番格恋事情
もしかしたら撃たれたのかも知れない。だが、痛みは感じない。
一体どうなったっていうんんだ――
氷川は――?
一之宮には当たったかも知れない――!?
美友は無事なのか――?
氷川も紫月も、互いにそんなことを思いながら、夢か現実かさえ分からない恐怖が二人を包んだ。
だが、あれだけの激しい銃声だったのに係わらず、辺りはすっかりと静まり返ってしまったようだ。恐る恐る目を開ければ、一人の男の広い背中が飛び込んできた。まるで自分たちを庇うかのように突如として現れたその男の向こうには、慌てふためいたように退散していく追手の姿が遠ざかっていくのが分かった。彼の手にはガッシリとしたゴツい銃が握られており、その銃口からは薄い煙のようなものが立ち込めているように感じられる。今、まさに撃った直後というのが窺えた。
つまりは、この男が追手の銃を打ち落としたということなのだろう。地面には追手が落としていったと思われる短銃が二つ三つと転がっていた。
「鐘崎か――!?」
氷川が咄嗟にそう叫んだ。
鐘崎が追い付いてくれて、助けに来てくれたのだと思ったのだ。ところが、
「違う……。遼……じゃねえ……」
男の背中を見上げながら、紫月がポツリとそう呟いた。
男がゆっくりと振り返る――
紫月はもとより、氷川も逸るような表情で助けてくれたその男を見つめた。
「お前さんが――紫月だな?」
男が穏やかに微笑みながらそう言った。
◇ ◇ ◇
その少し前――鐘崎と冰、そして帝斗に綾乃木らは別の飛行機で香港入りした源次郎とも無事に落ち合って、紫月らの後を追い掛けていた。
氷川からの情報を元に、すぐさまそれらしき組織に当たりをつけて取引場所に使われるだろう箇所を絞り込む。源次郎の迅速な調べによって、鐘崎らは紫月と氷川が連れ込まれた倉庫へと辿り着いていた。
「間違いない。このトラックだ」
例のフードコートで帝斗がタブレットに納めた画像通りのトラックが乗り捨てられているのを発見して、先ずは場慣れしている鐘崎と源次郎で辺りに探りを入れる。冰や帝斗らには念の為、車に乗ったままで待機してもらう。周辺には数台の車が停まっているものの、人の気配はなかった。
「クソッ、既に取引が済んじまったってことか!?」
だが、取引相手のものと思われる車は停まったままだ。鐘崎は逸る気持ちを抑えながらも、トラックの荷台を確認することにした。――と、扉に括り付けられたハンカチに気付いて、手に取った。それには先刻氷川から送信されたメールと同様のことが黒の油性ペンで記されていた。もしもメールが送信できなかった時の為にと、氷川が念を入れたのだろう。鐘崎は、急ぎハンカチを冰の元へと持って行くと、それを彼に見せた。
「これは氷川の書いたもので間違いないか?」
冰に筆跡を確認してもらう。
「間違いない。白夜の字だ! それに――このハンカチは紛れもない白夜のものだよ!」
冰もまた、逸った表情で頷いてみせた。
真っ白なハンカチ――その隅に見覚えのある刺繍が施してあった。
― Ice 白 night ー
いつぞや氷川からもらった、冰にとって大切な大切な白いハンカチ――それは普段氷川が使っているものに相違ない。
「鐘崎君、間違いない。白夜たちはここに居たんだ!」
冰の決意ある視線に、鐘崎も頷いた。
ということは、やはり一足遅かったということか――
鐘崎がすぐに足取りを追おうと、氷川のGPSを確認せんとした時だった。
「遼二さん! 来てください。こっちに男が二人、ノビております」
倉庫内の隅にある小部屋で源次郎がそう叫んだ。
「こいつらは……!」
「ええ。粟津様が撮ってくださった画像に写っていた男たちです」
