番格恋事情

31 募る想いと後悔の狭間で2



 それから三十分も経った頃、冰を見送り終えた真田が氷川の自室へと報告にやって来ていた。
「坊ちゃま、今しがたお迎えのお車がいらっしゃいまして、ご学友がお帰りになられました」
「ああ――いろいろ済まなかったな」
 かくいう氷川自身も自室の窓からその様子を窺っていたらしく、既に知っていたようだ。
 窓辺に佇んだままの主を見つめながら、真田が氷川の為にお茶を淹れていた。
「ご学友をお見送りになられなくてよろしかったのでございますか?」
 なるたけ差し障りのないようにと、気遣った声音がそう問う。
「――いいんだ」
 氷川もそんな真田の心遣いを分かっているから、素直に彼の元へと歩を進める。
「ハーブティーか? いい香りだ」
 真田への労いの言葉と共にティーカップを口へと運んだ。

 淹れ立ての茶葉の香が心に沁みるようだった。氷川はまるで独白のような調子で、ボソリと呟き始めた。
「なあ、真田――」
「はい、何でございましょう」
「俺は――今まで散々好き勝手やってきた。お前にも、邸の連中にも、――それに親父やお袋にも迷惑を掛けてきたなって思ってよ」
「坊ちゃま……」
「今になって後悔してる。その時々を自由奔放に生きて、我が物顔で息巻いて……しょうもねえクソガキだ。どうしようもねえクズ野郎だ。今更だけど、もっと……もっとちゃんとしてたら……良かったのにって思うよ」
 まるで今にも泣き出しそうな弱々しい様子でそう苦笑する若き主の姿を目の前にして、真田は心配そうに眉根を寄せた。
「坊ちゃま――」
「悪い……。愚痴こぼしちまった」
「いいえ――」
「だが、本当に……」

 そうだ、本当にもっとわきまえた人生を歩んで来たのなら、どんなに良かったことだろう。番格と持て囃され、いい気になって好き放題――親が学園に呼び出されようが、誰に心配を掛けようが平気だった。そんな自身がほとほと恨めしかった。
 もっと節度を持った行いをして過ごしてきたならば、あの一之宮紫月を穢すこともなかっただろうか。堂々と雪吹冰に想いを打ち明ける資格があっただろうか。そんなことを思えば、ますます悔やまれてならない。氷川は自分が情けなくて仕方なかった。

「坊ちゃま――」
 ほとほと心配そうに覗き込んでくる真田の気配で、氷川はハッと我に返った。
「済まない。情けねえとこ見せちまったな」
「いいえ、とんでもありません。それよりも何かご心配なことでもお有りなのでしょうか?」
 真田の視線が真剣で、それは本当に温かくもあり、有り難くもある。そうだ、過去を悔やんで焦れている場合ではない。今はただ、冰を助ける為に何ができるかを考えるべきだ――氷川は意を決したように瞳に力を携えた。
「なあ真田、お前は川西っていう不動産会社の噂を聞いたことがあるか?」意思のある視線と共に、氷川は真田にそう訊いた。
「川西様というと――ああ、はい存じております!」
 真田は少しばかり考え込んだ後、思い当たる節を覚えたのか、パッと瞳を見開きながら言った。
「私は直接お目に掛かったことはございませんが、お噂は耳にしたことがございます」
「そうか! それで……その川西っていうのはどんな人物なんだ?」
 知っていることだけでもいいから教えて欲しいというべく、逸った表情の若き主に少々驚きつつも、真田が素直に答えてみせる。
「はい、表向きは不動産王としてかなりのやり手の御方のようでございます。ですが、その……どうやら組関係のお付き合いもされていらっしゃるのではとのお噂が……」
 言いにくそうな真田の物言いからして、組関係というと堅気ではないということだろうか。氷川は眉をしかめた。
「それに……お若い坊ちゃまにこんなことをお話してよろしいのかどうか分かりませんが……」
「構わない。教えてくれ」
「はあ……その、聞くところによりますと、どうも川西様という御方はえらく好色とのお噂がございまして……」
「好色?」
「ええ。つまりは……色事のことでございます。交際されているお相手も多く、お商売のお店にも頻繁に通っているようなこともお聞きします。しかも……そのお相手というのが、女性だけではないようでして」
「男を買ってるってことか?」
「……え、ええ、ああ……はい。そのようでございます」
 真田は咳き込みながらも、こくりと頷いた。
 なるほど、それで冰を愛人にしたいなどと言い出したわけか。氷川はますます憤ると共に、何があっても冰を辛い目に遭わせてなるものかと、意を決する。
「あの、坊ちゃま。その川西様という御方がどうかしたのでございますか? お父上とも面識があるとはうかがっておりませんが――」
 心配そうな真田に、氷川は「何でもないから心配しないでくれ」と言って微笑んだ。
「ちょっとな、悪徳企業で有名だっていう話を耳にしたもんで。俺もそろそろ企業のそういった話も勉強しなきゃならねえだろうと思ってよ」
「そうでございましたか。それはお父上もお喜びになられることでございましょうな」
 真田は夕食の支度ができたら呼びに来ますと言って、部屋を後にしていった。

