番格恋事情
それから数日は平穏な日々が続いた。
氷川に対するクラスメイトたちの雰囲気も、すっかり停学を食らう以前に戻って和気藹々だ。不良連中に使いっ走りにされていた後藤も動揺で、特に誰も絡んではこない。それは他のクラスでも違わずで、後藤のように目を付けられていた連中にとっても同じだった。
氷川が後藤を庇って以来、昼の弁当を買いに行かされるという事件は起こっておらず、また、その他にも金を揺すられたりする事例も息を潜めたように収まりを見せていた。
本来、喜ばしいことではあるが、反面不気味でもある。例の早瀬引き入るグループが、ここ数日はすっかりナリを潜めているというのは、何か良からぬことの前兆のようで焦燥感が拭い切れない。事件が起こったのは、そんな或る日の放課後のことだった。
「大変だ! 後藤が……ッ、後藤が連れて行かれちまった……!」
ホームルームが済んでしばらくの後、皆が帰り支度で賑わっている教室内に狂気のような叫び声が響いた。バタバタと蒼白な表情で、三人のクラスメイトたちが飛び込んできたのだ。
「い、今……帰ろうと思ったらよ、昇降口で後藤が例の早瀬たちに絡まれてるのが見えて……!」
「氷川! 良かった、まだ帰ってなかったか! やべえよ……! あいつ、奴らに引き摺られるようにして連れてかれちまった……」
ちょうど教室を出ようとしていた氷川の元へなだれ込むようにして彼らが息を上げながら集まって来た。
「連れてかれた!? 何処へ?」眉根を寄せながら氷川が問う。
「た、多分……元の部室……! ほら、今年の夏休みあたりに取り壊しになるとか言われてる……。校門とは反対方向に行ったから……おそらくあそこだ」
その場所なら氷川も知っていた。少し前に体育館の補修工事が行われた際に部室も新設され、旧部室は取り壊しになると言われているのだ。しかも、新しいものが建ったお陰で人の目には付きにくい――不穏なことをするにはもってこいの場所だ。
「ほら、この前……後藤と同じようにパシリにされてたヤツがボコられたって言ったろ? そん時もあの部室でやられたって聞いたし……」
「クソッ……! 何てこった!」
氷川は鞄を置くと、急ぎ足で教室を出て行こうとした。
「ちょ……! ちょい待ち……ッ! 行くのかよ、氷川……」
「――ったりめえだろ! 後藤一人にしておけるか!」
クラスメイトたちが次々と氷川の元へと駆け寄っては、心配そうに表情を曇らせる。
「けど……気を付けろよ……。多分、これは……罠だ」
「罠――?」
「多分だけど……あいつら、お前が戻って来てから……幅効かせられなくなったんで、その腹いせなんじゃねえかと思う……」
「そうだよ! 後藤を拉致れば、必ずお前が助けに来るって……ぜってえそれ目的に決まってる……」
「それを証拠に、俺らに気が付いてんのに……ニヤニヤ笑ってたし……」
皆が次々にそう口走る。氷川は更に険しく眉根を寄せると、
「――だったら尚更だ」
皆の懸念を無視して、一目散に教室を飛び出して行った。
「氷川……ッ! おい、待てって氷川!」
皆で氷川を追い掛けるように階段を駆け下りて昇降口へ向かうも、既に氷川の姿はなかった。
「おい……どうするよ……?」
「……どうするったって……」
「俺らも行った方がよくねえ……か?」
「けど……」
迷うだけで埒があかない。気持ちの上では追い掛けるべきと分かってはいても、最初の一歩が踏み出せない。皆一様に重苦しい雰囲気に押し潰されそうになっていた――その時だった。
「先輩方――」
後方から突如声を掛けられて、全員が一斉に振り返った。と、柱二本分ほど離れた位置から、眼力を伴った一人の男がこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「すみません。今、氷川さんが血相変えて走って行ったのを見たんですが――」
声を掛けてきた男を見るなり、皆が驚いたようにして彼を凝視した。
「お……前、二年の春日野……か?」
彼の顔には見覚えがあった。一学年下の春日野という男だ。先日、氷川が停学明けで登校してきた際にも、早瀬らと氷川との睨み合いに割って入った程の度量を持ち合わせた男である。
桃陵学園で氷川の後を継ぐのは、この春日野だと噂されていたから、誰もが関心を持っていたわけだ。