では、彼らをここに閉じ込めたのは紫月と氷川ということか。
「もしかしたら取引に入る前にここから脱出したのかも知れねえな」
紫月も氷川も腕は達つ男たちだ。上手く彼らを巻いたということだろうか。
「ですが、他の者たちが見当たらないのが気になります」
「ああ――。車が乗り捨ててあるってことは、後から来た組織の連中が紫月らを追って行ったのかも知れねえ」
そう話す鐘崎と源次郎の傍らで、源次郎の部下たちが叫んだ。
「紫月さんたちの位置が分かりました! この先、少し行った所です」
彼らの差し出したタブレットで鐘崎はすぐに位置を確認すると、苦々しく眉根を寄せた。
「……ッ、九龍城の再来と言われる地区か……! 源さん、奴らが危ねえ! すぐに追うぞ!」
「はっ――!」
部下たちに冰らを任せて、倉庫を飛び出そうとした、その時だった。鐘崎のスマートフォンに連絡が入った。
『俺だ。紫月たちは無事に保護した。売春組織の連中がそっちへ戻って行ったから、お前の方で押さえてくれ』
その報告に、鐘崎はホッと胸を撫で下ろした。
「源さん! 紫月らは無事だ」
「――では、間に合ったのでございますな」
「ああ。あっちはもう心配ないそうだ。間もなく組織の連中がここへ戻ってくるから、こちらで処理する」
「かしこまりました」
源次郎は部下たちに言って冰や帝斗らの乗った車を先に帰すように手配すると、闇組織の捕獲に向けてすぐさま態勢を整えたのだった。
一方、紫月と氷川は、自分たちを救い出してくれた男を見上げながら、未だ腰が抜けたようにして路地にへたり込んでいた。本物の銃撃戦に遭った直後だ、それも致し方なかろうか。
「よくがんばったな。もう大丈夫だから安心しろ」
「あ……はい、あの……」
「ありがとう……ございます」
紫月も氷川も揃って男に頭を下げる。が、彼は一体誰なのだろう。もしかしたら鐘崎が手を回してくれた助っ人かも知れない、そう思った。
鐘崎は、ここ香港ではマフィア頭領の一人息子である。養子といえども組織の配下の者たちは大勢いることだろう。鐘崎本人が追い付くまでの間、彼らに救出の助力をするよう手配してくれたのかも知れないと思えた。
ともかくは助かったことに安堵する。
「そうだ! 美友は――ッ!? 撃たれたりしてねえかッ!?」
紫月が我に返ったようにして、腕の中の美友を気に掛けた。氷川と二人で彼女を挟み込むように抱いたままだったのだ。
「気を失っちまってら……。けど、撃たれたりはしてねえみてえだぜ?」氷川が確認する。
「そっか……! 良かった……」
あからさまにホッと肩の荷を下ろした紫月に、
「お前――、本当にいいオトコに育ったな」
助けてくれた男が誇らしげに微笑んだ。
「え……? あの……あなたは……」
衝撃と恐怖ですっかり動転していたが、次第に気持ちも落ち着いてか、紫月は不思議そうに男を見上げると、ハタとしたように瞳を見開いた。やさしげに微笑みながら自分たちを見下ろしている男の面影に思い当たる節があったからだ。
濡羽色の髪に漆黒の瞳、整った精悍な顔立ち――まるで鐘崎をもっと大人にしたようなその男に、吸い込まれるかのように視線が外せない。
「あの……もしかして……あなたは……」
「鐘崎僚一、あいつの親父だ」
「遼の……親父さんッ……」
そう、男はなんと鐘崎の父親だったのだ。
「遼二もすぐそこまで来ている。お前さんたちを追っていた組織を片付けたら、すぐに合流できる」
もう大丈夫だから安心しろという父親の言葉に、ホッと胸を撫で下ろしたのだった。
そのまま鐘崎の父親に連れられて、彼の自宅へと向かった。
「あの……親父さん。美友は怪我をしてるんです。さっき、転んじまって……。どっかで手当てをしてやりたいんですが――」
