番格恋事情
次の日、紫月は大幅に遅刻をして登校した。
あと一科目で昼休みという時分にふらりと出向けば、「最上級生という大事な時期に何をやっているんだ」と担任から小言を食らう。
だが、半ば無気力で格別に望んだわけでもない昨夜の情事のせいでか、ダルさは抜けず言い訳も謝罪のひと言さえかったるい。そんな様子に担任は呆れ返って大袈裟な溜息まじりで、お手上げとばかりのゼスチャーを繰り返した。
親友の剛や京らも「おいおい」といった調子でニヤケながらも、しょーもねえなとからかい半分の視線を飛ばす。
チラリと上目使いに窺った自らの席の隣には、お約束とばかりに例の転入生の男が行儀のよく物静かに座っているのが目について、紫月はますます気だるそうに大きな溜息をついてみせた。
何故だろう、彼を目にした瞬間から説明のつかない奇妙な感情に支配される――
まったくもって気が重いといった調子で、わざと彼を避けるように視線も合わさずにドカリと自らの席へと腰を下ろした。その時だ。
「あの、済まないが次の授業の教科書を見せてくれないか?」
予想だにしない問い掛けに、ギョッとしたように真横を振り返った。
「あ……悪い。実は俺、まだ教科書が揃っていなくて……迷惑を掛けて済まないが一緒に見せてくれないだろうか」
生真面目な顔つきでそんなことを言われて、ますます驚いたように硬直してしまった。
少し申し訳なさそうにしながらもじっと見つめてくる真っ直ぐな視線に、急激に心拍数の上がるのをはっきりと感じる。
『どうぞ』とも『いいぜ』とも返せないままにしばし視線が絡み合う。
珍しい濃灰色の瞳はそれだけでドキッとさせられる魅力を充分に含んでいて、思わず見とれさせられてしまうくらいにとても綺麗だ。
ふと、昨夜の怠惰な情事に身を任せた投げやりな自分が思い浮かんで、後悔の念が脳裏をかすめた。
「いいよ、どーせ俺にゃ必要ねえようなモンだし……貸してやるよ」
バクバクと速まる心拍数を隠したいというのも勿論あったが、だらしのない自分に対する後悔の念を拭いたいとでもいうように、紫月はわざとつっけんどんに隣の男へと教科書を差し出してみせた。冷たく強がったそんな態度をとることでしか、今の自分の嫌なところを取り繕うことができなかったのだ。
だがそんな思惑に反して、転入生の男は『めっそうもない』といった調子で、いきなり机をくっ付けてよこした。
「ちょっ……! 何やってんだてめえ……」
「あ、いや……俺だけが貸してもらったんじゃ申し訳ねえから。ちょっと窮屈かも知れねえが、勘弁してやってくれねえか」
当たり前のように側に寄り、くっ付けた机と机の真ん中に教科書を広げては済まなさそうに瞳を緩めて軽く会釈をする。突然の展開に、紫月の方は珍しいものでも見るような感じで、面喰った表情のまま茫然とさせられてしまった。
何とも強引なこの男に押し切られるようにして授業に突入――ちらりと視線をやれば、真新しい制服の袖がすぐ傍で書き物をしながらかすかにうごめいているのが目に付いた。
(この野郎、左利きかよ――)
右隣に座った彼の左手が、先程から懸命にペンを走らせているのだ。
黒板を写しているのだろうその姿が見掛け通りのクソ真面目を物語ってもいるようで、大層なこったと感心半分、呆れ半分。だがその微かな動きのたびに、まるで体温までもが伝わってくるような気がして、心拍数に拍車が掛かるのをひしひしと感じさせられる。
紫月の席は窓際の一番後ろ――
後方から誰かに見られているといった心配は無いものの、こんな緊張感のままに一時限を耐えなければならないと思うと、とてもじゃないが窮屈な感じがして、ムズムズと身をよじってそれらを振り払いたい気分だった。
そんな気持ちのままに、春風が心地よい外の風景へと視線を逃がした。
と、その春風までもが加担するといったように、自分たちの間に置かれた教科書のページを悪戯に揺らして、
「わ……っ!」
「あ……!」
出来過ぎたお約束の如く、指と指とが触れ合って、ドキリとさせられた。
「ああ、悪いな。外、風強えのかな?」
隣から少々身を乗り出すようにしながら窓の外に視線を放る。それと同時にニコリと軽く微笑まれて、紫月はますます硬直させられてしまった。
こいつでも笑うことがあるんだ。
何故そんなことを思ったのかは分からない。
第一、会って間もないこの男の笑顔を見るのが初めてであっても、何ら不思議はないはずなのに、ひどく印象に残って仕方がない。
そういえば随分と流暢な言葉使いにもヘンな新鮮さを感じて奇妙な気分だ。香港から越して来たというわりには違和感の無さすぎる口調が、かえって引っ掛かるくらいだ。
向こうで生まれ育ったというのなら、どちらの国の言語も話せて当然というところなのだろうが、それにしても出来過ぎた感がかえって奇妙に思えるのは確かだ。
まあそれのみならずといったところだが、この男のやること成すことがいちいち目については気に掛かって、そのたびにモヤモヤとした心持ちにさせられるのではたまったものじゃない。
まるでこの男に興味津々だということを何度でも自覚させられるようで堪らなかった。
早くこの時間が終わってくれ!
