番格恋事情

48 事件勃発3



 その後、車が走り出した感覚で、香港の地に着いたのだろうことを知った。
「とうとう着きやがった……。今、何時頃だろ?」
「俺らが拉致られたのが、ちょうど正午頃だ。そっから逆算すっと……夕方の六時か七時ってとこだろうが、時差があるからな」
「時差って一時間くれえだろ?」
「ああ。今は夏だし、外はまだギリギリ明るいだろう。この扉が中から開けられれば言うことねんだけどな……」
 扉さえ開けば、信号待ちを見計らって飛び降りることも可能だ。先程から幾度も二人でトライしているが、外から閂が掛けられていてビクともしない。
「こりゃ、おとなしく奴らに従うふりをするっきゃなさそうだな。鐘崎が追い付いてくれるまでの辛抱だ」
 闇の売春組織だという取引相手が何人で来るのかも分からない今、とりあえずは様子見しかないだろう。
――と、その時だった。フリーの接続を拾えないかとスマートフォンを握り締めてスタンバイしていた氷川が、パッと瞳を見開いた。
「お! 来た!」
「繋がった?」
「ああ。鐘崎と……それから源さん、冰と粟津にも送っとこう」
 この好機を逃してはならない。手に汗握る勢いで、氷川は方々に同じ内容のメールを送信したのだった。
「お、鐘崎からもメールが来てるぜ!」
「マジッ!?」
「ああ。羽田を発つ直前に送ったらしい。――ってことは、奴らももうすぐ香港に着く頃だ!」
 氷川と紫月は互いを見つめ合いながら、頷き合ったのだった。
 時間的には鐘崎らの方が一時間半ほど遅れているといったところか――。帝斗の口利きにより、粟津家のプライベートジェットで来るとのことで、帝斗は勿論のこと冰、それに紫月の父親まで一緒とのことだった。飛行許可の手続きに時間を取られたようだが、それでもさすがに国内外屈指の大財閥だ、早々に飛び立てたようである。
「よし、売春組織の方は鐘崎の方ですぐに突き止められるだろうから。俺らはおとなしく従うふりを装って様子見だ」
 と、その時、氷川の送ったメールへの返信が届いた。
「鐘崎からの返事だ! 俺のGPSが拾えたらしい! そのまま電源を落とさないでくれとある」
「マジッ!?」
「ああ……。奴らももうすぐ着陸できるそうだ。念の為、源さんは鐘崎の所持するプライベートジェットで飛んでるって書いてある」
 念には念を入れてのことなのだろう。万が一のことがあっても、二機で分乗していれば、より万全といえる。さすがに鐘崎である、戦闘態勢に余念はなかった。
「俺らも態勢を整えとくか!」
 氷川はそう言うと、積荷の中から役に立ちそうなものを物色し始めた。
「一之宮、お前はこれを持っとけ」
 油性ペンに小さな懐中電灯、カッターナイフ、それにペットボトルの飲料水を渡されて、紫月は氷川を見上げた。そういう彼の方は、同様の備品の他にシャツを捲し上げて荷造り用の紐まで胴に巻き付けている。
「あんまし多くは持ち出せねえが、何かの役に立つかも知れねえ」
 この先のことを見越して着々と準備を整える氷川を見つめながら、紫月は感極まったようにしてうつむいた。
「な、氷川……」
「あ――?」
「すまねえ。ありがとな。お前がいてくれて……ほんと助かった。俺一人じゃ、とてもじゃねえけど……こんなふうには……」
 目頭を押さえるようにしてそう呟いた紫月に驚きつつも、氷川はすぐに瞳を細めると、
「心配すんな。お前を売春組織なんかに渡したりしねえ――。俺が命に代えても守ってやっから――」
 そう言って笑った。
「氷川……」
「――なんてな。本来、鐘崎に言って欲しい台詞だろうけどよ。ヤツがこの場に居ねえ今、俺がヤツの代わりだ。きっと、ヤツが反対の立場でもそうしてくれっと思うからよ」
 そうだ。鐘崎は先日、冰がさらわれた際にそうしてくれた。冰と氷川が窮地に陥っている場に、取るものも取り敢えず駆け付けてくれたのだ。
 本来、鐘崎にとって氷川は紫月を穢した張本人であり、恨まれていてもおかしくないだろうに、彼は助けに来てくれたのだ。氷川は、そんな鐘崎に対して尋常ならぬ恩を感じていたのだった。
「その後もヤツは俺を赦してお前の親父さんの道場で修行することまで勧めてくれた。何て度量の深え男だろうって思ったよ。俺はヤツに感謝してもしきれねえくらいの恩がある――。無論、お前にもだ」
「氷川……お前……」
「俺はお前らに会って……何つーか……大事なことを教わったように思うんだ」

