club-xuanwu extra
モバイルに送られてきた一通のメール。その差出人名を見るなり思わず眉根を寄せてしまった。
――高瀬芳則。
忘れもしないそれは、自身が現役ホストだった頃に枕営業として身体を重ねたことのある男だったからだ。
雪吹冰は、一瞬そのメールを開くことを躊躇った。
今更何の用があるというのだろう、どう想像しても、いい方向性のことであるはずがないと確信があった。
当時、冰は源氏名を『波濤』として新宿歌舞伎町にあるxuanwuというホストクラブで働いていた。不動のナンバーワンホストとして君臨してきたが、前経営者の粟津帝斗から後継を望まれたことをきっかけに、今は現役を引退し、代表としてこの店を経営する側の立場となっている。
メールを送ってきた高瀬という男は、当時の数ある顧客の中でも太客といわれる上得意であった。ホストクラブに通うにしては珍しい男性客ではあるが、そんな彼と店がハネた後のアフターと称して、幾度となく深い関係を結んだのは事実だ。
だが、冰がこうした枕営業をしていたのは決して営業成績の為ではなく、彼にはそうせざるを得ない苦渋の理由があったからだった。
冰は国内では有数といわれる程の財閥の御曹司として生まれたが、母親が妾だったことで、親元で暮らすことは許されなかった。彼には腹違いの兄がいて、名を菊造といった。――つまりは本妻の嫡男であるわけだが――その菊造から、父親を奪った妾の子供という理由で疎まれ、慰謝料と称して毎月多額の現金を要求されていたのだ。
その工面の為にホストという仕事に就いたものの、通常の稼ぎだけでは到底足りずに、苦渋の末に選んだのが同性相手に色を売るということであった。
菊造からの金の無心は容赦なく、冰にはこの高瀬の他にも身体を売っていた男性客があったが、彼らの殆どは冰が現役を引退したと同時に綺麗さっぱりと縁を切ってくれた者ばかりだった。つまりは相手側にとっても、ひと時の遊びであったということだろう。それは苦い過去を思い出したくない冰にとっては、たいへん有り難いことでもあった。
高瀬はそんな客たちの中の一人だったが、正直なところ、当時から冰はこの男が苦手だった。理由は彼の性癖が少々変わっていたからだ。
高瀬は、最初の頃こそ非常に紳士的に接してくれていたものの、関係を重ねるにつれ、次第に本性を見せ始めていった。
騙し討ちのようにして淫猥な薬を盛られ、一晩中嬲られたこともある。縛られて恥ずかしい格好をさせられ、それを満足そうにニヤニヤと凝視されたり、時にはレイプまがいのプレイがしたいと言い、手加減はしつつも殴られたりしたこともあったくらいだ。
だが、金の面だけは糸目を付けずに、他の誰よりも高額で買ってくれるこの男と縁を切ることも出来得ずに、当時は酷く苦しんだものだった。
身震いのするような苦い経験であったが、ホストを引退し、代表に就任してからはパッタリと連絡も途絶え、冰の中では既に過去の思い出したくない記憶として、引き出しの奥底にしまったはずの終止符であった。
今の今まで、まるで音沙汰なしだったのに係わらず、突如として思い付いたように送られて来た、そんな男からのメールだ。躊躇も当然といえよう。
一瞬、開封しないままで捨ててしまおうかとも思ったのだが、添付画像が添えられていることに気が付いて、冰は削除を留まった。まさかその当時によからぬ写真でも撮られていて、何かの脅しのネタにでもするつもりなのかと思ったからだ。
気は進まなかったが、思い切って画像を開いてみることにした。
――が、それを開いた瞬間に冰は絶句させられてしまった。
瞬時に身体が震え出し、ガクガクと膝が笑い出す。身体はカーッと熱を持ち、ほんの数秒でぐっしょりと玉のような汗が噴き出す程に衝撃が襲い来る。
そこには自身の店の新入りホストである『一之宮紫月』の淫猥な姿が写っていたからだ。
◇ ◇ ◇
『紫月』というのは、自身が代表を務めるホストクラブに先月から入店したばかりの新米ホストである。年齢は二十一歳だと聞いている。ほぼ万人が一目で惹かれるような見事な容姿に加えて、少々天然系の抜け感が客受けして、僅かの間に人気が沸騰、現在は店のナンバースリーにまで上り詰めたという大した若者だった。
外見だけでいうならば、すぐにもナンバーワンが獲れそうな程の男前だが、彼があと一歩でトップに及ばないのには訳があった。そう、紫月には既に将来を誓い合った相思相愛の恋人がいたからである。しかも、その相手というのは男――つまりは同性同士で愛し合っているわけなのだ。故に店以外では女性客との親密な交際は一切しないという方針で、そのせいでか、今ひとつ大ブレイクには届かないといったところなのだ。
紫月が恋人の『鐘崎遼二』と共にこの店に入店したいと訪れたのは、冰が代表に就任して間もなくの――ちょうどひと月ほど前のことだった。
初対面となる面接の段階で、自分たちはゲイでお互いに愛し合っている仲だということを堂々と暴露してよこしたので、冰にとってはよくよく記憶に残っている男たちだった。というのも、冰自らも恋仲にある相手が男性だからであった。
冰自身も数ヶ月前までは『波濤』という源氏名で、この店の現役ホストとして不動のナンバーワンに君臨していた経緯である。その際に同僚として系列店舗から移動してきた『龍』こと氷川白夜と知り合い、紆余曲折を経て相思相愛の仲になったわけだ。今では生涯を共にしたいと思える程の、唯一無二の恋人である。
その氷川は香港マフィアの頭領を父に持ち、中国名を『周焔白龍』という、何とも現実離れした経歴の持ち主でもあった。前の代表であった粟津帝斗とも親友であり、彼がホストクラブをオープンする際には所有していた土地と建物を提供した仲でもある。つまり『xuanwu』は、元々は氷川の持ち物であったわけだ。その帝斗が実家の稼業を継ぐ為、代表を辞して冰に後継を託すことになった際に、氷川もオーナーとして経営に携わることになったのである。
当初は互いに源氏名で呼び合っていたのだが、恋仲になってからは『冰』と本名で呼ばれている。一方の冰自身は氷川のことを未だに源氏名である『龍』と呼んでいた。呼び慣れた名であるし、彼の字にも龍の字があるので、そのままきているのだ。
紫月らが面接に来た際にもちょうど氷川も来店していたのだが、彼はどうにも紫月の相方である遼二という男のことを気に入ったようで、今では遼二を秘書兼ボディガードとして連れて歩いているほどだった。
そんな故もあってか、氷川と冰の二人は、この若い恋人たちを気に掛けていたのである。
そんな紫月のとんでもない画像が、今、自身が握り締めているモバイルの中にある。これは夢などではない、現実なのだ。
画像の中の彼は、割合雑多な感じのソファの上で両腕を後ろ手に縛られ放置されていて、すぐ側には床へと放り出された上着が見える。かろうじてシャツは身につけているものの、ボタンは飛ばされ、見たところナイフかハサミのような物で切り裂かれたようにボロボロになっている。しかも、顔には張り手を食らったような内出血の赤黒い痕もあり、唇の端は切れて血が滲んでいる。
意識はあるのか、おぼろげに開かれた瞼がこちらを見ているようなショットだ。
