番格恋事情
「まあそれはいいとして――氷川君。キミら、昨日はあれからどうしたんだ? うちの佐竹さんの話では、葉山の別荘に行ったそうだけど」
帝斗の問い掛けで、氷川はハッと我に返った。
「あ、ああ、そうなんだ――佐竹さんにはマジで世話になって、申し訳ねえなと……」
「構わないよ。それよりキミは冰からちゃんと話を聞いてくれたのか?」
「ああ……まあ、色々と……」
確か冰の話では、この帝斗も彼の家の事情というのを知っているということだった。だが、冰が帝斗にどこまでをどう話しているのか分からずに、何と返答してよいやら若干困惑させられる。そんな氷川の内心が透けて見えたわけか、帝斗がまたもや意味ありげな笑みを携えながら言った。
「冰に頼まれ事をしなかったかい? それも――ちょっと突飛なやつ」
「突飛なって……、お前どこまで……」知っていやがるんだ――そんな言葉を取り上げるかのように、帝斗は瞳を細めてみせた。
「キミはオーケーしたのかい?」
「オーケーって……」
「何せ、冰のやつときたら……僕には何の報告もなしでね。氷川君と会ってどうだったんだって訊いても、うんとか、ああとかの繰り返しさ。始終ボーッとしちゃって話にならないのさ。そんなわけでキミの方に尋ねてみようと思って押し掛けたわけ。僕には冰とキミを引き合わせた責任もあることだしね、どうなったかくらい知っておきたいと思ってね」
「どうなったかって……言われてもな」
さすがの氷川も冰同様、曖昧な返事しかできない始末だ。この粟津帝斗の直球とも変化球ともつかない話っぷりを前にしては、なかなかに困惑させられるのは確かなのだ。
そんな氷川を横目に、掴み所のない男はやれやれといったふうに両肩をすくめてみせる。少々小馬鹿にしていると取られそうな仕草も嫌味のなく、さらりとやってのけるところも氷川にとっては相槌に困らされる代物だ。
何と返事をして良いやら、困った氷川が目の前の珈琲カップに手を掛けた時だった。
「じゃあ単刀直入に訊こう。キミ、冰に抱いてくれって頼まれなかったかい?」
「――ッぶは……ッ!」
氷川は危うく飲みかけた珈琲を噴き出しそうになった。
「おやおや、驚かせちまったかい?」
テーブルに飛び散ったしぶきを自らのハンカチでスマートに拭いながら、帝斗が笑っている。
「あ……ンなぁ、……驚かせたかって……てめ、直球過ぎだろうが!」
「ああ、ごめんよ。でも大事なことだから。ちゃんと把握しておきたいわけなのさ」
そんな帝斗と氷川のやり取りを、それまで黙って窺っているだけだった綾乃木が、少々申し訳なさそうな様子で苦笑気味だ。
「帝斗さん、もうそれくらいにして差し上げないとお気の毒かと――」
綾乃木の苦言に、
「そうかい?」
帝斗もすまなさそうに言う。だが、やはりどこかまだ人の悪いような悪戯な笑みを携えたままでもある。だがまあ、さすがに堂々巡りを続けても仕方ないと思ったのか、急に姿勢を正したと思ったら、今後は百八十度一転、大真面目な表情で驚くようなことを言ってのけた。
「氷川君、キミ、冰を救ってくれる気はないか――?」
帝斗の言葉に、氷川は瞳を見開いた。
「救うって……じゃあ、やっぱりお前もあいつン家の事情を知ってるってわけか?」
「やはりキミも聞いていたか――。冰の家は今、かなり苦しい立場に立たされていてね。親父さんが入院していることは聞いたかい?」
「ああ、聞いた」
「氷川君、僕はつい調子に乗って、物事を面白おかしく語ったり、会話の中でからかったりしてしまう悪い癖があるんだけれど――悪気はないんだ」
まあ、それは何となく分かる気がしていた。この帝斗が昨日の朝に突如訪ねて来た際にも、そんなようなところのある性質だと感じていたからだ。だが、昨日も今も、不思議と嫌味な感じは受けないから、根は悪くないのだろうと氷川は思っていた。
「こんな僕だけれど、ここからは真面目に話すから聞いて欲しい。冰の家――つまり雪吹財閥は今、経営の危機に直面していてね。冰は何とかして他人に頼らずに、雪吹の家名を守りたいと思っているんだ。その為に彼は助け船を名乗り出た企業の言いなりになる覚悟を決めたということわけだが――それについても聞いたかい?」
「ああ……一応は……。とんでもねえ条件だって話だが――」
「そうだね。まだ未成年の彼を愛人に差し出せだなんて、頭のおかしな社長だよ」
