそれを目にした瞬間に、堰を切ったように涙があふれ出した。
そのまま再びそれを使って涙を拭いざま、開いたハンカチの端っこに刺繍された文字を見つけて、みるみると瞳を大きく見開いた。
― Ice 白 night ー
そこには家紋か何かだろうか、または社のロゴか、丸く象られたマークと一緒に、その文字が刺繍されていた。
Ice、つまりは氷という意味だろう。『白』だけが漢字で、続くnightは訳せば『夜』だ。
彼の名前を表すオリジナルの羅列なのだろうか。氷川白夜――その文字を思い浮かべた瞬間に、自覚できていなかった愛しさがあふれ出す。こぼれる涙が冰の頬を滝のように濡らして落ちた。