番格恋事情

49 事件勃発4



 辺りはすっかり宵闇が降りきって、夜になっていた。倉庫街を抜けると、何やら妖しげな雰囲気に包まれた住居街に出てしまった。そこに住まう者でなくとも、一目で危険な香りを肌で感じさせられる――。かつての九龍城を彷彿とさせるような雰囲気でもあった。
「おい……一体ここ、何処だよ……」
「かなりヤベえって感じだけど……」
 氷川も紫月も、自然と背筋が寒くなるといった調子で、互いを見合う。
「おい、あんた――地元だろ? 今、どこら辺にいるのか分かんねえか?」
 氷川が美友にそう問う。
「し……知らないわよ……! こんなところ……来たこともないわよ」
 まあ、いくら地元といっても、上流社会のお嬢様育ちの彼女だ。こういった場所へは来たことがなくて当然か。
「仕方ねえな。ともかく夜が更けちまう前にここを抜けるっきゃねえか……」
 夜といっても、陽が落ちたばかりで時間的にはまだ夕刻といえる。だが、先程の倉庫街からも大して遠くない距離だ。取引相手が到着すれば、皆で捜しに追い掛けて来ないとも言い切れない。かといって、この妖しげな街区を抜けるのも勇気が入りそうだが、ここに留まるわけにもいかない。進むも地獄、戻るも地獄とはこのことか――。
 結局、氷川が先導することになって、紫月は美友を連れて後に続くこととなった。
「その前に――あんた、これを被っとけ」
 紫月は自らのシャツを脱ぐと、美友の頭から頬被りさせるようにして彼女の顔を隠した。
「な……何すんのよ……!」
「いいから、それ被っとけ。あんたのそのカッコは目立ち過ぎる。それに……顔立ちも別嬪だから、ここいらのヤツに変に目を付けられるといけねえしな」
 確かに美友は見た目だけならとびきりの美人だ。着ている物からして見るからに高級だし、浮きまくりだ。
「そんじゃ、行くぜ――」
 早足で歩き出すも、明らかに他所者の三人を興味の視線が追い掛けてくる。狭い路地の地べたに腰を下ろしながらうずくまっているような男がジロリと見つめてきたり、はたまた行く手を塞がれるように数人が人だかりになって待ち構えていたりして、何とも居心地の悪いことこの上なかった。
 そんな状況に焦ったわけか、足早にし過ぎて、美友が石畳に足を取られてつまずいてしまった。
[キャアッ……!]
 見れば、膝小僧と腕が擦り剥けて、血が噴き出していた。高いヒールが石と石の間に引っ掛かってしまったのだろう。
「おい、大丈夫かッ!?」
 すかさず紫月が掛け寄り、彼女を抱き起こした。
[痛……ッ……]
 ここいらの路面はきちんと舗装もされていない。ゴロゴロとした大小様々の石ころで道はガタガタだ。美友の色白の皮膚は擦り剥けてしまって、血が真っ白なワンピースにまで染みてしまっていた。
「クソ……こいつぁ、ヤベえな。どっかで手当てしねえと……」
