番格恋事情
「それじゃ冰、そろそろ二階へ行くか。お前の部屋を案内するぜ」
氷川に連れられて、冰はこれから住まわせてもらう部屋へと向かった。
階段を上がりながら周囲を見渡せば、氷川邸は本当に広い。フカフカとした毛足の長い絨毯が階段にまで敷き詰められていて、左右の手すりにはアイアン製の凝ったデザインが施されている。階段を上りきると広い踊り場を挟んだ左右に各部屋があって、シンメトリーな造りになっていた。
まるで高級ホテルのようでもあり、はたまた童話に出てくる城のような印象でもある。今にもドレスを纏ったお姫様が現れるんじゃないかと想像させられるような豪華な造りに驚かされた。
氷川の部屋は二階の中央付近にあり、一部屋おいた隣が冰の自室になるとのことだった。
「とりあえずクローゼットに服を掛けちまおうか」
帝斗らが置いていった段ボールの荷箱を開けながら氷川がそう言う。
「クローゼットはここだ。でもってこっちがバスルーム。風呂とトイレは部屋に付いてるから気兼ねなくていいだろ? 部屋の掃除とかベッドのリネンとかは、お前が学園に行ってる間にうちの真田の指示でメイドたちがやるから、見られたくねえモンなんかがあったらクローゼットか机の引き出しにでも入れておけな?」
まさにホテル並みの待遇である。机の上にはパソコンも完備してあり、自由に使って構わないという。部屋の中央に設えられたベッドは広く、ダブルサイズを上回る大きさなので、おそらくはクイーンかキングサイズであろうと思われる。天井高もあり広々としていて、一人で住むには勿体ない程である。冰は驚き顔で部屋の中央に突っ立ったまま、瞳をグリグリとさせながら室内を見渡してしまった。
「すごいんだな……。こんな立派な部屋に住まわせてもらうなんて、本当に恐縮で……」
「そんな言うほどのこっちゃねえだろ。粟津ンとこのホテルと比べたら狭いもんだろうが」氷川が笑う。その笑顔にも心が鷲掴みにされそうで、冰は頬を染めた。
「あの、白夜……」
「あ?」
氷川は段ボールから冰の持って来た服を引っ張り出しながら相槌を返す。そんな仕草のひとつひとつに心拍数が早くなる――。
「あの、ありがとう……な? 俺なんかの為にこんなにしてくれて……その、本当に俺……」
うつむき加減で頬を赤らめながらそんなことを言った冰に、氷川は荷解きの手を止めると、やわらかな笑みを浮かべながら立ち上がった。そして部屋の中央で所在なさげにしている冰へと歩み寄り――ポスンとその大きな掌を彼の頭の上に置く。
「ンなに気を遣うなって! お前のことは俺がここに呼びたくて、半ば強引に来てもらったようなもんなんだ。だから遠慮や気遣いなんか全然いらねえ」
そう言って髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「慣れるまでしばらく掛かるだろうが、気疲れしちまったんじゃなんにもならねえ」
「あ、ああ……そうだよな。本当にありがとう」
髪を撫でられたことで冰はますます頬を真っ赤に染めている。如何な理由があろうとも、いきなり他所の家で暮らすことになって色々と心許ないのだろう、氷川はそんなふうに思っていた。まさか冰がそういった遠慮の気持ちだけで頬を染めているのではない――などとは微塵も思わずに、できる限りの力になってやりたいと意気込みを新たにする。恋愛に疎いのは、案外冰よりも氷川の方なのかも知れない。
それらを体現するかのように、割合真面目な表情で氷川は言った。
「ンなことより、授業が終わったら寄り道しねえで帰って来いよ? まあ学園への送り迎えは粟津ンとこの佐竹さんが来てくれるっていうから安心だけどよ。放課後にダチとの付き合いなんかもあるだろうが、しばらくの間は我慢だ」
まるで『分かるな?』とでもいうようにじっと瞳を覗き込みながらそう言う氷川に、冰の方は茹で蛸状態だ。