 だから命に代えてもヤツの大切なお前を守るぜ――

 氷川の真剣な眼差しがそう言っているように思えて、紫月は胸の奥底から熱いものがこみ上げるのをとめられなかった。
 因縁関係の隣校の頭同士と言われ、小競り合いを繰り返し、顔を合わせれば一触即発の間柄――そんな氷川が、もうずっと古くからの友人のように思えていた。固く強い絆で結ばれた、何ものにも代え難い親友のような気がしていた。そして今、氷川とこうしていられることが心から嬉しくも思えていた。
「氷川――ありがとな。ほんとに……」
「ばっきゃろ……改まってんじゃねえって! 照れるじゃねっかよ……」
 フイとそっぽを向きながらも頬を染めた氷川に、自然と笑みを誘われる。そして二人、共に見つめ合い微笑み合う。心からの笑顔だった。
「一之宮――お前と俺ならぜってえ乗り切れる。四天と桃稜の頭と言われた俺ら二人が組めば、怖いモンなんてねえ。どんなことがあっても諦めねえで、一緒に川崎に帰ろう。お前は鐘崎の元に、俺は冰の元に――無事に帰ろう」
「ああ、そうだよな。お前に何かあったら……俺も冰に申し訳が立たねえしな。何が何でも無事に帰らなきゃ!」
「ん! だな!」
 どちらからともなく互いの手を取り合い――二人はその絆を確かめ合うように、固く拳と拳を握り合ったのだった。