が、何より衝撃だったのは、ズボンもズリ下ろされていて、彼の脚の途中で絡まっているような状態だったことである。幸い、下着までは剥かれていないようだが、だからといって安堵するには至らない。まるで強姦され掛かっている最中のようなその画像から目が離せないまま、モバイルを持つ手もぐっしょりとした汗で濡れ、震えが止まらなかった。
冰はすぐさまメールの本文に記されていた番号へと電話を掛けた。
◇ ◇ ◇
「やあ、波濤ーーいや、今は雪吹代表と呼ぶべきか。随分とまた早い返事だこと。僕の贈った画像は喜んでもらえたかな?」
その声を耳にしただけで、ゾクリとした悪寒が背筋をざわつかせた。だが、そんなことを言っている場合ではない。
「……高瀬さん! あんた、一体どういうつもりですか……! うちのホストに何をしたんだ!」
思わずそう怒鳴ってしまった。それを聞くと、受話器の向こう側では面白そうに笑う男の声がこう言った。
「いきなり大声を張り上げるだなんて、キミにしては随分と余裕がないんだねぇ」
まるで侮蔑するような嘲笑が更なる悪寒を煽ってくるようだった。
「彼は無事なんだろうな!? そこ、何処なんですか!」
「そうがなり立てないでくれよ。そんな狂犬のような声を出して……キミのイメージが壊れるじゃないか」
「あんた……ふざけないでくださいよ……! 彼を電話に出してくれ、今すぐ!」
「心配しなくても彼は無事だよ。紫月君とか言ったっけ? なかなかのイイ男じゃないか。まあ、キミには及ばないけれどね」
下卑た声が電話の向こうで嘲笑う。冰は今にも崩れそうな膝をギュっと掌で掴みながら、
「目的は……何ですか」
訊くまでもないことだが、とにかくはそう問うことで少しでも男の意識を『紫月』から離したかった。恐らく男の目的は自分なのだろうことが冰には分かっていたからだ。
それを肯定するように、男から返ってきた答えは――やはりという内容だった。
「いちいち訊くことでもないだろう? 目的はキミだよ、波濤」
現役時代には終ぞ知ることもなかったが、この高瀬という男は貿易会社を経営しているということだった。羽田に物品保管の為の倉庫を所有しているらしく、そこに一人で出向いて来いとの要求だ。警察は無論のこと、周囲の誰かにこのことを漏らせば、紫月の無事は保証しないという。しかも、命の保証ではなく、貞操を保証しないと言い放ったのだ。
何ともえげつないことである。冰は取るものも取り敢えず、言われた通りにたった一人で指定された場所へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
club-xuanwuの元オーナー兼代表だった粟津帝斗が店を訪れたのは、その少し後のことだった。
「おはよう。差し入れを持って……来たよ……?」
いつもならフロアマネージャーである黒服をはじめ、手の空いているホストたちがすっ飛んで迎えに出てくれるというのに、今日は何故だか店内の雰囲気が異様だ。何か揉め事でもあったのかと思いながら、店のバックヤードを覗いたその時だった。
「オーナー!」
黒服らが気付くなり焦った表情で駆け寄ってきたのに、帝斗は首を傾げた。
「どうした。何かあったのか?」
以前の名残か、未だにオーナーと呼ばれることに特に違和感を感じないのは、この店のアットホームな雰囲気を体現しているようで心地よい。だが、今日は何だか皆が焦燥感で一杯のような顔付きでいるのが酷く気になった。
「実は……雪吹代表がいなくなってしまったんです……」
「いなくなった? どういうことだい?」
「それが……」
黒服の言うには、今からほんの一時間位前に慌てた様子で店を飛び出して行ってしまったとのことだった。それも、出勤して来るなり僅か数分後のことだったそうだ。
普段の彼ならば有り得ないような形相で、顔色も良くなかったという。何処へ行ったのか、何をしに行ったのかも知らされないままで、店内ではちょっとした騒ぎになっていたようだった。
帝斗はそれを聞くと、しばし腕組みをしながらだんまりを決め込む。
おそらくは思い当たる節を巡らせているのだろうかと、逸る気持ちでその様子を窺っていた黒服らは、帝斗のハッとした表情で我に返ったかのようだった。
「二、三、質問してもいいかい? このところ、冰に変わった様子は?」
「いえ、昨日までは全く普通でした。変わったことといえば――今日から龍さんが大阪にご出張で、遼二君を連れて出掛けられたので、しっかり留守を守らなきゃなって……出勤された時はいつも通りでした」
「そうか。では……僕が辞めてから何か気になるようなことがあったか? 冰は以前に拉致事件にも遭っているからね。ああいった類のことは起こっていないかい?」
そう訊きながら、だが『龍』こと氷川白夜が恋人として常に側に居る状況だ、そんな事件めいたことがあれば、すぐさま彼が対応するだろうと思える。
氷川は香港マフィアの頭領の息子である。例えその素性を知らずとも、一目見ただけで適わないと思わせるような近寄り難い風貌を備えた男でもある。そんな彼にわざわざ楯突こう者がいるとも思えない。
帝斗はまたしばし考え込んだ後、黒服に向かってこう訊いた。
「では――店の客の中で、ここ最近目に余るようなこととかはなかったかい? 例えば――冰が現役だった頃に彼を指名していた太客が、諦め切れずに通い詰めて来て困っている……とか」
冰は不動と言われた程に人気の高かったナンバーワンだ。現役を辞してからも想いを断ち切れずに、ヘタをするとストーカーまがいの迷惑行為に走る客が皆無ともいえない。帝斗自身、現にそういった事例を見てきたこともあるので、少々気に掛かったわけだ。
だが、黒服からの返答では、そういったしつこい客に覚えはないし、冰を指名していた太客たちは、引退を機にこの店から去ってしまった者もあったが、新しいホストへと口座替えをして通い続けてくれる有り難い客も多いとのことだった。
「雪吹代表もしょっちゅうフロアへ顔を出してくれますし、お客様方も喜んでくださって和気藹々ですよ」
「そう……」
帝斗は少々難しげな表情で考え込みつつも、
「なあ、ちょっとパソコンを借りたいんだが、いいかい?」すぐに黒服らの焦燥感を宥めるように穏やかな笑顔でそう言った。
「はい、どうぞこちらです」
黒服に案内されて、懐かしい事務所のパソコンをスリープ状態から立ち上げる。
その昔、帝斗は冰が金の工面の為に男性客を相手に色を売っていたのを知っていた。当初、冰が腹違いの兄に金を無心されていたことを知らなかった時は、毎夜のように男性客とアフターに消える彼の様子を見て、随分と不可思議に思ったものだ。営業の為というには度が過ぎる程のアフターぶりを気に掛けた帝斗は、万が一の時の事態を考えて冰にGPS付きの名刺入れを贈っていたのだ。
今も彼はあの名刺入れを持っていてくれるだろうか――。
彼の最愛の恋人となった氷川にGPSの存在がバレた際には、少々詰られたのも懐かしいが、氷川があのまま自身の贈った名刺入れを使わせ続けているかどうかは疑問なところだ。
案外心配性で嫉妬心も旺盛な氷川のことだ、もしかしたら未だに冰に何かしらGPSの類を持たせている可能性も無きにしも非ずだが、そうであったとしても当然新しいものに買い換えてしまっているだろう。
そう思いながらも、念の為探査に掛けてみる。――と、あろうことかまだその存在が生きているようで、地図上に反応を示した。
(――これは驚いたな。白夜のヤツ、僕が贈った名刺入れを未だに冰に持たせているってわけか?)
