番格恋事情

36 孤高の番格3



 その後、風呂に入り、一旦はベッドへ潜ったものの、やはりなかなか眠れそうにない。冰はむくりと起き上がると、隣の書斎へと続くコネクティングの扉へと向かった。
 そっとドアノブを回し、中を覗く。
 書斎には常夜灯が点いているだけで薄暗い。
 その向こう――氷川の自室の扉の隙間からは煌々と灯りが漏れているので、まだ起きているようだ。
 忍び足で扉へ近付くと、中からはテレビの音が漏れている。冰は思い切ってノックをしてみた。
「……白夜……? いるのか?」
 声を掛けたが返事はない。
 ドキドキしつつもノブを回して隙間から中を覗けば、バスルームの方からヘアドライヤーの音が聞こえていた。
 きっと風呂を出たところなのだろう、しばらくするとドライヤーの音が鳴り止んで、氷川がバスルームから姿を現わした。
「――! 冰じゃねえか! どした? ンなところで突っ立ってねえで入れよ」
「うん……」
 冰は言葉少なにコクコクと頷きながら、うつむき加減だ。それというのも氷川は下着一丁の姿で、バスタオルを首から下げているだけの姿だったからだ。
 まあ風呂上がりならそれで当然なのだが、あまりに整った筋肉質の肢体を目の当たりにして、どこに視線をやっていいやら恥ずかしくなってしまったのだった。
 これが普通の友人同士ならこんなにも意識することはないのだが、相手が氷川では少々話は別だ。経緯はどうあれ、当初はこの氷川に抱いて欲しいと頼んだくらいだから、ついそっちの方向で意識してしまうのは仕方のないことかも知れない。
 それにしても見事なくらいの体つきである。筋肉隆々というわけではないが、力のありそうな二の腕に広い肩幅、そして胸から腹にかけては薄っすらとだが整ったシックスバックス。しかも下着は肌にピッタリと張り付くようなブリーフタイプである。少々目の遣りどころに困るような出で立ちに、頬が染まらないわけがなかった。
 そんな冰の内心を知ってか知らずか、氷川の方はまだ汗を拭いながら朗らかな調子だ。
「風呂上がりでよ、暑っちーのなんのって! そろそろ扇風機でも出すかって時期だよな。お前の方はどうだ? 風呂は入ったのか?」
「あ、うん。風呂いただいて、寝ようと思ったんだけど。その前に……ちょっとアンタんとこ寄ってみよっかなって……思ってさ」
「おお、そうか。まだ時間も早えしな。何か飲むか?」
 部屋の中にミニバーも設えられているようで、氷川はそこから冷えたミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出すと、それを抱えて応接セットのソファにどっかりと背を預けるように腰掛けた。
「お前もこっち来て座れよ。ほれ、よく冷えてて旨いぜ」
 抱えていたクォーターサイズのペットボトルを差し出しながら、首筋に掛けたタオルで汗を拭う。
「今日は疲れたろ? お前、すぐ寝ちまうかと思ってたけどよ」
「ん、一応ベッドには入ったんだけどさ……」
「なかなか寝付けねえ?」
「ん、まあ……。いろんなこと考え出したら目が冴えちまって……」
「お前の気持ちはよく分かるさ。不安も多いだろうが、俺も真田もいる。粟津だっているし、何も心配することはねえって」
 ペットボトルの水を一気に半分くらいまで飲み干しながら、氷川が言う。
 飲みかけのそれをテーブルへと置く仕草、汗を拭う仕草、その一つ一つにドキドキとさせられてしまうようで、冰は何とも緊張気味だ。会話ひとつにしても、どんなことを話題にすればいいやら戸惑って、つい大胆なことが口をついて出てしまった。
「あの……白夜……!」
「ん?」
「えっと、今晩……その、俺ここで一緒に……」
「――あ?」
「えっと……この部屋で寝てもいい……かな?」
 氷川はポカンとした顔付きで、冰を見つめてしまった。
「あ……ごめ……。迷惑……なら自分の部屋に戻る……から」
 冰は頬を真っ赤にしながらうつむいた。
 自分でもかなり大胆なことを言ってしまったと、アワアワしてしまう。顔も上げられず、今しがた貰ったばかりのペットボトルを握り締めたまま視線を泳がせる。
 そんな様子を横目に、氷川はふいと瞳を細めると、
「一人じゃ寝られそうにねえってか? ならここで寝りゃいいぜ」
 穏やかに微笑みながらそう言った。
 冰は驚き顔ながらも、大きな瞳を目一杯開いて氷川を見つめた。
「ほんとに……いいのか?」
「ああ、いいって」
 氷川はソファから立ち上がりざまに冰の髪をクシャっと撫でると、「来いよ」そう言ってベッドへと向かった。
「そん代わり、俺が襲うかも知んねえぞー」
 悪戯そうな笑みを浮かべながら言う。冰の分のスペースを空けるように自分はベッド端へと寄り、掛け布団を腕で持ち上げながら手招きをする。
「このベッド、わりとでけえから二人でも狭かねえだろ?」
「あ、うん……さんきゅ」
 冰は氷川の腕の中へと転がり込むように布団に潜り込んだ。
「あのさ、白夜……」
「ん?」
「襲っても……いい……つか、俺……」