ワゴン車の後部座席で美友を抱きかかえながらそう言う紫月に、鐘崎の父親がそこはかとなくやさしげな視線を細めていた。
「大丈夫だ。家に帰ればすぐに診てやれる」
「そうですか。ありがとうございます」
「お前さん、本当に……」
「え……?」
「いや、何でもねえ。それより――もうすぐ着くぞ。遼二たちもすぐに来るが、先ずは風呂だな。遼二らが戻ったら皆でメシにしよう。紫月と――それに氷川君だったな。二人共、本当に良くがんばった。ゆっくり身体を休めるといい」
「あ、はい!」
「ありがとうございます!」
そうして一路、鐘崎の父親の自宅へと向かったのだった。
一方、闇組織を無事に片付けた鐘崎は、源次郎と共に紫月らの待つ父親の邸へと向かっていた。
「……ったく! 親父のヤツにも困ったもんだぜ」
鐘崎が大袈裟なくらいの深い溜め息を落とす。源次郎は、そんな彼を横目にしながら困ったように苦笑していた。
日本を発つ前に香港の父親の元へと助力を申し入れた鐘崎だったが、それを受けて父親の僚一は、すぐさま范美友の足取りの調査を始めた。そこで、彼女があまり良くないチンピラ連中を雇ったことや、日本に向かったこと、その後の行動などすべてを読み解いた僚一は、紫月らが売り飛ばされようとしていた売春組織をも探り当てていたのだ。美友らのプライベートジェットが香港の地に着いた時には、既に取引場所へと先回りしていた。
「紫月らがあの倉庫に連れて来られた時には、親父はもうとっくに到着していたらしい」
にも係わらず、僚一はすぐに救出を試みず、しばしの間、静観していたというのだ。
「俺たちのような裏社会に身を置く人間とこれから生涯を共にするに当たって、紫月の実力を図りたかっただなんて抜かしやがって……。まあ、俺も含めてどういう行動を取るか見てみたかったらしいが――」
つまりは、鐘崎と一緒に人生を共にするのであれば、今後も多かれ少なかれこういった事態に陥ることも皆無とはいえない。緊急事態にあって、どう判断し、どう乗り切るのかを試したかったというのが父親、僚一の思惑だったようだ。
源次郎はそんな僚一の考え方が如何にも彼らしいと笑ったが、鐘崎にとっては愚痴のひとつもこぼしたくなる言い分だ。
「危なくなったらすぐに助けに入るつもりだったとか抜かしてやがったが……俺にも本当のことを教えねえで……何を考えてるんだか、親父のヤツったら」
「まあ、僚一さんの気持ちも分からないではありませんよ。遼二さんが紫月さんと真剣にお付き合いしていることを知って、窮地のお二人がどのように切り抜けるかを見極めたかったのでしょう。今回はたまたま僚一さんも香港にいらしたし、すぐに救出に動くことができたとはいえ、それが儘ならない時もありましょうからな」
そう――、もしも誰の助力も得られないような事態に陥った時、若い二人が生き延びる為にどれだけの知恵と実行力を備えているのかというのを把握しておきたかったのだ。足りないところや間違った選択があれば、そこを指摘し、どう突破すれば良いかを教え込むことができる。まさに親心である。
「でも、僚一さんは紫月さんのことを本当に心優しい、あたたかいお気持ちを持った方だと、大層褒めていらっしゃいましたぞ」
「ああ。飛燕さんがどれだけ心血注いで育てたのかがよく分かると言っていた」
一之宮飛燕は紫月の父親である。僚一と飛燕が出会い、恋に落ちてから十数年。二人が共に生活することを断念したのは、紫月を育てる為だった。僚一にとっても、紫月は我が子同然と思える愛しい存在といえる。おいそれとは会えない距離で暮らそうとも、僚一は飛燕と紫月のことをいたく気に掛けていたに違いない。成長した紫月に直に会ってみて、彼のやさしい気質に触れ、飛燕がどのように育てたのかを実感し、誇らしく思ったのだろう。