「――なんてな。これじゃ、口うるせえ親父みてえだわな」
ポリポリと頭を掻きながら照れ笑いする様子にも、ますます身体の熱が上がりそうだ。
「そんなこと……ねえよ。有り難えと思ってる。マジで俺……」
「はは、そっか? だったらいいけどよ。ついうるさく言っちまってすまねえと思ってる」
「いいんだ。俺の為にそんなに考えてくれて……マジで有り難えよ」
「ん、そっか。そうだ、うるせえついでにもうひとつ――大事なことだ。粟津の方でもお前の家を傘下に入れる手はずは整えてるだろうから。そうしたらお前の叔父貴が川西ってヤツと連れだって、いずれは此処を嗅ぎ付けるだろう。お前がこの家にいるってことは伏せてあるが、万が一奴らが訪ねて来てもお前は部屋から出るなよ?」
「え……!? ……でも」
「もしも叔父貴が訪ねて来ても、俺と真田で対応する。お前は何も心配しねえで、この部屋で待ってるんだ。いいな?」
「うん……分かった。けど白夜……そこまでアンタに頼っちまっていいのか……? それに、真田さんにも迷惑を掛けちまうんじゃ……」
「そんなことは心配するな。それから――」
氷川は部屋の隅にある一つのドアの前へ冰を呼びながら言った。
「この扉は隣の部屋に繋がってる。もちろん双方から鍵も掛けられるが、鍵を掛けなきゃ部屋と部屋とが繋がるコネクティング仕様だ。いちいち廊下へ出なくても行き来できるようになってんだ」
扉を開けながらそう説明して、氷川は冰を隣の書斎へと案内した。
「ここは一応俺の書斎ってことになってるが、普段は殆ど使ってねえ。もしもお前が勉強やなんかで使いたければ自由に出入りして構わねえ」
「あ、ああ。ありがとう……」
それにしても本当に至れり尽くせりの豪華さだ。無論、冰の家とて財閥だから、似たような環境ではあるものの、どちらかといえば現代的な造りの自宅と比べて氷川邸は本当にレトロでクラシック感が漂っている。驚き顔の冰を他所に、氷川はそのまま部屋を突っ切ると、またしても次の間へと続くようなコネクティングの扉を開けながら言った。
「冰、ここも隣の部屋と繋がる造りになってる。そんでもって、ここが俺の部屋だ」
氷川に続いて足を踏み入れた瞬間に、冰はハッと瞳を見開いた。
ドキドキと心拍数が速くなる――
「散らかってるが、入れよ」
「あ、うん。すげえ……暖炉まであるんだ」
「ああ、殆ど飾りみてえなもんだけどな。今はエアコンがあるし、使うことはねんだけどよ。一応ちゃんと火は入れられるようになってるぜ」
「そうなんだ……」
コネクティングの扉から入って右側に暖炉、そして部屋の中央には自室には珍しいような応接セットがあり、左側が廊下へと通じる扉だろうか。応接セットの向こうには天蓋付きのベッドと、その横に小さく仕切られた小部屋がある。その小部屋の中は氷川がパソコンをしたり勉強をしたりできるスペースになっているとのことだった。そして勿論、この部屋もバス・トイレ付きである。ただ一つ違うのは、この部屋には次の間へと通じるコネクティングの扉がないということだけだった。
「この向こうは図書室になっててよ。その向こうが親父たちの書斎と寝室になってる。だからコネクティングにはなってねんだよ」
両親の部屋と通じる扉があったんじゃやりづらくて仕方ねえしな、そう言って氷川は笑ったが、では何故今見てきた三部屋だけは繋がる仕様になっているのだろう。冰は不思議に思ったが、まさか自分の為に用意してくれた部屋が将来迎える氷川の嫁の為の部屋だなどということは無論知る由もない。
「冰――、俺の方からは鍵は掛けねえから。何か困ったことがあったり用事があれば、いつでも訪ねてくれて構わねえ」
氷川は割合真面目な調子でそう言い、と同時に『お前の方からは鍵を掛けておいていいぞ』と付け足した。そしてすぐにニヒルに口角を上げると、