 襲われたい――

 さすがに言葉にこそ出せなかったが、染まった頬がそんな冰の気持ちを代弁しているかのようだった。
「バッカ……。冗談だっての! ンなことしねえから、安心して休めな?」
 冰のおでこをコツンを指で突きながら氷川は笑った。その瞬間、冰は胸の奥がチクリと痛んだような気がして、何ともいえない気持ちに陥ってしまった。

(何でだよ……? 何で白夜は平気な顔していられるんだろう。俺はこんなに心臓がバクバクして、飛び出しそうなくらいなのに……。傍にいるってだけで、堪んねえ気持ちなのに……!)

 やはり氷川はあの一之宮紫月のことが好きなのだろうか。だからこうして一緒のベッドに潜っているにも係わらず、余裕でいられるのだろうか。
 考えれば考える程、嫉妬やら不安やらで心の中にドロドロとした重いものが渦巻いてしまいそうだった。

 何もしてくれない氷川。
 雰囲気だけでいえば、例え出来心でも求め合うような流れになっても不思議ではないというのに、手さえ出してくれない氷川。
 そのくせ言葉では『襲うかも知れないぜ』などと大胆なことを言ってくる。悪戯そうに笑う様子は、ただ単に気持ちを解そうとして、わざと際どい冗談を言って盛り上げてくれているようにも受け取れる。
 身を案じてくれて、『俺がついているから何も心配するな』とも言ってくれて、やさしく穏やかに接してくれる。一人で眠れないと言えば一緒に寝てもくれる。なのに、それ以上は何もない。欲情の兆しさえ見せてはくれない。
 冰にはそんな氷川の心が分からなかった。まさか氷川が『自分には想いを告げる資格がないから、精一杯守ることでその想いに代えよう』と思っていることなど、想像すらつかないままで、一人悩み苦しむのだった。

 こんなにも傍にいるのに、酷く遠い存在に思えてしまう。何だか切なくなってしまい、冰は今にも泣き出しそうになるのを必死で堪えていた。
「じゃあ……おやすみ……。今日はいろいろありがとな」
 そう言って氷川に背を向けるように寝返りを打った。その声は弱々しく、ともすれば涙にくぐもっているかのようだ。そんな様子を変に思ったのか、氷川は心配そうに顔を覗き込んだ。
「おい、冰――? どうした?」
 半身を起こし、冰の背中を抱き包むような形で覗き込む。
「……どうもしねえ、何でもねえから……」
「何でもねえって顔じゃねえだろうが――」
 もうあと一週間もしない内に川西という男が帰国する。粟津家が雪吹財閥を傘下に入れる日も近い。それらが重圧となって不安なのだろうか――氷川はそんなふうに思ってしまっていた。
「お前が不安なのは分かってるつもりだ。けど、心配するな。どんなことがあっても、例え本当に叔父貴たちがここへやって来ても、俺が全力で守る。約束する。だから――」
「そうじゃねんだ……!」
「――冰?」
「……そうじゃ……ねえんだ。叔父や川西のことも……気にしてないわけじゃない。けど……だけど俺は……それだけじゃなくて……」
「何だ? 何でも言えよ。遠慮しねえでいいんだぜ」
 氷川は冰を不安がらせるまいと、やさしく髪を撫でながらそう言った。

「白夜、ごめん。俺……、俺は……」

 アンタのことが知りたい。
 どうしてこんなにまで良くしてくれるのか、なのにどうして何もしてくれないのか、アンタには好きな人がいるのか、それはあの一之宮紫月って人のことなのか、俺のことはどんなふうに思ってくれているのか。
 この家にまで呼んでくれて守ってくれるっていうのはどうしてか、単に同情なのか、それとももっと特別な感情を持ってくれてのことなのか――全部全部知りたい。

 だが、冰にはそれらを言葉に出して氷川に伝える勇気がなかった。訊きたいくせに、答えを聞いてしまうのが怖いというのも本当だったからだ。
 苦しくて、切なくてどうしようもない。今までこんな気持ちになったことはなかった。

 これが恋の感情なのだということを、冰はまだ自覚できずにいた。今までは格別に好きになった相手もいなかった冰にとっては致し方ないことなのだが、上手く感情のコントロールがきかないまま、気持ちだけが高ぶっては言いようのない不安感に苛まれる。行き所のない気持ちが無意識にあふれ出した涙となって、冰の頬を濡らした。

「冰――? おい、どうした?」
「……んでもない……何でもねんだ……」
「何でもねえわけねえだろ……! 冰、無理にとは言わねえ。俺には言いたくねえことだってんなら仕方ねえ。けど、言っても構わねえことなら我慢しねえで話せよ」
 心配そうに訊いてくれる声音は至極真面目だ。本心から気に掛けてくれているのがヒシヒシと伝わってくる。冰はもうすべてが堪えきれずに――いや、抱えきれずにというべきか、胸の内に溜めていることが止め処なく口をついて出てしまいそうだった。
「ごめん、白夜……。俺、欲張りなんだ……」
「――冰?」
「アンタに……こんなに良くしてもらってるのに、それだけじゃ足りなくて……」