 だが、そんな三人を取り囲むようにして、どこからともなくゾロゾロと妖しげな人々が集まってきてしまった。誰しも特には手出しするといったわけではなかったが、ニヤニヤと口元を緩めながら酒に酔ったような感じの男もいる。酒どころか何かの薬でもやっているのだろうかと思えるような、視線の定まらないアブナイ感じの連中も寄って来た。
「手当てするにしても、一先ずこっから離れるしかねえ! 一之宮、俺が奴らを突破する。お前は女を頼む」
「分かった!」
 紫月は美友の前で屈むと、
「ほら、俺におぶさるんだ。早く!」
 そう言って背中を差し出した。
「え……!?」
 美友は驚きつつきも、素直に紫月に助けてもらうことも躊躇われるのだろうか。それ以前に、どうしていいか分からないといったような顔付きで呆然状態だ。
「……チッ! 仕方ねえ。ちょっと我慢してろよ!」
 紫月はそう言うと、美友を抱きかかえて自らの肩に担ぎ上げた。
「ちょっと……! な……何するの……よ!?」
「いいから! しっかり掴まってろ!」
 そう言うと、人だかりを掻き分ける氷川の後について全速力で走り出した。
[おい、逃げたぞー!]
[何だ、あいつら]
[追え! 追い掛けろー!]
[ここはなぁ、ただじゃ通れねえって知ってっかー?]
 呂律の回らないような声が飛び交い、ゾロゾロと追い掛けて来る。さすがに氷川や紫月の速さに付いては来られないものの、追い剥ぎに遭いそうな状況に焦燥感を煽られる。二人は持てる力を振り絞って、猛スピードでその場を駆け抜けたのだった。
 そのまま無我夢中で走り、ようやくと彼らを引き離すと、少し大きな通りが見えてきた。車通りもあり、電灯も見える。だが、その通りの向こうは、飲み屋街のような屋台がズラリと並ぶような場所だった。
「一難去って、また一難ってか? 今度は酔っ払いかよ……」
 それこそ絡まれでもしたら面倒だ。その通りへ出る前に一先ず美友の怪我の手当てがてら休憩を入れた方が良さそうだ。氷川と紫月は路地の一角に身を潜めると、担いでいた美友を下ろして一休みすることにした。
「傷、見せてみろ。痛むか?」
 紫月が美友を座らせて傷口を確かめる。トラックを降りる時に氷川から渡されたペットボトルを開けて、患部を洗い流した。
[痛ぅ……ッ]
「少し我慢してろよ。氷川、悪い……ちょっとここ照らしててくれ」
「おお」
 氷川が懐中電灯で患部を照らす。これもトラックから調達してきたものだ。早速いろいろと役に立っている。
 紫月は先程美友に頬被りさせた自らのシャツをカッターナイフで切り出すと、それで傷口を固く縛った。
「よし! これで少しはマシだろ」
 額の汗を拭いながらホッと溜め息をつく。そんな彼の傍らで、美友がポツリと呟いた。
「何で……よ」
「え――?」
「何で……? 何でアタシを助けたり……するの……」
 彼女の瞳は驚愕といったように潤み、揺れていた。
「アタシは……あなたたちを……酷い目に遭わせようとしたのよ? 無理矢理拉致して連れて来て……闇組織に売り渡そうとしたのよ? それなのに……なんで……」