まあ、帝斗が理由もなしに冰のプライバシーを探るようなことはないと信頼してくれていたのだろうか。
余談だが、以前に冰は腹違いの兄が雇った男たちによって、拉致の被害に遭ったことがあった。その際に、この名刺入れが役に立ったのだ。
あわや陵辱強姦されそうになっていた冰を間一髪のところで救い出せたのは、名刺入れに付いていたGPSによって冰の居場所を即座に突き止められたからだ。
氷川にしてみれば帝斗のお陰で、あの拉致事件の時は最悪の事態に至らずに済んだという恩義の方が大きかったのだ。帝斗が冰の身を案じてくれていたことが嬉しかったのだろう。以来、お守りのようにして、そのまま名刺入れを冰に持たせていたようである。
GPSの場所は羽田を示している。地図を拡大しながら、帝斗の眉間には更に深く皺が寄せられていった。
「羽田か――。まさか……な」
神妙な面持ちでそう独りごちると、
「悪いが、顧客のフォルダを見せてもらっても構わないか?」
帝斗の問いに「もちろんです」とすぐさま返答がなされる。帝斗が代表を辞してからまだ一ヶ月である。後を継いだ冰も大事にシステムを管理してくれているようで、以前と何ら変わりのない場所に顧客フォルダも保管されていた。
しばし名簿を見流した後、とある人物のところで帝斗はハタとマウスを弄る手を留めた。
高瀬芳則。高瀬貿易株式会社代表取締役――その文字の羅列に僅か眉をしかめる。
本社の所在地は都心の一等地だが、羽田に倉庫を持っていることも帝斗は知っていた。何故なら、帝斗とて大財閥の御曹司だからである。社交界でも時折見聞きしたことのある”高瀬財閥の倅”であり、当時若くして代表取締役に就任したというこの男が、冰を贔屓にして店に通ってきていたことを知った時は、少々驚いたのも鮮明な記憶として脳裏に焼き付いていた。
「あの……オーナー、何か思い当たることでもあるんですか? 波濤さん――じゃなくて雪吹代表は顧客の誰かとトラブルになっているとか……そういったことなんでしょうか?」
不安げに訊いてくる黒服に、帝斗は微苦笑で眉根を寄せてみせた。
「いや……。僕の取り越し苦労だといいんだがね。それより白夜の予定はどうなっている。さっきの話では大阪に行っているとのことだが、ヤツは今日は泊りかい?」
「はい。龍さん……じゃなくて、氷川オーナーは今度大阪に新規開業するホテルのレセプションにお顔を出されるとのことで、予定では明日の午後にお戻りと聞いてます」
黒服らにとって、氷川も冰も未だに現役時代の名残か、ついつい源氏名が口をついて出てしまうらしい。
「なるほど。遼二を連れて行ったようだね」
「はい、遼二君と二人で、お車で出掛けられました。運転手さんは……いつも氷川オーナーの送迎をなさっている専属の方のようで、もうお一方、男性の方がご一緒のようでした」
「四人で行ったのか? 冰も見送りに来ていたかい?」
「いえ、その時は雪吹代表はまだご自宅だったようです。氷川オーナーたちが店を出て行かれる時は四人でした。車が他にも数台、氷川さんたちの前後を挟むようにして行かれたので、全部で何人で出掛けられたのかは定かではありませんが……」
では、氷川の側近である李という男も一緒だろう。彼は氷川がまだ幼年の頃から忠実な右腕として付き従っている凄腕の男だ。せめて彼だけでもこちらに残っていてくれたら有り難かったのだが、側近ともなれば常に氷川と行動を共にしていて当然である。ここは自分自身が旗振り役となって、一刻も早く冰を救出するのが先決だ。
「事情はだいたい掴めた。ありがとう」
帝斗は黒服に向かってそう言うと、すぐさま龍――氷川白夜――へと電話を入れた。
◇ ◇ ◇
一方、冰の方は高瀬という男の指示通り、羽田にある高瀬貿易の倉庫へと向かっていた。
氷川と付き合い出してから彼によって贈られた愛車に乗って、ただ一人目的地を目指す。とはいえ、普段は何処へ行くにも大概は運転手付きの送迎が当たり前になっていたから、自身で運転すること自体に若干の緊張を強いられる。加えて、今は緊急時だ。一刻も早くと焦る気持ちを抑えながら、人気の少ない夜の倉庫街を駆け抜けた。
「――ここか」
高瀬から指定された通りに、表通りからは見えない裏口付近に車を停めた。ぐるりと周囲を見渡せば、巨大な倉庫の壁には目立つ文字で『高瀬貿易』と記されている。周囲にも似たような倉庫が建ち並んでいるが、さすがにこの時間となれば昼間の喧騒は見られない。
ひっそりと静まり返った路地から垣間見える湾の向こうには、煌めく都会の灯りが美しく夜空を彩っている。普段は綺麗だと思える光景も、今は別世界のもののように感じられた。
と、その時だ。頭上で扉の開かれる音を聞き、そちらを見上げてみれば、アイアン造りの階段を降りてくる一人の男の存在が闇夜に浮かび上がった。高瀬である。
「やあ、波濤――。早かったじゃないか」
「……高瀬さん……! 紫月は無事だろうな!?」
うわずる声を震わせながら、必死の形相でそう訊いた。
「そんな愛想のない挨拶はよして欲しいね。以前のキミだったら、例えお世辞でもすごい倉庫ですね――くらいは言ってくれただろうに、残念だよ」
「……ッ、あんた……冗談言ってる場合じゃないでしょう! 早く彼に会わせてくれ!」
階段を駆け上がり、途中まで降りてきていた高瀬を退ける勢いでそう言った。――と、すれ違う瞬間に突如手を掴まれて、冰はギョッとしたように高瀬を振り返った。
「彼は無事だよ。今、会わせてあげるさ。それよりも――あんまり僕を怒らせない方がいいと思うよ? かれこれふた月ぶりだっていうのに、会うなり『紫月、紫月』って。それじゃまるで僕は蚊帳の外じゃないか。正直、愉快な気分ではないね」
握った掌を弄ぶように、ねっとりと押し広げながら指と指とが絡み合わされる。じっと、食い入るように見つめてはニタニタと笑う。気味の悪いその笑顔が常夜灯の逆光に照らされて、更なる不気味さを醸し出していた。思わずゾクりと背筋を這い上がった寒気が武者震いを誘うようだった。
そうして手を繋がれたまま扉の中へと案内されれば、冰はそれを振り切らん勢いで室内を見渡した。
「紫月――! 紫月、何処だ!」
そこは事務所だろうか、このだだっ広い倉庫にしては割合こじんまりとした空間に、机が数台と事務用の椅子、それにパソコンやら書類入れのような棚が設置されている。ガラス張りの壁の向こうには倉庫内の全体が見渡せるような造りになっていた。
その部屋の隅っこに置かれたソファの上に紫月の姿を確認して、冰は高瀬に握られていた手を振り切ると、一目散にその傍へと駆け寄った。
「紫月! おい、紫月! 大丈夫か!」
彼は先程送られてきたメールにあった姿のまま、後ろで両手を縛られていて、ウトウトと眠りに落ち掛かっているような表情をしていた。
「紫月! 待ってろ、今解いてやる……!」
背後にいる高瀬の存在など忘れたかのようにして、冰は必死に紐を解き始めた。
「……だ……代表……」
「紫月! 無事かッ!? すまなかった……俺のせいでこんな……」
「……いえ、俺は……平気……。それより……代表は……早く逃げ……て」
「大丈夫だ! 俺なら心配ないから……! 本当にすまない! 怪我は……辛いところはねえか!? 何も……されてねえよな……?」
ようやくと解けた紐を床に放り投げて、冰は紫月を抱き締めた。
ぐったりと重みを伴いながら、紫月が腕の中になだれ込んできて、冰は焦燥感に瞳を震わせた。
「何か……薬でも盛られたのか……? おい、紫月! しっかりしろ……!」
「平気……ただ、眠い……だけ。それより……早く逃げて……。あいつ……代表を……」
眠気と戦いながらなのか、懸命な様子でそう言い終えると、紫月は再びガックリと力を失ったようにして腕の中になだれ込む。冰は後方の高瀬を振り返ると、大声で怒鳴り上げた。
「あんた! 彼に何をしたんだ! まさかヘンな薬なんか盛ってねえだろうなッ!?」
まるで今にも泣き出しそうなくらいの必死の表情で叫ぶ冰を、高瀬は冷笑のままで見下ろしながら言った。