 時刻はもうすっかり夕暮れ時である。そよそよと心地好い夕凪が窓辺のカーテンを揺らしている。明日は日曜日――週が明ければいよいよ停学も解けて、またいつもの日常が戻ってくるわけだ。
 そして何より、冰についてもそれは同じである。三連休が過ぎれば学園生活が始まってしまうわけだし、彼が粟津家のホテルに滞在していられるのは、この連休中だけということだ。その後は自宅へ戻り、学園へもそこから通うことになるのだろうが、氷川は彼を一人にしておくことに不安を覚えていた。
 先程、執事の真田から聞いた話によれば、冰を愛人にしたいなどとほざいている川西という男は、想像以上に厄介な人物であるのは確かなようだ。男が海外出張から帰って来るまでに約半月――その間に何としても具体的な対策を考えなければならない。
 冰の叔父という人物を訪ねて苦言を申し立てるのも一案だが、会社が倒産しかかっている現状で、こちらの言い分に聞く耳を持ってくれるだろうか。現実的に考えれば、川西の帰国と同時に、すぐにでも冰を差し出したい腹づもりでいると考えた方が妥当だろう。感情だけでヘタに動けば逆に警戒されて、冰に危険が及ばないとも限らない。
「――クソッ、今まで散々イキがってきたくせして……結局俺は何の力も持たねえガキじゃねえか……!」
 だが、憤っているだけでは何も解決しない。氷川はとにかく、思い付くままにできる限りの準備を整えようと、意思を固くしていた。

「先ずは冰の家の詳しい状況を知る必要があるな――」
 彼の家が今どういった生活環境なのか、手っ取り早いのは冰当人に尋ねればいいことなのだが、それと同時に客観的な情報も手に入れておきたいところだ。
 氷川から見れば、冰は警戒心も薄く、何より他人を疑ってかかるなどというスレた性質でもなさそうである。良く言えば人の好く、性質も優しい好青年であるが、汚い世界を知らなさ過ぎる感が無くもない。要は傍目から見ていて危なっかしく感じられるのも確かなのだ。
 そんな純粋な彼を騙し討ちにすることなど、腹黒い連中にかかればわけもないことだろう。氷川はこれまでに自分自身がそういった汚い手を使ってきたこともある経緯から、純粋培養のような冰のことが心配に思えて仕方なかった。
「俺はあいつのことを知らなさ過ぎる……。ここはあの粟津にでも尋ねるとするか」
 明日の朝一番にでも粟津帝斗を訪ねてみよう。冰の親友である彼ならば、少しは内部の事情も分かるかも知れない。とにかくはあの帝斗にコンタクトを――と、そう思っていた矢先だった。執事の真田から、またもやご学友がお見えですという知らせが入ったのだ。
 冰は先程帰ったばかりだ。今度はいったい誰だと思ったが、何とそれは氷川が会いに行こうとしていた粟津帝斗本人であった。



