番格恋事情
そして週明け――、氷川は二週間ぶりで桃陵学園へと登校した。
朝の昇降口は相も変わらず賑わいを見せている。たった二週間といえばそうだが、随分と懐かしいような気分にもなって、氷川は軽く溜め息を落とした、その時だった。
「よう、氷川――」
「学園の番格様が珍しくも朝一でご登校かよ」
見るからにガラの悪そうな男たちが数人で氷川を取り囲んだ。
敵意剥き出しのオーラをまとったその集団に、氷川は眉根を寄せる。彼らはこれまでにも学園内で”頭”を争って対立してきたグループの中心的存在の男たちであった。
「まさか戻ってくるとはね? あのまま退学にでもなってくれりゃ、清々したってのによー」
男らの中心にいた一人が、わざと肩先をぶつけながらド突くように息巻いている。停学明け早々に面倒事はご免だと、無視して昇降口から立ち去ろうとした氷川の背を、別のもう一人が蹴り飛ばした。
「……ッ!?」
よろけながらもその場に踏ん張った氷川は、無言のまま、視線だけで後方を振り返った。その様子を面白がるように、一団の中心にいた男が一歩前へと歩み出てきて、顎をしゃくりながら侮蔑丸出しで口角をひん曲げる。
「氷川よー、てめえ、停学中にとんでもねえことしでかしてくれたってじゃねえか!」
「――何のことだ」
ようやくと氷川が口を開いた。と同時に、ますます意気込んだ男が調子付く。
「てめえ、四天の一之宮に頭下げたってじゃねえか!」
「――――」
「無様に土下座までして、一之宮に媚びへつらってるてめえの姿をよー、目撃したってヤツがいるんだけどもー。どういうつもりか知らねえが、桃陵の名に泥を塗るようなマネしやがって! ただで済むと思うなよ!」
凄みと同時に、思い切り繰り出された男の蹴りが氷川の脇腹を直撃――よろけた瞬間に抱えていた学生鞄が床へと放り出された。
既に周囲には何事かと集まって来た野次馬たちが、氷川を取り囲んだ一団を遠巻きにするようにして人だかりができ始めていた。とはいえ、自分たちは関わり合いになりたくはないのだろう。興味は示しつつも、ある一定の距離を取ったまま誰も近付いて来ようとはしない。
そんな状況にますます気を大きくしたわけか、男らが今度は数人で嬲るかのように氷川の肩先を突いたり、足下に軽い蹴りを繰り出したりしながら息巻き始めた。
「な、どうなんだって!」
「どういうつもりか説明してもらおうじゃねえの!」
「つか、何コイツ? おとなしくやられるだけって、情けねえのー!」
「停学食らったくれえで怖じ気付きやがったわけ? こいつ、ホントにあの氷川かよ?」
「おらおら、悔しかったらやり返して来いってんだよ! てめえ、強えんだろ? 俺ら全員まとめてブッ飛ばしてみせろって!」
「そうすりゃ、てめえはまーた停学に逆戻りだぜー!」
「つかさ、いっそ退学ンでもなりゃ清々するってーの!」
数人で氷川をド突き放題――、だが、いくら蹴りを入れようが突き飛ばそうが、大してよろけもせずに、ましてや反撃のひとつも繰り出さない直立不動の氷川の様子に、次第に焦れが高まりを見せる。そんな気持ちを悟られんとしてか、一団の中核人物らしい男がついには声を大に怒鳴り始めた。
「いいか、氷川! てめえみてえな腑抜けはもう”頭”でも何でもねえ! 今日から桃陵を背負って立つのはこの俺だ! 二度とデケえ面すんじゃねえぞ!」
そして、周囲の野次馬連中にも聞こえるように、
「てめえらもよく覚えとけ! 桃陵は今日から俺が仕切る!」まるで桃陵の”頭”が氷川から自分へと交替したことを宣言するかのような大声で、そう息巻いてみせた。
――と、そこへ氷川を取り巻いていた円陣を崩すように、間を割って入ってきた男が一人。長身のその男の存在に気付いたと同時に、彼に道を開けるかのように誰もがおずおずと一歩二歩と後退る。男の手には氷川の学生鞄が握られていた。
「先輩方、朝っぱらからこんなところで、みっともねえマネやめてもらえませんか」
口調こそ穏やかだが、その視線は鋭く、得体の知れない威圧感を伴ってもいる。彼のそのひと言で、今まで息巻いていた連中が思わず苦虫を潰したように静止状態となってしまった。たった今、自らが”桃陵の頭はこの俺だ”と宣言していた男さえもだ。
「――ッ、てめえ……二年の春日野か……。三年(うえ)の話に首突っ込むんじゃねえよ! すっこんでやがれ!」