「僚一さんと飛燕さん、お二人がお会いになるのもお久しいことでしょうからな」
「ああ――。実際に会うのは数年ぶりなんじゃねえかな。それこそ紫月とは初対面の赤ん坊の時以来だろうからな」
「きっと感慨深いことでしょうな」
「ああ、紫月に会えて本当に喜んでいた。飛燕さんが教え込んだ体術も、なかなかのもんだと感心していたしな。それに――氷川のこともえらく買っていたな。ヤツの迅速な判断と行動力は大したものだと言っていた」
「そうでございますな。それというのも遼二さんが氷川様に対して大きなお心で向かい合われたからでしょう。氷川様は紫月さんに対して様々、褒められないことをなさったのも事実なわけですが――そんな彼を遼二さんは許された。もしも憎しみが勝っていれば、今のような氷川様とのご縁もなかったでしょうしな」
「ああ――確かにな。氷川と俺の出会いは正に最悪の状況下だったからな」
だが、その後に氷川は誠心誠意をもって謝罪にやってきた。膝を折り、地面に頭を擦り付けて土下座までして謝った。氷川が紫月にしたことは許し難いことに違いはなかったが、あの時の氷川の行動に少なからず心を動かされたのは確かだ。彼の心からの後悔と謝罪、その真摯な気持ちが伝わってきたからこそ、鐘崎も、そして紫月もその意を受け入れることができたのだ。
「不思議な縁――だな。今では氷川が何ものにも代え難い友に思えているんだから――」
「ええ。氷川様も、そして無論、遼二さんと紫月さんも――皆さんがお互いに真の心で向き合われたからこそでしょうな。僚一さんも皆さんのご友情を嬉しく思われていることでしょう」
鐘崎には、紫月や氷川との縁が、そして無論のこと父親たちの縁も、すべてが遠い昔からの運命によって導かれたもののように思えてもいたのだった。
その後、父親の邸に戻った鐘崎は、紫月を無事に取り戻せたことに安堵し、氷川にも心からの礼を述べた。冰や帝斗、綾乃木らの尽力に対しても深く感謝の意を述べ、皆は一緒に少し遅めの夕卓を囲んだのだった。
美友には僚一が手厚く怪我の手当てをし、彼女が意識を取り戻す前に自宅へと送り届けた。今はまだ息子の遼二と美友を再会させない方がそれぞれの為であろうとの配慮からだった。今回、彼女がしたことは、理由がどうあれ正しいことではない。例え紫月当人が気にしていないと言ったところで、周囲――とりわけ息子の遼二――は素直に彼女のしたことを許せるかといえば、正直なところ難しいだろうと思ったからだ。互いの為にもここは少し時間を置くのが正解だろう、僚一は皆が戻ってくる前に美友を帰すことにしたのだった。
そうして夕食も済んだ後、皆は僚一の自宅でくつろぐこととなった。
僚一のアジトというのは、この邸の他にもあるわけだが、ここが一番広い邸である。高台に位置していて、ここからだと香港の見事な夜景が堪能できる抜群の立地でもある。余談だが、立体映像で香港の街並みが映し出される川崎の邸の地下室は、ここと同じ造りになっているのだ。高級ホテル並の部屋がいくつもあり、客人を接待するのにも困らないという、さすがの構えだった。
部屋の割り当ては氷川と冰、帝斗と綾乃木、そして鐘崎に紫月、いわば恋人同士に一部屋ずつでくつろいでもらうことにする。源次郎と側近たちにはそれぞれ個室が用意され、皆の苦労を労うこととした。残るは紫月の父親である一之宮飛燕の部屋だ。
「飛燕――お前は俺と一緒でいいだろう?」
僚一は、飛燕を自らの部屋へと誘うと、二人は久しぶりの再会を堪能することになったのだった。
◇ ◇ ◇