「心配するな。ただ睡眠薬を嗅がせただけだ。ここで暴れ回られても迷惑なんでね」
”睡眠薬”という言葉に幾分の安心感を覚えて胸を撫で下ろす。冰は、以前にこの高瀬から催淫剤のようなものを幾度か盛られた経緯があるので、まさか紫月にもそんなものを使われたとしたら――と、一抹の不安が過ぎっていたのだ。
「本当に睡眠薬だけなんだな!?」
「ああ、本当だよ。僕は嘘はつかない」
「俺が来たんだから、もう紫月に用はないだろ!? 今すぐ彼を解放してくれッ!」
声を嗄らしながら冰は怒鳴った。
「いいだろう。キミさえ手に入れば彼はもう用済みだ。正直言うと邪魔なくらいだからね」
皮肉たっぷりに高飛車な言い草だが、腹を立てている場合ではない。今は紫月の身の安全が何より優先なのだ。
「じゃあ、紫月を帰す為のタクシーでも……」
そう言い掛けた冰の言葉を取り上げるように、高瀬が声音を変えた。
「だが――! 帰ってもらっては困る」
「なっ!? どうして!?」
「当然だろう? その子を帰して、警察に駆け込まないという保証はあるかい? キミの店の連中を引き連れて来ないとも限らないだろうが」
「……ッ、紫月は……そんなヤツじゃない」
「信用できないね。彼のことは解放するが、外で待っていてもらうよ。そうだな――キミが乗ってきた車にでも閉じ込めておこうか。逃げてもらっては困るんだから、もう少し強めの睡眠薬でも嗅がせてからだけどね」
「そんな……ッ」
「紫月君といったか? キミもよく聞いておくがいい。キミがヘタな考えを起こせば、この雪吹代表の安全は保証しないからね」
高瀬はそう言うと、背広のポケットからスイッチのような器具を取り出して、それを冰と紫月の目の前へと差し出してみせた。
「これは起爆スイッチだ。爆弾はほら、そこの机の上」
顎でしゃくり、そちらを指し示す。冰はギョッとしたように瞳を見開いた。
「爆弾……って……、あんた、正気なのか……?」
「ああ、勿論正気だよ。助けを呼んだり、邪魔が入るようなら躊躇いなく吹っ飛ばすつもりさ」
「……! そんなことをすればアンタだって無事じゃいられねえだろうがッ!」
「構わないさ。元々、僕はこれでキミと心中するつもりだったからね」
「心中……!?」
「ああ、そうさ。いずれはキミの店の連中にも、そして警察にも今夜のことはバレてしまう。そうしたら僕は無事ではいられないだろう? だから最初からキミと一緒に死ぬ覚悟なのさ」
ベラベラと流暢に語られる声音に切羽詰まった感は微塵も感じられない。冰は、この高瀬という男が既に常軌を逸しているのだろうと思いながら身を震わせた。
「まあ、でも……それは最終手段で、上手くキミと二人で逃げられれば話は別だけれどね。無事に海外にでも逃亡できたら、その時はキミと二人、幸せに暮らすつもりさ」
手にした起爆スイッチを高々と天井の灯りに透かしながら、嬉しそうに口走る。その様が異様で、やはり普通の精神状態ではないだろうことが窺えた。
高瀬はポケットにそれをしまうと、コツコツと音を立てながら床を鳴らして近寄っては、冰の腕の中でぐったりとうなだれている紫月の胸倉を掴み上げてこう言った。
「いいか、紫月君――。出しゃばったマネをすれば、僕は迷わずこれを押すからね。そうすればキミの大事な雪吹代表は吹っ飛んじまうんだから。分かったらせいぜい大人しく寝ててくれよ?」
乱暴に、冰の腕の中から掴み上げるように紫月を抱き起こすと、ズルズルと引き摺るようにして扉口へと向かった。
冰も慌ててその後を追い掛ける。
「高瀬さん……! ……紫月には……もうこれ以上何もしないでくれ……! 今の彼は動ける状態でもないだろう。だからこれ以上、縛ったり薬を使ったりしないで……欲し……」
「乱暴なことなんかしないから安心していいよ。それより車の鍵を開けてくれないかい? あと、念の為にもう一回縛るのと睡眠薬はもう少し使わせてもらうから」
「……そんな……!」
ここで反抗したところで、事態が良い方向にいくことは有り得ない。致し方なく、高瀬の言うなりに従うしかない。冰はハラハラとしながら、紫月が車へと押し込まれる様子を見ているしかなかった。
「さて――と。これで邪魔者は消えたね。キミと二人、水入らずでゆっくり話ができるというものだ」
「……邪魔者って……」
「僕はあの紫月君とかいう子には何ら興味はないからね。キミを呼び出す為の道具として使わせてもらったまでだよ」
それは想像通りだが、この何とも皮肉たっぷりの物言いに悪寒を煽られる。この男の目的が自分の身体であろうことは訊かずとも承知だからだ。
冰はスレンダーな体型であるが、常人に比べれば腕の達つ体術を心得ている。隙を見て、この男に峰打ちを食らわせることも可能であったが、今は状況が悪過ぎる。紫月を人質に捕られている上に、爆弾の起爆スイッチを身に着けているような男に攻撃を仕掛ければ、当たり所が悪ければ瞬時に爆発を引き起こしかねないのだ。一先ずは言うなりに従うしかなかった。
「とにかく掛けてくれ。むさ苦しいところで悪いが、他人に邪魔をされない所といったら此処しかなかったんでね。キミにはいろいろと積もる話があるんだから」
高瀬は上機嫌な様子で、先程紫月が転がされていたソファを勧めてよこした。
「何か飲むかい? 大したものはないけれど」
「いえ……俺は結構です。それより話って……」
「つれないねえ、波濤。ちょっと前まではたっぷり愛し合った仲だっていうのに――」
起爆スイッチをポケットから出し、これ見よがしに目の前で弄くりながら高瀬が気味の悪い笑みを浮かべていた。
「まあいい。そんなに言うなら本題に入ろうか。キミには間々言いたいことがあるのは確かだからね。その中でも特に僕が気に掛かっているのは『龍』って男のことだよ」
「――――!」
「あの龍とかいう男、キミとナンバーワンを争っていたらしいが、正直あんな無愛想な男のどこに魅力があるんだか――! 彼を指名する客の心理が全く分からないね」
そんなものは人それぞれの好みである。――が、反論したところで事態が悪くなるだけだ。冰は黙ってこの場を堪えるしかなかった。
高瀬が続ける。
「そんな男とキミは今、恋仲だっていうじゃないか。僕にとってはこの上ない侮辱だし、腸が煮えくり返る思いだよ」
これまではのんべんだらりんとしていた口調が、一気に鋭さを増す。眉間に立ち上った青筋といい、逆上寸前の高瀬の様子に、冰は生きた心地がしなかった。
「ねえ波濤――、キミは騙されているんじゃないのかい? それともあの男に脅迫でもされていて、仕方なく付き合っているんだろう? 思いやりのあるキミのことだ。嫌と言えなくてあんな男と一緒にいるんだったら、僕が助けてあげるよ」
高瀬は弄り続けていた起爆スイッチを近くのテーブルの上に置くと、冰の隣へと腰を下ろし、両手で肩を抱き包むようにして互いの距離を詰めた。
「どうなんだ? 本当のことを言えよ――。あの男に脅迫されているんだろう?」
「……きょ、脅迫だなんて……そんなこと……。それに……龍とは単に仕事上の付き合いで……アンタが考えているような仲じゃな……」
「嘘を付くな――!」
豹変したように怒鳴り上げたと思ったら、一気にソファの上で組み敷かれて、冰は蒼白となった。少しでもこの男の気を反らそうとついた嘘が、かえって男を逆上させてしまったのだ。
「ちゃんと調べは付いているんだ。キミがあの龍と一緒に店を出るところや、同じ車に乗って帰るところを何度も目撃してる! どうせあの野郎にも……この身体を好きにさせてるんだろうが!」
「……なッ!? そんなこと……ッ」
覆い被さってくる身体を押し退けようと身を捩った瞬間に、喉元を両の掌で押さえ込まれて、呼吸もままならない。声さえ思うように発せずもがく内に、ビッ――と勢いよくシャツを引き裂かれてしまった。
「……ッ、放せ……! 高瀬……さ……!」
「誰が放すものか! キミだってこうされることが分かってて此処へ来た。そうだろうがッ!」
「……んな……わけ無……ッ」
――――ッ!?
