番格恋事情
そんな間合いに耐え切れずというわけじゃないが、紫月はちらりと手元の腕時計に視線を逃がすと、そろそろ引きあげるかといった調子で立ち上がった。
「おわーっと! ホントだ、もうこんな時間かよ!」
既に午後の九時を回っているのに気付いて、京が慌てた声を上げた。「やべえよ、晩飯片付けられちまう」などと言いながら、急いで学ランを羽織って店を出た。
「あれれ、紫月は? もう行っちまったのかよ? あの野郎ー、相変わらず愛想無えんだから」
「遼二、お前の家どっちだ? 方向同じだったら一緒に帰っか?」
一足先に店を出て行った紫月の後ろ姿が遠くなるのを見送りながら、剛と京がそんなふうに誘ったが、
「いや、俺はちょっと本屋に寄ってくよ。やっと教科書が入ったとかって担任に言われてんだ。それ、取りがてら帰るわ」
そう言って、三人はその場で別れた。
その後、書店で教科書を無事に入手した鐘崎は、足早に駅前の繁華街を歩いていた。その時だ。
「――四天の一之宮を見つけたぜ」
すれ違いざまの男が携帯電話を片手にそう口走ったのに、ハッとしたようにそちらを振り返った。
見れば、自分たちのと似たような学ラン姿の男がキョロキョロとしながら誰かと電話をしているようだった。人の波をかき分けるようにして、割合足早のまま会話が続く。
『四天の一之宮』という言葉が気になって、後を追いながら男の会話に耳を凝らしていた。
「一之宮の連れの奴らは別の方向に帰って行くのも確認した。ヤツは今、駅前の通りをそっちに向かって歩いてやがる。もうちょいで歩道橋を渡り終えるから、ヤツが降りてきたところを押さえろ。予定通り頼むぜ」
受話器ごしにそんな指図をしている男の視線の方向を見やれば、電話の相手なのだろうか、やはり携帯を片手にこちらの様子を窺いながら手を振っている男が目に付いた。彼もまた学ラン姿であることから察するに、仲間同士といったところだろうか。その男以外にも数人がいるのが見てとれる。
その直後、彼らが今しがたの会話通りに歩道橋から降りてきた人物を素早く取り囲んだのに気が付いて、鐘崎は足を留めた。
遠目からなのではっきりとは確認できないが、背格好や髪の感じからして紫月によく似ているふうに感じられた。目の前を急ぐ学ランの男がそう話していたからという先入観もあったろうが、目を凝らしてよくよく見れば――やはり紫月のようだ。
複数車線に絶えなく車が行き来する大通り――
その合間から紫月らしき男を取り囲むようにして数人の男たちが確認できる。
(誰だ、あいつら……?)
一見にしてあまり素行のよくなさそうな数人がイキがるようにして彼を取り囲んでいる。
何だかよからぬ雰囲気に鐘崎は眉をしかめた。
車の往来は止まらない――
しばらく大通りに立ち尽くし、睨み合いのようなものを繰り返した後、彼らの一団に引きずられるようにして、その男が脇の細い路地へと連れ込まれていくのが確認できた。
車のライトがその後ろ姿を映し出す――
薄茶色の髪、ゆるやかな天然癖毛ふうの長めのショート――間違いない。やはり紫月だ。鐘崎は眉間のしわを更に険しく歪ませると、目の前を行く彼らの仲間らしき男の後をつけるようにして、足早に走り出した。
◇ ◇ ◇
「よう、一之宮。――待ってたぜ」
幾度か路地を折れ曲がった一角の、とある空き店舗のような薄ら狭い所に連れ込まれて、声の主の方をジロリと睨み付けた。
通りの向こう側から鐘崎が確認した姿はやはり紫月で当たっていた。喫茶店で皆と別れた後、一人になったところを狙っていたとでもいうように取り囲まれて現在に至る。
周囲には小さなカラオケスナックや小料理屋、パブにバーといった類の店がずらりと軒を連ねている、ここは繁華街の最端だ。
その中の一店舗らしき所のようだが、表に『テナント募集』のすり切れた張り紙が貼ってあったところを見ると、しばらくは使われていないというところか。おそらくは周囲の店同様、バーかスナックだったのだろう、店内には埃のかぶったテーブル類と煙草の灰で焦がしたような痕の残ったソファが無造作に置かれている。