 しばらくの後、トラックが停車し、エンジン音が止まったのが分かった。いよいよ目的地に着いたようである。運転席の開閉する音と共に、荷台の閂が開かれる音がする。二人は段ボールを盾にするようにして身構えた。
[降りろ!]
[こっちに来い! 早くしろ!]
 刺青の男らが広東語で威嚇する。その手には短銃が握られていた。
[聞こえねえのか! 早くこっちに来い! ヘタなマネすんじゃねえぞ!]
[このガキ共、言葉が分かんねえんじゃねえのか?]
 氷川には男の言っていることが理解できたが、ここは分からないふりを通した方が無難だろう。二人は恐る恐るといったふうを装いながら、一先ずは男らの言いなりに従うことにする。トラックの荷台を降りると、そこは廃墟化した倉庫のような建物の中だった。
 どうやら車ごとこの倉庫内に乗り入れたというところか、入り口のシャッターは開けられたままだったので、外の様子が窺えた。夕陽が沈みきって、空は藍色に染まりかけている。銃を突き付けられながら連れて行かれたのは、倉庫の一角にある事務所のような小部屋だった。
[しばらくここでおとなしくしてろ!]
 部屋に押し込められると同時に、ドアにも鍵が掛けられた。
 小部屋といっても倉庫自体が廃墟化しているので、そう頑丈な造りではない。鍵は掛けられたものの、彼らの話し声は筒抜けであった。加えて、こちらには広東語が通じないという安心感があるのだろう。声をひそめるでもなく、堂々と会話してくれているのは幸いといえる。
「ヤツら、何て言ってるんだ?」
「うん、どうやら取引相手ってのはまだ来てねえみてえだ。一先ずここで待機らしい」
 氷川が小声でそう言った。
「それにしても、あの美友って女はどうしたんだ? 姿が見えねえが……」
「ああ、そういやそうだな」
 氷川と紫月がそんな会話を交わしていた時だった。突如、物々しい叫び声と共にガチャガチャと鍵が開けられて、二人はビクリとし、身構えた。
 いよいよ取り引きが始まるのだろうかと思った矢先――。ところが、何とそこには銃を突き付けられた美友が男らに両脇を抱えられながら部屋の中へと連れて来られたのに驚かされた。
[どういうことよっ!? 話が違うじゃない!]
[うるせえ! 黙ってろ、このアマ!]
[あなたたち、何を考えてるのよ! アタシにこんなことして、ただで済むと思ってるのッ!?]
 早口の広東語で詰り合う。
[ギャアギャアとうるせえ女だな! 俺らにとっちゃ、こんなガキ共を売り飛ばすよか、あんたを売る方がよっぽど金になるんだ! そんなことも分かんねえのか?]
[何ですって!? じゃあ……あんたたちはアタシを騙したっていうの?]
[騙したわけじゃねえ。最初からそういう算段だったのさ! あんたに付き合うフリして、言いなりになってやってたってだけだ]
[そんな……!]
[それに……あんた、超有名ホテルのお嬢様だ。そんなアンタが日本にまで行って、俺らにこのガキ共を拉致させた。挙句、闇組織に人身売買させようとしたってことだけでも、俺らにゃ金になるネタなんだぜ? アンタの親父を脅しゃあ、そんだけでも大金せしめられるって寸法よ!]
[世間知らずのお嬢ちゃんが俺らを顎で使えるとでも思ってたってわけか!? 百万年早えってのよ!]
 男らは氷川と紫月の目の前に美友を突き飛ばすと、ニヤけ顔で高笑いをし、再び鍵を掛けて出て行ってしまった。
[ちょっと……! 待ちなさいよッ! 待ちなさいってば!]
 美友は金切り声で叫びながら、ドンドンと扉を叩き付けた。
[ふざけてんじゃないわよ! あんたたち、アタシを誰だと思ってるの! アタシの後ろにはね、あの”煌一族”が付いてるのよッ! 煌家の一人息子の遼二はアタシの婚約者なんだから! 後で後悔したって遅いわよ!]
 煌一族というのは遼二の育ての親のことだ。マフィアの頭領であり、香港の裏社会に生きる者ならば、その名を聞くだけで震え上がる。美友は、そんな後ろ盾がある自分に無礼なマネをすれば、ヘタをすると命はないのよ――とばかりに脅し文句を叫び続けた。
「おい――、もうよせって」
 美友の背後で、氷川が呆れたようにそう言った。
[うるさいわね! あんたたちは黙ってて!]
 さすがに余裕がないのか、広東語のままでそう突っ返す。氷川は、ますます呆れたように溜め息まじりで肩をすくめてみせた。
「――ったく、おかしな雲行きになったもんだな? あんた、一体どういう経緯でヤツらを雇ったんだよ」
[そ……んなこと、どうだっていいでしょ! あんたたちには関係ないわ!]
「関係ねえどころか、ご同輩ってのが正しいんじゃね? 事実、アンタも一緒にこうやって捕まっちゃってんじゃん」
[し、失礼なこと言わないでッ! 誰が捕まってなんか……]