突如、脇腹に走った衝撃に、冰はギョッとしたように硬直してしまった。
言いようのないくらいの熱さ――とでもいおうか、あるいは冷たさなのか。今、自身の腹に当てられているモノが何なのか想像も付かない。
「心配するな。ペットボトルを凍らせただけの物だよ。キミが暴れるからちょっとしたお仕置きだ」
高瀬は気味の悪い笑みを浮かべると、腹に押し当てていたそれを冰の目の前へと掲げてみせた。
確かに見たことのある天然水のペットボトルが凍って膨張したものに相違ない。害は少なかろうと、こんな意表をつくやり方を繰り出してくる高瀬に、背筋が凍る思いだった。
「さあ、じゃあそろそろお楽しみを始めさせてもらおうかね? 本当はこうせっかちになるのは情緒がなくて好きじゃないんだけれどね」
言葉に反してソワソワと逸るような笑顔が心底気味悪い。焦燥感を拭えない冰が目にしたのは、高瀬がどこからか取り出してきた荷造り用の太い麻紐だった。
「――――!? 何を……」
「何って、僕の趣味は知っているだろう? 自由を奪われたキミを眺めるのが僕の最高の快楽なのさ。それに――暴れられても興醒めなんでね」
高瀬は俊敏な仕草で冰の両腕を麻紐で巻き取ると、容易には動けない程にグルグル巻きにして、すぐ側の柱へと紐を結び付けた。
「……くそッ……! 何が話し合いだ……! こんな……」
「抵抗はよした方が身の為だよ、波濤。――その汚い言葉遣いもキミらしくない。キミはもっと優雅でいてくれなきゃ。それに僕の機嫌を損ねれば、紫月君のことだって保証しないよ? キミの目の前で彼を犯ってあげてもいいんだから」
「……! なッ……」
冰はそれ以上言葉に出すこともできないままで、蒼白な額をビクビクと震わせるしかなかった。
「紫月には……手を出すな。出さないでくれ……」
「それはキミ次第だろう?」
「……分かったから……。もう逆らわない……。アンタの言う通りにする。だから紫月には……!」
必死の懇願に高瀬はニヤりとすると、今度は小瓶を持ち出して中の液体をハンカチに染み込ませ、「嗅げ」と鼻先へそれを押し付けてきた。
「ほら、早く――思い切り息を吸って十分に嗅ぐんだよ」
それが何なのか、冰には当に分かっていた。恐らくは――いや、百パーセント催淫剤に違いない。欲に耐え切れなくなったところを見計らって犯されるのだろうということも、嫌と言うほど理解できていた。
致し方なく言われた通りに息を吸い込み、その瞬間――無意識にあふれ出た涙が冰の頬を伝って落ちた。
「そう、いい子だね波濤。泣いたりなんかして、キミは本当に可愛い。可愛いくて仕方がないよ」
高瀬は上機嫌だ。抵抗をやめて素直に従わざるを得ない冰の姿を楽しむように、下卑た微笑みを抑えられないといった顔付きだった。
もうあとどのくらいで意思を裏切り、身体が欲を求め出すのだろうか。腕を縛り上げられ、シャツを破かれた淫猥な格好――それを嬉しそうに視姦するこの獣に、すべてを奪われるこれからの一部始終が脳裏を侵す。冰は諦めと憤りの狭間で、精神が壊れてしまいそうだった。
その後、催淫剤が効き出すまでの間、高瀬は冰の目の前に腰を下ろし、ずっと変化の様子を見守っていた。何をするでもなく、身体に触れるでもなく、ただただじっと見つめたままで時折薄笑いを浮かべるだけだ。できることなら、このまま起爆スイッチを押してくれた方がよほどマシだと思える程の恥辱の時間だった。
◇ ◇ ◇
その頃、外の車の中では紫月が縛られた縄を解こうと懸命に身体を動かしていた。高瀬に追加の睡眠薬を嗅がされる際に、思い切り息を止めて、嗅いだふりをしていたのだ。
まだ少し最初の睡眠薬の効果が残っているので眠いには変わりなかったが、遠退く意識を何とかして取り戻そうと歯を食い縛りながら睡魔と戦っていた。
「クソッ! 早くこれを解いて代表を助けねえと……! ったく、どんだけ頑丈に縛りやがったんだ、あのクソ野郎が!」
誰か通り掛かる人でもあればと思いながら懸命に身体を揺する。頼みの携帯電話は当然の如く高瀬に取り上げられてしまったことだし、ともかくは縄を解いて車から出るしか術がない。必死でもがき続け、だが、あまりの消耗に再び睡魔が襲ってくる。ふと、頭上を見上げたその時だった。
車窓から見えていた街灯が一瞬視界から消えたような気がして、うつらうつらと瞳を見開いた。――と、そこに中を覗き込むような人影を確認して、紫月はハッと我に返った。
よくよく目を懲らしてみれば、コンコンと車の窓を叩くその人物は、元オーナーの粟津帝斗であった。
「粟……津さん……ッ!」
すぐに扉が開けられて、紫月は帝斗によって車からゆっくりと引き摺り出された。周囲を見渡せば、帝斗と共に連れ立ってきたのだろうか、数人の屈強な感じの男たちがピッキングの道具らしきを手にして車を取り囲んでいることが分かった。
「紫月! 無事か?」
帝斗は小声で言いながら紫月を抱き締めた。周囲の男たちは龍こと氷川白夜の側近たちである。都内の事務所に残っている者たちを呼び集めて、帝斗が連れて来たのだった。
「すぐに縄を解いてやるからな。怪我はないか?」
「はい……! 俺は大丈夫です。けど代表が……」
「分かってる。冰は中か?」
帝斗は倉庫の階段を見上げながら訊いた。
「はい。代表は俺を助ける為に自分が犠牲になって……早く助けねえと!」
「相手は一人か?」
「そうです。名前は……代表が高瀬とかって呼んでました」
やはりか――帝斗は険しく眉根をひそめると、冰が囚われている倉庫の扉を見上げながら拳を握り締めた。
同時刻――帝斗から連絡を受けた龍こと氷川白夜は、自身の側付きでもあり紫月の恋人でもある鐘崎遼二と共に自家用ジェット機の中にいた。
予定では大阪で一泊して、翌日に車で帰って来るはずだったが、緊急事態に空路を選んだのだ。羽田という立地が幸いして、思ったよりも早く現地へと駆け付けられそうであった。
ジェット機の中では、氷川が遼二に詫びていた。
「すまない。紫月を巻き込んじまった」
深々と頭を下げながらそう言う氷川に、遼二の方も恐縮していた。
「オーナー、もうそれくらいにしてください。紫月は粟津さんたちが無事に救出してくれたっていうことですし、それよりも雪吹代表のことを真っ先に考えてください!」
「ああ、本当にすまない。現地にいる帝斗と俺の部下たちもまだ中には踏み込めていない。紫月の話では爆弾が仕掛けられてるってことだ。俺が到着するまでとにかく待機しかない」
「――はい」
まったく――汚い手を使う犯人だ。遼二も眉間の皺を深くしながら頷いた。
手元の時計ではあと十分足らずで空港へと到着予定だ。僅かのこの時間が千秋にも思えていた。
氷川と遼二らが帝斗たちと合流できたのは、それから一時間もしない内であった。
◇ ◇ ◇
その頃、冰は催淫剤によって変調をきたし始めた己が欲と戦っていた。傍では相変わらずに高瀬が視姦を続けている。どうにもならない状況に身悶えていた。
「そろそろ欲しくて堪らなくなってきただろう? ああ、波濤――本当に美しいね、キミは!」
陶酔しきった表情が視界を侵す――
意思を裏切る身体を恨めしく思いながらも、冰の脳裏にはただ一人の愛する男の姿でいっぱいになっていた。
龍――ごめんな。
俺、またこんなことになって……お前を裏切っちまうんだな。
けど、これだけは約束する。例え身体がどうされようと、俺の心はお前だけのもんだ。誓ってお前一人のものだから――
彼は今頃、遠く大阪の空の下、何も知らずにいることだろう。あの温もりに再び触れるその瞬間まで、どんなことがあっても諦めはしない。
今ここで、高瀬を怒らせて爆破スイッチを押させたとしたら、貞操は守られ気持ちは救われるかも知れない。これ以上の恥辱を受けなくても済むだろう。だが二度と愛しい男に会うことは叶わない。そんなのは嫌だ。
例えどんなに汚れようと、穢されようと、生きてもう一度あの胸に包まれることを諦めてはいけない。冰は固く心に誓っていた。
傍ではいよいよ高瀬が機は熟したとばかりのニヤケ顔でいる。上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めてベルトを外し、スラックスのジッパーも解いて準備万端といったように舌舐めずりをしている。
「波濤、そろそろ我慢も限界だろう? 意地を張ってないで僕を求めてごらんよ。そうしたら僕は以前のようにとびきりやさしくキミを愛してあげるよ。たっぷりと時間を掛けて、隅々まで愛してあげるから」
誰が自分から求めたりするものか――!