そのひとつに腰掛けながら、満足そうに煙草をふかし仲間を従えているその男を目にすると、紫月はチッと軽い舌打ちと共に面倒臭そうな苦笑いを漏らしてみせた。
「――氷川か。こんな晩飯時に丁寧な迎えまでよこして御苦労なこったな?」
何の用だ、などと訊くまでもないが、どうせこの前の仕返しに出てきたのだろうと思うと、ますます面倒臭いといった溜息を漏らさずにはいられない。そんな態度が彼らの感情をあおることは言うまでもなかろうが、紫月はホトホトうっとうしそうに大袈裟なほどの嫌悪感をゼスチャーしてみせた。
そんな様子に氷川の方は呆れ半分、同じように溜息まじりだ。
「ったく、いちいち癇に障る態度すんだよなー、お前って。まあいい、仰せの通りの晩飯時だ。俺も腹減ってイラついてたとこだし……今日はちょっとばかし覚悟してもらわねえと……な?」
ニヤッと不敵に口元をひん曲げながらも目が笑っていないのが分かる。
この前のお礼参りだ、今度は容赦しねえと物語っていることもしかり。先日の番格勝負で泥を塗られた報復戦ということだろう、自らを取り囲んだ桃稜の連中は数にしてざっと二十人といったところか。彼らを従えながら頭領である氷川がギラギラとした目つきでこちらを見据えている。
「で、どうするわけ? さしずめ俺はてめえらにボコられるって寸法?」
遅かれ早かれこうなることは予測していたし覚悟もできているという意味なのか、あるいはこの人数を相手取って尚、勝機を諦めてはいないということなのか、置かれている状況にはおおよそふさわしくない程の余裕の態度で紫月は氷川を見下ろした。
だが氷川はそれを上回る余裕しゃくしゃく、ゆったりと煙草をひねり消しソファから立ち上がると、懐から大事そうに何かを取り出しながらニヤニヤと笑ってみせた。
「ホントはさー、こーゆーの趣味じゃねえのよね俺? 集団リンチとか多勢に無勢とか? 卑怯な野郎ーって感じでいかにもカッコ悪ィじゃねえのよ? だがてめえにゃこの前の借りもあることだし、そう悠長なことも言ってらんねえってな。まあ、けど……俺ってやっぱ元がやさしくできてるからよー? お前にもちっとはイイ思いさしてやんよ――」
手中にした小瓶のような代物をポンポンとお手玉を扱うように投げてはキャッチし、投げては受取りを繰り返す。
クイと顎先で仲間内に合図を出しながら満足げな感じで薄ら笑いを浮かべた。と同時に自らを取り囲んでいた男たちが一斉に殴りかかってきたのに、紫月はヒョイと身軽にそれらをかわすと、襲いかかってきた数人を一気に返り討ちにして狭い床へと放り投げた。
「あ~あ、やっぱバカ強えなーお前……」
あっという間に仲間の半分が倒されて方々に転がされているその状況に、氷川は呆れ半分にしながらも未だ余裕の表情で掌の小瓶を弄ってばかりだ。
その直後、じゃあそろそろ本気を出すかなというようにして、突如氷川自らの拳が目の前に飛んできた。
「――っ!? く……そっ!」
床に転がっている雑魚連中とは違って、やはり氷川には手こずらさせられる。加えてこの狭さに薄暗さ、紫月はしばし氷川の攻撃を避けるだけで手を煩わされてしまった。
そんな折だ。
やはり多勢に無勢では分が悪いということだろうか、それともこの劣悪な環境も手伝ってか、後方から鉄パイプかバットのようなもので思いっきり足元を叩かれたのを機に、紫月は彼らの前で膝を付き、あっという間に手中に墜とされてしまった。
「――ぐはッ……! っ……っぁ」
足元を崩されてはどうにも攻撃が避けられずに、しばらくは袋叩きを免れなかった。脇腹や背中に飛んでくる蹴りは容赦なく、身を守るように腹を抱える格好でうずくまっているところにもってきて、今度は靴で頭を踏み付けられた。
髪を掴み上げられ頬を思いっきり張り倒されて、唇が切れて血が滲み出る。
真っ赤に腫れた頬は次第にどす黒い痣となり、額が切れて鮮血がポタリポタリと滴り落ちる。
耳の裏から首筋を伝った流血が、学ランの襟を濡らして白いシャツを染め上げて――
さすがに朦朧とし、立ち上がることはおろか、おいそれとは動くこともままならずに、その場にうずくまったまま声さえ出せない。イキがることも強がることも、反撃などもっての他だ。覚悟していたこととはいえ、もう意識が付いていけないほどに苦痛だった。