やはり帝斗はほぼ全ての事情を知っているらしい。氷川は黙ったままで帝斗の話の続きを待った。
「冰を愛人にしたいと言ってきたのは女性起業家というわけではなくてね。男性――つまりは同性の冰をそういった対象として望んでいるわけだ」
そこまで聞いて、氷川は初めて相槌の言葉を口にした。
「それは川西とかいう不動産会社の社長のことか?」
「よくご存じだね。冰が話したのかい?」
「いや……そうじゃねえが、俺もあいつの家の事情を聞いて気になってな。少し調べたんだが――どうもあまりいい噂が聞かれねえらしいってことくらいしか分からなくて……」
「いい噂どころの話じゃないさ。正直に言って、とんでもないヤツだよ」
「とんでもねえって、どんな……」
「川西はもう六十に近いんだけれどね。好色で――その上、両刀なんだ。女性も男性も欲しがる、それもあちこちでつまみ食いするような色情狂さ」
やはり――か。先程、執事の真田から聞いた噂は事実だったようである。
「川西は女性が相手ならば、とびきり鼻の下を伸ばすようなヤツでね。猫可愛がりするそうだよ。欲しいという物は何でも買い与えて、宝石だの服だの、車にマンションまで。甘やかし放題さ」
そんな男が何を好き好んで男性の冰をも欲しがるというわけだ。氷川の疑問を他所に、帝斗はここで再び、少々別の方向へと話を振った。
「冰の家と僕の家とは古くから懇意にしている間柄だ。それこそ仕事もプライベートも越えて親交しているといえる。だから僕は今回の件を知った時に、我が粟津財閥が力になりたいと申し出たんだがね。冰にはあっさり断られてしまったんだよ」
それについては氷川も冰自身からそう聞いていたので知っている。
「だが冰が何と言おうとね、川西に譲り渡すくらいなら――最終的には粟津財閥が雪吹を丸ごと吸収するつもりでいる」
「吸収――?」
氷川は少々険しく眉をひそめた。
「勘違いしないでおくれよ。吸収するといっても一時的にということさ。冰の親父さんがご快復されれば、すぐにも元通りに株を引き渡すつもりさ。また、こんなことは口にすべきではないと思うけど、万が一にも親父さんのご復帰が叶わない場合は――冰自身が修業して本格的に財閥を継げるその時期がくるのを待って、雪吹の家名ごと冰に返すつもりでいる」
氷川は驚いた。つまり、この帝斗の考えでは、倒産しかけた冰の家を丸ごと傘下に入れて、時期が来たら元通りに経営していけるように、一時の助太刀をしようということなのか。国内外でも指折り数えられる程の、粟津財閥ならではの成せる技というわけか――
だが、粟津家がそのように考えてくれているならば、とりあえずは一安心と思っていいのだろう。例えば冰が帝斗に迷惑を掛けたくないと言ったところで、現実問題として他に打開策がないのも事実である。ひとつ心配があるとすれば、それは冰の叔父という人物のことだ。氷川はそれが少々気掛かりに思えていた。
「だが、それで冰の叔父さんって人が納得すると思うか?」
「さすがだね氷川君、鋭いご指摘だ。確かに、倒産を免れるという点だけでいえば、納得せざるを得ないだろうね。粟津は川西がおいそれとは手の出せないような好条件で吸収するんだ。冰の叔父様が何と言おうと他の株主もいることだしね。ただやはり叔父様個人にとっては、どちらにせよ最悪の事態といえるだろうね」
「だろうな。冰から聞いた話じゃ、その叔父っていう人は随分と我が強えみてえだしな。会社がお前ん家の傘下になれば、当然トップも交替させられるってことだろう?」
「そうなるね。何せ冰のお父上が築いてきたものを、この短期間で破綻に追い込んだような人だからね」
だがまあ、叔父個人がどう思おうと、粟津の傘下になることで社が救われるということならば、冰が愛人になる必要はなくなるのだろうから、その点については一安心ではある。
「じゃあ、とりあえずは冰のやつが愛人にさせられるって心配は、一先ずねえってことだな?」
安堵の表情を浮かべた氷川だったが、意外や帝斗からは正反対の反応が返ってきて驚かされる羽目となった。
「それがね、そう単純な話でもないのさ」
「――? どういう意味だ」