冰はギュッと唇を噛み締めては、例え嬌声のひとつさえ聞かせてなるものかといった心持ちで目の前の男を睨み付けていた。そう、肉体は奪われても精神と魂だけは何があっても屈してなるものかと、固く心に誓う。
「そんなおっかない顔をして――興醒めもいいところだな。どうせなら泣き叫んでくれたりした方が、まだ可愛げがあるというものだよ」
苛ついた高瀬が切り札とばかりに起爆スイッチに手を掛ける。
「ここが吹っ飛べば、少なからず紫月君だって無事ではいられないんじゃないか? キミの強情のせいで部下まで危険にさらすつもりなのか? それとも僕が本気でこれを押すわけないだろうってタカを括ってでもいるのか――」
高瀬は苛立ちのままにスイッチ部分に親指を掛けて冰の顔前へと突き出した。
「僕は本気さ。正直なところを言うとね、キミとこのまま都合良く逃げ果せるなんてハナから思っちゃいないんだよ。今夜一晩キミを充分に味わったら、どのみちキミと心中する心づもりさ」
「……なっ!? どういう……」
「だってそうだろう? 明日になれば龍って野郎も帰って来る。あいつがキミの元を離れる今日という機会だって、苦労して情報を手に入れたんだ。それもこれも今このひと時の為――思いを遂げたら、今度はあの世でキミと愛し合おうと思ってね。それこそ龍の野郎が二度と手の届かない場所だからね」
「…………」
冰は絶句した。高瀬はとうに常軌を逸している――何を言っても彼を思い留まらせるのは無理なのか。
(くそ……ッ! どうすりゃいいんだ……)
高瀬の様子では、些細な気持ちの動揺でもスイッチを押し兼ねない。どうにかしてこの男の思考を死から切り離さなければいけない。冰は必死に考えていた。
ふと、ある一つの考えが脳裏を巡る。
(そうだ、これしかねえ……本当はこんなことしたくねえけど)
それというのは、高瀬の望む通り――いや、それ以上の言葉を掛けて彼の気を反らそうというものだ。
高瀬は以前のような関係を望んでいる。こちらが彼を求めてやまないことを望んでいる。であるならば、彼の欲するものを差し出してやれば、少しでも考え直すかも知れない。
正直なところ、愛しい男を裏切るようなマネはしたくないし、こんなことを平気でするような高瀬を、例え嘘でも自分から求めるようなことはひと言だって口にもしたくはないが、今はとにかくこの男を思い留まらせることが何より先決である。一か八か賭けてみるしかない。
冰は覚悟を決めると、ふうと一息、心の中で深呼吸をして目の前の男を見つめた。
「高瀬……さん。ンなことは……もうどうでもいい……。もう分かった、もう降参するよ……俺、もう限界なん……だ」
トロりと視線を潤ませて、自らの肌を大胆に差し出すように仰け反りながら舌足らずな調子で訴える。引き裂かれたシャツから覗く素肌を惜しげもなく晒して、欲情を煽るかのように身悶えてみせる。
「波濤――?」
急激なその変化に、高瀬の方も一瞬眉根を寄せたが、すぐに興奮したように瞳を輝かせ始めた。
「……欲しい……んだ。もうマジで堪んねえ……んだ。頼むから触って……早くして……くれ。アンタが……」
欲しい――
欲しくて欲しくて堪んない……!
早く、早く、焦らしてないで早く――
「どうにかして……くれよ……! ……っ、つぅ……ッ」
たっぷりと大袈裟なくらいの嬌声と共に、冰はそう懇願してみせた。自ら淫らに腰を揺らし、本当にもう堪え切れないと訴える。
「高瀬さん……早く、……芳則さん……! アンタの……が欲しい。頼むから……」
実際のところ、幸か不幸か熱を持った雄が高瀬の目の前で先走りの蜜を漏らして下着を湿らせている。誘うような乱れた仕草と視線は絶品で、高瀬はみるみると瞳を輝かせた。
それが新宿歌舞伎町の一等地で、不動のナンバーワンホストだった波濤こと雪吹冰の商売のテクニックだとは微塵も疑うことなく、本心から彼が自分を求めてくれているのだと、すっかり舞い上がっていったのだった。
「波濤……波濤! やっとその気になってくれたかい! 本当に僕が欲しいか……? 本当に?」
「ああ……嘘なんか……言わない。アンタのが……欲し……はぁっ……」
「僕がいいのか? あの龍よりも僕がいいんだね!?」
「ん、ん……そう……芳則……さんが欲し……」
「そうか、そうかい――! 波濤、僕もキミが欲しいよ。これからは僕がキミを守ってあげるから! あの龍なんかといるよりも、もっともっと贅沢な生活をさせてあげるよ! あんなやつより、何十倍もキミを満足させてあげるから――!」
「ああ……芳……則……」
「うん、うん、波濤――何だい? キミの為なら何だって厭わないよ! 何でもしてあげるよ! どこをどうして欲しい? ほら、言ってごらん。キミの色っぽい声をもっと聞かせてくれ――!」
「ん……あぁ……ッ、そ……こ……触って……もっと」
淫らな嬌声を上げながら、冰は心の中に愛しい恋人を思い浮かべていた。
ごめんな、龍――
でも分かってくれるよな? お前なら……。
どんな手を使ってでも生還してやる。生きてお前に会う為に――俺は諦めねえ……!
愛してるぜ、龍。
お前だけ。お前だけ――俺が心底愛してやまないのはお前だけだ、龍――――!
◇ ◇ ◇
こうして冰が高瀬に奪われんとしている、その少し前のことだった。
倉庫の外では大阪から急ぎ戻って来た氷川が、遼二と側近の部下を伴って帝斗らと合流していた。
「状況は――!?」
氷川が問う。
「はい、出入り口はこの階段上の扉と、荷物を出し入れする正面の大シャッターのみです。あとは天窓が数ヶ所ありますが、裏口はありません。」
帝斗と共に先に来ていた側近たちが機敏に説明する。
「中の様子は?」
「確認できておりません。ただ、確かに人の気配はします。先程から階段上の扉越しに確認しておりますが、話し声らしきが聞こえるのは確かです。雪吹様に犯人が話し掛けているのかも知れません」
ということは、冰はまだ無事でいる可能性が高い。だが一刻を争うことに変わりはない。氷川が思考を巡らせていると、帝斗と遼二に抱えられた紫月が逸った顔付きでやって来た。
「氷川オーナー!」
「紫月! すまなかったな。無事か?」
「はい、俺は平気です! それより中の状況を……!」
事務所内の詳細を唯一知り得るのは今この場で紫月だけだ。紫月当人もそれを分かっているから、なるべく詳しいことを伝えようと、睡魔を押して説明に来たのだった。
「中はそんなに広くありません。うちの店の接客フロアーの半分くらいでした。事務用の机でほぼ埋まっていて、資料棚と応接セットがありました。片方の壁が一面ガラス張りになっていて、倉庫内を見渡せるような造りでした」
紫月の話では肝心の爆弾本体は事務所の応接セットの近くにある机の上に置いてあって、起爆スイッチは高瀬本人がスーツの上着のポケットに入れていたという。そして、何が何でも冰を手に入れると執念深く言っていたということだった。
「あいつ……雪吹代表を……犯るとか抜かしてやがった……。早くしねえと代表が危ねえ……。オーナー……こうしてる間にもあいつ、代表のことを……」
紫月は気が気でないといった調子でそう訴えた。
事実、ドアをぶち破って踏み込む自体は難しいことではない。ただ、今現在、起爆スイッチがどういった状態で高瀬の手元にあるのかが分からないことには、おいそれと手の出しようがない。ヘタをすれば、追い詰められた高瀬が、弾みでスイッチを押さないとも限らないし、そうなれば冰の命に関わることだ。
「皆、離れていろ」
突如、氷川が言った。
静かな声音に決意が見える――
氷川は自らの上着のジャケットを開けて右手を突っ込むと、黙ったまま事務所へ通じるアイアン造りの階段目掛けて一歩を踏み出した。
右手が触れているのは、脇腹にあるホルスターに収められた拳銃だ。扉を蹴破ったと同時に、犯人を一撃で仕留める――闇夜が映し出す氷川の視線には、孤高の決意が感じられた。
ところが――だ。
「氷川オーナー、待ってください。ここは――俺に行かせてください」
氷川を引き留めたのは遼二だった。
「俺に考えがあります。なるべく大事にせずに収拾できる方法です。任せてはいただけませんか」