彼もまた氷川と同様で、皆に崇められてはいるが、早瀬らのような汚いことは一切しないという。筋の通った男としても名が知れていたのも確かであった。
「何かあったんですか?」
「あ、ああ……実は――」
春日野に声を掛けられたことで、誰もが言いようのなく逸った思いが抑えられない。一同は後輩である彼に縋るようにして、事の次第を説明したのだった。
◇ ◇ ◇
その頃、早瀬らによって連れ去られた後藤は、五、六人のガラの悪い連中に囲まれながら、旧部室に引っ張り込まれて震えていた。
声一つ出せずに生きた心地がしないといった表情で、その顔色は蒼白いを通り越して真っ白といった調子だ。まるで生き血を抜かれた人形のような形相で縮こまっていた。
そんな後藤を面白おかしそうに突っつきながら、早瀬らは意気揚々だった。
「おい、お前! 後藤とかいったっけ? いいか、氷川が来たら大声で”助けてください”って叫ぶんだぞ!」
「そうそ! そうすりゃ、てめえには手ぇ出さねえでやるよ!」
「ま、こーんな情けねえ野郎を痛めつけたところで、面白くもクソでもねえしな!」
「つか、こんなのボコったっつったら、俺らの格が下がるってもんでしょ?」
ギャハハハと品の悪い笑い声が寂れた部室に充満する。
どこかしこが埃だらけで、以前使われていたロッカーは錆びがきていて、誰かの忘れ物のような鞄やら、汚れた運動着やらが部屋の隅っこに放置されている。廃墟化した光景が、より一層後藤の気持ちを煽ってもいた。
「あの……、氷川君が……来るって……ここに……ですか?」
別段しゃべるつもりでもなかったのだろうが、恐怖心が後藤にそう言わせる。先程から目立って酷い暴力などは受けていないが、時折、弄ぶように頭を小突かれたり肩先を押されたりしていて、恐怖のどん底なのだ。
早瀬らは、ますます面白がるように後藤を突きながら言った。
「てめえは氷川を釣る為の餌だからな。てめえが俺らに連れてかれたって知れば、必ずあのバカは来るって!」
「……ったくよー、あいつが停学ンなって清々してたってのよー! しっかり戻って来やがって!」
「ホーント! あのクズ野郎、桃陵の頭だなんて崇められていい気になりやがってよ! 街中でちょーっと他校の奴らに絡みゃ、あいつが出てきて英雄気取りだしよ。カツアゲはするな、パシリにするなって、まーったくウゼえったらねえよ」
これまで下校途中の街中などで、自分たちよりも弱そうな連中を見つけては、突っついたり金を巻き上げたりしてきた早瀬らだが、運悪く氷川に鉢合わせることも少なくはなかった。
その度に巻き上げた金を返してやれと取り上げられ、苦汁をすする思いをしてきたのだ。
逆に、救われた者たちは氷川に恩を抱き、尊敬の眼差しを向ける。早瀬らには最低のクズ集団というレッテルが貼られる。誰かが言葉にしてそう言ったわけではないが、そんな雰囲気が浸透していくようで、腹立たしいことこの上なかったというわけだ。
「氷川のことは前々から勘に障って仕方なかったんだよなー!」
「ほんと! いつかブチのめしてやりてえって思ってたけどよ! 今がその機会ってやつだろ!」
「あの野郎、停学明けてからいっつも独りでいるみてえだしな。頭が早瀬に交替したってのは、もう桃陵中に伝わってるしな。今までヤツを取り巻いてた連中も離れてってるみてえじゃん」
「そうそ! 今まではヤツにも一応は取り巻き連中がいたんで、なかなか手が出せなかったけどよ。周りの連中も離れてったことだし、ヤツ一人ならどうとでもなるじゃん! なあ?」
つまりは今が絶好の機会と踏んだのだろう。早瀬らはすっかり周囲が氷川を見放したと思い込んでいるようだった。
「なのにこの前はまた出しゃばったマネしやがって!」
「この後藤とかいうヤツを救うところを見せ付けて、クラスの連中に威厳を示したかったんじゃねえの?」
「あーははははっ! すっげ! ンなことしたって桃陵の頭を取り戻せるわけねっつのになあ!」
「ほんっと、バッカなヤツ!」
言いたい放題である。
後藤にしてみれば、先日弁当を買いに行かされる際に、迷わず仲裁に入ってくれた氷川をそんなふうに言われるのは堪らない。汚い言葉での詰り放題を聞いているだけでも、涙が出そうになる。
かといって、今この場で彼らに逆らうことなど到底できっこない。
