番格恋事情
ガウンと毛布に包まった冰が、ワゴン車の中でうつむいていた。隣では紫月が心配顔でそっと様子を見守っているといった状況だ。
氷川は重傷を負っている為、医療設備の積載してある別のワゴン車で移動していて、そちらには鐘崎が付き添っていた。無論、鐘崎の側近ともいえる源次郎と、普段鐘崎の側で仕えている主治医も一緒である。本当なら冰もこちらに乗せてやりたいところだったが、今は治療に専念すべきなので、彼の方は紫月に託してきたのだ。
前を走る氷川の乗った車を心配そうに気に掛けながらも、冰はただただ黙ったままで、時折身体を震わせていた。
「大丈夫か?」そっと、紫月が問う。
未遂とはいえ、服を剥かれて怖い目にあったばかりの彼に、どんな言葉を掛けてやればいいのかなど思い付くはずもない。紫月はただ黙って側にいてやることが、今の自分にできる唯一のことなのだと思っていた。
この冰とは面識がないわけではなかったが、会ったのは新学期の番格勝負の時、一度きりだ。話したこともなければ、人となりすら分からない。ただ、あの氷川が血相を変えて助けに向かったところを見ると、彼らはかなり親しい間柄なのだろうということだけは理解できていた。
それにしても、氷川とてこの冰という男と会ったのは、番格勝負の時が初めてだったはずだ。紫月は自分の知らないところで彼らがどんなふうに交流を重ねていたのかと不思議に思いつつも、だが、ひとつだけ確かだと思えることがあった。それは氷川と冰が互いを想い合っているのではないかということだった。
ふと――隣の冰がすすり泣く様子に気付いて、紫月はハタを彼を見やった。
「おい――平気か?」
そっと――手を伸ばし、カタカタと震えている冰の手に添える。
「ごめ……ごめんな……。だいじょぶ……だから」
「無理すんな?」
泣きたかったら我慢しないで泣いていいんだぜというように、添えた手に力を込める。
「少し……話してもい……?」うつむいたままで冰が言った。
「ああ、何でも――」
「ん、さんきゅ……な」
そう言うと、冰はポツリポツリと独り言のようにして話し出した。
「さっき……白夜と一緒に……このまま死んじまうかも知れねえって……思ったんだ。このまま死んじまってもいい……その方が楽だって……。俺、俺さ――あいつらにいろいろ……されて……白夜が助けに来てくれた時は嬉しかった。けど、その白夜も酷え目に遭わされて……もしもこのまま白夜と引き剥がされて……一人一人にされて……これ以上悲惨な目に遭うかもって思ったら……そんなの耐えられねえって」
紫月は、冰の気持ちが痛い程理解できる気がしていた。
話の流れで、冰が叔父という男に金で売られたらしいことを聞いていたのもあって、あの家で何をされようとしていたのかが聞かずとも分かったからだ。服を剥かれたこの姿からしても、たった一人で見知らぬ男らに陵辱され掛かっていたのだろうことは明らかだ。
氷川はそれを救おうと追い掛けて行ったのだろうが、その彼も酷い怪我を負わされていた。それでも尚、氷川は自分の身を犠牲にしてもこの冰を守り抜こうと必死に抗っていたのだろう。だが、もしも氷川がもっと酷い目に遭わされて、意識を失うような事態になったとしたら、その後もあの獣らは冰に襲い掛かったことだろう。それを想像すれば、いっそ死んだ方がマシだと思ってしまったとしても不思議ではない――紫月は、冰の苦渋の気持ちを考えると、彼をこんな目に遭わせた者たちが許せなかった。
「キミらが来てくれて……今こうしていられることも……助かったことも……夢なんじゃねえかって……。もしかしたら……まだ俺は……あそこにいて、あいつらに……」
助かったことさえ現実かどうか疑ってしまうくらい恐怖だったということなのだろう。
「そっか……。そっか。辛え思いをしたな。けど、もう大丈夫だからよ」
紫月は力強くそう言って、冰を励ました。
「ん――ありがと……。ありがと……。ごめん……な。俺、迷惑掛けて……ワケ分かんないこと、ベラベラと……」