床に突っ伏した髪がグイと引っ張り上げられ無理矢理に上を向かされて、朧げな視線の先にモヤがかかったような、よどんだ空気が微かに感じられた。そのモヤの向こうから自らを見下ろしているのは氷川の笑顔、満足そうに薄ら笑いを浮かべた口元がゆるんでいる。
「さすがのお前も降参か? ちょっと手荒にし過ぎちまったってか? 可哀想だからお薬でも嗅がせて楽にしてやろうってね――」
ニヤけまじりにそう言う声と、先程からこの男が弄っていた小瓶の蓋がゆっくりと開けられる音が耳元で前後した。遠く近く、霞んだり近寄ったりしながらキュッキュッと蓋がひねられる音だけが鮮明に飛び込んでくる。
次第に脳天がしびれるような甘いニオイに鼻をくすぐられ、それと共に記憶がぼんやりと往来する感覚が激しくなっていくのを感じた。
バクバクと速まる心臓音、それにつられるように身体中の脈打つ音も増加するようだ。
尋常ならぬ勢いで全身が熱く疼き始める。
流血に混じって汗が噴き出した襟元を掴み上げられるままに、紫月は朧げに氷川の顔を見上げた。
「そんなに暑いか? 汗びっしょりかいて苦しそうだな、一之宮。なんなら脱がしてやろっか? 楽ンなるぜ――?」
頭上に浴びせられるニヤけた言葉と共に、先程からずっと氷川が掌で弄んでいた小瓶が視界に入りきらないくらいの至近距離に付き出され――
「――これ、何か分かるか?」
かすむ瞳で懸命にそれを見やれば、妖しげな英数字の組み合わされたラベルが、目の前でぼんやりと揺れているのが確認できた。
――破裂しそうな程に脈打つ何かが身体中を這い回る。
バクバクとした音は心臓音か血脈か、それらが次第にゾワゾワとした奇妙な感覚にとって代わるのを感じて、紫月はカッと瞳を見開いた。
朦朧とする感覚を振り切ろうと必死になれど、気付けば氷川が自らの腹の上に馬乗りになっているさまに、ギョッとしたように彼を見上げた。
「この前の続き、ヤらしてもらおうと思ってさ?」
「……っなに……ッ!?」
「此処はな、一之宮。周りにゃカラオケスナックやパブばっかりの好立地っての? 多少うるさくしてもぜーんぜんオッケーなのよー。ま、せいぜい安心してよがらせてやろうってな? 心ばかしの俺の気遣い、有難く受け取れや」
目の前で揺れる小瓶が鮮明に映し出される。
「何……言ってんだてめえッ……! っざけてんじゃねえぞっ! ……何しやがったんだクソ野郎……ッ!」
「怒るなよー。言ったろ? 俺、やさしい男だからさー、お前にもイイ思いさしてやりてーって。こいつぁーね、とびっきりイイ気持ちになれる極上品だ。ちゃーんとテスト済みだから安心していいぜ? マジ、天国にイかしてやっから」
「……ッざけ……っうぁっ……!?」
突如、乱暴に右の手首を掴み上げられて、今まで氷川が弄んでいた『小瓶』を握らされた。
そのまま、掴まれた手首がねじれるんじゃないかというくらいにひねり上げられて、あまりの苦痛に紫月はギュッと唇を噛みしめた。
「ほら、ちゃんと握ってろよー? 気持ちよくなるまじないなんだからよー?」
掌の中に握り込まされた小瓶は、ずっと氷川が弄っていたせいでかガラスが生温かくて、そんな感覚がゾクリと背筋に伝っては鳥肌がたつのが気持ち悪い。抵抗しようにも、もう片方の腕は先程の乱闘で痛手を食らったらしく、力が入らない上にちょっと動かそうとすれば激痛が走って使い物にならない始末だ。
全身の痛みも相まって抵抗などは以ての外、普段なら何てことのないはずの動きがままならない。腹の上の氷川を跳ね除ける気力すら湧かなかった。それどころか氷川に乗り掛かられた体重の重みでか、触れ合っているところがズクズクと疼くように熱を帯びてゆくのが驚愕だった。
自身の身体の中心が意志とは裏腹に快楽に浸食されていく――
次第に荒くなる吐息は、気を許せばきわどい嬌声まがいの声にとって代わりそうになる。
そんな様子をおもしろおかしそうに見下ろす氷川の視線は無論だが、今のこの状況を、此処にいる他の連中がどんな思いで見ているのかと想像すれば、顔から火を噴きそうになるくらいの恥ずかしさがこみ上げた。
