番格恋事情
次の日の午後のことだった。
本来であれば、創立記念日を挟んだ三連休だという冰を訪ねてデートの最中だったろうか――、氷川白夜はただ一人、送り迎えの車も付けずに、とある場所へと向かっていた。
時刻は正午を回った時分、遠目から長身の二人の男たちが肩を並べて近付いてくるのを、緊張の面持ちで待っていた。
二人組の男たちは学ラン姿である。土曜日だから、午前中の授業を終えての帰り道というところだろう。彼らは氷川に気付くと、驚いたようにして途端に険しい表情を浮かべて立ち止まった。
「お前――! 桃陵の氷川か――。ここに何の用だ」
連れの男を庇うかのように一歩前に歩み出て、険しく眉をひそめたのは鐘崎遼二であった。そう、ここは四天学園の番格といわれている一之宮紫月の自宅である道場の門前だ。鐘崎に庇われるようにして彼の後方にいる男は、紛れもなく紫月であった。
相変わらずに鐘崎が紫月を送り迎えしているのだろう、彼ら二人を目の前にするなり、氷川はガバりと膝を折り、地面に突っ伏すように額を付けて土下座をした。
――――!?
これにはさすがに驚いたと言わんばかりの表情で、鐘崎と紫月の二人は沈黙のまま、互いを見つめ合ってしまった。
「済まねえ――一之宮――! それに……鐘崎にも……お前ら二人には本当に申し訳ないことをした。許されるとは思ってねえけど……ただ、どうしても謝りたかった……! 俺が一之宮にしたとんでもねえこと……本当に済まなかった」
頭を地面に擦り付けたまま、絞り出すような声で肩を震わせながら謝罪の言葉を口にする。そんな氷川を見下ろしながら、鐘崎と紫月の二人はほとほと驚いたように、しばし唖然と立ち尽くしてしまった程だった。
いくら住宅街といえど、真っ昼間だ。人の往来が全くないわけではない。興味本位の視線が次第にざわつき始めたのを懸念してか、鐘崎の方が眉間に皺を寄せながらも、土下座のままの氷川へと歩み寄った。
「おい、とにかく中へ入れ。ここじゃ人目につく」
そう言って、未だ連れの紫月を庇うように肩を寄せつつも、一先ずは氷川を立たせて道場の敷地内へと誘った。
街中にしては広い敷地を所有する一之宮道場である。大きめの植樹もあり、その辺りからは紫月の父親が住まう母屋からも見えないことを幸いに、鐘崎は氷川を木陰へと連れて行った。
「いきなり何だ――。お前、今は停学中だろうが」
鐘崎の声音に感情は見られない。怒っているでもなく、かといって許しているでもない、何とも起伏のない様子が、かえって彼の心情を表しているかのようにも感じられた。
その鐘崎の傍に立っている紫月の方は、ただただ驚いているといったような表情で、やはり無言のままだ。
氷川は再び、彼ら二人の前で膝を折って土下座をしてみせた。
「一之宮の尊厳を踏みにじったこと、本当に申し訳なかった。身勝手なことをした。済まない、この通りだ――」
今度は庭の土に顔面を擦り付けるようにしてそう謝罪する氷川に、二人は同時に眉をしかめた。
無言のまま、何と反応してよいやらといった状態の二人の前で、氷川は再度声を大にして謝罪を続けた。
「謝ればそれでいいだなんて――そんなことは微塵も思ってねえ。今では本当に後悔もしてる……。とんでもねえことしちまったって……自分を呪いてえ――! 謝るしかできねえけど、どんな制裁でも受ける。お前らの気の済むようにしてくれ……!」
殴るなり蹴るなり、そう、例えどんなことをされても構わない。許してくれ――と、言葉にこそ出さなかったが、氷川の態度からはそう言っているのがありありと窺えるようだった。
しばし、沈黙が三人の男たちを包み込む――
最初に口を開いたのは鐘崎だった。
「――俺は、既にこいつに対する制裁はしたつもりだ。あとは紫月、お前の気持ちだ」
見たところ、氷川の謝罪が演技でないことを悟ったわけか、はたまた氷川の言う通り、気の済むようにしろという意味だろうか、鐘崎は未だ眉をひそめつつも紫月に向かって穏やかにそう言った。