「ンなこと気にすんな。話して少しでも楽になれんなら、何でも言えって」
握った掌に更に力を込めて、これは現実なんだ、夢なんかじゃなく、本当にもう助かったんだということを伝えんとする。そんな紫月に、冰はようやくと向き合うように顔を上げると、
「キミ、一之宮……君だろ? 四天学園の――」そう言って、また鼻をすすった。
「ああ。あんたは楼蘭学園だっけ? 番格対決ン時に来てたよな?」
「ん――。キミのこと、白夜から聞いた……んだ。白夜が……キミにした……酷いこと……も」
「――――!」
紫月は驚き、ハタと冰を見つめた。
「……あんた」
「ごめんな……。本当に……ごめん! 俺、キミに……こんなふうによくしてもらえる立場じゃねえのに――ほんとに……」
まるで我が事のように苦しげに顔を歪めて謝る冰に、紫月は驚きつつも、ふっと瞳を細めて微笑んだ。
「あのことなら……もう何とも思っちゃいねえよ。あれは俺にも非があったんだ。氷川を出し抜いて、番格対決ン時の要求を反故にしたのは俺ン方だ。氷川が怒るのも当然だしな」
「……! でも……! それでも……」
そうだ、いくら反故にしたの何のといったところで、氷川が紫月にしたことは、本来やっていいことではない。それに――氷川が手籠めにしたというその時、この紫月はたった一人で誰の助けも望めずに苦渋を味わったことに変わりはない。冰には、今の自分とその時の紫月の状況が重なるような気がして、居たたまれない思いがしていたのだった。
「ごめん――。本当にごめん……!」
ひたすらに繰り返す。そんな冰に紫月は言った。
「マジでもういんだって。それによ――氷川のヤツ、俺に頭を下げに来た」
「――え!?」
「桃陵の頭って言われてるあの氷川がよ。俺んトコまで来て、謝罪してった。土下座までして、すまなかった……って。だからもういんだ。あのことはすっかり忘れたし、とっくにカタがついたことだからよ」
「白夜が……? そんなこと、ひと言も……」
そうだ、聞いていない。氷川が紫月に謝罪しに行ったなど、今の今まで全く知らなかった。
「あいつなりのケジメだったんだろ。もう俺はあいつに対して何のわだかまりもねえし。だからアンタも……頭を上げてくれよ。な?」
紫月は冰の肩を抱きながらそう言って微笑んだ。
「一之宮君、ありがと……。ほんとに……」
「いいって。それよか――紫月でいい。”君”付けなんて慣れてねえし、何となくむず痒いってかさ」
「あ……うん。それじゃ、紫月……」
「ん――」
「俺も……冰、でいい。雪吹冰っていうんだ、俺。だから……」
「オッケ! じゃ、冰――な?」
紫月は若干照れ臭そうに笑い、冰もまた同じようにして頬を赤らめたのだった。と同時に、そんな会話が冰にも元気を取り戻していくかのようだった。
「それよかさ、あんたと氷川! いつの間にか知り合いになってっから――ちょっと驚いた!」
「あ、ああ。うん――そうだ……よな?」
「氷川と会ったのって、あの番格勝負ン時が最初だったんだろ?」
「え!? ああ、そう……だよ」
モジモジと頬を染めた冰に、紫月は”やはり”といったように彼の顔を覗き込んだ。
「あの……さ。もしかしてだけど――あんたと氷川って……」
「……ん。白夜のことは……とても大事だと思ってる」
うつむきながらも頬を真っ赤にして冰は言った。
「やっぱ、そっか!」
血相を変えて冰を追い掛けて行き、身を盾にしても守り抜こうとした氷川。氷川が犯した罪を我が事のようにして謝る冰。まるで夫婦さながら、互いが一心同体だとでもいうようだ。先程の現場での様子からしても、二人が強い絆で結ばれているのではないかと思ったのは間違っていなかったというわけだ。