「キミのご指摘通り、社は救われても冰の叔父様自身は苦境に立たされることに変わりはないんだ。立場も財産も一気に失うことになるからね。そんな叔父様が黙って指を銜えているはずがない。恐らくは個人的に川西に冰を売ってしまおうくらいのことは考えるんじゃないかと――僕はそう踏んでる」
「――! まさか……冗談だろ?」
氷川は眉を吊り上げると同時に蒼ざめた。
「そこでキミに頼みがあるんだ。キミが冰を守ってやってくれないだろうか」
「俺が……あいつを……?」
「ああ。無論、僕も僕の父も――冰の身辺については気を配るつもりでいる。場合によっては、父から冰の叔父様に直接苦言を呈することも考えている。けれど、川西というのは少々厄介な人脈を持っていてね。慎重にならざるを得ないところもあるんだ」
それはつまり、執事の真田が言っていたような”裏社会との繋がり”のことだろうか、
「なあ、粟津――。川西ってのはやっぱりヤクザと関係があるってことなのか?」
堪らずに氷川はそう訊いた。
「キミも知っていたのか……。実はそうなんだよ」
帝斗も、よくそこまでご存じだねといったように驚きをみせた。
帝斗の話では、冰を愛人に欲しがっている川西という男は、仕事の面では確かに一目置かざるを得ないやり手らしいとのことだった。一代で今の不動産会社を立ち上げて、名のある企業に発展させ、上場させたというのだ。
だが一方ではその筋の組織とも付き合いがあるようで、それも業界内では有名だということだった。
帝斗は川西についてザッと説明をすると、話を元に戻すけどと言って、再び真剣な顔付きになった。
「川西という男は、女性に対しては猫可愛がりするようなんだけれどね。男性で遊ぶ時は全く違うんだそうだ。主には玄人の店で買った男性たちを相手にしているようなんだけれど、どうも痛め付けることで快楽を得るといった趣向の持ち主らしい」
「痛め付ける……?」
「僕も実際に現場を見たわけじゃないから、あくまで噂だけれどね。何でもムチで打ったり、いかがわしい玩具で相手が嫌がるようなことを強要したり――酷い時には発展場あたりで声を掛けて集めた男たちを連れて来て、輪姦まがいのことをさせたりもするらしい」
帝斗の話に、氷川は思い切り眉根を吊り上げた。
すぐには相槌の言葉も出てこない。もしも冰がそんなことをされたらと想像するだけで、こめかみに青筋が走る心持ちだった。
「女性を甘やかす反面、男にはその反動がいくのかどうかは知らないが、とにかく酷いという評判でね。度が過ぎて、今じゃ殆どの店から出入禁止を食らっているらしい」
「…………ッ、マジ……かよ」
「そんな男だからね、遊ぶ相手に事欠いて、是が非でも冰を欲しがるのは考えられないことではないだろう? 加えて冰の叔父様も金が必要なわけだから、二人の利害は一致するというわけさ」
聞けば聞くほど胸糞の悪くなる話である。氷川は怒りの為か、無意識に握り締めた拳をワナワナと震わせながら、帝斗の対面で唇を噛み締めてしまった。
「氷川君、僕は冰をそんな目に遭わせたくはない。場合によっては、冰にボディガードを付けることも考えてはいるんだけれどね。でもやはり一番いいのは傍で親身になって冰を見守ってくれる存在がいてくれたらと思うんだよ」
つまり、その役を氷川に頼めたらということらしい。
無論、氷川も冰を守りたいのは言うまでもない。本来であれば、何を差し置いても俺が守ると言いたいところではあるのだが、氷川には一之宮紫月を穢してしまった罪悪感が心に重く引っ掛かってもいて、堂々と大手を広げて『任せろ』と言い切れないのも辛いところであった。
そんな迷いが表情に出ていたというわけなのか、帝斗は即答のない氷川を少々怪訝そうに見つめながら言った。
「ねえ氷川君、キミは冰のことをどう思う? 彼のことが嫌いかい?」
「……! 何故そんなことを訊く……」
「冰は雪吹財閥を救う為に、自分が川西の愛人になる覚悟を決めていた。無論、肉体関係を余儀なくされることも含めての覚悟さ。見も知らない相手とそんなことをしなければならないんだから、冰にとっては相当の覚悟だったと思うよ」
「…………ああ」
「僕が思うに、今まで冰にはそういった――つまりは性的な経験がなかった。川西との初めての時のことを想像すれば、その怖さは計り知れないものだったと思う。冰がキミに”抱いてくれ”って頼んだのは、せめて好意を抱いている相手と最初で最後の心に残る思い出を作りたかった――僕にはそんなふうに思えるんだけれどね」