「……お……れは別に……」紫月は鐘崎の背に半分隠れながらも、戸惑ったように視線を泳がせていた。
確かに、紫月にしてみれば、この氷川から受けた陵辱行為は許し難いに他ならない。逆にいえば、こんなふうにして謝罪に訪れられれば、治まっていた気持ちがほじくり返されるようで、嫌悪感でいっぱいにもなろうというものだ。もう少しこのまま、黙っておとなしく放っておいてくれればよいものを――と、思わないでもない。
だが、氷川の必死さがそれら複雑な思いを上回るように思えたわけか、紫月も思い切ったように口を開いた。
「……元はと言や、新学期の番格勝負ン時に……ズルしてお前に不意打ち食らわせたんは俺ン方だしよ。お前が怒って報復に出てくるのは当然だし、分かり切ってたことだ」
「……一……之宮……?」
氷川はようやくと地面から顔を上げると、未だ土下座状態のままで頭上の紫月を見上げた。
「だからもういい――。俺にも非はあったんだし、てめえが……ンな土下座までして謝ってきたんだから、もう水に流すぜ」
「――一之宮……、済まねえ……本当に俺……」
「いいって! それに――、俺は今……シアワセだし……よ」
チラリと鐘崎を見やりながら頬を染める。足下では未だ土下座を崩さない氷川を見下ろしながら、
「つか、マジでもう分かったから……。とにかくツラ上げてくれ。てめえらしくもねえ……」
いつまでそんな格好をしていないで早く立てとばかりに、紫月は照れ隠しの為か、軽く口を尖らせつつそう言った。そんな紫月の言葉に、鐘崎の方も同調するように穏やかな笑みを見せて彼の肩を抱き包む。幸せそうに寄り添う男たちを見上げながら、氷川の頬に一筋の涙が伝わった。
「一之宮――、鐘崎、本当に済まねえ――」
声を涙にくぐもらせながら、今ひとたび頭を地面に擦り付けて謝罪した氷川の肩に、鐘崎がそっと手を差し伸べた。
◇ ◇ ◇
氷川が一之宮道場から自宅へと戻ると、執事の真田が慌てたようにして出迎えに駆け付けてきた。
「坊ちゃま! ああ、良かった! 何もおっしゃらずにお出掛けになられるなんて……心配致しましたぞ!」
息急き切らして駆け寄ってくる様子に、散々邸の中を捜し回ったのだろうことが窺えて、氷川は申し訳なさそうに瞳を細めた。
「済まない、真田――」
「いいえ、ご無事にお戻りになられたのですから何よりです! それよりも、坊ちゃまを訪ねていらしたご学友が応接室でお待ちになっておられるのですが……」
「学友? ひょっとしてまたあの粟津か?」
氷川は驚いたように瞳を見開くと、真田に続いて応接室へと急いだ。――と、そこに待っていたのは粟津帝斗ではなく、何と冰であった。
「――白夜!」
扉が開くなり大きな声でそう叫ばれて、真田共々驚きを隠せない。そんな氷川の様子を他所に、冰は無我夢中といった調子で駆け寄ってきた。
「白夜! 良かった……!」
「……冰じゃねえか……どうした? よく俺の家が分かったな」
氷川もまさか冰が訪ねて来るとは思ってもいなかったわけで、珍しくも怖じ気づくくらいに驚いた様子であった。冰の方も氷川を目の前にしてか、急に我を取り戻したように恥ずかしそうにうつむいてしまう。
「あ、えっと……ごめんな。いきなり、その……自宅を訪ねたりして……」
「いや、構わんが……」
「でも……良かったよ。アンタが……どっか行っちまったって執事さんに聞いて……心配したんだ」
「……あ、ああ。そりゃ済まなかったな」
「ううん、俺の方こそ、ホント突然押し掛けるようなマネして……申し訳ない」
二人共にろくに視線も合わさずに、押し問答のような会話を続ける様子に執事の真田が気を利かせてか、「ただいまお茶のお代わりをお持ちしましょうね」と言って下がっていった。
時刻は午後の二時になろうかというところだ。氷川家の応接室の窓は洒落た格子造りになっていて、二階までの吹き抜けと思える程に天井高がある。壁紙やカーテン等の内装が、まるで大正浪漫を思わせるようなその部屋からは、庭の小高い木々の合間を縫って午後の日差しがキラキラと降り注いでいるのが見える。