それにしても、本当にいつの間に――と、驚かされることではあるが、よくよく思いおこせば、初対面の時から氷川がこの冰に興味を持っていたことは事実だ。きっとこの二人は、あの時から目に見えない縁で繋がっていたのかも知れないと思えて、紫月は何ともいえずやさしくあたたかな気持ちになっていくのが嬉しく思えていた。それというのも、紫月とて彼らと同じように、同性である鐘崎と愛し合っているという境遇にあるからだ。何だか他人事とは思えず、親近感が増すようだった。と同時に、氷川と冰が、そして自分と鐘崎も無論のこと、ずっと幸せでいられればいい――紫月は密かにそんなふうに思ったのだった。そして、冰の方も思い掛けず紫月と話せたことで、心の隅にあったわだかまりにひとつの区切りがついたような思いでいたのだった。
◇ ◇ ◇
それから一週間ほど経った頃――、氷川の容態も無事に快復へと向かっていた。あの後、鐘崎の主治医の手当てを受けた氷川は、そのまましばらく鐘崎の家で過ごすことになったのだった。総合病院などに入院という形をとれば、事件が明るみに出てしまう。大人が未成年を拉致監禁して陵辱――などということが知れれば、昨今の風潮からして大事のニュースになり兼ねない。氷川にとっても、そして冰にとっては無論のこと、それが良いことばかりだとはいえない。そう思った鐘崎は、氷川を自分の家に”入院”させることにしたのだった。
氷川家の執事である真田にも事情を話して、冰も一緒に預かることにした。あんな衝撃的な事件の後だ、少しでも気持ちが落ち着くように、二人を離さないでやるのが一番いい――鐘崎はそう思ったのだった。
頃は梅雨明けも間近――そろそろ盛夏の足音が聞かれる季節だ。もうあと半月もすれば、高校最後の夏休みに突入である。氷川もすっかりと快復し、鐘崎邸から真田らの待つ自宅へと戻れるまでになっていた。
鐘崎が駆け付けたことによって事件の方も無事に解決へと向かった。冰の叔父は身勝手な裏取引で川西と繋がっていたことがバレて、雪吹グループから完全に縁を切られて失脚した。また、川西らには鐘崎によって沙汰が下されるハメとなった。いくら表沙汰にしないからといって、こんな卑怯なことを平気で犯す無法者を放っておけるわけもない。鐘崎には裏社会に生きる実父とマフィア頭領の養父がいる。川西程度の小者の処遇など、わけもないことだった。
こうして、氷川と冰をはじめ、帝斗らまでをも巻き込んで苦境を強いていた悪の根源は、ようやくと息の根を止められることになったのだった。
そんな或る日の午後のことだ。氷川と冰が執事の真田を伴って、鐘崎の自宅へと礼の挨拶に訪れていた。
自宅といっても、表向きの部屋の方である。例の――香港の街並みが立体映像になっているロビーのある――地下室のことは、紫月以外は知らないので、氷川が”入院”していたのもこの表向きの建物の方だった。
鐘崎の方には源次郎と、客人をもてなす給仕の者が一人。そして紫月も顔を見せていた。
「鐘崎、一之宮、それに皆さん――この度は本当に世話を掛けました。助けていただき、感謝します。ありがとうございました!」
氷川が真摯にそう述べると、冰も一緒になって、二人深々と頭を下げた。そんな様子に瞳を細めながら、鐘崎が穏やかな笑みを見せる。
「怪我の方もすっかりいいようだな」
「ああ。お陰様でこの通りだ。本当にすまないと思ってる」氷川は今一度丁寧に頭を下げた。
「お前らが来てくれなかったら……俺は冰を守れなかった。情けねえが――もしもあの時、お前が来なかったらどうなってたんだろうって……思うと、どうしょうもねえ気分になってな」
氷川は、怪我の方はすっかり良くなったものの、あの時のことを考えると震えが止まらなくなり、眠りも浅いんだと付け加えた。
「今まで散々イキがってきて、みっともねえけど……俺は自分の情けなさを思い知ったよ。喧嘩じゃ負けねえ、俺は強えんだって思ってきたけど、全然だ」
苦笑しながらも、深刻な様子で意気消沈し、肩を落とす。出された茶をすすりながら、氷川は哀しげに笑ったのだった。
そんな彼を横目に、鐘崎が思いも寄らぬ提案を口にした。
「お前に足りねえもんがあるとしたら――それは基礎じゃねえのか?」
「え――?」
鐘崎の不思議な物言いに、氷川ばかりでなく、冰や紫月までもが首を傾げる。
「お前、確かに腕力はあるし、体格も立派だ。向こう気だって負けてねえ。高校生同士の小競り合いなら、抜きん出て強えってのは嘘じゃねえよ」