囁くような小声で、氷川にだけ聞かせんと耳打ちをする。まるで、氷川がこれからせんとしていることを見抜いているかのような意味深な言葉だ。
犯人を撃ったりして、事を大きくしてはいけない。あなたが手を汚さずとも解決の方法は他にある――まるでそんなふうにも受け取れるような遼二の視線が、じっと真っ直ぐに氷川を見つめていた。
いくら側付きだからといって、まだ出会ってからひと月余りだ。氷川は遼二に自身の境遇を打ち明けてはいない。己が香港マフィア頭領の息子であることも、拳銃を持ち歩くような立場にあることも、無論だ。
眉根を寄せながらも、氷川はその場に踏みとどまった。
「雪吹代表は身を呈して紫月を――こいつを庇ってくれました。今度は俺が役に立つ番です」
遼二の心意気は有り難い。だが一体どうやって踏み込むというのだ。
「先程、機内で高瀬貿易に関する情報を集められるだけ集めました。それに――どうやらここのインターフォンは、こちらから通話ボタンを押すだけで、中の人間に来訪者の用件が伝わる仕様になっているようなんです」
今さっき到着したばかりというのに、もうそんなことまで調べたわけか。遼二の機敏さと機転には驚かされるばかりだ。氷川の側近たちですら感心顔の中、淡々とした調子で遼二は続けた。
「この倉庫に荷物を納品している運送業者を装って、俺が犯人の気を反らします。オーナーはその間に雪吹代表を救出してください」
遼二の瞳は真剣だ。と同時に隙がない。
手抜かりはない、自分に任せてくれという強い意志が彼の視線に表れていた。
「――分かった。任せる」
氷川はそう言うと、ホルスターから離した手を遼二の肩に掛け、二人は同時に頷き合った。
遼二の提案した作戦はこうだ。
先ずは、高瀬貿易に出入りしている西ノ井運送という業者になりすまして、倉庫事務所に通じるインターフォンから連絡を試みる。そして、今夜必着で依頼されていた至急の荷物を届けに来たと言い、シャッターを開けさせる。中には高瀬と冰しかいないわけだから、事を荒立てたくない高瀬は、とりあえず荷物を受け入れざるを得ないであろう。
受け取りのサインをする為に高瀬を倉庫内へと誘い出し、そこで遼二が彼を確保する。その隙に氷川らが倉庫脇の階段から事務所へと侵入して冰を救い出すというものだった。
高瀬を誘い出すのは遼二が上手くやるというので、氷川は彼に任せることにした。
「事務所の中に呼び掛ける際になるべく大声でやりますんで、雪吹代表に俺の声だと気付いてもらえればと思います」
遼二がそう言うので、帝斗も、
「じゃあ僕も遼二の相方として一緒に行こう。冰は僕の声なら聞き慣れてるだろうから、助けが来たことに気付いてくれるかも知れない」
二人で組んで行くことにする。
何があっても対処できるようにと、氷川の側近たちも倉庫の周囲を取り囲むように散らばり、待機することとした。
こうして遼二らが配置に着いた頃、事務所の中では高瀬が今にも冰を食わんと興奮の真っ只中であった。
「波濤……! はぁっ……波濤……、挿れる前に僕のを舐めてくれるかい……? いいだろう? 少しだけだ。すぐにキミのも気持ち良くしてあげるから……! な、波濤……!」
スラックスをズリ下ろそうとした、まさにその時だった。事務所のインターフォンから至急の荷物到着の連絡が入ったのだ。
「こんばんはーっす! 高瀬貿易さん! 高速が思ったより空いてまして、ご指定いただいてた時間よりだいぶ早めに着いちゃったんですが! 今晩中に必着ってご連絡いただいた例のお荷物、お届けに上がりました。お手数ですが、前のシャッター上げていただけませんかね?」
一般の住宅と違って、わざわざ受話器を取らずとも来訪者の用件が聞けるようになっているインターフォンだから、否が応でも高瀬の耳に入る。
「……ッ! 今頃何だってんだ! 荷物が届くなんて予定はないはずだが……」
高瀬は思い切り舌打ちをしてみせたが、インターフォン越しからは催促の声が続けられる。
「高瀬貿易さんー! すいませんですー! 西ノ井運送でーす!」
大声を張り上げている様子が中からでも容易に分かる。しかも、西ノ井運送といえば、高瀬貿易が普段から一等贔屓にしている業者である。外からは業者が二人いるのか、ぼそぼそと彼らのやり取りが聞こえてくる。
『やっぱまだ担当の人、来てねえかも』
『マジかー? まあ、早く着き過ぎた俺らがいけねえわけだしな。仕方ねえから来るまでちょっと待ってっか』
『けどよー、そこに車一台停まってんべ? それ、担当さんの車じゃねえのかよ』
『どうかな。いつものと違う車だし、関係ねんじゃね?』
もしかして自分の与り知らぬところで至急の荷物の納品の約束でもあったのかと、高瀬は瞬時に蒼白となっていった。
そんなことよりも、これから社の担当者が荷物の受け取りに出向いてくるやも知れない。高瀬自身も普段から頻繁にこの倉庫に出入りしているわけではないから、そこまで詳しい取引状況など把握しきれてはいない。その上、紫月を押し込んできたあの車を調べられでもしたら、非常にまずい。
つい今しがたまで心中するだのと息巻いておきながら、そんなことはすっかりと忘れたようにして高瀬はみるみると顔色を変えた。つまりは、心中というのは単なる脅しでしかなかったということだ。ハナから死ぬつもりなどないわけだろう。
「じょ……冗談じゃないぞ……! 今からここに社員が来るかも知れないだと……!?」
まさかこんな夜半に運送業者が訪ねて来るなどとは思いもよらなかった――!
「クソ……! せっかくの時間に水を差しやがって!」
もう目の前の冰に現を抜かしている場合ではなかった。もしも社の人間にこんな現場を見られたとしたら、全てがパァだ。社長が男を監禁して陵辱していただなどと噂になれば、ただでは済まない。
高瀬は真っ青な表情で衣服を繕うと、慌ててインターフォンの通話口へと向かった。
とにかくはこの業者からの荷を受け取って、早々に追い返してしまうしかない。おちおちしていれば、担当者という社員と鉢合わせになってしまう。夜中に社長自らが倉庫に来て、何をしていたんだなどと勘ぐられるのは厄介この上ない。
「お……お疲れ様です。今、正面のシャッターを開けますんで」
社員を装って対応するも、その声はぎこちない。今の今まで冰という獲物を前にして興奮していたばかりの上に、焦燥感が半端ないわけだから、それも当然といえばそうだ。
外の遼二らにもそんな息遣いが伝わったようで、それらを一層煽るかのようにもう一声、元気の良過ぎるような応対で迎え撃った。
「お手数お掛けしてすいません! おーい、担当さん来てたわ! シャッター開けてくれるってから! 車、正面に回してくれ!」
「了解ー!」
高瀬が焦燥感に駆られる中、冰の方は聞き覚えのある声の主にドキドキと心臓を高鳴らせていた。
(まさか、この声――!)
先程から聞こえてくる会話が、紫月の恋人である鐘崎遼二と元オーナーの粟津帝斗のような気がしてならないのだ。
だが、遼二は氷川と共に大阪にいるはずである。帝斗とて、まさかこんな所にいようはずもない。
空耳か、或いはこの状況から逃れたいと思う気持ちが幻聴を引き起こしたわけか――冰は苦笑いと共に、催淫剤によって苛まれた身体の熱に身悶えていた。
幸い傍に高瀬はいない。縛られてさえいなければ逃げ出したいところだが、仮に大声で助けを求めたとして、起爆スイッチを持ち歩いている高瀬を挑発するわけにはいかない。業者の二人まで人質に捕られたりすれば、それこそ関係のない人間を巻き込むことになる。
「く……そッ! は……ぁッ……」
身体の熱はますます上がるばかりだ――
両腕の自由がきかないせいで、高ぶる雄を鎮めようにもそれさえままならない。
「……や……、くそ……ッ……あぁ……」
自然と動いてしまう腰をくねらせながら欲と戦うこの瞬間は、高瀬に陵辱されるのとはまた別の意味での地獄であった。
「……っう、……龍…………ッ」
脳裏に浮かぶのは愛しい男の顔のみだ。
「龍……来てくれよ……今すぐここに……ッ、イキたい……すげえ……イキてえ……! お前ので……」
めちゃくちゃにして欲しい――――!
龍ーーーッ!