「それによ――煌一族の名前を傘に着るとか、安易なこともよした方がいいぜ。あんなチンピラ連中に何言ったって通用しねえよ。それどころか、一大マフィアの名前なんぞ出して大見栄切りやがってって、笑われるのがオチだ」
[なんですって!]
 無遠慮にズケズケと物を言う氷川に、美友はムキになって思い切り彼を睨み付けた。――が、ハタと何かに気付いたように瞳を見開くと、怪訝な顔付きで氷川を見やった。
 興奮していたので気が付かなかったが、今のやり取りは氷川が日本語で投げ掛けたことに対して、つい広東語のままで返していたというのに会話が成り立っているという不思議だ。
「あなた……まさか広東語が分かるの……?」
 美友は、未だきつい眼差しで氷川を睨みながらも首を傾げた。
「ンなこたぁ、どうだっていいだろ。それより――取引相手ってのはまだ来てねえんだろ? だったらアンタにもちょっと手を貸してもらうぜ」
「はぁ!? 手を貸すって何よ! 冗談じゃないわよ……!」
「取引相手がやってくる前にここを抜け出すんだよ。アンタだって売春組織に売り飛ばされるなんざ、嫌だろうが」
「……! だからって……何でアタシがあんたたちに手を貸さなきゃなんないのよ!? アタシに何をさせる気ッ!?」
「別に難しいこっちゃねえよ。ただ大声を上げてくれりゃいいだけだ」
「何ですって!?」
「あんたが叫べば、ヤツらは様子を見にやって来る。中を確かめるのに鍵を開けるだろうから、その隙を突いて脱出しようって算段」
 氷川は紫月とも打ち合わせるように目配せをしながらそう言った。
 なるほど、今なら相手は例の刺青の男が二人きりだ。氷川と紫月が力を合わせれば、倒せる可能性も高い。敵の人数が増える前の今が一番の好機といえる。紫月もその意を汲むと、美友に向かって頭を下げた。
「頼む。力を貸してくれ」
 だが、美友にとっては、おいそれと紫月らに同調するのも躊躇われるわけだろう。少々動揺を見せつつも、
「い、嫌よ……誰があんたたちなんかの為に……」
 気丈にもツンと唇を結んで、ソッポを向いてしまった。
「……ったく! 聞き分けのねえ女だな……。じゃ、仕方ねえ。気は進まねえが――実力行使さしてもらうぜ」
 氷川はそう言うと、美友の腕を取り、抱き寄せて、いきなり乳房を揉んでみせた。突然の奇行に美友も驚いたのだろう、『キャアーッ!』と凄まじい叫び声を上げた。
[何すんのよっ! このケダモノッ! 放しなさいよ! 放しなさいってばッ!]
「そうそう、その調子! もうちょい派手に騒いでくれると助かるぜ」
 ニッと笑いながらも、氷川は美友を抱き締めたまま、両の掌でワシワシと乳を揉みしだく。
[嫌ーーー! この……変態男ッ! 放して! 放せえーッ!]
 いくら暴れようども、氷川のような体格のいい男に掴まってはどうにも逃れられない。
「うん、なかなかでけえ、いい乳してんじゃねえの」
 氷川も興に乗ってしまったのか、楽しげだ。その様子を側で見ていた紫月は、苦虫を潰したようにして片眉を吊り上げた。
「お、おい……氷川、てめ……何やってんだって……」
 紫月の問いに、暴れる美友を押さえ込みながら氷川が目配せをした。
「一之宮、来るぞ――」
 チラリとドアの方を見やりながらそう言った。その目は至極真剣だ。氷川は何も美友に悪戯をして楽しんでいたわけではなく、男らを呼び寄せる為にわざとこんな破廉恥な行為に出ていたのだ。
 案の定、何事かと男たちが様子見にやって来た。
[何してやがる、ガキ共ッ!]
 ガチャガチャと鍵が開けられる音がする。紫月は氷川の意を汲むと、男たちを仕留めるべく身構えた。
[クソガキ共、何して……ぐわッ……]
 男が扉を開けたと同時に、すかさず紫月が一撃を放つ。一人仕留めたところで、後から入って来た二人目に氷川の蹴りが炸裂した。
「ふぅ――、上手くいったな」
 ノビてしまった男らを部屋の中に押し込める。
「よし、そんじゃズラかるぜ!」
 氷川が先に部屋を出、紫月も後に続く。そんな二人の様子を呆然と見やりながら床にへたり込んでいる美友に、紫月が手を差し出した。
「おい、行くぞ! 一緒に来るんだ」
 だが、美友は呆然としたまま、何が起こったかすぐには理解できないといった顔付きでいる。
「おい、聞こえてる!? あんたも来るんだ。一緒に逃げるんだよ!」
「え……?」
「いいから――来い! 急ぐんだ!」
 紫月は彼女の手を掴むと、有無を言わさずといった調子で部屋から連れ出した。
 倉庫内に人の姿は見当たらない。取引相手はまだ来ていないようだ。
「よし、走るぞ!」
 氷川が先導し、紫月は美友の腕を掴んだままで、三人は一先ずできるだけ遠くへと走ったのだった。




Guys 9love

INDEX    NEXT