「鐘……崎?」
「けど、複数の大人――しかも相手がヤクザや玄人なら、さすがに我流じゃ太刀打ちできなかったってことなんだろう」
「あ、ああ。情けねえけど、その通りだ。あいつらと殴り合って分かったよ。あいつらは――本気で俺らを殺しちまってもいいっていうのか、限度がねえっていうのか……。とにかく今まで体験したことのない殺気みてえなのを感じた。何つーか、異質過ぎて……怖えってよりは焦っちまってな。思うように動けなかったし、決まるはずのパンチも蹴りも大して通用しなかった」
そんな屈強の男らを、この鐘崎は一瞬で気絶させてしまったわけだから、氷川にしてみれば驚愕である。やはり彼は桁違いに強い――というよりも、育ってきた境遇からして決してマネのできない凄い男なのだということを、嫌というほど思い知らされた気がしていた。しかも、彼は自分がかつて穢してしまった一之宮紫月の恋人である。
そんな彼が、まさか助けに来てくれるなど、それからして驚愕なくらいで、とにかく氷川には鐘崎の凄さや人としての器の大きさなど、全てに対して尊敬の念でいっぱいだったのである。
「俺も……あんたみてえに強くなりてえ……。ううん、あんたには到底届かねえってのは分かってっけど……せめて……てめえの大事なもんくれえは守れるようになりてえって……思うんだけど……な」
そう言って僅か切なげに微笑む氷川に、
「だったら身に着けてみたらどうだ? お前に足りねえ基礎ってやつを」
鐘崎は頼もしげに口角を上げながら微笑んだ。
「俺に足りない基礎……?」
「ああ、そうだ。幸い、とびきりの師範が身近にいるじゃねえか」
師範とは誰のことを言っているのだろう。
「もしかして……あんたか?」
この鐘崎が武術でも仕込んでくれるのだろうかと不思議顔で首を傾げた時だ。
「いや、俺じゃねえ」
鐘崎は笑いながら、ちらりと紫月の方を見やった。
「一之宮道場の師範、紫月の親父さんだ」
鐘崎の言葉に、氷川は無論のこと、紫月も滅法驚いたというふうに唖然としてしまった。
「紫月の家の道場で一から基礎を叩き込んでもらえばいい。お前は元々いい才覚を持ってんだ。今より確実に強くなれる」
「俺が……一之宮の道場に……?」
驚く氷川の横で、すかさずに冰が身を乗り出した。
「あの……! 俺も……一緒にお願いできませんか? 俺も……男です。強くなりたいし、守られてばかりじゃ情けないです。いざという時には大事な人を守れるようになりたい……!」
「冰……何言い出すんだ、お前まで……」
氷川は更に驚いたふうに瞳を見開いたが、鐘崎も紫月もそんな二人の様子を微笑ましげに見つめていた。
「ふぅん? なら、早速親父に頼んでみるか! つか、お前らに鍛えられちゃ、俺ももっと精進しなきゃなんねえな」
紫月は笑い、氷川も冰も気恥ずかしそうにしながらも意欲を見せる。
「鐘崎、一之宮、本当にありがとう。世話になります!」
氷川にしては珍しくも敬語で頭を下げる。少し前だったら、到底考えられないようなことである。あの春の日から、四人共に出会いと喧騒を繰り返し、そして乗り越えてきた今、誰の瞳にも笑みがあふれ、清々しい空気が皆を包んでいくかのようだった。
「俺ら二人、一生懸命励みます!」
「どうぞよろしくお願いします!」
こうして氷川と冰は、揃って紫月の父親の下で武術の指南を受けることになったのだった。
「決まりだな?」
ふっと口角を上げて鐘崎が皆の輪の中で手を差し出すと、その意図を汲んだ紫月が、やはり手を差し出して重ね――。それを見ていた氷川と冰もまた、次々と手を重ねていく。まるでこれから始まる新たなステージを前に、皆一丸となって船出をするような雰囲気に包まれていった。そんな彼ら若人たちを、側で見守る執事の真田や源次郎らも嬉しそうであった。
真夏間近の太陽煌めく熱い季節に――またひとつ、揺るぎない愛と友情の絆が生まれようとしていた。
※第3ステージ(雪吹編)完結。次回から最終ステージ(一之宮編)です。