「…………!」
確かにそうかも知れない。氷川自身、最初に冰に抱いて欲しいと頼まれた時にそう感じたからだ。
「僕はね、氷川君。もしかしたらキミと冰なら上手くいくんじゃないかって思って間を取り持ったんだ。もしもキミが冰を想ってくれたなら――、そして二人が想い合ってくれたならいいなって。いくらボディガードを雇おうが、愛する人が傍に居てくれるのとそうじゃないのとは強さも重みも違うだろう?」
帝斗の言いたいことはよく理解できた。新学期の番格対決の際に、一之宮紫月とのタイマン勝負を放っぽってまで冰に関心を示していた様子を見て、何か閃くところがあったのだろう。一之宮紫月に対しても、『ケツを掘らせろ』などという条件を突き付けていたことだし、男性がそういった対象になるならば、冰との恋愛も可能かも知れない――という期待を抱いたのだろう。
氷川は、そんな帝斗の気持ちが重々分かる気がしつつも、自身の中に渦巻く苦い後悔のことを思えば、どうにも歯がゆくて堪らない。これまで自由奔放にイキがってきた自身が、とてつもなく悔やまれてならなかった。
「粟津――お前の言いてえことは分かった。俺も冰が……あいつが辛え目に遭うのを黙って見ているつもりはねえ――。ねえけど……」
うつむきながら、膝の上で拳を振るわせてそう言う氷川を前に、帝斗は逸るように首を傾げながら彼を見つめる。
「冰のことは守る。それは約束する――。例えばあいつの叔父貴ってのが、力づくであいつをさらいに来ねえとも限らねえ。そん時は身体張ってあいつを守るぜ。川西って野郎がヤクザ絡みだっていうなら、命に代えても……守り通すつもりだ。けど……だけど俺には……」
あいつを愛することはできない――
絞り出すように言われたそのひと言に、帝斗は眉根を寄せた。
「氷川君――? それはどうしてか、訊いてもいいか? 僕はもしかしたらキミも冰のことを想ってくれているんじゃないかと、そんなふうに感じていたんだけど……僕の勘違いだったならそれは致し方のないことさ。勿論、無理強いするつもりはないんだ」
帝斗は真摯な面持ちで氷川を見つめ、そう言った。
ただ、もしも勘違いであるならば、『命に代えても冰を守り通してみせる』という意思はどこからきているのだろうか――帝斗の表情からは、それが不思議でならないといったふうであった。
ふ――と、唇が僅か弧を描いただけの苦笑と共に氷川は言った。
「俺にはあいつを……冰を愛する資格がねえ……んだ。お前、めちゃくちゃ勘が鋭いみてえだから、この際、隠し立てはしねえけどよ――。確かに俺は冰に対して興味を抱いてる。昨日、お前の仲介で思い掛けずあいつに再会して――そんな気持ちは益々強くなったってのも認めるぜ……。あいつん家の事情を聞いて、俺が力になりてえ、守ってやりてえと思ったのも事実だし、実際守ってやる覚悟でいる」
「氷川君……」
「けど――けどよ、それと愛がどうのってのは別にしてくれ。どんなにあいつに惹かれてようが、俺にはあいつにそれを告げる資格はねえから――」
そう言い切った氷川の拳が、未だ彼の膝の上で震えていた。
そんな様子から、何か事情があるのだろうと悟ったわけか、帝斗は一先ず氷川の意思を尊重すべきと心得たようであった。
「分かった――。ともかくキミが協力的でいてくれるのは有り難いことさ。僕ら、これからも連絡を取り合って、冰を見守っていこうじゃないか」
「ああ、そうだな……。いろいろと勝手を言ってすまない」
「いやいや、僕の方こそズケズケと言ってしまってすまなかった。ところで、キミも僕に何か用事があったようだけれど――。僕を訪ねてくれようとしていたんだろう?」
「あ、ああ――そうなんだ。まあ、俺が訊きたかったことってのも、冰のことなんだが――」
氷川は気を取り直したようにして帝斗を見つめた。
「あいつ、家族構成とかはどうなってるんだ? 俺はあいつが何処に住んでるのかも知らねえし、学園にはどうやって通ってるのかとか――。あとは、あいつの叔父貴ってのはどういった人なのかとか、お前なら色々詳しいと思ってよ」
「なるほど。僕は冰とは物心ついた頃からの幼馴染みだからね。キミの気に掛かることがあれば、何でも遠慮なく訊いておくれよ」
帝斗は、氷川が冰のことを気に掛けてくれるのがたいへん有り難いといったふうに頷いた。