 どうして助けたりするの――?

 彼女の表情がそう訴えているのが分かった。
「どうしてって……。あんた、遼二の幼馴染みなんだろ? そんなあんたに何かあったら、あいつが悲しむだろうが」
 紫月が手当ての後片付けをしながらそう答えた。氷川はそんな二人のやり取りを聞きながら、ここは口を出すところではないと思うわけか、黙ったままだ。
「それに――今はあんたも俺らも同じ立場だろ? 何とかしてこの場から脱出しなきゃなんねえ」
「遼二は……! 遼二は……アタシを許さないわ……。あなたにこんなことしたんだもの……アタシがどうなろうと遼二は悲しむどころか……絶対に許してなんかくれない……」
 形のいい小さな唇をギュッと噛み締めて、美友は苦笑した。その表情には全てを投げ出してしまいたいといったような諦めの思いが見て取れる。
「ンなことねえだろ。遼にとってあんたはガキん頃からの付き合いなんだろ? あんたに何かあったら平気じゃいられねえだろうよ」
「そ……んなことない……! あなた、彼を知らないのよ。彼は……いざとなったら冷たいわ。本当は怖い人なのよ。アタシは……それを分かってた……。彼が絶対に振り向いてくれないことも……彼の大事なものを傷付けようとしたものなら、本当に恐ろしい人になってしまうことも」
「恐ろしい人――って何だよ……。あいつはそんなヤツじゃねって」
「いいえ! 彼は本当は怖い人……。そりゃ、彼に対して何も悪いことをしなければ、至ってやさしい人よ? でも――今回のように彼の大事なものを踏みにじろうとしたものなら……それ相応の制裁が待ってる。彼はマフィアの倅よ。一線を越えてしまったら絶対に許してなんかくれないわ……」
 膝を抱えて座り込む。涙まじりにそう言う美友を見下ろしながら、紫月は無意識に氷川と視線を交し合った。
「あんたさ――そんだけ分かってて、何でこんなバカな計画したんだよ」それまで黙っていた氷川が、宥めるように横から口を挟んだ。
「……振り向いて欲しかったのよ……。遼二に――、彼に好きな人がいるって言われてショックだったわ。その相手が男性で……一之宮紫月だっていうことを知って、それも衝撃だった。一時の気の迷いかとも思ったわ。だから、紫月を彼の前から消してしまえば……彼がアタシのところに戻って来てくれるかも知れないって思った」
 紫月には、美友のそんな気持ちが痛い程分かる気がしていた。何故なら、鐘崎に婚約者がいるらしいということを知った時、同じように苦しい気持ちになったからだ。きっと美友にとっても耐え難い思いだったに違いない。
「でも本当は分かってたの。例え紫月を遠ざけたとしても、遼二が振り向いてくれることなんか絶対にないって……。だって遼二はアタシのことなんか眼中になかったもの……。一度だってアタシに好意を寄せてくれたことなんかなかった。いつも……妹のように接してくるだけで、アタシに恋してくれることなんかないんだって……とっくに分かってた」
「美友……」
「だったらいっそのこと……全部壊れてしまえばいいと思ったわ。アタシの想いが叶わないのに、紫月だけが幸せになるなんて嫌……。紫月には彼をたぶらかした責任をとってもらおうとも思った。男のくせに男をたぶらかすだなんて許せないって思ったの。だから……そんな紫月なんか……売春組織に売り渡して……男に穢されてしまえばいいって……思ったの」
 どんなに想っても報われないのなら、いっそ全てが壊れてしまえばいい――。切なく苦しい彼女の想いは、次第に憎しみへと変わってしまったのだろうか。
 美友の瞳からは滝のような涙があふれ出し、号泣状態だった。
 紫月はもとより、さすがの氷川も何とも返答のしようがない。大きく溜め息をつく氷川の傍らで、紫月だけが切なげに眉根を寄せていた。
「……分かるよ、あんたの気持ち」
 そう呟いた紫月に、美友はハッとしたように瞳を見開いて彼を見上げた。
「分かるよ、俺にも。あんた、日本語だってすげえ流暢だ。俺にはどんなに頑張っても、あんたのように広東語を覚えられるかっていったらぜってえ無理だ。けど、あんたはそれができる。きっと、すげえ勉強したんだろうなって思うよ。そんだけ遼のことが好きなんだなって……よく分かるよ」
 美友は驚きに目を細めた。
「遼だって……あんたのそういう気持ち、きっと分かってくれる。だから今は余計なこと考えねえで、一緒に助かることだけ考えようぜ。無事にこっから脱出して、一緒にあいつの元に帰ろう」
 そう言う紫月に、美友はまた一度大粒の涙をこぼしたのだった。
「……ごめん……ごめんなさい……アタシ……本当に……」
 泣き濡れる美友の頭をポンと撫でて、紫月もまた切なげに微笑んだ。
「謝るのは俺ン方だ。俺が遼を好きになったりしなきゃ、あんたにこんな思いさせることもなかった。それなのに……だったら遼を諦められるかっていったら……正直、すげえ辛えと思う……。女のあんたにこんなことまでさせちまったってのによ。……最低なのは俺の方だよ」
「紫月……あなた……」
「ごめんな、美友。俺、ほんとに……何て言っていいか……。本来、俺があいつを諦めるのが一番いいのかも知れねえ。けど、それはそれで正直とはいえねえから……遼にもあんたにも……それに自分にも嘘は付きたくねえ。……我が侭だよな、俺。けど、これが正直な気持ちってか……上手く言えねえけど……とにかくごめん……」
「いいのよ……もう、いいの。アタシが悪かったわ。あなたのこと、よく知りもしないで……ただ焦れて嫉妬して……バカだったわアタシ……」
 美友は切なげに笑いながら、
「あなたになら……遼二を……ううん、今なら何で遼二があなたを好きになったのか分かるわ。あなたみたいな人なら……彼ととってもお似合いだわね」
 上手くは言葉にならないながらも、これが彼女の本心なのだろう。真っ正直で嘘偽りのない紫月の気持ちを聞けたことで、憑き物が落ちたような感覚だったのかも知れない。