紫月は心の底からそう願っては、参ったというように頭を抱え込んで机に突っ伏した。
「なあ、あんたさ……名前、一之宮だっけ?」
その突っ伏した顔を覗き込むようにしてそんなふうに囁かれたのに、ビクリと隣を振り返れば、すぐそこに男の顔面ドアップがこちらを見つめていて滅法驚かされた。
「おわ……っ!」
突如大声を上げそうになり、慌てて背を屈める。
チラリと担任がこちらを睨みつけたような気がしたが、前の席の連中の背中に隠れるようにしてとっさにやり過ごした。
「悪りィな、驚かせちまった?」
同じように背を屈め、担任の視線から隠れるようにしながら、隣の男が微笑んでいる。今度はしっかりとこちらを向き直っては、少々おどけたように白い歯までをも見せて笑っているその様子にますます茫然、
「……っ、何なんだよてめえ……! つか、なんでてめえも一緒ンなって隠れる必要あんだって……」
「え、いや何となく……」
今度はクスッと照れたように微笑んでよこす。
冷静になって考えてみれば、何てことのないこんなやり取りに一喜一憂、バクバクとさせられていることに気付いて、ますますやりにくいったらこの上ない。
こちらのそんな気持ちには微塵も気付かずといった調子で、男の方はより親しげな笑顔を向けてくる。
「一之宮、何ていうの?」
「は――?」
「名前の方、何ていうのかと思って。俺は遼二。鐘崎遼二ってんだ」
「え!? あ、ああ……名前ね……知ってんよアンタの。転入生紹介の時、担任が言ってたし」
「そっか。ま、改めてってのもナンだけど……よろしくな?」
(何なんだ、何なんだ、いったい――! いきなり自己紹介かよ!)
この懐っこい感じに悪戯そうな笑顔。ほんのさっきまで威圧感さえ持ち合わせ、仏頂面だと思っていた見せ掛けをあっさりと裏切るような突然のフェイント。
予期しないギャップに思わず頬が染まるのをとめられない。
しかもそうされて嫌じゃないと思っている自分がいて、何よりそっちの方が驚愕だ。
『嫌じゃない』どころか、明らかに心が弾んでいるのを否定できない。訊かれた『名前』も満足に答えられないままに、舞い上がっていることさえ信じたくはない。
ふと、漠然と浮かんだ一つの空想に、紫月は思わず癪だというように唇を噛みしめた。
そうだ冗談じゃない。朗らかな誘いに乗ってホイホイ友達になって、この男の知らない面をどんどん垣間見てはほだされて――
挙句、奇妙な感情を持て余しては行き処のない想いにのた打ちまわる、そんな行く末が瞬時に脳裏をよぎったのだ。
こんなことが思い浮かぶ自体が既にこの男に傾いてしまっているようで、それこそ冗談では済まされない。
何とかしてこれ以上近付きにならない方法を見つけなければいけない。
窓の外はうららかな青空が心地よい。
また、ひとたび風が吹いては春の陽炎がほのかに揺れる――
穏やかな外の風景へと再び視線を逃がしながら、紫月は心の中を焦燥感でいっぱいにしていた。
やっとのことでその時間をやり過ごし、何だかドッと疲労させられたようでもあって、紫月は参ったとばかりに机に突っ伏していた。
「よっしゃー、メシだ飯! おーい、遅刻大魔王~! メシ行こうぜ、メシー!」
待ちに待った昼休みに、腐れ縁の剛と京が浮かれ声でこちらに向かいながら、やはり興味があるのか隣の鐘崎という男に興味津々とばかりの視線を飛ばす。
「おー、そっか! アンタ、転入したばっかで教科書とか揃ってねえんだっけ? な、な、メシはどーすんの? 俺ら、雨の日以外は屋上で食うのよ。よかったら一緒にどう?」
何故かワクワクとした調子でそんなふうに声までかけていやがるじゃねえか――!