後藤は、そんな自分を情けないと思うと同時に、誰かに対してこうまで酷い言葉で詰れる早瀬らが怖くもあり、身の縮む思いでいた。
――と、その時だった。いくつか並んでいる部室の端の方から、扉を開けたり閉めたりする音が聞こえてきた。忙しなくバタバタと逸ったような調子で、誰かの足音も近付いてくる。
「後藤! 後藤、いねえのか!」
足音と共にその叫び声が聞こえて、後藤は驚いたように瞳を見開いた。
「ほーら、言った通りだろ? 氷川のヤツ、お前を捜しに来やがった」
早瀬らは得意げだ。
「ま、まさか……そんな……俺は氷川君とはそんなに親しく……な」
そう、普段から交流はおろか、クラスの中でもタイプの違い過ぎる氷川と後藤ではしゃべることさえ稀な仲だ。そんな氷川が本当に自分を助けにやって来るとは思いもよらずに、後藤は信じられないといった顔付きでいた。
「後藤! 何処だ、後藤!」
叫び声が近付いてくる。間違いなく氷川の声だ。
「そんな……どうして……」俺なんかの為に――後藤はハラハラとした顔付きながら、震える肩先を両腕で抱き締めるようにしながら、声の主の方を見つめた。
「後藤!」
勢いよく扉が開かれる――。
そこには余程急いで来たのだろうか、ハァハァと息を上げた氷川がたった一人で飛び込んで来るのが分かった。
「ひ、氷川君ッ……!」
裏返った声で咄嗟にそう叫ぶと共に、思わず彼に向かって走り寄ろうと後藤が無意識に一歩を踏み出す。――が、それを制止するように、早瀬の仲間らが両脇から後藤の腕を掴み上げて拘束した。
「おおーっと! 勝手に動いてんじゃねえよ!」
「誰が解放するっつったよ!」
頭をこづかれ、足には少々強めの蹴りを食らって、後藤は怯えたように「ひぃ!」と言って身を縮める。その様を目にした氷川が、思い切り眉根を吊り上げた。
「てめえら――後藤を放せ。今すぐだ!」
怒鳴るとまではいかないながらも、険しい口調で氷川は言った。
視線は鋭く、だが怒りに震えているといったわけではなく、どちらかといえば落ち着いているといえなくもない。
「は――! 何カッコつけてやがる! 英雄気取りしやがって!」
早瀬自らがチッと舌打ちと共にそう吐き捨てた。正直なところ、大声で『何しやがる』くらいの勢いで焦る氷川の様子を嘲笑うつもりでいたというのに、鼻っ柱を折られた気分なのだ。
と同時に、予想外に落ち着いた氷川の態度に不気味さを感じざるを得ない。
「後藤を放して今すぐここから帰せ。てめえらの目的は俺だろうが?」
落ち着き払った声で言う氷川の腹の内がまるで読めない。
早瀬らは六人、対して氷川は一人だ。後藤を足せば六対二だが、ハナから数には入らないだろうし、氷川にとっては足手まといになるだけだろう。
それなのに焦りさえ見せないこの態度――早瀬にとっては、得体の知れない威圧感が勘に障ると共に、ゾクリと背筋に寒気が走るような心地だった。
そんな空気を薙ぎ払うかのように早瀬は氷川に向かってがなり立てた。
「指図してんじゃねえよ! こいつに手出されたくなかったら、今すぐここで土下座しろ!」
床に溜まった土埃を撒き散らす勢いで蹴り上げて、仲間に拘束させている後藤の胸倉を掴み上げる。
「おら! 早くしねえかっ! てめえ、土下座は得意なんだろ!? 何せ……四天の一之宮に頭下げたってくれえだしなっ!」
できないというなら、本当にこの後藤をボコボコにしてやってもいいんだぜとばかり、これ見よがしに彼の髪を掴み上げては突き放したりを繰り返す。後藤の方は、当然こういった対峙にも慣れていないのだろう、脅される度に、「ひぃッ!」という涙まじりの声を上げてはガタガタと震えている。
致し方なくか、氷川は無言のまま、ゆっくりとその場で膝を折って正座の姿勢を取った。
「ほーお? 随分素直じゃん!」
その場の皆が驚き顔の中、実に一等驚いたのは早瀬だったかも知れない。信じられないといった表情で、しばし硬直するも、次第に下卑た笑みを浮かべ始める――
「へえ? まさかコイツの為に本当に土下座するとはね?」
如何に人質がいるといえども、この氷川のことだ。もしかしたらこの場で全員ブチのめされるなんていうことも考えられなくはない。早瀬はそんなふうに思ってもいたのだろう。