 あんたの気持ちは痛い程分かる。だけど、遼二を諦め切れない。そんな俺を許して欲しい。

 紫月の葛藤しながらも真正直な気持ちが、美友にも理解できる気がしたのだ。そして、そんな彼の気持ちを聞いて、美友もまたひとつの決心がついたかのような心持ちでいたのだった。

 あなたになら遼二を任せられる。
 あなたのような人になら――

 二人のやり取りを聞いていた氷川にも、そんな彼女の気持ちが見えた気がしていた。
 と、その時だった。たった今、走って来た道筋から、ザワついた数人の足音と叫び声が聞こえてきた。どうやら追手のようである。
「クソッ、取引相手ってのが到着したわけか!? あいつら、追って来やがった……!」
「やべえな……。すぐに逃げよう。美友、傷の方は大丈夫か!?」
 氷川が後方の様子を探る傍らで、紫月は美友の怪我を気に掛けていた。
「一之宮、猶予はねえぞ! すぐにここを離れよう」
 通りの向こうにも酔っ払いやら厄介な連中がいそうだが、追手に掴まるよりはまだマシだろう。
「分かった、すぐに行こう。美友、その前に靴を脱げ!」
「え……!?」
「さっき転んだ拍子に痛めちまったろ」
 見れば、なるほど片方のピンヒールがグラグラとして今にも折れそうになっていた。紫月は美友の十センチはありそうなそれを脱がすと、勢いよく地面に叩き付けて、両方のヒールの部分をへし折った。
「これで少しは歩きやすい。万が一、俺と離れることがあっても走ることも可能だ」
 紫月は再び背中を差し出して、美友におぶさるように言うと共に、もしも戦闘態勢になることがあっても、彼女が動きやすいようにと配慮をしたのだった。
 美友の方も、そんな紫月の気遣いが分かるから、今度は素直に自ら背中におぶさる。
「よし! そんじゃ、突っ走るぜ!」
 氷川が先導役となり、紫月と美友を守りながら走る。だが、あっという間に追手も迫って来て、屋台にいた酔っ払いたちも興味ありげにこちらへと寄って来る……。まるで行く手を塞がんとばかりに人だかりで壁を作られてしまい、三人は行き場を失ってしまった。

[……ッ、退け! 退いてくれ! 頼む、通してくれ!]

 氷川が現地の言葉でそう叫ぶも、野次馬たちはまるで聞く耳を持たないようだ。それどころか、面白いとばかりに、追手に加担する勢いだ。
 何とか狭い路地に逃げ込んだものの、まるで迷路のような繁華街の裏手だ。どこをどう走ればいいのかさえ見当も付かない。
「仕方ねえ、一之宮! 俺がヤツらをせき止める! お前はその女を連れて逃げろ!」
 迫り来る追手に立ち向かわんとする氷川だったが、紫月が彼を置いて逃げられるわけもなかった。
「バカ言ってんじゃねえ! てめえを置いていけるわけねえだろが!」
 こうなれば一先ず美友を下ろして二人で対戦するしかない。
「美友、ちょっとの間、我慢してくれ! そこら辺の物陰に身を隠してるんだ!」
 紫月も共に闘わんとした――その時だった。路地に銃声が鳴り響いた。
 立て続けに二発、三発と、凄まじい音が背筋を凍らせる。追手が銃を放ってきたのだ。美友などは、狂気のような叫び声を上げながら呆然状態だ。
「ッ……!? 危ねえッ! 美友、伏せろッ……!」
 咄嗟に彼女を庇わんと紫月が抱き寄せたと同時に、またもや数発の銃声が鳴り響いた。

「一之宮――ッ!」

「氷川……!」

 互いに手を伸ばし合いながら、これまでかと覚悟を決めた。ギュッと瞼を閉じ、二人で美友を挟むように身を寄せる。まるで切り取られた絵画のように時が止まった――。



Guys 9love

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