「で、何かあったのか? 随分慌ててたみてえけど」
「あ……ううん、別に特に用があったというわけじゃないんだ……けど」
昨日の今日だからか、お互いに何となく気まずいわけだろう、思ったように会話が進まない。
氷川にしてみれば、冰が自身を訪ねて来るなど驚きに他ならず、だが本心では嬉しく思えるのも事実である。そんな気持ちを隠すべきなのか、はたまた素直に出していいものなのか――迷う氷川の頬には、薄らと紅の色が浮かび上がっている。
一方、冰の方にしてみれば、酷く勇気を持った行動である。昨日、この氷川から聞かされた衝撃の事実を消化できていないながらも、気持ちよりも先に身体が動いてしまったというような心持ちなのだ。
間の悪い沈黙を破るかのように氷川が先に口を開いた。
「それよりお前……一人でここに来たのか?」
「え……?」
「いや、だって……玄関には車が停まってなかったし、粟津ん家の佐竹さんはどうした?」
「あ、うん……。俺一人で来た。佐竹さんには見つからないようにこっそり抜け出して――」そこまで言い掛けた時、語尾をもぎ取るように氷川が形相を変えた。
「バカ野郎! 一人で出歩くなんて……ッ! 危ねえことすんじゃねえよ!」
突如怒鳴り上げられて、冰の方は驚いたように肩を竦めた。ビクリと後退るように身体を震わせた冰を目の前にして、氷川もハッと我に返る。
「あ……、済まねえ」
「ううん、いいんだ……」
氷川は冰へと歩み寄ると、大きな掌でその頭を撫でんとして、一瞬戸惑い――そっとその手を引っ込めた。
宙に浮いた掌が手持ち無沙汰に空を切る――
「怒鳴ったりして悪かった。けど……当分の間はもう一人で出歩いたりするな」
「白夜……?」
「お前を愛人にしようとしてるっていうヤツ――川西とかいうんだろ?」
氷川から飛び出したその名を聞いて、冰は驚きに目を見開いた。
「そうだけど……。まさか……調べてくれたのか?」
「ああ――昨夜、ちょっとだけな。不動産を中心に結構手を広げてる企業みてえだな」
「あ、ああ……そうみたいだな。俺はよく知らないけど、親父のブレーンの人たちがそう言ってたのを聞いたよ」
「そいつ――今月末までは海外出張だとか言ってたよな?」
「あ、ああ、そう聞いてる……」
「だったらそいつ自身がお前に会いに来るとか、そういう心配は無えにしろ……とにかく用心するに越したことはねえだろ? 急に予定が変わって帰国が早まるなんてこともあるかも知れねんだ。出掛ける時は粟津ん家の車に世話になるか、お前ん家の信用できる運転手に付き添ってもらえ。俺もなるべく早く対策を考えるようにするからよ」
「……白夜」
氷川の言葉から、昨日別れた後にすぐ川西のことを調べ上げたのだろうことが窺えた。まさか彼がそんなことまでしてくれているとは夢にも思っていなかった冰は、ただただ驚いた。ということは、氷川は本当に約束を守ろうとしてくれているということなのだろうか――
『恋人云々は無しにしても、お前を愛人にさせるようなことはしない』
昨日、葉山の海岸で氷川が言ってくれた言葉だ。あの時は衝撃の方が大きくて、おぼろげにしか覚えていなかった約束だ。それなのに、この氷川ときたら、すぐにも雪吹財閥の近辺を調べて、川西という男の存在までもを突き止めてくれている――
冰は心底驚いた。
と同時に、氷川に対する想いが様々とこみ上げて、胸の奥底がギュッと掴まれたように苦しくなる。ともすれば涙が滲み出してしまいそうだった。
そんな冰の甘苦しい想いを断ち切るかのようなひと言が氷川からこぼれたのはその直後だった。
「冰――、俺ん家の車で送るから、今日のところは帰れ」
「え――!?」
「俺はこの後、まだ少し用事があるんだ。ここにいてもお前の相手はしてやれない。粟津ン家のホテルにはまだいられるんだろ?」
「え……? あ、ああ。この連休中は帝斗の家に泊まるってことで、お袋にはそう話してる」
「そうか――。だったらとりあえずホテルへ帰れ」