番格だなどともてはやされた男が何てザマだ。みっともないったらこの上ない。
だが何より苦渋だったのは、男として屈伏させられるということ以上に、おそろくは破廉恥な視線で皆に見られているのだろうかということの方が気に掛かって仕方なかった。
おぼろげな意識の中にあってもはっきりと感じ取れるそれは、逸った息使いと興奮した気配、そして蔑み嘲笑うかのようなニヤけた視線。
まるでこの場の全員に視姦されているような気分にさせられるのが堪らなかった。
そして挙句は自身の身体までもがおもしろがるように自らを裏切っては反応し、屈辱を差し出すように淫らに疼く。あまりの悔しさに、紫月は思わず涙がにじみ出しそうになるのを必死でこらえていた。
その機を逃さずといった調子で氷川はニヤッと笑うと、組み敷いている紫月のベルトを解いて間髪入れずにズボンのジッパーを引きずり下ろした。
「……な……っにしやがるッ……! てめえっ……!」
さすがに驚いたわけか、瀕死のはずの体力をよそに無意識に腹の上の氷川を跳ね除けて、気付けばドカリと彼の太もも目掛けて蹴り上げていた。
「おーっと危ねえ。油断も隙もあったもんじゃねえ! まーたこの前みてえにタマ蹴られちまうとこだぜ」
口元には笑みを浮かべながらも、それとは裏腹な乱暴さで、氷川はお返しとばかりに紫月の右足を目掛けて鉄拳を食らわした。
「っぐ……っああーーーっ……!」
とてつもない程の絶叫が狭い店の天井にこだまし、だがその叫び声をかき消すかのようなカラオケの歌声が周囲の店の方々から漏れてくるのが恨めしかった。
愉快に、軽快に繰り返される少々音程の外れた歌声に笑い声。そんなものが遠く近くで焦燥感を煽る。
誰も助けになど来ない。
誰もこの状況に気付く者などいない。
そんなことはハナから分かり切ったことだ。
絶望感を突き付けるかのように氷川の口からこぼれた言葉に、紫月は酷い痛みをこらえながらもそちらを睨み付けた。
「なあ一之宮、俺がこの前お前のケツを掘らせろっつた例の条件……。ありゃ別に酔狂とか戯言とかいうもんじゃなくってよー? ほぼ本気だったっつーか、実のところ言うとさ、てめえのことは随分前から狙ってたって方が正解なんだぜ?」
――――!?
「高坊ンなった頃からだったか、度々街中で見掛けるようになったてめえを見て思ったんだよ。女連中からはいい男だイケメンだって持て囃されてるってだけでも腹立つってのに、腕っぷしも強えときたもんだ。正直、イケすかねえ野郎ってのが第一印象だったな? あの頃はてめえンことが目障りでしょーがなかったよ。いつかコイツをねじ伏せてやりてえとかも思ったな。喧嘩で倒すだけじゃ何かが足りねえ。腕力で屈伏させるだけじゃつまんねえ。何だろうなー、てめえのすべてを打ちのめして叩き潰しちまいてえって、俺りゃー、ずっとそう思ってた――」
掴まれた顎に食い込むばかりの指先の力がキツくて痛い。
ベラベラと頭に響く台詞もウザい。
ニヤけた口元がまるでキスをせんとばかりに近付けられたのに、紫月は再び腹上の氷川を蹴り上げた。
「寄るんじゃねえっ……! ふざけたことをベラベラ抜かしやがって……! 俺に触んじゃねえ……ッ! それ以上近寄ったら――」
殺すぞ――――
ズタボロの身体を引きずりながらもソファの上で半身を起し、そう言わんばかりに凄む紫月の様子を、氷川は呆気らかんと見下ろしていた。
「はっ、はは……なんだてめえ。この前とはえれー違いじゃねえかよ? こないだン時は随分と余裕ブッこいてたくせして、やっぱ、ありゃ強がりだったってか? 何だかんだ言っても周りにゃてめえの仲間がいる。仲裁役の白帝の連中もいたあの状況じゃ、俺にホられることもねえってタカ括ってやがったわけか? で、実際ヤらちまうとなったら本気で焦るってどーゆーのよ?」
情けねえヤツ、とでも言いたげな顔をして嘲笑たっぷりに見下ろしてくるのを、苦々しい思いで見つめていた。
冗談じゃねえ、誰がてめえなんかと――そう思いながらも、相反して身体の芯が熱く火照ってやまないのをとめらずに、紫月は苦汁を飲み込むように唇を噛みしめた。