「じゃねえと俺が夜這いに行くかも知れねえぞ!」そう言ってハハッと爽やかに笑った。
おそらくは冗談で言ったのだろう。この家に来て緊張している冰の気持ちを少しでも解してやらんとする気遣いだったのかも知れない。だが、冰にとってはますます頬が染まってしまうようなひと言だった。
「あのさ……白夜」
「ん? 何だ?」
「俺も……鍵掛けねえでおくから……。夜這いとか……来てくれても……その、いいしよ」
視線を泳がせながら頬を真っ赤に染めてそう言った冰に、氷川の方はポカンと口を開けたままで目の前の彼を凝視してしまった。まさか冰からそんなことを聞こうとは思ってもいなかったからだ。あまりの驚きに、咄嗟に反応できないほどだったのだ。
「バッカ……。夜這いってのは冗談だってのよ……」
「え……!? あ、ああ……そう……だよな?」
冰も大胆なことを言ってしまったと、気恥ずかしそうにうつむく。そんな姿を目にした氷川は慌てて言い訳を探す。
「や、”冗談”っつのは違うっつか、その……行き来できた方が緊急時にも役立つかも知んねえしよ」
「ん、そう……だよな。だから……やっぱ俺ん方からも……開けとくから」
「あ、ああ。じゃ、通行自由っつーコトで」
互いに視線を泳がせながら、取り留めのないような会話を繰り返す。まるで初めて想いを打ち明け合う中学生のような二人だった。
その後、二人で冰の荷物を粗方片付け終わった頃には、すっかり夕刻になっていた。
真田も交えて三人で和気藹々。夕卓を囲み、冰は氷川と共に自室へと戻った。
「今日は疲れたろ。ゆっくり休めよ」
明日は日曜だし、少し寝坊をしてブランチを中庭のテラスで摂ろうという提案を残して、氷川も自室へと引き上げていった。無論、廊下には出ずにお互いの部屋と部屋とを繋ぐコネクテゥングの扉の方から帰って行く。その後ろ姿を見送り終えると、冰はふうと大きな溜め息と共にベッドへと腰を下ろした。そしてポケットから一枚のハンカチを取り出し、それを大事そうに両手で撫でる。先日、葉山の海岸で氷川に貰ったそれだ。
「……白夜」
刺繍された名前の文字を指先でなぞりながら瞳を細める。
叔父たちに連れ去られるかも知れないからということで、当面の間はこの邸で暮らすことを提案されたわけだが、あの葉山でのこと以来、氷川との仲は進展していない。
氷川も心底心配してくれているのは充分理解できるし、色々と一生懸命になってくれているのは確かだ。
だが冰にはどことなくそんな氷川が遠い存在に思えてしまうのも事実で、それが何とも気掛かりであった。
「俺ンこと、どう思ってんだろ……。あの日以来、話すことといったら俺の身を案じてくれることだけで……それは勿論すげえ有り難えんだけどな……」
あの日、『俺たちが本当の恋人同士になっちまえばいい。俺は自分の恋人を愛人に差し出すような腑抜けじゃねえつもりだぜ』と言ってくれた氷川の言葉が耳から離れない。今にして思えば、あのまま勢いに任せて抱かれてしまった方が良かったのではないだろうか――冰は後悔の心持ちでいた。
「やっぱ……あいつのことが好きなのかな……」
”あいつ”というのは四天学園の一之宮紫月のことだ。
『犯っちまいてえくらいに興味はあったってことだ』
氷川はそうも言っていた。
紫月という男の顔を思い浮かべれば、どうにもモヤモヤと心が苦しくなる。これが嫉妬なのだということは、如何な晩熟の冰にも何となく理解できていた。
「俺ンことは……犯っちまいてえ……って思ってくれねえのかな、白夜……」
ポスリと枕に顔を落としながら独りごちる。手にしたハンカチを見つめれば、胸の奥がキュッと摘ままれるように痛み出す。
「やっぱ夜這い……行っちまおうかな……」
氷川は今頃どうしているだろう。部屋と部屋とを繋ぐ扉に鍵は掛けないと言ってくれたことだけが、今の冰にとっては心の糧ともいえる唯一の支えであった。