「で、でも……俺……アンタに……」
冰は慌てたようにして、昨日氷川から借りたハンカチを差し出してみせた。
「ごめん、洗ってアイロンを当てたんだけど、少し汚れが残っちゃって……」
僅か震える手で必死に差し出されたそれを見ながら、氷川はギュッと唇を噛み締めた。
「――構わねえさ。それはお前にやるって言ったろ? それとも――」こんな俺の持ち物だったハンカチなんていらないと言うのなら――そんな言葉を取り上げるように、冰は言った。
「本当にっ……貰ってもいいんなら……言葉に甘えるよ」
「……冰、お前」
「これ、アンタの名前だろ? この刺繍……。だから……大事にする。約束するよ。本当にありがとう」
瞼を震わせ、言葉通り指先で大事そうに刺繍部分を撫でる。まるで愛しげにハンカチを胸前で握り締めた冰に、氷川も思い切り心を揺さぶられていた。
今にも抱き締めてしまいたい衝動が沸々と胸を焦がす――そんな気持ちを押し留めるように、氷川は自らの拳を握り締めた。
「――なるべく早く対策を考えて、必ずお前に連絡する。だから少し待っていて欲しい」
「……白夜……」
氷川の真剣な様子に、冰は酷く驚いていた。
「あの、白夜……」
「何だ――」
「アンタ……どうして……。どうしてそんなに俺の為に一生懸命になってくれるんだ……?」
「え……?」
「そりゃ、俺があんなこと相談したから……何とかして力になってくれようとしてるのはすごく分かるし、その……有り難いと思ってる。けど……どうしてそんなに……」
(真剣に――、そう、ともすればまるで自分のことのように――出会ったばかりの俺なんかの為に、そんなに良くしてくれるんだ――)
冰のそんな内心が伝わったというわけか、
「どうしてって……」
氷川は困ったように少し眉をひそめ、だがすぐに意思のある様子で言った。
「お前に――辛え思いをさせたくねえ。ただそれだけだ」
氷川の言葉に、冰はますます驚いた。
「俺に……辛い思いを……?」
「ああ。させたくねえ。お前が……何処の誰とも知らねえヤツの愛人にされるだなんて――冗談じゃねえ」
「……白夜」
「とにかく――まだ少し調べてえこともある。お前には必ず連絡を入れるから、今日のところは帰るんだ」
まるで言い聞かせるかのように肩先に両手を掛けながらそう言う氷川の胸元が、冰の目の前で逞しげに映る――
思わず抱き付いてしまいそうになる衝動を抑えるように、冰はギュッと瞳を閉じた。
どんな言葉でもいい。今のこの気持ちを何とかして伝えたくとも、上手く言葉になってはくれない。
「白夜……。あの、俺……アンタに頼りっ放しで、すげえ迷惑掛けてる……」
「迷惑だなんて思っちゃいねえ。ただ、少しだけ考える時間をくれ。頼む――」
氷川の真剣な様子に、冰は滅法驚きつつも、とにかく今は帰るのが賢明だと悟ったわけか、素直にうなずいてみせた。
「……じゃあ帰るね。佐竹さんに連絡して迎えに来てもらうよ」
「ああ――。そうだな」
「白夜……」
「ん――? 何だ」
「あの……いろいろ済まない。本当に……ありがとう」
「礼なんて必要ねえさ」
互いの視線が互いを捉えて、外せなくなる――
意思を持った真剣な眼差しと、熱を持った潤んだ眼とが絡み合う。二人はしばしそのまま、じっと見つめ合ったままでいた。
ちょうどその時、お茶のお代わりを持って来た執事の真田が扉をノックした。
「失礼致します。お二方とも――さあ、どうぞお掛けになって。お茶のお代わりをお持ち致しましたぞ」
場の雰囲気が和むような穏やかで明るめの真田の声音が、ふっと心に沁みる。
「真田、ちょうど良かった。迎えの車が来るまで、この冰を持てなしてやってくれ」
氷川はそう言って真田に冰のことを預けると、言葉少なのままで応接室を後にしようとした。
「はい、それは勿論……。ですが坊ちゃま……」
「頼んだぜ」
「はい――」
(坊ちゃま――)
その後ろ姿を見送る真田は、心配そうに若き主の背中を見つめたのだった。
◇ ◇ ◇