 足りないとはどういう意味だろう――氷川は逸る気持ちを抑えながら話の続きを待った。

「冰、何でもいい。どんなことでも――俺にできることがあれば全力で力になる。だから遠慮しねえで言ってくれ」
「ん、ん……ごめん。じゃあ聞いて……」
「ああ、勿論」
「正直、俺にもよく分かんねんだ……。何ていうか、その……俺、苦しいんだ……」
「苦しい? 気持ち的に辛えってことか? それとも……どっか具合でも悪いんなら……」
 氷川の問いに、冰は枕の上でフルフルと頭を振りながら言った。
「アンタには……誰か好きな奴がいるんだろうかとか……俺はどう思われてんだろうとか、考え出したらキリがなくなって……すげえ苦しくなるんだ。心臓が縮み上がるっつか……誰かに掴まれてギュウギュウ握り潰されるような感じで……!」

 すげえ苦しくて――堪らないんだ!

「俺、こんなん初めてで……どうしたらいいか分かんねんだ。俺は……あの番格勝負の時、アンタに初めて会ったあの時から……毎日毎日アンタのこと考えない日はなくって……。ずっと、あの日からずっと……どんどん苦しくなって、不安になったり嫉妬したり泣きたくなったり、ぐちゃぐちゃなんだ……! 本当にもう……どうしたらいいか分かんねんだ……!」
 取り留めもない言葉の羅列だった。
 だが、懸命に――本当に辛そうに眉をしかめて瞳を震わせながらの告白に、氷川は驚いた。あまりに驚いてか、しばし硬直したまま相槌さえすぐには返せなかったくらいだ。
「……冰、お前……それって」
「おかしいだろ? 自分でもワケ分かんねんだ……」
「そっか――そうか……」
 氷川は切なげに瞳を細めると、後方から冰を包み込むように抱き締めた。
 そうされて驚きつつも、冰はその温もりが堪らない程あたたかくて、と同時に切なくて、今にも零れ出しそうな涙を必死に堪えていた。
「白夜……ごめ、ごめんな……。俺、こんなにしてもらってんのに……勝手なことばっか……」
「俺も――同じだ」
「……え?」
「お前だけじゃねえ。俺も――苦しいよ」
「……白夜……?」
「俺は今まで好き勝手にやり過ぎた。学園でもしょっちゅう問題起こしちゃ、両親や真田にも散々迷惑掛けてきた。犯罪まがいのことだって平気でしてきた――。お前のことも……粟津に事情を聞いてお前に再会してから、どんどん惹かれてったのは否定しねえよ。お前を辛い目に遭わせたくない、守ってやりてえって思ってるのも本当だ」
「白夜……」
 背中に氷川の温もりを感じながら、冰は驚きに瞳を見開いた。

 今、確かに氷川は『お前に惹かれている』と言った。はっきりとそう言った。その言葉を聞いて、ドキドキと急激に心臓が高鳴り出す――

「けどよ、冰――。こないだも言ったが、俺はお前に気持ちを打ち明けるられるような資格はねえって思ってんだ……。お前みてえな綺麗で純粋な奴に俺なんてクズ野郎は釣り合わねえ……。イキがって、悪りィことばっかして、褒められるところなんざこれっぽっちもねえ。どんなにお前に惹かれてようが、諦めなきゃいけねんだって……」
「それって……やっぱりあの……一之宮君のこと……?」
「――!」
「こないだ言ってたろ……一之宮君に酷いことをしたから……って。それが引っ掛かってるのか? それとも白夜は……あの人のことが……その、好きなのか?」
 ついぞ一番訊きたいことが口をついて出てしまった。
 氷川は切なげに苦笑しつつ、冰の髪を撫でながら言った。
「そうじゃねえ。一之宮にしたことは――本当に後悔してる。悔いても悔いきれねえくらい。逆に言うなら、本気であいつのことが好きであんなことをしたんなら、まだマシだったのかも知れない。けど、俺は単にあいつをねじ伏せたい、番格としてあいつの上に立ちてえってだけであんなことをしちまった……。それだけじゃねえ。お前と出会う前も――ただの好奇心や遊びで女と寝たこともある。好きでも何でもねえ女と……だ」

 二人の間で声が遠く近くに歪み、揺れる。
 背中と胸とがこんなにもぴったりと寄り添っているのに、まるで手の届かない夢幻のようだ。水面に浮かんだ月を手に取って掴むことができないように、すぐ目の前にあるのに触れることさえ叶わない。息遣いを感じるほど傍にいるのに、遠く、遠く――果てしなく遠くにいるようで心が砕けそうだ。

 ガクガクと身体が震え出すのがとめらない。無意識にあふれ出す涙もとめられない。




Guys 9love

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