それが、ブチのめすどころか言われるまま素直に従っている。さすがの氷川でもこの人数を相手取っては勝てないと踏んだに違いない――そんなふうに読んだのか、早瀬はみるみると上機嫌になり、調子付いていった。
桃陵学園に入ってからこのかた、目障りで仕方なかった氷川が今、目の前で無様な格好でいる。早瀬はこれ好機と、先ずはその肩先目掛けて足蹴りを繰り出した。
「おら! 何、ツラ上げてんだって! 土下座だ、土下座っ! 床に手ぇ付いて頭下げろっての!」
怒鳴り散らしながら、今度は逆側の肩先を蹴り飛ばす。だが、結構な力を入れたにも係わらず、氷川の姿勢は大して崩れない。加えて言うなら、表情さえ変えない。
かといって反撃に出ようともせずに、ただただおとなしく正座の姿勢のまま動こうともしない。そんな氷川に、焦燥感が半端なく煽られる――
恐怖に苛立ちを煽られてか、
「クソッ! どこまで図太てえ野郎だよ! 構うこたあねえ、全員で畳んじまえ!」
早瀬は仲間にも参戦させると、全員で氷川を取り囲んで、方々から袋叩きにし始めた。
さすがの氷川も全方向から蹴りを食らえば、全く姿勢を崩さないというわけにもいかない。蹴られた勢いで身体が前後左右に振られはするが、それでも尚、表情ひとつ変えずに未だ土下座の姿勢を崩さずにいた。
「くそっ……! マジしぶてえ野郎だな!」
「なあ、……せっかくだからさ。コレでやんねえ?」
焦れた誰かが終ぞ木刀を持ち出した。
そういえば、他所のクラスの誰だかを木刀で袋叩きにしたらしいとクラスメイトが言っていた。
そんなことを思い出しながら、氷川は僅か苦笑と共に腹を据える。さすがに木刀で殴られれば堪えるだろうが、ここで手を出せば後藤にも危険が及ぶかも知れない。
ここはおとなしく耐えるしかない――そんなふうにでも思っているのだろうか、微動だにしない氷川の内心が読めないことで、早瀬らはますます憤ったようにして木刀を振り上げた。
ドス――という鈍い音と共に先ずは背中から一撃が加えられる。次に他方向から別の一人が脇腹目掛けて一撃を振り下ろす。そしてもう一撃、今度はその逆方向から――といったようにして、数人が一斉に叩き付ける。
その衝撃で、氷川が床に突っ伏すように姿勢を崩したのを見て、一同はホッとしたように表情を緩めた。
いくら蹴りを入れようが、全員で取り囲もうが、焦りさえ見せない氷川に、少しの恐怖めいたものを感じていたのは否めなかったようだ。ようやくと攻撃の効果が現れたことに安堵したわけか、それまではなるたけ遠巻きの姿勢で足蹴りだけを繰り出していた連中が、調子付いたようにしていよいよ氷川の胸倉を掴み上げた。
そして、思い切り張り手を食らわし、拳で頬を殴り付け、合間には蹴りを入れ――少しでも氷川が受け身の姿勢を取らんとすれば、それを叩き潰すかのように木刀での一撃を加える。まるで蛸殴りのような状態がしばらく続いた。
部屋の隅では後藤が頭を抱えて目を瞑ったまま、腰が抜けたようにして悲鳴を上げていた。自分の代わりに氷川が殴られているのだと、頭では重々承知していても、恐怖に身体が硬直して動けないのだ。時折、「氷川君、氷川君」と涙声で呟きながらも、参戦はおろか、どうすることもできずに震えているしかできない。後藤にとっては、ボコボコという殴る蹴るの音を聞いているだけで、今にも気を失ってしまいそうなくらいの地獄絵図だった。
「……ぐッ……ぅッ」
終には限界を迎えたわけか、苦しげな呻き声と共にガクりと長身の身体が床に投げ出される。それを見て取った早瀬らは、ようやくと攻撃をやめると、ノビてしまった氷川を取り囲んで、その様を嘲笑うかのように靴底で頭を踏み付けた。
「は――ッ! なーんだ、氷川なんて大したことねえじゃん!」
「ほーんと! こんなんでよく今まで”頭”だなんていえたもんだわ!」
「ざまあねえっつか、拍子抜けっての? もうちょい根性のあるヤツだと思ってたけどな」
ガハハハと、下卑た高笑いが狭い部室の中に響き渡る――。
「ついでだから、もうちょい遊んでやっか」
ノビてしまったとはいえ、まだ苦しげに顔を歪めながらも意識はあるような氷川の胸倉を掴み上げ、張り手を食らわせんとしたその時だった。
ドガッ――という激しい轟音と共に、部室の扉が蹴破られたのに、一同はギョッとしたように動きをとめた。