◇    ◇    ◇



 氷川が応接室へと降りていくと、そこには従者だろうか――屈強な感じのする若い男を連れ立った帝斗が、にこやかに微笑んでいた。
「やあ氷川君。また突然押し掛けて済まないね」
「粟津――! お前、どうして……。だがちょうど良かった。実は俺もお前に会いたいと思っていたところなんだ」
 それを聞くと、帝斗は掛けていたソファから嬉しそうにして立ち上がった。
「そう! それは奇遇だね。じゃあ訪ねて来て良かったわけだ」
「ああ――。それはそうと、昨日はお前ンところの佐竹さんに色々世話になっちまって! すまなかったな」
「いやいや、構わないよ。うちの佐竹さんもご一緒できて良かったと喜んでいたよ。それに、キミのこともとてもいい青年だって言ってね、えらく褒めていたよ」
「……はあ、そりゃまあ、どうも……」
 元来、褒められることに慣れていない氷川は、こういった話題は苦手である。
「そうそう、お昼まで一緒に誘っていただけたんだって? 佐竹さんは感激もひとしおの様子だったよ」
「……いや、そんなん当然ってか……俺らの方が散々世話になっちまって……」
 なるべくならば早めに切り上げて、別の話題に移りたいところだ。それと同時に、今は帝斗と一緒にいる屈強な男性のことが気に掛かって仕方がないというのもある。
 百八十六センチの氷川を若干上回るような長身の彼は、パッと見ただけでも相当な男前なのは確かだし、眼力もある。歳の頃もかなり上といった感じのその男を、ついチラチラと目で追ってしまう。
 そんな氷川の様子にクスッと微笑みながら帝斗が言った。
「ああ、すまない。紹介しよう。こちらは綾乃木天音さんだ」
 帝斗にそう紹介された男は、氷川に向かって丁寧な会釈をした。
「はじめまして、綾乃木天音です。私は帝斗さんの運転手兼、側付きとして勤めさせていただいております」
「あ、はい――どうも。自分は氷川白夜といいます。粟津君とは高校が近くでして、歳も同じ高校三年生です」
 氷川も続いてぺこりと頭を下げ、自己紹介をする。そんな二人の様子を傍でにこやかに眺めながら、帝斗が綾乃木という男について、もう少し詳しい説明を補足した。
「彼は綾乃木財閥の御曹司でね、白帝学園の出身なんだ。僕の十期ほど先輩で、彼も在学中は生徒会長を務めていたんだよ」
 なるほど、十期も上というなら十歳年上ということになる。つまりは現在、二十七、八歳くらいだろうか――どうりで落ち着いて見えるわけだ。
 また、綾乃木財閥という名前にも聞き覚えがあった。だが、氷川のおぼろげな記憶では、確か綾乃木財閥はだいぶ以前にどこかの企業に吸収されて、今では一族の名は残っていないはずである。氷川にとっては子供の時分の頃のことだったが、両親がそんな話をしているのを聞いたような気がするのだ。当時はかなりの衝撃的なことだったようで、毎日のように夕卓でそんな話題を聞き及んでいたような記憶がある。
 そんな氷川の心の内が透けて見えたというわけではなかろうが、綾乃木という男は何とも神妙な様子でこう付け足してみせた。
「実は私がまだ学生の時――今からもう十年程前のことになりますが、両親が事故で他界致しまして。ちょうど大学に入学したばかりの私は、頼る親族もおらずに途方に暮れておりました。その時に帝斗さんのお父上が綾乃木を吸収してくださったんです。私を粟津のお邸に引き取ってくださり、大学もそのまま通わせていただけて、本当に助けていただきました」
「――そう……だったんですか」
 氷川は驚きつつも、真摯な顔付きで綾乃木という男の話に耳を傾けていた。綾乃木が続ける。
「帝斗さんのご両親と、そして勿論帝斗さんにも本当にお世話になりました。私にとって粟津のご一家は、まさに命の恩人なのです。ですから少しでもその恩に報いたいと、常々思っておりますが……なかなかご恩返しも儘ならずでして。今でもこうして粟津のお邸でお世話になっておる次第です」
 何だかこの屈強な感じの男からは想像し難いような話であるが、当の本人が言うのだから間違いないのだろう。と同時に、彼の境遇が今の冰が置かれている立場とよく似ているような気がして、氷川はとても他人事とは思えない心持ちであった。
 と、そこで帝斗が再び話に割って入ってきた。
「今はね、まだ僕も高校生の身分だし、何ができるというわけではないんだけれども――」
 帝斗は一旦、そこで言葉を止めると、意思のある眼差しで氷川を見つめた。
「ねえ氷川君――キミには話しておきたいと思うんだけれどね。僕は修業したら、この天音さんと一緒に綾乃木の家名を取り戻す心づもりでいるのさ。無論、僕には兄弟もいないし、我が粟津家の跡継ぎは僕しかいないから――粟津の名前もきちんと背負っていく覚悟はある。つまり、粟津と綾乃木を共に成長繁栄させていきたいっていう夢がある。僕はね、一生涯掛けてこの天音さんと――パートナーとして共に生きていきたいと思っているんだ」
「……パートナー……?」
 僅か首を傾げながら、氷川は不思議そうに帝斗を見つめた。
「ああ。僕は天音さんを心から尊敬していてね。この世の中で――一番大切な人でもあるんだ」
「――!?」
 さすがに突飛というか、刺激の強すぎる発言だったわけか――何ともいえない唖然とした表情で固まってしまった氷川を見つめながら、
「言っている意味は――分かるかい?」
 帝斗は楽しそうに微笑んでみせた。
「いや、まあ……その、何となくは分かるが……」
「まあ、端的に言ってしまうと、僕は天音さんにゾッコンなのさ。つまり恋人として真剣にお付き合いをしているということなんだ」
「――! そう……なのか」
「だからというわけじゃないんだけれど、僕はキミと冰を引き合わせることに協力したのさ」
「――? どういう意味だ……」
「新学期の番長対決の時にキミら二人を見て、感じるところがあってね。キミはタイマン勝負とやらを放っぽってまで冰に興味を示していたろ? それに冰の方もそうさ。あの集まりに連れて行って以来、ぼうっとしていることが多くなってね。彼の様子から、もしかしてこれは恋煩いじゃないかって思って――」
「恋煩い? あの冰が……か? って、……誰に……?」
「キミに決まってるじゃないか。冰はあの日以来、僕と会う度にキミのことを話題に出すようになったんだ。彼、見掛けによらず案外晩熟なところがあるからね。自分じゃ気が付いていないようだったけれど、何かにつけてキミのことばかり気に掛けていたのは確かさ」
 氷川は滅法驚いた。確かにあの番格対決の時に、見学と称してこの帝斗に連れて来られていた冰に興味を覚えたのは事実である。だが、まさか冰の方も自分に気持ちを寄せてくれていただなどとは夢にも思わなかったからだ。
 帝斗の真剣な様子から、冷やかしや冗談でこんなことを言っているとは思えない。――が、素直に「ああ、そうですか」と信じられないというのもある。氷川はガラにもなく、ポカンと口を開いたままで硬直させられてしまった。




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