冰は欲情に身悶えながら、心の中で愛しい男の名を叫び続けた。
――ふと、何かの気配に意識を揺さぶられ、ほんの一瞬正気を取り戻す。
そこには今まさに夢に見ていた唯一人の男の顔が浮かび上がる。
夢か――、幻か――。
朦朧とする意識の中でガッシリと肩を掴まれ揺さぶられて、冰は我に返ったように瞳を見開いた。
「冰! しっかりしろ! 冰ッ――!」
「……龍……? ま……さか、本当にお前……?」
「ああ、俺だ。大丈夫か? よくがんばったな。今、解いてやるからな――」
「……っう……! 龍……龍ーーーッ!」
愛しい男をはっきりと認識した瞬間に、冰の双眸から滝のような涙があふれて落ちた。
◇ ◇ ◇
階下の倉庫では、既に遼二が高瀬を確保し、側近らによって起爆スイッチも無事に取り上げ終わっていた。
冰は未だ治まらない欲を堪えながらも、氷川の腕の中で紫月のことを気に掛けていた。
「紫月なら大丈夫だ。帝斗が助け出した」
その言葉にほうっと深く胸を撫で下ろす。
「とにかく帰ろう。紫月たちも下で待ってるが、一目だけ会ったら家へ急ぐぞ」
冰の様子から、また催淫剤の類いを盛られたことを悟った氷川は、先ずは彼をこの苦しみから解放してやらねばと思っていた。階下の側近たちに確保させている高瀬への仕打ちはその後だ。
氷川は冰を抱きかかえると、数ある自身の拠点の中から一番近くに位置するホテルへと向かった。
ここは空港の直下である。氷川の経営するホテルも近いことが不幸中の幸いだった。
ホテルへと向かう僅かな時間でも、冰は酷く苦しげに身悶え続けていた。既に欲情が抑えきれず、今すぐにでも解放しなければ気が狂いそうだ。だが、氷川の他にも運転手や側近が同乗しているこの車中で慰めるのも躊躇われるわけだろう。氷川はそんな冰の心の内を察すると、助手席にいる自身の側近の李に声を掛けた。
「李、間仕切りを上げろ」
「かしこまりました」
李も状況を察したのだろう、すぐに言われた通りに運転席側と後部座席を仕切る間仕切りを作動させた。
これでもう前の座席からは後ろの様子が分からない。濃くて分厚いスモークガラスが氷川と冰だけの空間を作り出していた。
氷川は冰を抱きかかえると、シートを目一杯倒して横たわらせた。
「りゅ……龍……?」
「何も心配するな。お前はそのまま楽にしていろ」
「龍……何を……? ……ッ……はぁあっ……!」
冰は思わず叫び声を上げながら仰け反った。氷川がいきなり下着をずり下ろし、口淫で愛撫を始めたからだ。
「龍ッ……! や……っ、何……を……!」
「そのままじゃ辛えだろうが。とにかく出しちまえ」
「や……でも……ッあああ……!」
「大丈夫だ。間仕切りを上げたから、前の席のことは気にするな。お前は感じたままにしていればいい」
そそり立ち、淫らな蜜液であふれた熱い雄を口中に含む。これでもかというくらい吸い上げ、舐め上げながらがっしりとした大きな掌でも扱いて愛撫を繰り返す。
「い……ぁあッ……! あ、あ……くる……! また……はぁあッ……」
荒い吐息と共に冰は嬌声を上げ続け、愛しい男の腕の中で立て続けに果てた。果てては再び登り詰め、また果てては登りを繰り返す。そうしてホテルへと到着する頃には、既に気を失ってしまったのだった。
◇ ◇ ◇
ホテルに着いた後、氷川は冰の身体を丁寧に湯拭きしてから寝かし付けると、再び高瀬貿易の倉庫へと向かった。側近たちに確保させている高瀬への制裁を下す為だ。
とんでもないことをしでかしてくれた男をこのまま放置できるわけもない。彼にはそれ相当の沙汰を受けてもらわねばならない。そして、今後二度と冰に近寄らないよう、男の”心”を折る必要があった。
氷川が倉庫に到着すると、側近たちに囲まれた高瀬が正座をしながらうつむいていた。
既に恐怖に打ち震えているといった調子である。常人とは異なる、鋭い雰囲気の男たち数人に見張られているだけで、心底肝っ玉が縮む思いだったのだろう。
そんな高瀬は、氷川の顔を見た瞬間に、まるで助けてくれとでもいうように縋るような狂気の声を上げた。
「龍……ッ! こ、この人たちは何なんだ……」
一見にしただけでホストクラブのスタッフとも思えない闇色の雰囲気をまとった男たちに囲まれて、生きた心地がしなかったのだろう。とりあえず見知った顔の氷川にしか頼る術がない――高瀬の表情からはそんな心の内が透けて見えるようだった。
そんな男たちは、「お疲れ様です」氷川が到着すると、彼の為に道を開けるようにして丁寧に頭を下げる。
「爆弾は偽物でした。スイッチも単なる照明用のものです」
解体の為に蓋の開けられた箱を氷川へと差し出しながら、側近の一人が重々しい声でそう言った。
「は――、脅しにしてはチャチなもん持ち出しやがって」
氷川は起伏のない声音でそう言ったが、例え偽物でも冰や紫月がこれの為にどれ程の思いをさせられたかと考えるだけで虫唾が走るというものだ。
「こ……今回のことは……悪かった……。波濤にはもう二度と手をださない……。アンタたちの店にも……もう二度と近付かないから……勘弁してくれないか」
高瀬は氷川の前で土下座をすると、縋るような声でそう懇願した。
ガタガタと震える様から察するに、報復として氷川らから暴力を食らったりするかも知れないと思うと、それだけで耐えられないのだろう。と同時に、貿易会社社長という立場も失くしたくはないのだろう。謝って許しを請うことで、この場を平穏に収めたいというのが見え見えである。つまりは冰を手中にすることよりも、今の自分の立場の方が大事だというわけだ。
氷川にとってはそんな根性からして許せるものではなかった。逆に、全てを失くしても冰が欲しいというくらいなら、まだ同情の余地もあろうというものだ。
「龍……、龍……さん! 本当にすまなかった……! 波濤のことは諦める。だから……どうか許して欲しい……! この通りだ! 波濤には二度と近寄ったりしない! 約束する……!」
「当然だ。二度と手を出してもらっては困る。――が、今の言葉――嘘だった時には命はねえぜ」
「……い、命って……アンタたちはいったい……」
「知らねえ方が身の為だってことも世の中にはあるがな――」
氷川はグイと高瀬の胸倉を掴み上げると、顔と顔とを付き合わせ、表情一つ変えず眉一つ動かさないまま、地鳴りのするような低い声でそう言った。
「……ひ、ヒィ……ッ! わ、分かった……分か……」
瞬時に喉が嗄れ、声にもならない声で、ともすれば口から泡を吹くような勢いだ。氷川は掴んでいた胸倉を放すと、まるで汚物をゴミ箱へと捨てるかのように高瀬を床へと放り出した。
「後は任せる――」
側近たちにそう言い残すと、氷川はその場を後にして行った。
翌朝――
高瀬貿易の倉庫に出勤してきた社員たちが、事務所の床でイビキをかいて爆睡している社長の姿を発見した。
すぐ側には紐でぐるぐる巻きになっている柱とクッションの乱れたソファ、そして催淫剤の小瓶が散乱している。昨夜、冰と紫月が拘束されていたソファだ。冰が縛られていた紐を解いた後、氷川の指示で側近たちがそのまま放置してきたわけだ。
あの後、高瀬には睡眠薬を嗅がせて、事務所の床へと放置してきた。衣服も乱し気味で、スラックスの前も開けたまま転がしておく。
扉にも鍵は掛けず、高瀬の周囲には女性物の化粧ポーチと、そこからこぼれ落ちたふうな口紅やらファンデーションといった化粧品類を無造作にバラ撒いてきた。
出勤してきた社員がこの現場を見たらどう思うだろうか。
誰もいない夜中の倉庫に女性を連れ込んで、社長がいかがわしいことをしていたらしい――案の定、そんな噂が社内中に広まるのは時間の問題だった。
その後、間もなくして高瀬が代表取締役社長の座を退かされたという噂が社交界に聞こえてきたのだった。
高瀬はこれまでの地位と立場を失い、冰を手中にすることもできずに失墜することとなった。だが、絶望の縁で彼が思ったことは、命があっただけでも有り難いという思いであった。
あの夜、氷川の側近である屈強な男たちに見張られている間は、正に地獄であった。いつ何時、暴力を振るわれるやも知れないと思うと、生きた心地がしなかったのだ。
高瀬はこれまで裕福な家に生まれ育ち、両親はもとより周囲からも大事にされてきた身だ。幼い頃からエスカレーター式の一流校に通い、財閥ということで学友たちからも一目置かれることが当たり前だった。温室育ちの彼にとっては、ヤクザ映画を観るのも腰が引けるというふうだった為、あの夜の出来事は、ともすれば一生のトラウマになる程の恐怖の体験だったのだ。
本来であれば、骨の一本や二本、へし折られていたかも知れない。いや、もっと恐ろしいことになっていたとも考えられる。そんな高瀬にとって、今現在、無傷でいられることが奇跡のように思えていたのだった。
龍こと氷川白夜とは一体何者なのか――考えただけで身体中に震えがきそうだった。
彼の素性を知ることは、生涯ないであろう。二度とあの男の顔を見るのもご免だ。高瀬はそう思いながら、逃げるようにこの日本を後にしたのだった。
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club-xuanwu extra 前編「過去からの招待状」完結
次、後編「未来への招待状」です。