威厳を保たんと一先ずはそう怒鳴ってみせるも、春日野と呼ばれた二年生を相手に、まともにやり合う気はさらさら無いらしい。どうやらこの下級生には、三年生である不良連中たちでさえ一目置いているような感が垣間見える。気まずい雰囲気が漂い始める中、遠目から生徒指導の強面の教師が駆け付けて来る様子に気が付いて、皆が蜘蛛の子を散らすようにその場を後にした。
そんな様子を横目に、無言のままの氷川と、そして春日野という下級生だけが昇降口に取り残される。
「あの、これどうぞ」
拾った鞄の埃を軽く叩いた後、春日野が氷川へとそれを差し出した。
「ああ、済まない。世話を掛けたな」
「いえ――」
春日野は、まるで氷川に対して敬意を表すかのように軽く一礼をすると、教室へと向かうべく静かにその場を後にして行った。
その後、教室へと向かった氷川を待ち構えていたのは、何とも奇妙な雰囲気であった。先刻の昇降口での騒動を目にしていた者も多いのだろう、誰もが腫れ物に触るように氷川を遠巻きにするだけで、『久しぶりだな』のひと言さえ掛けてくる者はいなかった。
これではまるで四面楚歌である。先程、氷川に絡んできた連中は別のクラスだったから、教室内では顔を合わせずに済んだが、正直なところ居たたまれない雰囲気であるのは確かだった。
そんな状況が続く中、数日が過ぎ――いよいよ冰が氷川邸に越してくる日を迎えようとしていた。
◇ ◇ ◇
そして週末――。
帝斗と綾乃木に連れられて、冰が氷川邸へとやって来た。
左程荷物は多くないが、それでも中型のトラックに当座の着替えや身の回りの必需品が積み込まれてきて、氷川邸では朝から賑わいをみせていた。
執事の真田と帝斗が一番張り切っているといった様子で、とにかく楽しげだ。当の冰は氷川と一緒に住むという事実に、気恥ずかしげにしながらも嬉しそうであった。
昼前にはすっかり荷運びも完了し、真田が用意したブランチを一同で済ませると、帝斗と綾乃木は引き上げていった。二人を見送り終えた後、氷川が使用人たち一同を集めて冰を紹介し、当分の間一緒に暮らすことを説明する。真田をはじめ、皆一様に雪吹財閥の名前はよく聞き及んでいるらしく、そこの嫡男である冰が氷川邸で暮らすことにたいへん好意的であるようだった。
「冰、うちの執事の真田だ。何か必要なことがあれば遠慮なく真田に言ってくれ。勿論俺に直接言ってくれても構わねえ」
氷川に紹介されて、真田が丁寧に頭を下げる。
「真田と申します。雪吹のお坊ちゃま、どうぞご自宅にいると思って、何でもお申し付けくださいませ」
「あ、はい。ありがとうございます。雪吹冰です。この度はお世話をお掛けして恐縮です。どうぞよろしくお願い致します」
皆の前で深々と頭を下げながらそう言った冰に、氷川邸の面々も嬉しそうであった。
「まさか白夜坊ちゃまにこんな素敵なご学友がいらしたなんて!」
「本当に! とってもハンサムな方でドキドキしてしまいますわ」
調理場やハウスキーピングを担当している中年のメイドたちがキャッキャと大はしゃぎである。
「酷え言い草だな。俺のダチにしちゃ出来過ぎだとか思ってんだろうが」
メイドたちを冷やかしつつも、本心では氷川も頼もしげだというのが丸分かりであった。
「冰、うちの連中は見ての通りミーハーなおばさん揃いだが、根はいい奴ばっかりだからよ。マジで遠慮しねえで何でも言い付けてやってくれな」
氷川がそう言えば、メイドたちは、「まあ、坊ちゃまったら嫌ですよ! ミーハーだなんて、ねぇ!」キャハハハと朗らかに笑いながら、氷川の肩先をバシバシと叩いて大盛り上がりだ。笑顔にあふれた氷川邸の人々の様子から、普段の氷川の暮らしぶりが窺えるようで、冰は心温まる思いがしていた。
そういえば、先日粟津家の運転手である佐竹の話の中でも、氷川がお邸の使用人たちに慕われていると聞いていたのを思い出した。
やはり彼は噂通りなのだということを実感させられる。氷川本人は『俺はいいヤツなんかじゃない』と言い切っていたが、こうして慕われている様を間近にすれば、これこそが本来の彼なのだろうということがしみじみと伝わってくるようだ。冰は、ますます氷川に対する気持ちが深くなってしまいそうで、戸惑いつつも胸の高鳴りを抑えることができなかった。