番格恋事情
氷川白夜と雪吹冰が一之宮道場へと通い出してから半月程が経った。頃は夏真っ盛り――梅雨明け宣言が出されて、皆は数日を待たずして高校最後の夏休みに突入しようとしていた。そんな或る日曜のことだった。
朝一からの稽古が終了し、氷川と冰、そして紫月もシャワーを終えて道場の縁側で一休みしていた時だ。鐘崎がよく冷えた梨をたんまりと携えて顔を見せたのだった。
「よう! そろそろ稽古が済む頃だろうと思ってな」
「おわ! 梨だ!」
クーラーボックスの中に詰められた大粒の梨に、三人は瞳を輝かせた。時刻は午後の一時になろうとしている。
「ちょうどいいや! お前ら、昼飯食ってかね?」
紫月が嬉しそうに梨を抱えながらそう言った。
「冰、ちょっと手伝ってくんね? 素麺でも茹でるべ!」
「あ、うん!」
鐘崎と氷川を残して、紫月は冰と共に台所へと走って行った。そんな後ろ姿を見つめながら、鐘崎は縁側に腰を下ろし、氷川と肩を並べた。
「調子はどうだ? 稽古、張り切ってるみてえだな」
「ああ、お陰様でな。一から十まで未知の世界って感じで驚くことだらけだ。師匠は稽古の時は厳しいけど、すっげえ真剣に教えてくれる。けど、稽古が終わればすっげフレンドリーでさ、いろいろ為になる話も聞かせてもらえるしな。それもこれもお前と一之宮のお陰だよ」
充実しているという様子が、氷川の表情からもよく分かる。
「そっか。そりゃ良かったな」
鐘崎も嬉しそうに瞳を細めた。
「ところで、お前の方は冰ってヤツと正式に一緒に住むことになったって聞いたが――」
源次郎を通してそんな話向きになったということを耳にしていた鐘崎は、氷川当人に向かってそう訊いた。
「ああ。お前らのお陰で、もう冰が狙われる心配もなくなったし、あいつ自身も自分の家に帰るつもりだったんだ。けど、冰の親父さんは未だ入院中で意識が戻らねえし、お袋さんは付きっきりで看病の毎日だ。俺の両親と冰のお袋さんと、白帝の粟津らも交えて皆で話し合ってな。引き続き冰をうちに預かることに決めたんだ」
危険はなくなったとはいえ、冰の父親が快復するまでは雪吹は粟津財閥の傘下であることに変わりない。粟津家の配慮で、雪吹家は実質的には元の体制を保ったまま、企業経営も順調であった。お陰で、冰の父親の入院費をはじめ、母親と冰の生活費なども心配はいらないといった状況だ。ただ、母親も都内の病院に行ったきりではあるし、冰を一人にしておくのは心配なところもあるのだろう。何より冰本人と氷川の気持ちとしては、離れ難いのはいうまでもない。ひと月以上を共に過ごした二人にとっては、平穏無事な元の生活に戻れることは喜ぶべきであると同時に、寂しいのもまた事実である。
そんな状況をすべて鑑みた上で、粟津家の帝斗らが皆にとって一番いい方法を提案したというわけだった。
鐘崎と氷川が縁側でそんな話をしている傍ら、台所の方からも賑やかしい会話が聞こえてきていた。
「湯が沸く間に梨剥いちまおう。冰、四個ぐらい出してくれ」
「うん。っていうかさ、紫月! いつもこうやってメシとか作ってんの? すげえな!」
「メシったって、麺茹でて薬味刻むだけだし」
「けど、果物剥いたりとか……次々手際いいってーかさ。俺なんか包丁もろくに持ったことねえよ」
「そりゃ、お前んちにはシェフがいるからだろ? 俺んちは親父と二人っきりだし、どっちかが作んなきゃなんねえからさ。つっても、俺が当番の時はワンパターンだけどな」
紫月はちゃっちゃと梨を剥きながら、そう言って笑った。
「けど、よく考えりゃ、お前も氷川も――それに遼も、皆金持ちの御曹司なんだよなー。今、気が付いた!」
ガラスの器に剥いた梨を体裁よく並べながら、紫月はまたも朗らかに笑う。そんな様子を横目に、冰が真剣な表情で流麗な仕草を見つめていた。
「なあ、俺にも教えてくれよ、料理。初心者にもできそうな簡単なのからでいいからさ。俺も作れるようになりてえ」
「はあ? お前にゃ必要ねっだろ? お前、このまま氷川ん家に住むことになったんだろ? あいつん家にもシェフがいんだろうが?」
「うん、そうだけどさ。でも、紫月の見てたら……俺も手作りのメシ作ってやりてえなって思っちゃってさ」
「ああー、それってもしか、氷川にか?」
「え!? え、いや……違うよ! や、違わねえけど……その、執事の真田さんとか、氷川家の皆さんには世話になってるし……! たまには感謝の気持ちを込めて……とかさ」
アタフタと頬を染めた冰に、紫月はププッと笑い声を堪えてしまった。
「ま、いいぜ! そういうことにしといちゃるわ! もうちょいで夏休みだし、いつでもうちに来いよ。最初は……そうだなぁ。やっぱカレーとかハンバーグからか?」
「ハンバーグ! 俺も白夜も大好きだけど……難しそうじゃね?」
「あー、初心者にはハードル高えかー。そうだ! いっちゃん簡単なのは焼きそばだ! あれならキャベツ切って、肉ぶっ込んで焼くだけだし!」
「焼きそばかぁ! 旨そうだね! それなら俺にもできるかも」
「んじゃ、先ずは焼きそばからな! 雪吹冰特製のらぶらぶ焼きそばかよー。ついでにソースでハートマークでも書いちゃう? てかー?」
「ハートマークって……! 紫月ってば、からかうなってのー!」
二人、キャッキャと楽しげだ。そんな様子に、氷川は照れを隠さんと片眉をしかめながらも頬を染めている。鐘崎は面白そうにクスクスと笑いを堪えていた。
「あいつら、すっかり意気投合しちまってるな。紫月のやつがあんなにはしゃいでるのは珍しい」
鐘崎が頼もしそうにそう言えば、
「あ、ああ……。何つーか、その……嫁同士が仲良くしてるー、みてえでさ。楽しそうでいいなってのもあるけど、ちっとその……気恥ずかしいっつか、妙な気分にもなるわな」
氷川からは思わず咽せてしまいそうな言葉が飛び出した。
「嫁――」
さすがの鐘崎もポカンとしながら氷川を見やり――二人は同時に噴き出すと、互いの肩を突き合って盛り上がったのだった。