紫月は嫌な予感にビキッと眉をしかめた。
そんなことは露知らず、仲間内の紫月が席と席をくっ付けるくらい親しくなっているのなら好都合とでもいうようにして、京が転入生の鐘崎を覗き込んだ。
「へえ、アンタ弁当持ちかよ!? つか、それすっげーデカくね? 豪華ー! あんた、香港から来たとかって言ってたよな? だったらやっぱ中華ってか?」
おいおい、何なんだその態度は――?
昨日まではイケすかないだの、癇に障るだのと対抗意識丸出しで文句タラタラだったくせにして、何だかんだと言いながらやはりこの転入生の男に興味があるというのが一目瞭然だ。
ゲンキンなその態度に紫月は未だ机に突っ伏しながら、チラリと上目使いで京の方を睨み付けた。
(バカヤロー、俺りゃーまだこの野郎と親しくなったってわけじゃねえぜ)
と、そんなふうに言いたげなのがモロバレだ。長い付き合いだ、紫月がそう言いたげにしているのが二人にはハッキリと分かって、「ダハハハ……」とお愛想笑いを漏らした。
「ま、ま、いーじゃねえか! 天気も絶好だしよ? この際一緒に連れションってのもさ~!」
「バカたれ! 連れションじゃねっだろ! メシだ、メシ!」
「あ、あははは……そーね、メシ! そうでした!」
まるで紫月のご機嫌を取らんといった調子で剛と京はおどけて見せた。
――雄の本能というのは意外と鋭いものだ。
この転入生の男に何かしらの風貌を感じ取ってということなのか、この男を仲間内に加えれば、今までよりももっと権力が増すだろうということを見事に嗅ぎ分ける。まるでそう言わんばかりに京たちがこの男に興味を示すのを、紫月は肌で感じていた。
まあ自分とて他に邪な感情が一切無ければほぼ同じといったところか、とにかく癪な気持ちは半分あれど、確かにこの男と親しくなってしまえば、もっと番格の度合いが強靭になるとでもいうべき雰囲気をまとっているのは否定できない。
転入したてで、しかも海外から越して来たせいもあってか、格好こそクソ真面目だが、鋭く澄んだ目つきといい、どこそこ同じニオイを漂わせているのを本能が感じ取るのだ。
単におもしろおかしく不良仲間をやっていくには十分過ぎる魅力を持ち合わせた男なのだということは、紫月にも分かっていた。
おそらくは剛と京もそういった展開を望んでいるのだろう。だがしかし、今の自分にとっては彼が仲間に入ってくるとなると、厄介な問題が引っかかってくるのも否めない。
この男に対して抱く邪な感情、コントロールできないそれがひどく邪魔な存在というわけだ。
けれども親友二人は既にその気満々のご様子で、ここで自分がゴネるのもかえっておかしな展開だろう。
悶々とそんなことを考えながら、仕方なしといった調子で紫月は両肩をすくめると、賛同のゼスチャーをしてみせた。
◇ ◇ ◇
「おわっ! すっげー豪華な弁当だなっ! これって手作りってヤツ? アンタの母ちゃんが作ったの?」
「いや、これは家の者が……」
「家のモン? って、アンタやっぱ金持ちのボンボンかよ?」
「あ、いや、そういうわけじゃねえが……よかったら食う?」
「えっ!? マジ、いいのっ?」
こちらの気重を露知らず、すっかりいい感じに盛り上がっている京を恨めしそうに横目にしながら、紫月はかったるそうに菓子パンを頬張っていた。
そんな様子を気遣うように、もう一人の連れである剛が、おどけ気味に声を掛けてよこす。
「で? 今日は又、えれー重役出勤だったみてーだが、どーしたわけ?」
などと、冷やかし半分で肩をつついてきた。
そうだ、この剛というのは本当にデキた奴というか、同じ年とは思えない程に落ち着いていて、オトナの気配りができる大した男だ。
家が近所で幼馴染、幼少の頃からツルんできたせいもあってか、紫月にとってはすっかり気を許せる心地よい存在だった。
自らがゲイであるということも、この剛にだけはやんわりとだが打ち明けてもいた程だ。
それを聞いた時も、彼は少々驚きながらも敢えては何も言わずに理解を示してくれたくらいだから、やはり気のおけない相手に違いなかった。
そんな剛に甘えるというわけじゃないが、紫月はクッと苦笑いを漏らすと、少々挑発するかのようなハッキリとした口調で意外なことを口走ってのけた。
「昨夜ちょっとね、ヤリ友とシケ込んでたから」
その言葉に剛はもとより「えっ!?」というような表情で鐘崎がこちらを振り返ったのを目にすると、それが満足だとでもいうようにして紫月は更に大胆な台詞を吐いてみせた。
「その野郎がさー、容赦なくヤりやがるもんでよー。お陰でケツ痛えのなんのって! 腰立たなくなっちまってさ、そんで遅刻!」
「――――!?」
堂々とぶちまけられたそのひと言に、京までもがギョッとした顔でこちらを振り返った。
チラリと上目使いに確認すれば、鐘崎という男が滅法驚いたような表情でこちらを凝視している。
紫月はますます満足そうに瞳をゆるめると、胸ポケットから煙草を取り出してわざと大袈裟に舌舐めずりをするようにそれを銜え、まるで誘惑するとでもいわんばかりに舌先の上でフィルターを転がしてから火を点けた。
「――あんたも吸う?」
ニヤリと瞳を細めては、硬直しているらしい鐘崎をじっと見つめながら挑発的に微笑んでみせた。
「は、はははは! 相変わらずだなー紫月! 冗談キツ過ぎんだよ、てめえは! 笑かせんじゃねーっての!」
半ばバカウケしながらも新入りの鐘崎を気遣ってか、「気にしないで、勘弁なー!」とでもいうように京が手を叩いて場をくつろげたその横で、剛の方はやれやれといった調子で深く溜息をついてみせた。
◇ ◇ ◇
「紫月よー、お前もうちょいや~らかくできねえ? 新入りのヤツもいるわけだからさー、何つーかもうちょっと……な?」
予鈴と共に教室へと向かう階段の途中で、剛のご尤もな忠告を半ば面倒臭げに聞き流していた。
確かに、少々やり過ぎた感に苦笑せざるを得ない。だが、ああするしか方法が思い浮かばなかった。
今後、鐘崎という男と行動を共にすることが多くなるにつれ、何も知らない彼が、きっと先刻の授業の時のように親しげに接してくるだろうことは容易に想像できる。その好意的な態度に自らの気持ちが翻弄されるだろうこともしかりだ。
だから遠ざけたかった。
彼との間に距離を置きたかった。
少々ドギツかろうが、警告の意味をも込めてあの男を自分から引き離すには、ああするしかなかったのだ。
彼に魅かれて嵌って、挙句そんな気持ちがバレて気まずい思いに泥沼化していく――そんなふうになるのなら、今の内に呆れられるか引かれるか、あるいはとっとと嫌われてしまった方が楽だからだ。
まあこんなことを思う自体がもう手遅れということだろうか、
「なあ剛ちゃんさー、確かに……イカれてんわ俺……!」
つか、終わってる――
少し低くドスのきいたような声でそう言った。
「おい……紫月?」
横柄な態度とは裏腹に、紫月の横顔が何故だかひどく苦しげに歪んでいる。彼と並んで歩きながら、剛は不思議そうに首を傾げたのだった。